第一話 「金」の始動
西洋風の意匠が施されたキャンドルスタンドには三本のロウソクが刺さっており、それらに灯る火が暗い室内をほのかに照らしていた。
それによって、キャンドルスタンドを乗せている中華テーブルと、その周囲に広がる空間が明らかになっている。
傷だらけのタイルカーペットに、何も無いカウンター、そしてその後ろの壁際の床にある長方形のシミ。それらの要素は、この空間がかつてバーであったことを示している。
中華テーブルの周囲には、少年少女たちが座っていた。
軍服にも似た深緑のジャケットをきっちりと着た、坊主頭の大男――「木」。
長いブラウンの髪をポニーテールにした、細身で長身の少女――「火」。
半袖短パンという軽装に身を包んだ、童顔の少年――「金」。
そして、生え際まで真っ白な髪に白い唐装、そして白い長ズボンという全身白ずくめの少年――「土」。
海線境市有数のギャング団、『五行社』の集合風景だった。
本来なら『五行社』というチーム名にたがわず、五人でテーブルを囲んでいるはずだった。
しかし、今いるのは――四人。
「土」が最初に放った言葉は、そのことに言及したものだった。
「……「水」を、鴉間匡を叩き出したらしいな、「木」」
話の矛先を向けられた「木」は、少し眉をひそめつつ返した。
「人聞きの悪い言い方をするな。オレは秩序を守っただけだ。負け犬を置いておくと、この『五行社』が甘く見られるきっかけになってしまうかもしれない。それはお前の本意ではないだろう「土」」
「土」は疲れたようなため息をつくと、
「……そうだな。それで金を取れなくなったら、「上」が潤わなくなる。それでは警察上層部の首根っこを掴んで鶴の一声を発させ続けてくださっている、師父のご厚意が無駄になるだろう。あの方のご機嫌をあまり損なわせたくはない。ひとまず、ご苦労だったと言っておこうか」
「……ああ」
言葉少なに頷く「木」。
「金」は椅子に深くもたれかかると、明るいながらトゲのある口調で、
「ま、どのみちボクはせいせいしてるけどね。あいつ嫌いだったし。前からボクとキャラ被ってる気がしてたんだよねー」
「キャラが被ってるかどうかは置いといて、嫌いってのは同感かしら。あの根暗野郎、よく犬のクソ踏んでるとか鳥のクソ付いてるとか嘘ついて、アタシをからかいやがったし。こんなことなら除名になる前に、鴉間のバカを肥溜めの中にでも突き落としてやればよかったわ」
品のない発言をする「火」は放置。「土」は「木」の方を向き、
「それで、どうなんだ? 「木」」
「どう、とは?」
「工藤要のことだ。お前の目から見て、奴は今どれほどの力量だと思う?」
「木」は目を閉じると、落ち着いた口調で語り出した。
「「土」、お前には遠く及ばないだろう。オレとは互角程度、そして残りの二人と比べると同等、あるいはそれ以上の力があるかもしれん」
「……ねえちょっと。今聞き捨てならない発言が耳に入ったんだけど?」
不意に「火」が不機嫌そうに立ち上がり、「木」の元へ詰め寄った。
「オレが一体何を言ったという?」
「アンタの言葉を理屈通りに受け取ると、アタシはアンタよか雑魚ってことになんじゃない。ケンカ売ってんの? え? 殺されたいわけ? ねぇ? 殺していい?」
チンピラじみた態度で食ってかかる「火」。
「木」は立ち上がるや、脅すような低い声で言った。
「……いちいち吠えるな阿婆擦れが。オレに向かってそのうるさい口を開閉させるんじゃない。激しく不快だ。なんだったら――今オレの言ったことを"実証"してみせてもいいんだぞ?」
「上等じゃない表ぇ出ろコラァ!! ギタンギタンにして動けなくなってから金玉一〇〇回踏んづけてやるわ!!」
一触即発の雰囲気を発する「火」と「木」。
しかし、そんな雰囲気も、
「――場所をわきまえろ」
小さいながらも強く威圧するような響きを持った「土」の一言とともに、嘘のように沈静化した。
「……すまない、熱くなっていた」
「……ちっ」
冷静さを取り戻した「木」と「火」は各々の一言を発すると、渋々といった様子で自分の席についた。
「木」は気を取り直した様子で、先ほどの続きを話し始めた。
「とにかく、工藤要は鴉間との一件を経て、格段にその実力を伸ばしている。それに何より――」
そこで一度言葉を区切ると「木」は、部屋を照らしている三本のロウソクを視線で示して言った。
「どうやら工藤要は――"見える"ようだ」
「土」は目を見張った。少し驚いたのだ。
――少し話の方向が変わるが、この中華テーブルの真ん中に置かれたロウソクには秘密がある。
この地下室には電気が通っていない。そのため、このロウソクを使って部屋を照らしている。
だが、それは表向きの話。
このロウソクの真の存在理由は――そこに灯った火を見つめ続けることで、ある特殊な「眼力」を養うこと。
しかし、その秘密に気づき、なおかつ「眼力」を身につけているのは、今のところ自分と「木」のみだ。
ロウソクの秘密には、自発的に気づかなければならない。その「眼力」は秘伝にあたる技能だ。それをホイホイ教えてくれるほど、自分たちの師は甘くないのだ。
閑話休題。
「木」が口にした「見えている」という言葉の定義は――工藤要も、自分たちと全く同じ「眼力」を身につけたということ。
この技術は、そこらへんの格闘技教室で教われるシロモノではない。
つまり――
「……なるほど。どうやらあっち側にも一流の師がいるみたいだな」
「土」は口端を歪めて呟く。
「"見える"って何がよ? 「木」」
自分たちの話の意味が読み取れなかったのだろう。「火」が怪訝な顔で「木」に問うた。
「木」は愛想の欠片もない冷淡な口調で、
「知りたいなら自分で答えを見つけることだ。我々は仲良しクラブじゃない。巣でクチバシを開けて餌を待つ雛鳥のように何でもかんでも教えてもらえると思ったら大間違いだ」
「あーはいはい分かったわよ。堅物のアンタに聞いたアタシが間抜けだったわ。ごめんなさい」
「火」は苛立ち任せにテーブルへ足を乗せた。ロウソクの火がその振動で一度大きく揺らぐ。
「土」は一度小さくため息をつくと、三人を見渡して、
「さて、『五行社』の一人だった鴉間がやられた今、いよいよもって工藤要は放置できない存在になった。我々の威厳を保持するために、なんとしても独走を続ける工藤要を黙らせる必要がある。誰か、我こそはと思う奴は手を挙げてくれ」
「オレが行こう」
「木」が真っ先に椅子から腰を上げる。
妥当な人選だろう。「木」は事実上、この『五行社』のナンバー2だ。そして、それに相応しい実力も持っている。
しかしもう一人、立ち上がっていた者がいる事に気づく。
「金」だった。
「待ちなよ「木」。今回はボクに任せておくれよ」
「金」は軽快な口調で言った。
「木」はそんな「金」を軽く睨みつけながら、
「貴様には荷が重い。工藤要は以前までとは実力が違う。お前では良くて相打ちが限界だ。『五行社』にまた一つ汚点を作るつもりか」
「早とちりしないでよ。ボクがいつ「工藤要を倒しに行く」なんて言ったんだい?」
「……どういう意味だ?」
要領を得ない「金」の発言に、「木」は怪訝な顔をする。
「金」は「土」へ目を向け、明るい口調で問いかけた。
「ねえ「土」、そもそもボク達って、工藤要を"倒す"前提でばかり話し合いをしてたよね? どうして一回も出なかったんだろう――"仲間にする"っていう意見が」
その爆弾発言に「火」はあからさまに取り乱した。
「はぁ!? アンタ、マジで言ってんの!?」
「大マジだよ。だって、ボク達二人と互角かそれ以上の力があるんだろ? だったらいっそボクら側に引き込んじゃおうよ。きっと即戦力になると思うよ」
さも名案だとばかりにうそぶく「金」。
確かに、工藤要は前以上に厄介な存在へと育ってしまった。
だがそれは裏を返すと、味方になればそれだけ頼もしいということになるだろう。
「……まあ、一理あるかもしれないな」
「でしょ!?」
自分の肯定の言葉に、「金」は目をキラキラさせながら反応した。
だが「土」は次に、その案の最大の「穴」を指摘する。
「だが、工藤要の性格からして、こちらからのスカウトに応じてくれるとは思えない」
「まぁ、普通に考えればそうかもね。彼、正義マンだし。でも、そんな事は織り込み済みの上で――ボクはアイデアを一つ作ってあるんだよ」
「アイデアだと?」
「金」は首肯すると、
「全てボクに任せてくれないか「土」。ボクの持つすべての力を使って、必ず工藤要のハートを射止めてみせるからさ」
自信満々に胸を張ってそう言った。
――「土」は、しばし考えた。
「工藤要を仲間にするためのアイデア」が何なのかはまだ分からない。
だが、今回は対決がメインではない。目的はあくまでもスカウトだ。
それに工藤要の争い嫌いな性格上、よっぽどのことが無い限り能動的に仕掛けてくることはない。こちら側から何かしない限り、一戦交えることにはならないだろう。
万が一工藤要とやり合う展開になってしまっても、「金」には直属の精鋭部隊『軍隊蟻』がいる。連中はそこらへんのチンピラよりはるかに腕が立つ。「金」一人では敵わなくても、『軍隊蟻』と結託して攻めれば叩きのめすことは十分に可能だ。工藤要がヌマ高生二七人を一人で倒せたのは、相手の個々に素人同然の実力しかなかったからだ。『軍隊蟻』は一人一人がヌマ高生よりずっと強く、手馴れた者揃いだ。そんな連中を一人で倒すことは、流石の工藤要にも不可能なはず。
そう。単独の力は五分五分か、あるいはそれ以下だったとしても、「金」にはそれをきちんと補う手段が用意されているのだ。
スカウトに失敗しても、万が一やり合う展開になっても、『五行社』の名に傷がつく心配はない。
それどころか、スカウトに成功すればノーリスクハイリターンという夢物語が現実になる。
失敗しても成功しても、失うものは何も無い。
魅力的な提案かもしれない。
しかし一方で、その提案に素直に頷いていいのだろうか、という思いもあった。
「金」には最近、不審な点が目立つ。
――『軍隊蟻』などという強力なグループを飼っているにもかかわらず、集金額が他の『五行社』と比べて明らかに少ないのだ。
『五行社』のメンバーは、リーダーである自分を除き、一人で数組のグループを束ねている。
メンバーは月に一回、自分の下部グループが集めたカツアゲ金を一まとめにし、ここへ持ってくる。そしてその総額を、自分が『D房間』のアジトまで運んで献上する。これがカツアゲ金の主な流れだ。
他のメンバーは月に一〇〇万以上の金を集めて来るのだが、「金」だけはどういうわけか、いつも六〇万円前後と少なめなのである。
それを指摘されるたび、「金」は気のせいだと軽くあしらった。だが「土」は猜疑の目を向けずにはいられなかった。
さらに「金」は、鴉間の除名によってフリーとなった下部グループをすべて自分の傘下に置きたいと言ってきた。理由は「ボクは他の二人と違って稼ぎが少ないから、少しでも多くしたいんだよ」だそうだ。
そんなことを言ってのける「金」の態度から、なんだか空々しいものを感じたのを今でも覚えている。
「金」は自分たち三人に、「何か」を隠している気がする。
失敗成功にかかわらず面子の潰れない魅力的な提案。しかし、最近の「金」は何やら怪しい。
ならば――提案にゴーサインを出した上で、少し影で探りを入れてみる必要がある。
心中で結論を出した「土」は、はっきりと告げた。
「――いいだろう。やるだけやってみるといい。ただし『五行社』の名に泥を塗るような結果は許さんからな」
「仰せのままにっ」
「金」は片手を胸に当て、頭を下げた。一見かしこまった態度だが、どこかピエロのようにおどけた感じがした。
「それじゃ、善は急げということで、早速準備を始めるとするよ。バイバイ、みんな」
言うや、「金」は生き生きとした足並みで部屋を出て行った。
歩いた風圧で、ロウソクの火が大きく揺らめく。
「ねぇ? ホントに仲間にできると思う?」
「普通に考えたら無理だろうな。だが「金」は小賢しさが取り柄の男だ。何か狡い手でもあるのかもしれん」
難しい顔をしながら喋り合う「火」と「木」。
そんな二人をよそに、「土」は密かに考えていた。
「金」の案にゴーサインこそ出したが、工藤要が仲間になる見込みは限りなく薄いだろう。
でも――もしも仲間になったとしたら?
その仮定を前提にして、「土」は思った。
もしも工藤要がこの『五行社』に加わり、直接あいまみえる事になったとしたら。
――変わり果てた今の自分の姿を見て、一体どんな顔をするだろうか。
空色に朱色が混じり始めた真夏の夕空を、カラスや渡り鳥が鳴きながら行き交う。
そこかしこにいるであろうヒグラシやアブラゼミもやかましく鳴き声を発し、自己の存在をアピールしていた。まるで生い立ち短い命を全力で絞り出すように。
すでに夕方であるにもかかわらず、外には熱気が充満していた。サウナを思わせる昼間の猛暑に比べれば幾分マシだが、それでもまだ少し暑い。
そんな熱気に満ちた易宝養生院の中庭にて、工藤要はひたすら拳を打っていた。
間隔の短い呼吸をしきりに繰り返していた。おまけに着ているシャツが、まるで水に浸かったかのように汗を含んでいる。それが今までの練習量を如実に物語っていた。
しかし、この一回を終えたら休憩だ。なので要はあともうひと踏ん張りと覚悟を決めて動きだした。
両腕を顔の前で構える。左手首に右拳を強く押し付け続けた、奇妙な構え。
『震脚』によって力強く大地を踏んづけ、反作用を引き出す。眼前に見える古びたスタンド型サンドバッグに狙いを定め、地を蹴って瞬発。
サンドバッグが視界で大きくなったのを確認後、前足で一気に踏みとどまる。風のような推進力を無理矢理急停止させた。
右拳は左手首からバチンッ、と勢いよく開放され、矢のごとく前進。
そしてサンドバッグに食い込んだ触覚を得た瞬間――要は右拳を一気に「パー」に開いた。
ボズンッ!! と爆ぜる音が耳朶を打つ。
サンドバッグは自らをぶら下げているスタンドを引っ張りながら、とんでもない勢いで吹っ飛んだのだ。
開かれた右手のはるか向こう側で、サンドバッグは横たわって止まった。
――成功した。
要の心に達成感が生まれたのと同じタイミングで、師の声が耳に飛んできた。
「よし、一旦休憩だ。飲み物を持ってきたから飲め。でないと死ぬぞ」
我が師、劉易宝はうっすら微笑みながら言うと、片手に持っていたスポーツドリンクを投げてよこした。
「ありがとー……」
要は修行で疲れた体を脱力させつつボトルを受け取ると、キャップを開け、一気に飲みだした。
甘さ控えめな清涼飲料水が冷たく喉を通るたび、失われた水分が戻ってくる本能的幸福を感じる。
少し前までは水が多かったのだが、夏真っ盛りな最近ではスポーツドリンクで水分補給をすることが増えた。スポーツドリンクは水分だけでなく、発汗で失った塩分も補給できるからだそうだ。
「今日初めてにしてはなかなか上出来じゃあないか。おぬしの『開花一倒』は」
易宝はからからと上機嫌に笑う。
『開花一倒』――それがさっきの技の名前だ。
『撞』の発力を応用した実戦技法の一つ。前足による急停止の他に、さらに二つの手法を組み合わせることで、『撞拳』をはるかに超える凄まじいパワーを発揮する技だ。
スピード込みで評価すると『纏渦』に軍配が上がるが、単純なパワー勝負なら『開花一倒』の方が上である。
一気に半分ほど無くなったスポーツドリンクを、近くのバーベキューセットの上に置く。
そして、要は『開花一倒』の最初の構えを易宝に見せる。左手首に右手甲を強く押し付け続けた構えだ。
「ところでさ師父、打つ前にやるこの変な構えって、やっぱりデコピンの原理で力を出すためのもの? 前にそれとおんなじ理屈で使う技を見たことがあるんだけど」
「前に見た技」というのは、竜胆正貴が使った『六合刮脚』の『磨脚』という技だ。あれもデコピンのように足と地面で「タメ」を作り、それを開放することで強い蹴りを出していた。
「まあ正解だな。その手法は『磨手』といって、形意拳の『崩拳』という技で使われているのと同じものだ。突き手をもう片方の手首に押し付けて「タメ」を作り、急停止によって発生した慣性力を使って一気に開放して打ち出す。強力な威力を誇る『撞』の発力に、「タメ」によって蓄えられていた力も加算されてさらに痛々しい一撃と化すわけだ」
さらに、と易宝は人差し指と中指の二本を立てる。
「たいていの相手はこれだけでも十分なダメージとなるが、それでもなお威力向上のために掘り下げるのが中国拳法というジャンルだ。『開花一倒』ではさらに『開花手』という手法を加えて、強大な威力をさらに凶悪にする。カナ坊、おぬしはダムダム弾を知っているか?」
「何それ?」
「弾頭の一種だ。着弾と同時に弾頭が拡散し、それによって激しい裂傷を引き起こさせる殺傷力の高い弾。必要以上の苦痛を与える残酷さゆえ、戦争では使用が禁止されたがのう。そして『開花手』の理屈は、そのダムダム弾とほぼ同じものだ。相手の体に食い込んだ瞬間、その拳を一気に開くことで、打撃力を相手の体の奥まで押し込む。それによって威力をさらにパワーアップさせるというわけだ。いつもはほとんど使わないサンドバッグを使っているのは、その『開花手』を行うタイミングを掴む能力を養うためだ。食い込んだ瞬間に拳を開かないと、威力向上につながらないからのう」
それからしばらく休んだ後、易宝は強く一息吐いて言った。
「さてカナ坊、『開花一倒』の再開だ。これが終わったら夕飯にしてやる。いいな?」
要はもちろん、と頷いた。
暦は七月に突入し、季節はすっかり夏となっていた。
要の予想していた通り、六月をはるかに超えるほどの猛暑が海線境市を襲った。
テレビでは熱中症で病院に運ばれる人のニュースが増え、「水分をこまめに摂りましょう」という注意喚起もしつこいほど放送されている。
かくいう要も、連続する真夏日に苦しめられていた。
現在居候中の易宝養生院にはクーラーがない。大きな扇風機がいくつかあるくらいだった。易宝は汗一つかかずに平気な顔をしているが、要は暑くて仕方がなかった。
部屋の窓を開けてもまだ涼しさが足りず、よく眠れなかった日も一日や二日ではない。しかし眠れないと、早朝の修行に響く。なので必死に考えた末、寝る時に氷まくらを使ってみることにした。そして、それでなんとか眠れるようになった。
しかし、そんな要に追い討ちをかけるように、高校生活初の期末テストの時期がやって来た。
学校の勉強もきちんとやっていた要だったが、こんな酷暑の中、クーラーの無い部屋でやるテスト勉強は過酷の一言であった。要は扇風機を常にフルパワーでかけ、冷たい飲み物を傍らに置いて必死で勉強した。易宝もテスト期間中は早朝修行を無しにしてくれた。そのため、勉強はなんとか進んだ。
そして、とうとうテストが行われた。モル濃度だの連立方程式だののおかげで理数系科目はうんうん悩んだが、なんとか全てを出し切ることができた。
現在は七月半ば。テスト終了からすでに一週間以上が経っていた。結果発表はもうすぐ。楽しみなような心配なような、相反する気持ちを抱きながらその日を待っていた。
そして今日の放課後、『開花一倒』の反復練習を終えた要は入浴し、その後、易宝の作ってくれた夕食をごちそうになった。「かったるいんで、いつもより手を抜いた」と言っていたが、その味は相変わらず美味しかった。今度料理でも教わろうかと考えた要であった。
完食後に洗い物を終えた要は現在、易宝と対面する位置関係でテーブルの席に座っていた。
二人の中間の位置には、綺麗にカットされたリンゴがたくさん乗った大きな皿がある。
易宝はどんどんリンゴを口へ運んでモリモリ食べていく。だが要は夕食を食べたせいでお腹いっぱいであるため、彼の食べっぷりを見ているだけで精一杯だった。
不意に、易宝が口を開いた。
「――不吃吗?」
出てきた言葉は日本語ではない。――中国語だった。
要はその異国の言葉の意味を脳内で検索。そして「食わんのか?」という意味である事を解き明かす。
そして、それに対して適切な返し方を組み立て、口に出した。
「えっと……我不想吃」
こちらも、易宝と同じ中国語だった。
しかしネイティブの彼に比べて、発音はお世辞にも上手いとはいえない。
当然だ。覚えたてなのだから。
易宝は摘んだリンゴの切れ端を顔の前でぶらぶらさせながら、
「为什么? 你不喜欢吃苹果吗?」
「……不。我吃饱了」
「那,可以吃完吗?」
「……好」
途端、易宝の手の往復速度が速くなる。さっき夕飯食べたばっかりなのに、どんな胃袋してんだこの人。
「现在几点几分?」
「……八点三刻」
「明天星期几?」
「……星期二」
要はぎこちないながらも、易宝と同じ言語で質問に答えていく。
しかし次の瞬間、それが終わることになる。
「――难道明天也考试吗?」
そう紡がれた易宝の言葉。
要はその意味をうんうん悩んで頭の中から探す。
だが――分からなかった。いや、忘れているのかも。
もう降参と思った要は、投降する犯人よろしく両手を上げて、投げるような口調で言った。
「――あーもう無理! ギブアップ! 今のどういう意味!?」
易宝はくっくっと笑いながら、
「明日もテストがあるのではあるまいな? と言ったんだ」
「……テストはもう終わったよ」
「そうかい。なら今度からは「已经完了」と答えるといい」
易宝のレクチャーに、要は口を尖らせながら頷いた。
――要は現在、易宝から中国語を教わっている。
習い始めたのは、易宝養生院にご厄介になって一週間後からだった。
易宝は言った。自分の弟子で居続けるならば、いつか中国社会や中国人と関わざるを得ない日が必ず来ると。この中国語学習は、いわばその時のための下準備なのだそうだ。
半ば強制的にやらされたに等しいが、やってみると案外面白い。それに、奥深かった。
中国語と一口に言っても、数多くの方言が存在する。それこそ、少し訛っている程度のものから、全く違う言語にカテゴライズしてもいいくらい大きく変わったものまで。
要が教わっているのは「普通話」。中国大陸のほぼ全ての地域で通じる、いわば標準語だ。
まだ習い始めて日が浅いため、まずは簡単な中国語会話から始めている。
易宝が中国語教育で重要視しているのは、ヒアリング能力だという。
たとえどれだけ発音が綺麗で流暢でも、相手の言葉を聞き取れなければ会話は一方通行で終わってしまう。ヒアリングさえ出来てしまえばまずは御の字。発音は最低限のルールさえ守っていれば、多少下手くそでも中国人にはなんとか通じるとのこと。易宝らしい、合理的な教え方だと思った。
中国人である易宝は、良質なヒアリング教材だ。なので言われた通り、まずは彼の発音を聞き取る力を地道に磨いている。
最初はかなり手こずったが、最近はだんだん慣れてきている。
……なんだか、だんだん中国人に改造されているような気がしないでもない。
でも、まあいいかと思考を切り替える。
どうあっても、自分は自分。工藤要という人間でしかないのだ。
今までいろんな逆境に立たされたが、どんな時でも要は自分のアイデンティティだけはないがしろにすることはなかった。
周りの助力が望めない時――頼ることができるのはいつだって自分だけだったから。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
ようやく第四章、開始できました!
おそらくこの作品の折り返し地点になる章かと。
今回のエピソードは他章よりもやや短めで終わる予定です……多分。
なにはともあれ、よろしくお願いしますです<(_ _*)>




