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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
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第十五話 持ってるモンに目ェ向けろ


 ――どれだけ走っただろう。


 ――どれだけ曲がっただろう。


 ――どれだけ逃げ回っただろう。


 明確な目的地も持たず、ただむやみやたらに進んでいた。


 木々の乱立はどこまでも続いており、いくら走っても日向に出る事はない。


 葉の緑、木肌と土の茶、木漏れ日の白――周囲を彩る色彩はほとんど代わり映えしない。


 ワンパターンな情景を見て、いい加減走ることが馬鹿馬鹿しく思い、倉橋菊子は足を止めた。


 どのくらいの時間を走行――もとい逃走に費やしたのかは正確には覚えていない。たくさん走ったことは確かであるが。


 にもかかわらず、強健とは言い難い菊子の脚部に疲労の波は訪れなかった。


 いや、肉体そのものは疲労という警鐘を発している。だが今の菊子は、ソレに対して鈍感になるほどの強い情動に支配されていた。


 立ち止まった瞬間、(せき)を切ったように涙があふれてきた。


「っ……っぐ……ううっ…………!」


 手近な木の幹に体重を預け、前かがみの姿勢で嗚咽をもらす。


「ぐすっ……うっ…………ふえぇぇぇ…………っ!!」


 土に落ちる涙滴の数が徐々に増えていく。


 ――痛覚で歪む要のかんばせ。

 ――その二の腕に刻まれた短く、やや深い傷。

 ――流れ出る鮮血。赤。

 ――そんな要を、切羽詰った表情で気遣う奐泉。


 脳裏にこびりつくそれらの映像を現実にしたのは、ひとえに自分の馬鹿さ加減であった。


 このままだと要を取られる――そんな自分本位な焦燥感に駆り立てられるまま、身の丈に合わない武術(モノ)に手を出し、果てに怪我をさせてしまった。


 生兵法は怪我の元、とはよく言う。しかしその生兵法で怪我をしたのは自分ではなく、要だった。


 なんという醜態だろう。


 できることなら、武術を覚えようなどと血迷った事を考えていた過去の自分に「それはやめて」と忠告したい。


 しかし、そんな事ができるはずも無い。起きてしまった事はもう変えようがないのだ。何もかも。


 誰にも告げずにこの場所から消えてしまいたい。どこか遠くに行きたい。


 そんなネガティブな考えばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消える。


 罪悪感に駆られて涙を流している行為すら、おこがましい事のように思える。


「ひぐっ……カナちゃんっ…………ごめんなさい……ごめんなさぃっ…………!」


 届くはずのない謝罪をしゃくり混じりで繰り返す。


 泣いて、泣いて、泣いて、泣いて……気がつくと結構な時間が経っていた。


 涙を流す事に飽きた涙腺が仕事を放棄し、目から何も出てこなくなる。


 残ったのは泣き疲れと、胸に巣食う罪悪感だけだった。


 ――これからどうすればいいのだろう。


 泣くこともできなくなった今、自分に出来るのは元来た方向に帰る事と、罪悪感に酔いながらさらなる自己嫌悪を繰り広げることくらいである。


 後者を選びたい衝動に駆られるが、このままここで自分を責め続けたところで何かが解決するとは思えない。時間の浪費である――そう思考が回る程度には冷静さを取り戻していた。


 消去法的に、戻る選択肢を選んだ。


 が、周囲へ視線を走らせた瞬間、菊子は新たな問題の発生に気づいた。


「……ここは、どこ?」


 菊子は、見知らぬ林のど真ん中にいた。

 枝葉の広い木々が無数に根を張っている。土は多少凸凹があるものの、ほぼ平面。天蓋のごとく上部を覆う枝葉のせいで薄暗く、見通しはあまり良くない。けれどその分、少し涼しい。あまり暑く感じないのはそのせいだろう。


 この北京の別荘に来る機会は多くない。毎年行くか行かないかだ。なのでその周囲を覆う広い森林地帯を通る回数も自ずと少なくなる。いや、それ以前に菊子はインドア派なので、こういった場所を歩く事を避ける傾向があった。


 つまり菊子は、この辺りの道順に明るくないということだ。


 闇雲に走り回っているうちに、知らない場所へ来てしまっていたようだ。


 菊子の体温が下降する。見知らぬ場所でたった一人。この状況で不安になるなという方が無理だった。


 木漏れ日はまだ明度が高いが、最後に家の時計を見た時にはすでに午後三時を切っていた。いくら夏の陽が長いとはいえ、これから徐々に日光が弱まってくるだろう。薄暗いこの森にさらなる闇が訪れるのも時間の問題であった。


 少し離れた位置には、菊子の腰ほどの背丈を持つ像がぽつんと置いてあった。仙人を彷彿とさせる長衣の老人を象った古い像で、随分と苔むしている。


 こんな無機物で心細さは治らない。


 ――もしかすると、熊とかの動物が出てくるかもしれない。


 そう思った瞬間、足がひとりでに駆け出していた。


 走ったまでは良い。けれどその足の向かう先が明確に決まっていない。


 頭があまり働かず、焦燥感に追い立てられるまま足ばかりが動く。


 







 ――あの仙人像から離れるべきでは無かったかもしれない。


 菊子はタイミングを大きく逸した後悔を抱いた。


 さらに道に迷ったのだ。


 またしても記憶に少しも引っかからない情景が、目の前に広がっていた。


 木々がたくさん生え連なっているのは先ほどと変わらないが、枝葉の広がりに乏しい針葉樹の割合が多くなっているため、日向がやや多く明るい。だがその分少し暑くなった。

 

 垂直に伸びる木々は、ぼーっと眺めると鉄格子のように見えなくもない。


 菊子はその鉄格子が、自分をこの森という牢へ閉じ込めるためのモノのように見えた。


 遭難。


 そんな言葉が頭に浮かぶ。


 真っ暗な林の中に取り残されるのはまだ良い。だけど熊とか出たらどうしよう。遭遇したら自分の足ではとても逃げきれない。そうだ、死んだフリをするのはどうだろう? いやダメだ。死んだフリというのは案外熊の興味を引く事になる。自分の運動神経では木にも登れない――菊子の脳内で思考が渦巻き、それがどんどんネガティブな方向へと流れていく。


 さらに走ろうと思ったが、思いとどまった。これ以上迷子になるのが怖かったからだ。


 けれど、このまま棒立ちしていても埒があかないのもまた事実。


「――そうだ」


 ふと、天啓が舞い降りた。


 スマホを見ればいいではないか。


 今や電話やメールだけでなく、地図や方位まで見れる文明の利器。これを使えれば、いかなる場所であっても帰るのは容易いだろう。うん、人間って偉い。


 菊子は喜び勇んで右ポケットに手を入れた――しかし、そこにスマホはなかった。


 まさか……家に置き忘れた?


 またしても血の気が急降下する。


 どうすればいい。現在地が分からなければ、どうやってここから出ればいいのだ。


 菊子はサバイバルの知識など欠片も持ち合わせてはいない。広大な森や砂漠を余裕で歩けるような地理把握能力もなければ、狩った動物をかっさばいて食す技術も度胸も無い。


 遭難。遭難。遭難。遭難。頭の中が「遭難」の二文字で埋め尽くされる。


「どうしよう……」


 青ざめる菊子。ただでさえ長い前髪がさらに伸びたような錯覚を覚える。目の前が酷く暗く見えた。


 そして、




「――もしかして、道に迷っちゃったパターンかしら?」

 



 真後ろからかかってきた声を聞いた瞬間、全神経に電撃が走った。


「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 尻尾を握られた猫のように跳び上がり、甲高い悲鳴を上げる。


 鋭く背後を振り向いた。


「な、何よぉ? びっくりするじゃないのぉ」


 ひと目で絶世の美女と認識出来る女性が、困ったように笑っていた。


 長く艶に富んだ薄茶色の髪に、色気と意志力を持った美貌。うっすらとゴシック調なレース模様が見える薄手の黒衣。理想的曲線美を誇る肢体。白磁のような肌。


 その女性が要と易宝の知り合いである紅深嵐と認めるや、菊子は安堵のまま全身を脱力させた。お尻をぺたんと地面に落とす。


「ご、ごめんなさい、えっと……紅さん。誰もいない時にいきなり声をかけられたから、びっくりしちゃって」

「深嵐でいいわよ。こっちこそいきなり現れて(・・・)ごめんなさいねぇ。なんだか困ってるみたいだったから」


 「現れて」などという言葉をわざわざ選んで使った理由を、菊子はすでに承知していた。


 以前、何もない所からライトが点いたようにパッと現れたことがあったが、きっとその時と同じ技だろう。


 妙齢の美女は菊子の顔を前かがみで覗き込む――彼女の方が背が少し高いのだ――と、ニコッと満面の笑みを作った。


「安心していいわよ。コッチに真っ直ぐ進めば、すぐにあの大樹の広場へ出られるわ」


 そう言って、自身の左斜め後ろを指差す深嵐。


 こちらの苦悩を見透かした言葉にかあっと赤面する菊子だが、この場所から抜ける方法を教えてくれたことには感謝しなくてはならない。


 ぺこりと深めに会釈すると、美女は了解したように頷きを返した。


 かと思えば、満面の笑みを消した。


 新しく浮かべた表情もまた笑顔だったが、先ほどのものとは質が違っていた。


 どこか達観した、木の上から我が子を見守る母親のような微笑。


「そんなことよりも――菊子ちゃんにはもっと重要な悩みがあったんじゃないかしら?」


 心の隙間から奥へ手を伸ばされたような錯覚に陥った。


 深嵐が言及している事は、十中八九、先ほど泣いていた事だ。


「……見ていたんですか」


 少し拗ねたような声が出た。


「まね。ここ最近、あなた達三人を陰ながら見守ってたのよ。だから菊子ちゃんが要ちゃんに怪我させて、泣いて逃げたところも一部始終見てたってわけ。それであなたを追いかけて、今に到るって感じね」

「……そうですか」


 やっぱり、ずっと見ていたのだ。


 本来なら、姿を見せぬまま(・・・・・・・)自分の隣に(・・・・・)居続ける(・・・・)という彼女の神技に感嘆を表している所だった。


 しかし、今はそんな余裕がなかった。


 遭難の心配が去った途端、要にしてしまった行為を再び思い出してしまったのである。


 せっかく回復しかけていた心が再び沈下するのを実感する。体重が両足裏にずしりとのしかかり、そのまま地中にめり込んでしまいそうだった。


 ううん。そのまま頭から爪先までどっぷめり込んでしまいたい。


 そうすれば、自己嫌悪に陥っている情けない姿を見られずに済む。


 いつも人任せで、自分のものを何一つ持っていない自分自身を、もう見なくても済む。




「――出来ない事を、無理にやろうとしなくても良いのよ」




 不意に、頭部を撫でる優しい感触。


 少しひんやりした、人肌の温度。


 当然ながら、この場には自分と深嵐の二人しかいない。なのでこれは深嵐の手である事が見ずとも分かる。


 優しいのは撫でる手つきだけではない。口調も普段のおちゃらけたものとは打って変わった、落ち着いて穏やかなものだった。


 うつむいていても、今の彼女がどんな顔をしているのか想像できる。


 けれど、そんな柔らかな物腰の彼女への反論が、自然と口をついて出てきた。


「やらなきゃ……だめなんです」


 そう喋ろうと思ったわけでもないのに、口から勝手に弱音がこぼれてくる。


「わたし、何も持ってない…………馮さんと違って……自分で積み上げたものが何も無いんです……ちっちゃい頃から、わたしのする事のほとんどは誰かが代わりにやってくれて……」


 まるで他の誰かが自分の口を使って喋っているようだ。


「それなら…………無理してでも手に入れて、与えるしかないじゃないですかっ」


 その声には、痛切な響きがあった。


 ――きっと自分は、奐泉が羨ましかったのだ。


 要と親密になれているからじゃない。自分と違って、精神的に自立できているからだ。


 自分はいつも他人の力を頼りながら生きてきた。だからこそ、一人でも自信に満ち溢れ、堂々としている彼女が眩しく見えた。


 そしてそれに反比例して、自分が酷く矮小な存在に思えた。


 何より、彼女は武術という一つのモノを長い年月をかけて伸ばし、鍛えてきた。一つとして物事が長続きした事のない菊子にとって、それはとても凄い事だった。


 自分が武術に手を出した理由は、要との共通点だったからだけではなく、奐泉の後追いをしたかったからでもあるのかもしれない。


「……でも、あなたが苦しい顔して差し出したモノを、要ちゃんが喜んで受け取ると思う?」


 憐れむような声色を持った指摘。


 正論かもしれない。


 しかし、正論であるがゆえに反抗心が芽生えた。


「なら、どうすればいいんですか」


 抑揚のない、しかし語気の強い口調。我ながら失礼千万な物言いだった。


 けれど深嵐は別段気にした様子もなく、まるで微笑ましいものを見るかのように微笑をこぼした。そして、




「――少し、あたしの昔話に付き合ってくれないかしら?」




 脈絡のない事を持ちかけてきた。


 菊子は毒気を抜かれてぽかんとするが、しばらくしてから、とりあえずその訴えに頷きを返した。


 何を思ってそのようなことを口にしたのかは分からないが、冷やかしやふざけ半分でない事は確かだと思ったからだ。


 深嵐は「ありがと」と一言感謝すると、次のように切り出した。






「あたしね――昔、旦那に捨てられたんだ」




 


 それを聞いて、菊子の総身が石のように硬直した。


 予想を上回るほど、重たい言葉だったからだ。


「あたしは昔から武術の才能に恵まれてね、菊子ちゃんと同じ歳に『高手』の境地に至ったの。武林では「神童」なんてもてはやされてたかな。手前味噌だけど、容姿も凄く可愛かったから、見合い相手も引く手数多だった」


 昔を懐かしむかのように微笑を作る。


 その微笑にはどこか哀愁のようなものが漂っていた。


「そのうち、それなりに良い所の坊ちゃんに貰われたわ。ちょっと潔癖な所があったけど、良い人だった。正直、これまで武術漬けだったから色恋沙汰には欠片も興味なかったけど、付き合いを重ねるにつれて彼の人となりに惹かれていったの。多分、それが初恋だったんだと思う。ああ、この人とならきっと一緒に人生を歩んでいける、そう強く感じたあたしは彼を選んだわ。結婚して、女としての幸せも掴んだ。……ほんの束の間の幸せをね」

「……え」


 不穏な言い回しに、菊子は絶句した。


 しかし後から、それはくどいリアクションだと感じた。


 彼女はこの話を始める前、言ったではないか――「旦那に捨てられた」と。


 過程はまだ定かではないが、結末は約束されていた。最悪な結末が。


「――子供が産めない体だったんだ。どれだけ彼の子を欲しても、このお腹に彼の子が宿る事は決してなかった。その頃の中国人には、子供がたくさんいるほど幸せだって考え方がまだ強かったの。だけどあたしはたくさんどころか、一人さえも産めなかった。だからでしょうね、義父と義母はあたしに冷たく当たるようになったわ。その態度は親族全員に波及していき、夫までもがあたしを「穀潰し」と疎んじるようになった。あんなに愛をささやいてくれたのが嘘みたいに。やがてあたしは、邪魔者同然に家を叩き出されたわ」

「そ……そんなの酷いですっ!」


 同じ女として、菊子は烈火のごとき憤怒を禁じ得なかった。我知らず声が荒ぶっていた。


 確かに、嫁に子供を産んでもらいたい気持ちはかろうじて理解できる。家族が増えれば幸せになるという考え方にも賛成だ。


 だが今の話を聞く限り、深嵐の嫁ぎ先は、深嵐を「それら」のための「手段」としてしか見ていなかったように思える。


 とある政治家の「女性は子供を産むための機械」という発言に憤慨したのは、何歳の頃だっただろうか。今の話に対する怒りは、その政治家の発言を聞いた時の気持ちによく似ていた。


「……そうよね。酷いよね。あんだけ「好きだ」だの「愛してる」だの言ってたのは何だったんだよー、って感じだよね」


 明るい口調でそう言う深嵐。けれどその態度は見るからに空々しかった。


「叩き出された後、実家へ泣きながら戻ってきた。けど昔は出戻り女は蔑まれるきらいがあってね、家でも冷や飯を食わされたわ。だからもうすっごくグレちゃったんだあたし。自分をここまで虐めるこの世界に八つ当たりしたくて仕方がなかったの。だから色んな場所に行って暴れまくった。有名な武術家に喧嘩売って叩きのめしたり、街中の武館に道場破りして看板ぶっ壊したり、因縁つけてきたヤクザを組織ごとぶっ潰してやったりしたわ。あたしは武林じゃ『烟姫(ミス・スモーク)』なんて呼ばれてるけど、その名が付いたのはちょうどその頃かな。目つきも今よりずっと悪かったわ」


 くぉーんな感じ、と両目の端を指で吊り上げる彼女のリアクションに、菊子は上手く笑えなかった。


 ことさらに笑い話のように話しているけれど、彼女が歩んで来た厭世(えんせい)瞋恚(しんい)に満ちた人生を想像すると、笑うことなどできそうにない。


「……それで、そんな時期が何年も続いたある日、あたしは易ちゃんと出会ったの」

「劉さん、ですか?」

「うん」


 ――頷いた深嵐の表情は、先ほどまでとは打って変わって晴れやかなものとなっていた。


「あたし達が初めて出会った場所は香港の酒場だった。当時の香港はまだイギリス領地でね、西洋人がたくさんいたの。あたしは一人で酒をあおってたんだけど、その最中に酔ったイギリス人船員がセクハラしてきてね、頭に来て一発ぶち込んでやったわ。『高手』の打撃だったから一撃だけでKO確実だったけど、頭に血が昇ってたあたしはさらに痛めつけてやろうとした。――その時よ、易ちゃんが止めに入ったのは。説得を試みてくる易ちゃんに、あたしは「どけ」とだけ言い放った。だけど退かなかったから、そのまますぐに喧嘩に発展しちゃったわ。殺し合いに極めて近い喧嘩、にね」

「……それはまた……」


 引きつった笑みを浮かべる菊子。


 深嵐は苦笑しながら続ける。


「まあ、あの頃は凄まじくトンガってたのよあたしは。話を戻すわね。――若くしてすでに『高手』の域に至ってた易ちゃんは、当然ながら手ごわい相手だったわ。手加減なんかしたらあたしが死にかねないから、本気で応戦した。あたし達の喧嘩はそれはもう凄まじくてね、終わった頃には街路は台風が通過した後みたいな有様になってたわ。あたし達は激情と憤怒の赴くままに痛罵し合い、そして我を忘れて自分の抱える苦しみを怒声で語った。激しい技と言葉を幾度もぶつけ合って、最終的に立っていたのは――あたしだった」


 菊子は息を呑んだ。


「劉さんが……負けたんですか?」

「そうよ。易ちゃんの功夫はかなりのものだったけど、まだ若かった分、技の筋が単調で馬鹿正直な所があったの。一方、あたしの奇影拳は搦め手専門。つまり相性が悪かったってわけ。易ちゃんはおろしたてみたいに綺麗だったスーツをボロボロにしながら、砕けた石敷の上で大の字になってたわ。あたしも無傷とは言えなかった。それでも歩くことは出来たから、びっこ引きながら近づいて、トドメを刺してやろうとした。――だけどその時易ちゃんが放った言葉を聞いて、体が凍ったみたいに止まったんだ」


 深嵐は一度区切りを置いてから、当時易宝が放ったという台詞をそらんじた。


 とても、とても幸福そうに。


「『持ってねぇモンより、持ってるモンに目ェ向けろ! 子供(ガキ)が産めねぇからなんだ!? 旦那や姑に見限られたからなんだ!? 出戻ったからなんだ!? そんな事くらいで自分の人生見限んなよ! お前は生きてんだろ!? ならそれで良いだろうが! 生きてりゃ人間、やれる事なんざ死ぬほどあるっつーの! 世の中に恨み言をつぶやきながら暴れまわるより、ずっと素敵な事だって出来るんだ! 持ってねぇモン、失くしたモンに執着する暇があるなら、今持ってる自分(モン)に目を向けて、それをどうやって使うべきか真剣に考えやがれってんだ!!』」


 当時聞いたままの音声を再現したかのように、激しく、そして明瞭な口調だった。


 ……今のが、劉さんの言葉?


 今話している年寄り然とした口調とは打って変わった、ちょっと乱暴な言葉遣い。要の口調に似ていなくもなかった。


 昔はそういう喋り方をしてたんだなぁ、と思う菊子に構わず、深嵐の話は先へ進む。


「負け惜しみ――とは思わなかった。その言葉は、分厚い壁に覆われたあたしの心の中に透き通るように染み入ってきたの。まるで……長い長い悪夢からようやく覚めたような気分だったわ。そんな風に言ってくれた人なんて今までいなかったから、新鮮に感じたし、それに「ああ、その通りだな」って思った。だけど何より…………凄く嬉しかったんだ。易ちゃんがわざわざあんな風に言った理由は今でも分からない。もしかすると本当に負け惜しみだったのかもしれない。だけど、それでもあたしはそんな言葉を投げかけられて救われた気分になった。易ちゃんの前で膝をついて、あたしは迷子の子供みたいにわんわん泣いたわ」


 そう語る彼女は話していた通り、本当に嬉しそうだった。


 長年の抑圧から開放され、同時に新たに希望を見出したような、そんな曇り一つない晴れやかさ。


「易ちゃんは昔は体が弱くてね、武術で病を克服しなかったら十歳を迎える前に他界していたらしいの。だからこそ、自分の人生を大事にする事の尊さをよく知ってる。あたしはね菊子ちゃん、そんなあの人の考え方に救われたんだよ。ふふっ……ふふふふっ……」


 とうとうこらえきれないとばかりに、くすぐったそうな笑い声さえもらす。


 恥ずかしそうで、それでいて幸せに浸っているような表情と仕草。


 それらは、易宝の事を話すたびに度合いを増していた。


 そして、その反応が意味する「答え」を、菊子の女としての勘が電撃のような速度で導き出した。


 まさか、この(ひと)――――


「まさか深嵐さんって、劉さんの事が……」

「好きよ」


 にこやかに即答。


 呆気にとられた。


「あたしは易ちゃんが好き。愛してるといってもいい。あの台詞を言われた瞬間からよ。だからあたし、あの人の傍にもっと居たいと思った。後々になって、易ちゃんが崩陣拳の正宗三代目だって聞いて、あたしはその崩陣拳を守るための組織『公会(ギルド)』に入ろうと思ったの。あの人が守り続けてる崩陣拳を、あたしも一緒に守りたいって思ったから。でもあたしの悪名は予想以上に広まっててね、組織の秘匿性も相まってなかなか仲間にしてもらえなかった。けど何年も懸命に願い続けて、ようやく仲間入りを果たせたんだ」


 「苦労したわよホントにー」と笑い話のように語る深嵐だが、菊子は尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


 彼女は想い人のために何年も時間をかけて努力し、そして見事に目的を果たしたのだ。どうして尊敬せずにいられようか。


 ――そう。彼女はただ易宝の(・・・・・)ためだけに(・・・・・)頑張ったのだ。自分が「持っているモノ」の一つであった「時間」を、易宝のために使ったのだ。


「わたしは……」


 菊子は自分自身が恥ずかしくなり、深くうなだれた。


 自分は、好きでもなんでもない武術を「要のために」と頑張ろうとした。けれど、それは本当は要を思っての行為ではなかった。自分本位な焦りからだ。


 そんな愚かな自分の頭に、白く美しい手が添えられた。その手は黒髪をさらさらと撫でながら、


「あたしの生い立ちを参考にしろ、なんて居丈高な事は言うつもりはないわ。でもね菊子ちゃん、人間、誰かの何かが羨ましいと思ってる時ほど、自分が今持ってるモノが見えにくくなっているものなの。けど、すでに自分の手元にあるモノが、案外一番の武器になるんだとあたしは思う」

「今……わたしが持っているもの……ですか?」

「そうよ。あなたは自分の事を何も無い人間だって言ってたけど、何も無い人間なんているわけないわよ。生きてる以上、人間は否応なく蓄積をしていくものなんだから。菊子ちゃんの今の「蓄積」の中にも、きっと輝くモノが埋まってると思うな、あたしは」

「深嵐さん……」


 熱くなった目頭で、目の前の美女の顔を見上げる。その美女の顔は、少しバツが悪そうにはにかんでみせた。


「ごめんね。なんか、上手い助言になってなかったかもしんないわ。だけど、どうしても何か言ってあげたかったの。菊子ちゃん、辛そうだったんだもの」

「いいえ。ありがとうございます。……少し、元気が出ました」


 菊子は目元ににじんだ涙を袖でぬぐうと、力強く微笑みを作って意気込んだ。


「わたし、焦って自分の事しか考えてなかったけど、深嵐さんのお話を聞いて目が覚めました。馮さんの武術は、小さい頃から地道に積み重ねてきたからこそ価値があったんです。素人のわたしなんかが一日二日練習して身につくものじゃなかったんです。だからわたし、今自分にあるものを探して、それをカナちゃんに見てもらいたいと思います」

「ふふふっ、良い子ね。あたしが男だったら放っとかないくらいっ」


 「えいっ」と菊子を腕の中に抱き寄せる深嵐。自分よりずっと豊満な胸の谷間に顔を埋められる。


 かぐわしい匂いと柔らかな感触に包まれながら、ささやかれる声にじっと耳を傾けた。


「――大丈夫。相手の事を考えて接すれば、相手もきっとその気持ちに応えてくれるから。そして仮に……その恋が叶わなかったとしても、そのときの頑張りは決してあなたの人生の中で無駄にはならないわ。保証する。だからくれぐれもあたしみたいなアバズレにならないようにね」

「……深嵐さんはアバズレなんかじゃありませんよ。すごく素敵な女の人です」

「うふふ、ありがと。めちゃんこ嬉しいわ」


 包容がきつくなる。しかし、苦しくはなかった。


 深嵐の柔らかさ、暖かさ、香り、それら全てが揺りかごのように心地よかった。ずっとこうして体を預けていたいくらいに。


 しばらくして、深嵐がこちらに回した腕をそっと解いて離れた。菊子は少し名残惜しい気分になる。


「それじゃ、ガンバ」


 いつもの茶目っ気たっぷりなスマイルを見せたまま、深嵐はその場から"消失"した。


 相変わらず原理が分からない技だが、これで菊子はまた一人になった。


「……よし!」


 菊子は小さく気合いを入れ直し、深嵐が指し示してくれた方向へ爪先を向けた。


 自分にある『持ってるモン』というのが一体何なのか、まだ良く分からない。


 けれど、それは人に教わるものではない。自分の事なのだから、自分で見つけるべきなのだ。


 そして、そのことを教えてくれただけ有難かった。


 いざ、前に進もうとした、その時だった。




 ズドンッ!! と、菊子の向かう先から雷が落ちるような音が轟いた。




 それから刹那ほど後に、大地が震えた。瞬間的な振動だったが、凄まじい揺れ幅だった。まるで一瞬だけ直下型地震が起こったかのように。


 轟音に驚いた森の野鳥達が我先にと空へ逃げていく。


 聞こえてくるのは、羽ばたきの音、木々の枝葉がざわめく音。そして轟音の音源の辺りからは――メキメキという乾いた音。


 ズシン、という重量感のある音を聞き取った事で、そのメキメキという音が、木が折れる音である事を確信する。


 轟音が鳴ってから、菊子はずっと立ちすくんだまま動けずにいた。


 心音も早鐘を打っていて苦しい。まるで持久走を終えた後みたいだ。


 先ほどの凄まじい音に、生物として本来持っている危機察知能力がけたたましく警鐘を鳴らしていた。これ以上進むな、しばらくここで待っていろ、と。


 けれど、向かわないわけにはいかない。


 なぜなら音がした方向は――要がいた大樹の広場がある方向なのだから。


 木が折れる音は、轟音の後に聞こえて来たのだ。ならばその轟音こそが、木が折れる原因となった「何か」が発したものである事は明白。


 胸騒ぎがする。


 菊子は数回深呼吸を繰り返して心を落ち着けてから、鋭く吐気して気合いを入れた。


 地に張り付いたように動かない足を、強引に前へ踏み出させる。


 さらにもう一歩。もう一歩。もう一歩。


 最初は泥沼の中を歩くように鈍重な足並みだったが、徐々に、しかし確実に速まっていく。


 やがて走り出せるようにまでなった菊子は、一直線に前進したのだった。

 

読んで下さった皆様、ありがとうございます!


最近、タッチタイピングを練習し始めました。

執筆速度向上に役立てばいいな(´д`)


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