第十九話 彼女がしたこと、自分が出来なかったこと
そこは、ログハウスの隣にあるまっさらな敷地だった。
周囲を木々で囲まれたところにぽっかり開いた土地には極太の丸太を積み上げたようなロッジ風の木造建築が一件鎮座しており、その一階から露出したロフトの前には普通乗用車を横に三台ほど停められそうなくらいの広さを持った庭。
要、易宝、菊子、臨玉、奐泉、深嵐、響豊、楊氏――計八人はその庭に集まっていた。
現在午後七時。すでに夕日はとっぷり沈んでおり、森には夜闇が降りている。しかし要たちがいるその庭は、穏やかなオレンジの光でほんのり照らされていた。
まばらに立つ要たちの中心にはバーベキューコンロが置いてある。ドラム缶を真っ二つにして四脚を付けたようなデザインの大型コンロで、中では木炭と一緒に炎が燃えていた。その上に張られたグリルの上では種々雑多な肉や野菜がじゅうじゅうと焼け音を主張しており、立ち昇る煙が空気に香ばしい匂いをつけていた。
要を含む各々が、タレの入った紙皿と割り箸を手に持っている。
「さ、焼けましたよ。みなさん、取っていいですよ」
トングで具材をひっくり返して焼き加減を確認した臨玉の呼びかけを耳にした瞬間、全員がコンロに近づいていく。
一番乗りは易宝だった。彼は嬉々としてグリル上の具材を自分の紙皿へ放り込んでいく。肉、肉、肉、肉、肉、肉……
「等、易宝」
臨玉がトングで易宝の箸を掴んだ。
「なんだ臨玉、もう焼けたんじゃなかったのか?」
「肉ばかり取り過ぎだと言っているんだよ。君だけのディナーじゃないんだから、他の人の事も考えたまえ」
言いながら、易宝の皿に乗った肉の半分以上をグリルに戻す。代わりに、肉と同じくらいたくさん焼いてあった茄子を放り込んだ。
「何をするか。茄子は切った姿がGに似ているからビジュアル的に得意ではないのだ」
「野菜も食べたまえ。茄子は今が旬だよ」
ふん、と鼻を鳴らしつつも茄子を口に入れて咀嚼する。しばらくして「……美味いな」という悔しげな呟きが聞こえてきた。
それを皮切りに次々とグリルへ箸が伸ばされ、具材が減っていく。
空いたスペースへ、臨玉のトングに挟まれた生肉が新たに敷かれる。
――現在楽しんでいるこのバーベキューは、倉橋家の別荘で行われていた。
響豊との一件が片付いてすぐに、大樹の広場へ臨玉が現れた。
聞くと、彼はこれからバーベキューをやるそうで、自分たちをソレに招待したいともちかけてきた。彼曰く「『公会』の中でも今回は大物がそろい踏みだから、この機会にぜひとも親睦を深めておきたい」とのこと。
深嵐と奐泉は快く了承。楊氏も「久しぶりに焼肉もいいかもね」と了承。響豊も無言で頷くだけだったがとりあえず了承。
ちなみに易宝は「別に君は来なくていいけど?」と臨玉に冷たくあしらわれ、そこから勝負に発展しそうになったが、要と菊子が慌てて止めた。なので一応、易宝も参加ということになった。
「カナちゃん。ちょっとお行儀悪くなっちゃうけど、どうぞっ」
菊子が、自身の皿に乗っていた五枚の肉うち二枚を要の皿へ移してきた。牛肉と牛肉が一枚ずつタレに浸かる。
要は「お、ありがと。いただきます」と軽く述べてから、焦げ目が少しついた豚肉を箸で口の中へ運んだ。甘辛いタレに包まれた肉汁の香ばしさと旨味が一瞬で口いっぱいに波及するのを感じながら念入りに咀嚼し、飲み込んだ。
二枚目の牛肉もすぐに噛んで飲み込む。
再び更地と化した皿とにらめっこしている要を見て、菊子が何か思いついたように頭を上げた。黒髪が活き活きと躍動し、オレンジの光をゆるりと反射する。
「ちょっと待っててください。わたし、また取ってくるから」
「え? いや、俺が自分で取るからいいよ」
「い、いいですからっ。お願いですからわたしに任せてっ」
「お、おう?」
やけにムキになる菊子の迫力に圧された要は、思わず頷いた。
残りわずかになった焼肉をグリル上からせっせと回収し、何枚か溜まるとこちらへまた戻ってきた。
かと思えば、箸で肉をつまみ――ソレをおずおずとこちらへ突き出してきた。
彼女の顔には、真後ろで燃える火の逆光のせいで暗い影が差している。それでも、その白い頬がとても濃い朱で染まっていることは容易に視認できた。
「か、カナちゃん……あ、あーん、して?」
「…………は?」
口をあんぐり開けたまま、間抜けな声を出した。
すると菊子はさらに顔を真っ赤にし、もう耐えられないとばかりに背をちぢこませ、
「も、もう! 食べさせてあげるって言ってるのっ」
「あむぐっ」
あんぐり開いた口に、肉が突っ込まれた。
ゆっくりもぐもぐと噛みしめる。そしてごっくんした。
「……おいしいですか?」
「う、うん……」
リンゴみたいな顔で訊いてくる菊子に対し、要もまた頬を赤熱させながら頷く。
な、なんかすごく恥ずかしい……
でも、食べさせてもらうのって――ちょっと良いかも。なんか偉い人になったみたいだからだと思う。うん、きっとそうだ。
「そ、それじゃあもう一回……カナちゃん、あーん」
「あ、あーん……」
「く、口で言わなくていいんですっ」
再び要の口に肉が入った。雛鳥よろしくそれを受け入れる。
菊子の手つきに恥じらいがなくなっているのは、きっと一回やって慣れたからだろう。
そうして何度も食べさせられ、しばらくしてから周囲の視線に気が付いた。
「あ……」
自分に突き刺さるあらゆる種類の視線に、要はようやく我に返った。
易宝と深嵐はまなじりの下がった冷やかすような目を、楊氏は微笑ましげな細目を、響豊は普段と変わらぬ厳つい双眸を、そして臨玉は人を射殺せそうな炯々たる眼光を向けてきていた。
その五人の目に、菊子と一緒にたじろぎを見せ――
「……あれ?」
そこで、要は妙な点に気が付いた。
五人?
その中に自分と菊子の二人を足すと、七人。もともといた人数は、八人。
つまり、一人足りない。
「そういえば、奐泉はどこだ?」
奐泉が足りない。
最初来た時、彼女は確かにいたはずだ。しかし、今はどろんと消えてしまっていた。
「……馮奐泉ならば、先ほどあそこへ行くのを見かけたが」
情報をくれたのは、驚くべきことに響豊だった。箸先で、今いる庭に面した木立の一角を指さしていた。
菊子が空いた片手を挙げて、
「わ、わたし探してきます」
「待て待て、一人じゃ危ねーだろ。俺も行くよ」
すぐに、二人一緒に探しに行くことが決まった。
馮奐泉は木々の群れの中、一人立ちつくしていた。
そこは倉橋家別荘の敷地を囲う林の真っただ中。別荘の南の方角からそこへ入り、約100メートルほど分け入った場所だ。
バーベキューの炎は無数の木立に遮られ、月光も枝葉の天蓋のせいで届かない。照明器具であふれた文明社会ではほとんど目にすることのない真の暗闇がそこにはあった。
普通の人にとっては視界に墨をぶっかけたような真っ暗闇だろうが、奐泉の目には少し薄暗い程度にしか見えていない。奇影拳には『夜行術』という、暗闇の中でも難なく活動できるように鍛錬する功法が伝わっているのだ。少林拳や蟷螂拳にも存在する技術で、ベトナム戦争中は夜戦対策として夜行術を覚えた米陸軍兵も何人かいたらしい。
ここに来たのは、喧騒から離れ、一人でじっくり物思いにふける時間が欲しかったからだ。
薄暗い暗黒の中に伸びる樹木たちを呆然と眺めながら、奐泉は今日の夕方――響豊が襲撃してきた時の事を振り返っていた。
自分は浸透勁を打たれたショックで無様に地にへばりついていた。
その時、広場の周囲を囲う林の中に紛れている菊子の姿を見ていた。
彼女は自分と目が合った瞬間、背中を見せて走り去った。
当時の奐泉は、それを「逃げた」のだと結論付けた。
要を置き去りにしたことに軽蔑と憤りを感じつつも、理屈の面では「仕方がないことだ」と考えていた。彼女は普通の学生なのだ。素手で樹木を叩き折るような怪人が暴れている場面を前にして、冷静でいられるわけがない。逃げるか、あるいは何もできぬまま呆然と立ち尽くしているのが関の山だろう。
――かく言う昔の自分もそうだった。
自分は、親友をいじめていた子を止めたかった。駆け寄って「あなたのやっている事は間違っている」と糾弾したかった。が、その親の背後にそびえ立つ「共産党」という大いなる山の存在を感じた瞬間、助けたい気持ちなど簡単に萎縮してしまった。何もできずに棒立ちで傍観を続け、やがて逃げてしまった。
そうだ。ほとんどの人は自分よりもずっと強大な相手を恐れ、そして我が身を可愛がるための選択ばかりに目がくらむものなのだ。昔の自分のように。
――けれど、菊子は違った。
彼女は自分にできること、出来ないことを冷静に考え、そして出来ることの中から最善と思える一手を選び、それを実行した。
菊子は逃げたのではない。彼女なりに理不尽な現実と戦っていたのだ。自分が持っている武器がいかに貧弱だろうと、それを握って立ち向かったのだ。
そして、それこそが自分が長年欲してやまなかった「強さ」。
あの少女は、その「強さ」を最初から備えていたのだ。
白状すると、自分は菊子の事を内心で軽んじていた。あんな地味で垢抜けない、呪われたビデオテープにでも出てきそうなほど根暗な少女に、自分の魅力が負けるわけがないと。
しかし自分は、彼女の事を決定的に見誤っていた。外見だけでは測りきれないものを、菊子は心の中に持ち合わせていたのだ。
奐泉は自分を強く恥じた。
人を外見からでしか判断できない女が、いい女であるはずがない。
これを機に、自分を改めなければならない。
そう考えていた矢先、後ろから光が差し込んだ。
その青白い光は、太い直線状の筋を作り出して奐泉の真横を通過。しかしすぐに奐泉の背中へ照準を合わせた。
かさかさという足音のする後ろを振り返ると、そこには二人の人物がいた。懐中電灯を持った工藤要と、そのすぐ傍を歩く菊子であった。
「奐泉。探したぞ」
「カナ様……」
歩み寄ってきた少年の顔を見るが、視線はすぐに隣の菊子へ移った。
瞳には、菊子しか映っていなかった。
――初めてである。要に対する関心がこんなに薄くなるなんてことは。
「倉橋様」
突然名前を呼ばれ、菊子はビクリと肩を震わせた。
「な、なんでしょうか?」とおっかなびっくりに返事をする様子に若干傷つくものを感じつつ、奐泉はこうべを垂れると同時に口を開いた。
「――ごめんなさい」
「え?」
突然謝られた事に驚いたのか、菊子は間の抜けた声を出す。
奐泉は顔を上げ、続けて言った。
「わたくし、心の中では貴女の事を見下していましたわ。でも、今はそんな以前の自分が恥ずかしくて仕方がありません。貴女は、とても勇敢な方ですわ」
何を言われたのか分からない。そんな様子で口をあんぐり開ける菊子。
しばらくして、戸惑った様子で返答してきた。
「ええっ? な、何を言っているんですか? わたし、別に勇敢なんかじゃ……」
「いいえ。貴女は劉師傅を呼びに走ってくださいましたわ。それを勇敢と言わずにどう形容すればいいのですか」
「さ、さすがにそれだけで勇敢っていうのは大げさだと思いますけど」
「いいえいいえっ。あんな異常事態を前にしたら、普通の人は動くことさえ満足にできませんわ。だから貴女は誰が何と言おうと勇敢な女性です。……わたくしよりもずっと」
最後の方が尻すぼんだ。過去の自分の弱さを思い出し、みじめになったからだ。
菊子はしばらくぽかんとしていたが、やがて意を決したようにその桜色の唇を動かした。
「……わたしだって、勇気なんて全然ありませんよ。ちょっと前まで、人にまともに話しかけられない弱虫だったんですから」
でも、と区切ってから先を述べた。
「もしそんな風に思ってもらえたのなら、それはきっと……カナちゃんのおかげなんです」
「カナ様、の?」
こくん、と少し恥ずかしそうに頷いた。
「カナちゃんは、困ってるわたしを助けてくれました。カナちゃんは、わたしを助けるために自分より強い人に立ち向かってくれました。カナちゃんは、弱虫だったわたしにほんの少しだけ勇気をくれました。カナちゃんは――絶対にわたしの傍からいなくならないって、言ってくれました。だからわたしはここまで頑張れたんです。もし前のままのわたしだったら、カナちゃんに好きって告白することさえできませんでしたから」
そこまで語ると、菊子はおもむろに右ポケットから何かを取り出した。
掌ほどのサイズで、紫色の布袋にぴったり包まれた長方形の板。
日本の神社でよく売られている御守りだった。
「それにわたし、走ってる最中、ずっとこれを握り締めてました。ここにはカナちゃんとの思い出が入っています。これを握っているだけで、まるでカナちゃんの手を握ってるみたいに感じて、とっても勇気が湧いてくるんです」
我が子をいつくしむ母親のように、御守りを胸に抱く菊子。
風が木々の間を縫って吹きすさび、彼女の長い黒髪をさらりと撫でた。黒い絹糸のような髪が鮮やかに揺れ、存在の儚さを演出する。
――美しい。
本気で見入ってしまっていた。
今目の前にいる少女は、根暗女では断じてなかった。
心身の清らかさを持ち合わせ、それらが外面を輝かせている。美しいを通り越して、侵すべからざる尊ささえ感じられた。
「……そうですか」
晴れやかな表情で微笑む奐泉。
奐泉は思った。
もしも要が自分に振り向いてくれなかったとしても、その相手が彼女であれば諦めがつくかもしれない――と。
たとえそうだとしても、手加減はしない。要を射止めるための努力は惜しまない。彼女との勝負は続いているのだ。
けれども、
「倉橋様――いいえ、“キク様”。これからはわたくしの事は「奐泉」と呼んでもらえませんか? わたくし、貴女ともっと仲良くしたいんです」
それはそれ、これはこれ。友達になることができないわけではない。
自分はどうやら、菊子の事がとても気に入ってしまったらしい。
恋愛事とは別に、この少女とは良い関係を構築したいと心から思った。
菊子は三度目のきょとん顔をしてから約三秒後、
「え……でも、いいんですか?」
遠慮がちにそう訊いてきた。
恋敵の自分と仲良くできるのか――そう言外に問うているのはすぐ分かった。
「はい。むしろお願いしたいくらいですわ」
「えっと……それじゃあ、馮さん――じゃなくて”奐泉ちゃん”。これから……よろしくお願いしますね」
奐泉は満面の笑みで「はいっ」と頷く。
菊子もまだぎこちないながら、口元に微笑みを作ってくれた。それを見て安心する。
めでたく友達になったので、さっそく菊子の懐まで無遠慮に歩み寄る。
「ちょっと失礼しますわ……えいっ」
「きゃ!?」
彼女の顔の半分を覆い隠している前髪を上にどけ、残り半分の素顔をさらけ出した。
――うわ。
心臓が止まりそうになった。
暗闇だというのに、眩しくて目がくらみそうだった。
髪を上げれば美人なのではと薄々思っていたが、実際に見ると想像以上であった。
二重まぶたの大きな瞳は湧水のように澄み切っていて、その上部には長い睫がすべて一律に反り返っている。整った鼻筋に白皙の素肌、そして程よい大きさでかつ瑞々しさを感じる桜色のリップ。顔を形作るすべてのパーツが、理想的な素材と配置、配分を誇っていた。
良い仕事したな、と神様に言ってやりたくなるほどの美貌。
女として少し、いやかなり負けた気がした。
「あ……あの……そろそろ、離してもらえると……」
間近でガン見されて恥ずかしいのか、菊子の美しい素顔が頬をほんのり染めながら俯く。
可愛い!
同性なのに、その困った仕草が甘酸っぱく胸に突き刺さった。
もう少し見ていたい気がしたが、ここはあえて引き下がることにした。
前髪を再び暖簾のように垂れ下げた菊子に、やや不満げな口調で問う。
「キク様、どうしてそんなに前髪を伸ばしているのです? 素顔をさらした方が絶対素敵ですのに」
「えっと……もうこれに慣れちゃったから、かな」
その答えを聞いて、なんともったいない、と思った。
「ねーカナ様? カナ様もそう思いませんか?」
「……思う」
話を振られた要は、かすかに頬を朱に染めてそっぽを向きながらぼそっと肯定した。
が、すぐにごまかすように話題を変えてきた。
「そ、それよかさ、キクのその御守りって何が入ってんだ? 俺との思い出って言ってたけど」
要がそう言いながら歩み寄ると、菊子は電気的な素早さで御守りを庇った。その顔はどういうわけか、今までより輪をかけて紅潮していた。
「だ、だめですだめです! カナちゃんは見ちゃだめっ!」
「え? どうしてだよ?」
「とにかくだめなのっ! 見ようとしたら噛んじゃいますっ」
「ええー」
苦笑いを浮かべる要。
……あの中に何が入っているのか、実は自分も気になっていたりするが。
その後、奐泉も加えてようやく八人全員そろい、そのメンバーで目いっぱいバーベキューパーティーを楽しんだ。
肉や野菜が尽きた後も会話がたくさん行き交い、とても賑やかで楽しい時間を過ごしたのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
愛機のACアダプタの調子が悪いです。
もしかすると、またしばらくスマホかタブレットで書く羽目になるかもしれない……(¬_¬)




