第三話 神に一番近い人間
心地よい茶の香りを宿す湯気が、静謐な茶館の空気中に溶け込む。
湯気の出所は、紫砂製の茶壺――小さな急須のような茶器。これに茶葉と湯を入れる――に入った凍頂烏龍茶の茶葉。
干物のような楊氏の手が電気ケトルを掴み、高くから叩きつけるようにして茶葉へ湯を注いだ。満タンになる1、2センチ前で注ぐのをやめると、茶壺の蓋を閉じ、茶器セットの傍らに置いてある小さな砂時計を逆さにした。一分計、二分計、三分計が一つにまとまったタイプのものだ。
凍頂烏龍茶を淹れる時にはルールがある。一回淹れるごとに待ち時間を三十秒ずつ増やして飲んでいくのだ。そうすると茶葉が長持ちする。こうやって時間をかけて飲む方法を「功夫茶」という。――ちなみに全て易宝の受け売りである。
しばらく時間が経つと、楊氏はおもむろに茶壺を手に取り、茶盤の上にあるお猪口サイズの茶杯へ茶を淹れていった。
要は一礼して茶杯の一つを手に取り、香りを楽しんでから、黄緑色の液体を飲み干した。口いっぱいに香ばしさとまろやかな苦味が広がり、味覚を心地よく刺激する。
易宝、楊氏も茶杯を手に取り、同じように飲んだ。
要は現在、四人掛けの席の一角に座していた。向かい側の席には笑い皺に沿った微笑みを浮かべてこちらを見ている楊氏。隣には易宝が座っている。
深嵐を含めて、現在ここにいるのは四人だ。一人一席に座り、四席全部埋められる。しかし、残った斜向かいの席に深嵐の姿は無かった。
「ねえねえ、易ちゃん易ちゃん」
「なんだ深嵐、一体何の用――フムゥ?」
「あっははは! 引っかかったー!」
「こんの……!」
振り返りざまに頬を人差し指で押された易宝は、心底鬱陶しそうに犯人、深嵐を睨む。彼女はというと、子供みたいにからから笑っていた。……静かな茶室の雰囲気が台無しである。
深嵐は易宝の隣に立ったまま、こんな感じで彼をからかって遊んでいるのだ。
「だー、もう! いい加減にせんかこの妖怪ババア! 落ち着いて茶も飲めやしない!」
「えーいいじゃないのぉ。海一つ跨がないと会えないんだから。この機会にいーっぱい易ちゃんで遊んでおかないと。それに易ちゃんもこんないい女に絡まれて嬉しいっしょ? いい匂いするっしょ?」
「おのれの実年齢知っている身としては、恐怖しか感じぬわ!」
「あー? 女に向かって年齢の話はNGよぉ? 易ちゃん判決、有罪。ヘッドロックの刑☆」
「いだだだだだだ!!」
背後から易宝にヘッドロックを食らわせる深嵐。その顔は怒っているように見えて、けっこう楽しそうだった。
易宝曰く、彼女は「ババア」。『高手』の例に漏れず、見た目よりもずっと長く生きているらしい。けれど、それでも見た目的には二十代前半程度にしか見えないため、こうした少女じみたはしゃぎ方にも違和感が無かった。
……ぶっちゃけ、年若いカップルに見えなくもない。
「師父と、えっと……」
「深嵐、でいいわよ?」
「深嵐……さんって、どういう関係なんだ?」
なので、ついそんなことを訊いてしまった。
すると深嵐は待ってましたとばかりに易宝の首へ嬉々として抱きつき、
「ふふふ、愛し合う仲です☆ 現在中国と日本の遠恋状態だけど、愛はまだまだ冷めてないわっ」
「吐かせ! ただの腐れ縁だろうが!?」
「ああ……思えば易ちゃんと初めて出会った時から、この恋は始まっていたんだわ……初めて会った夜の易ちゃん、凄く男らしくて素敵だったわ……♡」
「誤解を招く言い方をするなマヌケ! それはわしらが大喧嘩した話だろうが!」
「あ、そういえばあたしその時、易ちゃんに勝ってたわね。うぷぷぷっ」
「こ……このババア……!」
わざとらしくほくそ笑む深嵐。切歯扼腕する易宝。
あの易宝が完全に手玉に取られている。新鮮な光景だ。
しかし、あまり長く続いたためか、やがて楊氏が咳払いをした。二人はピタリと騒ぐのをやめた。
今度こそ、確かな静寂が茶室を支配する。
一言に静寂と言っても、種類があるものだ。緊張感のある静けさなのか、あるいは落ち着く静けさなのか。
今回のは、その中間といえる。未知への緊張と、茶の香りによる安心感。
それをもたらすのは、ひとえに楊氏だった。
目の前の好々爺は茶壺へ再び湯を注ぐと、微笑みをたくわえてこう切り出した。
「さて、工藤くん。君はいったい何から知りたい? 私の知る限りの事は全て話してあげるよ。さぁ、焦らず考えてくれたまえ」
――要は考えた。何を聞くべきか、と。
正直、聞きたい事はたくさんあった。
けれど、そのたくさんの「聞きたい事」は、いずれも一つの要素に結びつけられるものだった。
そう――「崩陣拳」という要素にだ。
倉橋菊子誘拐事件の主犯、林越は崩陣拳のことを「革新的武術」と賛辞していた。
革新的武術とは? なぜ他の門派に比べてありがたがられるのか?
もう一つは、易宝はどうしてそんな上等な拳法を、自分に伝えてくれたのか、だ。
正直、自分は武術の才能など皆無な凡夫であると断言できる。どうしてそんな自分を弟子に選んだのだろう? 普通、優れた技術は、それを全て吸収するに足る才能を持った人間に教えるものだろう。
鴉間匡によるヌマ高乗っ取り事件が起こる直前、その疑問を易宝にぶつけたことがある。しかしその時、易宝はあからさまにはぐらかしたのだ。
……そう。自分は崩陣拳の事をよく知ったようで、実は全く知らない。
隣の易宝へ視線を移す。易宝もまたこちらの視線に気づく。
彼はこちらの気持ちを察したように「好きに聞け」と言いたげな表情で頷きを返してきた。
それを見て、要は質問としてぶつける言葉を固めた。
楊氏の穏やかな半眼を真っ直ぐ捉え、そして問うた。
「じゃあ楊さん、まず一つ聞かせてください――崩陣拳って何ですか?」
問うたのだ。問うてしまったのだ。
雰囲気で分かる。この人は崩陣拳の事をよく知っていて、そして今、自分の投げかけた質問に確実に答えてくれるはずだと。
緊張のせいか、心臓が早鐘を打っていた。
自分は知りたいから質問した。しかし、これから聞くことが、今まで培ってきた常識を打ち砕くほどのとんでもない内容であるという予想が頭に浮かぶ。心のどこかに、それを聞くことを嫌がっている自分がいる。
楊氏はうっすら微笑み、
「ふふふ。これは少し答えるのに時間がかかりそうな質問だね。答えるべき事が多いから」
「す、すみません」
「謝る事はないよ。聞くところによると、君は崩陣拳を本格的に学び始めた今年の四月以降、とんでもない騒動に幾度も巻き込まれているらしいね。その騒動の過程で気づいているんじゃないかい? ――崩陣拳が他の拳法より特別なものであることに」
図星を突かれた。具体的に見抜かれたわけではないが、大まかな予想としては的を射すぎていたからだ。
要は息を大きく吸って吐き、心を落ち着けてから、
「……はい。革新的な武術だと聞きました」
「革新的、か……そんな言葉は可愛いものだ。崩陣拳という拳法は、人類の人類としての「在り方」を根本から覆す技術の結晶なんだよ」
おもちゃ箱を漁っていて、百円玉がいっぱい入った昔の貯金箱を掘り当てた気分だった。
人類としての「在り方」を覆す――あまりにも仰々しい表現が出てきたことに、要は呼吸を止めずにはいられなかった。
心に警鐘が鳴り響く。これ以上聞くと、自分の中の常識が今度こそ綺麗さっぱり崩れ去る。ここで質問を途切れさせて、無知なまま人生を送れ――と。
しかし、要はその警鐘を懸命に無視し、踏みとどまった。これ以上知らぬままでいることもまた、苦痛だったからだ。ここで耳を塞いだら、当分気になって仕方がなくなってしまう。
楊氏は口を開く。要には彼の口が、試練の部屋へと続く分厚い門のように感じられた。
「工藤くん、もう君は『高手』という言葉は知っているかい?」
「え……は、はい。中華武芸を学ぶ者の究極体だと、師父から聞いています」
「そうだね、正解だ。ではさらに聞こう。『高手』になるためには、一体何が必要だい?」
少し複雑な答えを持つ質問だったため、要は過去を振り返って答えを探った。
――『高手』に到るための条件は二つ。
一つ。自分の肉体に最も相性の良い武術を選び、それをひたすら鍛える事。
二つ。数多くの実戦経験を積む事。
これらの条件が満たされることで、その人間は晴れて『高手』へと到る事が出来る。
しかし、これら二つはいずれも言うが易しだ。
前者――何の手がかりも無いままくじ引きのような運試しで門派を選ばないといけない。
後者――命の保証が無い厳しい闘いを、何度も繰り返さないといけない。
これらのシビアな条件を乗り越えた先に、『高手』という現人神の領域へと足を付けられる。
楊氏に、上記の情報を伝える。釈迦に説法だろうが。
「うん、これも正解。だが工藤くん、もしもの話をしようか。『高手』になる条件はいずれも厳しいものだが――これらの条件を満たさなくても『高手』になれるとしたら?」
「それは……」
全くもって信じられない。リアリティの欠如も甚だしい。
けれど、そのリアリティの無さに目をつぶって、彼の言った仮定をありのまま飲み込んでみよう。
前述の厳しい条件をクリアせずに『高手』になれる技術が存在したとしよう。
――「人間」という生物の規格そのものが覆る可能性がある。
圧倒的な身体能力。コンピュータにも匹敵する予測能力。常人より長い寿命。衰えぬ容姿。
『高手』とは、人間が思い浮かべる「理想の存在」に最も近いものではないか?
もしも、気軽に『高手』になれる技術が現れたなら、世の中はめちゃくちゃになる。みんな理想の存在になりたいがために、その技術に手を伸ばすに違いない。
そして世界は超人で溢れかえり、「人間」という生物の定義、規格が一転する。
「……まさか」
まさか、まさか、まさか、
どうして楊氏は今わざわざ「『高手』とは何か?」などとという問いをしてきた?
――自分が投げかけた「崩陣拳とは何か?」という質問の答えに直結する内容だからとしか考えられない。
今聞いた言葉を噛み砕けば、自ずと「答え」は現れる。いや――現れた。
しかし、要はその「答え」をありのまま受け入れる事が出来なかった。精神に刷り込まれた防衛本能がその情報を拒んでいた。
そして、そんな要の代わりに、楊氏が答えを口にした。
「崩陣拳にはね、私が今言ったバカバカしい「もしも」を実現する力がある。
つまり――――修行者を確実に『高手』に変えてしまう武術なんだよ」
自分の「答え」と、寸分違わぬ答えだった。
けれど未だ、脳が理解することを拒む。
しかし目の前の楊氏、隣の易宝も、その表情はいたって真剣だった。出会って間もないが、常におちゃらけた態度を崩していなかった深嵐でさえ、神妙にしていた。
三人の大人たちのその反応が、要の現実逃避を許さぬと暗に告げている気がした。
「マジ……なんだな」
敬語に取り繕う余裕もなく、素の言動で楊氏に言う。
ようやく認めた。認めてしまった。
楊氏も黙って首肯。そして、
「『高手』になるためには、「自分の肉体に最も相性の良い武術」を選ぶ必要がある。これは自分の肉体の骨格、血管、神経細胞、脳細胞、筋組織といった総合的な体機能に最も合致する武術を学ぶという意味だ。いわば、自分の肉体という名の「鍵穴」を開けるため、最も相性の良い武術という名の「鍵」を見つける作業。しかし、「鍵」は星の数ほどたくさんある。その中から正解を見つけ出すのは、砂漠の中から一粒の砂金を見つける行為に等しい。武術に対する情熱や才能があっても、まずは「運」の有無によって篩にかけられてしまう。本気で『高手』を目指している人にとって、これは最大の試練だ。けれど――崩陣拳はそんな試練をあっさり解決してしまう」
「え……?」
どういうことだろうか。要は考えた。
「肉体」に合致する「門派」を、手がかりも無いまま選び出す。これはとても難しい作業だ。たとえその人にとってやりやすい武術だとしても、それが必ずしも自分の肉体に最も合うものであるわけではない。その逆もまた然り。大半が運に支配されている。
この不可逆要素を解決する方法。それは何か?
そして、その答えは間もなく出てきた。
「工藤くん、君は崩陣拳を始めるにあたって、まず小劉からどんな修行を課せられた?」
訊いてくる楊氏。しかし、その声にはあらかじめ分かっているような感情が感じられた。
「『頂天式』」
即答。
そして、理解。――崩陣拳の全ての基礎である『頂天式』。この功法にこそ、全てが隠されているのだと理解。
「おそらく、今君の考えている通りだよ、工藤くん。その『頂天式』にこそ、修行者を確実に『高手』に至らせてしまう「鍵」があるんだよ。……ここから先は、私よりも小劉に説明してもらおうかな。きっと、そっちの方が絶対わかりやすいし」
話を振られた易宝は、ゆっくりと説明を開始した。
「――従来の武術や拳法の技術習得のプロセスは「変える」ことだ。自身の肉体を、その門派の拳法を行えるよう「作り変える」こと。それこそが体得という行為だ。その「変えた」形が、自身の肉体と相性が最高だった者が、修行の果てに『高手』へと到れるわけだな。……しかし、崩陣拳は少し違う」
「……何が違うんだ?」
要は息を飲み、問う。
「崩陣拳の場合、「変える」のではなく――「戻す」のだ」
「戻す?」
「そうだ。確かにさっき言った通り、人間の体質はそれぞれ千差万別だ。それこそ、DNAに含まれるアデニン、グアニン、シトシン、チミン全四種の塩基の配列パターンのように。けれど、体質こそ個体によって異なるが、皆等しく「人間」という生物の範疇だ。そして生物には、種としての潜在能力を発揮させる上で最も理想的な「形」が存在し、それは全ての人間の体に封印されている。その人体の奥底に封印された「理想形」を、『頂天式』によって目覚めさせる。体質は人によって千差万別だが「理想形」は一つだけ。カナ坊よ、崩陣拳は『頂天式』によって「繋がりを持った筋肉」を作り出すという事は、おぬしも知っておろう? そして、そのために利用する人体の生理反応もな」
要は唾液を飲み込み、乾燥していた喉を潤してから答えた。
「……姿勢反射」
「そうだ! 姿勢反射は随意的なものではなく、人間という生物が持つ本能的反応だ。本能的反応ゆえ、人体の中に眠っている「理想形」を引き出すのに最も適し、なおかつその行方を知る案内役となる。我らが祖師鄭熙陽は、それこそが人体の真の力を引き出す鍵だと突き止めた。『頂天式』は站樁であり、身体開発法であり、強健法であり、そして人体の真の力を開放する「マスターキー」というわけだ」
――『頂天式』に驚かされたのは、これで何回目だろうか。
易宝は修行開始初期段階から「『頂天式』は毎日やれ。大切な功法だ」と口癖のように言っていた。要も言う通りにし、『頂天式』を毎日やった。
最初は騙されたと思ってやっていたが、修行が進むにつれて、その真の力に舌を巻かされた。
けれど、自分は今までまだ一部しか知らなかったのだ。
今この場で『頂天式』の真価を確かめた。
たった一つの立ち方に、これほどたくさんの効果が詰まっているなんて。要は改めて驚きを隠せなかった。
――しかし、それだけだと『高手』になる理由として不十分。
「い、いや、ちょっと待って師父。確実に『高手』になれるっていうなら、もう一つの条件の「数多くの実戦経験」っていうのは、どうやって解決するんだよ?」
「普通に実戦経験を積めばいい。ただし、肉体を「理想形」にできたのなら、積むべき経験は少量で良い」
どうして? と聞く代わりに、要は小首をかしげる仕草をしてみせた。
「何度も言うが、「理想形」とはその生物の本来持つ能力を最大限に引き出せる状態だ。そして、それは神経細胞レベルにまで影響がある。『高手』へ至るべく豊富な実戦経験を積むのは、神経と勘を研ぎ澄ますためだ。だが「理想形」になれば、その作業が大幅に進む。普通より遥かに少ない実戦経験で『高手』になる条件をクリアできるというわけだ」
「冗談だろ……そんなの反則もいいところじゃんか」
「冗談などではない。わしも実際、臨玉の奴よりずっと早く『高手』になったからのう。武術を始めた年はほぼ同じであるのに、だ」
易宝は腰に両手を当て、若干得意げにうそぶいた。臨玉の先を越したことが嬉しかったのだろう。
――先の越し方が、とんでもなくインチキだが。
要は今の話を聞いて、ようやく明確に思い知っていた。崩陣拳という門派の異質さを。
大成するのに類い稀な才能が要るから「特別」なのではない。
むしろ逆だ。
――どんな凡夫でも大成が約束されてしまうから「特別」なのだ。
けれど、と思う。
そんなとんでもない技術なら、なおさら自分なんかに伝えた意味が分からない。
易宝の気まぐれだろうか。
――いや、きっと違う。
具体的な理由は分からない。
けれど、なんとなく分かるのだ。
易宝が自分を選んだのは、決して気まぐれなんかではない。何か意味があるのだと。
「そして次に、私と崩陣拳の繋がりについて話そうじゃないか。崩陣拳の事を詳しく聞きたいのなら、「我々」の正体についても知るべきだ」
楊氏のその言動に、要は今更ながらハッとした。
最初に易宝が言っていたではないか。「楊氏は崩陣拳にとって欠くべからざる存在だ」と。
そんな要の心情を知ってか知らずか、楊氏は微笑みを崩さぬまま告げた。
「――私たちは『楊一族』。数百年前より続く占術家の一族だ」
その笑みは単なる微笑みのように見えて、奥底に何か大きなものを秘めているように感じられた。
「我々は「奇門遁甲」を始めとする、中国のあらゆる占術の要素を融合させ、独自の占術を開発した。そしてそれを何代にも渡って伝え、受け継いできたんだ。手前味噌になるが、楊一族の占術は未来予知に匹敵しうる精度で人間の運命を読み抜く力を持っている。私のご先祖様は昔、水面下にて画策されていた皇帝暗殺を占いで突き止め、それを秘密裏に阻止させたという実績がある」
「へぇ、それはすごいですね」
要はそう感嘆を送りながらも、心の中ではどう反応すればいいのか困惑していた。
占術。すなわち占い。
楊氏の一族が、非常に優れた占い師であることは十分分かった。けれど、その占いが、崩陣拳とどう関係があるというのか。それがまだ謎だった。
しゃべり疲れたのか、楊氏は一度深呼吸してから再び口を開いた。
「「崩陣拳とは何か」。この問いに完全に答えるには――創始者である鄭熙陽の歩んだ人生についても話す必要がある」
そう前置きをして、語り始めた。
「鄭熙陽――幼くして両親を結核で亡くし、天涯孤独の身となってさまよっていたところを少林寺の武僧に拾われた。以来、出家という形で寺に住み込むこととなった。仏法を学ぶ傍ら、鄭は少林寺に伝わる武術に触れ、眠っていた天賦の才を瞬く間に開花。やがて手足が伸びきる歳になると、還俗して崇山を下山。俗世での暮らしを始めた。武術の修行を欠かさず続け、色々な武術家と交流、または命を懸けた戦いを繰り広げていった。そして晩年期、鄭は少林寺で学んだ武術や身体強健法に独自のアレンジを加え――崩陣拳を創始した」
ここまでは、易宝から聞いた話と寸分違わない。そして、鄭熙陽の話はそこまでしか知らない。
しかし、楊氏の話にはまだまだ続きがあった。ずっと掘り進めなかったトンネルをようやく掘り進むような心境で耳を傾ける要。
「崩陣拳はまさに革新的な武術だった。『高手』という現人神への道を確実に保証できるその武術を、鄭は自分の手で持て余さず、誰かに伝えたいと考えた。そしてその考えによって――ある一人の少年が弟子となった」
「少年……って?」
「陳九英。鄭の最初の弟子さ。そして彼の存在が――崩陣拳という門派の進む道を決めることになった」
その発言とともに、店の中が水を打ったように静まり返った。
「陳九英」という名が、ただならぬ力を持っている事の示唆に他ならなかった。
楊氏は茶壺を手に取り、小さな杯に茶を淹れていった。熱を持った黄緑色の液体が、ほんのりと湯気を立てる。
そして、茶杯の一つをつまむと、話を再開させた。
「九英は志高い少年だった。師である鄭の言う事を少しも聞き漏らさず、赤子のような素直さで次々と伝承をものにしていった。そして青年期には、すでに『高手』へと至っていた。九英は『高手』となった我が弟子を見て、崩陣拳の効果が偶然のものでは無い事を確信した。しかし、それから大きな問題が起こった」
手元の茶杯の香りを楽しみ、一気に飲み干してから、続けた。
「九英は確かに功成った。しかし、その功に「心」は伴っていなかったんだよ。九英は最初は素直だったけれど、年月と修行を重ね、功を高め、技を増やすにつれて、徐々にその素直さを無くしていき、傲慢な性格になってしまったんだ。人間をして人間を超えた存在『高手』に若くして至った事実は、増長させ、自身の力におぼれさせるには十分すぎる材料だった。九英はその強大な力をもって次々と身勝手を働きだし、とうとう人まで殺してしまった。ただの武術家が暴れているのならまだ収まりがつくけど、暴れているのは銃弾さえ躱せる『高手』。普通の人間が敵う相手ではない。ゆえに、鄭も看過するわけにはいかなくなった。鄭は九英に死闘の末重傷を負わせ、そして破門にしたんだ」
突然耳に降ってきた修羅な内容の話に、要は身震いを微かに覚える。
人まで殺してしまった――自分が今まで生きてきた環境ではまず起こりえないであろう、恐ろしい行為。
ずっと忘れていたが、武術とは本来、殺敵のための技術に他ならない。そういった血なまぐさい話があっても別に珍しくはないだろう。
要は思わず易宝、そして深嵐へ目を向けた。
この二人はきっと、命懸けの戦いを何度も経験しているのだろう。それを考えると、今まで自分が必死こいて立ち向かってきた「闘い」が、まるでお遊びのように思えてならなかった。
……いつか自分にも、命を賭して誰かと戦う日が来るのだろうか。
そんなこと、今は考えたくなかったし、考えても答えなんか出やしない。なので半ば現実逃避のような形で楊氏の話に耳を向けた。
「その一件以来、鄭は崩陣拳を伝える相手を厳選したいと考えるようになった。けれど、それは読心術や予知能力でも使えない限り非常に難しいことだ。たとえ弟子入りしたての頃には純粋だったとしても、成長とともに力に溺れるリスクは、九英という前例によって確信できていた。ゆえに鄭は――我々『楊一族』の元へ駆け込んだんだよ」
ようやく、話が『楊一族』へと繋がった。
「目や勘で良い弟子を探せないのなら、もはや占術にすがる他ない――そう思った鄭は『楊一族』に懇願してきた。「貴公らの優れた占術を、どうか我が門のために役立てて欲しい」と。最初に訪ねてきた時は、ご先祖様も「何を言っているんだ」と思ったことだろう。けれど鄭が「必ず『高手』を生み出せる」という崩陣拳の最大にして最悪の特徴を口にすると、ご先祖様はその言葉の意味と危険性をすぐさま感知。そして、鄭の提案に応じてくれたんだ」
そこで一度言葉を区切ると、楊氏は片手の指を三本立てた。
「そして『楊一族』は、この現代までに三人の伝承者を選出した。一人目は小劉の師である呂月峰、二人目は小劉、そして三人目は工藤くん、君だ」
そしてその三本の指先を、要と、その隣に座る易宝へ向けた。
「工藤くん、君は小劉に偶然弟子として選ばれたわけじゃない――選ばれるべくして選ばれたんだ」
「え……?」
言っている意味が分からない。
選ばれるべくして選ばれた――それはつまり、さっき言った占術によって自分が選ばれ、易宝がそんな自分を育てたということ。
言葉の意味だけならば理解できる。
けれど、世界に六十億人以上いるという人間の中から自分という一人を見つけたという話は、やはりなんとも非現実的だ。
「――『遥か東の果ての島国。虎の大地に虎児は有り。その地へ腰を下ろし、ひたすら座して待て。さすれば虎児は、自ずと爾が巣穴へ導かれん』」
「な……なに?」
脈絡なく意味不明な事をしゃべり出した易宝。要は思わず椅子を退かせる。
「これは老楊の占いによって導き出された、おぬしに会うための手がかりだ。「遥か東の果ての島国」は日本を指す。「虎の大地」は、虎に似た形をした神奈川県。そして「虎児」とはカナ坊、おぬしの事に他ならぬ。わしは十年ほど前からこの日本に移住し、ずっとおぬしとの出会いを待ち続けていたのだ」
何を言っているのだろう。
十年間、自分に会うのを待っていた?
「師父……あんた、その頃から俺の事を知ってたのか?」
「いや。おぬしの名と顔を明確に知ったのは、河川敷で会った時が初めてだ」
頭が痛くなってくる。
俺を待っていたのに、俺の顔も名前も知らなかった?
だったらどうやって俺のことを見つけて、そして弟子にしたっていうんだ。
俺の記憶が正しければ――
「――――あ」
そうだ。思い出した。
師父と初めて出会った河川敷。
あそこから全てが始まった。
そこで俺は、師父の弟子になったんだ。
しかし、師父が俺を見つけて、弟子にしたんじゃない。
俺からすすんで、「弟子にしてくれ」と頼んだじゃないか。
あの時、自分は易宝の強さに憧憬を抱いた。
決して良いとは言えない体格の男が、自分よりも大柄な者たちを一方的に打ち倒していく様子に、どうしようもなく心惹かれた。
そして、自分もあんな風になりたいと思った。
その時だ。「弟子にして下さい」などという言葉が思い浮かび、何も考えずにそれを口にしてしまったのは。
その言葉に易宝は頷いた。
――まるで「その言葉を待っていた」と言わんばかりの表情で。
――ずっと探していたものをようやく見つけたかのような顔で。
……そして、それら全てのやり取りが、楊氏の占術によって導き出された「運命」ゆえであったとしたら?
遥か東の果ての島国。虎の大地に虎児は有り。その地へ腰を下ろし、ひたすら座して待て。さすれば虎児は、自ずと爾が巣穴へ導かれん――易宝はその通りに動き、見事要という虎児を得たのだ。
穴が見当たらない。
「非現実的だ」などという台詞は、崩陣拳の真実を聞かされた時点でとっくにゴミ箱に捨てている。
ああ。その通りなのだろう。
自分と易宝は、出会うべくして出会い、なるべくして師弟となったのだ。
楊氏はにっこりと笑い、
「ようやく認めたようだね。君は紛れもなく、私に選ばれた存在なんだよ」
「はい……でも、どうして俺なんでしょうか」
そう自信なさげに呟くと、目の前の好々爺は指を二本立てた。
「鄭が伝承者に求めた資質は二つ。一つは「落伍せず、伝承を真摯に受け止められる素直さ」、そしてもう一つ――これが一番重要なんだが、「修羅に落ちない才能」。つまり、崩陣拳によって得られる力を私利私欲のために使わず、なおかつ、いたずらに人を傷つけたり殺めたりしない人物だ」
修羅に落ちない才能。
言いたいことは理解できた。が、なんだか奇妙な言い回しに思えた。
要は質問をしたいという気持ちをこめて挙手。
「あの……楊さん、一ついいですか?」
頷く。
「その……修羅に落ちる落ちないに、才能なんて関係あるんですかね?」
「と、いうと?」
「その、職業柄博学な母に聞いたことがあるんですけど、「どんなに良い人だったとしても、人間である以上罪を犯すリスクは必ず持っている」らしいです」
小説家、という職業名はぼかしておく。本人は覆面作家であることにこだわりを持っていたみたいだし。
「聡いお母さんだね。うん、確かにその通りだ。人は人である以上、罪を犯さないなんて保証はどこにもありはしない。人は間違える生き物だ。例えば、その人にとって大切な誰かを不当に殺されたとしよう。そうしたら、その人は殺した相手をひどく憎むだろう? そこで仇討ちという愚行に走るリスクというのを、人間は必ず秘めている。「大切な人を殺された」という理由以外にも、人が修羅となるに至る「きっかけ」はたくさんある。恋人を奪われた、友人に裏切られた、プライドを傷つけられた、むしゃくしゃするから誰かを殺したい――数えたらキリがない。このとおり「人は誰でも罪を犯すリスクを秘めている」っていうご母堂の意見は実に的を射ている。そして、もしもそのリスクを持たない人間がいるとしたら、それは「神」以外有り得ない。……かつて鄭熙陽が「絶対に修羅ならない人間を選んでくれ」って頼んできた時、私のご先祖様も今のような諭し方をしたそうだよ」
けれどね、と楊氏は区切りを作った。
「「絶対に修羅に落ちない人間」はいないけど――「修羅に落ちる確率が限りなく低い人間」なら、この世には希に存在するんだよ。修羅に落ちない人間がいたとしたら、それは万人を許せ、そして万人の幸せを願える神様くらいだ。つまり、私たちは地球という広大な鉱脈の中から――「神に一番近い人間」を掘り当てるために存在する。そして工藤くん、君こそが「それ」なんだよ」
楊氏の言うことに対し、いまいち実感が持てない。
自分は地方公務員の父と小説家の母との間に生まれた、普通の子供だ。「神に一番近い人間」などと形容されても、首をかしげる以外のリアクションをとれそうになかった。
けれど、楊氏の顔と瞳は、嘘や冗談を言っているようには見えない。易宝や深嵐もまた然りだ。
ならば、今の話も純然たる事実なのだろう。
うん。この話も今まで同様、味など確かめずに一気に飲み干してしまった方が早い。要は手元の茶杯を手に取り、香りを楽しむことなく温い茶を飲み干す。さっきの話とお茶を、味わわぬまま一気飲みするというダブルミーニングだ。
後味としてやってきた茶の香りに心を少しほだされたせいか、口が軽くなった。
「そういえば、一つ思ったんですけど」
こちらの前振りに、楊氏が「うん?」と首をかしげる。
要は素朴な疑問をぶつけた。至極まっとうであり、そして崩陣拳の伝承体系に関する重要な疑問を。
「その、陳九英、でしたっけ? その人、破門されたんですよね? その後、陳九英が勝手に崩陣拳を広めたりしてないんですか? もしそうだとしたら、楊さんや師父がやってる事ってあんまり意味がないんじゃ……」
痛いところを突かれた、と言わんばかりの苦笑が三箇所からもれた。要以外の三人が全員笑ったのだ。
結構図々しい質問だっただろうか。
だがすぐに三人を代表するかのように、楊氏が言った。
「君の指摘はズバリ正しいよ。陳九英は破門になった後、三人の弟子に崩陣拳を教えてしまっている。けれど九英自身もかなり秘密主義を敷いて伝承しているみたいだから、今のところ伝承を受けているのはその三人だけ。今回ばかりは武術家の隠蔽体質に感謝だね。それに九英から崩陣拳を教わった三人は――その学んだものを勝手に変えてしまったんだ」
「え?」
変えた、とはどういうことだろう。
その答えはすぐに出た。
「『崩陣三拳』――武林において、その三人が改変した崩陣拳はそのように呼ばれている。王鑫名の作った『王家崩陣拳』、周若聞の作った『周家崩陣拳』、そして趙文池の作った『趙家崩陣拳』。これら三派が、九英から枝分かれする形で生まれたのさ」
分派――その単語が要の脳裏に浮かぶ。
一つの武術が多数の亜流に枝分かれする現象は珍しくない。太極拳も一言で「太極拳」と言っても、その流派は多岐にわたる。源流である陳式、そこから楊式、孫式、武式、呉式、和式、忽雷架といった具合に。
崩陣拳もそうだった。それだけの話だ。
しかし、その話の奥へもっと踏み込むと、一つの疑問が生まれる。
それは。
「その崩陣三拳には――『高手』を確実に生み出す力はあるんですか?」
「無理だね」
即答。
「崩陣三拳は、源流である崩陣拳の基礎理論である「繋がりを持った筋肉」に手を加え、より強力な発勁を打ち出せるようにしたんだ。しかし人体の原型である「繋がりを持った筋肉」に手を加えた時点で、人体の原型足り得ないものとなってしまった。ゆえに崩陣三拳は、『高手』に至る確率が他門派に比べて高くこそあるものの、源流の崩陣拳と同じような『高手』の確実生産は不可能。崩陣拳が果汁100%なら、崩陣三拳は果汁50%と砂糖50%といったところかな」
楊氏の丁寧な説明を聞いた要は、なんだか救われた気分になった。もし崩陣三拳にも崩陣拳と同じような能力があったなら、それが出回ることで世間が混乱をきたしてしまうと思うからだ。
「――鄭熙陽も甘ちゃんよねぇ。崩陣拳が流出するのを阻止したいなら、陳九英の息の根を止めちまえば済む話なのに」
深嵐が他人事のようにそんなことを言う。物騒な意見だが、確かにその通りかもしれない。崩陣拳を唯一知っている陳九英が死ねば、崩陣拳の伝承は鄭の流れを汲む者たちによる独占状態になるからだ。
しかし、合理的な方法だからといって、それを安安と実行できるかどうかはまた別問題だ。まして、相手は自分が育てた弟子。おそらく、情があって殺せなかったのかもしれない。
「おい深嵐、あまり滅多な事は言うもんじゃあないぞ。崩陣拳の者の前である事を忘れてもらっては困る」
「分かってるわよ易ちゃん。他門派の開祖を腐す発言は控えろっていうんでしょ? 別に腐したわけじゃなくて、ただ思った事を言っただけだからね」
易宝は「本当に分かってるのか?」とでも言わんばかりにため息をついた。
次に、楊氏が話の軌道を変えてきた。
「話を戻そうか。工藤くん、何度も言うが、君は選ばれた存在だ。君にはいずれ崩陣拳四世、すなわち崩陣拳四代目伝承者を名乗ってもらうのだ。ここまでは、君も小劉から聞いているね?」
「はい」
要は頷いた。
正直なところ、正統伝承者になると言われても、実感に乏しい。
けれど、楊氏の提案に意見しようなどという気概は、どういうわけか心の中に生まれなかった。まるで自分の心の中に、崩陣拳を受け継ぐことに「是」を示す機構があらかじめできているかのように。
――なるほど、だから「選ばれた」のか。
崩陣拳を継ぐ者に求められるのは「修羅に落ちない才能」ともう一つ、「伝承をしっかりと受け継ぐ情熱と覚悟」。それらを持つ者として選ばれた以上、自分にその二つがあらかじめ宿っているのは決まりきった予定調和である。
……正直、見えない何かに動かされている気がしないでもない。
けれど、それを拒む気持ちが、自分には全くない。それどころか、崩陣拳を受け継ごうという気持ちが早くも生まれ始めていた。
ならば、それに乗っかったとしても、あやつり人形ということにはならない。
楊氏はよし、と満足そうに首肯を返すと、
「工藤くん、君は「拝師」という言葉をご存知かい?」
「え? は、はい……前に師父から聞きました」
拝師とは、その師の正式な弟子になるということ。日本的に言えば「内弟子制度」がそれにあたる。
拝師すると、その弟子は一般の弟子とは違う特別な弟子『関門弟子』となる。そして、その師が持つ技術の全てを余すことなく与えられる。秘伝と呼ばれる技術もだ。
優れた技術が与えられるが、代わりにその門派の技術を後世に伝える責任を求められる。
どうして楊氏が「拝師」という言葉を持ち出したのか、要はなんとなく予想がついた。
「もしかして……俺も将来師父に「拝師」するんですか?」
「いや、もうしてるよ?」
「え……」
要は思わず言葉に詰まった。
「崩陣拳は門外不出の秘拳。それを教わっている時点で、君はもう拝師したのと同じなんだよ。だけどそれはまだ「事実上」という言葉を後ろにつけなきゃいけない状態だ。きちんと拝師したことにするなら、そのための「通過儀礼」が必要だ」
茶杯をすすり、それをコトンと茶盤に置くと、楊氏は要の瞳を真っ直ぐ見つめながら次のように告げてきた。
「――工藤要。君はこれから北京に来て、「拝師式」を受けてもらう」
――え?
「な、なんですって……?」
「よく聞こえなかったかな? 君にはこれから中国の首都北京へ飛んで、我々『公会』本部にて拝師の儀を正式に受けてもらう。夏休みという期間で都合がよかった。スケジュールの調整にあくせくせずに済むからね」
なるほど。さっきも言っていた通り、正式に拝師したことにしたいのだろう。
うん。そこまでは分かる。形式が大事な時も存在するから。
けれど、要には一つ問題があった。単純だが、とても重要な死活問題が。
思わずテーブルに身を乗り出す。茶盤の上に並んだ茶杯が微かに揺れ、中の茶が嵐の海のように波打った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! それって、わざわざ北京に行かないとダメなやつなんですか!?」
「うん。『公会』の本拠地は北京にあるからね。ここにいる全員で行くんだ」
「む、無理ですよ! 俺、旅費なんか持ってないんですから!」
そう、そこだった。
いきなり北京に飛べと言われても困る。先立つものがない。
「前に小劉から電話で聞いたのだけど、パスポートは持っているよね?」
「は、はい。中坊の頃、修学旅行でシンガポールに行くために取りました。一応有効期間はまだあります」
そういえばいつだったか、師父はパスポートの有無について訊いてきた気がする。あれはこのためだったのか。
でも、パスポートがあったとしても、それだけでは外国へは行けない。先立つ物がもう一つ必要だ。
そう思っていた時、要の目の前に一枚の紙が差し出された。チケットなどを封入するための封筒だ。
そしてそれは、飛行機のチケット用だった。
「流石に「来い」というからには、旅費くらいこちらが都合するさ。これは北京行きのオープンチケット。君と、小劉の分ね」
楊氏はにっこり笑う。
「これで、文句はないね?」
質問口調でこそあるものの、それに含まれる語気は有無を言わさない。
それほど大事な事なのだろう。拝師式とやらは。
「……分かりました」
要は頷く他なかった。
不意に、左肩をポンと叩かれる。見ると、いつの間にやらニコニコと笑顔を浮かべた深嵐がすぐ側に立って手を伸ばしていた。まばたきした瞬間には易宝の隣から姿を消し、そこへ立っていたのだ。……一体どういう移動方法なんだ?
「まあまあ要ちゃん、そう気を落とさないの。他人の財布で北京旅行ができると思えば最高じゃない?」
「まぁ、北京には行った事ないから、楽しみじゃないと言えば嘘になりますけど」
「それに、あたしの関門弟子が、君にすっっっごく会いたがってたしぃ」
「は、はぁ」
どう返していいか分からず、生返事する要。
――こうして要に、夏休みの予定ができたのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
下書きは一週間くらい前にすでに終わっていたのですが、なにぶん重要な話だったので、推敲にさらに一週間ほど使ってしまいました……
次回は、さっそく北京に行く予定。




