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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
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第十八話 茶番

「ぐぁっ……!」


 いい加減、この草の上も転がり飽きてきた。


 要は無様に転がる自分を、まるで他人事のように感じ取っていた。


 あれから何分経っただろう。


 何度も響豊に挑み、ことごとく返り討ちにされた。


 ただやられるだけでは癪だと感じて立ち向かいこそしたが、結局それで何かが覆るわけではなかった。ただの悪あがきに過ぎなかった。分かりきっていた事のはずなのに、それが悔しかった。


 自分の持つ全ての技を総動員して響豊にあたったが、結果はいずれも同じ。防がれ、そして容易くふっ飛ばされるだけだ。


 響豊の発勁の強さが最初より弱まっているせいで戦闘不能にはなっていない。ボロボロだが、まだ動ける。


 だがそれは奴が遊んでいるからだ。少しでも長く自分の悪あがきを観察して悦に浸りたいという意地の悪い嗜虐心。


 そして、やたらと気功術を使ってくる。使えない自分への当てつけか、と頭にも来る。


 ひとしきり転がってから止まる。全身葉っぱまみれでひどい有様だが、そんな事気にしていられない。


 呼吸を鋭く吐いて気合いを入れ、半ば強引に体を立ち上がらせる。


「っ…………おおおおっ!!」


 葉っぱと一緒に五体にまとわりつく苦痛を叫びで誤魔化し、高速移動の歩法『箭歩』で駆ける。初速でトップスピードを叩き出し、十メートル離れた彼我の距離をほぼ一瞬で潰した。


 そのまま響豊めがけて一直線に仕掛ける――と見せかけて右斜め前へ角度をつけて移動。響豊の左隣を取る。


 両足で大地を踏みしめ、靴底の捻りで運動量の渦を生み出す。とぐろを巻きながら全身を駆け上ってきた勁力に乗せる形で、拳窩(わきばら)に引き絞られた右拳を左真横へ向かって打ち込む――という『旋拳』の素振りを途中で打ち切り、大きく右へ跳んで間合いを稼ぐ。体の正面の延長上に響豊の横姿を置き、二度目の『箭歩』。吸い込まれるような速度で禿頭の巨漢へ肉薄。このまま突っ込んで、要の技の中で最強の威力を持つ『開花一倒』を叩き込む算段だ。


 要に仕掛けられる、精一杯のフェイント。


 ――しかし、どれほど虚実を巧妙に入れ替えようと、『高手(ガオショウ)』の前では小細工以上の意味を持たない。


 踏み込みによる急停止とともに、デコピンを打ち出す前のような両拳の「タメ」が解き放たれた。加速状態から急ブレーキする力に加え、「タメ」からの解放の力も含めた正拳突きが、ボウリング玉の飛来に等しい勁を宿して真っ直ぐ貫いた――空気を。


 正拳は、響豊の左肩の上を通り過ぎる形で伸ばしきられていた。響豊は腰を深々と沈下させつつ上半身を前傾させ、その巨体を要の肩の高さより低い位置まで落としていたのだ。巨体は突き出された拳の下をくぐる形で間合いへもぐり込み、そして右肩から要めがけてぶち当たった。


「ぐっ!」


 近距離から当たったはずなのに、まるで遠くから助走を付けて体当たりされたようなショックが体幹まで響く。またしても後ろへ勢いよく押し流された。


 しかし、今回の技は比較的優しめだったため、倒れないでたたらを踏む程度で済んだ。すぐに崩れた重心を整え、しっかりと草を踏みしめる。


 しかしその時すでに、響豊の上半身が視界を覆い尽くしていた。響豊が、飛ばされていた要へ追いすがってきたのだ。白い唐装を身にまとった巨体が雪崩のような速度と勢いで迫りくる。


「――っ!」


『高手』の超人的身体能力に驚き飽きていた要は、即座に行動を起こすことができた。足裏を踏み切って大地から拳まで力を吸い上げ、鋭い重心移動とともに一直線に送り届ける基本の右正拳突き『開拳』。


 対して、響豊は動くことも、構えることもしなかった。矢のような速力で放たれた要の拳が、がら空きの腹部へしたたかに激突。


「ぐ……!」


 しかし、やはり要が浮かべるのは苦々しい表情。拳から痛覚へ伝えられたのは、鉄板でも殴ったような硬い感触だった。太極気を腹に集中させて打撃を防御したのだ。


 さらに拳と腹部の接触点から、グァンッ!! と見えない手で押し出されるような感覚。そしてそれを明確に認識した時には――すでに要の体は響豊から大きく遠ざかっていた。響豊が自身の体の中心を激しく震わせ、その振動を使って要を押し流したのだ。『抖勁』という力の出し方である。


 後転して慣性を受け流し、勢いが弱まってから流れるように立ち上がる。


 見ると、響豊との間合いが再び広く開いていた。


 強大な敵と離れたことで精神的に少し落ち着いたのだろう。詰まっていた息が大きな溜息として吐き出された。


 そしてその呼吸は、すぐに荒くなった。


 心音が早鐘を打つ。全身に累積した苦痛を思い出し、思わず切歯する。


 はっきり言おう。もうすでにヘトヘトだった。


 さんざん攻撃を繰り返したこと。

 それらのことごとくを軽くいなされた挙句に反撃を食らったこと。

 以上の二要素は、要の小柄な肉体から着実に体力を削いでいった。


 このまま疲労に負けて寝そべってしまいたいという誘惑に駆られるが、小さくかぶりを振って頭の隅っこへ捨て去った。こいつに屈するなんて死んでも御免だ。


 けど、仮にまた挑んだところで結果は目に見えている。


 動きを先読みして攻めようという企みは、とっくに不可能だと思い知らされている。


 この男からは、「初動」が一切()えないのだ。


 常人相手なら、体の輪郭の表面がブレるような「初動」から先の動きを予測し、対応することも可能だっただろう。だがこの男相手ではそれが全く出来ない。


 易宝曰く、『高手』は肉体の操作が抜群に上手い。ゆえに「初動」を隠すことさえお手の物。いや、それどころか間違った「初動」を相手に見せ、間違った先読みをさせ、自分にとって都合の良い立ち位置へ誘導したりもできるのだとか。


 いずれにせよ、この霍響豊という男相手では先読みが使えない。


 手詰まり。


 そんな言葉が頭の中に去来する。


 響豊が、こちらの戸惑いなど無視して再び足を運び出す。丸太のような太さに似合わぬ軽快なフットワークを目にも留まらぬ速さで行い、風のように距離を詰めてきた。


 まさに一瞬とも呼べる速度で、遠間を食い尽くす巨漢。


 要は横へ逃げようとするが、焦りゆえに両足同士がぶつかり、バランスが崩れてしまった。死に体となり、体が前へ倒れていく。


 だが、それはむしろ幸運だった。前傾する直前まで要の胴体があった位置を、掌底がものすごい風圧をまといながら貫いた。死に体の要は、見えない空気の壁によって吹っ飛ばされる。


 そして、要が地面を転がり始めるのとほぼ同時に――遠雷のごとき凄まじい重低音。


 それからすぐに耳に入ってきたのは、メキメキという不安感を煽るような裂け音。それは疑いようもなく、木が折れて傾く音であった。


 受身をとってから立ち上がり、音源へ向く。


 ――響豊の掌が、途絶した幹の断面の上を素通りしていた。


 木を見事にへし折っていた。


 この大男が放つ打撃力の人外さはすでに目の当たりにしているが、二度目のそれを見て、一度目で見た時を上回る胸騒ぎを感じた。


 さっきまでとは明らかに威力が違う。


 自分をいたぶるという目的ゆえに、響豊は今まで発勁の威力をかなり弱めていた。もし全てが今の一撃と同様の威力を有していたのなら、自分はとっくにお陀仏である。


 そう、理由は何であれ、とにかく響豊は”加減していた”のだ。


 しかし今この『高手』はその加減をやめ、殺人的威力の掌底で要を打とうとしてきた。


 それはすなわち――もう手加減する必要がないということ。


 それを悟ったからこそ、要は焦燥を禁じ得なかった。もしも手加減なしでまともに来られたら、もう自分に勝ち目は皆無である。


「……いい加減飽きてきた。それに易宝や紅深嵐あたりに見つかったら少々厄介だ。気功術も碌に使えぬ汝などいつでも仕留められるが――大事を取って今すぐ消し去ってくれよう」


 言うや、響豊は要の方を振り返る。


 その鋭利な光を持った眼差しに射られた瞬間、心臓が胸郭を突き破りそうなくらい激しく高鳴り始めた。戦場を生き延びた者だけが持ちうるであろう謎の凄みと、それに内包された昏い瞋恚(しんい)が、要の精神をがりがりと削り取っていく。


 発狂していないのが不思議なくらいだった。


 響豊の足が重々しく歩を刻み始める。


 その一歩一歩が、要の生涯に幕を下ろすカウントダウンだった。


 巨漢の形をした「死」が、着々と近づいてくる。


 対して、要は今までのように逃げることも、戦うこともできず、ただその場で棒立ちしていた。


 このまま、自分はこの男に打ち殺されてしまうのだろうか? 

 先ほどの木のように、全身の骨を木端微塵に砕かれてしまうのだろうか?

 たった一発ぽっちの掌打で、十六年積み重ねてきた人生が終わってしまうのだろうか?




 ――そんなのは嫌だ。




 凍えきった精神に、ほんのかすかな火の粉が灯る。


 ――俺はまだ死ぬわけにはいかない。


 砂粒ほどだった火の粉が大きくなり、ちっぽけながらもしずく型を成す。


 ――まだ学んでいないことが山ほどある。


 しずく型の火種がさらに肥大。


 ――まだ見ていないものが山ほどある。


 火がしずく型を崩し、ゆらゆらと触手を揺らしながら燃え盛る。


 ――まだ答えを出していない想いがある。


 猛火が精神を覆う氷を融解させていく。




 何より――こいつが心の底から気に食わない!




 爆炎と化した。


 心の熱が完全に戻った要は、我が身に湧き上がる気力を濃く実感していた。


 あきらめない。あきらめてたまるか。たとえ無様でも、最後まであがき続けるのだ。


 母の亜麻音は身ごもった自分を堕胎せず、実家と縁を切ってまで産んでくれたのだ。簡単に希望を捨てるわけにはいかない。


 それに、方法がないわけではない。


 要にはまだ一つ、手が残されていた。


 今さっき、こいつが教えてくれたじゃないか。




 ――気功術。




 使える技は全て使った。もう残った手はそれしかない。


 思えば、自分は気功術を人に使ったことがない。使えなかったからというのもあるが、危険だから使うわけにはいかなかったのだ。


 けれど、目の前の大男はこちらの命を害そうとしている。


 ならば、遠慮する理由が果たしてあるだろうか。


 しかしながら、自分の気功術は未完成。止まったままならともかく、自分と敵の動きに対する思念が絶えず頭に渦巻く戦闘中にはまだ満足に使えない。肉体の外面的動作と平行して気の力をコントロールするという、両手でそれぞれ違う文字を同時に書くような複雑なテクニックを、要は未だ会得できていなかった。


 しかも今は命の有無がかかった極限の状況。太極気の手綱を取れる精神的余裕があるとは言えなかった。


 けれど、それができなければ死ぬだけ。


 ならどうすればいい? 


 ――決まっている。今この場でできるようにすればいい。


 自身のやるべきことを明確にした。後は実行に移すのみ。


 ゆっくりと、それでいて確かな質量を感じさせる足取りで、少しずつ近づいてくる響豊。


 そのことに気を取られないように何度も『融声』を行い、精神をクリアーにしていく。


 恐怖心が少しでも生まれるたびに『融声』で消し、『融声』で消し、『融声』で消していく。


 ――『高手』の巨体が、どんどん大きくなっていく。


 要は作り出した平常心を必死でキープしながら、空間中の『阳気』を頭頂部の経穴「百会」から吸引。頭頂部にほのかな熱が宿り、それを意念の力で臍下丹田まで移動させ、生来持つ『阴気』と融合させる。阴と阳が一つになり、太極気と化す。腰に(おもり)を巻かれたような重量感。


 ――歴戦の巨漢の胸板が、視界の大部分を占めた。


 要は気持ちと呼吸が荒ぶるのを懸命に律する。心を落ち着けるのはもちろんだが、呼吸もまた心の状態を表す鏡。なので、両方とも制御する。


 ――響豊の姿が、背景を完全に覆い隠した。


 落ち着け。


 太極気の存在を強く意識しつつ、身体各部にも注意を怠るな。その二つを平行に、そして淀みなく行うんだ。できる出来ないじゃない。やるんだ。


 要の間合いから数歩分離れた位置まで到達すると、響豊はとうとう立ち止まった。両拳を脇に引き絞り、腰を低く落として構える。噴火のごときエネルギーを爆発させる前の、蓄勁(溜め)の体勢。


 ――来る。


 要はその準備姿勢に対して、「人生のタイムオーバー」などというネガティブな印象は抱かなかった。


 むしろ「チャンス」とさえ感じた。


 確かに『高手』には優れた攻撃予測能力がある。


 しかし、そんな優れた能力を腐らせてしまう状況が、一つだけ存在する。


 それは――自分が動けない時。


 どれほど明確に相手の攻撃を予測できたとしても、避けたり、防いたりできなければ無駄に終わる。


 では、その「動けない状況」というのは、どのようにして作ればいいのだろうか?


 要の知る答えは三つだ。

 一つ。相手の手足を拘束する。

 一つ。相手の重心のバランスを崩して「死に体」にする。

 そして最後の一つは――”攻撃動作の最中”を狙う。


 剛柔流空手の原型にもなったという南方の名拳「白鶴拳(はっかくけん)」は、相手が攻撃動作を行っている最中を「最大の隙」と考え、そこを積極的に攻め込む戦い方をする。


 これは、少し考えれば合理的だと理解できる。なぜなら打撃を放つ動作中は、その打撃の威力を作るための身体操作しかできない。野球のバッティングで例えよう。バッターは引き絞ったバットを端から端へ振り抜くのが主な仕事だが、一度「振り始め」たら、「振り抜き」が終わるまでバッティングを中断できない。もしもバットを武器にして相手を殴るとしたら、その攻撃(バッティング)の最中が最大の攻めどころとなってしまうのだ。


 そして要が今から狙おうとしている「チャンス」も、同じものだった。響豊がもしあの「溜め」を解放してこちらへ向かってきたら、自分も前に出る。そして攻撃の最中という名の「最大の隙」を突く。


 こんなにはっきりと次の手の片鱗を見せてくれたことに、要は深く感謝していた。慢心か、はたまた自分の腕前に対する絶対的自信かは分からないが、ありがたく利用させてもらおう。


 無論、簡単な話ではない。


 だが、一矢報いることができる可能性が少しでもある以上、そこへ賭けるべきだと思った。


 要は丹田に宿る太極気の存在を忘れないよう心がけつつ、響豊の下半身を注視する。太極拳を含む全ての中国武術の主体は足だ。その足が動けば手も動く。なので、その動きの大本に注意を向けるべきである。


 爆発のタイミングを虎視眈々と待つ。


 間もなくして――それは訪れた。


 白い裾が張り付いた響豊の下腿部に、ほんのかすかにだが筋肉の膨張を視認。


 それを見た瞬間、要は動き出していた。


 『纏渦』。足底から全身を反時計回りに捻じり込んで力の蜷局(とぐろ)を纏い、腰の回転力を直進力に変える形で右正拳を出していき、その拳にもまたジャイロをかける。


 その動きの始まりと全く同じタイミングに、丹田の太極気の移動を開始。熱球が意念に押されて背中の督脈を駆け上り、うなじの経穴「大椎」から右腕の経絡へ曲がり、螺旋を描きながら突き進む右拳へと這い寄っていく。


『纏渦』による全身の旋回によって、胴体の向きが正面から九十度左を向く。そうなった事で胴体の的が小さくなり、残像さえ置き去りにするほどの速度でやってきた響豊の拳が紙一重で胸前を素通りした。


 そして、その拳ごと突っ込んできた大男の土手っ腹に、






 「旋」の力と『太極気』が同時に突き刺さった。






 一瞬、拳の直撃箇所を中心に、稲光のようなフラッシュが走った。


 かと思えば、その巨体を根のように支える二脚が、2メートルほど後ろへ滑った。どう見ても、自分で下がったようには見えなかった。まるで何かによって強引に押されたような滑り方だった。


「――――ぐ」


 拳の延長線上に立つ響豊が、かすかに呻く。その表情は一見変わっていないように見えるが、よく見るとその眉間には数本皺が増えており、唇も何かを我慢するように引き結ばれていた。


 間違いない。今の一撃が多少なりとも効いた裏付けだ。


 ――大成功だ。


 体術で作った「勁」。

 気功術で作った「太極気」。

 これら「外面」と「内面」の力が、理想的なタイミングで一致した。


 これこそが内外合一。要の新たなる力。


 あの響豊に、初めて呻き声を吐かせてやった。それがたまらなく嬉しかった。倒せたわけでもないのに。 


 ……そう。倒せたわけではない。


「これは……少々痛かったぞ。まさかこの土壇場で、気功術による発力の強化を成功させるとはな。若さゆえの伸び代、というのもあるだろうが、易宝から聞いた戦績を鑑みるに、やはり追い詰められることで劇的に成長する類の人間のようだな、(うぬ)は」


 響豊は打たれた箇所を軽くさすりながら、しみじみとそんなことを口にする。


 やっぱり平気な顔してやがる。要は不快げに眉をひそめた。


「――しかし、だからどうしたというのだ? 死期が少し伸びただけの事。これから訪れる破滅の未来は免れぬ。所詮『高手』と常人、まともな勝負など始めから成立せんのだよ」


 白衣の巨漢は、どしりと一歩前へ出た。そして先ほど同様、堂々と歩き始める。


 その余裕のある振る舞いが、要にプレッシャーを与えてくる。


 けれど、大きく息を吸い、そして同じだけ吐く『融声』で心を整えた。そして、再び太極気を丹田に作り上げた。


 やってやる。


 聞けば、気功術を使い過ぎると体内の阴気が薄くなり、自己保存の本能によって否が応でも気絶するという。


 なら、それまで粘ってやる。


 この広場から逃げることも考えた。しかし『高手』という怪物相手に、倒れた奐泉を背負ったまま逃げ切れる自信は皆無だった。


 ……ならば、誰かの助けを待つ他ない。


 先ほど発せられた三種類の音――響豊の踏み込みの音、木がメキメキと傾く音、木が倒れる音――は、遠くにいてもある程度は聞こえるほどの音量だったはずだ。ならもしかすると、四合院あたりまで届いているかもしれない。それを聞いて、誰かがここまで来てくれるかもしれない。


 なので要は、そんな一縷の望みに賭けることにした。


 心はあくまで平静にし、丹田に宿る熱塊を保ち続ける。


 程なくして、響豊が動き出した。滑り込むような足さばきで近づき、踏み込みとともに自重を乗せた右正拳を放った。


 しかしその時すでに、要は響豊の背中から少し離れた位置にいた。右斜め前へ上半身から跳び込み、響豊の一撃をギリギリで躱したのだ。


 受け身を取りつつ立ち上がり、背筋の密度を強く感じさせる後ろ姿めがけて弾丸のごとく突っ込んだ。一秒未満で間合いへ踏み入った要は、今なお丹田にある太極気を伴わせた『撞拳』を打ち込もうと一瞬で思いつく。


 しかし次の瞬間、眼前の分厚い背中がすごい勢いで迫ってきた。要は走行による慣性が残っているため急に止まれず、退歩とともに放たれた響豊の背撃に正面衝突した。


 猛スピードで飛んでくる岩にぶつかったような衝撃が全身を駆け巡り、視界がチカチカと明滅。背中が柔らかい草の地面に落ち、そのまま転がった。


 うつ伏せになって止まる。今の衝撃のせいで体の芯が痛むが、それでも足腰に力を入れて立ち上がった。痛みによって消えてしまっていた太極気を再び作り直す。


 起き上がって最初に目に映った色彩は――響豊の衣服の白。


 深い踏み込みと同時に、響豊の肘打ちが懐へもぐりこんできた。


 ――思考の一切を省き、要は太極気を腹部へ動かした。


 すぐに、その腹部へ肘が激しく叩き込まれた。体の芯までビリビリと響くような一撃。


 しかし――痛覚はほとんど無かった。


 踏んばらせていた要の両足が、すごい勢いで後方へスライドした。響豊から約10メートル離れたところでやっと慣性が消える。


 気功術を用いた防御も成功だ。


 急速に成長していく自分の気功術に対し、要は気分が高まりつつあった。


 不思議だ。普通に気功術が使える。


 いや、まだ「当たり前」のようには使えないのだが、それでも二連続で成功をおさめるなんて今までになかった。


 一人で練習していた時は、ほとんど上手くいかなかった。


 しかし今、限りなく上手くいっている。


 もしかすると、必死だからかもしれない。「これをやれないとお前は終わりだ」と自分を追い詰めざるを得ない状況が、上達の起爆剤となったのかも。


 だが、もうこの際理由なんか何でもいい。少しでも太刀打ちできる手段ができたなら、それで構わない。


「ふうっ……」


 要は大きく息を吐き出した。心を落ち着けてから『阳気』を体内へ招き、丹田に太極気を合成させる。


 普通の相手であれば、新しい力を手に入れた高揚感のまま突っ込んでいったかもしれない。

 だが何度も言うが、相手は『高手』。常人相手の正攻法は一切通じない。

 ならば取るべき戦法は一つ。ひたすら受け身でい続けることだ。その方が攻めるよりも体力を節約でき、なおかつ戦いを長期化できる。助けを祈るのが目的であるなら、それが一番ベターな手である。


 誰も助けになんか来ないかもしれない――そんな気持ちは心の端へ投げ捨てておく。


 ただ、この状況だけに集中するのだ。


 響豊が白い風と化す。――同時に、要は右前腕に太極気を移動させる。熱感とともに、腕が鋼鉄と化す。


「ぬぉぉぉっ!!」


 丸太のような右腕が横薙ぎで迫った。


 風を切ってやってきたソレを、要は右前腕でガード。背中からあさっての方向まで突き抜けそうなほどの衝撃に歯ぎしりするが、右腕は折れていないし、痛覚も無い。そのことに安堵しつつ紙箱のように吹っ飛ばされた。


 横にしばらく転がり、勢いが弱まってから足と手を地面に付け、そして立ち上がった。


 響豊はまたしても追い打ちをかけんとばかりに突っ込んできた。矢のような速度と巨岩のような圧力を兼備した、見るものの心胆を圧迫するような走行。


 しかし今の要は、最初の頃より焦ってはいなかった。心を律しつつ、再び丹田で『阴気』と『阳気』を融合させる。


 太極気の完成と同時に、要と響豊の間合いが接触。


 もう一度さっきと同じく右腕に気を送り、硬度を強化。真正面から来るであろう攻撃に備える。


 しかし次の瞬間、響豊の姿が霞のように消えた。


「っ!?」


 要は思わず動揺した。それによって一瞬だが心の安定が崩れ、右腕の太極気が元の『阴気』『阳気』に分離してしまった。居場所を失った『阳気』が経絡上を伝って百会穴から外へ逃げ出す。


 右隣に濃い存在感。


 その正体が響豊であると視認したのとほぼ同時に、衝撃が襲いかかった。


「がは――――!?」


 一瞬、息が止まる。内側から外側へ円弧軌道で蹴り足を振り出す『擺脚(はいきゃく)』を背中に受けた要は、前かがみに弾かれた。


 咳き込みながらも、おぼつかない足取りを必死に整え、どうにか重心の安定を取り戻した。


「うぐっ……」


 今なお背中に熱く残る激痛のせいで、集中力が乱れる。なので『融声』を何度も行い、荒ぶる心の波を無理矢理鎮めた。


 自分を覆った大きな人影を見た瞬間、ほぼ条件反射でその中から脱出。一瞬後に、震脚とともに打ち込まれた響豊の掌打が空気を押す。


 それからも二人は、命がけの追いかけっこを続けた。

 逃げの一手に徹する要。それを叩き潰そうと追い続ける響豊。

 ある時は回避し、またある時は気功術で防御し、必死に抗いつづけた。

 ときどき攻撃に当たってしまったりもしたが、動けなくなるほどのものは受けていない。


 この『高手』相手に、未だに逃げ続けていられる事そのものが奇跡に近い気がした。


 ――けれど、所詮は疲労する人の身。限界は着々と近づいていた。


 前方から勢いづけて肉薄してきた大男に備え、要は横へ逃げるべく両足に力を溜めた。


 そして、その溜めを解き放とうとした時だった。


「っ……!?」


 がくん、と膝の力が勝手に抜けた。その場に崩れ落ち、片膝を付く。


 ……とうとう、目を背けていた「この時」が来てしまった。


 『高手』から逃げるという無理難題を強引に押し通し続けた結果、肉体の疲労がピークに達したのだ。


 しかし刹那、要のすぐ頭上を――響豊の拳が鋭く通過した。


 二人の身長差は歴然。要が疲労によってしゃがみこんだことで、敵が狙っていた部位の高さが下がり、今のような偶然の回避が成立したのだ。


 必然的に響豊の懐へもぐりこんだ要の目の前には、さらけ出された胸部。


 気が付いた時には、体の「内」と「外」が動いていた。




 (がい)――地球を蹴り抜く気分で足底を踏み切り、大地から力を汲み取る。引き手と(ウエスト)を引く力も一緒に作り出し、踏み込みと同時に正拳へと威力を伝達させる。


 (ない)――丹田に留めておいた太極気を経絡へ走らせる。会陰(えいん)長強(ちょうきょう)懸枢(けんすう)脊中(せきちゅう)筋縮(きんしゅく)至陽(しよう)霊台(れいだい)神道(しんとう)身柱(しんちゅう)大椎(だいつい)肩髃(けんぐう)曲池(きょくち)合谷(ごうこく)に到達。




 内外合一させた『開拳』が、響豊の鳩尾(みぞおち)で爆発した。


「ぐ――」


 瞬間、白い胸部が遠ざかった。立ったまま地面を滑ったのだ。


 しかしながら、数メートル先で止まった響豊はまるで何事もなかったかのように胸部をさすっていた。膝も一切屈することなく直立している。


 そして不意に訪れた虚脱感に、要は思わず四つん這いに崩れ落ちた。


 何度も気の力を使った代償に、意識が薄れ、体力は限界の一歩手前に達していた。


 四肢に力がうまく入らない。視界はまるでカメラのピント調節のように、ピンボケと鮮明化の(あわい)を漂う。


「……ふ、なるほど。これほどの頻度であれば、ひとまず太鼓判を押しても構わぬだろう」


 響豊が口端を吊り上げながら何か言っていたが、うまく聞き取れなかった。


 ヤバイ、このままじゃ――


 絶望的な気分を味わっていたその時だった。






「そこまでだ」






 遠く横合いから、男の声が耳に入ってきた。


 聞き覚えのありまくるその声に、薄れつつあった要の意識が明るくなった。


 ――この声は!


 ここまでの奮闘が報われた気分だった。


 その声のした方向を振り返る。広場の外周部に広がる木立の一角に佇んでいた人物は、やはり要の想像通りの男だった。


 劉易宝。


 要の知りうる大人の中で、最も頼りになる人物の一人。


 そして何より、響豊と同じ『高手』である。


「りゅ……劉先生……ま、まって……ください」


 易宝の後ろからもう一人、息を切らせて駆け寄ってきた人物がいた。長々と伸びた漆黒のロングヘア、丈の余った長袖ワイシャツに濃紺のデニムという、この真夏の季節に馴染まない出で立ちの少女――倉橋菊子。


 それを見て確信した。菊子が易宝を呼んできてくれたのだと。


 彼女は要の危機を救うために、陰ながら奔走していたのだ。


 その働きにこの上ない感謝を送りつつ、これからの展開に希望を見出した。


 これで形勢逆転だ。易宝ならば、響豊相手でもまともに戦える。さらに深嵐を連れて来れば、きっと響豊の勝ちはほとんどなくなるに違いな――


「……あれ?」


 そこまで考えたところで、要の中にふと疑問が浮かんだ。




 『公会』には、『高手』が二人はいる。なのにたった一人で反旗を翻そうなんて無謀すぎやしないか――と。




 響豊は確かに強い。それこそ、自分なんか鼻をほじりながらでも容易にあしらえるほどに。


 だが易宝も深嵐も、ともに武術社会の中ではビックネームだ。常人である自分には『高手』というカテゴリー内での優劣は分からないが、いくら響豊が戦争を生き抜いた猛者であったとしても、この二人を簡単に倒せるわけがない。


 さらに今この辺りには「眼鏡王蛇(キングコブラ)」という通り名を持つ『高手』、夏臨玉も来ている。彼がもし易宝の側につけば、さらに響豊は不利を強いられる。


 それを考えると「崩陣拳を『公会』ごと滅ぼす」という響豊の目的は、リスクだらけの無茶な行為なのだと分かる。いくら日本人が気に入らないからって、その程度のリスク勘定さえ上手くできないほどマヌケなのだろうか?


 今までは「『高手』が襲ってくる」という状況に強烈なインパクトを感じすぎていて気が付かなかったが、落ち着いて考えると、突っ込みどころばかりが出てくる。


 そして次の瞬間、易宝の声が一石を投じてきた。




「――もうそこまでで良いぞ、響豊の爺さん。わしの我が儘に付き合ってくれて感謝する」




 ……………………は?


 今、あの人、なんつった?


 わしの我が儘? 付き合ってくれて感謝?


 しかも、この状況に対して驚愕なんか微塵も感じていないような、気の抜けた声色。


 ぐるぐると混乱していた思考がさらに引っ掻き回される。


 要は周囲を見回した。


 地面にうつ伏せになりながら、自分と同じく驚愕の表情を浮かべている奐泉。

 こちらと視線がぶつかった途端、気まずそうな苦笑を浮かべて目を背けた菊子。

 その場で立ち止まったまま、何を考えているのかうかがい知れない無表情になった響豊。

 そして――満足そうに微笑む易宝。


 この表情たちが何を示唆しているのか、まだ見当がつかない。


 しかし、それを訊くべき相手くらいは分かっていた。


 要は身に絡む疲労すら忘れ、易宝を見咎めた。


「――どういうことか説明してもらおうか、師父(せんせい)









 すでに太陽が西の稜線に先端を付けている時間帯。


 薄暗くなり始めた大樹の木陰で、要、奐泉、易宝、菊子、響豊の五人が集まっていた。


 そして、易宝の説明が終わった後。


『なん(です)ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!?』


 要と奐泉は、全く同じタイミングで叫びをあげた。突然発せられた大声によって、大樹の梢に止まっていた野鳥が何匹か飛び去る。


 あまりの驚愕で開いた口が塞がらない要と奐泉とは対照的に、残りの三人は冷静な態度だった。その態度が、今回の一件に関する少なからぬ理解を示唆していた。


「そういうことなのだ。今回の霍響豊大暴れ事件は――わしが仕組んだ茶番だったのだ」


 年齢不詳の美丈夫が、真顔でそんな事をのたまう。


 易宝曰く、響豊は本気で要と『公会』を亡き者にしようとしたわけではない。

 易宝曰く、それは全て演技である。

 易宝曰く、そう演じさせたのは自分である。


 そして、その目的はただ一つ。


「全てはカナ坊――おぬしの気功術のレベルを高めるためだったのだ。どうか許してほしい」


 これまた、先ほど説明した事だった。それを謝罪も込みで再度告げてきた。


 そう。

 今回の茶番を実行した理由は、要の気功術を上達させるため。


 気功術の修業を続けているうちに、要はある壁にぶち当たった。それは、「動作」と「気の操作」を平行して行うのが下手であることだった。


 立ち止まっている「静」の状態であるならば普通に使える気功術も、動作を行っている「動」の状態では上手く使えなかった。気の操作には、高い集中力が要求される。体を動かしている最中はどうしてもその集中力が乱れてしまいがちで、失敗続きだった。


 健康法として気功術をやるならば、止まった状態限定でも良いかもしれない。けれど、要がやっているのは武術。戦っている最中、すなわち「動」の状態で気をコントロールできなければ無用の長物である。


 であるからこそ、要の伸び悩みは深刻なものであった。


 だからこそ、易宝が師として一肌脱いだというわけだ。


 常人を超えた怪物『高手』が命を狙ってくる――そんな極限のシチュエーションは、気功術の訓練をするにはこれ以上ないほどの修業グッズだ。なにせ、その極限のシチュエーションの中で気功術が使えるようになれば、ほぼ全ての局面でコンスタントに気の操作が可能となるのだから。一種の暴露療法的なものとも言えなくもない。


 その「命を狙ってくる『高手』」役として抜擢されたのが、霍響豊である。


 彼も『高手』。しかも、抗日聯軍として活動していた過去ゆえに日本人に対して良い印象を抱いてはいない。要に襲いかかる役をする上で、これほど説得力のある人材は他にいなかったという。


 ――以上が、約五分かけてなされた説明のまとめである。


『この霍響豊、気功術を実戦でもきちんと使える。汝と違ってな(・・・・・・)

『気功術も碌に使えぬ汝などいつでも仕留められるが、大事を取って今すぐ消し去ってくれよう』


 思えば、響豊は戦いの最中、わざとらしく気功術の事を強調する発言を二度した。その理由が「気功術の修業の一環だから」というものなら途端に説得力が増す。


 ちなみにこの計画は、要が北京に来る前から響豊と事前に練っていたものらしい。響豊は何かと自分に突っかかってきたが、それも北京に来る前から易宝に頼まれていた演技の一環だそうだ。ああしてあからさまな敵愾心を見せつけておけば、要を殺しに来る説得力がさらに増す。……響豊は「全てが演技だったわけではない」と、そっけなく言っていたが。


「そもそも『高手』が本気でおぬしに襲いかかったら、一分足らずで正体不明の肉片の一丁上がりだ」という易宝の追加説明を聞いた途端、髪の毛が逆立ちそうなほど怖気が立った。


 うむ、なるほど。話は分かった。


 しかし。しかしである。


「こんな回りくどいやり方しなくてもよかったじゃんか! こっちはマジで死ぬかと思ったんだぞ!?」

「本当ですわ! 他にもっと良い方法はありませんでしたの!?」


 要と奐泉は首謀者(えきほう)に詰め寄り抗議した。……ちなみに奐泉は易宝の気功治療を受けたため、すでに浸透勁のダメージから回復している。そもそも、それほど強く打たれたわけではないため、放置してもすぐに立ち直る程度のケガだったらしいが。


「すまぬ、すまぬ。許してくれってば。わしもいろいろ考えてみたんだが、多少荒療治である事に目を閉じればこれが一番効果的だと思ったんだ」


 易宝は苦笑交じりに謝る。


 そして一息ついてから、昔を思い出すような口調で、


「それにのう、わしも若い頃に気功術を訓練していた時期、カナ坊と同じ伸び悩みを経験したんだ。わしは本来それほど才能に恵まれてはいないからのう、それを乗り越えるまで結構かかった。わしだけではない。気功術を修業する者は、だいたい体術と気功術の平行運用の段階で一度つまずく」

「……まあ、確かにその通りですわね」


 奐泉が唇を尖らせて同意した。おそらく、彼女も同様の経験があるのだろう。


「カナ坊も器用な方ではない。なので、わしと同じ段階で伸び悩むと踏んでいた。だからこそ、おぬしにはてっとり早く上達して欲しかったという師匠心を働かせたわけだ」

「悪かったな、ぶきっちょで」


 要は拗ねた表情でぷいっと顔を背け、そのまま菊子の方を向く。


「……ところで、キクはいつ気づいたんだ?」


 対し、彼女は黒い練糸のような長い髪を指でくるくる巻きながら、苦笑とともに答えた。


「えっと……劉先生に助けを求めた時に聞かされました」


 それを聞いて、要は目を丸くした。


「俺らがボコられてるの見て、師父を呼びに行ってくれたのか」

「う、うん。まあ……結局くたびれもうけになっちゃったけど」


 菊子はことさらに苦笑いを保ちつつ、自嘲するようにつぶやいた。


「やっぱり……わたしの行動って空回りばっかりですね。ちょっと前だってカナちゃんと共通点持ちたいから武術に手を出して、そのせいでケガさせちゃうし……今だって、カナちゃん助けようと思って劉先生の所まで走ったのに、結局無駄足でしたし…………本当、わたしって余計な事しかしてませんよね……頑張れば頑張るほど、墓穴を増やしてるというか……」

「そんなことない」


 要は即答する。


 うつむきがちだった菊子の目線が、少し上がる。


「――なあキク、もし霍響豊が襲ってきたのが演技じゃなく「マジ」だったらどうする? そしてもしその時お前が動いてくれなかったら、俺たちどうなってたと思う? 俺は今頃天に召されてたと思うぞ」

「でもカナちゃん……それは「もしも」の話であって――」

「「もしも」で済んでよかった――そう考えればいいだけなんじゃないのかな。「もしも」でも「マジ」でも、お前の行動にはちゃんと意味があったんだ」

「カナ……ちゃん……」


 目元を覆い隠す菊子の前髪の下から、一筋の涙がつーっと流れてきた。


 何泣いてんだ。そう言おうとした瞬間、柔らかな重さが懐に飛び込んできた。


 不意に抱きついてきた菊子は要の胸に顔をうずめながら、すすり泣きをし始めた。胸部に湿った感触。


 黒髪から香るシャンプーの匂いが分かるほど密着してきた菊子に、要は心音を高鳴らせる。しかし泣いている彼女を見ていたら、すぐにそんな風に恥ずかしがっている自分がバカバカしく思え、黙って胸を貸し続けた。


 慰めようとその後ろ髪と背中に手を回――そうとして我に返り、慌てて両手を引っ込めた。自分はこの二人の少女のうち、どちらを選ぶか明確に決めていない。その段階で、軽はずみな行為をするべきではないと思ったのだ。


 ふと、菊子に妙な眼差しを向けている奐泉に気づく


 想い人である自分に抱きつく菊子に嫉妬してるのか――我ながら恥ずかしい事考えるな――と最初は思った。しかしその表情をよく見ると、ソレとは別種の感情が感じられた。


 まるで、太陽をまぶしがるような目。


 少なくとも、今まで菊子に向けてきた挑戦的な眼光とは全く質が違うものだった。


「……仮定であっても、人を殺人狂扱いするのは心外だな」


 そこへ、太い声が割って入った。


 響豊だった。


 ついさっきまであれほど恐ろしかったその巨体だが、今はそれほど怖くない。今までのが演技だと分かったからだろう。眉間の皺も少なくなっている。肉体に内包する迫力は相変わらずだが。


「ああ、あんたか。今回はその……色々世話になったな」

「礼なら汝の師に言うことだ。今回の茶番を思いついたのは易宝だ。こちらは言われた通りに動いただけのこと」


 やはり彼の態度はぶっきらぼうであった。だが気のせいか、今までより少し声質と物腰が軟化しているような気がする。


「……しかし、少々驚いたぞ。正直に言えば、汝が恐れをなして逃げ惑うと予想していた。けれど、汝は逃げなかった。倒れていた馮奐泉を見捨てず、自分にできる事を精一杯行おうと努力し続けた。だからこそ、汝は気功術を成長させることができたのかもしれんな」

「あんた、案外いい人じゃん」

「……言っておくが、汝と過剰に馴れ合う気は無い。今回の襲撃こそ演技だったが、日本人が気に入らぬというのは偽りなき事実。汝の事は崩陣拳正宗四世として楊氏ともども守りはする。が、仲良しごっこはせぬ。覚えておくがいい、工藤要」

「はいはい。肝に銘じておきますよー、っと」

「……ふん」


 あからさまな要の生返事に、響豊は面白くなさそうにそっぽを向いた。


「カナ坊」


 そこへ突然投げかけられる易宝の呼びかけ。


「なん――」


 だ、と続けようとした瞬間、易宝が間合いまで風のように詰めてきていた。


 この鋭い踏み入り方は、散手の時にたびたび目にするソレだった。


 今の姿勢からでは回避は間に合わない。


 そう考えた時には、要はすでに太極気を丹田に作っていた。それを胴体まで移動させる。


 易宝の拳が吸い込まれるようにどてっ腹へぶち当たった。


 数歩後ろへたたらを踏みこそしたが――痛みは感じなかった。


 その様子を見た易宝は、歯を見せて愉快そうに笑った。


「成ったようだのう」


 要もやはり、同じように笑い返したのだった。




読んで下さった皆様、ありがとうございます!


最近、ビリビリ動画を視聴するのにハマっております。

日本で見られている映像に対し中国人がどんな反応をしているのか、それが見れて楽しいです。

YouTubeやニコ動にupされていない武術の資料映像がいくつか有るのもgood。

ただ、中国産アニメも探りまくっているのですが、素手バトル中心のカンフーものが見つからない件(;_;)

本場なんだから、あってもいいじゃないですかぁ!


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