第十六話 聖戦(ぼうきょ)
――青天の霹靂とは、まさに今のようなことを言うのだと思った。
夕方に変わろうとしている夏空の下、工藤要は足元に茂った短い草の上に尻餅をつきながらそんなことを考える。
北京市懐柔区の森林地帯。海原のように広がった深緑の一箇所に、型抜きされたように綺麗な円形の広場が広がっていた。中央部に神木のような大樹をそびやかすその場所の端で、「ソレ」は起こった。
踏み込みによって生まれた、落雷のような轟音。
メキメキという呻きを上げながら折れ曲がり、そして横倒しとなるクヌギの木。
途中から折れて断絶した木の幹と、その断面の真上を素通りする形で伸ばしきられた掌底。
そして、その掌底を形作った腕に視線を沿わせていくと――一人の大男の姿へと到達した。
輝かんばかりの禿頭。岩石を穿ったかのごとく厳つい顔立ち。熊のような巨体。丸太と遜色ない太さを誇る四肢と首。
その大男は弓歩――中国拳法でよく使われる前足重心の立ち方だ。空手の「前屈立ち」に酷似している――の歩形で深く踏み込みながら、石製と見まがう無骨な掌底を水平に伸ばしていた。
要は絶句していた。木を掌底で叩き折ったその大男に見覚えがあったからだ。
「い……いきなり何すんだ! 霍響豊っ!」
ようやく言葉を発する余裕を取り戻した要は、そのように怒鳴った。
大男――霍響豊は目玉だけを横の要へ向け、忌々しそうに舌打ちした。
「……ふん。悪運の強い小僧めが。もう少しでその脳天を柘榴のように吹き飛ばしてやったものを」
そのセリフは、今の攻撃が故意のものであると裏付けるに足りすぎるものだった。
――要は直前まで、あのクヌギの木へ背中をもたれさせていたのだ。
逃げていく菊子を最初は追うまいとしていたが、去り際に彼女がこぼした涙を思い出すと、なぜか「探さなければ」という気分に強く駆られた。
菊子が逃げ入った場所は、この大樹の広場の西に広がる森だった。奐泉も伴って――やや不服そうな顔をしていたが――その中へ探しに行ったが、どこにも見当たらず、時間ばかりが過ぎていった。
西の森は、他の方角の森とは違い、樹海とも形容出来るような入り組んだ悪路であるらしい。なので、この辺りへ足を運び慣れた『公会』会員でも「目印」を使わないと迷ってしまうらしい。
なので一度大樹の広場に戻り――ちなみに少し迷った――休憩も交えつつ、どのように菊子を探すか考えていた。
そう。あのクヌギの木にもたれかかりながら。
そこへ突然、響豊が姿を現した。
彼は四合院へ通じる北方向の獣道から広場へ出てくるや、要を真っ直ぐ見据え、そしてその視線をたどるように真っ直ぐ歩み寄ってきた。
響豊とのウマが絶望的に合わない要は、もちろん内心穏やかではなかった。それでも、また一言二言嫌味を吐いて終わりだろうと思っていた。よほど聞き捨てならないものでなければ「あーはいそーですねー」的な態度で流してやろう。それで終わり。そう頭の中でシミュレートしていた。
――響豊がそのシミュレーションを見事裏切ったのは、約三十秒前の事だった。
なんとこの大男は攻撃してきたのだ。人間を一人挽肉に変えて釣りが来そうなほどの掌底で。
間一髪回避が間に合った。が、その一撃がもたらした激甚な破壊は、目にした要に対して凍りつきそうなほどのショックを与えた。
いや……威力も確かにすごい。けど、問題はそこじゃない。
「な……どういう事ですの、霍師傅!? 崩陣拳を守る立場にある貴方が、何故カナ様を攻撃するという暴挙に及ぶのですか!?」
響豊を挟んで要と対面していた奐泉がようやく腰を上げ、鋭く口を開いた。彼女も突然の攻撃に気が動転していたのだろう。
そんな奐泉の問いかけこそが、響豊の行動における最大の疑問点であった。
響豊は確かに要を敵視こそしていたが、それでも自分から攻撃してきたりはしなかった。「崩陣拳を守る」という山の掟を守っていたのだろう。
けれど、今のこの男はどうだ。要を狙って、決め手級の技を平然と繰り出した。あからさまな悪意と殺意が見え隠れしている。
「……崩陣拳を、想えばこそ」
響豊は決心に満ちた発言の後、畳み掛けるように二の句を発した。
「工藤要――汝にはこれから死んでもらう。そしてこれは「暴挙」ではない。「聖戦」である」
深い洞窟の奥底から響いてきたかのごとく、重い声であった。
……一瞬、この大男が何を言ったのか理解できなかった。今までの人生の中であまりに馴染みの浅い発言だったから、脳が無意識に我が聴神経を疑ったのだ。
そしてその空白の一瞬が終わった後、要の思考は現実逃避をやめ、今耳にした言葉をもう一度再生した。
――汝にはこれからシンデモラウ。
シンデモラウ。
しんでもらう。
死んでもらう。
「死ね」だの「殺す」だのといった物騒な発言はケンカの時に嫌というほど聞いてきたが、それらは相手を威圧したり、怒りを表現したりするという側面のみで使われてきた。
けれど今の響豊の発言は、純度一〇〇パーセントの意味合いを持っていた。
すなわち――「これからお前を殺す」ということ。
……たった一つの文の意味を確信するのに、随分と時間をかけてしまった。
しかし、それでも確信はできた。
要はもっとも相応しいリアクションを取った。
「な……何言ってんだお前!? 正気か!?」
「疑うのなら、今、貴様の頭部を吹き飛ばしてやろうか?」
岩のような顔が酷薄な笑みを形作る。岩をくりぬいたような暗く鋭い眼差しは、要の姿をくっきり映していた。
初めて見た響豊の笑顔は、見ていて背筋が寒くなるものだった。
禿はその顔を保ったまま、低く淡々とした声質で言った。
「崩陣拳は中華の秘法であり、大いなる財産だ。夷狄の者が学ぶなどまかりならぬ。まして、かつてこの国を荒らした野蛮人に伝承するなど以ての外」
「……いい加減になさってください、霍師傅。あなたも『公会』の者ならば分かるでしょう? 楊一族の方々に伝承者選出を依頼することが、崩陣拳の悪用や誤伝を防ぐ最善のシステムなのです。ご自分のおっしゃっていることが我が儘の域を出ないものであることを、何故理解でき――」
静かな怒りを露わにしながら、押し殺したような声で諭そうとする奐泉。だが、
「――黙れぃ! 平和ボケした小娘風情が生意気を吐かすか!!」
火山の爆発にも似た響豊の怒号が炸裂。
あまりにも横暴な物言い。しかし要と奐泉は、その横暴な発言に宿る迫力と威圧感に押されて一歩退いてしまった。
心胆が氷漬けになりそうなほどのプレッシャーだった。先ほどまでの敵愾心が一気に消え、身が浮き上がるような恐怖心が下から上へ駆け上ってくる。
『融声』の呼吸法で無理矢理心を落ち着けた。高ぶっていた感情が急激に沈下し、ニュートラルな精神状態に戻る。
「そうだ。確かに楊一族の協力無くして、汝の言う「誤伝や悪用なき伝承」は難しい。しかしそのために日本人などを選出するようでは、楊一族の占術とやらもすでに程度が知れるというもの。ならば、楊一族は崩陣拳を汚す漢奸。そして、思考停止して漢奸の言葉を鵜呑みにする『公会』の者どももまた等しく漢奸なのだ」
話にならない。要は思った。
この男はただ単に、自分の我が儘を押し通そうとしているだけだ。そこに論理は含まれない。あるのは「日本人に崩陣拳を渡したくない」というエゴのみ。
けれど、今この「場」の空気を支配しているのはこの男だ。「正しい」か「正しくない」かは問題じゃない。この男が「動く」か「動かない」かが重要なのだ。
なにせこの男は、『高手』。単独で軍の特殊部隊一つ分の力を持つという人間凶器なのだから。
この男が動き出せば、自分たちではまず止められない。力の差が圧倒的過ぎて、勝負にさえならない。
「故に――この負の連鎖を始まりから是正する必要がある、と判断した。崩陣拳は尊き拳。しかし鬼子の手に渡った時点で、その尊さは卑しさへと変わった。そのような崩陣拳はあってはならぬのだ。だからこそ、崩陣拳を『公会』もろともこの手で消し去ってくれよう」
背筋に寒いものが駆け巡った。
要だけではない。響豊は『公会』も滅ぼすと言っているのだ。無論、文字通りの意味で、だ。
あまりに現実離れした恐ろしい表現。
それを「冗談だろ」と思いたい気持ちが強かったが、この男の表情や立ち振る舞いからは、中途半端な気持ちは感じられなかった。
間違いない。こいつはやると言ったらやる。
そうと決まれば、こちらもそれなりに動くしかない。
やる事はたった一つ。易宝を電話で呼ぶ事だった。
考えるまでもなく、自分と奐泉の二人ではこの化物に太刀打ちできない。あのクヌギの木と同様にへし折られるのがオチだ。
ならば目には目を。『高手』には『高手』をぶつけるしかない。
しかし、要のスマホは日本でしか通話できない。なので、
「奐泉! 四合院の番号は分かるか!? 知ってたら電話かけろ! 今、師父はそこにいたはずだ!」
棒立ちしていた奐泉に鋭く言い放った。元々中国在住の彼女の携帯なら、通話が可能なはず。
要の考えを理解したようで、奐泉はハッと我に返り、ポケットからスマホを取り出す。急いた手つきで数度タップ操作する。
だが、現実はどこまでも非情だった。
「ダメです! 圏外です! 繋がりません!」
「なんだって!?」
切迫した声で告げられた彼女の発言に、要は体温を急激に下げた。
響豊はアリの行列でも眺めるような目でそんな自分たちを俯瞰しながら、口端を吊り上げた。
「一ついい事を教えてやろう。ここのように阳気が濃い場所では、機械がうまく動かなくなるのだ。この広場の中では、その機械はただの金属とプラスチックの構造体に過ぎぬ」
……そういえば聞いたことがある。パワースポットでは大地から常にエネルギーが湧き出していて、それによって電波の繋がりが悪くなったり、方位磁針が狂ったりするという。
この広場もまた、大地から気が濃く放出されているボルテックス。つまりパワースポットの一種。
「逆に言えば、この広場から出れば通話ができるということ。しかし――」
響豊は両腕を翼のように開き、宣言した。
「――この霍響豊、貴様らを決してこの広場から出さん。仮に出られたとしても、電話をする余裕など一切与えぬ。助けを呼ぶという選択肢は捨てるべきだと忠告しよう」
それは死刑宣告とほぼ同義な気がした。
万策尽きた要は絶望的な気分になった。相手は易宝と同じ『高手』。それだけでなく、かつて軍隊相手に戦闘を繰り広げてきた古強者なのだ。どうやって自分の勝機を見いだせようか。
「カナ様っ!! 危ない!!」
だからだろう。視界に対する意識が抜けきっていたせいで、吸い込まれてくるように肉薄してきた響豊に対しての反応が遅れてしまった。
要は『百戦不殆式』の構えを取ろうとするが、すでに遅かった。すでに自分の立ち位置は響豊の間合いの中。右脇には固く握られた拳が引き絞られていた。正拳で突くつもりだろう。見るからに次の手が明らかなテレフォンパンチだが、先ほどの打撃速度を見るに、事前に次の手が分かるという点はハンデにならない。
当たる。そう思った。
「――たぁっ!!」
しかし、右拳が向かったのはこちらへではなく、真横だった。要の視界から見て左側からやってきた奐泉の回し蹴りを防いだのだ。
我が身を省みない彼女の勇姿を目にしたことで、要も平和ボケしていた頭を覚醒させた。このまま何もしないで見ているなんてできない。
要は拳を握り締めた両腕の手首を押し付け合わせて「タメ」を作り、軸足の蹴り出しで風のように推進した。前足で急ブレーキをかけて強い慣性力を生み出し、その勢いを使って「タメ」を作った拳を開放。矢の如く正拳を打ち放った。崩陣拳実戦技法の一つ『開花一倒』。単純な威力だけなら、要が持つ技の中で最強の一撃である。
重々しい勁力を持つ正拳が、響豊の腹部めがけて鋭く直進。拳が食い込んだら一気に拳を開き、さらに威力を倍加させる。ダムダム弾と同じ理屈だ。
しかし、拳が響豊の腹部へ触れ、さらに奥へ食い込もうとした瞬間、
「咯ッッ!!!」
重鈍な気合いとともに、巨体が一瞬だけブルンッ!! と激震。その凄まじい振動に押され、接触していた要の拳は一気に遠ざかった。
「うわっ!」
「きゃぁっ!」
二人同時に弾き飛ばされ、地面をみっともなく転がる。転がっている途中に草の破片が口に入り、青臭い味と匂いを味わう。
しばらくしてようやく慣性が弱まり、止まった。口内の異物を傍らに吐き捨ててから、遠くに立つ響豊の姿を睨む。
痛くは無かった。けれど、かなりの距離を吹っ飛ばされたようだ。奐泉も同様である。
「なんだ、今のは……!?」
要は思わず呟きをこぼす。
あの時、自分の『開花一倒』は間違いなく当たっていたはず。しかし接触と同時に、触れた箇所から妙な振動が体幹へ響き、突きの威力が伝わる前に弾き飛ばされたのだ。
奐泉がゆっくりと起き上がり、答えを言った。
「『抖勁』……体の中心を急激に震わせて強い力を出す、太極拳の技法の一種ですわ。先ほど霍師傅は抖勁で生み出した振動波を、接触点からわたくし達の肉体へ波及させて弾き飛ばしたのですわ。極めて高度な「摔法」の技術です」
「小賢しいな、小娘」
響豊は微かに笑いの混じった声で言う。
「――この霍響豊が習得せしは太極拳。それも太極拳の源流たる名門『陳家太極拳』である」
「陳家……太極拳?」
「左様」
頷く響豊。
「本物の功夫を知らぬ多くの人間が、「太極拳は健康体操」などという見解を得意げに嘯く。だが本来の太極拳は、剛柔を高度に兼備した必殺拳法。時には小川の流れのごとく相手の力を化かし、そして時には波濤のごとく強大な勁を発する」
いつであったか、易宝も言っていた。「太極拳とやり合う場合は、用心に用心を重ねろ」と。
中国古来の哲学思想では、陰と陽のバランスが良いほど強いという。
太極拳は、その思想を高度に体現した拳法だ。しなやかな体術を用いた化勁――相手の攻撃を受け流す技術――も強力だが、それと同時に、八極拳にも決して劣らない爆発力も兼ね備えている。
無論、習得は簡単ではない。精密機械を組み上げるがごとき身体操作をひたすら反復練習して体に刻み込み、さらにそれを用いた対人技術を長い年月をかけて身につけなければならないのだ。しかし、その壁を乗り越えて功成った者は、それなりの実力をその身に宿す。
まさしく攻防一体の高級拳法。でなければ、世界中に伝承が広がるわけがないのだ。
気がつくと、要は半身の『百戦不殆式』を取っていた。
心臓が勝手に鼓動の間隔を狭める。何度も『融声』を使って落ち着けるが、すぐに早まってしまう。
「せめてもの冥土の土産だ。太極拳の神髄、汝らの脳裏に焼き付けてしんぜよう。――カッ!!」
言うや、響豊は鋭い一喝とともに疾駆。背筋が真っ直ぐに整った立身中正の姿勢を見事に保ちながら、その巨体に不似合いな速度で突き進んできた。
間隔が潰れるのはあっという間だった。
要は、響豊が具体的な攻撃のアクションを見せる前に、大きく右へダイビングよろしく飛び込んだ。タイミング的に速すぎるかもしれないが、そうしなければ痛い目にあうと本能が告げていた。
「死ねぃ!! 『玉女穿梭』ッ!!」
飛んでから半秒後、要が立っていた位置を中心に大地が激震。さらに半秒後、凄まじい風圧が四方へ散り、地面を転がっていた要の体をさらに押した。
転がりながら、先ほどまでいた場所を見る。響豊は踏み出した前足を深く沈めながら、指の間を閉じて垂直に立てた掌を順歩――踏み込む足と打撃に使う手が同じ方向である形――で真っ直ぐ突き出していた。『玉女穿梭』とは見ての通りあの掌で打つ技なのだが、今の響豊の一撃はきっと当たれば「打たれた」程度のケガでは済まないものだろう。
そうして観察しつつも、要は動きを一切止めない。転がった状態から流れるように立ち上がる。意識のわずかな間隙さえ認められない。相手は『高手』。少しでも気を抜いたら、その時は人生が終わる時だ。
前を向いた瞬間、視界の九割を響豊の巨体が埋め尽くしていた。
「靠ッ!!」
背中の半分を先行させ、突進してきた。
巨岩が高速でスライドしてきたようなその靠撃に対し、要はまた全力で横へ跳んだ。
背後からズンッ!! と激しい震脚の音。風圧に顔を殴られながらも、どうにか二撃目も回避できた。先ほどように転がらず、きちんと受け身を取ってすぐに立つ。
しかし、これ以降も同じように避けられるとは限らない。今だってかなりギリギリなのだ。こんな状態が長続きしないことくらい、要も分かっていた。
いや、そもそもどうして自分は『高手』なんて怪物と戦っている――そもそも「戦い」と呼べるものかどうかも怪しいが――のだろう、とふと思う。
答えは簡単。「そうするしか生き残る道がない」からだ。
初めて行う、命がけの闘い――否、”戦い”。
平和な日々にどっぷり浸かってきた人間なら、普通はもう少し怯えたり、パニックを起こしたりするべきなのだろう。だが幸か不幸か、そうなっていない。理由はそれこそ「そうするしかない」からである。ざっくり言ってしまえば「必死」なのだ。
――しかしそれは所詮、絶対的力量差を埋める要素になりはしない。
「『揺籃脚』」
響豊は両足の踵を浮かすと、腰の急激な沈下とともに大地を激しく踏みつけた。
激烈な衝撃の余波が地面を介して要の足元へ達し、さらにそこから全身の骨に駆け廻った。
すると。
「うっ……!?」
突発的に訪れた体の不調に、要は思わず口元を押さえてうずくまった。
――気持ち悪い。吐きそうだ。
まるで胃の中身を直接引っ掻き回されたかのような不快感。酸っぱくて焼けつくモノが胃から喉元まで昇ってくるが、なけなしの気合いでせき止めた。
涙が溜まった目で響豊を睨めつける要。この不快感の原因は十中八九、この男の仕業だ。
「大した事はしておらん。震脚で発生させた振動を特殊な呼吸法で調節し、地面を介して汝へ送って”揺さぶった”だけの事。いわば、「陸で船酔いさせる」技。本来は暴徒鎮圧用の独自技であるゆえ、効果は長続きせんが」
そう淡々と言いながら、重々しく、しかし確実に歩みを進めてくる巨漢。――ヤバイ、このままじゃ……!
「カナ様から離れなさいっ!!」
その時、奐泉の鋭い舌鋒が鼓膜を撞いた。
彼女は響豊の右から迫っていた。起伏の無い滑るような歩法を刻みながら、自重を衝突させる力を利用した掌底を今まさに巨体の脇腹へ直撃させようとしていた。
「邪魔だ」
しかし、そんな勇敢さを嘲笑するかのように、響豊が動いた。右足の小さな踏み出しに合わせて肘が稲妻のごとく駆け、吸い込まれるように奐泉の胴体へ突き刺さった。とすん、という、やや軽い音。
「かふ……!」
不思議なことに、奐泉は吹っ飛ばなかった。だが代わりに、芯を抜き取られたかのようにふにゃり、と崩れ落ちた。重力に一切逆らわず、草の上に倒れ伏す。
――ある意味、ぶっ飛ばされるよりも悲惨な有様に見えた。
だからだろう。神経細胞が焼けつきそうなほどの稲妻が走ったのは。
「――テメェッ!!」
吐き気すら忘却し、憤怒の赴くまま『箭歩』で疾走。突風のような加速状態から一気に急停止すると同時に『撞拳』を打ち込みにかかった。
そして、怒りにまかせた正拳は狙い過たず、響豊の腹部へ勢いよく突き刺さった。
「うぐっ……!?」
しかし、あまりに硬質的な感触に、要は顔を苦痛で歪める。まるで鉄を殴ったみたいに拳が痛かった。
何もしない状態で相手の攻撃を防ぐ技術に、要はひとつだけ覚えがあった。
「気功術……! 『太極気』で防いだのか……!」
「いかにも。この霍響豊、気功術を実戦でもきちんと使える。汝と違ってな」
何でもない事のように肯定する響豊。「汝と違ってな」という部分だけを強調して言っている分、余計に腹が立つ。
しかしそれでもなお要の切り替えは速かった。渦を纏うイメージで全身を足底から捻じり込み、密着させた拳をその螺旋の力で急激に爆進させた。
要の『纏渦』は、ほぼ確実に当たる間合いで打ち込まれたはずだった。
けれども――その正拳は見事に空振った。
響豊を見る。その巨体に捻りを加え、要の拳から体の位置をずらしていた。
そんな馬鹿な。この距離で『纏渦』を避けるなんて。
「旋」は、全身を捻じり始めた時点ですでに打撃部位に勁力が達する崩陣拳最速の力。そして『纏渦』は、ゼロ距離でその「旋」の力を叩き込む寸勁。たとえ速度に優れた走雷拳であろうと回避は難しい一撃である。
だがそこまで考えたところで、要は「しまった」と我が愚かさを悔いた。
この”戦い”が始まってから、自分はすっかり忘れていた。『高手』の持つ真の恐ろしさを。
『高手』は――予知能力に等しい「攻撃予測能力」を持っている。
いくら拳銃を使って撃ち殺そうとしても、その銃口から飛び出る弾丸の軌道を事前に予測し、その軌道からいち早く体を逃がして回避することができるのだ。それこそが「一人で特殊部隊と同等の戦闘力」である『高手』の強さを根底から支える要素に他ならない。
そして、それを思い出した時にはもう遅かった。
先端に拳を形作って突き伸ばされた要の腕が、響豊の手によって真下からふわり、と掬い上げられた。その無骨な手で払われたとは思えないくらい、ソフトな感覚。
自分の腕が、まるで羽毛になったように軽々と浮き上がる。必然的に、胴体がオープンにさらけ出された。
「『懶扎衣』」
刹那、響豊の体さばきが「柔」から「剛」へ転じた。要の拳をどけるために振り上げた片腕を稲妻のごとき速度で斜め下へ降下させる。大きく前へ踏み込むとともに――要の胴体を掌で衝いた。
「あ――――」
一瞬、世界が純白に染まる。そして本来の色彩が戻ると同時に、想像を絶する衝撃と痛みを知覚した。
風に飛ばされた人形のように、めちゃくちゃな転がり方をする。
転がって転がって転がって……ようやく慣性が落ち着いた。要はうつ伏せで停止する。
止まった瞬間、喘息のように幾度も咳き込んだ。その咳に血が混じっていないのが不思議なくらいである。それほどの力で打たれたのだ。
今なおうつ伏せのままほとんど動かない奐泉は、かなり前にいた。自分とずいぶん距離ができてしまったようだ。自分の事も大事だが、彼女の事も心配だった。
倒れた奐泉に、響豊がゆっくりと近づく。
「や……やめろっ……!」
止めを刺すと予想した要は、かすれた声で必死に静止を促す。
しかし予想に反し、響豊は奐泉を素通りした。まるで路傍の小石をまたぐように。
「あの娘には浸透勁を打っておいた。死にはせんが、しばらく動くことはできまい。よって、手を出す必要性など皆無」
大男はその鋭い眼差しを要に向けながら、真っ直ぐ歩いてくる。
そして、間合いの先端に要を置くと、足を止めた。
「それよりも――貴様だ」
氷よりも冷たい俯瞰に、要は自身の体を持ち上げながら視線と言葉を返した。
「なん……だよ?」
足腰を震わせながら、徐々にだが立ち上がっていく。
そんな要を、剣呑な瞳で見下ろす響豊。
「あんな小便臭い小娘などどうでも良い。「崩陣拳を『公会』ごと潰す」などと言いはしたが、結局のところ、この霍響豊が最も憎悪を抱く対象は貴様なのだ、工藤要。獣畜生にも劣る鬼子の末裔であるにもかかわらず、崩陣拳を我が物顔で振りかざす貴様という存在を……この世から細胞の一片も残さず消し去りたくてたまらぬわ」
「……そうかい。ならさっさと望み通りにすればよかったんだ。どうしてそうしない?」
明確な殺意を向けられたにもかかわらず、相手の神経を逆なでするような悪態が自然と口から出てきた。きっといつもの強がりだろう、と心の中でそう呑気に自己分析していた。……そんな場合ではないというのに。
「それではつまらぬからだ」
響豊はそのように告げた。
要は目を見開き「どういう意味だ?」と無言で問う。
すると、岩を穿ったような顔は暗い薄笑いを浮かべ、無慈悲に言った。
「貴様は簡単には殺さん。貴様の祖先の蛮行によって同胞が受けた苦しみ、痛み、そして屈辱の全てを――そのちっぽけな一身で「清算」してもらう」
目の前には悪鬼がいた。
両者間の実力差を考えれば、この身で「清算」させられる未来はゆるぎないものであると容易に分かる。
立ち向かっても、立ち止まったままでも、等しく同じ目にあう。
戦う事自体がバカバカしく思えてくる。
しかし、あきらめてされるがままになるという選択はもっと御免こうむる。プライドが許さない。
――ならば、自分のやる事は決まっている。
ようやく立ち上がれた要は、決して報われない抵抗に身を投じた。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
激しく動く太極拳と聞くと陳式ばかりを思い浮かべがちですが、簡化太極拳の元になった楊式太極拳にも、昔は激しい動作があったという話です。
あと、劇画「拳児」でも登場した忽雷架とか。




