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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第三章 水行の侵食編
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第十五話 点・線・面

 

 逃走から約三十分後。


 ようやく追っ手をまいた要は、フラフラとした足取りで易宝養生院へと到着した。


「つ……疲れた……余計な体力使わせんなよ……」


 玄関の三和土の上で、膝小僧に手を置いた中腰の体勢になりながら、息を切らせる。


 少し長く逃げればウンザリして追うのをやめてくれるだろう。それにヌマ高の連中は学生の分際で喫煙者が多いから、息が切れるのも早いに違いない――そう思っていたのだが、思いのほかヌマ高生たちはしつこく、逃げ切るのに結構な苦労を強いられた。


 易宝養生院(ここ)からかなり遠く離れた場所でようやく連中をまいた要は、目立たないように物陰から物陰へと移りながら元来た方向へ戻った。そして、現在に到る。


 そういった経緯があるため、要は早くもグロッキー状態だった。


 こんな状態で、あの苦しい修行をしなければならないのだと思うと気が滅入ってくる。これも全部、ヌマ高のせいだ。


 しかし施術室の奥からは易宝の声と、聞いたことのないしわがれた爺さんの声がセットで聞こえてくる。幸いにも、易宝は来院した患者を診ている最中のようだ。これなら、少しの間は休憩できそうだ。


 要は台所へやって来ると、鞄を床に放り出し、冷蔵庫を漁る。そこから冷えた烏龍茶の入った2リットルのボトルを取り出すと、グラスとセットでテーブルに置く。


 椅子に座ってからお茶を注ぐと、まるで半日ぶりに水へありつけた砂漠の民のようにグラスにがっつく。お茶を一気に喉の奥へと流し込んで、グラスの中身を空にした。その後も満タンに注いでは飲み干し、注いでは飲み干した。


 ボトルの中身が半分腹の中へ収まったところで、要は満足した。溶けるように全身を脱力させ、椅子にふんぞり返る。


 リビングは静かだった。聞こえるのは、壁に掛かったアナログ時計の秒針の音だけ。チクッ、チクッ、とリズミカルに時を刻んでいる。


 何もすることがないため、要は黙って座りこんでいた。だが感じているのは退屈ではない。安らぎだった。


 だが不意に、秒針の音の他に、ペタペタとフローリングを叩く音が耳に入った。その音は自分へと近づいてきていた。


 見ると、白猫のフェイフォンが小走りでこちらに来ていた。


 ぴょん、と跳ね、要の大腿部へ見事着地。足に肉球型の圧力を感じた。


「なんだよフェイフォン、かまって欲しいのか?」


 だらけた声で問いかける。


 しかし答えない(普通に考えて答える訳が無いのだが)。太腿の上でお行儀良く座りながら、ただジッとこちらを見上げているだけ。


「……ああ。こいつが欲しいのか」


 要は納得したように、それでいて呆れたように呟くと、テーブルの上にある猫用ジャーキーが入った袋を取る。その中からサラミにも似た赤黒いジャーキーを一本つまむと、近くの床へ放り投げた。


 瞬間、フェイフォンは太腿に爪と肉球が食い込むくらいの脚力でロケットよろしく飛び出し、ジャーキーを追いかけた。見事お目当てのオヤツを口でキャッチすると、夢中でほおばり始めた。


 現金な奴め。要は一人呆れ笑いを浮かべる。いつの間にか、逃げた時の疲れは癒えていた。


 そんな風に動物と馴れ合っていると、ようやく待ち人がやってきた。


「おお、カナ坊。帰ってたか」


 易宝は少し目を瞬かせ、そう言ってきた。


「おかえり。もう爺さんの治療は済んだの?」

「うむ。今日初来院なんだが、長い間引きずっていた腰痛らしくてのう、一日じゃ完治できん。あと何日か来てもらうことにしたよ」

「ふーん。それで、次の患者はもういないの?」


 易宝養生院は基本的に予約制だ。なので、その日に来る人の数は前もって分かる。


「今日はあの爺さんで最後だ。すぐにでも修行に移れるぞ」

「そっか」


 要は了承すると、立ち上がった。これから二階にある自室へ行き、練習着に着替えるつもりだ。


 そうして歩き出し、通路に立っている易宝を除けようとした瞬間、腹部に鈍痛が走った。易宝が、突然拳を突き出したのだ。


「いたっ!」


 その痛みは軽いものだった。だが拳は瞬くような速度でやってきたため、要は実際の痛み以上の衝撃を受けたような錯覚を得た。


 そして、戸惑いと非難の眼差しで易宝を見つめ、


「なにすんだよ?」

「いや、少し背中が丸まっておったから、気合いを入れてやろうと」

「そんなことしなくていいから」


 ため息のように言うと、要は易宝の横を通り過ぎてリビングを出た。











 夕空の下。


 昼間の日光の熱が未だ少し蓄積しているのか、中庭の乾いた土からは微かな熱気が昇っていた。


 そんな地を踏みながら、要と易宝は向かい合って立っていた。


「よし、では始めるぞ。まずはおぬしとわしで再び『散手』をする」


 それを聞いて、要は早くも気が滅入る思いとなった。


 他の修行もまだおぼつかない状態だが、『散手』の出来はもっと壊滅的だった。


 今まで見せた事の無い勢いと速度で、豪雨のように次々と迫る易宝の攻撃。それをいなし切れず、耐えられた最高記録はたったの四秒。ここから一分間耐え切れるようになるまで、あと数年は必要な気がしてならなかった。


 しかし、易宝は話の方向を転換し、予想外な提案をしてきた。


「――と言いたいところだが、『散手』を始める前に、ある修行を一つしてもらう」

「修行?」


 「うむ」と首肯し、易宝は続けた。


「崩陣拳だけでなく、多くの北方の名門派で使われている高級な近距離戦術だ。それを学べば、おぬしの行える攻防の幅が確実に大きく広がるだろう。そうすれば『散手』で耐えられる時間が伸びるはずだ」

「ホントか!?」


 速攻で食いついた。今の『散手』の状況をなんとかできる技術であるならば、是非ともソレを覚えたい。まさしく藁にすがる思いだった。


 易宝は軽く微笑んで頷くと、手招きしてきた。


「まずは実践してからだ。カナ坊、なんでもいい。わしに向かって何か打ってこい」


 要はやや緊張気味に頷いた。「先に打ってこい」と言ってくる所から察するに、十中八九カウンターを仕掛けてくるつもりだ。一体どんな風にやり返されるのだろうか。心の中は期待と不安に満ちていた。


 少し考えた結果、打つのは『開拳』に決定した。


 腰を落とし、動作を開始。


 地球を下へ蹴飛ばすようなイメージで後足を力強く踏み切り、それに引き手と腰の力も合わせる。それらの力が一つに合わさって、より強い(ちから)と化す。ハンマーの一振りのような重さと矢のような鋭さを兼備したその力は、踏み込みと同時に突き伸ばされた拳に行き届いた。


 渾身の正拳突き『開拳』が、腹を貫かんとばかりに易宝へ肉薄した。


 しかし、それは当たらなかった。


 易宝は体の外側から片手を薙ぎ、要の拳にパシンッ、と当てた。それによって、正拳の進行方向がずれる。

 そのまま要の突き腕に自身の腕を滑らせて進む。要の真横を陣取った。


 そして、寄りかかるようにして体当たりを仕掛けた。


 体が小さい事を差し引いても、人間は横から押されるのに弱いものだ。要の体は弾き飛ばされ、地面に横倒しとなって砂煙を巻き起こす。


 衣服に付着した砂埃をはたき落としながら立ち上がる。そんな要に、易宝はうそぶくように言った。


「これが――点・線・面の理論を用いたカウンターだ」


 言葉だけでは意味を解しかねた要は、きょとんとした顔で訊いた。


「どういうこと? 点と、線と……」

「面だ。この理論は相手との接触部位のイメージを「点」「線」「面」いずれかの図形に変えることで、攻撃を防ぎ受け流す。そして、相手の死角を取って攻めることもできる」


 易宝は「例えばっ」と意気込んで前置してから、続ける。


「さっきの『開拳』を返した時だ。わしは最初、向かって来たおぬしの拳を片手で弾いただろう? あれは「点」にあたる動きだ。掌という、長さも面積も小さめな部位で防いだ。ゆえに「点・線・面」の中で最も面積の小さい「点」が当てはまるというわけだ」


 要はうんうんと頷く。


「そしてその次。わしはおぬしが突きに使った腕の表面に、自分の腕を滑らせながら距離を詰めただろう? 腕という細長い面積を持つ部位を用いたあの動きこそ「線」だ」

「……あ!」


 ようやく合点のいった要は、パッと目を見開いて、


「じゃあ! 最後のあの体当たりは「面」ってわけだ! 体全体っていう、広くて大きい面積でぶつかりに行くわけだから!」

「ご明察。そう、これこそが「点・線・面」の理論の利用法。相手と接触した部位のイメージを、三図形のうちのどれかに入れ替えることで、攻撃も防御も回避も自由自在に行える」


 一旦言葉を区切ってから、易宝はまた「打ってこい。打撃の種類は問わん」と促してきた。


 要はそれに迷わず従い、攻撃を仕掛けた。突き、蹴り問わず、種々雑多な攻撃を。


 しかし、いずれも例外なく、皮膚上を伝うペーストのような動きで回避、受け流される。そして打ち返される。

 ある時は真横、ある時は背後、またある時は腰を深々と落として真下に逃げられ、そしてひっくり返された。

 ありとあらゆる部位と方法で、易宝は「点・線・面」を体現してみせたのだ。


 練習着が早くも土埃まみれになったところで、その実演は終わった。


「ま、こんなもんかのう。これは太極拳でも使われている優れた戦闘法だ。反撃に役立つ上にパターンが無く、応用も利く。おぬしのような華奢な背丈の者に相応しい戦い方だとは思わんか?」

「うん、これ使えるかも……」

「だろう? それじゃあ、これからおぬしにもやってもらおうか。まずはわしの構えを真似るのだ」


 こくん、と首肯する要。


 易宝は右手右足を前に出した『百戦不殆式』となる。


 要もそれに倣い、体の右半分を前に出した『百戦不殆式』の構えを取った。


 互いに右半身の体勢となって、向かい合う。


 易宝は一歩分こちらへ近づくと、前に出された要の右手甲に、自身の右手甲をくっつけた。そこで再び二人は静止する。


「何をするのさ、師父(せんせい)?」

「『鑽林手(さんりんしゅ)』という練習だ。互いに手甲を重ね合わせたこの状態は、すでに「点」の図形で接触していることになる。この「点」を起点にし、互いに自分の接触面積を「点・線・面」のいずれかに入れ替え合いながら攻防を行う。その訓練の中で「点・線・面」の概念を身につけてもらう。太極拳では「推手(すいしゅ)」、詠春拳では「黐手(チーサウ)」にあたる対人練習だ」


 要は緊張感から喉を鳴らす。易宝の手甲と触れた右手に否応なく意識が集中した。


 程なくして、易宝は動き出した。

 自身の右手で、要の右手を下へ押さえる。そこから要の右腕上に自身の右腕を滑らせながら接近。そして、その流れを維持したまま右掌底で胸を打ち、突き飛ばした――「点」から「線」、そしてまた掌という「点」に戻る。そのように攻めたのだ。

 反応が遅れてしまった要は甘んじてそれを受けてしまい、地面を仰臥するが、


「立て! まだ始まったばかりだ! その程度で音を上げるほど貧弱に育てた覚えはない!」


 易宝からそう叱咤を受け、脊髄反射のような勢いで起き上がった。


 そして再び互いの手甲を合わせて「点」を作る。そこから戦術を展開させる。


 以降は何度か受け流したりすることができたが、初めてであるためか、やはり弾き飛ばされた回数の方が多かった。


 倒されては起き。倒されては起き。起き上がりこぼしのような往復を繰り返す。


 要は、陽が西の彼方へ落ちるまで愚直に挑み続けた。











「つ、疲れた……」


 修行を終えた要は、酔っ払いのような足取りで勝手口に入り、台所へ出た。


 修行全般の疲れもそうだが、全身が痛い。『鑽林手』にて、散々打たれ転がされを繰り返したせいだ。一箇所一箇所の痛みは大したことはないが、その小さな痛覚が服のように全身を覆っているため、激痛よりも苦しい気がしないでもない。


 しかしその見返りだろうか、最後に行った『散手』の記録は良い意味で激変した。「点・線・面」の理論を用いて防御を行った結果、なんと十二秒持たせることができたのである。他人が聞いたら「たった十二秒だろ」と思うかもしれないが、要にとっては「されど十二秒」だった。それはもう嬉しかった。


 外はすっかり暗幕が落ちたような夜となっていた。壁掛け時計を見ると、時針はすでに七時を指していた。


 靴を脱いで床に上がると、いち早く屋内へ戻っていた易宝が歩み寄ってきた。彼も散々対人練習を繰り返したはずなのに、額には汗一つ見られなかった。


「ご苦労だったなカナ坊、コレでも食え」


 易宝が軽い調子で差し出してきたのは、茶褐色のキノコの切れ端だった。


 要は黙ってそれを受け取る。考えるのも億劫なほど疲れていたので、とりあえず口の中に放り込んで噛み締める。だが次の瞬間、疲れが吹っ飛ぶほどの不快感を舌に感じた。


「……うえっ、不味っ。なんだよこれ?」

「一週間白酒に漬けた霊芝(れいし)だ。疲労回復と免疫力上昇に高い効果がある。飲み込め」


 腹の奥からせり上がってくる吐き気のようなものをこらえながら、要は噛み砕いたキノコをごくんと嚥下した。その後、ふうっ、とため息をつく。 


「風呂は先に使って構わんぞ」


 易宝のその言葉に甘えて、要は風呂の準備をし始めた。











 それから、さらに一時間と少しが過ぎた後。


「おおお……!!」


 すでに入浴を終えてパジャマ姿となった要は、椅子に座りながら感嘆の声を上げた。その視線は、テーブル上に釘付けだった。


 テーブルには、色とりどりの料理が並んでいる。


 まず目につくのは、主菜である酢豚。タイヤのホイールのように広い皿の上には、小ぶりな豚肉が大量に盛られて山を形成していた。豚肉はすべて、煌々とした輝きを放つ甘酢あんにコーティングされている。


 その酢豚の周囲には、いくつかの副菜が配置されている。酢豚という恒星を中心にした太陽系を思わせる位置関係だった。


 酢豚の甘く香ばしい匂いが、リビング全体に漂っていた。その匂いに鼻腔を突かれただけで、空腹感を否応なく思い出してしまう。


 自分と向かい側の席に座る易宝に、「もう食べていい?」という問いを視線で投げかけた。


 それを察したであろう易宝は苦笑すると、


「もう食って構わんぞ」

「い、いただきます!!」


 要は脊髄反射のような勢いで箸を取り、酢豚に狙いを定めた。豚肉を一粒つまみ、口の中へ放り込み、噛み締める。


「~~~~!!」


 まともな言葉になっていない声を上げた。


 美味い。マジで美味い。


 半液状の甘酢あんに包まれているにもかかわらず、豚肉を包む(ころも)には湿り気がほとんど無い。揚げ物特有のカリッとした食感をきちんと残している。歯を通した瞬間、衣の奥から濃厚な肉汁が溢れ出し、それが甘酢あんと混ざって新しい旨みが生まれる。


 食材同士が喧嘩せず、互いの長所を活かしあったような味わいに、要はえらく感動していた。


 箸が口と皿の間を勝手に往復する。口の中に次々と酢豚が放り込まれていく。


 その様子を、作った本人である易宝は満足げに眺めていた。人一倍大食らいなこの人が、真っ先に手を付けることをせずにいる。自分にまず食べさせたいと思ってくれているのだろうか。だとしたら嬉しい。


『アフリカ諸国で大流行した「タンタロス病」の終息宣言から、今年で四年――』


 液晶テレビが流す無味乾燥なニュースをBGMに、要は料理を楽しむ。易宝も食べ始めていた。


 フェイフォンは床の隅っこで、皿に盛られたエサをしゃくしゃくと美味そうに食べている。


 ちなみにフェイフォンが来て以来、易宝は料理に使うネギ系の野菜の管理を厳重に行っているらしい。ネギ属の野菜は犬猫の赤血球を破壊してしまうため、猛毒なのだそうだ。


 料理が減るにつれて、互いの口数が増えていった。


「そういや、酢豚ってどこの料理なの? 今まで何も考えずに食ってたから、よく分かんなくて。やっぱ中華?」

「うむ。酢豚は北京料理の一つ。そして北京料理は宮廷の御膳の流れを汲む料理だ。揚げたばかりの豚肉に、素早く甘酢あんをぶっかけて絡めるという酢豚の調理法を最初に考案したのは、清朝宮廷料理人の王玉山(おう ぎょくざん)だと言われている」

「中華料理イコール北京料理、って認識でオーケー?」

「いや。中華料理には四種類あり、中国大陸の東西南北地方にそれぞれ一種類生まれている。南は広東(かんとん)料理、北はさっき言った北京料理、東は上海料理、西が四川料理。それらはいずれも味の傾向が違い、「(ナン)(ティエン)(ベイ)(シエン)(ドン)(ラー)西(シー)(スアン)」という二言で言い表せる。「南は甘く北は塩辛い、東は辛く西は酸味がある」という意味だ」


 いつの間にか、話は中華料理のうんちくへと傾いていた。


 易宝はニヤついた表情で、


「ちなみに中国では、普通は食わないようなものまで食材にすることがあるぞ。日本人からすれば異質に思えるようなものがのう」

「例えば?」

「コオロギ、セミ、沙蚕(ゴカイ)、犬、コウモリ、猿の脳みそ……」

「オーケーありがとう。もういい。やめてくれ」


 呑気に指を折ってゲテモノを列挙する易宝に対し、要は静止を促した。さっきまで旺盛だった食欲がすっかりクールダウンした。


「……どうかしてるよ。ゲテモノ食らいかっての」

「ゲテモノ食らいとは失敬な。ゲテモノの定義は時代と地域、民族によって異なる。自分たちの文化に合わんからといって、頭ごなしに異端扱いする考え方はあまりに極端で狭量だと思うぞ。合わせなくてもいいから「そういう文化」と割り切ってやるべきだ」


 易宝はしたり顔でそう述べた。


 なんだろう。言ってることは案外正しいけど、今の師父からは意地悪な気配がする。俺をからかって遊んでる時特有の気配が。


「あと、虫は栄養価的に意外とバカにできんのだぞ? あ、そうそう、むかし北京の王府井(ワンフージン)で食ったサソリ焼きなんかは歯ごたえがあって――」

「うわーーやめてくれーーーー!! 飯が食えなくなるーーーー!!」


 要はたまらず叫びを上げる。副菜のエビチリが一瞬サソリの集まりに見えた。うえっ。


 見ると、易宝は可笑しそうに笑っていた。やっぱりからかってたんだ、ちくしょう。


 要は仕返ししてやろうと思い、易宝の弱点を突くことにした。


「じゃあ何かっ? 中国じゃ、師父の大嫌いなあの「黒い虫(・・・)」も食うってのか?」


 その台詞の効果は抜群だったらしい。


 易宝はゲラゲラ笑うのをピタリとやめると、みるみるうちに表情を曇らせていき、

 

「…………昔、陝西省の市場で、食用のが売られているのを見たことがある。食う気にはなれんが」


 か細い声でそう言った。


 易宝は、まるでお通夜のように弱々しく消沈しきっていた。もしかしたら、トラウマを刺激してしまったかもしれない。


 困ったようなリアクションを期待していたのだが、少し予想外の反応だった。ここまで落ち込まれると溜飲を下げるどころか、逆に申し訳ない気分になってくる。


「……なんかゴメン」

「気にするでない……元はといえばわしが悪い」


 結局、要も一緒に気落ちするハメに。人を呪わば穴二つって本当だったんだね。


 しばらくの間、沈黙が場を支配する。


「そ、そういえばさ! この家って結構広いけど、賃貸なのか!?」


 要はその重々しい空気に耐えかね、即興で作った疑問をぶつけた。なんでもいいから、次の話の種が欲しかったのだ。


 易宝も明るい態度に戻り、話に乗ってくれた。


「いや、この家は買ったんだ。もう随分前にローンの返済は終わっておる」

「マジか? 払うの大変だったんじゃない? 師父の仕事ってあんまり儲からなそうだし」

「最後の一言には全力で文句を言ってやりたいところだが、今回は控えよう。返済はそれほど大変でもなかったぞ。前もって貯めてあった金に数年分の支払いを合わせて、簡単にケリがついた」


 嘘だろ、と目を丸くする要。


 この家は中々悪くない。見た目以上に広く、部屋数も意外と多いのだ。ローン返済にはそれなりに苦労するはずだ。


「返済が楽になるほどの額を、前もって貯め込んでたのか?」

「まあ、それもあるだろう。だが、もう一つ理由がある。この家の値段が、普通の物件よりもはるかに安価だったからだ」


 易宝はそこで一度言葉を止め、そして再び口を開いた。




「実はのう、この家にはかつて三人ほど居住者がいたが――全員この家の中で死んだらしい」




「………………は?」


 言っている意味が分からなかった。


 いや、理解はできるのだ。だが、心の中にいる現実逃避気味なもう一人の自分が「師父の言ってる意味を理解したくない」と切に叫んでいた。


 しかし易宝は、そんなもう一人の自分に現実という名のナイフを突きつけるがごとく言葉を続けた。


「――事故物件なのだ。易宝養生院(ココ)は」


 事故物件。

 居住者が何らかの理由で死亡した、いわくつきの物件。そういった事情を持つゆえ、普通の物件よりも安価に設定されているという話を聞いたことがある。


「これは近所で聞いた話なんだがのう、一人目は自殺だそうだ。十年間付き合っていた彼女を寝取られて、絶望した男が首をくくったらしい。のちにこの家の持ち主が、結婚したての若い夫婦に変わった」

「……」

「二人目は他殺だ。夫が知らない女とラブホテルから出てきたところを偶然見てしまい、妻はブチ切れ、何食わぬ顔で帰宅した夫を玄関で刺殺」

「…………」

「三人目はその妻だ。夫を刺した後、すぐに自分で自分を刺したらしい。「あなたを殺して私も死ぬ!」って感じだったんだろう」

「………………」


 次々と語られるショッキングな事案に、要はただただ呆然としていた。


 しかし、信じたくないという思いが未だ残っており、要はかすれた声で易宝に尋ねた。


「……嘘だよね? また俺のことからかってるんじゃないの」

「嘘ではない。よく調べれば、まだルミノール反応が出るんじゃないかのー?」


 きょとんとした表情でしみじみ言う易宝。嘘を言っているようには見えなかった。


 全部、本当の話なんだろう。


 そして、次の瞬間。




 ――ガチャァン!! フギャッ! フギャァァッ!! フギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!




 要とフェイフォンは同時にビクッと震えた。


 屋外から聞こえてきたのは、何かをひっくり返したような騒音。そして、猫の絶叫。


 おおかた、外で猫が喧嘩でもしているんだろう。


 そう――理屈の上ではそうだと理解できる。


 しかし、この易宝養生院の衝撃的事実を知ってしまった今、猫のヒステリックな叫び声は、感じていた恐怖をより一層引き立てる優秀なスパイスの働きをしてしまったのだ。


「何固まっとるんだ? 早く食わんとわしが全部いただくぞ」


 易宝はまるで気にする様子もなく、ホイホイと酢豚を口の中に入れていく。


「あ、うん……いただきます…………」


 軽く頷き、箸を持ち直す要。


 しかし箸を持つ要の手は、まるで長年油を差していない機械のように動きに乏しかった。






 ――その日の夜、要はよく眠れなかった。



読んで下さった皆様、ありがとうございます!


寒い。超寒い((((;゜Д゜)))))))

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