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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第四章 金行の奸計編
73/112

第四話 相次ぐ異常事態


 次の日。


 夜に冷めていた気温が上昇を始めている、少し汗ばむ気温の朝。


 ホームルームをひかえた一年三組の教室は、浮ついた喧騒であふれていた。

 もうすでに見慣れたクラスメイトたちのほとんどは、何かを心待ちにしているような落ち着きの無さを見せている。


 今日は週末の金曜日。つまり、明日から二日間の休みとなる。

 おまけに今日は昨日と同じく半日授業。昼になれば帰路につける。

 学校という閉鎖空間に閉じ込められる時間が短くなる上、次の日から休みであることを考えれば、日本に住む学生の大半は浮かれずにはいられなくなるだろう。


 そう、いつもの工藤要なら、周囲のクラスメイトたちと同じありふれたリアクションを見せていただろう。


 しかし、自席に座っている今の要は、少しダウナーな状態だった。

 目は半開きで、背は少し丸まっていて、ため息が否応なく頻繁にもれる。我ながら、いかにも「何か悩んでます」といった状態に見えた。


 調子悪いアピールをして同情を誘っているみたいで嫌だったが、このような態度を取らずにはいられなかった。


 原因は二つだ。

 一つは、昨日ホームセンター帰りに襲ってきた謎の集団との立ち回りによる精神的疲労。

 もう一つは――どうして連中が自分を襲って来たのかが分からないことへの気持ち悪さだった。


 一人二人ならまだ分かる。だが、あんな大勢が一度に押し寄せてくるなど明らかに異常なことである。


 心当たりは――ありまくりだ。少なくとも高校へ進学して以来、そういう連中に狙われる、または目の敵にされるようなことは死ぬほどやっていた気がする。


 その中で最も可能性が高いのは、『五行社(エレメンツ)』の差金だという線だろう。


 あんなに大量の敵を一度に放てるのは、奴ら以外に思いつかない。


 自分は『五行社』にすでに強く睨まれている。「木」を名乗る緒方戒という男に、はっきりとそう言われたのだ。


 しかし、かと思えば今度は「金」の席に座る三枝窮陰なる人物が現れ、「仲間にしたい」などとのたまってきた。


 ――『五行社』の考えていることが全然分からない。


 もしかして、連中の内部で分裂でも起きているのだろうか。「工藤要を吸収する」という意見を掲げる派と、「工藤要と敵対する」という意見を掲げる派といった二つに分かれて論争する感じで。

 いや、待て。そもそも昨日の連中が『五行社』の手先であるという証拠がどこにあるのだろうか?

 というか、そもそも「仲間にしたい」などという誘いがすでに怪しいのでは? もしかすると自分を誘い込み、『五行社』の四人全員で自分を叩きのめそうという腹積もりではなかろうか。いや、多分違う。もしそのつもりなら、わざわざ「仲間になろう」などという言葉で誘わずとも簡単にボコボコにできるはずだ。なら、一体どういうつもりで――


「……ああ、もうっ」


 要はブンブンと首を振った。

 ダメだ。難しく考えれば考えるほど、泥沼に沈んでいるような気がする。こんなんじゃマトモな答えなんて望むべくもない。


 そういえば聞いたことがある。名案というのは頭でうんうん考えて出るものではなく、ある日突然ひらめくものだと。


 なら、今は一旦考えるのはやめよう。


 そう決めた時。


「どうしたよ要? なんか元気ねぇなオイ」


 ちょうど今登校してきたばかりであろう達彦が、そう声をかけてきた。


 おそらく、さっきの自分の消沈ぶりについて指摘しているんだと思う。


 要は途端に笑いを作り、


「おはよう。あー、いや、何でもないんだよ」

「そう? でもさっき、なんか変だったぞお前」

「ホントに何でもないから。今解決したからっ」


 少し必死な態度でそう訴える要。別に隠すような事でもないのだが、かといっていちいち他人に話すことでもないような気がしたのだ。


 達彦は少し考え込むような仕草をして黙り込むが、


「……ま、いっか。分かったよ」


 小さく微笑みを浮かべて、そう会話を打ち切った。

 まるで何かを察して、一歩引き下がったような笑み。

 それに対して少し引っかかるものを感じたが、気にしないことにして、要は黙って頷き返した。


 自分たち二人の間になんだか言葉で表現しにくい奇妙な空気が出来ていたが、それを破るきっかけはすぐに訪れた。


「おはよーっす、工藤ー」

 

 男にしてはよく耳に響きやすい声。倉田が教室に入って来たのだ。


「ああ倉田、おは……よ……」


 要は振り向いて挨拶を返そうとしたが、その言葉は尻すぼんでいった。


 ――そうなった原因はひとえに、倉田の姿を見たせいである。


「んあ? どったの、工藤ちゃん?」


 こちらの気など知る由なく、倉田は呑気に尋ねてくる。


「いや……だってお前それ……」


 要はおそるおそるという表現が似合う声色でそうつぶやきながら、倉田の片頬を指差した。


 そこには――巨大な絆創膏。


 頬一面を覆い尽くしそうなほどの面積があった。小さな通気孔がいくつも空いたビニル質の表面からは作り物じみた無機質さを感じ、それが生きた人間の皮膚に貼られているという事実が心を否応なくざわつかせた。


「そ、それ、一体どうしたんだよっ?」


 要は数テンポ遅れて、ようやくその質問を投げることができた。


 はははっ、と倉田は明るく振舞うような笑いを上げると、


「いやぁ、実は昨日の帰り、悪そうな男に因縁つけられちゃってさ」


 あっけらかんとそう口にした。


 口をあんぐり開けたまま喋れなくなる要をよそに、倉田はその先を軽い調子で続ける。


「昨日帰ってる途中、どっかの先住民みてーに派手なメイクした男とすれ違ったんだよ。俺思わずギョッとして一瞥くれたんだ。一瞬だぞ、目向けたの。なのにその先住民野郎「何さっきからガンたれてんだ、コラ」なんて言って近づいて来たんだよ。「さっきから」ってなんだよ、そんなに長く見てねーっつーの。意味不明ないちゃもんつけられて、挙句の果てには顔面に一発もらったんだ。昨日はついてなかったなぁ。まったく」

「ついてない、って……お前、大丈夫なのかよ?」

「大丈夫だよ。その男、マウントとってまた殴ろうとしてきたんだけど、俺が携帯で「110」を押して、発信する方が早かったさ。まさしくク○ント・○ーストウッドもびっくりの早業だったね。んで受話口めがけて「マウント取られて殴られそうです! 助けてください!」って叫んだら、そいつ血相変えて逃げやがったよ。まったく、『五行社』といい昨日のなんちゃって先住民といい、この日本の治安はいつからアメリカ並みになったんだ?」


 ヘラヘラ言う倉田とは対照的に、要は胸中を荒波のようにざわつかせていた。


 倉田の言う「先住民野郎」の因縁のつけ方も、理不尽かつ意味不明だ。……昨日要を襲った連中と、通ずるものがある。


 これは果たして偶然だろうか。それとも、両者は何か関係があるのだろうか。


 どちらかは分からない。可能性としては、圧倒的に後者の方だろうが。


 だが――不穏な何かが、徐々に自分の日常を侵しているような気がした。











 日差しの勢いがマックスになった正午、その日の授業は幕を下ろした。


 要が教室を出てから最初に足を運んだのは、昇降口にある自販機の前だった。職員室など一部の部屋を除いてクーラーの無いこの学校で、水分補給は欠かせない。


 しかし、自分と同じ考えの生徒はかなり多かったようで、自販機はまるで朝の通勤快速列車到着時のホームのような混み合いを見せていた。


 暑さで気力が削がれていた要はそれを見てさらにテンションが下がり、やむなく下校することにした。学校内じゃなくても、自販機なんて日本にはたくさんある。他を当たるとしよう。


 厳しい日差しにさらされながら敗北者の気分で校門をくぐろうとした時、後ろから柔らかな響きを持った女の子の声がかかった。


「カナちゃんっ」


 聞き慣れた声に振り向くと、そこには予想通りの少女、倉橋菊子が小走りで近づいて来ていた。


 要は立ち止まって、彼女の到着を待つ。

 

「や、やっと追いついたよぉー……カナちゃん歩くの速いです……」


 こちらへたどり着いた菊子は、膝小僧に手をつき、少し呼吸を荒くしながらそう言う。


 黒いフードのような長髪、手首までぴっちり包み込んだ長袖ワイシャツ、昭和の女学生並みに丈の長いスカート。その奥ゆかしい風貌は、この猛暑の中では非常に非合理的に感じた。


「……ねえキク、毎回思うんだけど、そんな格好で暑くないの?」


 要は暑苦しそうに菊子を見ながら、そう訊いた。


 菊子はポケットから出したハンカチで額の汗をポンポン拭いながら、


「大丈夫。慣れてるから。それにわたし肌が弱いから、すぐ日に焼けちゃうの。そういえば、鹿賀くんは?」

「先に帰っちゃったよ」

「そ、そうなんだ。あ、あのねカナちゃん……」


 菊子はそこで言葉を止めると、


「その……途中まで、一緒に帰らない……?」


 うつむきながら、そうか細い声で言ってきた。

 両手の人差し指同士を糸を巻くように絡ませており、その頬は少し赤い。夏の暑さ以外の理由で熱を持っているように見えた。


 要は顎に手を当てて黙考する。

 今日は金曜日。すなわち週末。易宝養生院に住み込む条件として、母は土日休みには工藤家で過ごすように要求した。なので今日の帰宅先は易宝養生院ではなく自宅だ。

 菊子は駅前に車を待たせているらしいので、そこまでなら一緒に下校できそうだ。


「途中で自販機に寄るけど、いい?」


 要は最終的に、一緒に帰ること前提でそう持ちかけた。


「喉が乾いたんですか?」

「ああ……学校の自販機で何か買う予定だったんだけど、人だかりを見た瞬間買う気が失せてさ……」


 要は自嘲したように微笑む。根性なしだと笑ってくれ。


 菊子はそれに苦笑を返したが、突然何かを思いついたように表情をパッと明るくした。


「あのっ、じゃあわたしの飲み物、分けてあげようか……?」


 そう言って彼女の手提げ鞄から取り出されたのは、細長いステンレス水筒。


 それを見て、要は目を丸くした。驚きと期待の眼差しだった。


「えっ? いいのか?」

「うん。はい、どうぞ」


 菊子はカップの役割も持つ蓋を外すと、そこへ水筒の中身を注いで、それを差し出してくれた。


 カップを受け取って中身を見ると、冷えた緑茶だった。水筒が揺れるとカラランという子気味良い音が鳴ったため、中に氷が入っていることが分かる。


 要は感激で胸をいっぱいにすると、


「い、いただきます!」


 カップの端に口をつけ、そして一気に飲み干した。


 途端、よく冷えた茶が熱のこもった体内を下っていき、通った場所に冷気を波及させていった。そんなイメージだった。


「あの、もっと飲みますか?」


 菊子が微笑ましげに口元を和らげながら、そう勧めてきた。


 要は「ぜひ」と即答し、再び緑茶を注いでもらい、それを喉に流した。

 その次に、またもう一杯。

 合計、三杯のお茶をご相伴に預かった。


「――ありがとうキク、生き返ったよ」


 要は空になったカップを返しつつ、清々しい顔でそう感謝を告げた。


 菊子は「どういたしまして」と嬉しそうに笑いながらカップを受け取り、水筒に戻した。


「それじゃあ行こっか、キク」

「はいっ」


 歩き出す要の傍に、菊子が嬉しそうについて来た。


 校門をくぐって歩道に出て、駅へ向かって歩き始める。


 余裕のある足取りで歩道を進む要たち。


 二人が横並びになって歩を進めるたび、様々なものが前から後ろへ緩やかに流れていく。車、人、木、建物、ガードレール、鳥、虫……


 両者とも無言だった。

 しかし、それに対して重苦しさや気まずさは感じなかった。

 心地よい静寂、とでも言えばいいのか。何も言わずに黙っているだけなのに、それがとても充実した時間のように感じるのだ。


 この雰囲気はまるで、互いに気心の知れた連れ合い同士のような――


(ってアホか、何考えてんだよ俺は)


 要はそんな小っ恥ずかしい考えを慌てて振り払った。

 ただでさえ酷暑のせいで熱を持った顔がさらに熱くなる。そんなこと考えたらキクに失礼だろうが。ばかばかばか。


 そんな風に一人相撲をする要をよそに、菊子が話の口火を切ってきた。


「もうすぐ、夏休みですね」


 それは、ごくありふれた話題だった。


 しかし要はそれに喜んで乗った。


「そうだな。クラスの連中、その話ばっかしてたよ。まあ、かく言う俺も楽しみだけど」

「夏休みの間、カナちゃんは何か予定あるの?」

「うーん、特に無いかなぁ。まあでも多分、劉師父(せんせい)()で修行する時間が増えるかもしれないな」

「あんまり変わらないですね」


 ふふふ、と菊子は雅な笑声をもらす。

 確かに彼女の言うとおり、それじゃあ普段学校のある日と変わらないかもしれない。

 思い切って、何か少し大きな計画でも立ててみようか。そんな考えが一瞬頭を通過する。


「きゃっ!」


 突如、小さな悲鳴が鼓膜を突いた。


 菊子が前かがみの状態で、小さく宙に浮いていた。おそらく、つまずいたのだろう。


「危ない!」


 が、不本意ながら日頃から修羅場に慣れていた要の行動は迅速だった。

 今まさに転ぼうとしている菊子の前に先回りし、倒れてきたその体を抱きとめる。

 腕の中に舞い降りてくる柔らかい感触と、とてつもなくいい匂い。彼女の体は、栄養不良ではないかと思うくらい軽かった。

 

 まさしく間一髪で、要は菊子をキャッチしたのだった。


「キク、だいじょう――――っ!」

「あ、ありがとうカナちゃ――っ!」


 二人の言葉がハモり、そして二人ほぼ同時に赤面した。


 要が急激の顔を真っ赤にしたのは、今のこの体勢を確認したからだ。菊子も確実に同じ理由だろう。


 今の自分たちはまさに――抱き合っている状態だったのだ。


 母親以外の異性と、生まれて初めてするであろう体勢。

 自分は菊子の恋人でも何でも無い。ゆえにこれは純然たるセクハラである。

 今すぐ離れるべきなのは、火を見るより明らかだ。


 しかし――どうしてかそれができない。体が言う事を聞いてくれない。


 菊子も、自分を全く引き剥がそうとはしない。それどころか、こちらの背中を締め付ける手に一層の力がこもっているような気すらした。


「……キク」

「……カナちゃん」


 吐息がかかるほどの距離で見つめ合う二人。菊子の吐息は花のように甘かった。

 それほど近くで見ているため、長い前髪の下にある彼女の素顔も微かに見えた。

 煙水晶(スモーキークォーツ)のような澄んだ黒い瞳は、まるで熱にうかされたように憂いを帯びている。


 そんな眼差しと視線を合わせた瞬間、心臓の刻むリズムが否応なしに速まった。


 そしてどういうわけか、ただでさえ近い菊子の顔が、少しずつ視界の中で大きくなっていって――――




「――――スラァァァァァァァァァァァァァッシュッッッ!!!」




 ――かと思えば、急激に遠ざかった。怪鳥のような叫びとともに。


 接触する二人の体の間へ「何か」が真上から分け入り、そして二つに分断したのだ。


「うわ!?」


 その分断されたうちの一つ――要は後ろへたたらを踏む。


 見ると、自分と菊子が接していた場所には、黒いスーツの袖に包まれた手が伸びていた。手刀を形作った状態で。


 そして、その手の主は――


「り、臨玉さんっ?」


 菊子がやや驚いた様子で、乱入者の名を口にする。

 そう、倉橋家の執事にして易宝の旧友、夏臨玉その人だった。

 長身痩躯に白黒ツートーンのスーツを整然と着込んだ年齢不詳の美丈夫は、眼鏡の下にある鋭い目つきをさらに鋭角的にしてこちらを睨んでいた。


 要も少し目を見開きながら、


「夏さんっ? いつからそこに?」 

「学校を出た時からずっとだよ工藤要くん。僕は誘拐事件以降、お嬢様を不届き者から守るべく陰ながら跡をつけさせてもらっていたのさ。学校と女子トイレ、更衣室を除く全ての場所でね。僕ならば『高手(ガオショウ)』が複数人でも現れない限り、簡単に制圧できるからね」 

「そ、そうなんすか。それはご苦労様です」

「ありがとう。僕もひと月前から始めたこの活動にようやく意味を見出すことができたよ――工藤要くん、君のおかげでね(・・・・・・・)


 臨玉の眼光がビームのように凄まじいものとなった。ひっ!


 やっぱり怒ってる。わざわざフルネームで呼ぶあたり、彼の本気度がこもっている気がした。


「この僕の目の前で堂々とお嬢様に抱きつくなんて、そこらの黒社会(ヤクザ)でもやらないことだよ。いや、さすが崩陣拳の次期後継者。胆力は人一倍といったところかな?」

「ち、違いますよ!? 抱きついたんじゃなくて、転びそうになったキクを助けただけです!」

「ああ分かってるさそんなことそこまでなら僕も譲歩しよう。しかし、抱き合ったまま数十秒離れなかったのはどう説明する?」


 ――そこを突っ込まれると痛い。

 本当に、あの時はどうして離れることができなかったんだろう。自分でもよく分からない。

 ていうか、数十秒? そんなに経ってたんだ。


 臨玉は手刀にしていた手を拳にして強く握り締め、忌々しげに続きを呟く。


「おまけにハグするだけに飽き足らず、恋仲でもないくせにお嬢様の唇を奪おうとするだなんて……」

「ちょっ!? 俺そんなことしようとしてませんでしたよ!?」


 あんまりな誤解に対し、要は頬を紅潮させながら全否定する。俺はそんなプレイボーイじゃない! 


 だが、臨玉が押しつぶすような勢いでこちらへ詰め寄り、


「とぼけても無駄だよ。君たちの顔が微かにだが近づいていたのを、この僕が見逃すとでも?」

「は、はいぃ!? う、嘘でしょ!?」


 信じられない。だが、臨玉の客観視は無視できない。

 だとしたら、俺から近づいたの? それともキクから? もしくはお互いに?

 考えても分からない。そもそも、自分には菊子の顔が視界で大きくなったことしか、判断材料が存在しないのだ。


 菊子はというと、茹でダコよろしく上気した顔を両手で覆っていた。ちょっと、何か言っておくれよ。俺一人の手に負えないぞ。


 ……達彦あたりがいなくて本当に良かった。もし今の場面を見られていたら、確実にネタにされていただろうから。


 どうしたものかと思っていた時だった。


 現在立っている歩道の前後から、多重した複数の足音がバタバタと近づいてくる。


 見ると――木の棒やら竹刀やら色々なもので武装した集団がこちらへ真っ直ぐ走って来ていた。


 前からだけではない。後ろからも来ている。


「いたぞ! あいつだ! このまま突っ込め!」


 後ろ側の集団の先頭を走っていた男が、要へ目と人差し指をはっきり向けながら怒鳴り散らす。


 要は本気で頭を抱えたくなった。こんな時にどうしてああいう連中が来るんだ。タイミングが悪すぎる。


 そもそも、自分を叩きのめしにやって来る行為そのものにツッコみたい。奴らはどう見ても知らない顔だ。そんな輩に、どうして憎まれなきゃいけないんだ。

 昨日の連中と同じ類なのか。それとも――


 だが、まともに頭を悩ませている時間はなかった。連中は一塊となり、前後から自分たちを押しつぶすように着々と接近してきていた。


 本当に、めんどくさい時に来てくれたものだ。自分一人ならまだ気楽だったが、今は菊子が一緒だ。この人数を、彼女を守りながら相手にするのは難しい。


 そんなふうに頭を悩ませていると、隣にいた臨玉がこちらの肩へポンと手を乗せ、


「――お嬢様を頼む」


 要を、菊子の立つ位置へ軽く押し出した。 


「うわ、っと。夏さん、何をっ?」


 体勢を整え、背後に菊子を隠しながら問う要。


 臨玉は淡々とした口調で答える。


「どうしてあのような連中に狙われなければいけないのかは分からないけど、お嬢様が傍にいる以上、この僕が安全確実に"処理"しなければならない」

「いや、何言って……」


 そこまで口にして、言葉がピタリと止まった。

 思い出したのだ。当たり前の事を。

 我が師、劉易宝は、一組のヤクザを無傷で全滅させることのできる異常な強さを持っている。

 そして、目の前に立つ夏臨玉という男は、そんな易宝と長年張り合ってこれたほどの実力者。


 つまり――これから勝ち戦が始まる。

 連中は前後から挟撃しようとしてくるが、その策も無駄に終わる。そういう青写真が保証されてしまったことを意味していた。


 男たちが、着々とこちらとの距離を狭めてくる。

 やがて、すぐ近くまで到達した。

 前にも敵。後にも敵。挟み撃ち待ったなしの状況。

 しかし、要は少しも怖くなかった。勝利が約束されているのに、どうして怯えることができるだろう?


 そして、臨玉もその期待を裏切らなかった。


「討ち取ったりぃ!!」


 一人の男が一番乗りで、竹刀を振りかぶって突っ込んでくる。


 その時、臨玉の片手に――ピンボケのようなブレが生じた。

 かと思うと、スピンッ! という虎落笛(もがりぶえ)にも似た風切り音が鳴った。

 かと思うと、竹刀の柄から上の部分が――綺麗さっぱり消失していた。


「くぺっ」


 かと思うと、男は突然カエルのような呻きを発し、まるで支えを失ったようにうつ伏せに倒れた。


「きゃぱっ」「ぺぷっ」「ぽきょ」「ぷゃ」「んぱっ」「ぷぇっ」「ぺぇ」「ぽぁ」「ぺきょ」「ぷぺぁ」「ほぽっ」「ぱぇっ」「ぽぷっ」「ぽへゃ」「きぺっ」「んぷぇ」「ぱっ」「もぱっ」「ぴっ」「ほぺっ」「ぷっ」「ぱぺっ」「ぺっ」「きゅぷ」「ぽっ」


 かと思うと、男たちが似たようなうめき声を次々と発し、地に伏していく。カエルの合唱のように。


 バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ――――


 かと思うと、倒れる音がいくつも連なる。

 かと思うと、要たちの前後に人間の堆積ができる。

 かと思うと、それが徐々に大きく、広くなっていく。


 ――臨玉の手の像がブレるたび、同じようなことが幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も繰り返された。


 な、なんだこれは…………!?


 要は賞賛や感嘆を通り越し、もはや戦慄さえ覚えた。

 臨玉が連中を軽々と全滅させることは予想していたが、この光景は想像を絶していた。

 思考が追いつかない速度で事が起こり、敵が倒れていく。


 臨玉が行っているのは、おそらく突きだろう。――そう。「おそらく」「多分」などと前置しなければならないほど、臨玉の打撃速度は変態じみていた。


 移動速度だけではない。手の速さも人間離れしている。


 本当に、この人は自分と同じ人間なのか。そんな考えを一瞬抱いてしまった。


 あっという間に敵の数は激減し、残るは一人のみとなった。


 その男の表情には焦りと怯えが色濃く浮かんでいた。要にはそんな彼の気持ちが痛いほど分かってしまった。


「く、くそっ! 意味わかんねぇよ!!」


 そんな男が、苦しまぎれとばかりにジャケットのポケットから取り出したのは、一本のサバイバルナイフ。


 しかし、そのナイフの刃の九割が突如消滅。

 そして、その九割の破片は――臨玉の手にあった。

 彼はナイフを瞬時にへし折ると同時に、その刃を奪ったのだ。


「お、俺のナイフが――――うわっ!」


 言い切る前に、臨玉が男の足元を爪先で引っ掛けるように蹴り、尻餅をつかせた。


 立ち上がろうとした男の胸を、臨玉はナイフを持っていない方の手で押し込み、無理矢理仰向けの状態にさせた。


 臨玉は男の傍らにしゃがみこみ、告げた。万人の背筋を凍りつかせかねない、おぞましい声色で。


「……なあ君、聞きたいんだが、まさかこんなものをお嬢様の肌に通すつもりだったんじゃあるまいね? 高級シルクも薄汚いボロ布に思えるほど綺麗なお嬢様の素肌に、これを走らせるつもりだったと? 恐れ多い事をしている自覚があるのかな? なんなら切り傷の一つや二つ負って、己の愚を実感してみるかい?」


 ナイフの先端を男の頬近くに突きつける。


 ひっ、と男の喉が鳴った。


「「わーーーーストップストップーーーー!!」」


 過激な行動を見かねた要と菊子は、臨玉の両腕を引っ張って必死に止めた。


 彼の腕はどれだけ力を入れて引っ張っても全く動かない。


 しかし、臨玉はどうにか何もせずに立ち上がってくれた。良かった、本当に良かった……!


 臨玉がナイフの切れ端をつまらなそうに地面へ投げ捨てる。かつーん、という甲高い音。

 

「う、うわああああ!! おまわりさぁぁぁぁぁん!!」


 その音を合図にしたかのように、男は泣き叫んで無様に逃げ去った。


 時々転びながらも、必死な様子で逃走し続ける男の後姿が見えなくなると、


「ささ、参りましょうかお嬢様。駅前に車を待たせてあります。早くしないと日差しでお肌を焼いてしまいますよ」


 まるで何事もなかったかのように、臨玉がそう爽やか笑顔で促してきた。


「は、はい……」


 菊子はやや固まった表情でそれに頷く。


 結論――やはりこの人もマトモではない。











 時間はあっという間に流れ、夜となった。


 要は工藤家一階のリビングで、家族三人との夕食の時間に入っていた。


 汚れ一つ無い木製ダイニングテーブルの表面には、父の良樹が腕によりをかけて作ってくれた料理が並んでいた。テーブル中央には大皿に盛られた海藻サラダ。そしてその周囲を囲むようにして、一人一皿のカレーライスが置かれている。


 それぞれの席に座った要、亜麻音、良樹の三人は手を合わせ、


「「「いただきます」」」


 と言って、食事を始めた。


 要がまず狙いをつけたのはカレーだ。

 スプーンを使ってお米とカレーを約5:5の比率で掬い、口に運ぶ。スパイスの香ばしさと辛さに加え、甘酸っぱいトマト独自の味わいが広がった。

 このカレーは、市販のルーを使っていない。各種スパイスとトマトペーストを組み合わせて作った、良樹オリジナルのカレーだ。


「おいひぃーー!!」


 母の亜麻音がスプーンをくわえたまま、夢見心地な声を出す。母はこのカレーを結婚前から知っていて、今でも大好物なのだそうだ。


 かくいう自分も、このカレーを作る日はテンションが上がったものだ。泣きべそをかいていた時も、これを食べ終えた頃にはすっかり笑顔になっていた。


 良樹はそんな自分たち二人を見て、満足げに微笑む。作った甲斐があったと言わんばかりの表情だ。


「あ、そういえば」


 ふと、良樹が何か思い出したようにそう口にした。


 亜麻音はそれに反応して、


「んむ? むぉひはほほっふん?」

「飲み込んでから喋れよ母さん」

「んくっ…………どうしたのよっくん?」

「ああ、実は今日の仕事帰り、カレーの材料を買うために買い物をしてた時、近くで福引きをやってたんだ。材料買った時に店員さんから福引券をもらったんで、せっかくだから回してみたんだよ」

「それで!?」


 亜麻音が妙に瞳を輝かせながら、テーブルに身を乗り出す。ハワイ旅行が当たったことでも期待しているのだろうか。


 良樹は気の抜けた笑みを浮かべて、


「……猫用の缶詰がいっぱい当たっちゃったんだ」

「ええー? ウチ猫ちゃんいないわよぉ? そんなのもらっても困るわ」

「そうなんだよ亜麻音ちゃん。だからどうしようか迷ってるんだよね。亜麻音ちゃんって結構人脈広いよね? 誰か猫を飼ってる人いないかな」

「まあ、何人かいるわねぇ。今度担当の人と打ち合わせするために遠くに出るから、その帰りに猫持ちの知り合いの家に寄って譲ってあげましょうか?」

「あ、あのっ! ちょっと待ってっ?」


 結論が出ようとしていた話に、要が突発的に待ったをかけた。


「俺、猫飼ってる人一人知ってるんだけど、その人に譲るっていうのはダメかな?」

「構わないよ。どなただい、その人は?」

「俺の師匠だよ。父さんも会ったことあるだろ? 劉易宝って人。その人んちに白い猫が一匹いるんだ」


 易宝の名前を出した途端、亜麻音はあからさまに顔をしかめた。


「ええーっ? あの胡散臭い中国人に譲るのぉ?」

「胡散臭いとか言うなっての」

「胡散臭いったら胡散臭いのっ。あの中国人、あたしのカナちゃんを悪の道に引きずり込んだ張本人だもん」


 ぷいっ、と不貞腐れたようにそっぽを向く亜麻音。悪の道って……。


 住み込みの話にはオーケーをくれたものの、亜麻音は易宝のことが未だに嫌いらしい。


 フォロー屋の良樹は、フォークに刺した海藻サラダを亜麻音の口元に運びながら、


「まあまあ、いいじゃないか亜麻音ちゃん。はいこれ、海藻サラダでも食べて機嫌直して」

「別に機嫌悪くないもん。はむ……あら美味しい」


 サラダを口に入れた途端、曇り模様だった亜麻音の表情に晴れやかさが戻る。


 そのゲンキンさに、要は思わず吹き出した。

 そして、胸が暖かくなるのを感じた。

 易宝養生院に住み込むことになって以来、この家族揃っての夕食は週に二回となった。そのためか、今まで当たり前に存在していたこのひと時が、最近では得難いもののように感じていた。




 だが次の瞬間。

 その暖かな時間を侵すように――バガシャァン!! と窓ガラスが割れた。




「きゃあっ!!」「うわっ?」亜麻音と良樹が同時に身を縮める。


 割れたのは、アルミサッシで縁どられた全開口窓のガラスだった。


 パラパラと舞う無数のガラス片に混じってゴトンと床に落ちたのは、手で半分しか覆えないほどの大きさの巨大な石ころ。間違いない。これを外から投げ込まれたのだ。


 テーブルで固まっている両親とは違い、要だけは比較的冷静だった。


 全開口窓の先には、ウッドデッキが続いている。そのデッキの前には亜麻音の育てている花々が咲き誇る小さな庭が広がっており、腰ほどの高さの木製フェンスが外界と庭を隔てていた。


 そして、その木製フェンスの向こうには――キャップ帽子とサングラスを身につけた不審者が一人。


 その不審者はこちらと目が合った途端、即座にその場から逃走した。


 この野郎!!

 憤激に駆られた要は蹴飛ばすように席を立ち、玄関めがけて突っ走る。

 靴のかかとを潰して即行で履き、ドアを勢いよく開いて外へ出た。


 先ほどの場所にたどり着くが、すでに不審者はいなくなっていた。


 見回すが、それらしい姿は無い。


「出てこい!! 顔を見せろ!! 臆病者!! 俺が怖いか!?」


 要はこの辺り一帯に聞こえるよう、声を張り上げる。

 だが、周囲の家の窓が開き、そこから顔を出した人々が胡乱げな視線を送ってくる以外の反応は返ってこなかった。


「……くそっ!」


 要は地団駄を踏んだ。


 倉田への唐突かつ理不尽な暴行。

 今日の昼の襲撃。

 そして、今。

 昨日から、明らかに普通じゃない出来事が立て続いている。


 一体――何がどうなってるんだ。


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


花粉症にかからない私TUEEEE!!と驕っていたバチが当たったのでしょう。アレルギーで咳と痰が止まりません。

花粉症に苦しんでいる全地球人の皆さん、調子に乗ってごめんなさい……orz

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