第六話 搦め手合戦
要と奐泉が散手を行うという話題は、あっという間に『公会』全体に波及。四合院の正門前に多くのギャラリーを呼び込むはめになった。
太陽の角度は着々と西へ傾いているが、日光の勢いはほとんど衰えない。
ざわざわと賑わいを見せる人だかりにプレッシャーを感じながら、要は向かい側に立つ相手を見た。
奐泉は柔軟をしていた。その柔軟性はヨガの指導員さながらのもので、体を楽々と折りたためるほどであった。
彼女の武術は奇影拳。その起伏が激しく変則的な体術ゆえに、優れた体幹と柔軟性が求められる。あれくらいできて当然なのかもしれない。
要も何か準備運動をしようと思ったが、特に何も思いつかない。無理に動いても戦う前の余計な消耗となるだけな気がしたので、呼吸を整えながら待つだけにした。
やがて、奐泉は柔軟を終えると、
「――奇影拳、紅深嵐が関門弟子、馮奐泉」
右の拳を左掌で包み、そう名乗りを上げた。
その手の形は知っていた。
『抱拳礼』。武術社会における最もポピュラーな作法の一つだ。
片方の拳を、もう片方の手で包んで挨拶するというもの。
だが包む拳によって、その意味合いも変わる。
右拳を包んだ場合、それは普通の挨拶、あるいは「死なない程度に手合せをしましょう」という意味となる。まさしく今、奐泉がやっているように。
そして左拳を包むと、それは「互いに命をかけて戦おう」という意味となる。現代では形骸化しつつあるが、伝統を今でも重んずる人に対しては軽々しくやってはいけないのだ。
要も奐泉に倣い、胸前で右拳を包んだ。
「――崩陣拳、工藤要」
こちらも名乗りを終える。
互いに同じタイミングで、抱拳礼を解く。
そしてこれまた同じタイミングで、半身の立ち方となった。
両者の動きがそこで一度止まる。
要は見た目こそ不動であるものの、心の中は常に相手の出方を伺う「動」となっていた。気を抜いたらそこを付け入られる。きっと、奐泉も同じだろう。
やがて、ゆっくりと動き出した。
両者間に存在する不可視の軸を中心に、何度も周回する。
彼我の距離は常に一定。円の上をなぞるようにして歩く二人の足並みは、まるで泥沼の中をかき分けて進むがごとく粘っこく、そして緩急に乏しかった。
けれども、そのやり取りは唐突に終わる。
奐泉は等速の円周歩行を中断した――と思った瞬間、急加速。
重量感をほとんど感じない流れるような足さばきで、一気に距離を詰められる。
踏み込みに付随し、掌底が繰り出される。
要は全身をよじって体の面積を小さくし、それを紙一重で躱す。
掌底を突き出されたこの腕を捕まえて、関節を極めてやる。
そう考えた途端、奐泉の姿が視界から霞のごとく消え去った。
「うっ!?」
さらに間伐入れずに、背中へ鈍痛が叩き込まれた。
要は慌てて振り返る。が、そこには誰もいなかった――と考えた瞬間、再び新しい衝撃が背部を襲う。
「ぐっ……!」
思わず、くぐもった呻きが漏れた。
打撃力としてだけ見れば、大した威力ではない。しかし、攻撃者の姿が見えないまま一方的に攻撃を受けている事実が鬱陶しく、そして恐ろしくもあった。
焦りそうになるのを我慢し、要は冷静に頭を働かせた。
視界の中には一切いないと即座に判断。
ならば、彼女のいる方向は十中八九――後ろ!
「おっと!」
結論を出すと同時に前へ大きく跳んだ。
着地してから振り返ると、さっきまで要がいた空間を奐泉の掌底が貫いていた。背後からの一撃である。
その姿を見たことで、ようやく先ほどの攻撃の正体を確信する。
「……死角に隠れてたんだな?」
「ご名答、ですわ。『藏身万花陣』。相手の死角へ延々と回り込み続けて姿を消し、不可視の攻撃を何度も加える技ですの。怖いでしょう? 見えない相手から殴られるのは」
にっこりと笑みを咲かせる奐泉。可愛らしいが、どこか凄みのある笑顔だった。
死角とは、視界の中に含まれない不可視の位置。すなわち視界の「虚」。彼女はその「虚」の中に入り込み、好き放題に相手を殴れるのだ。搦め手と不意打ちが達者な奇影拳ならではの技だった。
ごくり、と唾を飲み込んだ。
要は早くも確信してしまった。
この試合、相手が女だと舐めてかかったら足元を掬われる。気を引き締めていかなければならない。
考えた瞬間、要は慣れ親しんだ『百戦不殆式』の構えを取った。防御から即座に攻撃へと転ずることのできるオールラウンドな構え。
奇影拳の厄介さは、鴉間との一戦でよく知っている。相手にばかり先手を許していたら、そのうち追い詰められかねない。こちらからも攻撃しなければ。
奐泉が再び近づいてくる。要との距離はすぐに潰れた。
両者の間合いが重なった瞬間、胸部に構えられていた彼女の片腕が突発的に跳ね上がった。獲物に食らいつく蛇のような鋭さと速さを得て跳んできた拳を、要は頭の位置を横へズラして躱した。すぐ耳元に腕鞭が通過し、空気を切り裂く音を届けてくる。
しかし、それは牽制。本命は持ち上げられていた片脚による蹴りだった。
細くしなやかな脚部がシャープな勢いで伸びる。針のような爪先蹴りが要めがけて疾った。
爪先は空気の壁を貫き、要の衣服の腹部分を擦過した。要はギリギリの所で体をひねり、回避に成功したのだ。
けれども、まだ終わらなかった。奐泉は突き伸ばされた片足を下ろしてそこへ重心を移し、肩口から体当たりを仕掛けてきた。
「……っ!」
無理をすれば避けられる一撃だが、今は間近にあるポニーテールの少女と距離を置きたかった。なので要は後ろへ跳んだ上で、わざとその体当たりを受けた。
石壁が猛スピードでぶつかって来たかのような衝撃とともに、要の体が大きく吹っ飛んだ。あらかじめ跳んだ勢いも相まって、奐泉との距離が大きく開く。
両手で受身を取り、そこから円滑な身のこなしで立ち上がる。吹っ飛ばされた後の立ち上がりは、易宝との散手で散々練習済みだ。
そこから間伐入れずに『箭歩』で疾走。大きく離れた奐泉との距離をたったの二歩で食い潰す。踏みとどまると同時に『撞拳』だ。
一方、彼女はこちらの目を真っ直ぐ見たまま動かない。構えのない完全な棒立ちだった。
要はその無防備さに、逆に不安感を得た。
――そして、その直感を裏付けるかのように"ソレ"は起こった。
奐泉はこちらから見て左へ軽く首を振り、視線をそちらへ移した。
次の瞬間、目に映る世界が右へ傾いた。
「おあっ?」
まるでめまいを起こした時のようだった。傾きたくないのに、その意思に反して体がかたくなに横へ倒れようとする気味の悪い感覚。
それによって、踏み込もうとしていた前足は空回りした。視界に同調して重心さえ右へ傾き、『箭歩』の勢いも相まって盛大にすっ転んだ。濃い砂煙が舞う。
転んだ痛みと、訳の分からなさから頭が混乱する。だが要はそれを今は強引に振り切り、迅速に立ち上がった。構えを取る。
しかし、奇影拳は正々堂々を是としない武術。砂煙で視界を阻まれたこの状況で、真っ直ぐ向かってくるはずがなかった。
要はその事を、真横から重々しい衝撃を感じてから確信した。
「がはっ――――!?」
砂煙を切り裂いて現れた奐泉が、もたれかかるように衝突してきたのだ。
一瞬、息が止まる。女が普通に出せる力ではない。明らかに姿勢と呼吸と体術による理合の力が込められていた。
おまけに「虚」を打たれた。「虚」は意識の外にある部位。そこを攻撃されると元々の威力の倍以上の痛覚が襲って来るのだ。
予想外の衝撃に要は成す術なく弾き飛ばされた。しかし、渾身の力を足に込め、立った状態をなんとかキープした。
歯を食いしばり、前を見る。奐泉はすでに自分のすぐ近くまで迫っていた。
焦りそうになるが、落ち着いて迫る奐泉を注視。その五体の隅から隅まで意識を集中させた。
すると、彼女の輪郭の表面に蜃気楼のような「ブレ」が小さく見え始める。そしてすぐに彼女の輪郭とそのブレが、パズルの歯が噛み合うように一致する。そしてまた再び別のブレが発生。そしてまた奐泉の動作とともに、輪郭とブレが噛み合う。……それらが絶え間なく繰り返される。
彼女の肉体を取り巻くごく微細な予備動作『初動』だ。そこから刹那先の動きを読み、その上でワンテンポ早く対応する。厳しい修行の果てに手に入れた見切りの技術である。
奐泉が自分の間合いへ踏み入った。
要は奐泉を取り巻く『初動』から、次の動きを大雑把に割り出した。――前へ踏み込み、正拳。
それならば。
「「ふっ!」」
両者の吐気が重複する。奐泉は踏み込んで拳を放ち、要はこちらから見て敵の右側面へ移動してその拳を回避した。
要は右拳を脇に構える。足底から全身を捻り込み、すぐ左隣に立つ奐泉めがけて螺旋の拳を鋭く伸ばした。『旋拳』だ。
要の視線と、こちらを振り向いた奐泉の視線がぶつかった。
奐泉の視線が下を向く。
途端――要の視線が我知らずそれを追った。つまり、奐泉と同じく下を向いたのだ。
「……っ!?」
視線が落ちれば、体も自ずと傾く。要の上半身は前かがみとなった。
体勢が悪くなったことで、全身の旋回で生み出した『旋』の勁力が分散した。勁は正しい姿勢の中を流通する力。その姿勢が崩れれば減退、停滞するは必定。
力のこもっていないスカスカの拳が、奐泉の二の腕にぽすん、と当たる。虫さえ殺せない一撃だった。
そして、腹部に重圧が襲った。奐泉の靴裏が直撃したのだ。
要は後ろへ押し流された。そこまで強い力で蹴られたわけではなかったので、たたらを踏むだけで済んだが。
重心を整え、奐泉をじっと見据える。
そして、先ほどからずっと抱いていた疑問をぶつけた。
「その技……もしかして『大公釣魚』か?」
これまでの間、要は二度体勢を崩した。しかも相手の手ではなく、自らすすんで崩れたのだ。
その時は、決まって奐泉と視線が合っていた。そして彼女が視線を動かした途端、自分の視線もそれに引かれるようにして動いた。いや、動かされた。
視線を体ごと誘導する――奇影拳の中で、心当たりのある技は一つしかない。鴉間との一戦で散々苦しめられた『大公釣魚』である。
奐泉は一度目を見開くが、すぐに「惜しい」と言いたげに微笑んだ。
「さすがカナ様、奇影拳の一手をよくご存知で。ですが残念ながら答えは「不対」ですわ。さっき使ったのは『看鏡』。その『大公釣魚』の上位技法です。相手と自分の視線を寸分の狂いなく一致させることで、相手の無意識に「鏡がある」と誤認させ、視線の操作で相手をあやつり人形のようにコントロール出来る技ですの。先ほどのように体勢を崩して転倒させたり、せっかく生み出した勁を途切れさせたりなど、いろんな使い方ができますのよ」
そう言って、奐泉は構えをとった。
やはり、視線を誘導するタイプの技だったか。それも『大公釣魚』より高度で、そして厄介な技だ。
なぜなら『大公釣魚』と違い、わざわざ後ろへ下がって相手の視線を誘導する必要が無いからだ。止まったままでも使えるのだ。
奐泉の目を見たら、その時点でコントロールされる未来がほぼ決まってしまう。そして闘いの最中、体勢の崩れというのは致命的な隙となる。極力避けたいことだった。
――ならば、目を閉じてしまえばいいのではないか。
そう思い至るのは、至極当然の流れだった。
しかしそれはあまりにも無謀が過ぎる策だ。確かにそれならば『看鏡』で操られる心配は無くなるだろうが、代わりに周囲を見る事ができなくなる。それでは『看鏡』を警戒する以上のリスクを背負うハメになるため、本末転倒もいいところだ。
もしも「視覚」以外に、相手を認識できる手段があったなら――
「っ」
その時、ある考えが脊髄を貫き、脳髄へ突き刺さった。
この方法なら、目を使わなくても、奐泉の動きを読み取る事ができるかもしれない。
若干賭けの要素もあるが、やってみる価値はありそうだった。失敗したら他の方法を考えればいいだけだ。
そうと決まれば善は急げ。
要は額の汗をぬぐい、周囲の情景を確認した。
空から肌を焼いてくる太陽は、すでに夕日に変わろうとしていた。雲の数はまばらだ。周囲から吹く風はほとんど無い。
ざわつく『公会』の面々。その中に、期待と不安の眼差しで自分と奐泉を見ている易宝と深嵐の姿を発見。
眼前には構えたままの奐泉。その距離は大股で約五、六歩分。
踏んでいるのは細かい砂利の散らばった土の地面。歩けばよく音が鳴る。
確認完了。
要は目を閉じ、暗黒の世界に身を投じた。
馮奐泉は、眼前に立つ工藤要の様子を見て怪訝な顔をした。
なんと、両目を閉じたのだ。
しかし、その魂胆はすぐに分かった。
視線でコントロールされることを防ぐためだ。
そして封印した視覚は、聴覚で補うつもりなのだろう。
こちらの存在を認識する材料となる音は二種類。足音と呼吸音。
――いい考えですけど、今一歩工夫が欲しかったですわね、カナ様。
奐泉は口端を吊り上げる。
奇影拳は、酔八仙拳譲りの優れた体幹力と、秘宗拳譲りの精密な歩法を兼備した武術。こんな砂利に散らばる地面でも、足音を消して歩くなど造作もない。
呼吸音を殺すことは、門派の特性以前に武術家として当たり前の技術。当然、奐泉もそれを心得ていた。
間近に来ても気づかれない自信はあった。
奐泉は眼差しを鋭くし、瞑想しているように目を閉じた要を視線で射抜く。
慕うべき相手。敬うべき相手。尽くすべき相手。愛すべき相手。
けれど今の奐泉は武術家だった。この試合で要らぬ手心を加える無礼はしないつもりだ。
奐泉は、豹のごとく疾駆した。
鋭く、速力に富んだ走行。けれど、踏み出す一歩一歩からは不気味なほどに足音がしない。
要との距離は、すぐに狭まった。
おそらく奐泉は、こちらが足音や呼吸音で存在を認識しようとしていると思っていることだろう。
――もしそうだとするなら、要の仕掛けたミスリードは見事に功を奏したことになる。
足音や呼吸音で接近を感知しようなどとは微塵も思っちゃいない。
むしろ目を閉じたのは、そういった"思い込み"を奐泉にさせるためだ。
その思い込みは、そのまま無自覚な油断へと変化する。
その油断は、そのまま慢心へと変化する。
その慢心は、そのまま攻撃方向の工夫を怠る怠惰へと変化する。
その怠惰は――奐泉を馬鹿正直に真正面から攻撃させる。
攻撃方向の誘導。それこそが要の真なる狙い。
どこから攻めてくるのかが分かってさえいるなら、そちらへ意識を集中させればいい。
要は前方へ向けて、感覚を研ぎ澄ます。
そして、顔に当たった微かな風圧を合図に、要は渦を纏った。
両足底、両膝、両股関節、ウエスト、両胸骨、両肘、両拳を同じタイミングで同方向へ捻じり込み、全身を鋭く展開。強大な旋回力を一瞬という表現すら超える速度で生み出し、その勁を用いて神速の正拳を弾丸よろしく突き放つ――!
ものすごい空気圧が自分の体に近づくのを感じる。奐泉の放った打撃だ。あともう一瞬あれば直撃するだろう。
けれど――要の放った正拳が手ごたえを持つ方がわずかに速かった。
呼吸が大きく吐き出される声。だがそれも束の間、その呼吸音が一気に遠ざかった。
今や十八番となりつつある技『纏渦』は、無事に当てられたようだ。
要はゆっくりと両目を開けた。伸ばされた拳の延長線上には、尻餅をついた奐泉の姿があった。
「それまで!」
二人の間に、易宝がそう言って割って入った。
その声によって、たぎっていた戦いの熱が一気に冷却された。
同時に、女の子相手に『纏渦』などを使ってしまったことに今更ながら血の気が引いた。
「お、おい!? 大丈夫か!?」
要は易宝の横を素通りし、奐泉の元へ駆け寄った。
奐泉は苦笑混じりに腹部をさすりながら、
「いたた……呼吸法と、とっさの反応が間に合いましたわ……それでも十分辛いですけれど」
「どういう意味だよ!? 大丈夫なのか!? なあっ?」
「大丈夫ですわよ」
そこで区切ると、奐泉は含みのある笑みを口元にたたえて上目遣いで、
「……心配、してくださいますの?」
「当たり前だ!」
至極当然に即答する要。
対し、奐泉はサッと顔を朱に染める。嬉しそうにはにかんだ笑顔で、
「……うふふ。今の素敵なお言葉に免じて、さっきの事は許してあげますわ」
「なんのことだ? ていうか、さっきは何で怒ってたんだよ?」
「まだ教えません」
うふふ、と意味深に笑声をもらす奐泉。
――「まだ」? その言い方から察すると、これから教えてくれるのか?
そんなことを考えていた時だった。
試合を見ていた『公会』の人々から、拍手が上がった。
それと同時に、数多くの讃えの言葉が飛び交った。
要はどうしていいか分からず、ただ呆然としていた。
――拍手をする人々の中で、響豊だけが面白くなさそうにそっぽを向いていた。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
ネット通販で買った蓋碗がやっとこさ届いた。
うん、実際に見るとサイトの写真より美しい。しかし…………思ってたより小さい!!
ネットでの買い物は便利だけど、茶器や食器はやっぱり肉眼で選んだ方が良いと学習しますた(・ω・`)




