第九話 予期せぬ再会
その後、今まで遠巻きに見ていたヌマ高生たちが雪崩のように迫って来た。
これから散々殴られ蹴られを受けるものだと思い、身を縮めて筋肉を硬直させたが、予想に反してそうはならなかった。
鴉間が「袋叩きはもう少し我慢してください。あと一つやりたい事があります」と言って制したのだ。その上で要を地面に押さえつけるよう指示を出し、ヌマ高生たちはそれに従って迅速に動いた。
そして現在、要は左右の手足を押さえられた状態で、コンクリートの上に仰向けに寝かされていた。
「……何をする気だ」
緊張した表情で、鴉間を睨み上げる要。
すぐ袋叩きにしようとせず、制圧するという消極的な対応しかしない連中のやり方に、要はかえって不安と不気味さを感じていた。
ヌマ高生のことだ。これで終わるとは思えない。これから袋叩きよりももっとえげつない事をする可能性がある。押さえつけるだけで何もしてこない今の状態が、まるで嵐の前の静けさのように感じられた。
鴉間は相変わらず考えの読めない冷笑を浮かべ、こちらを見下ろしながら返した。
「なに、とっても「イイ事」ですよ。もう少し待っててください」
そのぼかした言い方が、不安を助長させる。
体重をかけているのか、ヌマ高生たちが拘束するこちらの手足には強い圧力がかかっている。これでは解けそうにない。要は歯噛みした。
一体、こいつらは何をしようとしているんだ。
そういえば――と、要はあることを思い出す。
他のヌマ高生が自分を押さえつけ始めている最中、鴉間が岩国と何やら話している姿が見えた。話の内容は他のヌマ高生たちの騒ぐ声が邪魔でよく聞こえなかったが、岩国はその会話が終わると、廃工場の奥へと小走りで消えていった。おそらく、鴉間に何かそそのかされたのだろう。ロクなことじゃないのは疑うべくもない。
きっともうすぐ、自分の身に何かとてつもなく良くない事が起こる。その予感はもはや確信めいている気がしてならなかった。
しばらくすると、
「あったッスよ鴉間さん! コレ!」
少し遠くから岩国の声が聞こえてきた。
よたよたとした足並みで近づいてくる岩国が両手に持っていたのは、どこから持ってきたのか、苔むした建築用のコンクリートブロックだった。
予想の斜め上を行く連中の行動に、要はますます胸中に混乱をきたした。
やがて岩国がこちらに到着。深いため息をつくと同時にコンクリートブロックをゴトン、と落とすように地面へ置いた。
「ご苦労様です。あと、このブロックを工藤要の右腕の下に敷いてくれませんか」
鴉間はそう言うとブロックを蹴って、要の右腕を押さえている男の元へ転がして送り届けた。あの重そうなブロックをまるでダンボール同然に蹴り転がしたその脚力に、要は少なからず驚きを見せた。
右腕が浮き上がったかと思ったら、右肘の下にブロックが敷かれ、その上から再び体重をかけて押さえつけられる。右肩の辺りだけが不自然に持ち上がった、中途半端な寝姿勢を強いられた。
――まさか。
右腕をわざわざブロックに乗せた理由を、要は容易に推測できた……できてしまった。
そして鴉間は、立てていたその予想に違わぬ台詞を口にした。
「さて岩国さん、お待ち遠様。ようやくあなたに出番ですよ。今からあなたに――工藤要の右腕をへし折る権利を与えましょう」
それを聞いた瞬間、総毛立った。
岩国は一度目を丸くするが、すぐに愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、
「っへへ……いいんスか、鴉間さん? 俺、容赦しませんぜ?」
「構いませんよ。積年の恨みを足裏に込めて、思いっきりのしかかってあげてください。そうすれば工藤要もいい声で喜んでくれますよ」
「……っしゃぁ! アザース!」
岩国は両腕を振りながらエキサイトし始めた。
「や、やめろバカ! 離せ! 離せぇっ!!」
要は恐慌し、叫び声を上げながら暴れだす。一度は拘束にぐらつきが生じるが、四肢を押さえているヌマ高生がさらに力を入れてのしかかって来たので、再び動けなくなってしまう。
だが、なおも声を張り上げ続けた。
「離せっ、鴉間ぁぁーーーー!!」
「鴉間「さん」だろぉが、このボケ!!」
そんな岩国の怒号とともに、右脇腹に蹴りを入れられた。
痛みで歯を食いしばりながら岩国を見上げる。口端を歪め、舐めるような目でこちらを俯瞰していた。
「――ひと月くらい前だったか。テメーにゃ随分恥かかされたぜ。俺含めたヌマ高の精鋭がたった一人のチビガキにいいようにされたって事実が知れ渡って以来、伝統あるヌマ高の威厳がすっかりガタ落ちだ。テメーには何から何まで恨みしかねぇんだよ……!」
「……自業自得だろ。そういうのを逆恨みっていうんだ」
瞬間、再び脇腹を蹴りつけられた。
顔を苦痛で歪める要を俯瞰し続けながら、岩国は嗜虐心に満ちた表情でさらに言った。
「だからよぉ……今からその恨みを精算してもらうぜぇ……テメーの右腕でな! その後は全員で私刑にかけてズタボロにして、素っ裸にしてから写真撮って、テメーんガッコの校門に不動産屋の張り紙よろしくびっしり貼り付けてやんぜ……!!」
「うわぁ……えげつないなぁ、岩国さん。僕なら即自殺できる自信ありますよ」
周囲がドッと嫌な笑い声に包まれた。
それに反比例して、要は今までにないほどの焦りを感じた――このままだと大怪我を負わされるだけでなく、最高に屈辱的な目にもあわされる。
その激しい焦燥感が、疲れ果てていた要の肉体に活力を与えた。
ヒビが生えんばかりに歯を強く食いしばり、脱出しようと懸命に全身を振り乱す。渾身の力を振り絞るが、やはり拘束は解けない。
それでもなお力み続ける。一時的に思考を放棄し、今出している全力以上の力を全身の筋肉に催促する。
「「「「――おわっ!?」」」」
刹那、変化が起こった。自分の四肢を押さえつけていた四人がぐらつき始めたのだ。それとともに、縫いつけられていたはずの両腕と両足に僅かながらの動きが生まれた。
要はそこで電撃的に思い出した。
『『頂天式』は姿勢反射を使って全身の筋肉を効率よく稼働させ、全身に「繋がり」を作るためのもの。だがこの練功法の意義はそれだけではない! 全身の筋肉が効率よく稼働した状態、それはつまり全身の筋肉へ総合的に負荷がかかった状態だ! 負荷をかければ筋肉は強くなる。つまり『頂天式』は、全身の筋肉全てを同時に強化する筋力トレーニングでもある! しかも従来の筋力トレーニングと違い、激しい負荷によって筋肉を急膨張させて即席で強くするのではない。全身の筋肉に緩やかな負荷を与え、それを何日何ヶ月何年と継続することで、ゆっくりとだが確実に筋力を向上させていく。筋肉を膨張させるのではなく、筋肉を構成する繊維一本一本を少しづつ練り上げていくことで、筋肉をほとんど膨張させないまま、その性能をバランスよくどこまでも伸ばしていく。いわば「高度な筋トレ」というわけだ』
そうだ。今の自分は『頂天式』の効果によって、筋力が以前よりも強化されているじゃないか。そのアドバンテージを上手く用いれば、この状態から力技で抜け出せるかもしれない。
望み薄だろうが、もうなりふり構っていられない。可能性がわずかでもあるならそいつに全部投資してやる。
要はひたすら全身の筋肉に上向きの力を出させた。
起きろ、起きろ、起きろ、起きろ、起きろ、起きろ――ひたすら自分の肉体を奮い立たせた。
すると信じられないことに、人間一人が乗っかっているはずの両腕と両足が、少しだけだが浮き上がり始めた。
先ほどまでこの場に響いていた笑い声が、ざわざわとした驚愕の声に変わっていく。
だが要は見向きもせず、筋肉を働かせることに心血を注いだ。
そして――
「っぁぁああああああああああああああああぁぁぁぁっ!!!」
最後に体の芯を一気に震わせ、四肢に乗っていた四人をバラバラの方向へ放り出した。
体を縛るものがなくなり、全身が元の軽さを取り戻す。
出来るとは思えなかったことが成功し、要は小躍りしたい気分だったが、今はそれどころではない。悔しいがこれ以上の抵抗は無理だ。一秒でも早く逃げなければ。
息継ぎを繰り返しながら、要は急いで逃げ道を探す。そして、こちらを見てドン引きした表情をしたヌマ高生の集団の間に大きなスペースを発見した。自分なら余裕で通り抜けられる広さだ。
連中が呆けている間に突っ切ってしまおう。要は疲労感が蓄積した全身に鞭を打ち、走り出した。
思った以上にすんなりとスペースを抜ける事に成功。連中がこちらを追いかけ始めたのは、十メートルほど切り離した後だった。反応が遅すぎる。これだけ間隔が開けば追いつかれることはほぼありえない。後はスタミナの心配だけすればいい。このまま駅など人の多い所へ逃げよう。
元来た出入り口を凝視し、一心不乱に足を動かす要。
だが突如、その出入り口の像が、横から飛び出してきた何かによって遮られて見えなくなった。
「――やれやれ、見かけによらずタフですねぇ。おまけに人間四人を同時に持ち上げるなんて、少々度肝を抜かれましたよ。その細い体でどんなイカれた筋肉してるんですか?」
鴉間が前方に先回りしたのだ。
おそらく、呆けていたヌマ高生の中で最も迅速に反応し、そして追いかけてきたのだろう。だが走り出した後の自分に追いつき、なおかつ回り込みを成功させたそのスピードには舌を巻ける。
要は反復横とびの要領で素早く横に動いて通り抜けようとするが、鴉間の軽快かつ俊敏なフットワークによってすぐに追いつかれ、向かい合った状態をキープさせられる。さらに数度繰り返すが、やはり結果は同じ。バスケのワンオンワンをやっている気分だ。
そんな風に手こずっている間に、後ろからヌマ高生たちが迫って来ていた。
マズイ、早く鴉間を退けないと挟み撃ちになる。
「どけっ!!」
要はその無意味な張り合いをやめた。後ろ足の踏み切りと引き手の反作用力を引き出し、踏み込みと同時にそれらの力を集約させた正拳を放つ――『開拳』。
だが、その拳が当たる寸前に鴉間の姿が消えた――と思った時には、拳打とともに踏み込んだ前足を、強い力によって手前に押し流されていた。全体重の乗った前足を払われたことで死に体となった要は、前のめりに虚空を舞う。
見ると、鴉間が右足を軸に深々と腰を落としながら、右半身の姿勢で左足刀をこちら側に伸ばしていた。地を滑って突っ張られたその左足刀が楔を打つような強い力を発揮し、こちらの軸足を強引に押し退けたのだ。あの立ち方、易宝から聞いた事がある。『仆腿式』と呼ばれる、中国拳法で最も基本的な歩形(足の形)の一つだ。
引力に導かれるまま、要の体が真下へ落ちていく。そしてその落下地点には、今なお右半身の『仆腿式』で立った鴉間の姿があった。そして、さらに見えてしまった。奴が――右の拳を脇に構えているのが。
要はぞわりと粟立ったが、もう何もかもが手遅れだった。
「――『黒虎出洞』!」
鴉間は極限まで屈曲させた右脚のバネを一気に開放し、その勢いを乗せた右拳を要の土手っ腹へ打ち込んだ。
こちらが鴉間のいる方向へ落下する力も合わさり、その拳は深々と突き刺さった。おまけに意識外の「虚」を突かれたという結果が高い相乗効果を発揮し、要は声一つ上げられぬほどの激痛に苛まれた。
余剰した打撃のショックで要の五体が吹っ飛んだ。地面に落ちてからも何度か転がり、やがてうつ伏せになって止まった。
痛みを我慢してもう一度起き上がろうした瞬間、鴉間によって両肩甲骨の間へ素早く膝を乗せられ、再び地面に押さえ込まれてしまった。
「仰向けよりうつ伏せで押さえた方が、された側は抵抗しにくいんです。さらに背骨のラインに自重を乗せてやれば、もう相手には何もできません。全身の動きの要ですからね。制圧法くらい知っておきましょうよ。曲がりなりにも荒事専門なんでしょ、皆さんは」
棒立ちしているヌマ高生たちに向けて、鴉間がそう弁を振るう。
要は再び力を入れようとするが、全身は疲労感とダメージの蓄積によってすっかり脱力しきっており、うまく筋肉が働かない。それを抜きにしても、背中の中心を鴉間に圧迫されているため、全く動く事ができない。動作の主たる脊椎の動きを制限されてしまった今、自分はまさしく羽をピンで留められた蝶も同然だった。
そうしている間に、岩国が先ほどのブロックを持ってやってきた。
その上に要の右肘裏が乗せられ、さらにこちらが腕を動かせないよう、鴉間が上から押さえつける。
ブロックの範囲外に伸びた前腕部のすぐ傍らには、岩国の足。
完全に準備ができてしまっていた。
「さあ、どうぞ、岩国さん。今度こそポキンとやっちゃってください」
鴉間の言葉を受け、岩国が嬉しげに小さくステップを踏み始めた。
「や、やめろ!! やめろバカ!! やめやがれこのバカ野郎っ!!」
未だかつてない危機感と恐怖心に駆り立てられ、要は叫びを上げた。そんなことをしたところでどうにかなるわけではないのは分かっている。でも叫ばずにはいられなかったのだ。
岩国は要の頭近くに唾を吐き捨てると、ニヤニヤした顔で言った。
「うっせぇよカス。それを言うなら「やめてくださいませ岩国様」だろ? ま、そう言われたってやめねぇけど」
最初は控えめだったステップが、トーン、トーンと徐々に勢いづいてくる。
そしてそれが最高潮に達した瞬間、とうとう岩国は大きくジャンプした。地を蹴ると同時に両膝を胸へ抱え込むように持っていき、高く跳ねた。
放物線の頂点に達し、そして落ちていく。岩国の到達予定地点は――要の前腕部。
岩国は飛び始めからずっと膝を持ち上げたままだった。おそらく足裏が自分の前腕部に着地した瞬間、その曲げた膝を一気に伸ばして踏みつけの威力を倍増させる気だろう。それをやろうとする点に、自分に対する岩国の強い鬱憤が察せるようだった。
要は切歯し、目をキュッと閉じた。
悔しい。悔しくてたまらない。
分かり切っていたはずの嘘に乗せられて一対一の勝負に持っていかれ、一発も当てられず、無様に地を舐めた。逃げるのにもあっけなく失敗し、挙句の果てに今こうして腕を折られようとしている。
最初の嘘に騙された事を除けば、全て自分の力不足が招いた結果だ。
自分の無力さが、ただただ呪わしかった。
岩国の足が、みるみる自分の右前腕部に近づいてくる。
もしかすると自分は、強くなったことに心のどこかで傲りを持っていたのかもしれない。
周囲から賞賛を浴び続けていたせいで、知らずのうちに大物を気取っていたのかもしれない。
ここで腕を折られるのは、自分がいかに矮小な存在であるかを思い知るための、いい授業料なのかもしれない。
そう考えた瞬間、全身のこわばりが消えた。
やがて、岩国の両足が、要の右腕へ着地する――
ことはなかった。
重々しい圧力。それを受ける痛み。圧力によって腕の骨が折れたことによる、輪をかけた激痛。
それらが来るのを覚悟し、目を閉じて到来を待っていた。
しかし、それはいつまで経っても訪れなかった。
まだ空中にいるのか、と一瞬考えるが、自分はさっき岩国が重力に引かれて落ちていく所をしっかりと見ているため、その考察は即消去した。
岩国が間違って、目標よりも少しずれた場所に着地してしまったのだろうか。それとも、別の理由か。
目を閉じているため、視界は真っ黒だ。開眼すれば、その理由がすぐに分かるだろう。
要は恐る恐るまぶたを開き、右腕の伸びた方向を見る。
――信じられない光景が瞳に映り、思わず双眸を剥いた。
着地場所を間違えたどころか、そもそも岩国の姿が右腕近くになかった。
かと思えば、視界左端で巨大な何かが宙を舞っていた。それは――岩国。
そして岩国がいたはずの位置には、奴の代わりに――さっきまでこの廃工場にいなかったはずの男が、蹴り足を伸ばした姿勢で立っていた。
ライダースジャケットとジーンズを着こなした、長身痩躯の男だった。ビジュアル系バンドマン然とした清涼感溢れる端正な顔立ちで、ミディアムほどの長さに伸びた髪を後頭部で結び、馬の尻尾のようにまとめていた。
その男の顔と立ち姿に、要は大いに見覚えがあった。
忘れもしない。彼こそ暴走族『紅臂会』のトップにして、かつて自分が闘い、そして大苦戦の末に敗った男――竜胆正貴だった。
空中を漂っていた岩国がドシャッ、と落下する。
竜胆は蹴り足を引っ込め片足一本で立ちながら、涼しげな微笑を交えて声をかけてきた。
「――久しいね、工藤要君。早速だが腕は無事かい?」
「あ、ああ……」
あまりに予想外過ぎる人物の登場に、要は未だ上手く言葉を発することができずにいた。
竜胆は口元をほころばせながら、
「そう。それはよかった。どうやら間に合ったみたいだ」
「ああ……でも…………どうして」
「沼黒の生徒に囲まれながら歩いている君の姿を偶然見かけてね、気になって後をつけたのさ」
……見たところ、敵対の意思は感じられない。腕の無事に安堵した所を見ると、少なくとも手を出す気はないのかもしれない。
だが、一応少しの警戒を見せながら要は尋ねた。
「……あんた、なんで付いて来たんだ」
「決まってるだろう? 君を助けに来たんだよ」
「どうして?」
「別に大した理由はないさ。なに、今は過去のことは置いておいて、ここを抜けようじゃないか」
竜胆はそう親しげに笑いかける。やはり敵意や企みは読み取れない。
かつてやりあった相手の言う事を真に受けるのは警戒心が先行するせいで若干気が進まないが、事態はすでに独力ではどうしようもないレベルにまでなってしまっている。このままここにいても右腕を骨折させられるだけでいい事無しだ。助けてくれるというのなら、その藁にすがろうと思った。
要は何も言わずコクリ、と控えめに首肯した。
「そうか。それじゃあ……」
そこまで言って竜胆は一度言葉を止め、要の上にのしかかる鴉間へ視線を映した。
「まずは君、ちょっと退いてもらえないかい? その座り方だと工藤君が動けないよ」
その台詞を聞いた鴉間は、呆れが礼に来るといった表情と声色で言った。
「はぁ? 動けないようにしているんですからこの座り方をするのが当然でしょう? だいいちあなた何様ですか? いきなり現れたかと思ったら、僕の知り合いを蹴飛ばすなんて――」
転瞬、鋭い風切り音が鳴った。
見ると、鴉間の鼻の頭から薄皮一枚の距離で、竜胆のブーツの爪先がピタリと止まっていた。
「……聞こえないのかな、退いてくれと言っているんだ。君たちが工藤君をいじめていたのは分かっている。俺も過去にいじめられた事がある身でね、知り合いであることも含めてどうにも放っておけなかったのさ。君が腕が立つ奴だということも、その整った姿勢を見れば容易に予想できる。だからこそ手心は加えられない。俺の『六合刮脚』を食らいたくなければ、大人しくそこを退きたまえ」
鴉間は竜胆を睨めつけるが、ふと思い出したように目を大きく開けつつ、
「『六合刮脚』? ……ああ! もしかしてあなた、アームズのトップの竜胆正貴さんじゃないですか?」
「知っててもらって光栄だね。まぁ、訳あってアームズは今活動を休止してるけど」
「はじめまして。僕は『五行社』の一人に名を連ねる鴉間匡です」
「『五行社』か……なるほど、どうりで功夫が普通じゃないわけだ。君はよほど優れた体幹を持っているようだね。重心に少しもぐらつきがない。あらゆる動きや姿勢に特化した優良な肉体だ。こんな形で会わなければ、どうやってその体を作ったのか是非話を伺いたいところだね」
「……大した観察眼をお持ちのようで」
一瞬、鴉間は目を不快げに細め、さらに続けた。
「それで? 工藤要ごときに足元を掬われた負け犬が、この僕に勝てるつもりですか?」
「……どうかな。人の強さは不変じゃない。彼に負けた時の俺と一緒だと思ったら大間違いだよ?」
「そうですか……」
鴉間はそう静かに言うや、スッと右手を挙げた。
その瞬間、竜胆の真後ろにいた一人のヌマ高生が駆け出した。岩国に負けず劣らず、体格の良い男だった。ザッ、ザッ、ザッ、と地を力強く踏みしめ、握り締めた無骨な拳を叩き込もうと突っ込んで来る。
「――足音でバレバレだよ」
しかし、竜胆は一度も後方確認せぬまま、腰を急激に時計回りにねじりつつ、そのヌマ高生の腹にブーツ裏を叩き込んだ。
弾丸のようなその蹴りをしたたかに受けとめたヌマ高生は小さく呻くと、くの字になって数メートル後ろへ吹っ飛び、やがて仰向けのまま動かなくなった。
その様子を目の当たりにして、要は内心で驚倒した。
あの大柄な男が、たった一発のキックで何メートルも押し流された。助走をつけて蹴ったのならばまだ納得がいく。だが竜胆はその場から全く動かないまま、あの馬鹿げた蹴りの威力を叩き出したのだ。
以前闘った時でも、彼の蹴りは凄まじかった。だが今の蹴りは、その時よりも明らかにパワーが上がっているように思えた。
「テメェェーー!!」「死なすぞボケェ!」「死にてぇんだなオイ!」「殺す!」「やっちまえ!」「ヌマ高ナメんじゃねぇぞ!」「人生教えてやれ!」「ヤサ男が! そのツラ挽き肉にすんぞオラァ!」「顔が良いなら何やってもいいと思ってんじゃねぇぞ!」「コイツも工藤要と仲良く処刑台に送ってやれ!」「ダブルポッキンだコラァ!」
岩国含めて二人目がやられたことで、鴉間を除くヌマ高生全員がとうとう憤怒で燃え上がり、そして全員竜胆めがけて走り出した。全員自分勝手なタイミングでスタートしたため陣形もへったくれもないが、それでも結構な人数だ。一人で相手にするには明らかに荷が重い。
しかし竜胆は、今の立ち位置から全く動かない。
やがて男一人が一番乗りで追いつき、耳の辺りで握った拳を振り出そうと踏み込んできた。
だが竜胆は男の右股関節の間へ素早く足刀を押し込み、それによって体勢を崩して転倒させた。男はそのまま後ろから走ってきた仲間二人を巻き込んで倒れる。
そこからタップダンスよろしく機敏に足を踏み換え、左側から急迫していた男の腹部を踏み蹴って元来た方向へ押しやる。
竜胆の真正面から猛牛のごとく押し迫ってくる大男が一人。だが竜胆はそいつには見向きもせず、左右から殴りかかって来るヌマ高生のみを優先して蹴り飛ばし続ける。
とうとう目と鼻の先までやってきたその大男は、要より一回りほど大きな手を竜胆の毛髪へ伸ばしにかかった。
だが竜胆は頭の位置を軽くずらすだけでその伸びた手を躱すと、ダッシュの勢いそのままにやってきた大男の腹に右手を添えた。
竜胆の右手は、拳を握り切らず、指の第二関節までを曲げた中途半端な形をしていた――あれはまさか。
「――『插捶』」
添えられた右拳を握り切ると同時に右肩甲骨を前進。ほぼゼロ距離の間隔から竜胆のナックルパートがドスンッ、と打ち込まれた。
その寸勁を受けた大男は「えうっ」とうめき声を上げ、二歩後ろへ下がる。
そこでさらに、竜胆の右脚が閃いた。
「『三才擊脚』」
大男の顔面に靴裏を叩き込み、それによって怯みを見せた所でさらに下腿を蹴り払い、重心を取られて死に体となったところへ渾身の足裏蹴りを貫くように打ち込む――竜胆はこれらの三ステップを一秒足らずでやってのけた。その風のような足技を受けた大男の一九〇センチ近い図体が空中を舞い、やがて背中から落下した。
それ以降もヌマ高側の猛攻は続いたが、いずれも竜胆の無傷の迎撃以外の結果が出ることはなかった。
対して、竜胆の立ち位置は最初からほとんど変わっていない。おまけに何度も蹴りを使っているにもかかわらず、その額には汗の雫一つ浮かんでいなかった。
――間違いない。竜胆は以前よりも強くなっている。もしかすると、今の自分より強いかもしれない。
「『磨脚』」
やがて竜胆は見覚えのある技で、最後の一人を蹴り飛ばした。
その一人が倒れる音を境に、廃工場の敷地が静まり返った。先程まで喧騒に包まれていたのが嘘のようだ。
辺りには、雑魚寝するヌマ高生たち。
孤立無援となった鴉間に、竜胆は挑戦的な目を向けながら言い放った。
「で、どうする? 俺と一戦交えてみるかい?」
鴉間は興醒めとばかりに額を押さえながら、ため息混じりに返答した。
「はぁ……ああはいはい分かりましたよ。今退きますよ。まったく、かつての敵と共闘とか週刊少年誌の読み過ぎでしょう。敵は所詮敵でしかないというのに……」
投げやりな感じでぶつくさ言いながらも、鴉間は要の上から下りて立ち上がった。ずっと全身を地に縫い付けていた背中の重みが消える。
「賢明な判断、感謝するよ」
「勘違いしないでくださいよ竜胆正貴さん。確かにあなたは強い。だがやはり僕ら『五行社』の面々よりは何歩か劣る。僕が今あなたたちを逃がすのは、工藤要に対して最低限必要な処置を全て施し終えたと思ったからなんですから。なので「『五行社』の鴉間をビビらせた」なんてバカみたいに豪語して回らないように。もしそんなことをしたら、面子を守るために全力で制裁を与えに行かなければなりませんので」
「そんなことはしないさ。俺はそんなに暇な立場じゃないからね」
「……ああ、そうですか」
少し苛立たしげな口調で相槌を打つ鴉間を尻目に、竜胆はうつ伏せになっている要の傍へしゃがみ込み、その上半身を起こした。
間近に現れた彼の顔が訊いてきた。
「歩けるかい?」
「……とりあえず、ダイジョブ」
かすれ気味な声でやや無愛想にそう答えると、竜胆はこちらの左腕を自身の右肩から背中へ回し、そのまま立ち上がった。
「うわ、見かけに違わず軽いね君。お姫様抱っこでも全然大丈夫そうだけど」
「……やめてくれよ、男だぞ」
からかい気味の言葉に対し、小声で悪態をつく要。
そうして、二人歩調を合わせて歩き出す。
隣の竜胆の肩に体重を預け、その息遣いを聞きながら、要はゆっくりと廃工場を後にしたのだった。
「……いちいち癇に障る男でしたね、竜胆正貴は」
二人が去った後、鴉間匡は胸中に渦巻く微かな不快感を、言葉の形にして吐き捨てた。
それによって胸が多少すいた後、廃工場の敷地を見渡した。
さっきまでは元気だったヌマ高生たちが、ウンウンと唸りながらそこかしこで倒れている。
この結果を作り出したのはたった一人の男。
本来なら役立たずと断じている所だが、今回は連中にとって相手が悪かった。あの巧みな蹴り技は明らかに一朝一夕のものではない。名が轟くだけのことはあると思った。
寝転がっていた中で、一人がむくりと起き上がった。岩国だった。
困惑したように周囲を見回している。おそらく、さっきまでのびていたのだろう。いかに強烈なキックを受けたのかが分かる図だった。
「か、鴉間さん! 工藤要のバカはどこッスか!?」
岩国はそう言いつつ、四つん這いでバタバタとこちらへ寄ってきた。
「さっき帰しました」
「な……なんでッスか!! 俺、まだあいつに復讐してないッスよ!?」
「その途中で蹴り飛ばされたのはどこのどなたでしたっけ?」
鴉間が軽く睥睨しつつそう口にすると、途端に怖気づいた表情となる。
だがまだ何かあるのか、珍しく岩国は食い下がってきた。
「で、でも……今逃がしたら、いつかまた俺らに楯突くんじゃないんスか? あいつ、どう考えても泣き寝入りするようなタマじゃなさそうですし」
「ああ、それだったら多分心配ないかと」
「え?」
首をかしげる岩国に、鴉間はゆっくり語り始めた。
「実は僕、今年四月から今日までの工藤要の戦績を前もって調べ上げたんですよ。その戦績を見た上で、彼のこれからの行動を予測するなら……」
自然と口端が歪むのを感じた。
「彼はもう――ケンカをしなくなるでしょうね」
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
最近、お絵描きアプリにハマっております。
指で描くため結構やりにくいですが、紙面を拡大して描き込める機能があるので、それをうまく使えばそれなりに描ける感じです。
きっとタッチペンあったらもっと描きやすいだろうなぁ。
でも一本二千円以上とか高いさね(´・_・`)