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第五話 『公会(ギルド)』

 ワゴン車の中は冷房が効いており、外の空気とは打って変わって天国のようだった。


 運転手の男は、黙々と車を動かしている。


 助手席には誰もいない。この場にいる全員に、座れない事情があったからだ。


 まず、一番後ろの後部座席に座る楊氏。彼は『公会(ギルド)』における最大の護衛対象だ。なので、うかつに前の席に座って姿をむき出しにするのは良くないらしい。


 易宝と深嵐は、その楊氏を挟むようにして座っている。理由は飛行機の中にいた時と同じく、警護のためだ。


 そして、真ん中の後部座席に座る要は――隣に座る奐泉(かんせん)に捕まっているせいで動けなかった。


 要的には、クーラーがよく当たる助手席に座りたかったのだが、彼女に強引に後ろへ引きずり込まれてしまった。


 隣の美少女から絶えずニコニコ笑顔を向けられ、要は対応に困っていた。


「要様、要様」


 くいくいとTシャツの裾を引っ張りながら、奐泉は楽しそうに話しかけてきた。


 要は彼女のキラキラした雰囲気に気圧されながら、恐る恐る返した。


「……な、なにかな」

「お好きな食べ物は何ですの?」

「えっと……なんか、脈絡なくね? ていうか、言わなきゃだめ?」

「言って欲しいですっ」


 きゅっ、と要の手を両手で包み込んでくる奐泉。その眼差しは期待で満ち満ちていた。


 恐ろしくすべすべした手の感触にドギマギしながら、要は重い扉を開ける気分で答えた。


「……母さんのカレーかな」

「どんなカレーですの?」

「えっと、ルーじゃなくて、トマトペーストを中心にクミンとかのスパイスを使ったやつ、かな?」

「分かりましたわ! では、今度研究してみますっ! もし良さそうなものができたら、要様に食べさせてあげますわっ」

「え? あ、うん、ありがと……」


 とりあえず頷く他ないと思った。それ以外の対応が思いつかない。なんでそんなことを訊いてくるのか。


「で、では、もう一つ聞かせてくださいな……要様は、その、お昼はまだですか?」


 奐泉はやや恥ずかしそうに口ごもりながら訊いてきた。もじもじと絡められている両手の指には、絆創膏がいくつも貼られている。


「え? 一応機内食は食べたけど、あれは量が少なかったからなぁ」

「お、お腹が減ってらっしゃるの? で、では……」


 奐泉は嬉し恥ずかしげにはにかみながら、傍らに置いてあったキャラクターものの巾着袋を差し出し、


「こ……これ! わたくしが作ったお弁当ですわっ! よろしければ、召し上がってくださいなっ!」


 まるで憧れの名選手にサインを求めるファンのように、上ずった声でそう言ってきた。


 ――弁当?


 どうしてこのタイミングで、そんなものを渡してくるのか。


 要は彼女の真意を分かりかねたが、


「う、うん。分かった。そういうなら、食べてみようかな」


 お腹が多少減っているのは事実なので、おずおずとそれを受け取った。


 袋から、二段重ねのお弁当箱を取り出す。それを二つに分け、要は蓋を開けた。


 ――そして、ひっくり返りそうになる。


 おかずが入ったお弁当箱には、栄養バランス的に理想的な比率でおかずが並んでいた。しかもどのおかずも、やっつけで作った感が一切ない。隅から隅まで気合が入っていた。


 そして、ご飯の入ったお弁当箱が極めつけだった。


 ――ご飯の上に敷かれたそぼろがハートの形をとっており、その上にケチャップで「给要先生(要様へ)♡」と書かれていたッ!!


 マジかおい……こんな弁当、リアルで初めて見たよ……。


 あまりの迫力に食べてもいないうちから胃もたれがしてきたが、美味しそうではあった。


「そ、それじゃあ、いただきまーす……」


 備え付けの箸を手に取り、おかずの一つであるだし巻き玉子を摘む。口に放り込む。


 一口二口味わい、


「うまい!!」


 思わず、そう舌鼓を打った。


 程よい加減で出汁が効いている。これはカツオか何かだろうか。

 そしてその出汁の味は、玉子の本来持つ味わいとケンカすることなく、うまいことマッチしていた。

 数時間前に食べた機内食など霞に思えるほど、そのだし巻き玉子は美味しかった。


 奐泉は不安げな面持ちで、おっかなびっくりに訊いてきた。


「ど、どうですか、要様? 美味しく……ありませんか?」


 さっき思わず口にした「うまい」は日本語だったから、きっと分からなかったのだろう。


 要はもう一口味わってそれを飲み込むと、彼女の方を振り向き、


好吃(美味いよ)真好吃(マジで美味い)!」

真的吗(本当ですか)!?」


 奐泉は嬉しそうに微笑みながら、薄桃色の唇に絆創膏だらけの指を添える。


「良かったぁ……頑張った甲斐がありましたわ……」


 彼女は本当に安堵しており、そして本当に嬉しそうだった。


 それを見て、なんだか気恥ずかしい気分になる要。もしかして、わざわざ自分に食べさせるために用意してくれたのだろうか。


「この子ってば、朝から張り切って作ってたのよ。「絶対要様に食べてもらうんですわ」って。使用人に作ってもらえばいいのにね」


 深嵐が後ろのシートから身を乗り出し、にこにこしながらそう言ってきた。


 やっぱり、自分に食べて欲しかったのか。


 要はその理由を考える前に、深嵐の言葉の中から気になる単語を見つけ、その意図する事を尋ねた。


「使用人?」

「この子の実家、デカい会社でね、すっごい金持ちなのよ」


 ぺこり、と恥ずかしそうに頭を下げる奐泉。


 要はそんなポニーテールの美少女を思わず眺める。確かに一見すると普通の女の子っぽくはあるが、その仕草の要所要所からはどことなく育ちの良さを感じられる。


 そういえば、菊子もそんな感じだった。普通の内気な女子に見えて、その立ち振る舞いはどこか洗練されたものだったのだ。


 菊子といい、奐泉といい、自分はつくづくお嬢様という人種に縁があるようだ。


 ……だが、そこまではまだいい。


 弁当を順調に減らしながら、要は本題ともいえる疑問を頭に浮かべた。


 ――どうして彼女は、ここまで俺にしてくれるのだろうか?


 いや、この問題を考える前に、まず前提となる別の疑問をはっきりさせねばなるまい。


 それは。


「どうして君は――俺の事を知ってるのさ?」


 そう。そこだった。


 要の記憶が正しければ、奐泉と会ったのは今日が初めてのはずだ。


 しかし彼女の態度は、明らかにずっと前からこちらの事を知っていたものだった。


 奐泉は次のように答えた。


「その……劉師傅(しふ)からメールで送って頂いた写真を見たからです。その時から、わたくしは要様の事を知りました」


 彼女は要の顔をそっと撫でる。


 そして、うっとりした笑みを浮かべた。


「実物の要様は、写真よりもずっと素敵でしたわ。お会い出来て凄く嬉しいです。この日を一体どれほど待っていたか……」


 さらに、要のあちこちをぺたぺたと触りまくる。


「お、おい――」

「お髪も凄くサラサラ。お肌も白くてすべすべ。殿方なのになんだかいい匂いがします。こうして触っているだけで、時の流れを忘れてしまいそうです……」


 ――なんなんだこの娘は。


 要は嬉しいよりも、訝しみを覚えた。


 お弁当を作ってきたかと思えば、こちらの事を何度も触って嬉しそうにしている。


 良く言えば変わった娘。悪く言えば馴れ馴れしい娘だ。


 いずれにしても、どんな反応をすればいいか分からなかった。


 なので要はとりあえず、深嵐の方を見た。


 すると、あからさまにニヤニヤした顔を返してきた。


 まるで、知り合いのカップルを冷やかすような表情――カップル?


 そうだ。深嵐さんの言ってた言葉を思い出せ。彼女は何度か(ひょう)奐泉の事を話題に出していた。


『奐泉ちゃんがゾッコンになるのも分かる気がするわぁ』

『あたしの関門弟子が、君にすっっっごく会いたがってたしぃ』


 そう。確かにそう言っていた。


 会いたがっていた……ゾッコン……それらの表現を手がかりに、要はある可能性に気づいてしまった。


 まさかこの娘、俺の事を――


「……いや、まさかね」


 思わず口からそんな台詞(ちなみに日本語)が出てしまうほど、バカバカしい予想だった。


 だって、この娘は写真でしか俺の事を知らなかったではないか。直接会うのは今日が初めて。それで恋に落ちるとか有り得ないだろ。


 アホみたいな妄想は投げ捨て、要は気分を変えるつもりで楊氏に問うた。


「これからどこに行くんですか?」


 楊氏は一度頷き、


「北京から北へ進んだところにある、懐柔区(かいじゅうく)という場所だ。近くに万里の長城があることで有名かな」

「へぇー、万里の長城かぁ」

「もし暇があったら、見に行くのも良いかもね。それより……」


 楊氏はそこで一度区切り、改まった口調で訊いてきた。


「今更だけど、どうかね工藤くん、中国へ来た感想は?」

「うーん、まだ来たばっかりだからなんとも言えないです。でも、結構ワクワクしてます」

「そうか。オープンチケットの期限は夏休みちょっと過ぎくらいまである。拝師式が終わったら、しばらく中国に残って観光でもするといい」

「はい! その、親にお土産を買ってくるよう言われてるんですけど、もし良かったら、また北京まで車で送ってもらえませんか?」


 要の提案に、楊氏は「分かった。その時は運転手を手配しよう」と頷いてくれた。運転手さんも親指を立ててくれた。


 よし。これでお土産を買いに行く目処(めど)はついたぞ。


 奐泉が要の片腕をギュッと抱きしめ、


「その時はわたくしも連れて行ってくださいまし! つきっきりで案内してさしあげますわっ。丁寧で理路整然としたガイドも付けて!」

「え? あ、うん……そうか」


 女の子特有の心地よい匂いに翻弄されながら、要は曖昧に返事をした。


 苦し紛れに話題を頭からひねり出した。


「そ、そういえば楊さん、中国に来た感想っていうと、まず最初見た天安門がすごかったです。テレビとか教科書で見た事がありますけど、実物はもっとでかかったですね」

「そうなのかい? 私たちはよく見ているから、あんまり分からないかな」

「そうですか……特に、あのでっかい毛沢東の絵にはびっくりさせられました。中国人にとっては英雄的存在なんですかね――」

「――んなわけがあるか」


 要の言葉を、易宝の言葉が途中で遮った。


 思わず後ろの座席を見る。


 そこには爪先をトントン鳴らしながら、機嫌悪そうに腕を組んだ易宝の姿があった。鋭く細められた半眼は、前のシートの背部を見るともなく見ている。


 要は息を呑んだ。


 そして、易宝は二の句を継いだ。


「あのコアラハゲが英雄だと? ハッ、つまらんギャグだ。無辜の民草を腐る程踏み潰しておいて英雄とは、全くもって恐れ入る。そしてそれを必死こいて祭り上げている連中の姿も滑稽そのものだ。まあ「一人殺せば殺人者、一万人殺せば英雄」という言葉があるから、その観点から見れば奴は英雄どころか大英雄だな。奴が死に追いやった人民の数は四千万を下らんしのう。嗚呼、大英雄毛主席万々歳! ってか?」


 饒舌に。


「だが、わしら人民に言わせりゃ、奴は手前の実権を守るために無辜の民を皆殺しにした、犬畜生以下の糞虫だ。反右派闘争、大躍進政策、そして文化大革命、奴の児戯で一体どれだけの人間が犠牲になったと思う?」


 かつ、刺々しく。


「しかも政府は面子が潰れることを恐れて、諸外国にはそれらの失敗をひた隠しにし、「どの政策も成功を収めた」などという嘘で塗り固められたチャイニーズドリームをことさらに強調した。カンボジアで起きたポル・ポト政権による大虐殺も、その出来損ないのファンタジーじみたチャイニーズドリームを鵜呑みにした結果だ。大英雄毛主席殿は自国民だけじゃなく、結果的に外国人も死ぬほど殺してやがるのさ。だが人民はそれらを口に出せない。もしも政府への反発や悪罵誹謗を行えば、たちまち御上の飼い犬がすっ飛んできて逮捕、もしくは皆殺しだ。天安門事件みたいにのう」


 今の易宝の語り口は、尋常ではなかった。


 言動の隅から隅まで、皮肉で尖っている。


 まるで、胸の内に溜まりまくった毒素を、体外へ放出しているかのようだ。


 要は身の置き所がないくらい、緊張していた。


 ――こんな師父(せんせい)、初めて見る。


「中国二〇〇〇年だの四〇〇〇年だのといった表現をよく聞くがのう、この国の「在り方」は、そのウン千年前とほとんど変わっちゃいない。やんごとなき方々は手前の腹をブクブク肥やすことにばかり夢中。民をまるで牛馬や虫けらのように扱い、少しでも不平不満をもらしたら首をはねる。この国は二〇〇〇年や四〇〇〇年などという悠久の歴史を過ごしてきたにもかかわらず、未だにそんなアリの巣みたいな独裁的政治体制を卒業できていない。常に女王アリを用意しておかないと不安で夜も眠れないんだ。まさに頭の中身が幼稚園児の耄碌(もうろく)ジジイだな。そもそも――」


 易宝の尖った弁舌はなおも続きそうだった。




「――小劉(シャオリウ)、それぐらいにしておきなさい」




 しかし、それを楊氏のその一言が遮った。


 子供を有無を言わさずにたしなめるような、それでいて気遣うような声。


「………………ふん」


 易宝はしばらく押し黙った後、叩きつけるようにシートへ背を預けた。一応は黙ったが、まだ胸の中の鬱憤を引きずっている感じだ。


 楊氏と深嵐の視線が、そんな彼へ気遣わしそうに向けられていた。


 ――その目は、天安門前で見た眼差しと全く同じだった。


 中華人民共和国初代国家主席、毛沢東の巨大な肖像画がかけられた城壁の前で、易宝は突然態度を変えたのだ。

 そして今も、天安門の事を話題に出した瞬間、先ほどのような刺々しい態度となった。


 要は今、それらの理由をようやく察する事ができた。


 師父は――文化大革命で両親を失っているんだ。


 あの事件は筆舌に尽くしがたいほど、ひどいものだったらしい。

 古き良き伝統文化は徹底的に否定され、それに関わっていた人々はことごとく弾圧、あるいは殺害された。

 義和団事変という前例を持つ伝統武術もまた「反社会勢力を生み出しかねない、アヘンのごとき代物」として、その対象となった。

 当然、それをたしなむ易宝も例外ではなかった。彼は命からがら助かったが、代わりにその両親が犠牲となった。


 易宝は、この国によって人生を狂わされているのだ。


 ならば、尋ねるまでもなく、この国が好きではないはずだ。


 要は何も言わなかった。ただ黙っていた。


 そして、黙っている間にも、車と時間は進むのだ。









 易宝の語りからお通夜のように暗くなってしまった車内の空気だったが、ワゴンが停車し、スライドドアから外へ出た瞬間、新鮮な空気がそれを上書きした。


「おお……」


 眼前に建つソレを見て、要は思わず声をもらした。


 ワゴンが停まったその場所は、蛇の這いずった跡のような山道を進んだ果ての行き止まり。木々が広く生い茂る森の中に丸く削られたような土地であった。舗装はされておらず、やや凹凸のある砂利の地面が晒されていた。


 そして、その土地の中央には、中国の伝統建築とひと目で分かる建物が建っていた。


 武家屋敷の築地塀に似た壁が、大きく四角形を形作っている。その中の土地から、尖った瓦屋根がいくつも伸びていた。


 要は楊氏に訊いた。


「ここが『公会』の本部なんですか?」

「そうだよ。「四合院(しごういん)」っていう、昔北京で流行った伝統建築だ。『公会』本部はボロボロになっていた四合院をリフォームして再利用しているんだ」


 見ると、壁の内から伸びた瓦屋根の一つから、黒いケーブルが近くの電柱へと伸びていた。一応、電気は通っているのだろう。

 

「さ、早く中へ入ろう。会員のみんなが工藤くんに会いたがっているからね」


 楊氏の言葉を聞くとともに、運転手を含めた六人は四合院の正門へと近づいた。


 瓦の庇をかぶった木の門。こげ茶色に煤けていながらも年季の入った頑強さを感じさせる木製の両開き戸には、赤い倒福(とうふく)春聯(しゅんれん)が貼られていた。


 易宝が先頭に立ち、門を開ける。


 開け放たれた両開き戸へ、全員が入った。


 最初に訪れたのは、横長の空間。ところどころひび割れた石敷と、周囲を囲う灰色の石壁以外何もない殺風景な所で、左右奥の壁には長方形の横穴が空いて奥まで続いており、そして前方には先ほど目にした正門と同じくらい立派な門が構えられていた。


 この部屋には屋根が無い。中庭だろう。


 易宝は前方の門も開く。そして全員が彼に続き、奥へと入った。


 またしても中庭だった。大きな正方形の空間で、二本の石敷の道が中央を交差点にして十字状に敷かれており、左右の端にある小屋、奥にある横長の建物、そして自分たちが今出てきた門をつなぎ合わせている。四隅には一本ずつ木が植えられており、地面に濃い影を刻んでいた。


 その中庭には、数人の男がいた。


 彼らは門の方向、つまり要たちへ一斉に目を向けた。


 彼らの格好はTシャツにジーンズ姿、ワイシャツにスラックス、ノースリーブにハーフパンツなど、てんで統一性が無かった。


 しかし、楊氏やその他の面々を見ると、全員は等しく表情を明るくした。


「楊氏! よくぞご無事で!」


 その中の一人である、ワイシャツに黒スラックスの男性が、駆け寄りながらそう言ってきた。


 彼と握手を交わしながら、「うん。今回も何事もなく、ね」と笑みを返す楊氏。


 楊氏の傍らでひかえていた易宝も、その男性に馴れ馴れしく声をかけた。


「よぅ、道計(ダオジー)。久しいのう。嫁さん共々息災だったか?」

「ええ、おかげさまで。劉老師もお元気そうで何よりです」


 道計と呼ばれたその男性は軽く会釈すると、今度は視線を要へと移した。


「君が工藤要くんかい? はじめまして、自分の名は道計。この『公会』の会員の一人だ」

「あ、はい。はじめまして。工藤要です。やっぱり、俺の事ご存知でしたか」

「当然だよ。写真を劉老師から送られているから顔も分かるし、何より、君は我々『公会』の者が守る崩陣拳の次なる担い手だ。知らぬは即ち恥だよ」


 笑顔とともに差し出された道計の手を、要は微笑みながら握り返した。


 外見的には、三十代になりたてくらいだろうか。中肉中背で、特徴だった特徴も無い。見るからに人畜無害な普通の人っぽい。


 しかし、背筋に棒でも入っているかのような整然とした姿勢に、余分な力が抜けて低く沈んだ肩のライン。


 軸がしっかり出来ており、なおかつ上半身の放鬆(リラックス)もされた上虚下実(じょうきょかじつ)の姿勢。武術的な匂いが濃く感じられた。


「道計はこう見えて、凄腕の通臂拳(つうひけん)使いなんだよ」


 そんな要の考えを読んだように、楊氏が言った。


 道計が照れくさそうに「いや、それほどでもありませんよ」とはにかむ。


「いや、道計だけじゃないね。ここにいる全員、何らかの武術に深く長じているんだよ」 


 楊氏が誇らしげに言った。


 要はへぇー、と関心したように声を上げ、


「そうなんですかぁ。どんな武術があるんですか?」

「いろいろだよ。蟷螂拳、翻子(ほんし)拳、査拳、孫臏(そんぴん)拳、六合拳……数えだしたらキリがない。何しろここにいる数人は、まだほんの一部に過ぎないのだからね」

「やっぱり、『公会』の会員って全員武術家なんですか?」

「全員ではないけど、八割ほどがそうだね。『公会』に所属する武術家は、皆信頼に足る門派の者たちだ。ほとんどが鄭煕陽と親交のある門派の流れを汲んでいる。武術への風あたりの強かった文革期でも、互いに助け合って隠蔽工作をしたものさ」


 苦しくも楽しかった過去を懐かしむように微笑む楊氏。


 ――文化大革命のさなか、武術家たちは三つの選択肢を迫られたという。


 一つ、武術そのものから足を洗う。

 二つ、政府の方針に沿う形で自分たちの武術を改変する。

 三つ、伝統武術をあるべき形のままこっそり伝承する。


 多くの者は一つ目、二つ目の選択肢を選んだ。


 しかし三つ目の選択肢を選んだ者も少なからずいたという。『公会』はまさしくその典型例だ。


 たとえ厳しい時代になっても、武術を愛し、それゆえに抗い続けた者たちの努力があってこそ、今こうして崩陣拳や、その他の武術が生き続けている。


 ――ああ。なるほど。


 要はようやく明確に理解した。


 それこそが、この『公会』なんだ。


 武術を愛し、そしてそれを守ろうという思いが重なり合って、この集団が生まれたのだ。


 そして自分は、そんな彼らの期待を背負っている。 


 崩陣拳という伝統を受け継ぎ、それを次の世代へと語り継ぐ「語り部」とならなければならないのだ。


 責任の重さを、要はひしひしと感じた。


 けれど、今更尻込みするつもりはなかったし、落伍する気も起きなかった。


 ――それはきっと、楊氏に選ばれた人間としての宿命がそうさせているのだろう。


「あ、(かく)師傅。こ、こんにちわ……」


 要の思考を、おっかなびっくりな道計の挨拶が中断させた。


 見ると、何やら『公会』の会員たちはざわついていた。彼らの表情は、会社の重役がやってきたかのように緊張している。


 彼らの視線をなぞり、中庭の奥へ注目。


 そして、圧倒的存在感をかもしだす一人の男に目が止まった。


 雲()くばかりの大男だった。外見的な年齢は推定で三十半ばほど。輝かんばかりの禿頭で、岩を彫って作ったかのごとき厳つい面構え。分厚い胸板はゆったりとしたサイズの白い唐装に包まれていた。


 さらに、その男の発する雰囲気が普通ではなかった。 


 静かながらも、密度の濃い空気に包まれている。素人でも、普通の空気と彼の放つ空気の境目がはっきり目視できそうなほどに。


 そして、その空気の中へうかつに踏み入ればその時点で命が消える。そう思わせるに足る「何か」を感じた。


 大男に対する皆の視線は、等しく畏怖の色を帯びていた。


 見るからに只者ではない。他者の反応が、その根拠に乏しい直感を確信に変えていた。


 男は先ほどの道計の挨拶に「ん」とだけ答えると、ゆっくりと歩みを進め始めた。


 その一歩一歩は、岩のごとき重量を錯覚させる。


 彼の前にいる者は皆横へ下がり、通れるように道を作った。海を割って作った道を進むモーセのようである。


 巨人のような質量感あふれる歩行を続け、やがて――要たちの前で止まった。


 ――うおっ、怖。


 眼前で山のごとく立ちはだかった巨体に、要は本能的に心胆を冷やした。


 おそらく、身長は一九〇前後。確かに身長だけで見れば高いが、今まで自分より背丈のある者とばかり闘ってきた要にとって、体の大きさはすでに恐れる要素ではなくなっていた。


 しかし、この男は不思議と二メートル以上に見える。


 そのように感じずにはいられないほどの、非凡な迫力と威圧感があった。


 そして、大男は(やぐら)の上から敵を見下ろすようにして、その鋭い眼光を要へと向けてきていた。


 その眼光と視線がぶつかった瞬間、うなじのあたりに悪寒が駆け上った。意識を持っていかれそうなほどの強い存在感に、視界が一瞬ぼやける。


「よお、おぬしも久しぶりに見たが、壮健そうだのう」


 だが、易宝の気安い呼びかけを耳にしたおかげで、我に返る事ができた。


 大男は太鼓の音のような低い声で、


「当然だ。『高手』はそう簡単に病にはかからぬ。暗殺などといった人為的な要因を受けでもしない限り、くたばるにはまだ早い」

「そうかい。そりゃ良かったよ――響豊の爺さん」


 要は思わず大男の顔を見上げた。頭頂部から爪先まで、視線でなぞってチェックする。


 響豊――すなわち、この男が飛行機の中で聞いた霍響豊。


 日中戦争時代、抗日ゲリラとして日本軍と戦っていた『高手』。


 要はゴクリ、と唾を飲み込んだ。


 これまで、何人かの『高手』を見てきたが、皆話してみれば個性は強くともそれなりに良い人たちばかりだった。


 しかし、今回ばかりはそうでもない気がする。


 彼の周囲を包む濃密な気配。岩に穿たれた孔のような鋭く険のある眼差し。


 戦場に立ち、人を何人も殺してきた人間特有の凄みがあった。


「……して、そこにいる小僧」


 響豊の鋭利な視線が、要の方を向いた。


 要は我知らず奥歯を噛み締め、総身をこわばらせながら、


「……何か?」

(うぬ)か? 日本から来たという劉の弟子は」

「は、はい。工藤要です。よろしくお願いします」


 挨拶混じりにお辞儀をする要。


 我ながら失礼の無い態度だと思った。


 しかし、どういうわけかこちらを見つめる響豊の眼差しが、さらに厳しいものとなった。「見つめる」から「睨む」に変わっている事が明白である。


 響豊は、吐き捨てるような口調で言い放った。


「……ふん。汝が四代目伝承者に選ばれたという、日本人の餓鬼か。我々華人とそっくりな(つら)をしおってからに。実に小憎らしいわい」


 歓迎の意思が無いどころか、敵意すら感じさせる台詞だった。

 

 易宝や深嵐の言う通りだった。響豊は、日本人を嫌っている。


 そして要もまた、響豊の無遠慮な言い草に対し、生来の負けん気を燃やした。


 その赴くまま口を開く。


「そうかい。会ったばっかの人にそんなこと言われたのは生まれて初めてだよ。中国人って、噂より結構礼儀正しいと思ってたんだけど、あんたみたいな例外もいたわけだ。勉強になった」


 犬が吠えるのは、相手が怖いからだ。

 皮肉の強まった今の言葉もまた、響豊への恐怖心が原動力なのかもしれない。負けん気は、それを突き動かすきっかけに過ぎなかったのかもしれない。

 

 響豊を取り巻く気配がさらに濃く、そして圧力を増した。


「……小僧。戯言を吐かす時は、相手を見て吐かすことだ。武林で生きていく上での常識だぞ」

「先に失礼な事言ったのはそっちだろ? 因縁つけておいて相手からの文句は許しませんだなんて、理屈がチンピラと五十歩百歩だぞ。それも武林で生きていくための常識ってやつだと思って構わないんだな?」

「貴様」


 二人の視線がぶつかり合う。


 いつ爆発してもおかしくない雰囲気だった。


 それをマズイとおもったのか、易宝が交錯する二人の視線の間に割って入った。


「あーやめろやめろ! やめんか戯け共! ケンカしてどうする! 響豊、今のは明らかに失礼な物言いをしたおぬしが悪いぞ? 気持ちは分からんでもないが、自重せい」


 響豊はふんっ、と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。


「カナ坊もカナ坊だ。嫌味のひとつやふたつ受け流せるだけの堪え性を持て。おぬしはその辺りがまだ修行不足だ」

 

 要はぶすっとしたまま、黙って頷いた。


 易宝は無理矢理にこやかな笑みを浮かべて、ことさら明るく言った。


「よし、仲直り完了。『公会』の者と崩陣拳の次期伝承者が争うなど、本末転倒以外のなにものでもない。もっと友好的に、のう」


 ――友好的? 笑わせるな。


 易宝の言葉を心の中で斬り捨てる。


 要は響豊と一言二言言葉を交わしただけで、色濃く確信してしまった。


 ――こいつとは、仲良くできない。


 だって、向こうから拒絶する気満々なのだから。片方がそんなでは、まっとうな人間関係の構築なんてできるわけがない。


「さて。カナ坊という主役もやってきたことだし、色々語り合おうじゃあないか。日本での土産話もたくさんあるしのう」


 ぱんぱん、と手と手を叩きながら、強引に話の流れを捻じ曲げる易宝。


 それから、要たちは中庭にいくつか椅子を持ってきて、そこに座りながら色々な話に花を咲かせた。


 談笑が終わる夕方まで、要と響豊はたびたび睨み目をぶつけ合ったのだった。








「ったく……なんなんだよ、あいつ。俺が日本人だからって好き勝手言いやがって。頭の中じゃ今でも戦争中なのか?」


 木陰の中で幹にもたれかかりながら、要は一人毒づいた。


 人と話し過ぎて少し気疲れしたため、四合院を出て、その周囲にある林の中へ休みに来たのだ。

 

 右には、夕方に近づき始めた日光に照らされた四合院の壁。左には、いくつもの木々の乱立が奥まで続いていた。


 不規則に並ぶ樹木はいずれも枝葉を青々と茂らせ、日光のほとんどを遮り、薄い闇を真下に作っていた。その薄闇は奥へ続くにつれて濃密になっているように見える。一度入ったら二度と出れなくなるのではないか、と思いそうになるくらい深い闇。


 林の奥から吹いてくる風が優しく肌を撫でる。木陰で冷やされたそよ風は、この炎天下では非常に心地が良かった。


「――まあまあ。そう言ってあげないでよ。ああ見えて、結構面倒見の良いオヤジなのよ?」

 

 一人になりたくてここに来たのだが、他人に見つかってしまったようだ。


「深嵐さん……」


 右側へ振り向くと、そこには深嵐と奐泉が立っていた。日光を背にしているため、彼女たちの表情は影が差して少し見づらい。


「やっほ、要ちゃん」

「やっほ、ですわ。要様っ」


 奐泉がスキップするような足取りで、目と鼻の先まで歩み寄る。相変わらずご機嫌一〇〇パーセントな満点笑顔だった。


「なあ、えっと……馮さん」

「むうっ。馮さん、だなんて他人行儀な呼び方はやめてくださいましっ。どうかわたくしの事は「奐泉」とお呼びくださいっ」


 頬をぷっくり膨らませながら詰め寄る彼女の迫力に気圧された要は、


「そ、それじゃあ……奐泉?」

「はいっ、要様」

 

 とても嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる奐泉。ポニーテールが尻尾のように躍動する。


「えっと、俺も呼び方について話があるんだけど……その「要様」っての、どうにかなんないわけ?」

「え? 何かご不満ですか?」

「いや、不満っていうか……」


 「様」とか尊称付きで呼ばれるのが、なんだかこそばゆいんだよね。


「要様は、日本ではどんなあだ名で呼ばれているんですか?」

「そうだなぁ……師父は「カナ坊」で、母さんとかキクは「カナちゃん」かな」


 自分の中では結構あだ名で呼ぶ人数が多いつもりだったけれど、よく振り返るとそうでもなかった。実際に呼んでいる人は三人程度だった。


「…………「キク」って、どなたですの?」


 奐泉が静かにそう訊いてきた。――心なしか、その声はやや冷たさを帯びていた。


「あ、ああ、倉橋菊子っていう同級生だよ。奐泉と同じくらいお嬢で、すっごい綺麗な女の子なんだ」

「女の子……凄く綺麗な……」


 突然、周囲の空気が凍てついた。


 要はその謎の冷気に当てられ、思わずゾッとした。暑いはずなのに、どういうわけか背筋が寒くなってくる。


 え、なにこれ? どうしたんだ? 何か墓穴った?


「要ちゃん……デリカシー無いのね……易ちゃんとそっくりだわ…………」


 深嵐がじとっとした目でこちらを見つめながら、そんなことをのたまってくる。何を言ってるんだ、意味が分からない。


「あ、あの……奐泉?」


 要は雰囲気を変えた大元である奐泉に、恐る恐る問いかけた。


 彼女はうつむいたまま、何も喋らない。


 おまけに垂れた前髪で目元が隠れて、表情も影が降りていて見えない。……その影の中にどんな顔があるのか、想像するのがなぜだか恐ろしかった。


 しかし、奐泉はこれまた突然顔を上げ、やや怒ったような表情で告げた。


「なら、わたくしも今日から「カナ様」ってあだ名で呼びますわ!」 


 え? 結局話がそこに戻るの?


「カナ様!? 聞いてらっしゃるの!? カナ様って呼びますからね!」

「は、はい!」


 思わず直立不動の姿勢となり、上官に名指しされた兵士のように力強く返事をしてしまった。それほどの気迫を感じたからだ。


「それで、カナ様はその……「キク」とかいう女性と、その……付き合ってらっしゃるの?」


 奐泉が少し怯えたような声で訊いてきた。


 ――何を言われたのかを理解するのに、なんと五秒も費やした。


「い、いや! 付き合ってない! ただの同級生だっつーの!」


 要は真っ赤になって否定した。


 奐泉が、こちらを押しつぶしかねない勢いでさらに詰め寄ってくる。


「じゃあ、「キク」の事、好きなんですか?」


 赤い顔のまま、無言でふるふるとかぶりを振る。


 口で答えることを避けたいがために、明確に答えはせず、かぶりを振るだけにとどめた。日本人らしい曖昧な反応であった。


「むぅー……」


 奐泉はそんな要の心中を知ってか知らずか、唇を尖らせた拗ね顔で唸る。


 表情をころころ変える彼女に、ただただ戸惑う要。にこにこしながら関わってこられても気後れしてしまうが、こっちはこっちで結構きつかった。


「――要ちゃん、ウチの奐泉ちゃんと散手(くみて)をなさい」


 さらに唐突な深嵐の提案。


 要は鳩が豆鉄砲をくらったような気分になり、


「は、はぁ? なんでまたいきなり……」

「理由は教えないけど、今、奐泉ちゃんはご機嫌斜めなの。そのストレス発散のためにも、今の要ちゃんの実力を確かめるためにも、軽く一戦交えておいて損は無いと思うわ」

「……で、でも奐泉は……」


 正直、気が乗らなかった。


 普通に技術交流として散手を行う。ここまではまだいい。


 問題は――その相手が女だということだった。


 要は今まで、女相手に戦ったことがない。気が進まないのは当然といえた。


 そして深嵐は、そんな考えをきちんと見透かしていたようだ。


「女の子相手だから戦えない、って?」

「っ……は、はい」

「……なら、散手をやる、という前提で言うわ。――そんな甘い考えは今すぐ捨てなさい」


 深嵐の目つきが鋭さを増した。声にも厳しさが混じっている。


 今までのおちゃらけた態度とは様変わりした彼女に、要は喉が凍りついたように言葉が出なくなる。


 しかし、すぐにいつもの深嵐に戻った。にんまりした顔で、


「まあ、やってみなさいな。多分、今の要ちゃんじゃ勝てないから」

「……む」


 聞き捨てならない言葉を聞いた。


 勝てないだって? そんなの、やってみなくちゃ分からないだろう。


 こちらの戦意を煽るためのセリフであるとわかっていても、反応せずにはいられなかった。


「分かりました。そこまで言うならやってやりますよ。……奐泉、いいか?」

「うふふ。お手柔らかにお願いしますわ」


 奐泉は雅に微笑んだ。


 ――しかしその瞳の奥には、闘志の炎がくすぶって見えた。


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


最近、某中国サイトになろうの小説がコピペられまくってることが話題となっていますが、この作品が被害を受ける心配は無いでしょう(まあ、そんな物好きがいるかどうか怪しいものではありますが……)。

だって、中国での禁句のオンパレードですから! 特に今回の話とか、劉師父にボロクソに言わせてますし! 残念!


次回は奐泉ちゃんとの散手をちょろろっと。

やっぱ、たまにはアクション描写入れないとつまんないしぃ(・ω・`*)ネー


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