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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
89/112

第九話 拝師式、そして……?


 もうじき太陽の高さがピークに達する時間帯。


「……それで、何故おぬしがここにいる?」


 易宝はなんだか悩ましそうに目頭を揉んでいた。


「いや……何と説明すれば良いか……」


 対して、臨玉は不服そうに易宝を見ながらそう返した。


 そして、その視線は必然的に、ここへ臨玉が来るきっかけを作った一人の少女へ向いた。


「…………あ、あはは」


 その少女、倉橋菊子は、ごまかすように乾いた笑いを浮かべた。


 そんな彼女を、要もまた怪訝な目で見ていた。


 要と奐泉は森から引き返し、先ほど『公会(ギルド)』本部であるこの四合院前へと到着した。


 普通なら要と奐泉の二人だけが戻ってくるはずだったが、なんと菊子と臨玉がセットでついてきたのだ。


 菊子はあのまま別れるかと思ったら、突然後ろから走って追いついて来た。


 そして、臨玉の行動理念は基本的に菊子だ。何より誘拐事件からまだ日が浅いので、その護衛は怠らないはず。


 菊子がわざわざついて来た理由はまだ不明。


 要はとりあえず分かっている範囲の事情――この近くに倉橋家の別荘があるという事実――を説明した。


「なるほどのー。そりゃ面白い偶然もあったものだ」


 易宝のしみじみしたセリフに、菊子はやや恐縮した様子で会釈した。


「こ、こんにちは劉さん」

「おう。元気だったか?」

「はい。北京にいる間、フェイフォンはどうしてますか?」

「心配せんでも、お得意様の婆さんに預かってもらっておるよ」


 易宝は気さくな笑みをたくわえながらそう受け答えする。娘……というより孫娘と話しているみたいな感じだった。


「まあ、嬢ちゃんはいいとしよう。……なぜ北京に来てまでおぬしと顔を合わせにゃならんのか」


 だが臨玉に目を向けた途端、その笑みは苦虫を噛み潰したような顔へと早変わり。


 対し、臨玉は眼鏡をクイッと指で整え、負けじと皮肉を発する。


「ふん、それはこちらの台詞だよ。君こそ僕の行く先々でよくもまあ現れるものだ。もしかして僕と友達になりたいのかい?」

「んなわけあるかい。つーかそれ、貴様にも言えることだぞ。今年から幾度もわしの目の前に現れおって、もしかしてわしの追っかけか何かか?」

「ははははっ! 君のどこに追っかけられる要素があるというのかなあ!?」

「おい貴様、今ここでわしの勝ち星追加してやろうか? いっぺんに十個ぐらい」

「いいよ、来るがいいさ」

「――あーはいはいそこまでよー、万年お馬鹿コンビ」


 一触即発の雰囲気であった二人の『高手(ガオショウ)』の間に、深嵐が"現れた"。


 まるでLEDライトの点灯のように過程が見えない、突然その位置に湧き出るような現れ方。これまで幾度も見せられた『縮地』だ。流石にそろそろ見慣れ始めていた要は、もうそれほど驚かなくなっていた。


 深嵐は易宝と臨玉の顔前に掌をかざしながら、


「これから拝師式が始まるんでしょうに、そんなバカスカ殴り合ってどうすんのよぉ。今日くらいは無礼講になさいな」

「……ちっ」

「そういえばそうでしたね。申し訳ない。それとお久しぶりです、紅師傅(しふ)


 二人は素直に拳を収めた。深嵐は「ん、ひさしぶりねぇ」と臨玉に挨拶を返す。


 要はホッとした。こんな所で試合なんか始まったら面倒だ。まして、これから大事な式があるのだから。


 ふと、菊子が服の裾をちょいちょい引っ張ってきた。


「カ、カナちゃん……今あの女の人、いきなり出てきましたよね……?」

「気にするなキク。突っ込んだら負けな世界だ」


 人間、余計なことは考えず「こういうものだ」と吸収する柔軟性も大事だよ。


 深嵐の耳がぴくり、と動く。


 さらにこちらへ振り向き、つかつかと歩み寄ってきた。


 彼女は、菊子の顔を間近で覗き込みながら、興味深そうにニンマリと笑った。


「なるほど……ふーん、あなたが「キク」ちゃんね」


 突然興味を向けられて驚いたのか、菊子は一歩後ずさった。


「あ、あの……なんでしょうか……?」

「へ? ああ、ごめんねぇ。紹介がまだだったわ。あたしは紅深嵐っていうの。よろしくね、倉橋菊子ちゃん」

「よ、よろしくお願いします……って、え? どうしてわたしのお名前を……?」

「要ちゃんから聞いたのよ。この子、あなたの事褒めてたわよぉ。すっごく綺麗な女の子だって」

「ちょっ、待――」


 要が止めようとしたのも虚しく、自分が昨日口にした小恥ずかしいセリフを言わせてしまった。


「…………きれい…………?」


 菊子はというと、茹でダコのように顔を真っ赤にしながらうつむいていた。


 要は顔を手で覆った。やばい、めちゃくちゃ恥ずい。


 どうしたもんかと考えていると、左腕に柔らかな重みと温かさが押し寄せてきた。


 奐泉が抱きついていた。


「カナ様、わたくしは可愛いですかぁ?」


 甘えるような声と上目使いで、そう訊いてくる。


 その態度にドキドキしながらも、要はすまし顔で淡々と答えた。


「まあ、可愛いんじゃないの」

「本当ですか!? ふふふ、やったー! わたくし、可愛いって! わたくし、可愛いって!」


 すると奐泉は、その場でぴょんぴょん跳ねて大喜びした。


 しかしなぜだろう。そのリアクションにどこかわざとらしさを感じる。


 さらに、菊子へちらちらと視線を送っている。勝ち誇ったような目だった。


「~~~~~~!」


 菊子はなんだかショックを受けたような顔をした。


 数秒間唇を噛みしめたまま下を向くと、やがて何かを覚悟したように勢いよく顔を上げた。 


 要のすぐ傍までやってきて、その右腕に身を寄せてきた。ふんわりと、とても柔らかな触感と匂いが襲いかかった。


「ちょ、ちょっとキク!? 何を!?」


 さらなら羞恥に顔を赤熱させ、上ずった声で呼びかける要。


 しかし菊子はそれに全く耳を貸さず、左腕に抱きついている奐泉をジト目で睨みながら、


「う~~~~~!」


 と、唸った。


「む~~~~~!」


 奐泉も同じような視線を菊子に向け、唸り返す。


 要のお腹の辺りで、彼女たちの精神が火花を散らしているような錯覚を覚える。


 な…………ナニコレ?


 先ほどまでの羞恥の熱はすでに冷め、冷や汗が出てくる。


 なぜだかよく分からないが、この二人はかなり相性が悪いらしい。その対立の渦中に放り込まれ、要はタジタジになっていた。


「…………ああ、なるほど。そういうわけかい」


 易宝はなにやら納得したように首肯した。


「な、なんだよ、師父(せんせい)? 何か分かったのか?」

「いや、全然分からぬよぉ? ただ一つ理解できるのは「おぬしも隅に置けん男だのう」ということだ」


 あからさまに含みのあるニヤケ顔だ。……なんだろう、その顔が妙にムカつくんですけど。


 それに、その場にいる他の者たちから受ける眼差しが妙に生暖かい。少女二人があからさまに仲悪そうだというのに、なんだか微笑ましげである。




「なるほど、工藤くんのお友達だったかい」




 突然、そんな言葉が端から飛んできた。


 要よりもさらに小柄な好々爺が、雲が流れるような足取りで要のもとへ近づいてくる。


 その老人――楊氏の登場とともに、奐泉はぴたりと押し黙った。それは彼を一目置いている裏付けだった。


 菊子もまたハッと我に返り、弾かれるように要から距離を取った。その顔は熱した鉄のように赤かった。こっちは楊氏を一目置いているからとかではなく、単に自分の行動を恥じたからだろう。


 楊氏はかんばせに刻まれた笑い皺をなぞるように、人好きする笑顔を浮かべた。


「初めまして、お嬢さん。私は楊北熙という。楊と呼んでおくれ」

「は、初めまして。倉橋菊子ですっ」


 黒絹のような髪を振り、勢いよくこうべを垂れる菊子。


 楊氏は「うん。よろしくね」と返した後、今度は臨玉を見た。


老楊(ラオヤン)、ご無沙汰しております」


 その視線に反応し、右拳左掌の抱拳礼を交えて会釈する臨玉。


「久しぶりだね、小夏(シャオシア)。ふふ、君も小劉(シャオリウ)と同じく変わらないね。私はちょっと皺が増えちゃったよ」


 軽く笑い合う二人。


 そしてまた、楊氏は菊子へと目線を戻した。にこにことした顔のまま、


「聞くと、お嬢さんは小夏のご家族らしいじゃないか。言ってしまうと、一般人がここに来ることはあまり好ましい事態ではない。だが小夏は信頼に足る人物で、君はその家族だ。工藤くんに会いたいのならば、特別に出入りを許そうじゃないか」

「へ……あ、ありがとうございます!」


 菊子が妙に嬉しそうに声を張り上げ、そう感謝を告げた。


 だが楊氏は次の瞬間、その柔らかな表情を引き締めた。


「しかしお嬢さん、これからしばらくの時間、我々の組織における大切な行事がある。それが終わるまでの間は、小夏とともにこの四合院の外で待っていてくれないかね。こればかりは内向きで行わなければならない。それが伝統だからね」


 物腰柔らかな彼が普段見せないような、荘厳たる顔つき。


 その表情と、それに交えてなされた説明が、要にこれから耳にするであろう事を先読みさせた。


 そして楊氏は、その先読み通りのセリフを口にした。


「――工藤くん、拝師式の用意が整った。着替えの準備をしたまえ」









 それからすぐに『公会』の会員たちに連れて行かれ、式における正装に着替えさせられた。


「うはー……スゲーなこりゃ」


 姿見に映る自分の姿に、要は思わず目を奪われた。


 別にナルキッソスよろしく、自分の容姿に見とれたわけではない。感動を覚えたのは、その服装に対してだった。


 真ん中を紐製のボタンで留められた黒い詰襟の長袖と、それと同色の長ズボン。中国伝統衣装の一種である唐装(とうそう)だった。易宝がいつも着ている服だ。

 しかし今要が身につけているソレは、素人目でも一目で高級品だと分かるものだった。

 黒い表面は顔が映りそうなくらい光沢が強く、その輝きもまるで猫目石のように鮮やかだ。柔らかいがふにゃふにゃと貧弱ではなく、それなりに硬さと強度もあるその生地は、どう見てもサテンやポリエステルではない。(シルク)だった。


 長袖なので暑いはずなのだが、その暑ささえ忘れるくらいの衝撃である。


 用済みとなったタンスを閉じた道計(ダオジー)が、からかうような口調で言った。


「それ、日本だと五〇万くらいらしいよ」

「マジすか!?」


 身につけているのが急に恐れ多くなった。


 道計も私服ではなく、要と同じく唐装を着用していた。聞くと、今日はみんな同じような恰好をしているとのこと。


 これからいよいよ、拝師式が始まる。


 崩陣拳という門派の、正式な家族となる儀式である。


 いうなれば、今まで内縁の夫婦だったのが、本物の夫婦になるようなものだ。


 夫婦になった以上、余所への浮気は許されない。生涯、崩陣拳という武術の修練、伝承のみに専念しなければならない。


 しかしここまで来た以上、逃げるつもりはない。否、逃げようという考えさえ生まれない。


 前に進むのみ。何かあったら、それはその時になんとかすればいい。


「では行こうか、工藤君」


 道計に促され、要は「はい」と胸を張って返事をしてから、一緒に部屋を出た。


 先ほどまでいた場所は、四合院内の北端にいくつか横並びした小さな部屋「後罩房(ごとうぼう)」のうちの一室だ。封建時代では家長の娘が住むプライベート性の高い部屋だったそうだが、『公会』ではもっぱら着替え場所や物置、来客用の寝室などとして使っている。


 後罩房と平行に伸びた石敷の通路を左へ進む。

 突きあたりに達したら、今度は右へ進む。

 通路の上部には瓦の(ひさし)がかぶさっており、それを支える柱が幾本も整然とした連なりを見せていた。柱と柱の間には花々をモチーフにした装飾がなされた欄干(らんかん)が張られている。


 建造物を形作るパーツの一つ一つが、まさしく中華圏といった造形。要の今の衣装と情景的にマッチしていた。まるで昔の中国にタイムスリップした気分だ。


 やがて右側に、四角く開けた広場が現れた。昨日『公会』の会員たちと初めて顔を合わせた、四合院中央の大きな中庭だ。


 見ると、左側には少し大ぶりな瓦屋根の建築物が鎮座していた。

 四合院内の真東に位置する「東廂房(とうそうぼう)」という建物で、昔は長男もしくは次男が住んでいたという場所だそうだ。その入り口前を通う石敷の道を要たちは踏んでいた。


 改めて、中庭へ目線を向けた。

 そして目を丸くする。

 唐装や長袍(ちょうほう)といった伝統衣装を身にまとった大勢の人々がいたのだ。散らばらず、いくつかの列を作って整然と並んでいる。

 軽く目算する。どう見ても一〇人や二〇人ではない。三〇人、下手をすると四〇人以上はいた。


「あれが全員……『公会』の人たちなんですか?」

「そうだよ」


 あっさりと肯定する道計。


 唖然とする暇さえ与えず、彼は二の句を継いできた。


「皆、君が崩陣拳の新たな担い手となる瞬間を見届けるためにここへ来たんだ。しっかりな」


 ポン、とこちらの肩に手を当てた。


 要は整った列を作った『公会』の会員たちを見る。皆、期待と羨望の眼差しを、要という一点にこれでもかというくらい注いでいた。


 それらの視線が、これから受け継ごうとしている伝統の重みを言外に、そして如実に表していた。


 ――自分は今まで、とりあえずがむしゃらに崩陣拳を学び、鍛えてきた。


 しかし、本来そんな姿勢で学ぶべきものではなかったのではあるまいか。

 もしかしたら自分はこれまでの間、拝師というものを結構軽く見ていたのではあるまいか。

 これから、想像を絶するとんでもない世界に足を踏み入れようとしているのではあるまいか。


 ごくん、と喉が鳴る。


 やばい、緊張してきた。「前に進むのみ」なんて格好よく構えてすぐにこの体たらくだ。自分がちょっぴり情けなくなる。


 しかし、整列している会員たちの中から、見知った顔と目があった。奐泉だ。


 彼女は笑顔で両腕をガッツポーズさせながら「ふぁいと、ですわよ」と唇の動きだけで言ってきた。


 何やってんだ、あいつ。


 荘厳極まる空気の中に馴染まないその仕草に、要は一瞬目をぱちくりさせ、そして小さく吹き出した。


 そのおかげか、四肢を固めていた緊張が一気にほぐれた。


 要は「ありがとう、頑張るよ」と唇で声も無く告げた。今の自分は、きっと笑っているに違いない。


 奐泉は頬をほんのり紅く染めると、すぐにはにかんで一礼した。


 軽やかな足取りで短い石段を降り、中庭の端をなぞるようにして歩く。


 ――昨日、楊氏と一緒に四合院を見回りながら、その内部構造を聞いた。

 この中庭の東、西、北には、それぞれ一つずつ大きめの建物が建っている。

 東西にあるのは「廂房(そうぼう)」と呼ばれる部屋だ。先ほど説明した東廂房と、中庭を隔ててその向かい側に面した西廂房。昨晩、易宝は東廂房を、要は西廂房を寝室に使った。

 そして北には、四合院で最も大きな建築物「正房(せいぼう)」がある。一族の祖先を祀る斎場(さいじょう)の性質を持った建物。家長とその妻の部屋へと繋がる出入り口でもある。


 要は道計に導かれるまま、その正房の中へと入った。


 そこは大広間だった。

 四角い行灯が天井にいくつかぶら下がっており、光を発して――中身は火ではなく電球のようだ――中を照らしていた。床はところどころ細いヒビの生えた石畳。壁には中華風の装いをした窓枠と、山水画の描かれた掛け軸が四枚ほど。

 (こう)の匂いがする。奥の壁中央には、赤褐色の木材でできた簡素な机が一つあった。置いてあるのは火のついたロウソクと、生米の盛られた茶碗。米の山には長い線香が挿してある。

 線香の煙をたどって上へ視線を移すと、奥の壁面の上部に赤い紙が四枚貼ってあるのが見えた。見事な筆遣いで文字が書かれており、「天地君親師」という紙を頂点に、その下段に右から左へ「鄭熙陽祖師」「呂月峰老師」「劉易宝老師」の赤紙。

 

 奥の机の左右傍らには、立派なワインレッドの長袍を身にまとった楊氏と、いつものものと違う上品な唐装を着た易宝が立っていた。


 さらにその机を中心にして、『公会』の御歴々が半円を描くような配置で座っている。深嵐や響豊といった見知ったメンツもあれば、見たことのない顔ぶれもちらほら。


 彼らは皆例外なく、厳粛たる表情で次代の伝承者――工藤要を見据えていた。


「……っ」


 さっきの人の集まりとはまた違った迫力を受けることとなった。


 少しでも冗談をかませば首をはねられそうな、そんな乱すべからざる荘厳なオーラ。


 けれど、道計が後ろからそっと肩を叩いたことで我に返る。慌てて右拳を左掌で包んで頭を下げた。抱拳礼。


 ――これより先の手順は、前もって道計に教わっている。


 それに沿って動けばいいだけのこと。だから落ち着け。気をしっかり持て。


 真っ直ぐ歩き、奥にある机の前まで着く。立ち止まる。


 机の隣に立つ易宝と楊氏に再び抱拳礼。二人も同じように礼を返してくる。


 易宝から線香を一本受け取り、その先端にロウソクの火を与えてから、生米の山へと挿し込んだ。


 要は机から少し距離を取り、床に跪いた。


 楊氏が掛け声を発した。


「鄭熙陽祖師に――一次叩(イーツーコウ)!」


 頭を下げる要。


再次叩(ザイツーコウ)!」


 頭を下げる要。


三次叩(サンツーコウ)!」


 頭を下げる要。


 ゆっくりと顔を上げた。


 これは「三叩頭(さんこうとう)」という、中国の礼法の一つだ。昔は皇帝の御前で使われていたという。


 伝統的な「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)」に倣うのなら、跪いて三度頭を下げるというのを三回行うのが正しい。だが崩陣拳の拝師の儀では、一度に一回で良いとのこと。


 再び、楊氏の声が強く耳を打った。


「続いて、呂月峰老師、劉易宝老師に――一次叩(イーツーコウ)!」


 頭を下げる。


再次叩(ザイツーコウ)!」


 頭を下げる。


三次叩(サンツーコウ)!」


 頭を下げる。


 ゆっくりと顔を上げた。


「――工藤要」

「はい」


 楊氏の厳かな呼びかけに、要はほとんど間を作らず返事をした。


「貴殿は、我らと我らの祖先が一〇〇年の歳月を超えて守り抜いてきた崩陣拳という名の秘宝を担い、受け継ぎ、守り、次代へと語り継ぐ語り部となることを誓うかね」

「はい」

「驕らず、軽んじず、侮らず、怠らず、師の教えを墨守(ぼくしゅ)することを誓うかね」

「はい」

「正しく得た衣鉢(いはつ)を正しき者のみに伝え、自らの指南に責を持つことを誓うかね」

「はい」


 逡巡(しゅんじゅん)による間隙は一切つくらず、ただ「はい」とだけ答えた。


「よろしい。ならば工藤要、立ちなさい」


 言われた通りにする。


 そして、楊氏から筆ペンを手渡された。


「机の上にある拝師帳に、貴殿の名を書きなさい。それをもって、工藤要を正宗崩陣拳第四世として正式に拝師したものとする」


 線香の挿さった茶碗のすぐ傍に、赤一色の帳面が置いてあった。随分年季の入ったその帳面は厚手の透明ブックカバーに包まれており、表紙には「正宗崩陣拳伝人」と書かれていた。


 要はその帳面「拝師帳」を手に取り、優しく一枚めくった。


 易宝と、その師である「呂月峰」の名以外記されていない。一ページ目の時点で余白部分が多く、残りのページにいたっては真っ白だった。


 考えてみれば当然のことだと思う。崩陣拳は一九世紀に生まれた比較的新しい武術である上、伝承者を厳選してきたのだから。


 これからの未来、この余白がどれだけ埋まるのだろう。

 そして、この余白が埋まるかどうかは、自分にかかっている。

 自分が易宝から正伝を受け継ぎ、それを次に伝えることで、初めて新しい名が埋まるのだ。

 この余白すべてが埋まるまで、いったいどれだけの世代交代が必要なのだろうか。考えただけで気が遠くなりそうだ。


 要は「劉易宝」という古い黒文字をそっと指でなぞった。紛うことなき彼の筆跡。

 易宝も、こんな心境で拝師帳とにらめっこしたのだろうか。いや、したに違いない。

 彼はきっと努力したのだろう。強くなるために、崩陣拳という伝統を正しく受け継ぐために、そして――自分という次世代へ語り継ぐために。

 それを思うと、ここで書かない選択肢は絶対に取れないと思った。


 何より――自分の魂に刻み込まれた運命がそれを拒否している。


 要は筆ペンのキャップを取る。






 そして、「工藤要」という名を書き足した。











 拝師式はつつがなく幕を閉じた。


 それから要は『公会』の会員たちとともに宴に興じた。拝師式が終わろうとしていた頃には、中庭ではすでにその準備が始まっていたのだ。


 人数の多さゆえに宴の準備はすぐに終わった。


 中庭のあちこちにテーブルが置かれ、それらには色とりどりの料理が並んでいた。しかもこれらを作ったのは、昨日夕食を作ってくれた大酒店のコック長。どの品も絶品だった。


 大いに食べて飲んで語らって、時間はあっという間に過ぎていき、午後四時になる頃には勢いも下火になっていた。


 テーブルの上も残骸やまっさらな皿ばかりになっていて、現在は片付けている最中だ。


「ふう……」 


 要は四合院の外壁へ背を預けながら、重くなった腹部を押さえて一息ついた。


 もうお腹いっぱいだった。おまけに何時間も人込みの中に身を置いていたため、どっと疲れた。


 一人になれる時間をようやく確保できた。


「カナ様」


 ――と思ったが、唐突にかかってきた女の子の声を聞いたことで、その時間はすぐに終わった。


「奐泉」


 奐泉が、微笑みをたずさえながらこちらを見つめていた。


「カナ様、正式入門おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」

「これでわたくしたち、晴れて家族同然の間柄ですわね。ふふふ、家族になっちゃいました……」


 家族、家族……と同じ単語を何度もつぶやきながら、妙に嬉しそうに笑う奐泉。


 拝師を迎えると、関門弟子となる。そして師やその他の弟子たちとも家族並みの強固な絆が形成される。中華武芸における伝統的な師弟関係だ。


 そして崩陣拳と『公会』は、互いになくてはならないほどの深い絆で結ばれている。片方の家族になることは、もう片方とも家族になることとほぼ同義なのである。


 文化大革命で中華武芸が叩かれたのは、この宗教じみた師弟関係によるところも大きい。


「でも、師父はそんなこと気にしなさそうだけどな」


 易宝はそういった師弟関係を「古臭い」「弟子の思考、思想を縛る厄介な慣習」と断じた。なので、今までの態度に変化なんか起きないだろう。


 それでも拝師式を行ったのは、崩陣拳を受け継いだという事実を作るために、そういった確かな「形式」が必要だったからだ。


「わたくしは気にしまくりますわよ」

「そうなのか?」

「ええ。だって……カナ様と家族になれるんですから」


 一陣の風が、二人を横から叩く。木々が揺れてざわめき、鳥たちが鳴きながら飛び去った。


 奐泉の前髪が取り払われる。そして、今の表情が包み隠さず露わとなった。


 ほころんだ口元。紅く染まった白い頬。そして、潤んだ瞳。


 心音が跳ね上がり、体の内側から甘い熱がこみあげてくる。


 原因不明の症状に、動揺が走った。


 その動揺をよそに、奐泉は歩いてくる。


「奐泉……?」


 かすれた声が出た。


 彼女はあっという間に距離を縮め、要の目の前に立ち止まった。


 潤んだ上目遣いが、こちらの心を見透かそうとばかりに覗き込んでくる。


「カナ様……」


 潤いに満ちた声色が耳を撫でてきた。


 またしても心臓が高鳴った。


 体が金縛りにあったかのように動かない。


 ――これから何か、今まで味わった事のないとてつもない経験をする。そんな気がした。


 奐泉が要の片手を取った。彼女はそれをゆっくりと胸の前へと持ち上げ、自身の両手で包み込むように握る。


 いつもひんやりした体温を与えてくるその手は、今回はとても熱かった。目の前の美しい少女の頬と同様、はっきりと火照っている。


 耳を澄ますと、奐泉の呼吸の間隔も、いつもより狭かった。勇気を出して何かを言い出そう、そんな感情が見て取れた気がした。


 けれど、奐泉はすぐに意を決したように鋭く吸気した。


 そして吸った息を、"強い想い"とともに吐き出した。






「わたくし――――カナ様の事が好きです」






 一瞬、時間が止まったような錯覚に陥った。


「…………どうして?」


 驚くほど冷静に、我が口からそんな発言が飛び出した。


 ――そう、薄々気が付いていた。


 要には能動受動問わず、恋愛経験が皆無に等しい。なので、恋愛に関する心の機微をうまく理解することができない。


 けれども、奐泉はあれだけ熱心にアピールしてきたのだ。あそこまでやられて好かれている可能性を欠片も抱けないなんて、冷血人間か女性不信のひねくれ者くらいのものだろう。


 本当はきっと、心で感じていたのだ。彼女の好意を。


 しかし勘違いだったら赤っ恥だから、本能的に目を背けていたのかもしれない。


 だが一つだけ分からなかったのは、自分を好きになった理由だった。


 この北京に来るまで、要と奐泉の間には面識などなかった。


 ならば、どうやって好きになる?


「一目惚れですわ」


 さらりと答えを出してきた。


「それって……昨日初めて会った時か?」

「違いますわ。もっと前からです。――カナ様の写真を初めてみた時からですわ」

「写真?」


 こくん、と奐泉は頷く。


 唇を噛みしめて羞恥に耐えるその顔は未だに濃い赤さを帯びており、眼差しにもからかいの色を感じない。本気のようだ。


「劉師傅から送られてきたカナ様のお写真を拝見した時、一目で心を奪われましたわ。明確な理由はありません。でも、わたくしは確かに思いました。この人に会ってみたい、この人に触れてみたい、この人を笑わせてみたい、この人の困った顔が見たい、そして…………この人とずっと一緒にいたい、と」

「奐泉……」

「写真を見ただけで惚れるなんて変だ、とカナ様はお思いになるかもしれません。けれど、わたくしは本気です。半端な気持ちは一切ありません。カナ様、好きです。大好きです。愛してます。もし可能であれば、あなたともっと深い関係を築きたいと考えています」


 こちらの手を握ったまま、奐泉はさらに距離を縮めてくる。まるで埋まって一つになろうとばかりに。


 あと少し近づいたらキスできてしまう。それほどの近さから、懇願するような彼女の双眸に射られる。


 動悸が止まらない。息が苦しい。


「この気持ちを、ずっとぶつけたくて仕方がありませんでした。でも拝師をひかえたカナ様に余計な悩みを押し付けたくなかったから、せめて拝師式が終わるまで我慢しようと決めていました。……では、今度はカナ様にお尋ねします」


 至近距離にある大きな瞳に、期待と不安の色が同時に混じる。


「カナ様は……わたくしの事、好きですか?」


 人生最大の難問を突き付けられた気がした。


 正直に言って、自分に対して好意を向けてくれていることに関しては、嬉しい。


 だって、好かれているということは、自分という存在が認められているということだから。


 けれど、それはただ単に、承認欲求が満たされているだけに過ぎない。恋であるかないかと言われたら……違う気がする。


 じゃあ、好きってなんだ? 愛してるってなんだ?


 ……そこまで考えて、要は思わず脱力した。


 ダメだ。やっぱり俺は恋なんてさっぱりだ。


 鈍感以前の話だ。恋そのものが理解できていないのだ。


 ああ、もうこの場で頭を抱えてうずくまってしまいたい。


 その時だった。周囲にある森の一角から、べたりと何かが落ちるような音が聞こえてきたのは。




「……あ……あ、あ…………」




 振り向くと、そこには尻餅をついた体勢の菊子の姿。


 顔面を蒼白にし、震えた唇の奥から蚊の鳴くような声をもらしていた。


 今までここにいなかったが、きっと別荘に戻っていたからだろう。


 ――が、そんなことはどうでもいい。


 要はひどく気まずかった。なにせ、人様の告白シーンを見せてしまったのだから。


 だが告白者である奐泉は、驚いたり、恥ずかしがったりなど全くしていなかった。


 それどころか、来るのを待っていたとばかりに不敵な微笑みさえ見せた。


「ふふふ、ちょうど良かったですわ。実は倉橋様にお願いがありますの」


 先ほどまでの甘ったるい口調とは打って変わった、挑むような強い語気。


 聞いているのかいないのか、菊子はいまだ青ざめた顔のまま微動だにしない。まるで生気を抜かれたかのようだ。


「どうせ最初から一部始終見ていたのでしょう? ならば聞いての通りです。わたくし、カナ様の事が大好きですの。だからもう今後、カナ様に馴れ馴れしくしないでいただきたいです」

「……どうして」


 かろうじてとばかりに出てきた、菊子のかすれた声。


「どうして? 貴女も女であるならお分かりでしょう? 自分が好いている男性が他の女性と親しくしているところを見て、いい気分でいられる訳がありませんわ。まして、その女性が男性の事をなんとも思っていないのならばなおの事不快。万が一その男性が、いい加減な気持ちしか抱いていない女性のことを好きにでもなったら、わたくしだったら屈辱的すぎて憤死する自信がありますわ」

「……なにが、いいたいの」

「分かりませんか? わたくしはもう想いを打ち明けた。つまりこれからカナ様に馴れ馴れしくできるのは――わたくし同様、自分の秘めたる気持ちをさらけ出せた者だけ。それさえ出来ないような臆病者がわたくしと同じ土俵に立とうなど、片腹痛いと知りなさい」


 最後の方だけ鋭く語気を尖らせ、奐泉は言い切った。


 今の彼女は、今まで見せたことのない、剣呑な一面を露わにしていた。


 なんか怖い。


 要はその迫力に思わず冷や汗が出た。


 何か言って菊子をフォローしてやりたかったが、それさえ許さないような空気がそこにはあった。


 つまるところ、女同士の問題に、男は無力であるということ。


「ここが分水嶺ですわよ、倉橋様。貴女はそうやって地面にお尻をつけたまま動かないのか、もしくは立ち上がってご自分の心に正直になるのか」


 何かを促すような言い方をする奐泉。


 要は一度冷静になり、今まで奐泉の口にしてきたセリフの文脈を脳内で抜粋していった。




 ――貴女も女であるならお分かりでしょう? 自分が好いている男性が他の女性と親しくしているところを見て、いい気分でいられる訳がありませんわ。


 ――これからカナ様に馴れ馴れしくできるのは、わたくし同様、自分の秘めたる気持ちをさらけ出せた者だけ。それさえ出来ないような臆病者がわたくしと同じ土俵に立とうなど、片腹痛いと知りなさい


 ――貴女はそうやって地面にお尻をつけたまま動かないのか、もしくは立ち上がってご自分の心に正直になるのか。




 まるで奐泉だけでなく、菊子まで自分の事を好いているみたいな言い方だ。


 いや…………まさか、ねぇ?


 要は菊子へ目を向けた。


 彼女は尻餅をついたまま、顔が見えないくらい深くうなだれていた。ひどくダウナーで、力なく垂れ下がった長い黒髪も相まって退廃的に映った。


 だが、やがてその様子に変化が訪れた。


 デニムパンツの右ポケットに片手を突っ込んだかと思うと、その中で何かを握り込んだ。


 そのまま、下半身を震わせながらゆっくりと立ち上がった。


「わ、わたしだって……!」


 息苦しそうに間隔の短い呼吸を繰り返しながら、菊子はつぶやいた。


 その顔には先ほどまでのショッキングな青白さはすでに無い。


 あるのは、恐怖を抱きつつ、それでも立ち向かいたいと強く思う決意の表情。


 そして。






「わたしだって――――カナちゃんの事、好きだもん!!!」






 とてつもなく甘ったるい爆弾を投下してきた。


 普段の菊子が滅多に出さないであろう声量によって投げられたのは、紛うことなき告白。


 シンプルだが、それゆえに要の心の芯まで強く響き渡った。


「……う、嘘……だろ?」


 きっと今の自分は、口を金魚よろしく開閉させているに違いない。


 嬉しい嬉しくない以前に、ただただ衝撃的だった。


 菊子とは友達だと思っていたし、事実決して浅い間柄ではない。


 けれども、まさか菊子が自分に好意を持っているなどとは、露ほどにも思っていなかったのだ。


「嘘じゃないもん!! わたし、カナちゃんが好き!! あの誘拐事件から、ずっとずっと大好きだったもん!!」


 告白の時の勢いを崩さぬまま、張り詰めた声で言い募る菊子。その顔はさっきの蒼白さなど見る影もないほど真っ赤っかだった。


 奐泉同様間近まで歩み寄ると、要の唐装の袖を掴み、懇願するように続けた。


「わたし、寝ても覚めても、ずっとカナちゃんの事ばっかり考えてるんです。学校で会うたびすごく嬉しい気分になるし、休みの前日になったら落ち込んじゃう。それでもって休み中に会えたら、それはもう天にも昇りそうなほど幸せなんです。前に誤って抱き合っちゃったことがありますよね? あの日わたし、興奮しすぎて全然眠れなかったんですから。毎夜寝る前にいつも考えるの。「明日はどんな顔したカナちゃんに会えるのかな」って」


 想いの丈をこれでもかとぶつけられる。要の頬がみるみるうちに朱に染まっていく。


 そして菊子は、今度は袖ではなく、その中から伸びる手を握り締めてきた。上質なシルクのような肌触りが手を包み込む。


「自分が魅力の無い女の子だってことは理解してます。それでも……この気持ちだけは誰にも譲りたくありません。だから何度でも言います。――好き。世界で一番、カナちゃんの事が大好き。こんなわたしで良かったら……あなたの恋人にしてください」


 こちらの手を握る力が強くなる。


 それに対抗するかのように、もう片方の手を奐泉が握りしめた。


 眼前にあるのは、二人の少女の真剣な表情。


 彼女たちは、要の「答え」を待っているのだ。


 ――同時に二人の美少女に告白されてしまった。


 男にとっては夢のようなシチュエーションであると言われているが、今の要にとっては困惑の種でしかなかった。


 けれども、彼女たちは伊達や酔狂で告白したのではない。自身の想いを真摯にぶつけてきたのだ。


 ならば、自分もそれに対し、真摯に向き合わなければならない。


 要は一度深呼吸してから、意を決して言い放った。




「すまん。俺、今は二人の誰とも付き合う気はない」




 「否」を伝える返事。


 当然、それを聞いた二人の顔には、悲しみや失望の色が浮かぶ。


 彼女らの目から涙がこぼれる前に、二の句を継いだ。


「でも勘違いしないでほしい。二人の事が嫌いとか、恋愛対象外だとか、そういう理由で拒否ったわけじゃないんだ」

「では、どうして?」


 奐泉の問いに対し、答えを告げる。


「俺――初恋そのものがまだなんだよ。だから、恋ってやつがよく理解できてないんだ。そんな状態なのに、いきなり好きとか言われても、正直どうしたらいいのか分かんないよ。だから、二人の気持ちには今は答えられない」


 曖昧に終わらせるためではない。これが本心である。


 理解できていないものに対して、人は正解を出すことはできない。


 仮に、今どちらか片方が好きだと感じ、付き合ったとしても、後からその気持ちが恋ではないと分かったらどうなる? その間違いはそのまま、その女の子の心の傷につながるのだ。


 そんな無責任で自己中心的な事はできない。


 だからこそ、要は二人に対して「否」を突き付けたのだ。





「――ならば、これから理解すればいいだけの話ではないか」




 しかし、そんな要の選択をあざ笑うかのように、声が聞こえてきた。


 易宝だった。少し離れた位置に立ちながら、面白そうな顔で自分たちを眺めていた。


「せ、師父(せんせい)!? いつからそこに!?」

「今来た。だが、わざわざ聞かずとも事情は容易に察せる。やはりそこの二人、カナ坊に懸想(けそう)しとったか。いやー、青春だのー」


 にやりと口端を吊り上げながらのその発言に、菊子と奐泉は赤面して反応した。


 「やはり」という文脈から察するに、どうやら易宝はこの二人の気持ちに気づいていたようだ。


 が、その茶化すような易宝の口調に、要はわずかに苛立ちを覚えた。


「だったら何だよ。冷やかしに来たならあっち行ってくれ」

「まあ、そうカッカするでない。わしはそこの娘っこ二人と、ついでにおぬしも助けてやるために来たんだ。いわばキューピッド。無碍(むげ)にすると罰が当たるぞ?」

「……なんだよ」


 要は不機嫌そうに眉をひそめながら訊いた。




「カナ坊。おぬしに「新しい力」を授ける」




 そのような答えが返ってきた。


 新しい力。


 易宝の言うことだ。それは考えるまでもなく、武術に関わる代名詞。


 それを確信した途端、心が反射的に引き締まった。


「かねてから計画していた拝師式も無事に終わった。丁度良い機会だ。おぬしには残った夏休み期間を使って教えることにした――『気功術』を、な」


 喉が唾を無意識に飲み込む。


 『気功術』。それが「新しい力」の名前。


 いつだったか、さりげなくその名が話題に出たことがあった。


 外界を漂っている『気』というエネルギーを利用し、さまざまな能力を発揮する技術。要の知っている情報はこれくらいだ。


 新たな技術を学べることに対して嬉しく思う反面、疑問も並行して浮かぶ。


 なぜこのタイミングで、修業の話を出した?


 易宝はきょとんとした様子の少女二人へ視線を移すと、歯を見せて笑いかけた。


「――というわけだから、カナ坊は夏休み中(・・・・)この北京にずっと(・・・・・・・・)滞在すること(・・・・・・)となった(・・・・)。粉をかけるなりなんなり、好きなようにすると良い」

「な――ちょっと待て師父! なんでずっとここにいないといけないんだよ!? 確かにチケットの期限は余裕であるけどさ、修行するならここじゃなくてもいいだろ!? 帰国してからでもさぁ!」


 勝手に決められて理不尽だ、という気持ちのまま言いつのった要に対し、易宝は首を横に振った。


「いや、初めて気功術を修練するならば、ここほど相応しい場所はなかなかお目にかかれん。カナ坊、おぬしは見たはずだ。この森の中を進んだ先にある、巨大な樹を」


 ……そういえば。


 今日の午前中、奐泉と一緒に森の奥へ進み、丸い日向へ出た。

 そこの中心には、神社にある御神木を思わせる大樹が、力強く大地に根を張っていたのだ。人が六、七人手を繋ぎ合ってようやく幹を囲えるほどの太さだった。


 あのような樹は、探してもなかなか見つからない。


「実はあの場所は「ボルテックス」というパワースポットの一種なのだ。良質な(エネルギー)が、大地の底から泉のようにこんこんと溢れ出ている。気功術初心者でも外界にある気の存在を感じ取りやすく、上達もいくらか早くなる」

「えー。ホントかよ……」

「わしが武術に関して、嘘を吐いた事があるか?」


 うぐ。その正論に要は言い返せなくなる。


 易宝はそんなこちらの反応に満足そうに頷くと、再び菊子と奐泉を見直した。


「嬢ちゃん方、期間限定だが、カナ坊を北京に釘付けにすることはできた。わしにしてやれることはここまで。後はおぬしら次第だ。頑張れよ」


 そこまで告げると、言いたいことはすべて言い尽くしたとばかりに踵を返し、四合院の正門へと歩いていった。


「ちょ、ちょっと待て! 助け――」 


 要の切実な呼びかけにも応じず、我が薄情な師の背中は正門の奥へと消えていった。


 バタン。両開き扉が固く閉ざされる。


 その音を始まりに、沈黙が訪れた。


 しかし、それが続いた時間は十秒にも満たなかった。


「カナちゃん」

「カナ様」


 右腕に菊子が、左腕に奐泉がしがみついてきた。


「劉さん、さっき言ってたよね? 「恋を知らないなら、これから理解すればいい」って」

「だったらこの機会に、それを理解させてさしあげますわ」


 ぎりぃっ。


 少女とは思えない、万力のような握力が両腕を締め付けてくる。


 二人の想いの強さが、物理的な強さとなって襲ってきた。


 ていうか、痛い。手が変色しそうなんですけど……。


 そんな要の心情など露知らず、二人の美少女が顔を近づけてくる。


 いずれも、闘志と決意に満ち満ちた表情。


「わたしが――」

「わたくしが――」






「「あなたの初恋になってみせますからっ!!」」






 吐息がかかる距離で、両者は力強い声を重複させた。


「……………………………」


 猛獣から逃げまくった末に、断崖絶壁へと追い詰められた気分となった。

 

 完全に逃げ場が無くなった。


 結論を曖昧にすることももちろん可能だろう。


 だが、この二人の真剣な顔を見るといい。これを見れば、答えを曖昧のまま終わらせることが非常に申し訳なく思うはずだ。


 思わず、夕空を仰ぎ見た。






 …………ホント、どうしようか。


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


今回の拝師シーンは、故・松田隆智氏のお弟子さんの著書や、武道系雑誌の記事、海外の番組などを資料にして書きました。

資料で得た知識を色々混ぜているので、もしかすると突っ込み所があるかもしれません……(ーー;)


さて、今回の話で分かると思いますが、第五章でのカナちゃんは、新しい技の修行と恋愛問題の二つに悩まされることとなります。

なんだかストーリーが迷走している気がしないでもありませんが……気のせいだと思いたい。

だがもう作ってしまったものは仕方がない。どうにでもなーれ(_Д_)


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