第11話 「ネオ ライフ」
ドドドドドド……
今日もトラは街を走りまわっていた。
だが数日前とは走りまわるの意味が違う。速いなんてもんじゃない。いや、人間じゃない。
橋から橋へ。
屋根から屋根へ。
壁を駆けあがり、川を飛びこえる。まさに縦横無尽。稲妻のように飛びまわるトラを見て、人々はだれもが腰を抜かした。
え?
アレ……もしかして、トラ!?
「な、なんだ? いまの超スピードのひとは!」
「トラだ! アイツいったいなに吸ったんだ?」
「呪いの靴が脱げたらしいぜ。しかしまた迷惑な……」
「はやい、速すぎる! 今日からあいつをチーターと呼ぼう」
「呼ぶか」
がやがや、ワイワイ。
街中、トラの話題で持ちきりだ。
トラはその俊足を生かし、配達のアルバイトを始めた。
ああ、気持ちいい……
走るってのはこんなに爽快なことだったのか。
まったく生まれ変わった気分だぜ。
朝刊を配り、牛乳を配り、タウン誌を配り、夕刊を配る。1日4回、町を駆けめぐる。まるで10年分の憂さを晴らすかのように。
もうトラに踏破できない場所はない。
崖も電信柱も、人の家の屋根も。あろうことか水面まで走る始末だ。
なかでも市役所の屋上は最高だ。
4階建ての庁舎から飛び降りると、サウスキティの町並みがパノラマで見渡せる。夕焼けが川面を照らす。
ああ―――風が気持ちいい。
数秒間の滞空のあいだ、まるで自分の体重が消えたような感覚を覚える。これがたまらない。呪いがとけた瞬間の……長靴が脱げたときの開放感を思い出すのだ。
すとん!
15メートル下へ着地し、ふたたびビュンと駆けて帰路についた。
疾走すること約4キロメートル……
ザッ、ザザザア!!
両足でブレーキをかけて、トラはようやく立ち止った。
「ふいー」
教会の裏の自宅へ戻る。
呪われていたときの1000倍の距離を移動したはずなのに、疲れは1000分の1くらいだぜ。
――――――教会。
10年前、トラが長靴に呪われた場所である。
その真裏にある雑居アパートの半地下に、トラは居を構えていた。死んだ両親が残してくれた物件だが、一人暮らしの彼にとっては広すぎるくらいの間取りだ。
ひとつ、普通の住居とまるで違う点がある。
リビングもキッチンも寝室も、床板がはがされコンクリートが剥き出しになっていている。
長靴の対策だったことは言うまでもないが、それも今となっては殺風景なだけだ。ところどころ亀裂が入って、とても歩きにくい。
金を貯め、床暖房のフローリングにするのが現在のトラの夢である。とにかく毎日、出かけるのも家に帰るのも楽しみでしかたない。
なぜなら……
「……お、おかえりなさいませ……」
「たらいま~。あぁ腹へった。メシは?」
「……出来てございます。オーナー」
出迎えたのは、メイド姿のフォックスだった。
……オーナー?
フォックスがトラをそう呼んだ。
彼女はトラから上着を受け取ると、玄関口のハンガーにかけて丁寧にブラシをかけ始めた。
ダイニングのテーブルに並ぶごちそうは、フォックスが彼のために料理したものだ。愛は偉大、恋は盲目……
なわきゃねえだろ。
もちろん、好きでこんなことになったわけではない。それが証拠に、フォックスの表情たるや般若の如し。
怒りと屈辱を堪えるあまり、今日は5回も鼻血が出た。
ソファにどっかりと尻を落とすトラ。
「今日はビールにしようかな。おいマスタードがねえぞ。ついでにちょっとエアコンさげてくれ。ああ、グラスは透明のやつだぞ。陶器のはプロテインを飲む用だ、わかってるな?」
「……はい、オーナー……」
フォックスが瓶ビールを盆にのせて戻ってきた。
おや、手が震えている。
カタカタ。
その目は、今にも血の涙を流さんばかりに真っ赤に染まっている。
いったい、なんでこんなことになったのか?
話は10日前にさかのぼる。
あの日、待てよ来るなの追撃戦の末、フォックスを待っていたのは残酷な現実だった。
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町から50キロ離れた山中で、とうとう捕まったフォックス。
あろうことかトラは、彼女を肩にかついで山道を戻ってきたのである。まるで山賊……
「ハァハァ。も、もう許さん警察に突き出してやる! 1000万年服役させてやる!」
「やだやだ! せっかく自由になったのに、なんでもするから許して」
とちゅう何人かに目撃されたが、よく通報されなかったものだ。だが問題は、町に戻って彼らが見たものである。
それは似顔絵付きのフォックスの指名手配書だった。
あの組長の証言に基づいたものだろう。イラストだが、じつによく似ている。Vサインして笑っているフォックスの似顔絵。
それを見たフォックスは真っ青になった。
人生が、終・わ・る……
以下、顛末を簡単に記述する。
トラ:
「この手配書、お前じゃね?」
フォックス:
「ギャー! アヒー!」
トラ:
「なんだこの数字……懸賞金? 一、十、百……5220万!?」
フォックス:
「ギャー! うーん……」
トラ:
「あれ? おい。だめだ、気絶してる」
もはや彼女に選択肢などなかった。トラに泣いてすがりつき匿ってもらうことになった。
それが間違いの始まりだった。
フォックス:
「うっ、うっ……どうしよう、うぅ」
トラ:
「泣いちゃダメだ。よしよし」
フォックス:
「お願いだトラ、匿ってくれ……グスン! ゲホッゲホ、オエッ!」
トラ:
「安心しろ。俺んチに来りゃあいい」
フォックス:
「うわあぁん、オェエ! ビチャビチャ」
トラ:
「なんで吐く。どんな体してんだ」
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以上である。
フォックスをとっちめてやる! そのつもりで追いかけていたトラだったが、あんなに泣かれたら怒る気も失せた。
泣くのはよしたまえ。
さあウチにおいで、よしよし……
その日のうちにトラが買ってきたのは、メイド服。
深夜アニメで見て以来、ずっと夢だったらしい。フォックスにとっては悪夢でしかないが。
え―――……そして現在に至る。
今のところ、トラは彼女に雑用をあれこれ命じる程度だ。だが明日はわからない。このままここにいたら……
妊娠させられる。
フォックスの精神は、いまや呪われていたとき以上のストレスに晒されていた。
「やあ、女の子がいると部屋が華やぐぜ。あ、新聞は?」
「……ハイ、シンブンデス。おーなぁ……」
晒されていた。
新聞を渡したフォックスは、真っ暗なキッチンにふらふらと戻り……包丁を手に取った。
シャコッ、シャコッ……
ステンレスの包丁を研ぐ音がキッチンに響く。
「え、えへへ、へへへへへ」
ギラリ。
すこしづつ、すこしづつ鋭くなる刃。包丁が輝きを増すたび、フォックスの病的な笑い声は間隔を早めた。
シャコッ、シャコッ……
「へへへへへ……」
怖い。




