第十九話 太公釣魚
鹿賀達彦は、目の前の光景をただ唖然と見つめていた。
自分の渾身の発破を受けた要は、全身を蝕んでいた震えを取り払い、毅然な足取りで敵に向かって行った。
しかしそうなった後、達彦はすぐに思ったのだ――背中を押して本当に良かったのか、と。
確かに、要は強くなったのかもしれない。いや、住み込みまでするほどの気合いと覚悟をもって修行しているのだ。力がついていない訳が無い。
しかし、相手の総数は二七人。要はそれにたった一人で立ち向かおうとしている。
普通の人なら、まず「正気の沙汰ではない」と断ずることだろう。
実際、達彦もそれに近い意見を持っていた。
ヤンキー漫画というジャンルでは、屈強な不良が大勢の男たちを単独で蹴散らす描写が頻繁に存在する。しかし、実際のケンカを豊富に経験している達彦なら言える。それはフィクションだと。
所詮独力など、数の暴力の前ではちっぽけなものだ。最初は勢いが盛んであっても、次第に消耗していき、弱ったところを数押しで潰されて終わり。ケンカも戦争も結局のところ、数や物量に依存する。
百獣の王などともてはやされているライオンだって、一匹じゃ安定した狩りの成果は得られない。結局、徒党を組まざるを得ないのである。
勢いで送り出してしまったが、自分がしたことは、要を野犬の群れの中に放り投げる行為に等しかったのではないか。
達彦はそう思っていた――最初は。
しかし今、目の前に映る光景は、そんな心配を杞憂と切り捨てるかのごときものだった。
達彦は、要の姿から目が離せないでいた――そう、単独でヌマ高生たちを蹴り散らかしている、要の姿から。
粗雑ながら、盛況な勢いで迫ってくるヌマ高生の集団。
要はそれらを、シンプルかつ無駄の無い動きで次々とあしらっていた。
一人のヌマ高生が殴りかかって来る。だが拳を突き出した時には、要はすでにそのヌマ高生の懐へ入り、その襟首を片手で掴んでいた。
横合いから、すぐに違う男が拳を振り出して来た。要は掴んでいるヌマ高生を強引に手前へ引き寄せ、飛んできたパンチをその顔面に受けさせた。
パンチを放った男が「しまった」という顔をする。要はその腹へ素早く蹴りを叩き込んだ。男は後ろへ押し流され、その後ろにいる仲間たちを巻き込んで盛大にぶっ倒れた。
背後から三人の男が迫って来た。
それに気づいた要は、掴んでいたヌマ高生の背後へ素早く回り込む。そして、その背中を双掌打で押し込んだ。後ろ足と背筋を伸ばしてから素早く前へ踏み込むという、押し寄せる波を思わせる奇妙な動きで放つ掌打だった。
刹那、打たれたヌマ高生の体は凄まじい推進力を得て飛び、三人の男に向かってぶち当たった。合計四人が土の上で雑魚寝する。
それ以降も、向かって来る男たちを次々と地面に転がしていく。
散歩のような緩やかな動きで軍勢の中へと分け入り、そして内側から分解していく。
要自身は一度も傷を負うことなく、敵側へ一方的に損害を出していく。
気がつくと、立っているヌマ高生の数が半分近くまで減っていた。
「……なんだよ、ありゃ」
達彦は思わずそうこぼした。
そうだ。あれは一体なんなんだ。
あそこにいるのは、一体誰なんだ。
要であることは分かりきっている。だが達彦は、それをうまく信じることは出来なかった。
なぜなら、今まで見てきたものとは、まるっきり戦い方が違っていたからだ。
まず、動きに無駄が無い。敵の攻撃に対して無闇に大きくは動かず、できる限り最小限の動きのみで対処している。その分体力の消耗も少ないようで、未だに要は息切れ一つしていない。
見たことのない技もいくつか使っている。
しかし何より、特筆すべき点が一つあった。
それは――必ず相手よりワンテンポ早いタイミングで動いていること。
従来、攻撃への対処というのは、対処すべき攻撃が始まった後でないと行えないものだ。だってそうだろう。始まっていないパンチなど、目で捉えようがないのだから。
しかし、要の動きはその常識を見事に踏みにじっていた。
相手がパンチを打ち始めた時には、すでにその相手の死角を陣取っているのだ。
最初にそれを見た時は偶然だと思った。しかし――その偶然をすでに十回以上見てしまっている。
ここまで数を重ねてなお「偶然」と言い張るのは頭でっかちのすることだ。
もう、認めざるを得ない。
要は――相手の動きを先読みしているのだ。
おこりのように身震いが走る。
戦い方が根本から変わっている。
この短期間で身につけていい実力じゃない。
はっきり言って異常だ。
あの中国人の師父は、いったい要にどのような訓練を施したのだろうか。
達彦のケンカに対する既成概念を徹底的にコケにした闘いは、なおも目の前で続いていた。
――なんだ、これは。
要は前方に群がる敵の姿を、信じられないという目で見つめていた。
「信じられない」というその思いは、この闘いが始まった時から抱いていた。
最初は気のせいだと思った。
しかし幾度もあしらい続けたことで、その思いは現実味を持った。
――弱過ぎる。
そう。弱い。弱過ぎるのだ。
あまりに遅く、あまりにオーバーアクションが多い。筋肉がガチガチに緊張しきっているせいで、パンチからは鋭さの欠片も感じられない。どうぞ打ってくださいとでも言っているようなその動きに、要はバカにされている気すらした。
なので『開拳』で一人打ち倒した後、前方に散らばって立っているヌマ高生たちに思わず尋ねてしまった。
「お前ら……やる気があるのか?」
挑発ではない。要は本気でそう思っていた。
だがそれを挑発と取ったのか、ヌマ高生たちはみるみるうちに顔を紅潮させていき、
「舐めんな、このクソガキャァァァッ!!!」
憤怒の形相で、わらわらと向かって来た。
要は、それを一方的に蹴散らしていく。
連中の顔から、手加減という感情は微塵も感じられない。紛れもなく本気でやっているのだと分かる。
しかし動きの質はさっきと変わっていない。それどころか、興奮で力が入りすぎて余計にノロくなっていた。
つまり、連中は手を抜いてなどいないということ。
異様に弱く感じてしまうのは、自分が力をつけすぎてしまったせいであると、要は理解する。
易宝の「少し本気」のスピードに慣れてしまったせいで、連中の動きが遅く見えること。
そして、「初動」を見る眼力がついたこと。
これら二つの理由ゆえ、要は連中のワンテンポ先の動きが手に取るように読める。
さらに「点・線・面」の理論を用いることで、カウンターを行う動作がコンパクトになった。ゆえにオーバーアクションが格段に減り、スタミナの消費が小さくなった。その証拠に、敵の半数ほどを倒した今でも呼吸の乱れ一つ無い。
これが、ここ二週間以上の蓄積の成果。
修行という肥料をたらふく与えられた自分の武術は、今、美しい花を咲かせたのだ。
「ちょこまか動くんじゃねグフッッ!?」
一人の男が拳を握り締め、ダッシュの勢いを利用して殴りかかって――来る前に『撞拳』を打ってダウンさせる。
『撞拳』は本来隙の多い技だ。しかし今の自分には、動作を行う前に見せる微小な動き「初動」が見える。パンチがやって来るのは、男の構えた拳に「初動」が見えた後だ。つまり、それが見られない時は、堂々と突っ込んでも殴られる心配はない。
今度は右から一人の男が来て、右足裏を突き出して蹴りを放ってきた。
要は右膝を立て、その向こう脛を男の蹴り足の側面に滑らせ、キックを右から左へ流した。そしてすぐさま右足底で敵の軸足を踏み蹴る。男はバランスを崩し、あっけなく転倒。
脛という「線」で受け流し、足底という「点」で反撃する――片足のみを使ったカウンターだ。
「調子に乗りやがって!!」
その怒号とともに、後ろから首と胴へ腕が回る。太い腕にがっちりと締め付けられ、身動きが取れなくなった。ヌマ高生の一人が、背後からこちらの首と胴体をしっかりとホールドしてきたのだ。
前方からは、三人の男たちが勢いよく接近してきていた。拘束されたこの瞬間に畳み掛けるつもりだろう。
けど、そうはさせない。
要は両足でしっかりと地を踏みしめる。
足底から末端部までが渦に包まれるイメージで、四肢と胴を同時に旋転させる。ジャイロ回転させた突き手を、両足と腰の旋回力で鋭く前へ突き伸ばした。
「おわっ!?」
その正拳突き『纏渦』を突き終えると同時に、首と胴の拘束が解ける。要の全身に巻き起こった強大な螺旋力によって、後ろにいたヌマ高生が弾き飛ばされたからだ。高速回転する独楽に石粒を投げると、外側へ弾かれる。それと同じ原理だ。
こちらの拘束が解けたのを見て、走って来ていた三人の男はギョッとした顔になる。しかし今更止められないとばかりに、そのまま動作を続行。拳を握り締め、一直線にこちらへ突っ込んでくる。
要はその三人を見渡すように凝視した。横に並んで走っている三人の中で最も早く「初動」を見せたのは、こちらから見て一番右の男。
なので、一番左を走っている男のそばへ迅速に駆け出し、肩口から寄りかかるようにして体当たりを食らわせた。
「うおっ!? 何すんだ!? 倒れ――うわっ!」
三人は、要が体当たりした男から順にドミノよろしく共倒れとなった。
それからも休みなく闘いは続いた。
だが、闘いと呼べるかどうかも怪しいほど、要の優位性に揺るぎがなかった。
防いで、打って、防いで、打って、防いで、打って、防いで、打って。
そんな単純なルーチンを繰り返すだけで、敵が減っていく。
容易い。容易過ぎて退屈すら感じてしまう。
あまりにスムーズに進みすぎているためか、闘っている最中でも余計な考え事をする余裕ができていた。
思い出したのは入学したての頃、易宝とともに「霜月組」の事務所へ乗り込んだ記憶だ。
あの時の易宝も、このように一方的な感じで集団を蹴散らしていた。
そして今、自分はそれに似たことをやっている。
自分は成長したのだと改めて感じ、嬉しくなった。
立ちふさがる敵を、条件反射で何度も倒していった。
そうしていくうち、敵の攻撃の勢いが徐々に衰えていき、やがてぱったりと止んだ。
見回すと、そこかしこにヌマ高生が雑魚寝していた。皆、体のどこかしらを押さえてウンウン唸っている。
しかしただ一人、まだ立っている者がいた。他のヌマ高生よりひときわ体格の良い、角刈りの男である。
「……いい気になんなよ。テメーごとき、俺一人で十分だ」
角刈り男は険を帯びた目で要を睨むと、半身になって両拳を胸前で構え、小刻みなステップを踏み始めた。
要は少しだけ眉をひそめる。おそらく、ボクシングをかじっているのだろう。
ボクシングは手法が速く、パンチの変化も多彩だ。だが、それだけではない。拳法は突き技を行う前に拳を脇に構えるため、その構えた拳から次の手が読まれてしまうことがあるが、ボクシングにはそれがない。そんな事をせずともそれなりの打撃力を叩き出せるため、構え方から次の手を読みにくいのだ。
そう。以前の自分なら、大いに警戒しただろう。
だが、今の自分にとっては詮無い要素だ。
広げた視界から、角刈り男との間隔をこっそり分析する。ざっと見積もって八、九メートルといったところだ。
文句なしと判断した要は、イメージを浮かべる。一本の線が角刈り男に向かって伸びている、そんなイメージを。
膝を進行させて一歩目。着地とともにすぐさま骨盤と腰を同方向へ捻り、その力を、回転運動を直線運動に変換するピストンの要領で前膝に伝え、それによって鋭く二歩目――それら二歩を仮想の線に沿うように踏み出し、推進力を一点に集中。
高速移動の歩法『箭歩』によって、大きく開いた彼我の距離をほぼ一瞬で縮めた。
自分がこの歩法で出せるスピードは、易宝のソレにはまだ遠く及ばない。しかし、高校生同士のケンカで使うには十分過ぎるものだった。ゆえに、支障なく間合いの中へ進入できた。
角刈り男の表情が強張る。しかしもう遅い。すでに腕のリーチ内だ。
「――『撞拳』」
地面に杭を打つように踏みとどまり、同時に渾身のストレート。土手っ腹に強烈な一撃を受けた角刈り男は悶えるような表情で背筋を丸め、大きく真後ろへ吹っ飛んだ。
敵が大の字になって地面に横たわったのを確認すると、要はその鋭い視線を――遠く離れた位置で見物を決め込んでいる鴉間へと移した。
もう他のヌマ高生は全員倒した。残るはこいつ一人だ。
要は鴉間のいる場所へ歩を進める。
そして向かい合い、語気を強めて言った。
「鴉間、お前はどうする? もうお前の子分は全部やっつけたぞ。降参するのか、それともまだ続けるのか、どっちがいい? 俺はどっちだって構わないぞ」
それに対して、鴉間は疲れたように溜息をついてから返した。
「ああ、はいはい、分かりましたよ。今回は僕の負けです。そう認めざるを得ません。素人とはいえ、二七人を一人であしらうその手腕には恐れ入りました。いくら僕でもそんな芸当は無理ですから、あなたにサシで勝てるとは思えません。もう少し特訓してから出直しますよ」
掌を左右に広げるポーズでそう投げやりにまくし立ててから、こちらへ向かって歩き出した。
そして、要の横を通り過ぎていく。
しかし要は一瞬たりとも鴉間から目を離さなかった。最初に闘った時「自分に勝てたら、シオ高生へのカツアゲをやめる」なんて嘘をついたような奴だ。むやみに言動を鵜呑みにするのは危険だと思った。
そして案の定、鴉間の片足から手前へブレるような「初動」を捉えた。
振り向きざまに放たれた鋭い後ろ回し蹴りを、要は一歩退くことで紙一重で回避した。
「……相変わらず、ずっこい奴だな。お前は」
「甘いですね。これはルールで守られた安全なスポーツじゃないんだ。「はっけよい、のこった」とでも言って欲しかったんですか? ちなみに僕は転校初日で三〇人に勝ってますから、思い上がるのはよしてくださいね」
「どうしてお前は、そんなに嘘つきなんだ」
「強くて便利だからですよ、嘘って奴がね。嘘というのは、この地球上で人間だけが手にできた最高のツールだ。女が心にも無い愛を語って金持ちの男に擦り寄ったり、権力者が国民に後ろ暗い事実を隠し誤魔化したり、バカな年寄りを上手いこと騙して一攫千金を狙ったり、使い方次第ではあらゆる事に重宝するんですよ。そんな便利なアイテム、使わない手がないじゃないですか。あなたもそう思いませんか工藤要?」
「……まったくもって理解できねーし、したくもねーよ」
「善人ぶるのはよしましょうよ? あなただって嘘くらいついたことがあるはずだ。そして嘘をついたのは、たいてい本音でぶつかると面倒な時だったはず。それはつまり、あなたが心の奥底で「嘘は便利だ」と思っていることの裏付けに他ならないんですよ」
否定出来なかった。
自分だって嘘くらいついた事はある。
亜麻音に拳法をやっている事が知れると面倒だからと、今まで嘘や誤魔化しを使って隠していた。「自分は生まれてこのかた嘘なんかついたことがありません」なんて台詞を吐く気はないし、そんな資格はない。それこそ嘘なのだから。
でも――
「……お前の言うとおりかもしれない。でも、どうしても嘘をつくべきじゃないと思った時――俺はきちんと本音でぶつかってる。お前みたいに常時嘘つきってわけじゃない。一緒にするな」
そう。易宝の元で住み込む許可を得るべく、亜麻音に本音でぶつかった時のように。
嘘をつくべきでない所では、要は嘘をついたことはない。それだけは自信をもって答えられる。
しかし、鴉間はどうだろうか。
一回目の闘いの時、鴉間は約束を破るつもりだったのだ。「自分に勝てたら、シオ高生へのカツアゲをやめる」という約束を。
「約束」と言うのは、簡単に口にしていいものでも、反故にしていいものでもない。その「約束」を、こいつはバカ笑いして踏みにじったのだ。そんな奴の同類としてみなされるなど、はっきり言って不愉快以外のなにものでもない。
鴉間は笑顔のペルソナを貼り付けたような不気味な笑みを浮かべると、挑発的な口調で言い放った。
「言うようになりましたねぇ。なら、ここしばらくであなたが身につけた力の全部を、包み隠さず見せてくださいよ。ちなみに言っておきますけど、力を隠す暇なんてないですよ? 手加減なんかしたら――あなたは確実に痛い目を見るんですからねぇ!」
転瞬、鴉間は腰を一気に沈めながら全身を回転させる。まるでブレイクダンスでも踊るようなその動きを保ったまま接近し、足元を刈り取らんと低い蹴りを振り出してきた。
しかし、蹴りが要の軸足に食らいつく寸前、鴉間の片腕の像がピクリ、と小さな筋肉の蠕動を見せた。それは「初動」。つまり、これからアクションを行う証。
払い蹴りはブラフだと確信した要は、腕を迅速に構えた。
次の瞬間、まるで予定調和のように、構えた腕に重い衝撃がぶつかった。振り向きざまに放った鴉間の裏拳だった。
鴉間はさして気にも留めずといった表情ですぐに腕を引っ込め、鋭い回し蹴りを放ってきた。細いながらも無駄なく鍛え抜かれた脚部が風を切り、鞭のように迫る。
ヒットに備え、再度腕を構える。だが、直撃まであと三〇センチ弱といった間隔まで到達すると、蹴り足の下腿部がピクリと膝裏側へ跳ねたように見えた。
大腿部には見られず、下腿部にのみ発生した微細な「初動」。そして、その小さな揺らぎが偏った方向は膝裏側。これはつまり、これから下腿部を折りたたむ前兆に他ならなかった。
予想通り、鴉間の蹴り足は直撃寸前に折りたたまれた。このまま蹴りを放ったらヒットしていたであろう下腿部が引っ込んだことで、構えられた要の腕は意味をなさなくなった。
そこから素早く足を踏み換え、後ろ回し蹴りを出して来る――経験則で要はそう次の手を予想した。
だが、円弧軌道で空中を進んでいた蹴り足が突然ピタリと止まる。そしてその脚全体に「初動」を見た要は、浮かべていた予想を即座に捨て去り、大きくバックステップした。
鴉間の蹴り足が二度目の動きを見せたのは、その約半秒後だった。鋭敏に伸びてきた爪先蹴りから、要はギリギリのところで逃れた。爪先は、下腹部と薄皮一枚の間隔で止まっていた。
鴉間は足を引き寄せると、少し驚いたような眼差しを向けてきた。
「へぇ? 今のを躱すとはやりますね。あなたになら当たる手だと思ったんですが」
「あの時の俺とはもう違うんだ。甘く見てると痛い目見るぞ」
「さて、どこまでその大口が続くのか、見ものですね」
冷笑して言うと、鴉間は再び接近。一気に要のリーチ内へ侵入する。
脇に構えた拳で突いて来ようとしている仕草だったが、そんな鴉間の姿が一瞬、スローモーションのように小さく下へ揺らいで見えた。腰を落とす前に見せる「初動」だった。つまり、突き出そうとしているあの拳はブラフ。本命は下腹部、もしくは足元を狙った別の攻撃。
そう大雑把に先読みした要は迅速に足を斜め前へと進め、鴉間の側面に移動した。それによって、しゃがむように腰を沈めつつ繰り出された正拳をギリギリで回避。
鴉間は驚くほどの勢いで立ち上がると、独楽のように回転。そして遠心力のまま振り返ると同時に、肘を顔面へと打ち込みにかかってきた。
要はそれを避けるため、上体を後傾させて頭を後ろへ引いた。それがあの肘打ちを避けるための最小限の動きだからだ。無駄な回避動作による体力の消耗を忌避したがゆえの判断だった。
しかし肘打ちのリーチ外へと頭を逃がした瞬間、曲げられていた前腕部が刹那的に揺らぎを見せた。これから前腕部が動くということを示す「初動」だ。
肘が曲げられ、畳まれている状態の前腕部が取れる動きは一つしかない。それは――肘を広げて前腕部を前に伸ばすこと。
肘の射程からは外れたが、これから来るであろう前腕部のリーチ内には余裕で収まっていた。しかもこちらは、上半身を後ろへ反らしているという不安定な姿勢。体勢を立て直す時間を含めると、今からでは避けられない。
反射を逆手に取った、いやらしい攻撃方法だ。
でも、問題はない。避けられないなら、避けなきゃいいのだ。
要は両腕をボクシングよろしく立てて構える。そして、やがてやって来た裏拳を間一髪でガード。
両腕に衝撃が走ると同時に、鴉間の表情に確かな驚愕が浮かぶ。そんな表情を見るのは初めてなので、内心少しスッとした。
しかし、まだ要は止まらない。
構えられた要の両前腕部と、それらにくっつく鴉間の片腕との関係は「面」と「線」だった。要は「面」たる自身の両前腕部を鴉間の腕に接触させたまま滑らせ、するりと接近。
そしてすれ違いざま「点」へと転じる形で、鴉間の脇腹に膝蹴りを叩き込んだ。
「うぐっ……!」
眉間にシワを寄せ、苦痛で歯を食いしばる鴉間。
そこへさらに『撞拳』で追い打ちをかけようとしたが、鴉間の苦し紛れな回し蹴りが飛んできたので、やむなく後退。距離を取った。
「やってくれますね……」
蹴られた腹を押さえ、苦しげに表情を歪めながら呟く鴉間。思えば、これも初めて見る表情かもしれない。
そもそも鴉間に一撃与えられたこと自体、要は初めてだった。
ようやく自分の攻撃を、マグレではなく実力でヒットさせることができた。それだけでも、修行の苦しみが報われたと思った。
「では、遠慮なしにギアを数段階上げさせてもらいますよ!!」
再び、鴉間が疾駆。両者の距離が縮まる。
磁石に吸い付くような勢いで腰を深く沈め、自重の乗った足を軸にしてコンパスよろしく払い蹴りを放って来る。中国拳法の蹴り技『掃腿』だ。
要は後ろへ跳ねてそれを躱すが、鴉間はすぐに回転しながら腰を上げ、そのままこちらへ飛びかかって回し蹴りを仕掛けてきた。アップダウンが激しく、華麗ながら鋭いその動きに圧倒されつつも、要はかがみながら移動し蹴りを回避。
着地するや、鴉間は鋭くジグザグ歩行しながらこちらへ迫り、踏み込んだ左足と同じ側の拳で突きを放ってきた。要は体のよじりでそれを避けつつ鴉間の左隣を取るが、もう片方の右足に「初動」の発生を見る。
軸足と腰の捻りとともに振り出された、フックのような後ろ回し蹴りを要は近距離で受け止める。そして、鴉間の背中を両手で突き飛ばした。
鴉間はゴロゴロと地面を転がるが、すぐに立ち上がり、再び勢いよく向かって来た。
それからも、何度も拳を交えた。
変則的かつアクロバティックな動作から放たれる猛攻。以前の要はそれに対して為す術なくやられるのみだった。
しかし今回は違った。「初動」から次の動きや攻撃法を大雑把ながら先読みし、それを最も適切な方法で躱し、防ぎ、受け流していた。
奇影拳の中で最も恐ろしい「虚」を突く攻撃も、未だに一度も食らっていない。
「初動」を見抜くこの眼力は、鴉間の攻撃と思いのほか相性が良かった。
意識外の部位「虚」を突く奇影拳の攻撃は、確かに強力だ。だが要はアクションの直前に見せる「初動」から、相手の次の動きをある程度予測できる。つまり漠然とでも、相手が次にどの場所を打とうとしているのかが予測できれば、嫌でもそちらへ意識が行き届く。結果、その部位は「虚」ではなくなり、衝撃以上のダメージを受ける心配はなくなる。
見ると、鴉間の表情に微かながら焦りの色が浮かんでいた。額にも汗の雫が見える。
「ちょこまかとウザいですね、あなたは――!」
鴉間は苛立った口調で言うと、全身を急激に回転させ、裏拳を放ってきた。要は後ろへ下がってそれを難なく回避。
「『公牛頂貫』っ!」
鴉間は回転の勢いをさらに強めてから、体の全面がこちら側へ向いた瞬間に片膝を突き出した。そして、驚くべき速度で急加速した。
おそらく、回転で作った遠心力を膝の突き出しによって直線運動へと変換し、その力で高速推進したのだろう。ハンマー投げと同じ原理だ。
鴉間は突き出した膝と同じ側の拳を前に出しながら、一気に肉薄してきた。あの高スピードに乗せて、膝と拳を同時に打ち込む技なのだろう。
確かに速い。
でも、その「初動」を前もって見ていた要は、すでの脳内で対策の組み立てを終えていた。
拳と膝が到達する前に、要は横へと体を移動させる。
そして、高速移動する鴉間が隣に到達した瞬間、肩口から思い切り寄りかかった。
「うわぁっ!?」
移動中に横からアタックされた鴉間は、凄い勢いで地面を転げまわる。
しかし、与えられた衝撃こそ軽い。なので今まで同様迅速に立ち上がって見せた。
だがその時すでに、鴉間の懐には全身を縮こませた姿勢の要が立っていた。
後退する動作の「初動」が見える。しかしもう遅い。
縮こませた下半身と背筋を伸展させ、すぐさま踏み込む。その波打つような身体操作に拳の動きを追従させ、鴉間の腹のど真ん中へと食らいつかせた。
『浪形把』の勁力のこもった拳打をまともに食らった鴉間は、表情を大きく歪ませて苦痛をはっきり露わにした。
しかし、まだ倒れない。後方へたたらを踏んでいるだけだ。
なら、もう一発くれてやる。
地面に体重という荷を下ろすイメージで、片足を強く踏み鳴らし、地球の弾性力を得る――『震脚』。
地を蹴り、『震脚』によって倍加した瞬発力を活かして一気に鴉間へと押し迫る。
そして、急停止と同時に――『撞拳』を打ち込んだ。
「がっ――――!!」
二度目のクリーンヒットを受けた鴉間は大きく目を剥き、弾かれたように吹っ飛んだ。背中で地面をスライドし、砂煙を上げながら後ろへ流されていく。
やがて摩擦抵抗が勝り、鴉間の体は大の字で静止する。その姿を見て、要は安堵と嬉しさを同時に感じた。
一回も攻撃に当たる事なく、圧倒できている。前回とは真逆の結果だ。これが修行の成果か。
これで、ようやく終わったのか。
「…………なるほど……今のあなたの実力を支えているものの正体が分かりましたよ……」
しかし、鴉間はゆっくりと起き上がりながら、そう納得したように言った。
要は顔をしかめた。まだ立てるのか……。
鴉間は緩やか歩調でこちらへ近づきながら、
「ずっと不思議に思ってたんですよ。あなたの動きは、まるで相手の一手先の動きがあらかじめ分かっているみたいだった。でも「みたい」じゃないんですよね? あなたは人間が動作を行う直前に無意識に行う、ほんの微細な動きから次の動きを予測し、対処している。違いますか?」
「……!」
要は喉を鳴らした。こいつ、何で分かったんだ。
「「何で分かったんだ」って顔ですね。なんとなく分かるんですよ。今のあなたと全く同じ事ができる人を、一人知ってますから。しかし、こんな高等技術をこの短期間で身につけるなんて驚きですよ。なるほど、あなたは三流かもしれませんが、あなたの師は非常に優れた指導者のようだ」
でも、と区切り、鴉間は薄ら笑いを浮かべて言った。
「相手が行動する直前に無意識に行う動作が見える――"それだけ"だ。その程度では残念ながら僕には及ばない。見せてあげますよ。僕の「とっておき」を」
そして、鴉間は再び急接近し、鋭い踏み込みとともに掌打を放ってきた。
要は突然やって来たそれをなんとか受け流すが、すぐに遠心力を込めた肘が飛んでくる。が、それもガード。
それから至近距離の間合いで何度も攻防を繰り返す。攻撃のスピードは速く、なおかつ連続して休まる様子がない。だが要は鴉間の「初動」を見ながら、それらを堅実に防いでいった。
その攻防は、先ほどまでと何ら変わらないものだった。
――「とっておき」というのは、鴉間お得意のハッタリか。
そう気を抜きかけた時だった。
すぐ前に立っていた鴉間が、猿のように軽快なフットワークで大きく後退した。両者の間に、瞬時に五メートルほどの間合いが出来上がる。
そして次の瞬間、離れたはずの鴉間の姿が――自分の至近距離に"突然現れた"。
「があっ――!?」
驚く暇さえ与えられず、腹部へ重々しい一拳が突き刺さる。
地面を派手に転がり、うつ伏せになって止まる。
こみ上げてきたいがらっぽさにケホケホと咳き込みながら、要は戦慄にも似た驚愕を感じていた。
――なんだ、さっきのスピードは……!?
『公牛頂貫』など比べ物にならないほど速かった。反応が追いつかないほど、速度がずば抜けていた。
いや、「速い」という言葉では表現が不十分に思えた。加速ではなく、まるで鴉間の立ち位置だけが入れ替わったような、そんな常識ハズレな移動だったのだから。
要は混乱しながらも立ち上がろうとするが、失敗する。打たれた場所には鈍い痛みが膿のように残留していた。この痛みの正体は知っている。「虚」を突かれてしまったのだ。そのダメージが体に毒素のように蓄積されている。
それでも四肢を懸命に踏ん張らせ、ようやっと立ち上がることができた。
鴉間は格下を見るような目をこちらに向けると、鷹揚な態度で口にした。
「どうですか? 僕の『太公釣魚』の感想は?」
「太公、釣魚……今の技の名前か?」
「そうです。強靭な脚力と特殊な足さばきを組み合わせて、彼我の距離を一瞬で詰める神速の歩法。ウチの生徒と闘ってた時、あなたも何か高速移動の歩法を使ってましたね。それよりも速いですよ」
悔しいが、正解だった。さっきの鴉間のスピードは、疑うべくもなく自分の『箭歩』よりも速かった。奴は文字通りの「一瞬」で、自分に急接近してみせたのだ。
「さて、種明かしもしましたし、そろそろ行きますよ。せいぜい頑張ってあがいてくださいね!」
言うと、鴉間は要に向かって駆け出した。
要は深呼吸して冷静さを自身に課す。落ち着け。確かにあの速さは驚異だが、自分には「初動」が見えるのだ。「初動」から歩法を開始するタイミングさえ見つければ、そこが攻め所となる。落ち着いて「初動」を探すことに集中するんだ。
鴉間との距離が近くなる。そして矢継ぎ早に怒涛の連打を繰り出してきた。要はそれらを今まで通りの工程でさばいていく。さっきの一撃による痛みがまだ残っていたが、それを我慢して防御や回避に徹する。
だが、やがて鴉間は攻める手をピタリと止め、大きく後方へ下がった。
――――え?
要はその時、目に映った異常事態に呆然とさせられた。
しかしその間に鴉間は加速。そして正拳を脇腹めがけて激しくぶつけてきた。
激痛とともに、要の軽い体があっけなく弾き飛ばされた。大きく地面を滑り、仰向けで止まる。
眼前にある茜色の空を他人事のように眺めながら、思考を巡らせた。腹にとりついた痛みよりも、混乱の方が勝っていた。
どういうことだ。どうなってるんだ。
「初動」が――見えなかった。
鴉間の今までの動きには、どれも「初動」があった。しかし、さっきの『太公釣魚』にだけは、一切の「初動」が見られなかった。
見間違いではない。確かにそうだった。
一体なぜ?
そこで、鴉間が歩み寄ってきた。見透かしたような目で、こちらを俯瞰してくる。
「相手の微細な動作にまで注意が行き届くあなたの眼力は、確かに大きなアドバンテージだ。でも決して完璧じゃあない。一つだけ弱点がある。それは――練度が極めて高い技だけは先読みできないこと」
打撃を受けた腹部を踏みつけられる。痛みの上にさらに痛みが重なり、要は切歯した。
「この『太公釣魚』は、数ある僕の技の中で最も練度の高い技。技の終始の過程で動かす筋肉や骨格の動き一つ一つを徹底的に意識しながら、何千、何万回と練り上げてきた。だからこの技には研ぎ澄まされた刀のように、一切の無駄がない。つまり『太公釣魚』の身体操作に関してのみ、僕は達人レベルというわけです。ゆえに、技を行う直前に起こってしまう微細な動作すらコントロールし、隠すことが可能なんですよ」
踏みつけられた部位に、さらに圧力が加わった。悶えそうな激痛が襲ってくる。
愉悦に浸った表情で、鴉間は言い放った。
「さあどうしますか? これであなたの頼みの綱はなくなりましたよ? これからどう反撃してくれるんですか? ねぇ、答えてくださいよぉ」
「こ、の……調子に、乗るなっ」
要は自分を踏みつける足を掴もうと手を伸ばす。だが、掴む前にその足は引っ込んだ。
脇腹を蹴られ、要の体がゴロゴロと地面を転がった。
生まれたての小鹿よろしく震えながらゆっくりと立ち、『百戦不殆式』の構えを取った。
早くもダメージが積み重なってしんどくなってきたが、早くもこちらとの距離を潰してきた鴉間の姿を見て、めんどくさがっている場合じゃないと心を引き締める。
飛んでくる有象無象の攻撃をいなしながら、要は必死に考えを巡らせた。体も頭も大忙しで、煙が出そうな気分だった。
『太公釣魚』に「初動」はない。なので先読みは不可能。なら、別の攻略法を考えるしかない。
そこで着目したのが、加速前の動作だ。
どういうわけか、奴は『太公釣魚』を行う前に、大きく後ろへ下がる。要はそこが気になった。
中国拳法の技には、予想もつかない原理で使用されるものが多い。もしかすると、あの反則じみた速度を叩き出すために必要な動作かもしれない。
鴉間が後ろへ下がる瞬間を捕まえよう――そう一度は考えた。だがしつこいようだが「初動」が見えないため、動作の前触れを狙うことができない。おまけに、鴉間が退くスピードも凄まじく迅速なのだ。捕まえられる確率は低いだろう。もし失敗したら、確実に余計なダメージを被ることになる。加速した鴉間のスピードは、対応が追いつかないくらい速いのだから。
ならば、鴉間が下がったのを合図にし、別の場所へ移動して回避するしかない。一矢報いることはできないが、攻撃を受けないならそれでいい。一番堅実な手段だと思った。
そして鴉間は真正面から正拳を放ち、それを防がれると、突然弾かれたような迅速さで後退。両者間に五メートルほどのスペースが出来上がる。
今だ――要は右側へ足を進めようとした。
しかし次の瞬間、突然重心が不安定になった。
まるで下に張られていた縄に引っかかったように足元がおぼつかなくなり、為す術なく重力に押されて体が倒れていく。
なんだこれは。足元には何もない。何にもつまずいた覚えがないのに、どうして勝手に重心が崩れる? 意味が分からない――
意味不明な事態に頭を悩ませているうち、離れていた鴉間の姿が大きく視界を埋め尽くした。
「がふっ!!」
勢いのこもった鴉間の拳が、真っ直ぐ抉るように突き刺さる。
そのインパクトで再び大地を後転。だが途中に両足を着地させ、そこから転がる勢いを利用して流れるように立ち上がることができた。
しかし、痛みの蓄積がさらに増え、決して楽な状態ではなかった。少し前まで余裕のあった呼吸に乱れが生まれている。
それでも闘いを続けるべく、構えを取ろうと背筋を伸ばした。
しかし、それによって顔を上げ、前の様子が見えるようになって初めて気づいた。
鴉間の姿がない。
目の前には沈もうとしている夕焼け。しかしそれは半月のように真っ二つに見えた――当然だ。もう半分を人影が遮っていたのだから。
要は落っこちるような速さでしゃがみ込んだ。
「セヤァッ!!」
瞬刻、頭上に凶悪な風切り音が通過。虚空を舞った鴉間が回し蹴りを放ったのだ。
鴉間は放物線を描く形で、要の真後ろへと着地。そしてすぐさま内側へ曲げて硬質化させた手首「鶴頭」を横薙ぎに振ってきた。
要はそれを片腕で防御。さらにもう片方の手を拳にして『旋拳』。それを鴉間は軽やかな身のこなしで回避。すぐにその片腕の像が陽炎のようにぼやけて見えた――「初動」。
矢のように突き進んできた拳の側面に、要は腕を滑らせる。突きを真後ろへ流し、そのまま鴉間の懐へ潜り込み、そして『開拳』。
しかし鴉間はこちらの放ったストレートを手で弾き、別方向へと流す。そこから突き手側の脇腹めがけて膝蹴りをしかけてくる。だが要は突き手の肘を真下へ落とし、やって来た鴉間の膝を紙一重でガード。
そこからまた反撃するが、それも難なく躱され、すぐにカウンターがやって来る。が、また防いで反撃。
至近距離で繰り広げられる打ち合い防ぎ合い躱し合い返し合い。
要は攻撃を今までより積極的に行っていた。
今までは防御や回避の中で大きな隙を見つけ、そこへ大技を打つというスタンスだった。その方が体力の消費が少ないからだ。だが今の状況で後手に回っていては、いずれ『太公釣魚』の連続でダウンしてしまうと判断したのだ。なので相手のリーチ内に入ってどんどん攻め、ダメ押しでヒット数を増やそうという考えに切り替えた。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというやつである。
それに自分は以前やった蹴りの修行のおかげで、足さばきの器用さが上がっている。なので、矢継ぎ早な連続攻撃にも足がきちんとついてきてくれる。
作戦を変えたことで、また闘いの流れが変わると思っていた。
だが限界はすぐに来た。
不意に、ガクッ、と両膝が崩れる。マズイ。ここに来て蓄積したダメージの影響が出てしまった。
そして、そこを見逃してくれるほど、鴉間という男は慈愛に満ちていなかった。
反復横とびのように横向きに踏み込み、肘鉄。肘そのものも硬くて痛いが、「虚」を突いた一撃であったため、さらに痛みは倍加された。
しかし、後ろへ数歩たたらを踏んだだけで、なんとか倒れずには済んだ。
そこへ再び鴉間は急接近。そして、またすぐに大きく急後退。
『太公釣魚』を使う気だ。
黙って食らうわけにもいかず、要はさっきとは別に、左側へ移動しようとした。今度こそ避けてみせる。
「――!?」
しかし、またしても重心が大きく崩れた。体が重力に逆らえず、左へと傾いていく。
さっきと同じだった。なんでだ、どうして別方向に移動しようとすると重心が不安定になる!? 何かにつまづいた訳じゃないのに!
やがて、衝突。
特殊な歩法による超加速のエネルギーのこもった一拳が、深々と要の腹に食らいついた。
元々の威力の高さに加えて「虚」を突かれたからだろう。あまりの痛みに、衝撃が拳の接触面から反対側の背中まで突き抜けたような錯覚を受けた。
要の体は後方へ投げ出され、背中から地面をワンバウンド。
仰向けのまま酷い勢いで咳き込む要に向かって、鴉間は高らかな声でうそぶいた。
「どうですか、嘘の一撃は!? どんなに馬鹿正直に自分を高めても、結局あなたは僕に及ばなかった! 嘘こそ正義! 嘘を用いた不意打ちこそが最強の技! そしてその不意打ちを正々堂々とできる奇影拳こそ最高の拳法! あなたに勝てる道理は何一つないんだ! さあ、大人しく白旗を挙げてください! 所詮あなた達は、僕らが通り過ぎるのを道端に縮こまって待っている方がお似合いなんだ!」
好き勝手言ってくれる鴉間に苛立ちを覚えるが、すぐにそんな頭の熱は冷えた。
――強すぎる。
あの『太公釣魚』が一度始まったら、自分にはもう逃れる術はない。
「初動」が見えない。反応できないほどに進行速度が速い。別方向に逃げようとしてもなぜか重心が崩れて失敗する。
狙った獲物を逃さない、完璧な技のように感じた。
こんなのをどうやって相手にしろっていうんだ。
――いや。
諦めるな。
易宝や臨玉のような『高手』相手ならまだ諦めもつく。だが、こいつは『高手』じゃない。普通の人間だ。百パーセント勝てないことはないはず。
それに今でこそ追い詰められているが、『太公釣魚』を使われる前は自分がリードしていたのだ。
つまり『太公釣魚』さえ攻略してしまえば、勝機は十分にある。
『言っておくが、見ることも修行の一つだぞ。相手の動きをよく観察し、その動きに用いられる体の使い方を見破り、その上で対策を講じる。そういう戦い方だってあるんだからのう』
易宝はこう言っていた。
だから、観察しよう。
ギリギリ限界まで『太公釣魚』の動きを観察し、付け入る隙を探してみよう。
できるかは分からない。
でも、やってみよう。
やってみない以上は、失敗も成功もないのだから。
要は残り少ない体力を使って起き上がる。
そして眼前の鴉間を真っ直ぐ見据え、『百戦不殆式』の構えをとった。
鴉間は億劫そうに頭部を掻きながら、
「まだやる気ですか? もうやめた方がいいと思いますけどね。どうせ勝てないんだから」
「……やかましい。早く来い」
要がそう言い捨てると、鴉間はその場で急速回転。そして振り向きざまに片膝を突き出し、投げ出されたような勢いで推進した。『公牛頂貫』という技だ。『太公釣魚』ほどではないが、こちらもなかなか疾い。
急速に肉薄してきた鴉間。一見無謀な突撃に見えるかもしれないが、鴉間の方がこちらよりもリーチが長いので問題はない。
ぶつかってきた拳を、要は前に構えていた片腕で受け流す。そのままもう片方のの手で反撃しようと思ったが、やって来た拳に乗った力は重く、今の自分の体力ではさばくので精一杯だった。
しかし、動きはおざなりになっていても、相手を見る目だけはしっかりしていた。
――視線に全神経を注ぐんだ。奴の動きへ常に気を配れ。ありとあらゆる動作を疑え。『太公釣魚』の秘密をなんとしても探るんだ。
やがて、吐息が当たるほどまで近かった鴉間の姿が、グワッと遠ざかった。
『太公釣魚』の予備動作だ。
確かに、集中して鴉間の動きを見ていた。しかし――今の視覚から得られたものは何もなかった。いつもの『太公釣魚』だった。
くそっ、何もめぼしいものは見つからなかった。また一撃もら
――――カツッ。
「……え?」
不意に、爪先に何かが当たる感触。
思わず足元へ目を向ける。
革製カンフーシューズの爪先の延長上では、小さな石ころが勢いよく前へ転がっていた。
爪先と石ころの位置関係。そして先ほど爪先に感じた触覚。それらの状況証拠からして、自分が石ころを蹴ったということは想像に難くない。
しかし、妙だった。
自分は――足を前に進めた覚えはないのだ。
だというのに、自分の前足は前進し、その拍子に石ころを蹴っている。これはどういう――――
「ぐはっっ!!!」
思考は、腹部へ訪れた熾烈な衝撃と激痛によって中断された。
「よそ見するなんて随分余裕ですね」
派手にぶっ倒れた要を見下ろし、嘲るように言う鴉間。
腹を押さえながら、要はうずくまっていた。
痛い。今までで輪をかけて痛い。
しかし、口元は――笑っていた。
痛みと引き換えに、一つだけ得たものがあった。
先ほどの石ころについて深く考えたら、思ったよりも簡単に答えが出た。
『太公釣魚』という技の正体。
自分の予想が正しければ、もしかすると『太公釣魚』は――
「っ……こっ、の……」
要は跪いた体勢になる。そして震える四肢にありったけの力をつぎ込み、必死に立とうとする。
これが最後でいい。
ようやく、鴉間に手が届くんだ。
頼む。あと一回だけでいい。立ってくれ! 俺の体!
そして――立ち上がった。
「……嘘でしょ? まだ立つんですかぁ? いい加減しつこいですよ。もしかしてマゾの気でもある人だったりします? ちょっと気持ち悪いんですが」
驚いたような、うんざりしたような鴉間の軽口を聞き流し、構えた。前に構えた手の指先越しに、鴉間の姿を見る。
「まあいいです…………今度こそお開きにしてあげますからねっ!!」
鴉間が回転しながら視界の中で大きくなっていき、やがて後ろの風景を覆い隠した。
遠心力を込めて裏拳を打とうとする仕草だったが、全身の像が小さく下へ揺らぐような「初動」を見逃さなかった。
要は素早く数歩後退。それによって、鴉間がしゃがみながら放った払い蹴りを回避。
鴉間は回転しながら早急に腰を上げる。さらに『公牛頂貫』によってその回転力を直線運動に変え、大きな推進力を得て急迫してきた。
要は体をねじって体軸をずらし、スピードをつけてやって来た膝蹴りを闘牛士よろしく回避。
だが鴉間はすぐに踏みとどまり、機敏にこちらを振り返る。そこから一気に近づき、すくい上げるような前蹴り。
両腕をクロスさせ、その股で蹴りを受け止める要。しかしすぐに鴉間の右腕に「初動」が発生。受け止められた足でそのまま踏み込み、それと同時に放たれた右正拳。それをギリギリのタイミングで横へ弾く。
密着した間合いに立った両者。至近距離から冷笑混じりに睨めつけてくる鴉間。
そして、その鴉間の表情が、急激に遠ざかった。
――ここだ。
『太公釣魚』発動直前のこのタイミング。
ここでどうするべきかを、要は前もって考えていた。
右へ逃げる――違う。
左へ逃げる――違う。
後ろへ下がる――違う。
逃げる、躱す、防ぐという後ろ向きな選択肢は全て慮外。
ただ――――真っ直ぐ突っ込むだけでいい!
要は一本の矢となった。『箭歩』によって、あっという間に互いの間隔を狭めた。
驚愕の暇さえ与えずに、踏みとどまって『撞拳』を叩き込んだ。
「がっ――――!?」
ボールが弾むように後ろへ飛び、横に転がりながら遠ざかる。
鴉間は胎児のようにうずくまって止まると、打たれた場所を苦しげに押さえながら、
「ばっ……馬鹿な……どうして…………!?」
うろたえた口調でそう口走った。疑問文だが、誰に問いかけるでもない、うわごとのような台詞だった。
しかしそんな鴉間の言葉に、要はあえて答えた。
「――また見破ったぞ。お前の嘘を」
「なっ……なんだと……!?」
信じられない、信じたくない。そんな感情がにじみ出た声色だった。
要はそんなニュアンスを無視し、容赦なく断言した。
「お前の『太公釣魚』は、高速移動の歩法なんかじゃなかったんだ」
鴉間は大きくまぶたを開いた。そのリアクションが、図星であることを言外に表していた。
「まんまと騙されたよ。お前の言った「高速移動の歩法」っていう台詞、そして瞬間移動じみた速度で接近して見えたこと。この二つの要素がうまい具合にマッチしてたせいで、俺は本気で「高速移動の歩法」だと思い込んでた。でも本当は違った。お前は――本当は高速移動なんてしてなかったんだ」
「……っ!!」
「お前は歩法を使う前、必ず至近距離で向かい合った状態から大きく後ろに下がってたよな。あれは――俺をお前のいる方向に誘い込むためのものなんだろ? 原理は分からないけど、至近距離にいたお前が急激に後ろに離れることで、俺はお前の姿を無意識に目で追いかけていたんだ。そして、無意識に足を前に進めてたんだ。そうしてノコノコ誘導された俺を、お前は真正面から突っ込んで殴る。俺がお前に向かって移動して、お前も俺に向かって移動してた。だからこそお互い接触するのが早くなって、俺の目にはあたかもお前が凄まじい速度で迫ったように見えたんだよ」
あの石ころを蹴っ飛ばしたのも、鴉間が大きく後退した後すぐだった。
あの後退が原因で、無意識のうちに足を進めていたのだとしたら、石ころを知らぬ間に蹴っ飛ばしたことにも説明がつく。
「俺が別の方向に避けようとして失敗したのも、無意識に前に進んでたことに原因がある。そりゃバランスも崩すよ。移動中に無理矢理進む方向を変えるわけだからな。それで足がどっちつかずになって、重心が不安定になってたんだ。だったらいっそ、自分から進んで前に突っ込んでやればいいと思った。打たれることを覚悟して、いち早く距離を詰めて、お前の出鼻をくじいてやろうって考えたんだ」
鴉間の表情が、どんどん間抜けなものになっていく。
「――以上が、俺が観察して分かった『太公釣魚』の正体と、その対応策だ。訂正があるなら遠慮なく言って構わないぞ?」
毅然とした態度でそう言い放った。
「は……ははは…………はは、はははは……!!」
鴉間は顔を手で覆って不気味に笑いながら、ゆっくりと起立する。
立った後もしばらくケタケタと笑声をもらし、
「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
やがて、けたたましい咆哮を上げながら突っ込んできた。
明らかな憤怒の形相となった鴉間は、瞬く間に目の前へと到達。跳躍し、爪先蹴りを左右交互に放ってきた。
要はそれを軽々と回避。そして、着地した鴉間の間近に迫った。
両者ともにリーチ内。
鴉間はそこから逃れるべく、大きく真後ろへ退いた。それは疑いようもなく、『太公釣魚』の最初の動作だ。
しかし、
「その技はもう見飽きたんだよっ!!」
後退する鴉間に追従するように、再び距離を詰める。そして、拳を敵の体の表面に添えおいた。
鴉間は何かに感づいたように表情を歪め、さらに一歩退こうとする。
しかし、もう遅い。拳が接触した時点で、すでに「この技」は始まっているのだから。
要は渦と化した。
足底の捻り、腰の捻り、引き手による反作用力――それらの力を受けた拳がグワンッ! と勝手に前へ進む。さらにその拳にもジャイロ回転を加え、体幹で作った螺旋力をさらに極大化させる。
「――『纏渦』ッッ!!」
添えられていた要の拳は、ゼロ距離から莫大な威力と貫通力を叩き出した。
鴉間は拳の接触面から全身を凄い勢いでくの字に曲げ、大袈裟な速度で吹っ飛ぶ。水切りのように尻を地面にバウンドさせながら後ろへ進み、やがて勢いが衰えると仰向けに倒れて停止した。
濃霧のような砂煙が、倒れた鴉間の姿を覆い隠していた。
あけおめことよろッッッ(バキ風)
新年明けましておめでとうございます!
2017年最初の更新です。今回は少し長めでしたが、冗長に思ったらすみません。
今年も地道に書き進めていきますので、よろしくお願いしますです( ^∀^)




