第十二話 易宝の土下座
文無しの大変さは知っているつもりだったが、今日ほどそれを痛感した日はなかった気がする。
亜麻音とケンカして家を飛び出してしまった時に財布を置いてきてしまったため、今日は昼食代も飲み物代も他人に頼りきりだった。そして、移動手段も。
電車賃や定期券もなかった要は竜胆のバイクに乗せてもらい、潮騒町まで送ってもらった。しかも親切に、目的地である易宝養生院の近くで停車してくれたのだ。
駆動音を上げながら去りゆく竜胆に声を張り上げて感謝した後、すぐに易宝養生院の中へ踏み入る。入ってすぐ出くわした易宝に家の中まで入れてもらい、リビングにあるダイニングテーブルで彼と向かい合う形で座った。
「奇影拳か……それはまた厄介な相手と出くわしたもんだ」
ここに来るまでの経緯を話し終えると、易宝は渋めな顔でそう呟いた。
「知ってるのかっ?」
「ああ知ってるとも。敵の「虚」を突く拳法だろう? わしは武術の世界に長いからの、いろんな武術を知ってるつもりだ。それに、一度してやられたことがあるしのう」
「してやられた……?」
「負けたということだ。一度だけな」
要は思わずテーブルに身を乗り出した。
「嘘だろ!? 師父が負けるほどの拳法だってのか!?」
「いや、門派の問題じゃない。その使い手が異常だったんだ」
「使い手?」
易宝は一度首肯すると、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「名前は紅森嵐。奇影拳始まって以来の逸材と形容されるほどの使い手でのう、わずか十五歳で『高手』の境地へと到った才媛だ。森嵐の身法と虚実の功夫は人外の域に達している。奴の姿はしっかりとそこにあるのに、どういうわけかいくら殴りかかっても擦りもしない。その上、奴はその場から一歩も動いていないときたもんだ。実像が見えても全く触れることが出来ず、まるで烟を相手に戦っているかのよう。そのことから奴は「烟姫」などと呼ばれている。あのババアは見た目こそ女子大生と大差ないが、二・二六事件が起きた辺りの年に生まれたからのう。その実年齢は推して知るべしだ」
今度は椅子から転げ落ちそうになった。
中学時代にやった歴史の授業を振り返る。二・二六事件が起きたのは1936年だったはず。ということは紅森嵐女史の年齢は…………うわ。数えたくねー。
要は現実逃避気味に思考を切り替え、本題に戻った。
「てことは、その人が鴉間の師匠なのか?」
「いや、それはないだろうよ。森嵐のババアは今日本にはいないし、最近来たという情報も聞いていない。それに一口に奇影拳と言っても、習得しているのは森嵐だけではない。奴以外にも身につけている人間が多くいる。教えたのは他の者だろうよ」
そこで易宝は複雑そうな、それでいて興味深そうな表情となってブツブツと呟く。
「だが『五行社』か…………五人揃ってその一人一人に元素の称号、そこまではまあよくあることだが……拳法も身に付けていたとはのう。カナ坊の予想が的中か。これはちょっと偶然とは思えなくなってきた……その「水」の鴉間っての以外の四人も、同じように拳法を心得とるかもしれんな」
「やっぱり、そうなのか?」
「まだ本当かは分からん。だが可能性は決して否めない。だとすると、そいつらに拳を教えている連中がいるはずだ。しかし一体誰が…………」
易宝はおとがいに手を当てて考え込むが、しばらくすると「やめたやめた!」と放り出すように言ってから、
「情報が少なすぎて何も思い浮かばん。そんなことをいちいち考え込んでいても仕方あるまい。それよりも――本題に入ろうか」
こちらを直視してくる易宝。
「カナ坊――おぬしはわしに何をして欲しい? 電車賃もないのに無理してここまで来たんだ、わしに急な用事があると考えるのが自然だろう? それを話してみろ」
その眼差しは普段通りの沈着な調子に見える。少なくとも夕方に尋ねられて迷惑そうな感じではなかった。
そのため、要は多少楽な気分で切り出すことができた。
「――新しい修行がしたい」
そんな答えに対し、易宝は落ち着き払った調子を崩さぬまま、
「新しい修行、とな?」
「そうさ。師父、あんた前に言ってたよな。崩陣拳には数多くの実戦技法があるって。それを教えて欲しいんだ」
できる限りの真剣な態度と口調でそう頼みにかかる。
易宝は頬杖をついてしばし黙りこくると、再度発言した。
「……今のままの修行じゃ、ダメなのか?」
「……悪いけど、ダメなんだ。俺は今まで心のどこかで、自分の事を強いと思い込んでたのかもしれない。でも違ったんだ。鴉間に負けて、成長した竜胆を見て、俺は改めて自分の無力を思い知った。『五行社』はたった五人だけだけど、一人一人がめちゃくちゃ強いって話だ。つまり、全員が鴉間と同レベルか、もしくはそれ以上ってことになる。鴉間は言ってた。俺と「土」じゃ、月とスッポンもいいところだって」
今でも鮮明に思い出せる。自分を踏みにじりながら、愉悦に浸った笑みを見せて見下ろしてくる鴉間の姿を。
思い出すたびに、奴に対する怒り、恥辱が再燃する。
けど、自分は仕返しがしたいんじゃない。無論、そうしたいっていう気持ちが全く無いといったら嘘になる。でも違うんだ。理由はもっと他にある。
「――もしまた『五行社』の中の誰かが攻めてきたら、今の自分じゃどうしようもない。ただやられるだけだ。それに、そんなんじゃ自分以外の誰かが襲われたとしても、それを見てることしかできなくなっちまう。だから、今よりもっと強くなりたい。自分で自分を守ることができて、その前提で、誰かを助けられるくらいの力が欲しいんだ」
要は思いの丈を、すべて易宝にぶつけた。
それを聞くと、易宝は腕を組み、考え込むようなすまし顔で再び沈黙する。
そんな彼をジッと見つめながら、同じく沈黙して答えを待つ。
壁掛け時計の秒針の進む音が、今はやけに大きく聞こえる。自身の脈拍もはっきりと感じられる。
しばらくすると、易宝がその沈黙を破った。
「……カナ坊、『三宝拳』をやってみせろ」
唐突な要求に、要は目を丸くしながら、
「え、どうして」
「実戦技法は『三宝拳』の修練によって「展」「撞」「旋」の功夫を十分につけてからでないと身につくものではない。実戦技法はその三つの発力を応用した身体操作を行うからのう。だから今からおぬしの「三つの力」の功夫を見てやる。新たな修行を行うかはその功夫次第だ。だからやるんだ」
有無を言わさぬ口調でそう命ずる易宝。
要は一度考えるのをやめて、言うとおりにすることにした。
リビングの細長く開けたスペースの端に立つ。
両足を揃え、呼吸を一度整える。
自分の力量を確かめるための演武である以上、やるからには手を抜かずに全力で行う。つまり、普段の修行とやることは何ら変わらない。でも今回は緊張する。なにせこの表演の如何によって、新たな修行に入れるか否かが決まるのだから。
しかし、気にするだけ取り越し苦労だと感じ、すぐに思考を停止させた。功夫を品定めする易宝の目は誤魔化しようがない。自分とは年季が違うのだ。ならば小細工無しに全力で拳を打つしかないだろう。
奥歯を噛み締めて覇気と緊張感を生み出し、要は演武を開始した。
下半身と腰背部を縮め、それらを一気に同時伸展させて放つアッパーカット――『展拳』。
後足の瞬発による加速状態から、一気に踏みとどまると同時に放つ正拳――『撞拳』。
両足底の捻りと「通背」を同時に行う事で強力な旋回力を生み出し、それによって打つ逆突き――『旋拳』。
飽きるほど修練してきたその三つを、全身全霊をもって打拳してみせた。たった三手しか技を出していないはずなのに、額から汗が流れている。
要はおずおずと易宝に目を向けた。
満足げでもなければ、落胆した様子でもなかった。ただただフリーズドライのような無表情。
そんな彼の表情に、要はある意味落胆の態度をとられる以上の不安感を感じていた。
額から流れた汗が頬を伝って顎先に到達し、やがて雫となって落下する。
それが床に落ちるのとほぼ同時に――易宝は相好を崩した。
「――很好。ギリギリセーフって感じだが、とりあえずは及第点だ」
手を叩きながら、そう賞賛してくる。
そのリアクションを見て、要もまた顔をほころばせた。
「そ、それじゃあ!?」
易宝はコクリと首肯してから、
「うむ。おぬしの要望通り、明日より実戦技法の修行に入ってやる」
「やったぁーー!」
要は柄にもなく大はしゃぎする。
そんな自分を見ながら、易宝は何かを逡巡するような仕草をしていた。
要もまたそんな彼の様子に気がつくと、はしゃぐのを一旦止めた。
「師父?」
「あー、カナ坊……モノは相談なんだが……」
易宝は言いにくそうに頭をしきりに掻く。
要は何が言いたいのだろうと小首をかしげるが、やがて易宝はこう口にしてきた。
「よかったらおぬし――今日から易宝養生院に住み込まんか?」
予想外なその台詞を聞いて一度ぽかんとする。
だが要はすぐに正気に戻って真意を問うた。
「え……どうしてまたそんなことを?」
「その方が手ほどきをしてやれる時間が増えるからだ。昔の中国の金持ちは、武術の名人を自宅の一室に住まわせて衣食住を提供し、その対価として昼夜を問わずマンツーマンの武術の指導を行わせた。その場合、一日の多くの時間を指導者有りの修行に費やすことができるというわけだ。師と寝食を共にしているというのは大きなアドバンテージだ。それだけ指導してもらえる時間が増えるからのう。鶏が鳴き始める時間に起きて拳を練り、そして寝る前の数時間にまた修行する。これは一人でもできることだが、そこに要所要所で手直しをしてくれる指導者がそばにいるのといないのでは、進歩のスピードがダンチで違う。そして、そういう方法で達人になった者は数多い。斯く言うわしも昔、そのような形で武術を身につけてきたんだ」
易宝は笑いかけ、再度持ちかけて来た。
「だからカナ坊、おぬしさえよければ、それと同じことをやっても構わんのだぞ? 無論、必ずしもそうしろとは言わんが、住み込むことで指導してやれる時間が増えれば、おぬしの上達も自ずと早くなるだろうよ。さあ、どうする?」
要はしばし考える。
確かにその方法ならば、手っ取り早く上達することができるだろう。
今まで自分が修行できていた時間はせいぜい放課後くらいだった。そこに早朝や就寝前の時間が練習時間として加えられるなら、練習量は相当なものとなる。その分、成長スピードも上がるだろう。
きっと鴉間はこれから先も、ヌマ高生を使ってシオ高生相手に横暴を働くかもしれない。
いや――絶対に働く。
奴は自分を勝手に「ヒーロー」などと形容していた。そしてその存在が、シオ高生に手を出そうとする連中への抑止力になるかもしれないと。
ならば、鴉間はそんな存在を敗った事を、今頃この海線堺市中に触れ回っているに違いない。シオ高のヒーロー的存在を負かした人物がバックにいるのだと思えば、『五行社』の傘下のグループはシオ高生を襲うことに二の足を踏まなくなる。カツアゲ被害者がこれからも増え続けることとなるだろう。
ならば早く強くなって、鴉間をとっとと黙らせなければなるまい。
そしてそのためには、修行の時間が放課後だけというのはいささか心もとない。もっと指南を受けられる時間を増やす必要がある。
なので、ここは易宝の提案に乗る方が利口というものだ。
でも――
「ごめん、師父……そうしたいのはヤマヤマだけど、それは無理だ」
そう、無理なのだ。
その理由は、ひとえに自分の家の事情にある。
要は――母親の童顔を真っ先に思い浮かべた。
父さんがOKをくれる可能性はあるだろうが、問題は母さんだ。
亜麻音は武道や格闘技といったものを野蛮だ可愛くないと嫌っている。息子がそういったものに入れ込んでいて、おまけにそのために他所の家に泊まり込みだなんて、絶対に反対するに決まってる。
おまけに今はケンカ中であり、なおかつ亜麻音は一度怒ると後を引くタイプだ。余計に許しを得られる確率は低くなるだろう。
「……「そうしたいのはヤマヤマだけど」という文脈があるということは、本当はそうしたいのか?」
「うん。それで手っ取り早く強くなれるなら…………でも」
「それができない理由が、あるのか?」
易宝のその問いかけには「話してみろ」というニュアンスも込められているような気がした。なので要は、彼の提案に乗れない理由を丁寧に説明した。
聞き終えると、易宝は顎に手を当てて考えるポーズをとる。
そしてしばらくすると勢いよく椅子から立ち上がり、
「よし。それじゃ――今から許しを貰いに行こうじゃないか」
そんなことをのたまってきた。
……その言葉の意味は分かっていた。
だが信じられない、信じたくないという思いから、要は現実逃避気味に発言の意味を問うた。
「い、行くって、どこに…………?」
「決まってるだろう。おぬしの家だ」
こちらの気持ちなど知る由もなく、易宝はあっさりと言ってくれちゃった。
「い、いや! 無理だろ! 母さんすっげー頑固なんだぞ!? 折れてくれるとは思えない!」
「なるほど。おぬしに似てるのう」
「茶化すなっての! とにかく無理だ! 住み込む話に頷く頷かない以前に、俺が「実は拳法やってます」って伝えた瞬間から「そんなものやめなさいカナちゃん!」って即答される未来が見えるようだよ!」
まくし立てる要の肩に、易宝はそっと手を置き、
「大丈夫だよ。親ってのはどんなに口やかましかったとしても、心の奥底では結局、子供の好きなように生きさせたいって思ってるもんだ」
「本当かよ……」と、要は胡乱げに眉をひそめる。
「本当だとも。幼少期、わしがひどく病弱だったことは知ってるだろう? そんなわしが崩陣拳を学ぶ事を、両親は最初えらく反対した。だが結局、二人はわしの思う通りにさせてくれたよ。親ってのは本来そういうもんだ。どれだけ口では文句を言ってても、子供には自分の意思で、望んだ生き方をさせてやりたいといつだって考えている。だからきっと大丈夫だ。話せば分かってくれる」
それに、と前置しつつ、易宝はやんわり笑って続けた。
「まだ親御さんに、崩陣拳をやっている事すら話してないんだろう? いい機会ではないか。それを告白した上で、自分の明確な意思をぶつけてみるといい。俺はどうしても崩陣拳がしたいんだ! ってな」
反論する気も失せかけ、こうべを垂れながらため息をつく要の頭頂部に、易宝の手がポンと置かれる。
「安心しろ。一人で行かせるわけじゃない――わしも一緒に行ってやる」
要はギョッとし、凄い勢いで顔を上げた。
「ええええ!? なんで師父まで来るんだよ!?」
「これからおぬしの家に行く目的は、あくまで住み込みの了解を得ることだ。ならば、その住み込み先の人間も一度顔を見せておくのが礼儀というものだろうよ」
ひひひと笑うと、易宝は要の頭に乗せた手をぐしぐしかき回しながら、
「……というわけだ。一緒に説得頑張ろうじゃないか」
易宝の中では、行くことがもはや決定事項になっているようだった。
要は再びため息が出そうな気分だったが、ふと考えた。
自分は今よりも強くなりたい。そしてそのためには、一日の多くの時間を修行に費やせる住み込みの修行が最善だろう。その方が手っ取り早く強くなれるし、そうなれば比較的すぐに『五行社』に対抗できるだろう。
ならば、母親の顔色を伺って、簡単に諦めていいものなのか?
いいわけがない。
それなら、説得を頑張ってみるのもいいかもしれない。
「親はどんなに口うるさくても、本心では子供に好きな生き方をして欲しいものだ」そんな易宝の言葉を信じて――
「そんなものやめなさいカナちゃん!」
もしかして、自分は予知能力者かもしれない――そんな阿呆な事を一瞬だが本気で考えたのは今が初めてだった。
日が落ちかけた時間帯、要と易宝は工藤家の玄関の三和土に立っていた。
段差を登って家の中側には、少し困った顔をしている父、良樹と――烈火のごとくという形容詞がよく似合う憤怒の形相をした母、亜麻音だった。
易宝を引き連れて電車で淡水町まで来た要は(交通費は易宝持ち)、すぐに自宅へとやってきた。駅から家までは比較的近い距離なので時間はかからないはずなのだが、緊張していたせいか、いつもより長い時間に感じられた。
玄関口に入るや、声量を上げて父と母の名を呼ぶと、両者とも二つ返事で来てくれた。
要は「大事な話があるんだ」と重々しく前置きをしてから、すべて話した。崩陣拳という拳法のこと。それを隣に立つ師から教わっていること。拳法を通じて色々な騒動に巻き込まれたこと。誘拐事件もその一つであること。そして、それらをいままで隠し続けてきたこと。
それらすべてを残さず吐露した上で、要は隣の易宝を手で示しながら両親――特に亜麻音――に請うた。「もっと凄い修行がしたい。だからこの人の家に住み込むことを許して欲しい」と。
そして結果は――さっきの一言である。
亜麻音は住み込んで修行する事に対する許可不許可という点を通り越して、拳法そのものの継続に対して不許可と言い放ってきたのだ。
「親はどんなに口うるさくても――」という易宝の持論をひとまず信じていた要は「師父の嘘つき!」と叫びたい衝動に駆られた。ほら見ろ。俺は真剣に話したつもりだ。なのにこの通り速攻で拒否られたぞ。
「ママに隠れて拳法だか武術だかなんていう、可愛くなくて痛くて危ないものに手を染めてたってだけでも許せないのに……その上、他所の家に住み込むですって!? そんなこと許せるわけないでしょ!」
亜麻音は固く握った拳を震わせながら、そう火を噴くように発した。
「いや、手を染めるって……なんか悪いことしたみたいじゃんか」
「したじゃない悪いことっ! 危ない事件に巻き込まれたこと親に黙ってるなんて、悪いことじゃなくてなんだっていうのっ!?」
その点については返す言葉も無い。せめて誘拐事件のことは話しておくべきだったかもしれない。
亜麻音は視線を要から易宝に切り替えると、キッと柳眉を逆立てて吐き捨てた。
「っ……あなたもっ! この子にロクでもないこと教えないでください! はっきり言ってすごく迷惑なんです! もう金輪際カナちゃんに近づかないで!」
要は母の視線から易宝を庇うように割って入り、
「おい母さん、そんな言い方ないだろ! この人に弟子入りしたのも、いろんな事を隠してたのも、全部俺が自分の意思でやったことなんだ! 師父を腐すのはお門違いってやつじゃないのか!?」
「カナちゃんは黙ってなさい!!」
そう怒号を発してから、亜麻音は要の肩口を通して易宝の顔を再度睨んだ。
「劉さんと仰いましたね。あなたは見て分かりませんかっ? この子はこんなに体が小さいんです! 格闘技なんて向いてると思いますかっ!?」
「……おっしゃられずとも、彼が普通よりも小柄であるということは重々承知しております。しかし、彼が望んでわしに手を伸ばしたのもまた事実。わしはそれを尊重したかったのです」
「詭弁よそんなのッ」
唾棄するように言う亜麻音。
母の怒り様はまさしく憤懣やるかたないといった感じだった。すでに莫大な怒りを吐き出しているが、なおもまだ内に溜まった怒気に余裕がある。こんな怒り様は滅多に見ない。
亜麻音がここまで憤慨している理由はおそらく、拳法をやっていたからというものだけではない。
拳法を始める前に「今日から拳法やりたい」と言っていたなら、ここまで派手な噴火は見せなかったかもしれない。そうなってしまった最大の問題は、拳法のことや、それに通ずるあらゆる事情を隠し続けてきたことだ。
「拳法をやっている」という小さな火種に「それ以外にもいろんな事を隠していた」という燃料がぶちまけられた結果が、今のこの爆発ぶりなのだ。
心配かけたくない、お小言をもらいたくないと保身に走った結果がこれだ。それを思った途端、心の奥底から罪悪感のようなものが湧き出した。
しかし、だからといって諦めることなどできない。
要はなおも食い下がった。
「頼む母さん! 住み込んでの修行を許してくれ!」
「ダメ!」
「お願いだ!」
「ダメっ!」
「頼む!」
「ダメったらダメ!」
群がる虫を払うように拒否を連ねてから、亜麻音はさっきとは違った柔和な表情と声色で言ってきた。
「今朝、カナちゃん言ったよね? 「母さんは俺を思い通りにしたいだけなんだ」って。実はそれ、あんまり間違いじゃないの。あたしはできるなら、カナちゃんを思い通りにしたい。危ない目にあわないようにコントロールしたい。だって――カナちゃんが心配なんだもん」
亜麻音は要の背中に両手を回し、その体を抱きしめた。
嗅ぎ慣れた、ミルクのような母の匂いに包まれ、否応なしに心が沈静していく。
「……母さん」
「カナちゃん……あなたはあたしが「家」を捨ててまで産んだ大事な宝物。いつだって心配してるんだからね」
その時、要は思った――その言い方は卑怯だ、と。
見ると、良樹は疲れたような微笑みを浮かべていた。
父にとっても無関係な事情ではないので、その反応は当然かもしれなかった。
「家」というのは、亜麻音の実家の事である。いや――「元・実家」か。
亜麻音は元々、名家の娘だった。
今なお政界に太いパイプを持つ祖父を絶対君主とし、多くの優秀な人材を輩出して社会に貢献してきた名家。亜麻音はその家に次女として名を連ね、そして斯くあれと身を修めることを強いられていた。
しかし女子大に入学して間もない頃、良樹と出会った。そして恋に落ち、逢瀬の過程で彼の子供を身ごもった。
時代錯誤にも血統を重んじていた祖父はそれを知るや怒り狂い、「堕ろした上でその男と手を切れ。それができなければ家と縁を切れ」という非情な二者択一を迫ってきた。
今まで親の言う事に唯々諾々であったが、お腹に子を宿したことで母親としての意識に目覚め、それがいつの間にか親への忠誠心に勝っていた。ゆえに亜麻音は後者を選んだ。
その後、家を出て良樹と入籍し、一緒に暮らすようになる。
そして、一人息子である要を無事出産した。
――この話は、要が中学に上がって間もない頃に初めて聞かされたものだった。
亜麻音は今でこそロマンティックな昔話とばかりにうっとり顔で話すが、要はそれが凄い話に思えていた。
今まで一緒だった家族と手を切ってまで自分を産もうと思ったのだ。その覚悟は決して半端なものではないだろう。
そしてその覚悟の強さは、そのまま要に対する愛情の強さにもなる。
だからこそ過剰に心配し、いちいち口うるさく干渉したがる。「拳法なんて可愛くないわ!」なんていう理由だけでここまでヒートアップしたりはしないはずだ。
そして、それは要も承知しているつもりだった。
――でも。それでも。
要は今なお自分を抱きしめる亜麻音の両肩を掴み、間近でその顔を見ながら言った。
「――母さん、頼む。俺に拳法を続けさせてくれ。それでもって、住み込むことも許して欲しい」
途端、亜麻音はひどく切なそうに表情を歪めた。
それを見て心が痛みながらも、要はなおも言葉を重ねた。
「勝手な事言ってるのは分かってる。でもお願いだ。ここでやらなかったら、俺は一生後悔することになる」
「…………カナちゃん」
亜麻音がそうかすれた声を漏らした時だった。
「――わしからもお願いするッ!」
覇気のこもった易宝の声が突然真後ろから耳に入り、要はビクッとする。
次いで聞こえてきたのは、衣擦れを含んだバタバタと倒れるような音。
亜麻音の背中側に立つ良樹の顔が、その音がする方向を見て驚愕を帯びた。
本気で驚く父の顔を見るのは本日二回目だ。そのインパクトに惹かれた要は良樹の視線を追う形で後ろを振り返り――我が目を疑った。
なんと、易宝が土下座していたのだ。
手と頭がしっかりと三和土に付き、背中のラインが地面と並行になるほどの低い姿勢。
要が決して似合わないと思っていたポーズを、易宝はすすんでやっていたのだ。それも、土下座のお手本とも呼べるような整然さで。
「ちょっと師父、何やってんだよ!?」
要は声を荒げるが、易宝はそれを無視して再度口を開いた。
「手前勝手だということは承知している! しかし、この子は本気で強くなりたいと思い、わしに相談を持ちかけてきた! それは誰にどう言われたからではない、この子自身が真剣に考えて決めたことだ! ゆえにどうか何卒、この子の考えを尊重してやってはくださらんか!? 何卒っ!」
そう言って、頭を伏す力をさらに強める。
良樹だけでなく、亜麻音もそんな彼を見て目を皿にしていた。
要も言うまでもなく同様の表情だった。しかしそれでいて、ある種の感動のようなものが胸に湧き出していた。
初対面の人間が、突然土下座などという大それた事をしてくる。普通の人がそれを目の当たりにすれば「頭のおかしい奴」と取ることだろう。
それに土下座というポーズ自体も屈辱的なものだ。
しかし易宝はそんなことには一切構わず、能動的にそのポーズを行ったのだ。
そんな彼の行動から、自分に武術を教えることへの真摯さを痛いほど感じた。
両親の吃驚の表情も「こいつ頭おかしいんじゃないか」という薄気味悪さを秘めたものではなかった。眩しいものを見るような気持ちが、微かにだが感じられた。要にはそういうふうに見えたのだ。
しばしの間、無音無声が続いた。
そして、そんな空気を真っ先に揺さぶったのは良樹の穏やかな声だった。
「――亜麻音ちゃん。許してあげようよ」
要は脊髄反射で良樹の顔を見る。口元には微笑を作り、瞳には清い光が灯っていた。
亜麻音も良樹の方を振り向くと、やや非難がましい声で、
「よっくん!? カナちゃんが痛い目にあうかもしれないのよっ?」
「でもそれは劉さんの言うとおり、要が自分で決めた事だよ。なら、その通りにさせてあげるのが親の仕事だと思うな。それに――」
良樹はにっこりと笑いながら、亜麻音に言った。
「親の言う事を聞かなかったのは――亜麻音ちゃんだって一緒じゃないか」
それが殺し文句となったのだろう。
再燃しかけていた亜麻音の噴気が、しぼむように沈静化していく。
そして、頭を垂らし、再度押し黙った。
前髪がカーテンのようになっていて、その表情が見えない。
要は固唾を呑んで、そんな亜麻音を注視する。自分だけじゃない。良樹も易宝も同じように彼女を見ていた。
彼女の次に発する言葉が、今回の話の結論となる。なぜかそんな気がした。
ジッと待ち続ける。
そして、亜麻音はようやく待ちわびた二の句を発した。
「――いいわよ、やっちゃいなさいっ」
投げやりな態度で放たれた言葉。
しかし今の要には、それがこの世のどんな音よりも素晴らしい響きを持って聞こえてきた。
要と易宝は、同時に表情を明るくした。
「いいの、母さん!?」
亜麻音は唇を尖らせ、愚痴るように言った。
「だって、カナちゃんってば顔だけじゃなくて、頑固なところもあたしにそっくりなんだもん。今日反対しても、その後また何度も食い下がってくるに決まってるんだから。しょうがないので特別に許可します。今日からでも住み込んじゃって結構です」
「ぃやったーーー!!」
要は歓喜しながら易宝の元へ駆け寄り、興奮のまま互いに手を叩き合った。易宝も笑いながらそれに応じてくれた。
そんな要に、人差し指を立てた亜麻音が「た・だ・し」と前置きしてから、釘を刺すように告げてきた。
「条件が一つだけあります。毎週の土曜日と日曜日、この日は必ず帰って来て家で寝泊りすること。今日は許すけど、来週からはそうしなさい。いいわねっ?」
「はいっ!!」
要は過剰なまでに声を張り上げて返事する。
易宝はその隣に立ち、「感謝する」と告げてから深々と会釈した。
――こうして本日より、要の住み込みの練拳が始まったのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
さて、とうとうやってまいりました。武術モノ恒例の住み込み修行タイム。
ニワトリが鳴き始める時間に叩き起こされて修行し、そして寝る前にまた修行する。
中国の達人の多くは、このような形で練習をしていたそう。早起きが得意じゃない自分にとっては浮世離れした話に聞こえます……
さて、この作品の話に移りたいと思います。
ここ一カ月の間にupした七話〜十二話は、第三章の「承」にあたる部分となります。
そこまで書けてようやくひと段落ついた気分になりましたので、崩陣拳の執筆は少しの間休んで他の作品を進めたいと思います。
次からはいよいよ新しい修行に入ります。
新たな技や戦闘理論が続々登場する予定です。
どうか待っててやってください( ̄∇ ̄)




