第八話 富士チャーハンと地上げ屋
週休二日制。
土曜日と日曜日の二日間、人々が学校や職場(これは場所によるが)という名の鎖から解き放たれ、食う寝る遊ぶが許容されるゴールデンタイム。
戦後アメリカを起源とするこの制度が日本で一般化し始めたのは一九九〇年代以降であり、「無茶をしてでもたくさん働くことは良いことだ」という意識が強い高度経済成長期を生きた日本人の中には、これを「甘え」ととらえる者も少なくない。
だがそんな老人たちの意見を「知ったことか」と一蹴するかのように、多くの少年少女たちは自分たちの望むことをやっている。
部活に取り組んだり、友達と遊びに行ったり、部屋に閉じこもってゲームをやったりする者など様々だ。
そして土曜日の正午、工藤要は――
「どわぁぁーーーー!」
――易宝養生院の中庭を絶賛転がり中だった。
土質の地面をゴロゴロと後転するたびに、汗を含んだ要のシャツに土が付着していく。地面が土でよかった。もしコンクリートだったら転がるだけでも痛かっただろう。
やがてストップしてうつ伏せに倒れた要は、顔を上げ、痩せ我慢した笑みを浮かべて前方の易宝を見た。
「ほら、早う立て! あともう少し続けるぞ」
息も絶え絶えな自分とは対照的に、易宝は余裕のある表情でそう手招きしてくる。呼吸の乱れどころか、汗の一つもかいていない。あっちだってもう何回も打ってるだろうに。
要は『閃身法』の修行をしている最中に、避けそこねて易宝から一撃もらってしまったのだ――本当は今に限らず、もっと打たれているが。
だが、やられてばかりというわけでもない。『閃身法』を弊習し始めて数日が経ったが、最初よりも易宝の放つ打撃に対する恐怖感が薄れ、余裕が出てきた。
余裕が生まれると、打撃をよく見て、それに対処しようとする冷静さも出てきたのだ。そのおかげか、以前よりも避けられる回数がずっと増えた。
打たれれば打たれるほど余裕が出来る、という易宝の言葉は正しかった。「打たれまい、打たれまい」とする強迫観念が強ければ強いほど、攻撃への冷静な対応がしにくくなる。そのため、こういった訓練の中で打たれ慣れておくことでその強迫観念をとっぱらい、実戦で余裕のある攻防が出来るようにメンタルを鍛えるのだ。
「成功出来なかった結果」というイメージでしかなかった失敗にも、ちゃんとした意味があったのだ。
易宝の教育の周到さには、つくづく驚かされる。
「んっ……しょっと……いてて」
要は疲弊した体を踏ん張って起こし、立ち上がる。
額に付いた湧水のような汗を腕で拭い去り、半身になる。前足と同じ側の腕を前に出し、もう片方の手を拳にしてその下に添えて構えることで、急所たる正中線を隠す――『百戦不殆式』。相手の攻撃を受け流しつつ、そのまま自身の攻撃や引き倒しに繋げられるオールラウンドな構え。
呼吸を整え、心を落ち着けて次の攻撃に備える。
やがて易宝は地を蹴り、瞬発。数メートル開いた自分との距離を、吸い込まれるような勢いで一気に縮めてきた。このスピードで本気じゃないというのだから恐れ入る。
要は必死に易宝の全体を見据え、攻撃の情報を探る。
踏み込みとともに放とうとするは――左の掌底。
その延長上にあるのは――自分の腹部ど真ん中!
掌底との距離が約三十センチ以下になった瞬間、要は全身を捻ることで掌底の到達点から体をずらし、ギリギリでそれをかわす――体を小さくずらして紙一重で攻撃をかわす『閃身法』の身体操作の一種だ。目標を失った易宝の左掌は要のシャツと擦過し空気を打つ。
要がそのまま易宝の懐をとったところで、両者はピタリと静止する。
すぐ前の易宝の顔がにこやかに笑う。
「いいぞ。その調子だ。前よりも反応ができている」
前よりも――その言葉に要はホロリと来そうな心境だった。まだ全部は避けられないが、ここまで避けられるようになるまででもかなり痛い思いをした。それが多少は報われた気がしたのだ。
だがそんな要の感動など知る由もない易宝は、すぐさま距離をとって言い放った。
「それじゃあ再開だ。構えよ」
感動に長く浸れずやや不満だったが、要は素直に『百戦不殆式』を構える。
そして、練習が再開する――――
――――それから約十数分後。
「よし、今日はこれまでにしよう」
一息ついたとばかりに腰に両手を当てる易宝。
「あ…………ありがとう……ございまーす……」
相変わらず余裕そうである。中庭に大の字で倒れて息切れする要は、そのスタミナの高さを少しでも分けて欲しいと思った。
「よいか? 回避だけではなく、同時に相手にとって対処しにくく、自分にとって対処しやすい位置へ入り込むという意識を忘れるな。回避しつつ敵の陣地へ侵入し、そこから攻撃に繋げていくことこそが、今のおぬしに求められている戦い方だ。どんなに強力な銃でも当たらなければ意味がない。『閃身法』はその強力な銃を絶対に当てられる絶好の射撃ポイントへ、自身を導くためのテクニックでもあるのだ」
「はぁーい……」
「息が落ち着いたらシャワーを浴びて服を着替えろ。そのあとは外へ昼飯でも食いに行こう」
「いや……俺お金あんま無いんだけど……」
「この会話の流れで分かるだろう? わしが奢ってやると言ってるんだ」
「マジっ? いいの?」要は師の素敵な提案を聞いてガバッと上半身を起こす。
そんな現金さに易宝は苦笑しながら、
「構わん。だから早くシャワーを浴びて来い」
「やったー! アリガト、師父!」
要はさっきまでの疲れなど忘れて飛ぶように腰を上げ、台所への出入り口へ駆け込もうとしたが、途中でピタリと足を止めて、
「それで、どこに食べに行くの?」
「遠い所じゃあない。ここから歩いて十分少々で着く近場の定食屋だ。建物は古いが味は数世紀未来でも通用しそうなほどウマい。保証しよう」
そんな易宝の賞賛ぶりに要は心を躍らせながら、風呂場へ再び足を進め始めた。
◆◆◆◆◆◆
嬉々として歩みを進める易宝に連れられてやって来た場所は、寂しい土地だった。
多くの住宅が立ち並ぶ道を抜けて横断歩道を渡ると、たくさんの売地が重なってできた、広大で、しかし殺風景な場所にたどり着く。
土と砂利、いくつかの雑草のみとなった土地の数々を、アスファルトの道が四角く囲っている。その中に自分たち以外の人の姿は見られない。なんとも寂しい雰囲気だ。
そんなおっさんのハゲ頭のような土地の一角に、波○の髪の毛のごとくポツンと建つ小さな建物が一件。
年数を経て古ぼけたその建物からは、食欲をそそる香りが外へ漏れ出してきている。
入口に掛けられた赤い暖簾には、黒い楷書体で「道道軒」とプリントされていた。
「ここがわしのオススメの定食屋「道道軒」だ。わしも来るのは久しぶりだのう」
店の前まで来た易宝は、上機嫌にそう紹介する。
一方、紹介された側の要は小さく眉をひそめ、
「……ちっちゃいトコだなぁ」
「ああっ、馬鹿にしたなぁっ? そういうセリフは食った後に吐くべきだ。さぁ、入るぞ」
珍しく興奮を見せる易宝によって、要は手を引かれる。
「ああ、ちょっとっ?」
されるがままに開かれた引き戸の中へ引きずり込まれた要を出迎えたのは、やや閉塞感を感じる店内と、香ばしい匂いだった。
建物の小さな外観に違わない五、六畳ほどのちっぽけなスペースには、古くなった四人座りのテーブルが三つほど置かれている。お世辞にも広いとは言えない。団体の客がひと組来てしまえば即満席になってしまうだろう。
そして入ってすぐ横にあるカウンターの向こうの厨房では、白い厨房着を着た男性が一人憂鬱そうな顔で立っていた。見たところ、年齢は初老くらいだろうか。ところどころ皺の付いた顔は細くこけており、厨房着と同色の和帽子からはみ出た毛髪は、黒髪と白髪が混じって灰色に見える。
その男性は店の戸が開かれた瞬間かすかにビクッと怯えを見せたが、それが易宝であることを認めると一転、相好を崩して声を張り上げた。
「おお、劉さん! 劉さんじゃないか!」
「よぉ、富井のおやっさん。久しいのう。ひと月半ぶりくらいか」
易宝も親しげに掌を挙げて挨拶し、ひひっと笑う。
「いい感じに金が入ったから、久々に食いたくなってな。連れも一緒だが構わんか?」
「大歓迎さ! ささ、座って座って」
男性はカウンターに座るよう手で二人を促す。
要と易宝はカウンターの下からスツールを引きずり出して、隣り合わせに座った。すぐさま男性の手から、二人の前に冷水入りのグラスが優しく置かれる。
「いい時に来てくれたよ。最近お客さん全然来なくてねぇ。ところで……」
男性は易宝の隣にちょこんと座る要にチラリと目を向けて、
「その可愛らしい坊やはどなただい? もしかして劉さんのせがれ?」
「い、いや、違うっすよ。俺は――」
ばつが悪そうにしゃべる要の肩を、易宝はバンと叩いて自信満々に、
「まぁ似たようなモンだ。このチビッ子は工藤要。わしの弟子だ」
「弟子? ひょっとして中医学の?」
「違う違う。おやっさん、わしに武術の心得があるのは知ってるだろう? それを教えているんだよ」
「へぇー、そりゃすごいな。頑張れよ」
「あ、ありがとうございます」
要は小さく微笑む。
「カナ坊、紹介しよう。この人は富井さん。この店の主人だ」
「よろしくな、坊や」
紹介された男性――富井はカウンター越しに手を差し出してきた。その手はしゅわくちゃで、少し荒れていた。食器洗剤のせいだろうか。
「はい、こっちこそよろしくお願いします」
要は富井の手を握り、握手を交わした。
「ハイ、お待ちどうっ」
メニューを頼んでから約十分後、注文の品がトレイごと置かれる。
「あ、どうも」
届けてくれた富井に会釈し、要はトレイ上の食べ物に目を向けた。
サービスで大盛りにしてもらった白米、大きな皿には青椒肉絲。そしてもう一つ、楕円形の皿に五つ乗った一口サイズな饅頭のようなもの。これは小龍湯包と呼ばれる、小龍包の中にスープが入った中華料理だそうだ。
自分は青椒肉絲だけを頼もうと思っていたが、易宝があまりに小龍湯包をプッシュしてくるため、とりあえずそれも頼んだのだ。代金は易宝持ちで、その易宝が頼んでいいと言っているのだ。それなら是非もないため、遠慮なくいただくことにした。
匂いに食欲をそそられ、要は箸入れから自分の箸を取り出し「いただきます」をして食事に取り掛かろうとした瞬間、
「はい、劉さんもお待ちっ」
富井の張り切った声とともに、隣の易宝の席から「ドカンッ」という落下音のようなものが聞こえてきた。
要は思わず振り返り、易宝の前に置かれた料理を見てギョッとする。
土鍋に匹敵するほどの大きさを誇る深い円形の器には、尋常じゃない量の五目チャーハンがこれでもかと盛られ、山を形成していた。
そんなチャーハンオバケを、易宝は爛々とした目で見つめている。早く食いたい、そんな顔だ。
「せ……せんせい…………? なんだ、その怪物は……?」
要は恐る恐る訊いた。絶対に起きてほしくない恐怖の大王襲来の真偽を尋ねるような気分だ。
「富士チャーハン。おやっさんがわし専用に作ってくれたメニューだ。いただきます」
易宝は何故かしたり顔でそう答えるや否や、付属の蓮華で富士チャーハンを頂点から攻略に入った。
まぐまぐまぐまぐまぐまぐまぐ。ゴクン。まぐまぐまぐまぐまぐまぐまぐ。ゴクン。
「食べて」「水を飲んで」「食べて」のプロセスを繰り返し、易宝はあっという間に富士チャーハンの三分の一を削り取って胃袋に吸収した。
そんな様子を、富井は嬉しそうにニコニコしながら眺めている。
「…………よくそんなもんが食えるよな」
だが反面、要は引き気味に見ていた。
異常ともいえる量を誇るチャーハンの山を見ただけで一瞬吐きそうになったのに、それを嬉々としてたいらげていく易宝の姿を見ていると、精神的な膨満感で食欲がなくなっていく思いだった。
「ふぁふぃおふぃは、はふぇひゅほほふぁはふぉふふへっは」
「飲み込めよ師父っ」
易宝はゴクンと喉を鳴らす。
「何を言うか、食いものを食う事は生きとし生けるものに許された特権だぞ。生きている以上、そいつをありがたく享受しないでどうする?」
ウンウン、と同意を見せる富井。
いや、だからといってこの量は非常識ってもんじゃないのか……? チャーハンに対する冒涜もいいとこだろ。
「そんなことよりカナ坊、おぬしもとっとと食え。ただでさえちっちゃいんだから、食わんとでかくなれんぞ?」
「ほっとけよ、もうっ。食うって」
恨めしそうな目で易宝に一瞥くれてから、要は「いただきます」と手を合わせる。
「ちゃんと手を合わせるとは行儀がいいのう」
「うちの母さん、こういう事には厳しい人だから」
そう言って要は箸を持つ。まずは易宝がプッシュしていた小龍湯包を一つ摘み、口にほおばる。そしてその驚きの味わいに、要は目を見開いた。
――なんだこれ、すげー美味い……!
生地の裂け目からじわじわと溢れ出てきた中華スープには、同じく内包されている挽肉の汁も混じっていて、お互いが旨みを高め合い、相乗効果を現していた。
やや脂っぽく、塩気の濃い、豚骨スープみたいな味。だがしつこさが無く、ほどよいしょっぱさで舌を楽しませてくれる。
先ほどなくなりかけていた食欲が復活するほど、それは美味だった。
「と、富井さん! これすっげー美味いっすよ!」
要は目を輝かせてカウンターに身を乗り出す。
「ありがとう坊や。そう言ってもらえて嬉しいよ」
そう言ってはにかんだ笑みを見せる富井。
そこでさらに易宝が得意な顔で、
「そうだろう? ウマいだろう?」
「いや、なんで師父がそんな誇らしげになってんのさ」
そんな要の疑問に富井がにこやかに笑い、答えた。
「その「小龍湯包」はねぇ、何年か前に劉さんが教えてくれた料理なんだよ」
「え? 師父がっすか?」
「うん、「わしの地元じゃこれが美味かったぞ」って。ご丁寧にレシピまでくれてねぇ」
そこから先を、ドヤ顔の易宝が続けた。
「わしがまだ若造だった頃によく足を運んでいた小さな飯店の主人がたびたび振舞ってくれたものでのう、日本でも食えたらと思って教えてみたのだ」
「試しにそれをメニューで出してみたらお客さんに大ウケでねぇ。いやあ、劉さんのおかげでいい思いをさせてもらったよ」
「なぁに。料理人の腕あっての結果だよ、おやっさん」
「はは、それほどでも」
笑い合う易宝と富井。
だが何か気がかりなことを見つけたのか、易宝は不意に軽く目を細めて店内を見渡した。
「――のう、おやっさん? 今は正午を過ぎた時間だが、今日この店に客は何人来た?」
易宝の問いに、富井はさっきまでの笑顔を一転、暗い表情を浮かべて恐る恐る告げた。
「……………………劉さんと、そこの工藤くんだけだよ」
易宝は面食らった顔をする。
「それはまた珍しい。いつもなら少なくても、午前中で十人を下らない数の客が出入りするだろうに。それなのに今日は我々以外に一人も来ていないとは」
「今日だけじゃないよ…………ここ最近、ずっと閑古鳥さ」
一句一句言葉を発するたびに、富井の顔色も合わせて消沈していく。何か事情があることを言外に現しているのは、要の目から見ても一目瞭然だった。
易宝もそんな彼を見て、ただ事ではないことを察したのだろう。真剣味を帯びた表情で問い詰めに入る。
「そんなバカな。わしが最後に来た日には、この店には人が多く来ていたはずだ。この店は小さいが潮騒町の人間には人気がある。教えてくれおやっさん、わしがいない間、一体何があったんだ?」
「それは……その…………」
気まずそうにそっぽを向く富井。
するとその耳元に、擦り切れたような赤い痣があった。
「おい、おやっさん、それは――」
易宝が訊こうとした瞬間――出入り口の引き戸が乱雑に開かれ、その音が要の耳を驚かせる。
「オイ富井ィ!! 今日も元気に来てやったぞぉ!!」
「いい加減店売らんかいコラァ!!」
二つの濁声が聞こえてきた方向へ、要は反射的に振り返る。
開放された出入り口には、柄の悪い男が二人立っていた。
大柄な坊主頭の男に、細身の短い金髪の男。二人とも立派なスーツをだらしなく着崩しており、佇まい、顔つき、発する雰囲気、全てに剣呑さのようなものを感じる。
要でも一目で分かった。何者なのかは知らないが、間違いなく堅気ではないと。
目を向けると、富井はその連中に対して明らかな怯えを見せていた。
そしてそれを見つけた金髪の男はニヤリと気味悪く笑うと、易宝の食べかけの富士チャーハンに向けて「かーっ、ペっ」と痰を吐きかけた。それを間近で目撃した要は言い知れぬ不快感で総毛立つ。
易宝は普通の顔をしていたが、手に持っている蓮華が「パキリ」と音を立ててへし折れた。
一体何なんだ、こいつらは?
「や、やめてくれ! お客に手を出すのだけはやめて欲しいと前にも言ったじゃないか!」
富井は慌てて厨房から出て来て、恐怖しながらも金髪の男に食ってかかった。
対して金髪の男は一ミリも悪びれる様子無く、ニヤニヤした顔で、
「おいおい富井ちゃんよ。まだカスタマーに対する愛なんて貫いちゃってるワケぇ? もうこの店に客なんか来ねぇだろうに」
「ふ、ふざけないでくれっ! あんたたちがそうさせたんじゃないか!」
「料理人としての未熟さを人様のせいにするもんじゃないぜ、富井よお」
見下げるような笑みを浮かべて、坊主頭の男もそう言ってくる。
だが富井は気圧されながらも、震えた声で必死に言い返した。
「……あんたがたが来るたびお客にちょっかい出すから、みんな怖がって来なくなったんだ」
「そうかい。じゃあまだ来てくれてる物好きな客も、今日めでたくアデューってわけだ。客が来なきゃシノギにならねぇだろ? だからよぉ、もう観念して店売っちまったらよ?」
坊主頭の男が穏やかに、だがどこか威圧感を持った口調で説得する。
――店を売る?
「……嫌だ」
富井は弱々しい声で告げる。
すると金髪の男は、体色を変化させるカメレオンのように顔貌を真っ赤な怒りへ一転させ、富井の腹部に膝蹴りを打ち込んだ。
「うぐっ」とうめき、床にうずくまろうとする富井の胸ぐらを乱暴に掴み上げて、金髪の男はがなり立てた。
「舐めんじゃねぇぞクソジジイ!! 人が下手に出りゃ調子コキやがってよぉ!! なんならテメェをスープの出汁にして大好きなお客に飲ませてやろうか!?」
――こいつら。
要は憤りのままに席を立つ。
「おい、カナ坊っ」という易宝の呼び止める声にも耳を貸さずに金髪の男の元へ歩み寄り、その脛を爪先で思いっきり蹴りつけた。
「ってぇ――!」
金髪の男はそう叫び、蹴られた足を痛そうに持ち上げて何度か片足で飛び跳ねると、要の方を睨みつけ、
「何しやがんだこのクソガキ! ぶっ殺されてぇか!!」
「クソはテメーだこのクソ野郎! 営業妨害で垂れ込むぞ、タコッ!」
要の罵倒の言葉に金髪の男は青筋を立て、
「……おい、ガキ。今すぐこの汚ぇ床に土下座すりゃ許してやんぞ」
「……死んでもするか。このスカタン」
金髪の男が殺気を纏い、ゆらりと動きだす。攻撃色だろう。
要もそれに応じるべく素早く半身になり『百戦不殆式』をとろうとした時――
「――――むぐっ!?」
突然背後から口を塞がれ、後方へ引っ張られた。金髪の男との距離が遠ざかる。
目だけを必死に巡らせて後ろを見たことで、自分の口を押さえつけている手は易宝のものだと分かった。
「いやー、すみませんすみません! この子は強そうな相手を見ると反抗せずにはいられないタチでして…………あとできつーく叱りつけておきます故、何卒、何卒、拳を収めてはいただけませんか?」
易宝はへつらうように笑いながら、そう懇願する。
「んーー! んーー!」要は押さえられた手によって何も喋れずにいた。
易宝のいつになく丁寧な態度を見て、金髪の男は何か悪いことを思いついたような歪んだ笑みを浮かべ、
「うっわ、おいヤベェよ。さっき蹴られた場所が痛くてたまんねぇ。こりゃ折れてっかもなぁ。オメーんとこのガキがやったんだから十万くらい積んでくれよ、なぁ?」
「んーー! んーー!」
ざけんじゃねーぞ、あれくらいで足が折れてたまるか! 口を押さえられているため、その言葉は出せなかった。なんて力だ。どんなに暴れても全く解けない。
易宝はわざとらしい驚きの表情を見せ、芝居がかった口調で、
「なんと! それは大変だ! ならばこの私が看て差し上げましょう! 私は医者ですので、あなたの怪我の具合がどの程度のものか、感知することなど造作もないことでございます!」
「い、医者だぁ!?」
金髪の男の表情が気まずそうなものに変化する。
「い、いやいいよ別に……やっぱなんでもねぇ」
「いえいえそうは参りませぬ! あなたが「詐病をして慰謝料をせびろうとしている」ならばともかく、本当に折れていたならばコトです! 大丈夫。代金は結構ですので、どうぞ安心して診察を受けて下さい!」
「いいって言ってんだろ! 殺すぞ!」
金髪の男は易宝の口八丁を乱暴に切り抜ける。そして苦い顔で腹を押さえている富井に詰め寄り、
「おい、ジジイ。昨日も言ったが、残り一週間だ。わぁったな?」
「……善処します」
富井は小さく呟く。
そしてトドメとばかりに坊主頭の男が言葉を発した。
「あ、そうそう。これも昨日言ったけどよ、もし一週間以内に良い返事が望めなかった場合――東京にいる娘さんトコにも「説得」に行く予定なんで、そこんとこヨロピクね」
富井の顔色が、くっきりと分かるほど真っ青になった。
それを見て、要は背中に寒いものを感じた。「血の気が引いた」という形容詞にここまで相応しい顔を、今までの人生の中で一度も見たことがなかったからだ。
「んじゃ、また明日。アデュー、富井ちゃん」
「バイバイキーン」
そんなふざけた別れの挨拶とともに、二人の男は店から去っていった。
そして訪れる、しばしの沈黙。
それを最初に破ったのは要だった。
口から易宝の手がようやく解かれたことでしゃべれるようになった要は、吐き出すようにまくし立て始めた。
「おい師父! いきなり押さえやがって! なんで邪魔したんだ!?」
「落ち着けカナ坊」
「落ち着いてられっかよ! 何なんだよあのバカ共は!? いきなり上がってきたと思ったら好き勝手しやがって! あんたもあんただ師父! なんであんな奴らにヘーコラして痛ぁ!?」
易宝のババチョップを額に受け、怒りでヒートアップしていた要は強引に口を止められる。
「落ち着けったら。暴れたからってどうにかなるわけでもないだろう。店が荒れるだけ。実力行使は考えてするべきだ。ましてや、今のおぬしに勝てる相手じゃない。連中はケンカのプロだろうよ」
額を押さえて涙目で睨む要に、易宝は諭すようにそう言う。
もちろん、易宝の言い分には十二分に頷ける。だが理屈で分かっていても、感情がそれに追っつかないのだ。
「まずは状況を確認することが先決といえよう。のう、おやっさん」
富井はビクッと反応し、易宝の方を向く。
易宝はそのまま続けた。
「あやつら――地上げ屋だろう?」
富井は俯き、何も言わない。沈黙は是なり、といったところか。
「確か、近々この辺で団地を建てる、みたいな話を聞いたことがあってのう。もしかすると、それに関係していたりするか?」
「…………」
「この店の周りには多くの売地がある。そいつを使いたいが、それらの土地に混じってポツンと建ってるこの店が邪魔だった。なんとかどかしたい。だがその店の持ち主であるアンタが土地の買取りに「うん」と言わなきゃそれは叶わない。だからさっきみたいな連中を使って嫌がらせを繰り返し、肉体的、精神的に追い詰めて無理矢理「うん」と言わせて買い取る。バブル期に流行った手口まんまだ――違うか?」
「…………劉さんのおっしゃる通りだよ」
富井は暗澹たる表情で、かすれた声で話し始める。
「あいつら、この近くに事務所を置いてる「霜月組」の連中だよ。ひと月前に突然ウチにやって来て、「ここを売って欲しい」と言ってきた。だが死んだ女房と長年二人三脚でやって来た大事な店だ、私は当然かぶりを振った。すると奴ら次の日から毎日店にやって来ては、嫌がらせをしてくるようになったんだ。お客もヤクザが出入りするもんだからみんな怖がって来なくなって、このザマさ」
「……嫌がらせだけでなく、客足をなくして店の屋台骨ごと折ろうという腹か。いやらしい話だ」
「それだけじゃない。業を煮やした奴らは、昨日から一週間を「タイムリミット」と言ってきた。これを過ぎる前に土地の売却に頷かなかったら、今東京に住んでる娘の元へ押しかける、と言ってきたんだ。あの子は今お腹に赤ん坊がいる。もし連中の仲間が上がり込んだりしたら……」
要の両手が勝手に握りこぶしを強く作る。
なんてムカつく話なんだ。あのクソ野郎、やっぱりもう一発殴っておくんだった。
「……それで、おやっさんはどうしたいんだ?」
「最近は……「頷こう」という方に気持ちが傾きつつあるよ。娘の事を考えると、ね。妊婦にストレスは大敵だ。旦那も優しい人で、荒事に強いとは言えないからね。私一人が涙を飲めば済む話かもしれない」
「おやっさん……わしはアンタが「どうしたいか」を訊いたんだ」
「……え?」
「わしとアンタは長い付き合いだ。アンタの娘とも同様に仲良くさせてもらった。とてもいい子だ。確かにあんないい子には幸せになってもらいたいもんだ。それが親心だろうよ。だがたとえ親子でも、娘さんの人生とおやっさんの人生は全く違う。だから自身の幸せを願う権利も、子の幸せを願う権利と等しくあって然るべきなんだ。無いなんてことが――あってたまるものかっ」
易宝は終始穏やかな口調だったが、最後の方だけは何故か語気が強めだった。
「難しいこと抜きで考えて欲しい。おやっさんはこの店を続けるのがイヤか? それとも、続けたいか」
「……劉さん」
「わしとしては、できればおやっさんが身を埋めるまで続けて欲しいと考えているが、それを無理強いは出来ない。だけどもし、おやっさんが「続けたい」と言ってくれれば――わしが人肌脱ぐ。金輪際あやつらをこの店の暖簾から先へ行かせないと誓おう」
富井は焦ったような顔を見せ、
「む、無茶だ! 霜月組はそうデカい組織じゃないが、一応ヤクザだ! 劉さんに武道の心得があるのは知っているが、奴らはプロだよ!? 下手すると劉さんが……」
「ひひひ、なぁに、暴力でなくとも解決策なんぞいくらでも用意できるさ。それにな……」
易宝は食べかけの富士チャーハンを一瞥する。冷えた五目チャーハンの中心にできた窪みには、金髪の男が吐き捨てた痰が固まっていた。
「二千円もする富士チャーハンを途中でお釈迦にされて、わしは今えらくカンカンだ。食べ物の恨みは恐ろしいということを、あのアホどもに思い知らせてやりたいのだ。ゆえにこれは、わしのための戦いでもある。どうだおやっさん、ここは藁を掴むつもりで、わしを試しに頼ってみてはどうかな? 絶対に悲惨な結果にはさせないと約束するから」
富井はしばらくの間、顔を伏せ、無言で考える。
やがて顔を上げ、さっきよりもやや光の戻った顔つきで小さく笑い、答えた。
「……分かった。私も本音では、ここを手放すのは嫌だ。だから劉さんにお願いしよう。ただし約束して欲しい。危なくなったらすぐに引き下がると」
「心得た。だが安心するといい。そうなる事は絶対にないからのう」
よしきた、と易宝は立ち上がり、腰に手を当てる。
「まずは下準備が必要だ。おやっさん、悪いがこれだけはアンタにも少し協力してもらいたい。おやっさんがいないと成立しないんだ」
「いいけど、何をすればいいんだい?」
易宝はニヤァと笑い、人差し指を立てる。
「明日――あと一回だけ、連中の嫌がらせに耐えてくれんか?」
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
さてさて、次回は劉師父に無双して貰いたいと思っていますが……上手く書けるかなぁ。
それから設定、描写などに甘い点が見られたのでちょくちょく修正にかかってます。
ですが大きくは変わりませんので、ご安心下さい。