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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
84/112

第四話 来到了北京!

 要は早速、海外渡航へ向けての準備を開始した。


 まず、北京に行く事を両親に伝えた。

 父の良樹(よしき)は二つ返事で了承。亜麻音は多少ごねたものの、渋々頷いてくれた。心配だったが、なんとか保護者の許しは得られた。


 次に、旅行用具の用意。これは、易宝のアドバイスを参考にして揃えた。

 シンガポールへの修学旅行中、ホテルで携帯の充電器をショートさせてしまった過去の教訓から、電気屋へ行って変圧器を購入した。中国の電圧は220ボルトであるため、100ボルト対応な日本の電化製品を使うためには必需品だ。

 旅券や予算を除けば重要なものはそれくらいで、あとは全て家にあったもので事足りた。


 さらに、お土産を買ってくる事を条件に、両親から高いお小遣いを貰った。

 中国で使うためにいずれ人民元に変換するつもりだが、易宝が言うには、両替は日本でやるより中国に着いてからやった方がお得らしい。なのでまだ日本円のままにしておく。


 準備は一応完了。後は待つのみ。気を配ることといえば、パスポートと、楊氏からもらったオープンチケットを紛失しないようにすることくらいだった。


 そして一週間後、とうとう北京出発当日となった。

 空港までかなり遠かったのと、目的の便の離陸時間が午前八時だった事を考慮した結果、なんと、夜中の四時に易宝養生院を出ることとなった。

 しかし、早朝練習に慣れている要にとって、その修行僧のような早起きはあまり苦ではなかった。


 電車やタクシーを利用し、数時間かけてようやく成田空港へと到着。その頃にはすっかり日がご尊顔を現していた。


 各自のスーツケースを引き、出発ロビーへ楊氏、そして深嵐と合流する。中国から日本へ来た彼らにとって、これからのフライトは帰国という形式になる。それに伴う形で要たちは中国へ向かうのだ。


 出発前にめでたく全員集合できた四人は、足並みを揃えて搭乗口へと向かったのだった。









 離陸したての頃は耳障りだったジェット音も、フライト開始から一時間経った頃には、無いもののように感じられるようになった。


 Tシャツにジーンズ姿の要は両手の指を絡ませ、掌をのびのびと真上へ伸ばした。背骨が子気味良くパキパキと鳴る。


 そして力を抜き、座しているエコノミークラスのシートに背中を預けた。ふう、とため息をつく。


 北京行きの旅客機内。右端左端に二列、そして中央部に四列の座席が真っ直ぐ前後へ伸びている。

 等間隔で並んだ楕円(だえん)状の窓から見えるのは、雲と空による白と青のみ。高度一万メートル以上も飛んでいるので、島など一欠片も視認できないだろう。

 そういえば北京といえば、万里の長城が有名だ。万里の長城は宇宙からでも見えると言われているが、それならこの高さからでも視認できるだろうか? 


 まあ、どのみち窓際の席ではないため、窓からの風景はそれほど見れない。そう考えると、窓への興味がすっかり冷めた。


 要たち四人は、中央部に伸びる座席群の一列に横並びで座していた。一番右の易宝から、楊氏、深嵐、そして要という順番。


 全員等しくエコノミークラスだが、それなりに快適に過ごせていた。


 しかし、快適なのは良いが、することがなくて退屈していた。


 前座席の背に付いた網ポケットには、興味のない情報の書かれたパンフレットと、緊急時の対応マニュアルしか入っていない。

 備え付けのイヤホンで機内オーディオを聞いていた時間もあったが、それもすぐに飽きている。


 要は腰に締められたシートベルトの圧力を感じながら、とりあえず他の三人へ目を向けた。


 易宝と深嵐に挟まれる形で座る楊氏は、アイマスクを付けて寝入っていた。


 易宝は腕を組みながら目を閉じているが、眠ってはいないことがなんとなく分かる。彼のテーブルの上には、空っぽになった機内食の箱が二段重ねになっていた。彼自身の分と、「不好吃(まずい)」と食べたがらなかった深嵐から貰った分である。


 深嵐は目をはっきり開けているものの、ひどく退屈そうで、しきりにあくびをもらしていた。類い稀なその美貌ゆえ、そんなしまりのない仕草さえ優雅であり、絵になっていた。


 ふと、こちらの視線に気づいた深嵐が振り向いて、


「ねーえー、要ちゃーん、なんかお話しよー。あたしもう退屈で死んじゃいそぉなのぉ」

「と、申されましても……」


 反応に困った要は、曖昧に返した。ていうか、いつの間にやら「要ちゃん」呼びしてるし。まあいいんだけどさ。


 深嵐はシートに背中を叩きつけるようにもたれながら、


「あーもー、つまんないのー! この位置関係じゃ易ちゃんからかって遊ぶこともできないしぃ。機内オーディオもつまんないしぃ」

「静かにせんか深嵐。ガキじゃあるまいし。というか、わしをからかって遊ぼうなどという考えそのものを捨てろマジで」


 易宝にぴしゃりとたしなめられ、深嵐は「ぶぅ」と頬を膨らませて拗ねる。


 とはいえ、要もどうしていいか分からない。

 やることがないなら眠ってしまえばいいのだが、せっかく乗る機会が少ない飛行機の中なのだ。起きてないと損な気がした。


 とりあえず、要は話すネタを考える。


 割とあっさり思いついた。


「あの、深嵐さん」

「なあに?」

「その――『公会(ギルド)』って何ですか?」


 要は、前から地味に気になっていた事をぶつけた。


 北京に来いと言われた理由は「『公会』の本拠地が北京にあるから」とのこと。


 楊氏は当たり前のように『公会』という固有名詞を使っていたが、そもそも要はその意味を知らない。


 深嵐は唇に何度も人差し指を当て、思案する仕草を見せた。知ってはいるが、どういう言葉で話すべきかと考えているのかもしれない。


 やがて、


「すごく分かりやすく言うと――「崩陣拳と楊一族を守る組織」かしら?」


 そのように答えた。


「崩陣拳と、楊さんを……?」

「うん。前にも言ったと思うけど、崩陣拳の次期伝承者っていうのは、楊一族の占いによって選出されるの。ここまではおーけー?」


 頷く。


「つまりそれは、楊一族の言葉だけが手がかりだって事なの。だから楊一族の末裔が「こう」と言ったら「こう」を鵜呑みするしかない。すべては楊一族の言葉次第なの」

「なるほど。それで?」

「純粋な占術の結果に基づくものなら、何事もなく終わるわ。だけどもし楊氏の言ったことが――歪められた情報だとしたら?」

「歪められた情報、ですか」


 深嵐は頷き、その具体例を出した。


「例えば、崩陣拳を手に入れたい奴がいたとする。そんな奴が楊一族の人間を何らかの手段で脅迫し「次の伝承者は俺だと発表しろ」って言ったら?」

「あるんですか、そんなこと?」

「今はまだ前例がないわ。けれど、これから起こるかもしれない。可能性がある以上、無視はできないわ。だからこそ――崩陣拳の未来への道しるべである楊一族を守り、連鎖的に崩陣拳も守るための組織が求められたの」


 要はようやく合点がいった。


「それが『公会』なんですね」

「そう。『公会』はそのために発足された、いわば自治会みたいなもの。漢民族の秘法である崩陣拳を、汚い手段で手に入れようとするバカチン共から守るために団結した組織。いわば「崩陣拳の守護者」よ。あたしが今回楊くんに同行したのは、『公会』の一員として彼を護衛するためなの。ちなみにこの前来た茶館の店主も『公会』とゆかりのある人物よ。だから店を貸切にできてたんだから」


 要はようやく腑に落ちた。どうして深嵐までもが日本に来たのかが。


 ――崩陣拳と、楊一族を守るための組織。


 思えばこの座り順も、その考え方に則ったものになっていた。

 易宝と深嵐。この二人の『高手』に挟まれながら楊氏は座っている。しかも二人は一睡もせずに起きている。この配置は楊氏を守るためのものであると、ようやく気がついた。


 片や『高手』。片や『高手』。こんな鉄壁の守りなら、楊氏に危害が及ぶことはまずあるまい。いや、危害を及ぼそうなどと考える気さえ無くなるに違いない。


「まあ、このババアの拳法は護衛というより、隠密と暗殺向きだがのう」

「あー。人を根暗みたいに言わないのー」


 わざと拗ねた口調で言いながら、真ん中の楊氏越しに易宝の顔へ手を伸ばす深嵐。

 易宝は「わ、こらっ。貴様結局どこの席に座っててもいたずらしてくるんじゃないか!」と言いながら、頬を抓ろうとしてくる白い手に必死で応戦する。


「んんっ」


 ちょうど、易宝のすぐ側に立っていた若いCAが、それを見とがめて咳払い。

 それを合図に騒ぐのをやめ、二人は静かに座り姿勢となる。


 CAが満足そうに頷き、去った後、要は深嵐に訊いた。なるべく控えめな声で。


「そういえば、深嵐さんの門派って奇影拳なんですよね?」

「そうだけど?」

「いきなりいなくなったり、目の前に現れたりする技ってありますよね? あれって、本当に奇影拳の技なんですか?」


 要は奇影拳の使い手である鴉間匡(からすま きょう)との戦い、そしてその攻撃方法や体術について説明した。


「ああ。その子の使うやつは確かにあたしと同じ奇影拳だけど、大事な要素がところどころ抜けてるっぽいわ。かわいそうに、粗悪品掴まされたわねその子」

「どういう意味ですか?」

「かなりいい加減な伝承のされ方をしてきた奇影拳だってことよ。確かに、相手の「虚」を突くという考え方自体は間違ってないわ。けど、発勁やフェイントといった表面的な部分にばっかりその考え方が使われている。『大公釣魚(たいこうちょうぎょ)』はいい技だけど、それにばっかり頼り過ぎてる。まっとうな奇影拳にはもっとすごい技がいっぱいあるのに」

「もっとすごい技、っていうと、いきなり現れたり消えたりするあの技とかですか?」


 深嵐は少し照れくさそうに苦笑し、


「『縮地(しゅくち)』のことね。まあ、あの歩法もその一つかしら」

「歩法……やっぱり走雷拳みたく、とんでもない速度で移動するんですか?」

「まさか。『縮地』は速度じゃないわ。「空隙(くうげき)」の中を歩くのよ」

「空隙?」


 聞き慣れない単語に、要の口が止まった。


「人間の意識っていうのはね、川の流れみたいに絶え間なく続いてるわけじゃないの。必ずところどころに意識の切れ目「空隙」が存在するのよ。要ちゃんは李小龍(ブルース・リー)の映画を見た事がある?」


 「はい、何度か」要はそう答えてから続けざまに、


「とんでもなく速いですよね、ブルース・リーの技って。俺もあんな風に速く蹴れたらなぁ」

「そうねぇ。でも知ってる? あれって実際の速度よりかなりスローで撮ってるのよ」


 え。


 要は絶句した。嘘だろ、おい。


「あの蹴りを撮るには、普通のカメラじゃコマ数が足りなすぎたのよ。映像にすると動作の過程を撮りきれずに、ブレた状態に見えちゃうんだって。だからあえてコマ数が多いスロー映像で撮影してるんだって」


 深嵐はそこから、奇影拳の事に話を戻した。


「『縮地』は――そのフィルムのコマとコマの「空隙(あいだ)」に入り込むの。特殊な呼吸法と歩法、そして意念を組み合わせて、人間の意識の「空隙」という「虚」へ入り込む。意識の「空隙」にある間、その人間は世界を認識できない。見ることも聞くことも嗅ぐことも触覚を感じることもできなくなるの。『縮地』はその中に入り込んで、好き勝手に動く事ができる。相手が反応できない時間を使って、殴るのも蹴るのも逃げるのも自由自在。日本の合気柔術にも、似たような技があるって聞いたことがあるわ」


 深嵐の通り名は『烟姫(ミス・スモーク)』。


 たとえそこに深嵐の姿があって、それを狙って打ちかかっても、まるで煙を殴ったみたいに攻撃が当たらない事が由来。


 最初聞いた時は半信半疑だったが、今なら納得できた。


 たとえ相手の間合いにすっぽり入っていても、その相手の「空隙」の中を動けるとしたら、わざわざ大きく動いて避ける必要はなくなる。

 打ってくる直前に「空隙」に入って、自分という的の位置をわずかにズラすだけでいい。それだけで相手の空振りはほぼ約束されたようなものだ。


「ま、詳しい技術情報はオフレコだけどね♫。バレたら対策取られちゃうし」


 ぱちりと片目をウインクし、そう言う深嵐。


 『高手』を見るのはこれで三回目だが、やはり先の二人に負けず劣らずの怪物ぶりだ。


 易宝の言う通り、彼女の能力は暗殺向きだ。

 使い方次第では、シークレットサービスによって厳重に警護された要人さえも簡単に暗殺が可能。悪用されたら大変な事になるだろう。


 しかし、そんな人物が味方である事のなんと頼もしいことか。

 楊氏が絶対に守らなければならない存在であるならば、彼女を同行させる事は、成功をほぼ保証するようなものだ。


 そして、そんなこちらの心を読んだかのように深嵐は言った。自信満々に胸を叩いて。


「あたしは『公会』の中でも最強よ。だから楊くんの警護の成功はほぼ確実♫。『公会』はナイスチョイスねっ」

「うぬぼれるなっつーの。響豊(きょうほう)の爺さんだっているだろうに。奴の太極拳の功夫は極めつけだぞ。奴でも良かったんじゃないか?」

「あのおっさんはダメよぉ。要ちゃん見た瞬間、ブチ切れて掩手捶(えんしゅすい)打ってくるかもしれないじゃない。あんなもん食らったら、要ちゃんの頭なんかスイカみたいに吹っ飛ぶわよぉ」


 なんだか自分をネタに、物騒な事を言っている。


 ていうか。


「響豊、って?」


 要はその代名詞の意味を問うた。


 易宝がやや話しにくそうな顔で、


「……(かく)響豊。『公会』所属で、太極拳の『高手』だ。その化勁(かけい)の功夫は入神の域に達しており、『霍無敵』とあだ名されている。そして日中戦争時代――抗聯(こうれん)として活動していた経歴を持つ」

「こうれん?」

抗日聯軍(こうにちれんぐん)。旧日本軍を対象に活動していたゲリラ組織の俗称だ。響豊はこの組織で英雄的な存在だった。その武勇伝は反日家の間で今も語り草となっている。まさに生ける伝説だ」


 ――ええ?


 要は開いた口がふさがらなかった。


 日中戦争が起きたのは、1937年から、八年後の45年まで。


 そんな時代から武術家として現役であったというならば、その実年齢も推して知るべし。自分が現在知る最高齢の『高手』である深嵐も優に超える。


 ……どんな妖怪だ、それ。


 けれど、そんな仙人じみた年数を生きている『高手』への突っ込みは後回しにし、要は肝心な事を聞いた。


「その人が、なんで俺を見たらキレるかもしれないのさ?」

「もう答えは言っているはずだ。響豊は抗日ゲリラだったんだぞ?」

「……あ」


 なるほど、そういうことか。要はようやく腑に落ちた。


 昔、日本軍と争っていたならば、坊主憎けりゃ袈裟までとばかりに日本人を嫌悪している可能性が高い。なにせ、自分たちの国土に踏み入って乱暴狼藉を働いた者たちの片割れなのだから。


「……それで深嵐、日本人であるカナ坊が崩陣拳次期伝承者になった事を聞かされて、響豊の爺さんはどんな反応をしていた?」

「まあ、流石に出会い頭に要ちゃんを殴り殺すってのはジョークだけど……やっぱし歓迎してない感じだったわ。雲祥(うんしょう)と違って『公会』と(たもと)を分かったりはしなかったけど」

「そうか……まあ仕方あるまい」


 易宝は疲れたようにため息をつき、シートに背を預けた。


 要は胸騒ぎがした。

 今まで全く気にしていなかったことだが、自分は崩陣拳の門人で初めての日本人なのだ。

 そして、そのことが原因で、何かわだかまりが起きる可能性がある。

 そう考えると、「他人の財布で海外に行ける」などと呑気に構えていていいのか不安だった。


「あの……俺、大丈夫だよな?」


 思わず、弱気な声でそう聞いてしまった。


 易宝はしばしキョトンとしていたが、やがてこちらの気持ちを察したように、軽く微笑み、勇気づけるように言った。


「大丈夫だ。確かに響豊は日本人にいい感情を抱いてはいないが、だからといっていきなり殴りかかってくるような気違いではない。それに万が一そうなったとしても、わしがこの身を賭しておぬしを守ってやる。何も心配はいらない」


 その言葉を聞いて、要は安堵し、気力を取り戻した。


 そうだ。何を恐れることがある。その響豊という人物も、この人の仲間なのだ。嫌われることはあるかもしれないが、いきなり殺しに来たりはしないだろう。


 それに、自分は楊氏に選ばれたからこそ、こうして招待されたのだ。ならば、堂々としていないでどうする。


 きっと大丈夫。つつがなく終わる。拝師式が終わったら母さんたちへのお土産を買いつつ北京を観光でもして、いい思い出をつくって帰国するんだ。

 








 成田空港から約四時間に及ぶフライトを経て、要はようやく北京首都国際空港に到着した。


 時刻は午前一一時。成田から離陸したのが八時なので、普通に数えれば昼の十二時だが、中国は日本よりも一時間遅れの時差であるため、この時間なのである。


 航空機と空港を繋ぐ搭乗橋(ボーディングブリッジ)の微かな隙間から流れてくる風は、現在の日本とそれほど変わらぬ夏の熱を持っていた。


 機内から空港内へ入ると、要は巨大な檻から解放されたような気分で背伸びした。めったに乗らない飛行機も、数時間乗りつづけていればさすがに飽きる。


 「入境(入国)」と書かれた看板についた矢印に導かれるまま、要たちは空港内を移動。


 機内であらかじめ記入しておいた健康申告書を税関に提出後、入国審査を受けることに。

 審査用のゲートは中国人用と外国人用の二つに分かれており、要は後者へ行った。大丈夫だろうかとドキドキしたが、杞憂だった。普通にOKが出た。


 各々の荷物の受け取りを終えた後、到着ロビーへ来た。


「おお……!」


 要の瞳に、興奮と感動の光が宿った。


 売店などの看板は全て中国語。行き交う人々が話すのももちろん中国語。場に満ちた空気の匂いも、日本とはどこか違って感じられる。


 要はここでようやく、中国へ来たのだと実感した。


 到着ロビー内の銀行で日本円を人民元に両替した後、喉の渇きを覚えたので、易宝に訊いた。


「あの、師父(せんせい)、喉乾いたから、そこの売店で飲み物買いに行っていい?」

「構わんが、一人で平気か?」


 頷く。


「……ま、何事も経験か。頑張って買ってこい」


 易宝はそう言って、背中を押してくれた。


 興奮半分、不安半分携えながら、要は売店に突撃。


 そして、カウンターの向こうにいる男の店員を訪ねた。


请问(ちょっといいか)

你有事儿吗(何か用)?」


 素っ気なく応対する店員。


 日本なら高確率で文句を言われるであろう接客態度だが、今の要にそんなものは欠片も気にならなかった。


 自分の言った言葉を、店員が理解できている。

 店員の話す言葉は少々訛りこそ混じっているものの、なんとか聞き取れた。

 要の学んだ中国語は、ちゃんと通用している。


你卖绿茶吗(緑茶ってある)?」

(あそこだよ)


 そう言って、投げるようにリーチインショーケースを指差す店員。


 その指先に従ってペットボトルの緑茶を見つけ、それを手に取ってレジへ戻った。


多少钱(いくら)?」

两块五毛(2元5角だよ)

明白了。请等候一下(分かった。ちょい待ち)


 要は財布の中を探った。両替で手に入れた一元札を二枚、一角硬貨を五枚取り出し、カウンターに置いた。


 店員はそれらを受け取ると、二枚の一元札を天に掲げた。電灯で透かして確かめて――中国では偽札が普通に出回っているらしく、店員はそれをよく注意して見るらしい――から、納得したように小さく頷く。


 支払ったお金を受け取り、緑茶を渡してくれた。


 そうして手に入れた緑茶ボトルを片手に、要は店の前で待っている易宝たちの元へ意気揚々と戻った。


「へへ、通じたよ、俺の中国語」

「何を今更。老楊(ラオヤン)ともちゃんと話せていただろうが」

小劉(シャオリウ)、そういうことじゃないんだよ。工藤くんは中国本土で自分の中国語が通用したことに感動しているんだよ。だよね、工藤くん?」


 楊氏の的を射た発言に、こくこくと頷く。


 そう。ただ中国語が通じただけなら、もうとっくに体験済みだ。


 重要なのは、本場中国で、自分の習った中国語が通じた事である。


 自分の発音が下手っぴなのは自覚している。けれど、それでも通用できて、なおかつそれで買い物が出来たことがたまらなく嬉しかったのだ。


 手に握りしめたこの緑茶が、優勝トロフィーのようにも思える。


 要は勝利の美酒、ならぬ勝利の美茶を味わうべく、キャップを捻り、口をつけて一気にあおる。


「甘っっ!!!?」


 ――そして、お茶にあるまじき強烈な甘味に驚愕した。


 思わず口から吹き出しそうになる。だが渾身の気合で唇を固く閉じ、ごくんと飲み込んだ。


 甘ったるい後味に吐き気さえ覚える。その不快感で涙が目に浮かんだ。


「な……なんだよこれ!? お茶じゃなかったのか!? さては騙しやがったなあの店員!」


 涙目で喚く要に、易宝は何を言わんやとばかりに、


「騙してなどおらんさ。それは紛れもなく緑茶だ」

「こんな甘ったるい緑茶があるか!」

「中国のペットボトル茶には、みんな砂糖が入ってるんだ。その方が現地人の口に合うらしい」


 わしは苦手だがのう、と付け加える易宝。


 先ほどまでの異文化交流の感動が一気に失せた気がした。嘘だろ、なんで砂糖なんか入れるんだよ……普通に飲もうぜ……?


 もしかすると、これから先も今のと同じようなカルチャーショックを受けるかもしれない。そう考えると、緊張で体がこわばるのを感じた。心が身構えていた。


「あと、これは知ってると思うが、水洗トイレにペーパーは流すなよ? ゴミ箱に入れるんだ」


 分かってるよ! 要はやけくそ気味に返した。


 その後、到着ロビーから11番出口へ出て、北京駅口行きのリムジンバスに乗った。運賃は日本と比べるとだいぶ安く、一六元(約二七〇円)。


 駅に到着後、チケット売り場で切符を買ってから、地下鉄へ乗車する。


 いくつもの駅を通過し、「天安门东(ティエンアンメンドン)」という駅で降車。


 改札をくぐり、重いスーツケースを手提げしながら階段を登って、地上へと出た。


 湿度を微かに含んだ熱気が体を包み込む。匂いは鼻を突っつくような排気ガスのソレであった。


 騒音が耳を揺さぶる。


 目の前に広がっているのは、とてつもない数の車が絶え間なく行き交う大きな道路。

 空の青には、微かにだが灰色が混じっている。スモッグだろう。

 エンジンやクラクションの音が幾重にも重なり合い、耳を騒々しく突っついてくる。容赦無く照りつけてくる昼の日差しも相まって、かなり居心地が悪かった。


 その大きな道路の右を沿うようにしてさらに歩くと、左に巨大な建造物が見えてきた。


 日本の城によく似た、赤い瓦屋根の(やぐら)のようなもの。


 建物は近づくにつれてその姿を明確にしていき、やがて、その紅の全貌を視界いっぱいに現した。


 楊氏はそこで足を止めた。それに合わせて易宝、深嵐の足取りもピタリと停止。


 要ももちろん立ち止まった。しかしそれは楊氏に合わせたからではなく、目の前に現れた巨大な建造物の迫力に圧倒されたからだ。


「でっけぇー……」


 それを見上げた要は我知らず、そうこぼす。


 ――実際には、櫓などでは無かった。そんなケチな大きさではない。


 大きく分厚い城壁の上に豪壮な楼閣を乗せた、赤づくめの城門。ソレは、他の建物より明らかに存在が抜きん出ていた。


 要はその建物に、ひどく既視感があった。


 ――天安門。


 現中国の象徴ともいえる歴史的建造物で、かつては紫禁城の正門だった。中華人民共和国成立時、初代国家主席であった毛沢東が建国宣言をした場所でもある。


 大きな道路――長安街(チャンアンジエ)を挟み、天安門広場と向かい合う形でその赤き城門は屹立していた。このあたりは軍事パレードなどでよく使われる。


 天安門の赤い城壁の中央には、特大の肖像画が一枚掛けられていた。描かれているのは毛沢東。――中国共産党が政権を握る前は、あそこには蒋介石の顔があったそうだ。


 何から何まで、テレビで見た通りの姿だった。


「……ちっ」


 不意に、不快げな舌打ちが耳に入った。


 音源は易宝だった。毛沢東の肖像画に、これまで見たことのないような冷ややかな眼差しを送っている。


 まるで、救いようのない悪人を蔑むがごとき瞳。


 そんな彼を、楊氏は同情するような目で見つめていた。


 張り詰めた空気が、いつの間にか場を支配していた。


 な、なんだろう。なんか言葉を出すのが罪なような気がする。要は意味不明なその緊張感に翻弄されていた。


 けど、このままだんまりなのも居心地が悪い。


 なので、要は話題を作り、それを楊氏にぶつけた。楊氏を選んだのは、易宝の機嫌がなんだか悪そうで、話しかけづらかったからだ。


「そ、そういえばここで止まりましたけど、何かするんですか?」

「ああ。『公会』の手の者がもうすぐ迎えに来る手筈となっている。ここが待ち合わせ場所でね」


 要は「なるほどっ」と、大げさに相槌を打つ。


 しかしそれ以降、他の話題が思いつかなくなった。


 どうしようかと考えていた時、易宝がうんざりした口調で、


「おい老楊っ、まだ迎えは来ないのか? 天安門なんざ正直見たくないんだが」

「ああ、ちょうどこの辺りで待っててくれと言われたんだ。まだ着いていないようだけど、もうしばらくしたら来るから我慢しておくれ」


 楊氏は苦笑しながらそう答える。


「易ちゃん……」


 一方、深嵐はなんだかしんみりした表情で易宝を見つめていた。


 その眼差しには、先ほどの楊氏と同様、易宝の心中を察して感傷にひたるような光が見て取れた気がした。


 さっきまでの話しにくい空気が、再び戻ってきていた。


 ――いったいなんなのだろうか。


 要たちはここに来るまで、楽しく談笑に花を咲かせていたのだ。


 しかしここ――天安門の前に来た瞬間、易宝の急激な機嫌の悪化によって空気が悪くなった。


 そして、楊氏も深嵐も、その理由を何か知っている様子。そんな彼らの態度が、この話しにくい空気を助長していた。


 そんな風に考えを巡らせていると、視界の右端から光が突き刺さった。


 見ると、一代の黒いワゴン車が走っていた。そのボディの光沢が日光を反射したのだ。


 その黒いワゴンは他の車の流れと同調して、視界の端から端へ移動する――かと思いきや、軽く曲がり、こちらから見て手前の路肩へと移動して停車。


 自分たち四人のすぐ目の前に来た。


 そして、スライドドアが勢いよく開かれ、




「要様ああああああ―――――――っ!!」




 ――車内から、とんでもない美少女が飛び出してきた。


 まるで射ち放たれた矢のように鋭く、速い動きだった。拳や肘を乗せればそれなりの威力が出るだろう。


 そのため、要の非常時におけるとっさの反応が出てしまった。スーツケースから手を離し、滑るような足さばきで、右斜め前へ迅速に移動。肉体に染み付いた『閃身法』によって、直撃する前に少女の延長線上から素早く脱した。


 要のすぐ横を、少女が風のように素通り。


 そして、置いてあった要のスーツケースにつまづき、勢いよくうつ伏せにすっ転んでしまった。


「ぎゃぶっ!」


 女の子にあるまじき、潰れたカエルのようなうめき声。


 その呻きを聞いて、要はようやく無意識から我に返った。


「お、おい? 大丈夫かあんた?」


 要は慌てて駆け寄る。


 しかし、少女はまるで脊髄反射のような速度で元気良く起き上がった。


 要の方を向くや、その大きな瞳を輝かせ、再び両腕を翼のように開いて飛びかかってきた。


 そして、


「要様ぁっ!! 会いたかったですわぁ!!」


 首に手を回し、倒れこむように抱きついてきた。


 柔らかな感触といい匂いが、同時に懐へ飛び込んでくる。


 ――え。


「ちょ、ちょっと、一体なんだよ!?」


 要は声を荒げる。


 普通ならこんな綺麗な娘に抱きつかれたら照れが入るはずだが、あまりに突然すぎる事態ゆえにそれどころではなかった。


 女の子は要の右肩に乗せていた頭を引っ込め、今度は要の顔と向かい合わせた。吐息がかかるほどの間近な距離で、二人の視線がぶつかる。


 思わず、ドキリとした。


 非常に美しい少女だった。

 箱入り娘然とした気品を感じる顔立ち。しかし、輝きの強い大きな瞳、適度に焼けた肌色、そして後頭部で一束にまとめられたポニーテールが、少女特有の快活さを同時に想起させた。パッと見で性格がよく分かりそうだ。

 身長は、要より少し低い程度。ロッカーが着そうな絵柄のTシャツと、ぴったりしたジーンズによって描かれる体の線は極めて細い。かと言って痩せすぎてはいないスレンダーな体型。曲線美を崩さない絶妙な配分で筋肉がついていることがうっすらとながら見て取れる。


 その女の子は間近の要をキラキラした笑顔で見つめていたが、自分に向けられている視線を意識したのか、照れ笑いに変えた。


「か、要様……そんな風にじろじろ見られると、恥ずかしいですわ」

「へ? ああ、ごめんよ」


 要は素直に詫びた。女の子の体をじろじろ見るもんじゃなかった。ここは謝るのが正しい男の姿だろう。


 しかし、それ以前に大きな疑問がある。


「それで――あんたは誰さ?」


 その疑問とは至極単純。この少女が何者か、だ。


 彼女は要の名前を知っている。そこを考えると、ほぼ確実に『公会』の関係者であることは分かる。……だとすると、このワゴン車こそが『公会』の迎えなのだろう。


 少女は失念していたとばかりに目を見開くと、数歩下がり、お辞儀をした。いつか見た菊子のソレを連想させる、お手本のような会釈だった。


「――初次见面(初めまして)。わたくしは紅深嵐師の関門弟子、馮奐泉(ひょう かんせん)と申しますわ」


 そして顔を上げ、思わず見入ってしまいそうなほどの眩しい笑顔でもう一言。


「ずっと、貴方の事をお待ちしておりましたわ――要様」

読んで下さった皆様、ありがとうございます!


今回の話は北京が舞台ですが、作者が中国へ行ったのはすでに昔の話なので、図書館などから資料をかき集めて必死にリアリティを補強しつつ書いています(;´д`)

「あれ?これおかしくね?」と思う点があったら、それは作者の取材力不足です……ご容赦を(−_−;)


例えば、今の中国では現ナマより電子マネーが盛んとのこと。物乞いまでQRコードを持ってるそうで。

その理由は、今回の話でも言及した「ニセ札の流通」にあるらしいです。

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