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第十一話 攻略される側


「うううぅぅ…………気持ちわりぃ…………」


 自らの寝室である西廂房のベッドに横たわりながら、要はただただ呻いていた。


 初めての気功術の修業が終わった後、二人の少女の愛情たっぷりな朝食をいただいたのだが、それらの量がいかんせん多かった。


 奐泉が用意していた朝食のおかずは、肉がたっぷり盛られて山を形成していた。はっきり言って朝に食う量ではなかった。見ているだけで胃もたれがした。


 一方、やたらと重い菊子のお弁当箱には、ビッグサイズの不格好なおにぎりがぎゅうぎゅうに押し込まれていた。料理はあまりしたことがないらしく、弁当のメニューもおのずとおにぎり一色となったそう。そしてとにかく、その量が尋常ではなかった。見てるだけで腹が膨れそうだった。


 正直言って、どちらか片方だけにしたかった。


 しかし、少女たちの期待の眼差しを前にして、片方を切り捨てることがどうしてできようか。


 要は男の意地を張った。


 ……そして、この体たらくである。

 

 二人分の食事を強引に腹に押し込んだ結果、当然ながら胃袋は要領オーバー寸前となり、とんでもない膨満感に苛まれた。


 二人の想いに比例して腹が重い。今にも口から戻してしまいそうだった。


 そして、そんな苦しみを味わうこと約二〇分。


 最初に比べて結構落ち着いてきた。しかし未だにベッドから離れられない。激しい運動などしようものならリバース確実だった。


 ――こりゃ、午前中に動くのは無理そうだ。


 午前中の予定が決まった。ここでひたすら休むことである。


 要は近くに置いてあったリモコンを手に取り、スイッチを入れた。ピピッ、という一瞬の電子音とともに、部屋のエアコンが起動。


 むおー、と冷たい空気が吐き出される。


「うふふふ……」


 肌を撫でる心地よい涼風に、思わず笑みが浮かぶ。あー気持ちいー。


 数分で、部屋は冷たくなった。


 そのため、お腹がパンパンな状態でも考えを巡らせる余裕が出来た。


 当然ながら、奐泉と菊子の事である。


 突然の告白。しかも二人同時。


 自分は今はどちらも選ぶことはできない。気持ちが二人のどちらにも向いていないからだ。


 しかし彼女たちは、その気持ちを自分に向けさせようと頑張っている。


 あの二人の気持ちはどこまでも真っ直ぐであった。


 けれども、その気持ちが本物であればあるほど――ますますどう接していいのかわからなくなる。


 あの二人は一生懸命頑張っていた。それを見ていると、あの二人のどちらか一方に気持ちが傾かないことが、申し訳ない事のように思えてくるのだ。


 二人の努力を無駄にしてしまう。そんな気がするから。


「……どうしようかな……ほんと」


 思わずそんな弱音がこぼれる。


 その声からほとんど間を置かずに、西廂房の両開き扉が開いた。


「お邪魔してもいいかしらぁ?」


 微かに開いた扉の隙間から、にゅっと深嵐の顔が出てくる。


 いきなりの登場に少し驚きつつも、「どうぞ」と言って許可した。


 深嵐が悠然とした足取りで室内へ入ってきた。


 「あーすずしー、もう出たくなーい」などと気の抜けた声を出しながら、要の寝転がるベッドへと歩み寄り、その端っこへ尻を乗せた。


 要の顔を覗き込みながら、


「具合はどぉ?」

「あ……はい、もう結構大丈夫になってきました」


 深嵐は要の無謀な食いっぷりを見ていたので、それによってぐったりしている事も当然知っていた。


 具合が良好になってきている事を聞いて一度微笑んだ後、彼女は不意に真剣な表情となってこちらを見据えてきた。


 どきり、とする。一昨日に奐泉と散手をする前もそうだったが、普段おちゃらけた態度を取る彼女が真剣な表情になるところを見ると、否応なしに驚いて心音が高鳴る。


 ウン十歳とは思えない瑞々しい唇が、静謐な空間に波紋を起こした。


「――もしかして、「二人の努力に答えなきゃ」とか思ってたりするんじゃないの?」


 虚を突かれた気分となった。


 今思い悩んでいることを、的確に突かれたからだ。


 要は数秒黙りこくった後、参ったとばかりに言った。


「……すごいですね。『高手(ガオショウ)』ってそんな事まで分かるんですか」

「二人の料理をこれでもかと口に突っ込む要ちゃんを見れば、誰だって分かるわよぉ」


 深嵐が苦笑する。


 しかし、それもすぐに真剣な表情の中に隠れてしまった。


「はっきり言うわ、要ちゃん。――そんな失礼な真似はやめなさい」


 少し鋭さを持った語気。


 ――失礼? どうして失礼なんだ?


 あの二人の努力を無為にする事の方が、よほど失礼なんじゃないのか。


 要はその気持ちをそのまま深嵐へぶつけた。


 すると、凄まじいほどの溜息をもらしつつ、呆れたように言った。


「……なーるほど。こりゃ強敵だわね。ほんと、易ちゃんにそっくり。あの娘たちの恋路は前途多難ってわけね」


 なにやら一人で納得した様子。


 その態度に、要は少し苛立ちを感じた。まるで自分だけがのけ者にされているような気分だったからだ。


 そしてそんな思いを読んだかのように、深嵐は言った。


「要ちゃん、キミ、恋したこと無いでしょ」

「え?」


 いきなり何言ってんだ。


 そう思いながらも、要はグッと飲み込み、素直に答えた。


「……無い、ですけど」

「やっぱりね。なら、この際だから教えておいてあげる。恋ってのはね、しようと思ってするものじゃないのよ。ふとした瞬間、心に舞い込んでくるものなの」


 心に舞い込む。


 考えてみたけど、いまいちピンとこない。


「……よく、分からないです」

「頭で理解しようとしても、出来るもんじゃないわよ。それと、勉強の予習復習みたく、事前に知っておく必要も無いわ。恋はね、した瞬間に初めて分かるものなんだから」

「……やっぱり、よく分からない」

「だから、分からなくてもいいんだってば、今は」


 手のかかる生徒に物を教える教師よろしく、深嵐は頭を掻きながら苦悩する。


「そして、あの娘たちが望んでいるのは、要ちゃんの「そういう気持ち」なのよ。それが欲しいから、あんなに早起きしてまで頑張ってるの。だけど、キミのしようとしていることは、自分の気持ちを安売りすることに繋がるの」

「そ、そんなつもりは――」

「無いわよね。でも、実質そういうことになるの。「正直、あの二人に気持ちは向いてないけど、無碍にするとかわいそうだからどちらにも良い顔しておこう」。どうかしら? あの娘たちの真心をゴミ同然に蔑ろにするのに、これ以上の気持ちってあるかしら?」


 ことさらに煽るような口調を聞き、カチンと来た。――外野から見てるだけのくせに。好き放題言いやがって。


「……なら、どうしろってんだよ」


 押し殺した声で言う。


 答えられるもんなら答えてみろよ。


 そういった投げやりな気持ちから出た言葉だが、一方で期待していた。


 自分に出せない答えを、出してくれるのではないのかと。


 要の無礼な態度など一切気にしない様子で、深嵐は答えた。


「待つことよ」


 と。


 要は呆気にとられた表情で、


「待つ、ですか?」

「そう。あの二人は要ちゃんに振り向いて欲しい一身で頑張ってる。言うなれば「攻略する側」。対して要ちゃんは「攻略される側」。なら話は簡単よ。黙って攻略されればいいの」

「そ……そんなんで良いんですかね。男として」

「なら、他に良い方法が思いつく?」


 そう問われ、要はぐっと黙りこくった。確かに、何も思いつかない。


 深嵐はにっこり笑って、同じような事を再び口にした。


「要ちゃん、こういう場合、男か女かどうかなんて関係ないの。恋愛問題において、するべきことを決定づける要素は性差(ジェンダー)じゃないの。立ち位置(ポジション)なの。要ちゃんは口説かれる側で、あの二人は口説く側。なら、要ちゃんの役目は、あの二人に落とされるのを待つ事よ。アプローチに対して素直な反応を見せてあげる事で、あの娘たちがキミの好みや嗜好を分析して、次の行動に活かせる。ほらね? どっちにも得るものがあるでしょ?」


 なるほど。一応、理にはかなっている話だ。さすがは年長者。


 けれど一方で、疑問が生まれた。


「深嵐さん、あなたは、奐泉の味方じゃないんですか?」


 深嵐はこれまで、菊子か奐泉のどちらか一方に有利になるようなアドバイスは一切していない。まるでどちらの味方でもあり、どちらの味方でもないといった感じだ。


 すると、彼女は得意げに笑いながら言い放った。


「あたしは、恋する乙女全員の味方よ」


 ふんす、と鼻を鳴らし、ドヤ顔の深嵐。


 要はぽかんとする。


 しかし次の瞬間、可笑しさに駆られて吹き出した。


「ははっ、なんですかそれ」

「笑わないのぉ。真面目に言ってるんだからぁ」


 わざとらしく頬を膨らませる深嵐。


「……でも、ありがとうございます。なんだか目の前の霧が晴れた気がしますよ」

「そう言ってもらえると、わざわざ言いに来た甲斐があるってもんだわぁ」


 嬉しそうに言うと、彼女は優雅に踵を返し、戸口へ向かう。


 両開き扉を開けて外に出てから、入ってきた時のように扉の隙間からひょっこり顔を出して言った。


「――頑張れ。男の子」


 まるで、眩しいものを見るような微笑みを浮かべながら。











 五日が経過した。


 要の修業は『周天功』一色だった。経絡の正しい道筋を感覚レベルで体に植え付けるためだ。


 最初は精神を削るほどの集中力を要求されたが、回数を繰り返すにつれてだんだん慣れていき、今では『太極気』を「任脈」「督脈」へスムーズに流通させることができるようになっていた。


 気功術はレベルアップ。


 そして、恋愛問題もレベルアップ。

 

 菊子と奐泉はいつでもどこでも引っ付いてきた。しかし拒否したい事はきちんと拒否できるようになった。彼女たちの気持ちを分かりつつも、自分の都合も考慮して判断を下せるようになったのだ。これもひとえに深嵐のおかげだろう。


 ――気功術に話を戻そう。


 「任脈」「督脈」へ気を円滑に流通させている所を見て、及第点だと思ったのだろう。易宝はとうとう手足の経絡へ『太極気』を移す方法を教えてくれることとなった。


 手足へ気を上手く通せるようになったら、発力と『太極気』を同時に用いることで、その威力をより強大なものに出来るらしい。


 空は夜明け前。場所はここ最近お馴染みの、大樹の広場である。


「さて、これから手足へ気を通すための方法を教えるが、その前にあらかじめ教えておいた経穴の位置は予習してきているかのう?」


 目の前に立つ我が師の言葉に要はもちろん、と頷く。


 この指導の前、易宝から手足の経絡の途中にある経穴の場所を教えられ、それを事前に覚えさせられたのだ。そうした方がいちいち修行中に覚える必要がなくなり、時間を消費せずに済むからだ。


 「任脈」「督脈」に比べればそれほど経穴の数は多くなかったので、覚えるのに難儀はしなかった。


「よし。ならとっととおっぱじめようか。いつも通り、『太極気』を丹田に作り出せ」


 要は頷くと、即座に行動に移した。


 『融声』によって精神を安定させる。


 頭頂部の経穴「百会(ひゃくえ)」から『阳気(ようき)』を吸入し、丹田へ移動。それによって体内に元々ある『阴気(いんき)』と合一し、『太極気』が生まれた。腰全体の重量が増す感覚。


 もうここ数日で慣れ親しんだ技術である。


 さらに気功術にある程度馴染んだことによって、周囲の空間に漂う『阳気』の濃度がわかるようになった。


 大地から膨大な(エネルギー)が終始吹き出し続けるこのボルテックスでは、コップいっぱいのドリンクをストローで吸うがごとく『阳気』をとり込める。他の場所でも『阳気』の吸入を試してみたが、この場所ほどスムーズに吸い込めなかった。


「最初に、足へ気を通す方法を教える。カナ坊、まずその『太極気』を会陰(えいん)まで運ぶんだ」


 『太極気』を百会へ戻し、そこから体の中心線に通う「任脈」を介して、尾てい骨にある会陰まで到達させる。


「そしたら、どちらの足でもいい。昨日教えた「髀関(ひかん)」「足三里(あしさんり)」「厲総(れいそう)」の順に気を通過させ、足裏の「湧泉(ゆうせん)」でいったん止めろ」


 要は前もって覚えておいた経穴を思い出しながら、『太極気』にそれらをゆっくり慎重に通過させた。


 骨盤の端にある「髀関」――膝小僧のすぐ下にある「足三里」――足の中指の付け根にある「厲総」――足裏のある「湧泉」。


 右足の表面に走るそれらの経穴を通過させ、気を足裏まで運んだ。


 そして、そこで一度ストップさせた。


「次に、太腿の裏にある「承扶(しょうふ)」を通過してから、「督脈」を通わせ、大椎(だいつい)でまた止めろ」


 気の塊を右足の裏面に通し、背中に垂直に伸びる経絡「督脈」へと移動させる。


 そのまま『太極気』に「督脈」を登らせ、うなじの辺りにある経穴「大椎」まで来たところで停止させた。


「今度は手へ向かって気を通し、そして再び体の中心へ戻す方法だ。足と同様、どちらの腕でも構わん。「肩髃(けんぐう)」「曲池(きょくち)」「合谷(ごうこく)」「商陽(しょうよう)」の順に移動させるんだ」


 要は左肩へ『太極気』を移動させた。


 肩口の経穴「肩髃」――肘裏の経穴「曲池」――親指と人差し指の間の経穴「合谷」――人差し指の爪の下にある経穴「商陽」。


 左手人差し指の先にとどまった『太極気』。熱した鉄の指輪をはめているように暖かい。


「次は「労宮(ろうきゅう)」「内関(ないかん)」「尺沢(しゃくたく)」「中府(ちゅうふ)」の順に通してから「大椎」へ戻せ」 


 手のひらの中央にある「労宮」――前腕部の中央辺りにある「内関」――先ほど通った「曲池」の隣にある「尺沢」――「肩髃」の隣にある「中府」――


 左腕の表面をUターンする形で『太極気』は体の中心へ戻っていき、やがて「大椎」へ到る。


 途端、易宝は納得したように頷いた。


「――いいぞ、一旦やめだ」


 要の集中が途切れる。その瞬間、大椎にとどまっていた『太極気』が分離。『阴気』は経絡を流れる気の中へ溶け込み、『阳気』は頭頂部の百会から外界へ逃げ去った。


 ふー、と深い溜息をもらす。


「いいぞ、中々よくできておった。少々『太極気』の運用速度がのろいが、手足に気を通すのは初めてなのだから仕方あるまいな」


 額に浮かんだ汗を前腕で拭い去ると、要は易宝に尋ねた。


「今の経絡って、両腕両足共通だよな?」

「そうだ。先ほどおぬしは右足と左腕に気を通したが、同じ方法でもう片方の手足にも気を通すことが可能だ。言ったであろう? どちらの腕や足でも良いと」


 師のその言葉に納得して、頷く。


「もし突きや蹴りに気の力を使いたいのであれば、『太極気』を打撃に使う手か足に移動させればいい。そうすれば通常の打撃力がさらに強くなるだろうよ」

「それじゃあ、それを早く教えてよっ」


 興奮気味な要の要求を、易宝は「まだダメ」と断じた。


「おぬしには先ほど手足の経絡を教えたばかりであろう? 「任脈」「督脈」と同様、まずは経絡の正しい道順を体に覚え込ませ、いざという時にサッと気を通せるようにするのだ。特に気を用いた打撃は、武術特有の精緻な体術と合わせて用いるからのう。余計に集中力が求められる」


 要は少しがっかりした。固い木の中身をおがくずに変えるほど優れた打撃を、自分も覚えてみたいと感じたからだ。


 先はまだもう少しあるみたいだ。できれば今すぐ覚えてみたいところだが、我が師の命令ならば仕方あるまい。


 なので、今度は話題の矛先を少しだけ変えた。


「それじゃあさ師父(せんせい)、俺の技を全部受け切ったあの防御力あるよね? あれも気功術なんだろ?」

「……ああ、あれか。あれくらいなら、すでにおぬしでも使えるはずだぞ」

「マジかっ?」


 要が食いつくと、易宝は歩み寄ってきた。


「良い機会だ。カナ坊、腹に『太極気』を集中させてみろ。わしはそこを打ってやろう」

「え……」

「そんな警戒心をむき出しにするな。きちんと加減はする。ほら、早よ」


 半ば強引に促されるまま、要は呼吸とともに『阳気』を体内へ吸収し『太極気』を作った。それを腹部まで移動させる。

 

「……できたけど」


 告げると、我が師は「よし」と頷き、拳を拳窩(わきばら)へ引き絞る。太い鋼鉄のバネが縮んで力を溜めているような凝縮感を感じさせる構え。これから強烈な一撃が放たれるであろうことが容易に見て取れる。


 要は緊張しそうになる心を必死で御する。言うとおりにすれば大丈夫だ、師父を信じろ。むしろここでビビッて気を霧散させた方がもっと痛い目を見る。腹へ集中、集中、集中。


 やがて、易宝は発した。


「カッ!!」


 鋭い吐気とともに、正拳が爆進。地をゆるがしかねないほどの震脚とともに、要の腹へ激しく衝突した。


 こんなの食らったら死ぬほど痛いだろ――直撃寸前、要はそんなことを考えていた。


 しかし、体が大きく後ろへ吹っ飛びこそしたものの、予期していた激しい痛覚はやってこなかった。


 まるで皮の中に鉄板を仕込んだように腹部が硬くなり、易宝の拳打が深くめり込む事を許さなかったのだ。


 ごろごろと草のカーペットを転がりながら、要は確信していた。


 ――気功術での防御が成功した。


 止まってからすぐに立ち上がり、易宝の元へ駆け戻った。痛みだけでなく、ダメージもかなり軽減されていたため、問題なく動ける。


「どうだ? 痛かったか?」

「全然!」

「ならば成功だな。今のが気の力を使った防御だ。痛覚とダメージを減らす事ができる上、浸透勁の防御にも使える。武術の戦いにおいては非常に重宝する技術だが、使うたびに体力を消耗するため、無闇な使用は控えることだ」

「もし使いすぎたら、どうなるの?」

「気絶する。いや、この防御技術に限らず、気功術の技法のほとんどは、使いすぎたらそうなってしまう。肉体は体内の気が枯渇すると自己保存の機能を働かせ、強制的に休眠状態にする。だから実戦では、使いどころを考えねばならん」


 「それともう一つ」と人差し指を立て、易宝は再度口を開いた。強い口調で。


「気功術は――同じく気功術を使える相手以外には絶対に使うな。防御は構わんが、攻撃に気を使っては絶対にいかんぞ」

「……もし、使ったら?」

えらい事(・・・・)になる」


 やけにオブラートに包んだ表現だが、それでもその中にある意味合いの恐ろしさは隠しきれていない。


 "えらい事"とは、危険という意味だ。そしてそれは自分ではなく、相手の危険。


 つまりこう言いたいのだろう――「殺してしまうかもしれない」と。


 要は実弾の入った拳銃をパスされた気分になった。今自分の中に、他人を高確率で死なしめる力が宿ってしまったのだ。今の易宝の言葉を聞いたことで、それを明確に感じた。


 恐ろしく感じた。手に乗っかった拳銃をどこかに捨ててしまいたい衝動に駆られそうになる。


 しかし、要はかぶりを振る。


 楊氏は自分の事を、崩陣拳を受け継ぐに値する『神に最も近い人間』と呼んだ。


 その最大の特徴を思い出してみるといい。


 ――修羅に落ちる確率が、常人よりも低いこと。


 それはすなわち、崩陣拳という世界最強の凶器を理性的にコントロールすることが、自分であれば可能だという意味に他ならない。


 そう。拳銃が人を殺すのではない。それを持ち、引き金を引く人間が殺すのだ。


 銃を持たない相手に銃口を向けたいか? いたずらに引き金を引きたいか? 


 ――否。


 そのたった一文字によって、心の整理が綺麗についた。


 きっと、顔つきにも明確な変化が現れたのだろう。易宝は要の表情を見てふっと優しく微笑んだ。


「さあ、もう雑談はここまでだ。ここからはひたすら実技あるのみ! 手足の経絡に気を通す感覚を、体に染み込ませるべく精進せよ!」

「はい!」


 威勢良い返事の後、再び修行に取り組むのだった。






 ◆◆◆◆◆◆






 ――同日。正午にて。


「……皆、集まったな」


 十畳ほどの小部屋にある円卓。「男」はそこを囲って座る三人の男を見て、満足げに頷いた。


 ここは北京市懐柔区のとある場所にある喫茶店だ。そのカウンター奥にある客間がこの部屋である。

 

 壁に吊るされた赤い倒福、ドアの隣に貼られた春聯(しゅんれん)、棚の上に置かれた龍のガラス細工。洋風の装いを持った店内とはうってかわり、この客間を彩る飾りは中華一色だった。


 表向きは喫茶店として振舞ってこそいるが、この店はその実、とある秘密結社の隠れ家である。規模は小さいが、歴史と伝統のある組織だ。


 秘密結社と言えば、普通の者ならばマフィアやヤクザを思い浮かべるかもしれない。しかし秘密結社もピンからキリまでで、まさしくヤクザの典型といった組織もあれば、伝統と道理を重んじる質実剛健な組織もある。……もっとも、後者は絶滅危惧種だが。


 「男」は、昔繋がりのあった結社の一室を借りて、中国各地から昔の仲間を呼び出した。穏やかではない話になるため、場所を選ぶ必要があったからだ。


 室内は窓が無い密室であり、おまけにクーラーなどという気の利いた物も無いため暑い。しかし「男」を含め、円卓を囲う者は誰一人として汗の一滴もかいてはいなかった。丹田に意識を集中させていると、熱気が和らぐのだ。


 それに皆、椅子の座面の半分ほどまでしか尻を乗せていない。これは昔日の武術家の着席法だ。あえて座面全部には座らず、半分だけに腰を下ろす。そうすることで座っている最中でも両足をしっかり床につけ、いつでも脚力を使う事ができるようにしておく。くつろぎつつも、常在戦場の心得を忘れていない証である。


 ――それを見て、「男」はこの面々が、平和に腑抜けていないという事を確信する。


 彼らは日中戦争時代、「男」とともに抗聯として戦った同志達だった。


 全員『高手』であり、武林では名の知れた古強者だ。


 そして、反日感情も人一倍強い。


 ……そういう人間だけ(・・)を選別してここまで連れて来たのだ。

 

「……お前の言った話は以前噂に聞いていたが、真実だったのか」


 テーブルに座する男の一人が、「男」に訊いてきた。一九〇センチを優に超える「男」と同じほどの背丈をした、長身痩躯の男だった。


 彼は終止冷静さを崩さない。けれど"噂"とやらについて言及した今の彼は、周囲を圧迫するような沈黙を放っていた。


 ――彼の言っている"噂"とは「日本人の子供が崩陣拳を受け継いだ」という話だ。


 対し、「男」は無言で頷く。


 途端、「バンッ」と円卓を叩く音。


「『公会(ギルド)』の連中、気でも触れたか!? 我ら漢民族の秘法を、鬼子(グイズ)の片割れに差し出すとは!」


 長身の男の隣に座っていた小柄な男が、憤然と声を張り上げた。


 彼は小柄な見た目に反して、気性の激しい性格だ。おまけに日本軍に財産を接収されたという過去も相まって、これほどまでに怒りを燃やしている。


「ふん。連中も所詮、真珠の価値が分からん豚の群れだったというわけだね。そうでなければ、崩陣拳を島国の野蛮人どもに差し出すわけがないよ」


 さらにその隣に座る三人目が、皮肉混じりにそう口にした。二人の中間くらいの背丈をした、中肉中背の男だ。


 今の発言から分かるように、彼はひねくれた皮肉屋だ。「男」は昔から彼の事が気に食わなかったが、武術の腕前だけは心から認めていた。


 皆、三者三様に怒りを見せている。各々の手元に龍井(ロンジン)茶の入ったグラスが置いてあるが、中身は全く減っていなかった。


 ――これならば、自分の計画に賛同してくれるだろう。


 そう確信しながら、「男」は畳み掛けた。


「どうだ? これは冗談ではない。今起こっている現実だ。お前たちは許せるのか、奴らの愚行を。忌々しい鬼子の血を引く餓鬼に崩陣拳の全伝が渡る所を、指をくわえて眺めていられるのか?」


 バンッ。最初にテーブルを叩いていきり立ったのは、小柄な男であった。


「否だ!! 断じて許してはならぬ!! 『公会』は崩陣拳の価値を全く理解していない!! 金塊を糞壺に捨てようとする行為と何の違いがあろうかっ!?」


 続いて、長身の男が冷静な、しかし内心の憤りを隠しきれていない語気で言った。


「こいつの言う通り、捨て置けない所業だ。『公会』の連中には、自分たちの行いがいかに愚かしい事であるかを知る必要がある」


 最後に、中肉中背の男が皮肉に尖った口調でうそぶいた。


「正直、崩陣拳の事情なんか知った事じゃないが、日本人なんかが受け取るのは気に食わない。獣にダイヤモンドを与えて大喜びしている連中は哀れすぎて見るに堪えないよ」


 ――決まりだ。


 「男」は温存しておいた一言を、最高のタイミングで放った。


「――協力してくれるか?」


 三人はそろって首肯した。


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


エアコンは毎年七月半ばから使うって決めてたのに、あまりに暑いため、今年は我慢できず六月中に使ってしまったでござる(´;ω;`)

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