第二十話 嘘つきの咆哮
有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない!!
鴉間匡は地面に横になりながら、心中でこの上なく恐慌していた。
掘削機をねじ込まれたような重々しい痛みが、未だに腹にしつこく残留している。
濃い砂煙の奥にうっすらと見えるのは、そんな凄まじい一撃を放った張本人――工藤要の姿。
匡の目にはそれが、得体の知れない化物のようにも映っていた。
工藤要が先ほど放った『纏渦』という技の威力ももちろん驚異だ。
しかし、それ以上に驚愕だったことがある。
『太公釣魚』を破られたことだ。
近い間合いから素早く一気に遠ざかることで、無意識に相手の視線を引きつけ、同時に相手の重心も前に出させる――蟷螂拳などに伝わるその技術に改良を加えた技が『太公釣魚』だ。
この技は「土」を除き、未だ誰にも破られたことがなかった。
しかし、工藤要は見事にこの技の正体を見破り、そして攻略してみせたのだ。しかも初見で。
『太公釣魚』という技の名前は、「自分からすすんで騙される」という中国の成語に由来している。
周の軍師、太公望呂尚が釣りをする時に使う釣り針は真っ直ぐで、餌も付いていなかったという。ゆえに魚が自分から釣られにでもいかない限り、針に引っかかることはない。そのような故事から生まれた成語を、この技は実践していた。
今まで、その見え見えな釣り針に引っかかった魚は数知れず。工藤要も、その中の一匹になるはずだった。
しかし、工藤要は想像を絶するほどの大魚だった。釣り上がって陸に降りた瞬間、竿を握る呂尚をその体で押しつぶしたのだ。
原理がバレてしまった以上、「行動直前に起こす微小な動きを読まれない」というアドバンテージは意味をなさなくなる。最初に大きく下がる動作そのものが、そのまま大きな隙になってしまう。
匡はギリリと歯ぎしりする。
どうしてこうなった。
奇影拳を身につけた自分が、こんな無様な姿を晒している。
こんな現実、あっていいはずがない。
兵は詭道なり――そんな孫子の一文を徹底的に突き詰めた拳法こそ、奇影拳。「土」の言いなりにこそなっているが、匡はこの拳こそ最強であると、心中では信じて疑わなかった。
奇影拳は詭道の拳。
詭道は欺く方法。
欺きは嘘。
嘘は、この世で最も役立ち、そして強い道具。
自分はあの頃――中学時代にそれを痛いほど思い知ったじゃないか。
中学時代、匡はサッカー部のエース選手だった。
どこにでもある、普通の市立中学のサッカー部。
そこは「初戦敗退がお家芸」と揶揄されるほどの弱小部で、他校のサッカー部からは嘲笑の対象だった。
当然ながら、部員の士気は常に最悪。練習はお茶濁し程度の低クオリティ。大会では勝敗問わず一点入れば御の字。部室はカードゲームや携帯ゲームに興ずるための遊び場と化していた。
――匡はそんな最弱チームを、一気に強豪チームへと成り上がらせた功労者だった。
サッカーに対して並々ならぬ情熱を持っていた当時の匡は、チームの状況を良しとはせず、真面目に練習に取り組むよう皆を説得した。
当然、最初は上手くいかず、幾度もチームメイトと揉めた。ウザがられたりした回数は数えきれず、殴られたことだってあった。
しかし、匡の情熱は次第に皆の心を動かし、やがてチームは一つとなった。
練習に対する姿勢も真剣になり、着実に実力をつけ、大会もこれまでにない勢いで勝ち進んでいった。
そんな青春ドラマのような出来事を、匡は見事に現実のものにしてみせたのだ。
しかし匡たちは、県大会の準決勝で敗れてしまった。
汗だくでロッカールームに戻ったチームメイトたちは、皆等しく涙を見せていた。チームがバラバラだった以前とは違い、その時はみんな本気で全国を目指してやろうと思っていたのだ。それが叶わなかったがための涙だった。
そんな風に悔し涙を流せるようになったチームメイトの様子を少し嬉しく思う一方で、匡はある疑念を感じていた。
それは、審判の判定が、自分たちのチームに対してだけやたらと厳しかった事である。
ルールに抵触しない程度に相手選手へ触れたにもかかわらずファウル。ボールに触れそうになっただけで触ってはいない、それなのにハンド。そのハンドの判定に納得いかなかったチームメイトが審判へ暴言にならない程度に抗議すると、テクニカルファウル。
反面、相手チームに対しての判定は緩く見えた。相手が明らかなファウルやハンドをしたのに、突っ込まなかった場面が多々あったのだ。
結局、匡のチームは優秀な選手三名をレッドカードで失ったことで、大きく点差を付けられて負けてしまった。
……試合を振り返れば振り返るほど疑念は募った。
だが、考えるのをやめた。
サッカーは常に走り回らないといけないため、えらくスタミナを消費するのだ。疲れて必死になっていると、周囲に気が行かなくなることはよくある。必死さゆえ、違反行為を無意識にやってしまっていたのかもしれない。
そうだ。むやみやたらに人を疑うのは良くない。これは公式な大会なのだ。そう――「審判が相手チームを贔屓していた」なんて可能性、考えるだけバカバカしいことだ。
しかし、ロッカールームから出てトイレに行く途中、匡は見てしまった。
相手チームの監督と、スーツ姿の男。その二人がさっきの試合をジャッジしていた審判に――札が多く入った封筒を渡しているところを。
気になった匡は、隠れて彼らの会話に聞き耳を立てた。
そして、聞いてしまったのだ。
審判が後払いで金を受け取る代わりに――相手チームが有利になるよう判定を行っていたことを。
スーツ姿の男は、相手チームの学校の校長だった。
校長と監督は、自分たちの学校に「サッカー部、全国大会出場歴あり」という箔をつけるため、そしてサッカー部員に高校推薦入試のための実績を作るために、審判を買収していたのだ。
大人たちの繰り広げる汚い会話を影から聞いていた匡は、この上ない憤りに拳を震わせていた。
許せなかった。
自分たちは全国を目指してたゆまぬ努力を重ね、弱小から這い上がり、とうとうここまで登りつめたのだ。
そんな自分たちの決死の思いを、あの顔の脂ぎった大人達はくだらない点数稼ぎのために踏みにじったのだ。
怒りが限界を超え、もはや笑みすら浮かんでいた。
そして心に生まれたのは、憎悪と復讐心。
――いいだろう。そっちがインチキで来るなら、こっちも目には目をだ。僕たちと同じ痛みを思い知らせてやる。
匡はどす黒い感情に駆られるまま、行動を起こした。
相手チームの集団喫煙を写した写真を合成で作り、巨大掲示板にばらまいたり、大会運営の元へ送りつけたりした。
また、相手チームに関するありもしない噂を、神奈川のあらゆる地域で広めて回った。
色々な方法を用い、相手チームの名誉を徹底的に貶めにかかった。
それによって、相手チームは一時期疑惑の目で見られた。だが、すぐに出回っている噂や写真はデマであることが判明。
しかし、学生スポーツに関わる大人達はとかく潔癖が過ぎるものだ。体面を神経質なまでに気にし、一片の塵や埃でも目ざとく取り除こうとしたがる。そして匡もそれは計算済みだった。
つまり、真偽の問題ではなく――黒い噂が出た時点でレッドカードだったのだ。
相手チームは、県大会決勝戦という舞台を戦わずして敗北した。有り体にいうと、出場停止を食らったのである。
匡は溜飲を下げると同時に、ある一つのことを悟った。
苦行を乗り越え、必死に努力して手に入れた力より――ちっぽけな嘘やインチキの方がよっぽど強く、役に立つということを。
正々堂々試合をして勝てなかった相手にも、こうして勝つ事ができた。
練習を重ねず、チームメイトの力を借りることもなく、独力で蹴落としてみせたのだ。
そして、匡はサッカー部を退部し、サッカーからも足を洗った。八百長事件の当事者になって以来、以前のように汗水流して努力し、輝かしい勝利を目指す事がバカバカしくなってしまったのだ。
その後、すぐに「土」と出会った。
「土」は匡の昔話を聞くと、こう持ちかけてきた。「俺はこれからある御方の命で、新ギャング『五行社』を発足するつもりだ。その一角に入る気はないか? 無論、それなりの下積みはしてもらうが」と。
匡は「土」の話に乗った。もう自分はサッカーをやめたため、他にやることがなかった。だったら、世の中に正義があると思い込んでいる馬鹿な子供を踏みにじって楽しむのも面白いかもしれないと考えたのだ。
すると次の日、早速『D房間』という組織の構成員数人に会わされた。
彼らは皆、中国拳法の使い手だった。「土」は彼らを手で示して言う。「この人達が持つ拳法の中から好きなものを選び、それを学べ」と。
匡が選んだのは奇影拳だった。奇影拳は巧みなフェイントを得意とする欺きの拳。嘘こそ最も強い武器だと信じていた自分は、その拳法をいたく気に入った。
そして、匡は取り憑かれたような貪欲さで奇影拳を学んだ。
奇影拳はそのトリッキーで起伏の激しい動作を行う上で、優れた体幹力が要求される。だが自分はサッカー部時代、ある有名選手の影響で体幹のトレーニングを毎日熱心に行っていたため、奇影拳の基礎力を修行初期段階から高い水準で身につけていた。なので上達は早かった。
匡はわずか一年で、奇影拳をハイレベルで習得した。
そうして「土」と、後にできたメンバー三人とともに『五行社』を結成。神奈川県海線堺市周辺で暴れまわり、あっという間に一大勢力と化した。
その過程で、匡は数多くの敵を奇影拳で潰してきた。
数多くのフェイントや騙し打ちを使って相手を叩きのめすのは、とても気持ちが良かった。「右手でしか戦わない」と宣言した後に左手で殴り飛ばすと、相手は決まって「信じられない」といった間抜け面を見せ、呆然とするのだ。そんな「騙された後の顔」は、いつ見ても最高に笑えた。
工藤要も、最初に闘った時はそんな間抜け顔を見せてくれた。
そして今回の闘いでも、自分は高笑いしながら奴を踏みにじれるはずだった。
工藤要は確かに必死で修行を積み、実力を上げたかもしれない。しかし所詮、不意打ちや欺きが得意な自分には勝てない。騙され、不意を突かれ、無様に地べたを舐めることになるだろう――昔の自分のように。
『太公釣魚』を前に為す術なく転がり続ける工藤要の姿を見ながら、匡はそう心の中でほくそ笑んでいた。
だが――工藤要は土壇場で形勢を逆転させてみせた。
不意打ちや騙し打ちを一切せず、真っ向から奇影拳という究極の嘘を打ち破ってみせた。
数々の欺きを、偽りのない一拳にて全て吹き飛ばしたのだ。
それを改めて思い出した瞬間、工藤要に対して抱いていた驚愕は――――殺意にも似た激情に変わった。
かつて、自分は一生懸命やっても報われなかった。たった一つのインチキによって無残に押しつぶされた。
でも、工藤要は違う。こいつは自分のばら撒いた嘘の数々を、その高めた実力でねじ伏せようとしている。かつての自分に出来なかったことを、今、成し遂げようとしている。
どうしてだ?
どうしてお前が報われて、僕が報われない?
僕だってあの頃、一生懸命練習したんだ。お前だって修行を懸命にこなしたんだろう? なら、あの時の僕と今のお前は同じ条件下のはずだ。
なのに、どうして僕は報われなかった?
そして、どうしてお前は報われようとしている?
僕とお前の、一体何が違うんだ?
理不尽だ――こんなの。
匡はむくり、と立ち上がる。
『纏渦』という技で、すでに体力をごっそり持っていかれていた。だというのに、驚くほどすんなりと立てた。
「ふざけんな…………!」
匡は、我知らずそう口走っていた。
それは、心の中から漏れ始めた感情のひとしずくだった。
「ふざけんな…………ふざけんな……ふざけんな……ふざけんな……!!」
心のダムにできたヒビが水圧で大きく広がり、感情の漏れる量が徐々に増えていく。
砂煙が消え、はっきりと見えるようになった工藤要の姿を、まるで仇敵を見るように睨めつける。
「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
やがて匡は決壊し、一直線に突っ走った。
「ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
鴉間は起き上がったかと思うと、突然そのように雄叫びを上げ、こちらへ突っ込んできた。
ぐんっ、と一気に押し迫る姿に要は少し驚いたが、冷静に敵の五体を注視する。
自分と三メートルほどの間隔まで接近した瞬間、鴉間の右手足の像がホログラムよろしく手前にブレて見えた。
その「初動」通り、右足の踏み込みと同時に、鴉間の右拳が一直線に打ち出された。手負いとは思えないほど鋭い一突きだったが、要は小さく身をよじらせて紙一重で回避。そのまま敵の右隣を取る。
鴉間は素早く左足を引き寄せ、両足を揃える。そして、その右足にまた「初動」が生まれた。
次の瞬間、隣の要めがけて右の爪先が鋭く伸びた。
針を思わせるその爪先蹴りを、要は軽く体の位置を動かして避け、首の横を通過させた。どうやら、喉を狙っていたらしい。
そのまま、未だ伸びたままである敵の蹴り足を下からすくい上げる。鴉間はそれによって重心を崩し、派手に地面にひっくり返った。
しかし、すぐにまた起き上がる。
そして、弾丸のように疾駆してきた。
その顔には、憤怒と憎悪が混ざったような歪な形相が張り付いていた。
「クソッ!! クソッ!! クソッ!! クソッ!! クソがっ!! ふざけんな!! ふざけんなよこの温室育ちがぁっ!!!」
今まで以上の勢いで攻撃を連打しながら、鴉間はひたすら吐き出すように叫んだ。
「堂々とした顔しやがって!! 嘘なんか吐きませんって顔しやがって!! 希望に満ちあふれたような顔しやがって!! 僕にだってなぁ!! お前みたいな頃があったんだよっ!!!」
要は「初動」から攻撃の手を全て先読みし、堅実に、着実に、確実にいなす。
「でもなぁ!! そんな顔が未来永劫できるほど世の中甘くないんだよっ!! 僕はお前なんかよりそれをよく知ってるんだ!! 所詮世の中嘘と欺瞞とおためごかしのオンパレード!! まっとうな姿勢を貫こうとする奴から足元を掬われるんだよっ!! 僕がそうだった!! だからこそそんなクソッタレな世の中の真理に気がつけた!! なのにどうしてこんな劣勢に陥ってるんだ僕はっ!? 嘘こそ力だと知ってるのにっ!! どうして!! どうして僕が――」
要はやって来た回し蹴りを深くしゃがんで回避。そしてその低姿勢のまま、鴉間に肩からぶつかった。一本足立ちだった鴉間は容易にバランスを崩し、後方へ転がった。
しかしまた跳ね起き、距離を詰め、何度も何度も攻撃を連ねてきた。
まるで狂ったように。
「畜生!! ちくしょう!! チクショウ!! どうしてっ!! どうしてお前が報われて、あの頃の僕が報われなかった!? 僕だってあの頃はお前みたいに頑張ってたんだ!! なのにクソみたいなインチキのせいで全てが水の泡になった!! でもお前は違う!! お前は今、僕が出来なかったことをやろうとしている!! 僕の不意打ちを平気な顔して跳ね除けて、勝とうとしている!! なんでだよふざけんなよ何様だよっ!!! 僕とお前の何が違うっていうんだ!? 何が違うっていうんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
猛攻をしかけながら、鴉間はただひたすら体内の汚物を吐き出すかのように叫び続けた。
その目からは、涙すら溢れていた。
要は舞い込んでくる攻撃を躱し、防ぎ、受け流しながら、そんな鴉間の様子を見続けた。
一体何のことを言っているのか、さっぱり分からない。
でも、今鴉間が口にしているのは、お得意の嘘やハッタリではなかった。疑いようもなく本音だった。声色や態度からそれが簡単に分かった。
嘲るような薄ら笑いを絶やさず、平気な顔して嘘を吐くようなこの男が、今、本当の気持ちを激しく吐露している。
傍から見たら、無様で、見苦しく見えるかもしれない。
しかし要の目には、今まで見たどの鴉間よりも新鮮で、そして人間臭く映った。
鴉間が攻める。要がそれを避けて転ばせる。でも鴉間はすぐに立ち上がり、また向かって来る。
そのようなルーチンを、二人はサイクルするように繰り返し続ける。
何度も倒され、何度も起き上がり、何度も突っ込んで来る鴉間。
気のせいだろうか。
鴉間の攻撃から――フェイントがなくなっていた。
だんだん単調で、分かりやすいものになってきていた。
あれほどフェイントを多用していた鴉間からは考えられない、無謀で無策な攻め方。攻撃が避けられた後のことを全く考えていない、向こう見ずな攻め方。
だが要にはそれが、鴉間の心の変化を表しているように感じられた。
――もう一発でも発力を打ち込めば、この意味の無いやり取りはすぐにお開きにできるだろう。
だが、要はどういうわけか、それをしようとは思えなかった。
いや、してはいけない気すらした。
「はぁっ……はぁっ…………ぁあああああああああああああッ!!」
鴉間は再び立ち上がり、拳を握り締めて駆け出した。
要は放たれた拳を軽く避けつつ、すれ違いざまに軸足を蹴り払って転倒させる。
しかし、まだ終わらない。鴉間はなおも起き、そして拳を打ち続ける。
息は絶え絶え。汗の量も尋常ではない。制服は汚れてない箇所が見当たらないほど砂埃にまみれていた。
それでも、ただただ愚直に向かって来た。
――そこには、嘘つきであることを誇る卑怯者の姿はなかった。
二人の攻防は、鴉間がスタミナ切れでぶっ倒れるまで続いたのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
第三章ももうすぐ完結です。
おそらく、あと二、三話ほどで完結できるかと……




