第一話 近づく者
「——そうか。無事、成田に着いたか」
通話状態となったスマートフォンを耳に当てながら、劉易宝はマイクに向かって安堵した声で言った。
『うん。ついさっき、ね。東京も北京に負けず暑いねぇ。いや、千葉だったか。前に来た時はこんなに暑くなかった気がするよ。温暖化が進んだのかな』
受話口から鼓膜を揺さぶってくるのは、疲れたような老人の声。
易宝は何も言わず苦笑を返すと、すでに相手の行動を先読みしつつ問うた。
「それで、これからどうするのだ、老楊?やはり、どっかのホテルに泊まるのか?」
『そうするつもりだよ。もう夕方だし、北京から四時間も飛行機に乗っててクタクタだし、今夜は適当にビジネスホテルにでもチェックインすることにしたよ』
「そうか。では、明日に中華街へ向かうということだな。乗る鉄道は覚えているな? 副都心線だぞ? わざわざ横浜線乗りに行かなくても池袋から一気に行けるからな? そっちの方が時間も金も少なくて済むぞ」
『大丈夫さ。何度か来てるんだし、覚えてるよ』
電話越しに、老人――楊氏の苦笑いが聴こえてくる。
彼とは久しく会っていないが、ボケた喋り方ではなく安心した。失礼な話だが。
「分かった。それで、わしらはいつ頃そっちへ行けばいい?」
『そうだねぇ、早くても明後日にしておくれ。まだ元気だけど、私はもう老いて体力がない。中華街まで着く頃にはヘトヘトになってるだろうから、一日だけ羽を伸ばす時間が欲しい』
「わしらはいつでも構わんぞ。好きな時に呼べ。そしたら弟子を連れて向かう」
『ああ。ちなみに今回の私の護衛は紅さんだから、そこのところよろしく』
易宝は我が耳を疑った。
「……おいちょっと待て、その紅さんってのはまさか、紅深嵐じゃあなかろうな!?」
『決まっているじゃないか。『公会』の中で「紅」って苗字の人は彼女以外いないよ』
「ちくしょう、マジか……勘弁してくれ……」
気が滅入り、思わず肩をすくめる。
楊氏は受話口の向こう側で、可笑しそうに笑声をもらす。
『そういえば小劉、君は昔から紅さんが苦手だったね』
「ああ。あのクソババア、会うたびにわしをおちょくってくるんだ。鬱陶しいというか、ムカつくというか」
『今回もからかう気満々みたいだよ。さっきもツヤツヤした笑顔で「易ちゃんに会うのすっごく楽しみー☆」とか言ってたし』
「わざわざ声真似せんでいい! ったく……」
ウンザリしたように溜息をつく易宝。これから先の事を考えると憂鬱でならなかった。
そして、楊氏は先ほどとは打って変わり、真剣な声色で言った。
『……工藤要くん、だったかな。顔は君が前にメールで送ってきた写真を見たから知っているけど、実際会うのは初めてだからちょっとだけドキドキするね。どんな子だい?』
易宝は少し考える間をとってから返答する。
「……良くも悪くも若者らしい性格、かのう。直情的で後先をあまり考えないタイプだが、その分勇敢だ。今年の五月にクラスメイトの誘拐事件に巻き込まれたが、それを見事に解決して新聞にまで載った」
『へぇ。それは凄い。ますます会うのが楽しみになったよ』
「それに……」
ここからが重要な事だった。なので易宝はもう一度間を置いて、そして言葉を継いだ。
「あの小僧は、理不尽な暴力に苦しめられた経験を知っている。だからこそ——力を振りかざそうとはしたがらない。奴はわしに学び始めてから何度も修羅場をくぐってきたが、その中に、自分から率先して争った事は一度もなかった。まさに「抜かずの剣」を地でいく存在だ」
『……そうか』
良かった、という隠しきれない安堵の呟きが、溜息と一緒に聞こえた。
——自分が選出した人間に、多少なりとも不安があったのかもしれない。
易宝はことさら明るい声で励ますように、
「おいおい、おぬしが選んだ男だぞ。天下の『楊一族』の血を引く者なら、もっと自信を持ったらどうだい」
『占術も所詮、人間の“行為”だ。間違えない、失敗しないなんて保証はどこにもないよ』
「……前から思っとったが、おぬしは時折とても達観した事を言うのう」
『そうかな。自覚は無いのだがね』
思わず、両者同時に笑みをこぼした。遠き地にいる旧友との間に繋がった空気が、先ほどまでの和やかさを取り戻す。
「まあとにかくだ、おぬしの選んだ工藤要は「担い手」として相応しい素質がある。安心して構わん」
『うん、わかった。それじゃあ、もうリムジンが来たから、ここで切るよ。また後で掛け直すから』
「おう。それじゃあ、気をつけてな」
そう言って、易宝はスマホの切りボタンをタッチし、通話を絶った。
居間の木製テーブルに放るようにスマホを置くと、西湖龍井茶が入った耐熱グラスを手に取り、それを煽った。長電話のせいですっかりぬるくなっており、すんなり喉奥へ吸い込まれていく。
好きな二時間ドラマを視る時以外はBGM代わりにつけているテレビ。何が面白いのかよく分からない、騒がしいバラエティ番組が流されていた。左上の時刻テロップが表す時間は、午後七時四十分。
いつもは要と夕飯を食べている時間帯だが、今は愛弟子の姿は無い。今日は日曜日。彼の両親がここで住み込む事を許可した代わりに、毎週の土日には実家に帰るという約束だったからだ。
茶が干上がり、中身が茶葉だけになった耐熱グラスを静かに置く。
そして、誰もいない虚空へ呟いた。
「——とうとうこの時が来たか。今回の出会いが、おぬしの運命を大きく変えることになるかもしれんな……カナ坊」
夏休み。
それは、学生の長期休暇の中で最も長い休みだ。
全国の学生が待ち望んでやまない夢の時期。
無論、大学受験を控えている三年生にとっては授業がある日と同様、あるいはそれ以上の忙しさであろう。
けれど、入学して間もない工藤要たちにとっては、前述の通り夢のような時期である。
「——ったはー!やっと来たぞ夏休み!」
学校指定の半袖ワイシャツの袖に腕を通した要は、両腕を真上にのびのび伸ばしながら高らかに叫んだ。
月曜日。今日は終業式の日だ。要たちは先ほどホームルームを終え、とうとう夏休みに入ったのだ。要含む全ての生徒は軽やかな足取りで昇降口を出て、校門まで歩いている。
いや、足だけでなく、全身が羽根のように軽い。これも夏休み効果だろうか。身も心もリラックスしきっていた。おまけに涼しい気分で、ジリジリと垂直の高さから照りつけてくる正午の日差しも気にならなかった。
要の右隣を歩く、同じく半袖ワイシャツを身につけた大柄な少年、鹿賀達彦も、何かから解き放たれたような爽快感を持った声で相槌を打ってきた。
「だなぁ。ガッコも入学したての頃はそれなりに新鮮だったが、慣れるとダルくなるもんだ。だからマジで嬉しいぜ。さぁて、これから何すっかなぁ」
「もう、二人とも、ちゃんと宿題もやらないとだめですよ」
鈴の音のような声が、夏休みに喜ぶ男二人に苦笑まじりで釘を刺してきた。
黒い絹のような艶やかで長い黒髪に、目をカーテンよろしく遮る前髪。長袖ワイシャツに丈長のスカートという、昭和の女学生のように肌の露出を抑えた格好。要の左隣を並んで歩く少女、倉橋菊子の声である。
達彦が、陽気な態度と声で返した。
「ヘーキヘーキ、あんなもん半日もありゃすぐ終わるって。さっきのホームルームで配られた宿題パラ読みしてみたが、ナメてんのかってくれぇ簡単な問題ばっかだったぜ?当分は放置プレイでいいだろ」
「まぁ、簡単な問題ばっかりだったのは確かだけど……でも、前もってやっておいた方が、後々の心配事がなくなってスッキリした休みを送れると思うの」
菊子は模範的な意見を述べる。達彦はそーかもなーと生返事見せた。
——この優等生どもめ。
要はそんな二人を恨めしげに見つめる。
嫌なことを思い出させられた。確かに夏休みはひと月以上に渡る素敵な休暇だが、その分宿題の量もそれなりにある。要も問題集をザッと読んでみたが、達彦とは違い苦い顔を禁じ得なかった。
無論、崩陣拳の修行にかまけてばかりで学業が疎かになっているわけではない。勉強もちゃんとまじめに取り組んでいる。けど、それでも簡単な問題ではない。特に、嫌いな数学の問題集に目を通した時は思わず空を仰ぎ見た。
そんな問題を「簡単」と断じることのできる二人が、ちょっぴり恨めしかった。
けれど、逆に考えてみれば、この二人は良き味方になるだろう。
この二人に勉強を教わりながらであれば、宿題が結構はかどるかもしれない。なにせ、片や学年次席、片や学年主席なのだから。
それに一人でやるより、気心の知れたこの二人と一緒の方が、机にかじりつく苦痛が和らぐだろう。孤独より仲間がいた方が断然気が楽だ。
要は恥を捨て、頼んだ。もちろん、最初は学年主席の菊子に。
「あ、あのさキク、もし良かったら今週の金曜、ウチで勉強教えておくれよ。数学が正直めんどくさそうなんだ。父さんは仕事だし、うるさい母さんも用事で外すから、静かに勉強できるしさ」
「……ゑ?」
何気ない口調で問うと、菊子は間抜けな声をもらし、呆けたように口をあんぐりさせながら硬直。
そして数秒後、まるで熱した鉄のように顔を真っ赤に染め上げた。
「カ、カナちゃんの家…………ご両親、お留守…………え、ええぇ……?そんな……それって……でも……あの……」
煙でも吹かんばかりに顔面を紅潮させて俯きながら、ボソボソと何か呟き始める菊子。
これは、何かを恥ずかしがっている時の反応だ。まだ二ヵ月程度だが、決して浅からぬ付き合いをしている要にはそれが分かった。
え?一体何をそんなに恥ずかしがってるのさ?
達彦が、大馬鹿者を見るような視線をこちらに送りつつ、
「要よぉ……オメェは数学だけじゃなく、誤解を与えねぇ国語力も鍛えた方が良さげだな」
「はぁ?今の言葉のどこに誤解を与える要素が…………あ」
要は自分のマヌケさにようやく気がついた。
さっきのセリフを要約するとこうだ。
——今週の金曜、親がいないんだ。俺の家に来いよ。
うむ、なるほど。清々しいくらいの口説き文句だ。
要も菊子と同じくらい顔を真っ赤にしてまくし立てた。
「い、いや!違うよ!?違うからな!?キクが思ってるような意味じゃないんだ!ただ純粋に勉強を教えて欲しいってだけで……」
「というのは建前で、本当の目的は——」
「下世話なモノローグを勝手に作るんじゃありません!」
腹を抱えてゲラゲラ笑う達彦。この野郎、楽しんでやがるな。
菊子は少しだが顔の赤み具合を落ち着けて、一度深呼吸してから、申し訳なさそうに告げた。
「ごめんね、カナちゃん。手伝ってあげたいのはすっごく山々なんだけど……わたし、夏休み中は家族と一緒に別荘に行くことになってるの。見てあげられる日があったとしても、それは夏休みが終わる数日前になりそうなんです」
「そうか……それは残念だな」
「残念だったなぁ要ちゃん。自分の部屋に女連れ込むチャンスがなくなってよぉ」
「くどいぞ!」
なおも蒸し返す達彦をあしらってから、要は一度咳払いをして感嘆の響きを持った声で、
「別荘かぁ、凄いな。ちなみに、どこにあるんだ?」
「えっとね、北京とテキサス。夏休み前半は北京市で、後半はテキサスで過ごすんだ」
「うへぇ、外国に別荘。それも二軒?金持ちやべぇなオイ」
やや引き気味に驚く達彦に、菊子は困ったような笑顔で「いえ、そんな……」と言葉を濁す。
他へ意識を移す余裕ができた要は、自分たちが歩いている道の周囲を見回す。すでに足は校門から出て十メートルほど先を歩いていた。今日は月曜日であるため、そのままシオ高の近くにある易宝養生院へ向かう予定だ。
「カナちゃんは、夏休みどうするんですか?」
と、そこで菊子が不意に訊いてきた。
突然話を振られて若干どもりながらも、答えた。
「え、えっと、特に決まってないかな。まあ、夏休み中でも平日は易宝養生院で過ごすつもりって事くらいは決まってる感じ。拳法の練習は夏休み中でも続けるつもりだし、それを考えるといちいち実家から通うより、最初から師父ん家泊まってた方が楽だし、交通費の節約にもなるんだよね」
要の家から学校まで来るには、電車に少し乗らないといけない。それを考えると、学校へ行く必要の無い期間中、家から易宝養生院へ通うのは経済的じゃない。
それに拳法の練習は、手直しや至らない点を指摘してくれる師と一緒にやるのがベストなのだそうだ。それも毎日。
……けれども、実はそれは武術の世界においてかなり贅沢なことなのだ。
中華武芸における弟子は、『学生』と『関門弟子』の二種類に大別されている。
『関門弟子』はいわゆる内弟子にあたり、その門派のトップである師に才覚や情熱を認められた弟子のことだ。彼らは師匠からマンツーマンで英才教育を受けられる。秘伝と呼ばれる技術も、その中で得られるものらしい。
そして『学生』は、それ以外の全ての弟子のこと。基本的に『学生』の指導は『関門弟子』たちが師範代代わりとなって行うので、師から教えを与えられることは希にしかないのだ。
要するに、その門派をまとめる師から直接指導を受ける事は、武林においてかなり名誉なことなのだ。その師が名だたる武術家であるならば、まさにこの上ない箔付けである。
自分は当たり前のように易宝から直接指導を受けているが、それを当たり前だと思ってはいけないのかもしれない。
横道に逸れかけた思考を今の会話へ引き戻す。そして、尊敬の眼差し向けてくる菊子の存在に気がついた。
「……カナちゃんって、凄いですね」
「な、なんだよ、藪から棒に」
いきなりの褒め言葉に、照れよりうろたえが先行する。
「だって、好きな事とはいえ、そこまで没入できるなんて、凄いですよ。わたしは多分、そこまでできないもん」
——好き?
要はその表現に、思わず首を傾げてしまった。
今まで、ほとんど考えたこともなかった。不意打ちを受けた気分だった。
自分は……崩陣拳が、拳法が好きなのだろうか?
まあ、嫌いではないはず。もし嫌いなら、とっくに匙を投げているはずだ。自分はそういう性格であると自覚している。
だが、好きという表現も、必ずしも適切ではない気がする。
なら、目的があってやっているのか。いや、無い。
自分は最初、強くなるために易宝にすがった。けれど、それはもう古い目的だ。達彦と二度目のケンカをした時、自分は驚くほど一方的に圧倒できた。けれど、それだけ強くなれても満足感などなかった。それを伝えると、易宝は言った。「目的が無いなら、見つければいい」と。
その目的は、今なお見つかっていない。
とりわけ強い欲求があるわけでもなければ、ブレることのない確固たる目標があるわけでもない。
けれど——何故かやらずにはいられないのだ。
まるで崩陣拳を学ぶことが、睡眠や食事と同じ本能として遺伝子に組み込まれているかのように。
「カナちゃん?」
菊子の呼びかけによって、ハッと我に返った。
「あ、ああ。何でもないよ」
要は曖昧な笑みで誤魔化した。
…………考えすぎか。
「余力を残すな!とにかく大きく飛び込むことに体力を注ぎ込め!」
昼間は熱気を惜しみなく放っていた太陽もすでに夕焼け。空色から紅茶色に変わった空の下。
師の檄からまもなくして、地に激しく踏み出す音が轟いた。
「よし。そこから呼吸をある程度整えてから、さらにもう一度!」
重心の乗った前膝の延長線上に正拳を突き出したまま静止していた要は、荒げた呼吸を数度の深呼吸でできるだけ整えてから、再び動き出した。
下半身に錘のようにまとわりついた疲労感を噛み殺し、出せる限りの渾身の脚力で大地を蹴り、重心を大きく前へ送り出す。足底を地中奥深くまで突き刺すイメージで激しく踏み込み、蹴り出しに使った後足を素早く引き寄せる。それらの足さばきに伴わせる形で、片脇に構えていた拳を鋭く伸ばしきった。
「はーっ、はーっ……!」
その突きが終わった後、凄まじい疲労感がまるで思い出したかのように全身を包み込み、汗が体中からぶわっと吹きだした。整えたはずの呼吸も、さっき以上に荒くなる。
特に、下肢がかたかたと笑っている。もうこれ以上は動きたくないと、肉体が切実に訴えてきていた。
そして、その望みはようやく叶えられた。
「よし。今日の練習はここまでにしよう」
和らいだ易宝の声を聞き取った瞬間、まるで条件反射のように下半身が崩れた。太陽熱で温まった土の地面にべったりと尻餅をつく。
今日の修行も、無事に終わった。
ねぎらうように微笑んだ易宝から、冷たい水の入ったボトルが投げ込まれた。それをキャッチして開き、中の水を絞り出すような勢いで飲んだ。
数秒で中身が半分以下になったボトルから口を離し、こちらを見下ろす師へ目を向けた。
「どうだ?疲れたか?」
分かりきったことを、からかうような表情で聞いてくるあたり、やっぱりこの人は意地が悪いと思う。
洒落っ気に欠けるが汚くもない無造作な黒髪の下にあるのは、端正ながら弱々しくなく、精悍さも感じさせる目鼻立ち。スマートだが、どことなく凝縮感のある引き締まった体型。さすがにもう暑くなってきたのか、上半身は赤い半袖の唐装を着ていた。下は相変わらず黒い長ズボンだが。
自分が師とあおぐ年齢不詳の美丈夫に、要は笑う気力すら残っておらず、力無い表情のまま力無い声で言い返した。
「疲れた。もう動きたくない」
それを聞いて、そうだろうそうだろう、と上機嫌に笑う易宝。少しムッとしたが、莫大な疲労感のおかげですぐに反感は萎えた。
要はやや自信をなくした声で、
「……たった十回程度の『撞拳』で、ここまでヘトヘトになるなんて……」
「当たり前であろうが。その十回に全体力と気力をつぎ込んだのだからな」
そう。
さっきまでやっていた技は『撞拳』。加速状態から急停止する時に生ずる勁力を用いて正拳を打つ。崩陣拳基本三技『三宝拳』の一つだ。
こうしてヘトヘトなのは、それを何回も反復練習したからなのか?
否――たったの十回である。
これは、要の体力が低いからではない。むしろ今の要は、学校の持久走を独走してゴールした後でも、ほとんど息を切らさないほどに体力があった。中学時代では考えられなかったことである。
ここまで疲れているのは、そのたった十回を余力を残さずやったからだ。
出来る限り大きく前へ飛び込み、そして出来る限りの力で大地を踏みつけて踏み止まる――これを十回。
文字通り「渾身の力」で打つ練習。
『撞拳』における体術は、幾度にも及ぶ反復練習のおかげですでに体に染み付いている。
技術そのものは身についた。その後にやるべきは、その技術によって生まれる勁をさらに増大させる修行。そして、今やっている修行こそがソレなのだ。
「渾身の」脚力で地を蹴り出し、「渾身の」速力で加速させ、「渾身の」力で踏み込み急停止。これを繰り返す練習をするだけで、『撞』の力が確実に上がる。
これは、八極拳や形意拳で伝わっている秘伝の練法と同じものだ。相手に突っ込んでいく技が多いこれらの門派は、修行時では大きく飛び込む練習を何度も行い、威力を養う。
「さて、とっとと立ちな。汗だらけでうろついてたら風邪引くぞ。早く風呂に入れ」
易宝は手招きしながら、先に勝手口へと歩き出した。
「ちょっ、待ってよ。今ツラいんだってば」
要は慌てて立ち上がり、おぼつかない足取りでそれについて行く。
すでに空は夕方から夜に差し掛かろうとしていた。茜色の光が西の彼方へ引っ込み、東から暗幕のように夜闇が近づいている。
実は今日の修行が始まったのは、学校から帰ってすぐではない。太陽の勢いがあまりに強いため、真昼間から激しい運動をしたら熱中症の危険があった。おまけに光化学スモッグ注意報が出ていたこともあって、今日の修行は日が落ち着き始めた四時から始まり、現在六時までとなった。
易宝の課す修行は厳しい。けれども、ちゃんと体調を考慮した上で課してくれているのだ。中国の武術家は良くも悪くもプラグマティストであり、根性論のみを頼りに自らをひたすらいじめぬく訓練を「非科学的」と断ずる。厳しい修行はするが、弟子を殺すような修行はよほどの狂人でない限り行わない。
「ん……?」
不意にポケットから鳴り響いた電子音に、易宝はぴたりと足を止めた。ピリリリ、という味気ないこの音は、彼のスマートフォンの着信音だった。
要もつられて足を止める。
易宝は億劫そうにポケットからスマホを取り出したが、ディスプレイに表示されている「楊北熙」という名前を見た瞬間、だらけていた動きに活発さが宿った。通話ボタンをタッチし、耳に受話口を当てる。
「おう、もしもし、老楊か?」
彼の口から出てきたのは、聞いたことのない固有名詞。
「ふむ、そうか、今日の昼過ぎに着いたか。……別に忙しさなど気にせずとも良かったというのに。自営業なんだから電話に出られる頻度は比較的多いんだしのう」
それからも、易宝は電話相手とよく分からない会話に花を咲かせる。
「……ああ、承知した。後は今わしの近くにいる弟子本人から暇の有無を聞いて、そちらへ伺うとしよう」
だが突然会話の矛先を向けられ、要は面食らった。
そんな要の態度を察しているのかいないのか、易宝は電話を通話状態にしたまま、次のように訊いてきた。
「カナ坊、おぬし明日なにか予定はあるか」
と。
いきなりそんなことを尋ねられ、要はその意図を図りかねるが、
「……いや、無いけど」
とりあえず、そう答えることはできた。
すると易宝は再びスマホを耳に当てて話しだした。
「だそうだ。とりあえず弟子も暇しているそうだから、明日、一緒におぬしの所へ行くとしよう。落ち合う場所はやはり玉茗堂で構わんのだろう?…………ふむ。分かった。では明日会うとしよう。じゃあの」
そこで、易宝はようやく切ボタンを押して通話を絶った。
……色々気になる事はあるが、まず始めにはっきりさせておきたい点が一つだけあった。
「師父、いったい俺をどこに連れてく気なんだ?」
さきほどの文脈は、どう考えても自分を連れてどこかへ行く約束だった。しかも、こちらの許可を得ず勝手に約束していた。
どうせこれといった予定も無いのだから、危ない場所でなければどこへ連れて行こうが構わない。けれど、前もってどこへ行くのかを聞く権利くらいはあるはずだ。
易宝は一息大きく吐き、そしてまた吸い直してから、改まった口調で答えた。
「カナ坊、おぬしには明日――わしと一緒に横浜へ行ってもらう。とても大事な話があるのだ」
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
半年以上も待たせてしまい、申し訳ございませんorz
ですが、もう大丈夫です! 崩陣拳、ようやく更新再開できます!
それでは第五章、北京編のスタートです(=‘x‘=)