第十話 周天功
そこは礼拝堂だった。
マホガニーの両開き扉を始まりに、左右側廊に並ぶベンチの間を貫くようにして内陣へ伸びたバージンロード。大きな十字架がある内陣。外部から日光を受け、聖母マリアの意匠を色鮮やかに輝かせるステンドグラス。
内陣には神父が一人と、その前で向かい合う一組の男女。
――工藤要は、男の方だった。
普段は着ないような白いスーツに身を包み、姿勢を正して目の前の女性と対面していた。
そう――倉橋菊子と。
露出度が低いいつもの地味な長袖長ズボン姿ではなく、神々しい純白のウェディングドレスに身を包んでいた。長く美しい黒髪とのコントラストによって、侵すべからざる神秘性が際立っている。
薄いベールの下にあるのは、これまで何度も見てきた少女の顔。
しかし今日はその並外れた美貌に化粧を加え、さらに磨きをかけていた。ダイヤの原石をカットして宝石に変えたかのごとく。
その姿をひと目見ただけで、心臓を貫かれたような気分となった。
普段とは違った魅力を持つ彼女の姿に目を奪われながらも、要は冷静に考えた。
――どうして俺は、こんな所にいる? ていうか、今、何やってるんだ?
要の考えに気づいているのかいないのか、菊子は熱のこもった眼差しを向けながら言った。
「やっと……ここまで来れたね。わたし、ずっと夢だったの。こうやって綺麗なドレス着て、こういう教会でカナちゃんと結婚式を上げることが……それが今日、やっと叶うんだね」
……ああ、そうだったっけか。俺、キクと結婚するんだった。
言われてみれば、そういう場面だった。
そして思い返してみると、何年にもわたって菊子と一緒に築き上げた思い出の数々が脳裏をよぎった。
左右側廊のベンチは出席者で埋め尽くされている。みんなこちらを見ていた。
よく知った、あるいは多少顔見知りな人もいれば、全く知らない人もいる。
その中には当然、新郎新婦の両親も混じっていた。
菊子の母である京子はとてもニコニコしながら、父の菊之丞は悔しさ半分嬉しさ半分といった涙を流しながら、娘の艶姿を見つめていた。
工藤家の両親は、どちらも微笑ましげな顔。
なんと、出席者の顔ぶれの中には易宝の顔まであった。隣で滝のように号泣する臨玉をなだめながら、一人前の男になった弟子の姿を誇らしげに見ていた。
「カナちゃん……愛してます。これからどんな事があっても、あなたと手を繋いで生きていきたいです。おじいちゃんおばあちゃんになっても、ずっとずっと一緒にいてください」
見る者の意識を奪いそうなほど眩しい笑顔を、こちらへ真っ直ぐ向ける菊子。
――キクとなら、良いかもしれない。
――キクとなら、この先上手いこと付き合っていけそうな気がする。
――キクとなら、一緒にいて楽しいし、心地いいし、癒されるから。
でも、それって愛情って言えるのだろうか?
どうしてだろう。結婚を決めた身だというのに、恋愛感情に関する定義が全く思い浮かばない。
こんな気持ちで、自分はこの娘と添い遂げようというのか。
それはなんだか、この娘に対する冒涜のように思える。
その時だった。
バァン!! 両開き扉が勢いよく開け放たれた。
「その結婚、ちょっと待ったぁぁぁ――――――!! ですわ!!」
そして姿を現したのは、菊子と同じく、純白のウェディングドレスに身を包んだポニーテールの美少女。
馮奐泉だった。
彼女はバージンロードをずかずかと進み、二人のいる内陣まで近づく。
そして、要の片腕を抱きしめ、挑むように菊子へ告げた。
「カナ様はわたくしと結婚する約束なのですわ! 貴女の出る幕はありませんの! とっととお帰りくださいましっ!」
菊子は「…………え……」と、絶望的な表情で押し黙った。盛大に持ち上げられてから一気に投げ落とされたといった感じだ。
礼拝堂全体がざわついた。
そんな周囲に一切構わず、奐泉は甘えるように要に言った。
「さぁカナ様ぁ、わたくしを貰ってくださいな。そうしたら誰もが羨むような贅沢暮らしをさせてあげますわよ。二人で仲良く、子供も作りながら、幸せな家庭を築きましょう」
ちゅっ。頬に軽くキスをされる。
それに対して照れる余裕さえなかった。
二人の女と結婚の約束をするだって? そんなの、とんでもない最低野郎だ。
――そして、その最低野郎がここにいた。
要は必死に記憶を探り、そして掘り当てた。――信じられないことに、自分は奐泉にも結婚の約束をしていた。ウソだろおい。
「……ぐすっ…………酷い……わたしのこと、ずっと騙してたの…………? わたしとは遊びだったの…………? あれだけ言ってくれた「愛してる」って言葉は、全部ウソだったの…………?」
菊子がすすり泣きしながら、か細い声で訊いてくる。目元からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
さーっと、顔が青ざめた。記憶がきちんと入っている以上、否定することができない。
さらに、弱り目に祟り目。ベンチにいる出席者が、ブーイングよろしくどよもした。
「おのれ工藤君、見損なったぞ!! 純朴な我が娘をたぶらかした罪、素っ首で償ってもらうッ!!」
怒り狂った菊之丞は憤然と立ち上がり、手元の日本刀を鞘から抜き放った。――って、そんなもんどこから出したんだよ!?
「旦那様、どうかお納めください」
すると、臨玉は菊之丞の前へ風のような速度で立ちはだかり、そう静止を訴えた。
要はひとまず安堵の溜息をつく。
よかった。やっぱり夏さんは冷静――
「工藤くんの、いえ――工藤要の処刑は私が行います。あなたがその手を汚すまでもない」
――なわけがなかった! 大切なお嬢様が泣いているんだ。その原因を作った俺はどんな目に遭わされるか分からない!!
「……そうか、分かった。私も一応は最高経営責任者だ。このような下衆の返り血で社の御旗を汚したくはない。お前に任せよう、臨玉」
分かるなよ!? ある意味日本刀で斬られるよりとんでもない事になるぞ!?
臨玉がコツリ、コツリとゆっくり歩み寄ってくる。足取りは軽やかだが、踏みしめる圧力は巨人のごとく重々しく見えた。
「……残念だよ、工藤要。こんな形で君とお別れしなければならないだなんて。ああ、残念でならない」
口調こそ落ち着いているが、濃密な殺気の波をひしひしと感じる。
「ち、違うんです、夏さん。きっと、何かの間違いです」
「言い訳は、血祭りに上げた後でゆっくりと聞かせてもらうよ」
いや、血祭りって……それ、俺死んでるよね。死んでたら話聞くことなんかできないじゃん。
臨玉はおもむろに手刀を引き絞る。
「では――――再見!!」
そして、それを閃光のような速度で真っ直ぐ突き放った。
「キャ―――――――――――――!!」
かなめは めのまえが まっくらに なった!
「――――カ――――ろ――――カナ――きろ――――カナ坊、起きろっ」
その声に意識を引っ張られるように、要はハッと目を覚ました。
見慣れぬ天井。嗅ぎなれぬ空気の匂い。ぬるい気温。そして、視界の片隅からこちらを見下ろす易宝の顔。
「せん……せい……?」
要は思わずそうこぼす。
対し、易宝はようやく面倒事が片付いたとばかりにため息をつく。
「やっと目を覚ましたか。早く着替えて外へ出ろ。これから『気功術』の練習をするからな」
「今、から?」
要は言いながら、中華風の装飾が施された窓を見る。外の明るさは、まだ夜明け前のソレである。薄暗い。
「そうだ。気功術の訓練は、腹が空っぽの時の方がやりやすいんだ。空腹な分、外部から気を取り入れやすくなる。それに今なら気温も低めだしのう」
「そっか……よいしょっと」
納得できる理由を聞いて、要はすぐに体を起こした。
寝間着に着ていたTシャツを見ると、ぐっしょりと汗ばんでいた。
要の寝室となっているこの西廂房にはエアコンが配備されている。昨晩はタイマー付きで冷房をかけて寝たのに、どうしてここまで汗をかいているのだろう。
……いや。考えるまでもなく、あの夢のせいだ。
思い返すだけでも恥ずかしく、そして罪悪感を感じずにはいられない夢だった。夢であったことがこれほどありがたかった事は今までなかった。
「そういえば、寝ている時ずいぶんとうなされていたが、どんな夢を見ておったんだ?」
易宝の何気ない問いに対し、要は暗く沈んだ声で答えた。
「…………とある最低野郎の末路」
Tシャツに功夫ズボンという練習着に着替え、易宝に案内されるままやってきた場所は、やはりあの大樹が生えた円形の広場だった。
「やっぱデカいよなぁ、この樹。これも「ボルテックス」ってやつの影響なのか?」
「うむ。地の底から湧き出す気をうまく取り入れ、ここまで肥大化するに至ったのだ」
「その割には、周りはしょぼい雑草ばっかりだけど」
「ボルテックスの気をうまく使えない個体もある。そういった個体にとって、膨大な気というのはかえって成長を妨げる害になりかねない。食い過ぎで吐くのと一緒だな」
広場の中を歩きながら、そんな話をする。
易宝は大樹を前で足を止め、そして振り返った。
「しかし、こういった場所だからこそ、外界の気を体内に取り入れる訓練がしやすい。まさに気功術初期訓練におあつらえ向きな場所だのう」
師の顔となっていた。
つられて、要も心をひきしめた。
「では、これから気功術の訓練を正式に始める! 始めに言っておく。気功術は身につければ武術的にも健康的にも大きな益となるが、修行法や使用法を誤ると体に害が出る。ゆえにわしの教えたとおりにすることだ」
「はい」
迷わず頷いた。
易宝もまた、納得したように首肯する。
「まず、気功術とは何かについてだ。気功術とは、『阴気』と『阳気』を一つに合わせることで、さまざまな能力を引き出す「技術」のことだ」
続いて、易宝は補足説明を接続してきた。
「『阴気』とは、人間の体内に存在する気。対して『阳気』とは、外界を絶えず流動している気。それら二つの気を体内で融合させて『太極気』という特殊な気を作り出し、それを使って武術や肉体を強化する」
そこまで言うと、易宝は自身の胴体を手でポンポン叩きながら、
「まずは論より証拠。カナ坊、どんな技でもいいからわしを打って来い。わしは一切避けず、それを受けて見せようじゃないか」
「え? いや、でも……」
「いいから早くせい。大丈夫だという保証がなければ、わしもこんな酔狂な要求はせん。さぁ、早く!」
強く促され、要は仕方なく応じることにした。
要は棒立ちする易宝めがけて助走をつけ、その勢いを込めて靴裏で胴体を踏み蹴った。
普通なら、これを食らったら吹っ飛ぶはずだった。
けれど、易宝はその場から少しも動いておらず、顔にも苦痛の色は一切無かった。
「どうした。それが全力か?」
平気な顔をして言う易宝に要はぎょっとする。
そして、今度は遠慮なしに『開拳』で突いた。
まったく効いていない。
続いて『旋拳』で突いた。――まったく効いていない。
続いて『撞拳』で突いた。――まったく効いていない。
続いて『浪形把』で突いた。――まったく効いていない。
続いて『纏渦』で突いた。――まったく効いていない。
続いて『開花一倒』で突いた。――まったく効いていない。
ちなみに、全て全力だ。
要の持つあらゆる技が、易宝にはノーダメージだった。
やせ我慢している様子も見受けられない。これまで彼は、表情筋一つ動かしてはいなかったのだから。
あらゆる敵を打ち破ってきた技の数々が全く通用せず、自信が砕ける音が聞こえてきそうだった。
すっかり息切れ状態な要。
「ど……どういうことだ? どうして全然効かないんだ」
「おぬしが打つ場所へ『太極気』を集中させ、防御したのだ」
易宝は静かに呼吸を整えると、再び口を開いた。
「もう一つ見せよう。ちょっとこっちへ来るといい」
そう言って、要を広場の端っこへ連れて行く。
広場の外側へ向かって無数に生え連なった木々のうち、一本を指で示す易宝。少し幹は細いが、硬くしっかりした木だった。
「見ておれ。――ほっ」
その木の幹へ、軽い調子で掌打を打った。
いや、「打った」というより「触った」という表現の方が適切に思える。それくらい弱々しい当身に見えた。
しかし次の瞬間、信じがたい事が起きた。
その木が、傾きだしたのだ。
まるで芯を抜かれたかのごとく幹が「ふにゃり」と折れ曲がり、枝葉が偏った方向へ横倒しとなった。ずしん、という倒木音。
何が起こったんだ。要は折れた幹へ近づき、その断面を覗いた。
「なっ……!!」
自分の目を疑った。
幹の中身が――細かいおがくずとなっていたのだ。
一見、木自体に外傷は無い。しかし内部は違った。よく詰まった木の中身がこれ以上ないほどグズグズに崩され、粉末状にされている。
わざわざ問うまでもない。この人がやったのだ。
「これが『太極気』を込めて打った発勁だ。鋭く研ぎ澄まされた力は気功術の補助によってさらに鋭利となり、木の中身へ突き抜けて伝わったのだ。まあ、流石にこの威力は「わしだから」というのもあるが」
自慢げではなく、淡々と述べる易宝。
そして、要の方へ改めて向き直る。
「これが気功術。気の力を操って、武術のポテンシャルをさらに高める。気功師にはインチキ野郎が多いからのう、説得力を持たせる意味を込めて実演からやらせてもらった」
その言葉とともに、冷えた風が吹いた。粉状の木屑が風に乗り、心地よい木の香りを送り届ける。
――これが、気功術。
鉄板のごとき防御力と、拳銃でも成し得ない強大な威力。
これまでも易宝から色々な技術を見せられて驚愕させられたが、今回はなんだか、いつもと雰囲気が違っていた。体術ではなく、魔法を見せられている気分だ。
そして、これを自分も身につけることになるという。
喜んでいいのか、怖がっていいのか、どちらが正しい反応なのか分からなかった。
「では、これから詳しい説明に入ろうか。もう一度言うが、気功術とは『阴気』と『阳気』を体内で練り合わせて『太極気』を作り、それを利用する技術だ。太極とは「阴」と「阳」が一体となった状態。陰と陽は重なり合い、助け合ってこそ真の力を発揮する」
「だが」と易宝は区切りをもうけてから、続けた。
「それをするためにはまず、外界の『阳気』を体内に導かなくっちゃあいかん。体内にある『阴気』だけでは、先ほどのような力は望めん」
そこまで聞いて、要はここを練習場所に選んだ理由に合点がいった。
このボルテックスから湧き出している気というのは外界の気、すなわち『阳気』。ここは、それがとても濃い場所なのだ。
ここまで理解すると、次の問題が生まれる。
それは「外界の『阳気』をどのように体内へ取り入れるのか」だ。
だって、体内で二つの気を融合させるというのなら、その前にまず『阳気』を体内に集めないといけないのだから。
その方法も、易宝は良いタイミングで言及してきた。
「なので気功術を始める前に、『阳気』を体内へ取り入れるための準備をする必要がある。そう、二つの準備だ」
彼はまず、人差し指を立ててきた。
「まず、全身の『経絡』を開くこと。経絡とは気の通り道。血液が血管を絶え間なく流動しているのと同じように、気もまた経絡を絶えず流れている。その経絡を広げて気の流通をさらに円滑にする事で、膨大な量の気を一度に一気に運ぶ事ができるようになるというわけだ。これができていなければ、気功術は使えない」
「なるほど。それで、それを広げる作業が必要なんだな」
「左様。そしてその修行の事を『伸筋抜骨』と総称する」
「じゃあ、それをまず学ぶのか?」
「いや? もう終わっとるよ?」
「え?」
要は目が点になる。やったっけ? そんな修業。
分かっていない要に対し、易宝はかすかな苦笑を浮かべて答えて曰く、
「『頂天式』だ。あれによって肉体が『理想形』となった時点で、すでに経絡は開ききっている。そしてさらに全身の経絡を強靭に鍛え上げ、肉体に強い健身効果ももたらす。『頂天式』は、気功術を学ぶ前準備をするための功法でもあるのだ」
「そうか……」
もう驚かない。『頂天式』の効果の多さは聞き飽きたくらいだった。
「というわけで、一つ目の準備は完了。二つ目の準備について説明だ」
易宝は人差し指ともう一本、中指を立て、続けた。
「二つ目は、肉体を「陰」に変えることだ」
「どういう意味?」
「水の流れで例えようか。水というのは、満ちた場所から不足した場所へと流れていく性質がある。陰陽の理論になぞらえるなら、水が不足した場所とは「陰」と、そして満ちた場所とは「陽」と当てはめる事ができる」
つまり、そういうことである。
「気の流れも、水の理屈と同じ。気に満ち満ちた「陽」である外界から、気の少ない「陰」へと流れる。ただしこれを実現するには、心身ともにリラックスさせて肉体を「陰」に変えなければならない。そうすることによって、初めて『阳気』を体内へと呼び込めるようになる」
なんだか雲をつかむような話に思えてきた。
けれども、実現不可能な事をこの人は絶対に教えない。要でも出来るからこそ教えているのだ。
「さて、ここから先は実際にやってもらった方が早い。カナ坊、吸いすぎない程度に息を大きく吸って、そしてその吸った分と同じ量だけ吐け。どこに空気が出入りしているかというイメージは持たず、ただ吸って吐く事のみに意識を集中させるんだ」
要は言われた通り、呼吸を行った。
限界にならない程度に息を吸い込み、そして吸い込んだのと同じ量だけゆっくりと吐き出した。
――するとどうだろう。まるで氷が溶けて水になるように、上半身から余計な緊張の一切が消失した。それに付随して、精神も不思議なくらい落ち着いた。
易宝はいたずら小僧のようなしたり顔を浮かべた。
「どうだ、落ち着いてきただろう? この呼吸法は『融声』という。本来は全身の緊張を解く呼吸法だが、体と心はつながっているため、どちらか片方を鎮めれば自ずともう片方も沈静化する。ロシアの軍隊格闘技のシステマにも「ブリージング」という技術として伝わっている。気功術を使う前、心を整えるために使うと良い」
要は少なからず驚いていた。
今まで呼吸一つで体調が変わるなんてことがにわかに信じがたかった。
その価値観を盛大に打ち砕かれた気分だった。もちろん良い意味で。
人体の可能性の一端を、またしても垣間見た気がした。
「よし、そろそろ気功術を実際にやってみるとしようか。普通の直立姿勢でもできる修業だ。体を壊したくなければ、わしの言うとおりにするんだぞ」
要は頷いた。
「その前に確認だが、カナ坊、わしが今まで教えた経穴の位置は覚えているか?」
その問いに対し、要は頭の中で確認してから「うん」と答えた。
実は易宝養生院に住み込み始めて以来、要は易宝から経穴――世間一般では「ツボ」「秘孔」などと呼ばれている部位である――の位置などをちょくちょく覚えさせられていた。
「ならば良し」と満足げに言ってから、我が師は話を再開させた。
「気功術を行う上で欠かせないのは、「呼吸」と「意念」だ。呼吸は『阳気』を外から吸い込むためのポンプとして使う。そして意念は、体内の気の流動を操作するためのものだ」
『意念』。
その単語には聞き覚えがある。
特殊なイメージングによって肉体を操作し、普通に体を動かすだけでは成し得ない能力を発揮させる、中国武術の技能の一つ。
意念を用いるのは、体術だけではない。気の運用と操作にも使うのだと、以前易宝からちょっとだけ聞いたことがあった。
「心」「意」「気」。この三要素が一方通行で働くことによって、初めて気の運用は行われる。
「心」から「意」が生まれ、その生まれた「意」によって「気」が動く。
ここで言う「意」とは、まさしく意念のことに他ならない。
すなわち、意念がなければ気は動かせない。だからこそ大切なのだ。
「まずは、頭頂部の中心にある経穴「百会」へ意識を集中。そこから空気を吸いこむ意念を浮かべながらゆっくりと息を吸ってみろ」
要は言われたとおりにした。雑念を消し、易宝の教えをなぞる事のみに精神を集中させた。
――途端、頭頂部に熱感が降りてきた。
まるでホカホカの携帯懐炉をそっと頭に乗せられたかのような感覚。
びっくりして飛び上がりそうになったが、必死に心を鎮め続ける。ここでテンパったら身体が「陽」になってしまう。それだと台無しだ。
熱感は、未だ頭頂部の百会穴にとどまったままだ。
熱い。しかし火傷するほどの温度ではない。ほんのりと心地よい熱さ。
これが『阳気』なのだろう。言われずとも分かった。
「カナ坊、どんな感じがする?」
「頭のてっぺんがあったかい」
その即答に対し、易宝はうまくいったとばかりに微笑む。そしてさらに命じた。
「『阳気』の吸入には成功したようだな。では今度は、その『阳気』を臍下丹田へと下ろすのだ。脊椎の中を通わせるイメージで移動させてみろ。呼吸は自然で構わぬ。意念による運気に集中せよ」
教えが途切れたのを合図に、要は百会にとどめておいた『阳気』を動かし始めた。
頸椎、胸椎、腰椎をゆっくりと通過し、やがて熱の塊は臍から指三つ分下の一点「丹田」へ到達。
次の瞬間――熱の塊が"凝縮"した。
先ほどまでふわふわと不定形でまとまりの無かった熱が、内側へ圧縮され、球状という確かな形を得たのだ。
同時に、腰全体が少し重くなった。
まるで、熱した鉄球を腹に埋め込んだような感覚。
要は黙って易宝の方を向いた。「説明してくれ」という視線を送る。
「どんな感じがしている?」
「熱が凝縮して塊になった。おまけに足腰が重く感じる」
「よし、上出来だ」
易宝は再び機嫌良さげに笑った。
「今、おぬしの丹田に宿っている大きな熱の塊こそ『太極気』。取り入れた『阳気』が、人体に元々存在していた『阴気』と一つになり、より強く盤石な気の塊と化したというわけだ」
「……それで、これ、どうやって使えばいいの?」
「肉体のどこかへ移動させてその部位を一時的に頑強にしたり、打撃部位へ移動させて発勁の威力を高めたりして使う。効果は先ほど見せたとおりだ」
けれども、まだ足りぬとばかりに我が師はかぶりを振った。
「だがしかし、そのためにはまず、気を流通させるための正しい経路を学ばねばならん。これから気を移動させる訓練をしてもらうが、その過程で経絡の道順を正しく覚えてもらう」
そこまで言うと、再びこちらへ視線を真っ直ぐ向けながら告げた。
「ではまず、丹田にある『太極気』を百会へと移動させろ。脊椎の中を駆け昇らせるイメージで動かせ」
要は小さく「はい」と告げる。
『太極気』を百会へ持ってくる。頭に懐炉を乗せているような熱気がまた頭頂部へおとずれた。
「よし。次は「任脈」を通過させながら、尾てい骨の経穴「会陰」へ移動」
心の静謐さを必死で保ちながら、『太極気』を意念で運ぶ。
易宝の言う「任脈」とは、体の前面の中心線に走る経絡の事だ。
この線には急所である経穴が集まっている。それらの経穴を通過させながら、『太極気』を垂直に下ろしていく。
承漿・廉泉・天突・膻中・鳩尾・上脘・建里・神闕・気海・関元・曲骨――会陰。そこで一度止めた。
「今度は「督脈」に気を通し、再び「百会」へ戻せ」
「督脈」とは、先ほど気を通した「任脈」の裏側、すなわち背筋を真っ直ぐ沿うようにして伸びた経絡である。
要は、背中に引かれたラインを下から上へなぞる意念を使って『太極気』を移動させた。
長強・腰兪・腰陽関・命門・懸枢・中枢・至陽・霊台・神道・身柱・陶道・大椎――百会。
「そこから再び「任脈」「督脈」へ交互に通してみろ」
再度、『太極気』を動かした。
百会から「任脈」を介して会陰に。会陰から「督脈」を介して百会に。それらを交互に繰り返す。
体の前後を、熱塊が絶え間なく立円状に周回する。まるで恒星の周囲を公転する惑星のようである。
「よし。一旦やめ」
合図と同時に、要は集中を解いた。
すると、磐石な形を持っていた『太極気』が溶けるように分散した。
熱気が脊柱を稲妻のように駆け、そして百会から外へ出て行った。意念という手綱を失ったことで、『阳気』が体内から逃げたのだろう。
ふと額を触ると、汗の雫がびっしりと付いていた。自覚はしていなかったが、かなり集中力を使ったようだ。
「今のは『周天功』という、気功術の基本訓練法だ。意念によって気を経絡に通し、何度も周回させることで、運気に慣れ、なおかつ気のルートを正確に理解する」
易宝は一度一息ついてから、再び続けた。
「しばらくは、これをひたすら練習してもらう」
「え、どうして? もう「任脈」「督脈」の位置は覚えたぞ?」
「それは頭の中で覚えただけに過ぎん。それだけだと実戦時、いちいち「経絡はここで、ここに気を通そう」なんて考えながらちんたら気功術を行うハメになっちまう。それだと役に立たん」
「……まあ、確かに」
ぐうの音も出ない正論である。
それなりに修羅場をくぐり抜けてきた今の要だから言える。実戦で技を使う場合、いちいち頭で考えて体術を行っていたら、どうしても遅くなってしまう。だからこそ、技を使うための体術を練習で体に覚え込ませ、自然に出せるようにしておく必要がある。気功術もまたしかりというわけだ。
「だから『周天功』を何度も繰り返し、感覚で経絡を覚えるのだ。使う経絡は「任脈」「督脈」だけではないが、これらの2ルートは『太極気』を通すためのメインストリート的な経絡だ。このメインストリートから手足へ気を送る。なので、この二つの経絡は絶対に覚えてもらう」
言うと、易宝は両手をパン、と叩き合わせながら、
「さてカナ坊、方法は教えたぞ。あとは教えた事を徹底的にやるだけだろう?」
「お、おうっ」
要は慌てて頷くと、『融声』の呼吸法によって心身をリラックスさせた。肉体は再び「陰」に変わり、「陽」たる外界との繋がりが生まれる。
吸う息とともに『阳気』を体内へ取り入れ、それを意念によって丹田へ送る。元々体内にある『阴気』と一つになり、『太極気』という熱塊が生まれた。
出来上がった『太極気』を、要はひたすら全身に巡らせ続けた。
――などという練習を二時間も続けた結果、要はすっかりヘトヘトになった。
すでに夜は明け、まばゆい朝日が御尊顔を現していた。
「よし、今朝の練習はこれくらいにしておこう」
練習終了を告げる易宝の言葉とともに、今まで立ち続けていた要の下半身は、まるで積木のように崩れ落ちた。
草のカーペットに尻餅を付き、大きく溜息をつく。
すでに全身汗まみれだった。Tシャツも川に潜った後のように重たい。
しかし、息切れはしていなかった。どちらかというと肉体ではなく、精神的に疲れたのだ。
気功術は意念という精神の力を多用する技術だ。おまけに初心者である要は、気の操作を円滑に行うために凄まじい集中力を使ったため、その疲労度は推して知るべしである。
集中力が途切れて、『太極気』を霧散させた回数も多い。
おまけに気功術は、使うたびに体力を消耗する。それも疲労を助長させる一因となった。
けれど、要はめげることなく、一心不乱に修業に打ち込んだ。
崩陣拳の正当な後継者になったから、その責務を全うするため。もっと強くなるため。――もちろん、それもある。
しかし、要は今「ある事」から猛烈に目を背けたかった。
「ある事」とは言わずもがな――昨夜に見たあの夢である。
菊子、奐泉からの告白から、すでに一夜が過ぎている。
自分に想いを伝えた時の彼女たちの必死な顔は、今なお直前の事のように覚えている。
そして、そんな二人に対し、要はどう答えを出したらいいのか分からなかった。
曖昧なままで終わらせることなどできそうにない雰囲気だった。それくらい真剣さを感じたのだ。
仮に曖昧にしようとしたら、それこそ昨夜に見たあの夢のような結末になりそうな気がする。
痴情に満ちたホスト崩れのなれの果てを思わせる光景。要の中にある「何か」が、ソレに対してこの上ない嫌悪感を示していた。あのような未来には決してしてはならない。したくはない。だけどこのままあの二人との関係が中途半端なまま進めば、いずれああなってしまうかもしれない。しかし、それを回避する手段が何も思いつかない。
不安を払拭するべく、修業に逃げたのだ。我ながらなんと情けない理由だろうか。
「次は夕飯前の夕方にまた『周天功』をやるからのう。それまで自習するなり、だらけるなり、娘っこ達をはべらせるなり、好きなようにして過ごすと良い」
「はべらせるって……人聞き悪いコト言うなよ」
要は嫌そうに目を細めた。今一番言われたくない類の言葉だ。
「そして、噂をすればなんとやら、だ」
言うや易宝は、周囲に茂る森の一ヶ所をクイッと親指で示した。
乱立する木々の影から、人影が一つ。カサカサと足音が聞こえる。
陽光に当てられ、影の正体がはっきりする。
腰まで伸びた長い黒髪。前髪に隠れた目元。長袖ワイシャツにジーンズという季節外れな服装をまとう、ほっそりした肢体。
菊子だった。
要の寝泊りしている四合院の近くにあるという別荘から、ここまでやってきたのだろう。
どくん、と心臓が跳ねる。昨日の彼女の告白を連想し、身体の芯から熱くなってきた。
「お……おはよう、カナちゃん……」
「あ、ああ……おはよう……キクって結構早起きなんだな。お坊さんかよ」
「だって……カナちゃんが朝早くから練習してると思ったから。一番乗りで会いたかったんだもん」
恥ずかしそうにはにかむ菊子。もじもじと体を揺らすその仕草も込みで、とてもいじらしく見えた。
よく見ると、その両手には中身が入った巾着袋があった。
菊子はせかせかとこちらへ近づき、その袋を差し出してきた。まるで渾身の勇気を振り絞ったとばかりの勢いで。
「あ、あのあのっ! こ、これっ! お、お弁当! 今朝四時起きで頑張って作ったんですっ! あさっ、朝ご飯、まだですよねっ!? よ、よかったら、食べて欲しいなっ!」
たどたどしい口調であった。
しかし、「四時起きで作った」という彼女の台詞、そしてこの一生懸命そうな態度。これらの要素に、要は何かグッとくるものを感じた。
やばい。なんというか……かなり嬉しいかも。
「そ、それじゃあ、いただくよ。ありがとう、キク」
要は我知らず照れ笑いを浮かべながら、お弁当を受け取った。うお、結構重たいな。
この重さなら、結構腹が膨れそうだ。
大樹の幹にでも座ってご相伴にあずかろうと考えた、その時だった。
「カナ様ぁ――――!! カ――ナ――さ――ま――――――っ!!」
新たな女の子の声が、高らかに聞こえてきた。
この声は確かめようもなく、奐泉のものであった。
弁当を貰って嬉しい気持ちはいったんなりを潜め、緊張が襲ってきた。
「カナ様ぁ! おはようございますぅ!!」
ポニーテールの少女はあっという間に駆け寄り、勢いよく要へ抱きついてきた。
疲れている要は倒れそうになるが、なけなしの体力で足腰を踏んばらせ、立ち姿勢を維持した。
間近には、大きな瞳が特徴の活発そうな美貌。さわやかな香り。
「ちょっ、奐泉!? 今俺汗まみれだから、くっつかない方がいいぞ!?」
「カナ様のなら気にしません! むしろもっとくっついちゃいます!」
奐泉は離れるどころか、要の頬に頬ずりさえしてきた。
うわ、まずい。頬っぺたやわらかい。凄まじく良い匂いがする。心臓が胸骨を突き破りそうなくらいドキドキしていた。
昨日想いを打ち明けたからか、奐泉の行動の大胆さが前よりも増している気がした。
極め付けには、ちゅっ、と頬に柔らかいものが当たる感触。
「――――」
それが奐泉のキスだと認めるまで、数秒かかった。
……鼓動を止めなかった自分の心臓を、心底褒めてやりたいと思った。
「わたくし、カナ様の全部が大好きなんです。だから汗だって何だって愛しちゃいますから」
口調からも、間近にある大きな眼差しからも、冗談の気が一切含まれていない。
普段、パワフルすぎて戸惑いの方が強くなる奐泉のスキンシップだが、今回は決して軽々しくない、一寸の曇りもない真心を感じた。
そして、そこまで想われている事に対し、「嬉しい」という気持ちが素直に生まれた。
「――っ!?」
だが、不意に横合いから発せられているプレッシャーを感知し、我に返った。
そちらへ目を向けると、菊子が頬を膨らませながらこちらを見ていた。……あれはきっと、涙目になってこっちを睨んでいるんだろう。前髪で目元が隠れていても、それがなんとなく分かる。
「さーカナ様ぁ、本部で朝ご飯を作っておきましたから、一緒に食べましょう。カナ様のは特別サービスでおかずてんこ盛りにしてありますからねっ」
対し、奐泉はそれに構うことなく、要の左腕を抱きしめて四合院の方角へ引っ張り始めた。
「……ふふんっ」
そして、横目で菊子を見て、勝ち誇った微笑み。
菊子はしゃくりあげるように息を呑んだ。
しかし、儚げに見えて芯の強い女の子だ。このまま黙って立ち尽くしているはずがなかった。
要の右腕に、菊子がしがみついてきた。
「そ、その前に! わ、わたしのお弁当食べて感想聞かせてください!」
すると、今度は左腕が引っ張られた。
「お弁当なんて食べたらお腹いっぱいになってしまいますわ! ささ、帰ってわたくしの美味しい朝げを召し上がってくださいましっ」
すると、今度は右腕が引っ張られた。
「カ、カナちゃんは男の子だもん! 育ちざかりだもん! そう簡単にお腹いっぱいにならないもん! そうですよね、カナちゃん!?」
左腕、右腕、左腕、右腕、左、右、左、右――何度も交互に引っ張られる。
綱引きならぬ、要引きが始まっていた。
「…………」
何もするべきことが思い浮かばないため、要は黙ってされるがままとなる。
「――はっ!?」
しかし、ふと、重大な事に気が付いた。
――キクが来た後に奐泉が乱入してくるっていうこのシチュエーション、夢と同じじゃね?
しかも、乱入してきた奐泉が頬にキスしてきたのも夢と一緒だ。
まずいぞこれ、正夢になるんじゃないか……?
自分の将来にただならぬ不安を感じながら、要引きの要になり続けるのだった。
結局、朝食は二人の作ったものを食べた。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
今回はカンフー系の王道、気功が登場しました( *`ω´)
「任脈」と「督脈」に気を巡らせる『周天功』は、現実では「小周天」と呼ばれる気功法にあたります。
現実の気功に忠実に書いても良かったのですが、そうするとただでさえ長ったらしい設定がさらに冗長になって説明書化してしまいかねないので、なるべくフィクション風味に簡潔に、そしてトンデモっぽくしてみました(;´д`)
ちなみに、出てきた経穴は全部実在します。
具体的な位置が気になる人はググってね!