第七話 仲違い、そして遭遇
「ごちそうさまー」
要はまっさらになったハムエッグの皿の前で手を合わせ、行儀よくそう声を伸ばした。
自分の向かい側の席に座る父、良樹が「お粗末さま」と返す。
「男の子って食べるの早すぎぃ。もっとゆっくり食べようよぉ」
その隣でもきゅもきゅと朝食を食べていた母、亜麻音が不満げにぼやいた。その髪は寝起きのせいで巨大な鳥の巣のような状態だ。まあ、後で良樹が直すのだろうが。
日曜日。工藤家の朝の団欒がそこにはあった。
季節はすでに初夏であるため、工藤邸のリビングの空気は少し熱を持っていた。アルミサッシで縁どられた引き違い窓から差し込んでくる日光も、至近距離でスポットライトを当てられているかのように勢いが強い。
これから先さらに暑さは増すだろうが、この家はリビング、要の部屋、そして両親の寝室の三部屋にエアコンが備え付けられているため真夏でも安心だ。おまけにオール電化なので、長く電源を入れておいても光熱費はさほどかからない。
良樹は立ち上がって自身の食器を台所へ持っていくと、テーブルにいる自分たち二人に呼びかけてきた。
「スムージー飲む人ー?」
「あ、はいはい! あたし飲むー!」
「あ、俺はいいや。これから用あるし」
「分かった。じゃあ僕と亜麻音ちゃんの分だけね」
そう告げると、良樹は冷蔵庫からキウイとバナナ、それからヨーグルトを取り出した。
果物の皮を剥いて数等分に刻んでから、ヨーグルトと一緒にブレンダーに放り込む。非常に慣れた手つきだった。
スイッチを入れると「ヴィィィン……」というモーター音とともに、三種類の材料が高速シェイクされ始める。
それを確認すると要は立ち上がり、使った食器を流し台に運ぶ。
そして、そのままリビングを出ようとした時、
「――お待ちなさいカナちゃん」
亜麻音に呼び止められた。
思わず振り向いて見ると、童顔の母は唇を尖らせ、猜疑を帯びた目でジッとこちらを見つめていた。
「な、なんだよ母さん?」
「カナちゃんって高校生になってから、休みの日になるとほぼ毎週朝からいなくなるわよね。何か用事でもあるのかな?」
痛いところを突かれ、要はついたじろぐ。
休日の朝から出かけるのは修行のためなのだが、それは亜麻音には知られたくなかった。
この母は武道や格闘技をあまり快く思っていない。要がボクシングの試合を嬉々として見ていると「可愛くない! 男臭い! 痛そう!」と、たびたび端から文句を言ってくるのだ。
息子が拳法というものに手を出していると知れば、憲法改正に関する抗議デモよろしくな勢いで猛抗議してくるに違いない。ヘタをすると「やめろ」と言われるかもしれない。
ゆえにここで要が取るべき行動は一つ。はぐらかすことのみ。
「な、なんだっていいだろ? それより母さんは今日何か用事あるのか? あるなら俺なんかに構わないでそっちを優先しろって」
「不良息子を問いただすという大事な予定が今、ありますっ」
「う……」
要は思わずたじろぎを見せた。
まるで「今日は逃がさないわよ」とでも言いたげな目。
「カナちゃんって平日はご飯食べてから着替えるわよね? でも今日みたいに休日に限ってはご飯食べる前からもう着替え終わってるし。この後すぐに何か予定があると考えるのが自然だわ」
「うっ」
そういえばそうだ。
「帰ってくると、ウチで使ってるのとは明らかに違うシャンプーの匂いが微かにするし」
「うっ」
修行が終わった後は易宝養生院でシャワーを浴びるが、その時にシャンプーも借りている。
「入学当初から、なぜか買ってあげた覚えの無いズボンと靴があるし」
「うっ」
おそらく、修行を開始する前に易宝にプレゼントされた、功夫ズボンとカンフーシューズのことだ。
亜麻音は「極めつけにっ」と鼻息混じりに前置きを添え、腕を組んでふんぞり返りながら指摘していた。
「ちょっと前の日曜日なんか、帰って来たのが夜中の〇時過ぎよ? 一体何やってたのかしらねぇっ?」
「う……!!」
最大の弱所を攻められた気がした。おそらく、誘拐事件の時の話だ。あの時は夜になってから帰り始めたので、神奈川県から遠く離れていたこともあって家路につけたのは真夜中だった。携帯にも応答がないから心配したと、温厚な良樹にさえ苦言を呈された。
しかも、どうしてそんな遅い時間に帰ることになったのかを説明していない。誘拐されたなんて言ったら、今度こそ亜麻音が泡を吹いて倒れそうな気がしたのだ。
「隠してる事があるなら、いい加減白状しちゃいなさい。言う内容によってはママ許してあげるから」
ハムスターのように頬を膨らませ、じぃっと睨めつけてくる我が母。
言う内容によっては、という文脈がある時点で「許してあげる」の効力はあまり期待できない。全ては亜麻音の好みと気分次第ということだからだ。
「ほらほら、何か隠してるんでしょ? あるならさっさと言っちゃいなさい。さぁさぁさぁ」
亜麻音がさらにそう急かしてきた。
じりじりとした焦燥感が湧き上がってくる。濁流で荒れ狂う川を背にしている気分だった。
頭を抱えて叫びたくなった所で、救いの神が現れた。
「まあまあ亜麻音ちゃん、そういじめないであげてよ」
出来上がったスムージーのグラス二つを両手に台所から出てきた良樹が、亜麻音をなだめに入る。
そのバックからは後光が差しているように見えた。ありがとう。いつも父さんだけが俺の味方だね。
「で……でもでも! カナちゃんが親のあたしたちに隠し事してるのよっ?」
「高校生にもなれば隠し事の一つ二つ珍しくないよ。それに僕たちも若い頃は――うおっと」
良樹が何かにつまずき、ほんの少しだけよろめく。
スムージーは無事だったが、良樹が蹴飛ばしたソレは彼の爪先の方向へ倒れてしまった。
ダンボールの空き箱だった。
倒れたことで、中に入っていた丸まった新聞紙が床に転がった。
「おいおい母さん、片付けてなかったのかよ?」
要が呆れた声をあげる。
このダンボール箱は、昨日の夕方に亜麻音の知り合いから届いた食器が入っていたものだ。あの新聞紙は、割れないようにその食器を包んでいた。
「ううー……だって、めんどくさくてぇ」
「めんどくさいって母さん、新聞紙をゴミ箱に捨てて、ちょっとダンボールを潰すだけだろ?」
「まあまあ。僕がやっておくから」
良樹は言うやスムージーをテーブルに置き、まずは新聞紙を拾い始める。
「よっくんありがとー……えへへ」
「……母さん、もし父さんが先立ったら、どうやって生活するつもりだよ?」
「その時はカナちゃんがお世話して~? 奥さんと一緒に」
「ええー? せめて最低限の家事くらいはこなせるようになってくれよ」
「おばあちゃんになったら、トイレとかにもおんぶで連れてって欲しいなー」
「それは頼むから自分でやって!」
要は亜麻音の老後への不安を感じると同時に、嬉しい誤算が生じたことも感じていた。
良樹が未処分のダンボールにつまづいたことで、話題の矛先がすっかりそちらへ移っている。
亜麻音が元々の話題を思い出さないうちに、早々に易宝の元へ向かおう。荷物はすでに自室で準備してある。
そうして動き出そうとした時だった。
「なっ…………こ、これは……!?」
良樹の驚愕した声が耳に届く。
柔らかな物腰をほとんど崩さない胆力に定評のある我が父の驚きの声は、えらく新鮮さを感じさせるものだった。要も亜麻音も揃って良樹の方を振り返る。
声通り、面食らった表情だった。
良樹はその皿のような目を、手元で広げられたくしゃくしゃの新聞紙に真っ直ぐ注いでいた。
「ど、どうしたのよっくん?」
一番に、亜麻音が困惑をもって切り出した。
「…………亜麻音ちゃん、これ」
良樹は油を差していないようなぎこちない動作で、見ていた新聞紙をこちらへ見えるように掲げた。
折れ目とシワだらけな紙面の文字と写真は、少し目を凝らせばとりあえずは読めた。
――嘘だろ。
凍りついたように全身が動かなくなる。
その新聞紙に載った文と写真を視認した要は、思わず我が目を疑った。
夢だと思った。思いたかった。しかし要の視神経は実に正直者で、今目に映る映像を現実の出来事としてしっかり脳に焼き付けていた。
「なっ…………なっ…………!!」
自分と同じものを見ていた亜麻音も、同じようなリアクションをとっていた。フレーク餌を水槽に撒かれた金魚のように、しきりにその桜色の唇を開閉させている。
『男子高校生、某企業の令嬢を救う』
その記事の主題たるそんな大文字は、見覚えのありまくるものだった。
そう――誘拐事件の記事だった。
「か、要……どうしてお前が…………それに、誘拐って……」
良樹は記事の写真に写る要と本物の要を交互に見やりながら、当惑しきった表情で呟いた。
全身の血の気が頭頂部から一気に抜けていく。
なんてことだ。最悪だ。悲劇としか言い様がない。よりによってこれを見られてしまうなんて。亜麻音は新聞を読まないので目にすることはないだろうと安心しきっていたが、まさかこんな形で見つかってしまうとは。要は食器を送ってきたという亜麻音の知り合いを恨んだ。
しかも見ろ、この写真に写ったボロボロな俺の姿を。こんな可愛い娘と手を握り合うロマンチックさより、亜麻音はまずその点に目くじらを立ててくるに違いない。
ガチャン! とテーブルをしたたかに打つ音が耳に入ったことで、その予感が見事に的中したことを見なくても確信できた。
「――ちょっとカナちゃんコレどういうことなのっ!!」
亜麻音が両手でテーブルに乗り上げ、その童顔を烈火の如く赤面させながら怒号を上げる。どれだけ激しく叩いたのか、テーブルの上にあるスムージーがグラス中で大きく波打っていた。
そして良樹と同じように記事の写真と自分へ交互に目をやりながら、やり場のない手を空中でワナワナ震わせる。
今更苦しいだろうが、要は一応最後の誤魔化しに取り掛かった。
「い、いや、知らないって。てゆーかそれって俺に似た誰かじゃないの? 写真の奴が傷だらけな上に新聞紙ぐちゃぐちゃだから顔間違えてない?」
「嘘おっしゃい!! 十六年間見てきたその可愛い顔を見間違えるもんですかっ!! 第一、写真の横に工藤要ってフルネームが書いてあるじゃない!!」
むべなるかな。
自分の精一杯の抵抗は功を奏さず、それどころか焼け石に水となった。
「きっと昨日は届いたお皿に気を取られてたせいで気づかなかったんだわ……ああ、せっかくの綺麗な顔がこんなにボロボロになって…………可愛いお皿に頬ずりしてる場合じゃなかった……」
亜麻音は記事の写真から目をそらし、嘆かわしいとばかりに頭を抱えた。
かと思いきや、突然キッとこちらへ鋭い睥睨を送ってきて、
「誘拐事件に巻き込まれたなんて……どうしてこんな大事なことママに話さなかったの!? こういう事は親に話すのが普通でしょ!?」
「いや、それは……」
あなたがそういうリアクションするから言いたくなかったんです、と言える勇気は今の要にはなかった。
それが災いし、亜麻音はさらに糾弾を続けた。
「カナちゃん、あなた高校生になってから親に隠れて何やってるのよっ! 四月の時も二回くらい湿布まみれで帰ってきたし……絶対何か隠してるでしょ!」
「お、落ち着けって母さん。別に俺は何も……」
「まさか危ない事とかしてるんじゃないでしょうね!? だったらそんなの今すぐやめなさい!! そんなしょっちゅう傷だらけになるような事だもの、きっとロクなものじゃないわ!」
要はカチンときた。
一人息子である自分を可愛く思い、とても心配しているのはよくわかる。だが干渉するにも限度があるだろう。今回ばかりはウザったい以外の何者でもなかった。
それに亜麻音の言った「ロクなものじゃないからやめろ」という言葉も大いに癇に障った――あんたに崩陣拳の何が分かる? 見てもないクセに好き勝手な事を言うな。
気がつくと、要は言い返していた。
「なんだよそれ!? 俺がどうしようと母さんには関係ないだろ!?」
「カナちゃん! 親に向かって何ですかその口の利き方は!?」
「いちいち小奇麗な言葉遣いしないといけないのかよ!? 前から言おうと思ってたけど、母さんは俺を心配してるんじゃなくて、思い通りにしたいだけなんじゃないのか!? まるで母さんの部屋に置いてある西洋人形の服を着せ替えるみたいに!」
「なんですって!?」
心にもないはずの言葉が口をついて出てくる。
だが、一度始まったら容易には止められない。まるで坂を転がり落ちるボール。それが口論というものだ。
「俺は母さんの着せ替え人形じゃないんだ! だから何しようと関係ないし、口うるさく言われる筋合いもない!」
「ええそうですか! なら分かりましたっ! もうカナちゃんなんて知りません!! どこにでも行っちゃいなさい!!」
「ああ分かったよ上等だよ!! むしろありがとさん!!」
要は憤然とリビングを後にする。
「ちょっと、要、どこに……」
良樹の呼びかけにもまともに答えられないほど、今の要は頭が熱くなっていた。
毎度の習慣に添うように靴を履き、玄関のドアから外ヘ出た。
「母さんのバカっ。いい年こいて少女趣味っ」
そう静かに言い捨て、工藤家を後にする。
そのまま、あてもなく町をさまよう。その足取りにはイライラした気持ちが顕著に表れていた。
だがしばらくすると多少頭が冷え、そして気がついた。
「……師父んとこに行くための荷物、持ってくんの忘れた」
熱くなっていたとはいえ、手痛いミスをやらかしてしまった。
おまけに、財布や携帯も家に置いたままだった。定期券は財布の中。これでは電車にも乗れない。
今から戻って、取りに行くべきか――
「……今は、帰りたくないな」
要はため息混じりにそう呟く。亜麻音へのイライラした気持ちと、自分の意地がそう決めさせた。
それにこんな心持ちで修行したって、身が入らなそうだ。
たまには羽を伸ばしてみるのもいいかもしれない。
要は今日の予定を決定した。
先ほどより比較的落ち着いた気分を取り戻した要は、足取りが少し軽くなる。
目の前から、Tシャツに半ズボンという軽い装いをした、厳つい容貌の男が歩いてくる。
要は道を開けようとしたが、男がそれよりも素早く横ににずれ、こちらに通り道を譲った。
――その動作はなんだかわざとらしいというか、あからさまに自分を避けているといった感じだった。
かと思えば、今度は道脇に伸びた電柱の根元に背中を丸めてしゃがみ込み、取り出したスマートフォンを慌てた手つきで弄りだした。
――なんなんだ?
男の不可解な行動に一度は気を取られるが、要はすぐに散歩へ関心を戻したのだった。
同時刻――
ぽけぴけぽりろん、というコミカルな電子音が鳴り響く。
「岩国さん、開いてください。もしヌマ高の人からだったら僕に知らせるように」
空き教室のソファーチェアでふんぞり返っている鴉間匡は、目の前に立つ岩国にそう指図した。
電子音は岩国のポケットに入ったスマートフォンから鳴り響いていた。Eメールの受信音だ。
岩国は「ウス」という恭しいのか行儀が悪いのか分からないひと返事をしてから、スマートフォンを数度タップし、
「――非番のウチの生徒が、道端で工藤要とすれ違ったらしいッス。一人だけだそうス」
そう淡々と告げてきた。
鴉間は続けて「何処で?」と問う。
「淡水町ッス」
「淡水か……分かりました。ご苦労様。もういいですよ」
鴉間の添えたようなねぎらいに、岩国は軽く頭を下げた。
岩国は多くのヌマ高生のアドレスを握っている。いちいち大人数にアドレスを聞いて回るのも七面倒に感じたので、他のヌマ高生との連絡担当は基本的に彼に一任していた。
「オイ岩国ィ! ドタマの下げ方が甘ぇぞコラァ!」
「頭が高ぇんだよタコ!」
岩国の両側から男が歩み寄り、浅く下げられていた彼の頭を乱暴に押して深い位置にした。
ほんの数日前までは岩国さん岩国さんとこうべを垂れていた連中であったが、ここまでの手のひら返しを見るとやや気の毒に思えてもくる。ほんの微かにだが。
かつては彼の特等席だったこのソファーチェアも、今となっては自分の玉座。この沼黒高校に君臨した新たなる王だ。
新たに手に入れた数百人の兵隊たちは実に有能だった。あちこちでカツアゲを働かせ、手に入れたそれらの金をこちら一点に上納させた結果、一日で二十万をくだらない金額が必ず懐に入った。
丸つぶれだった学校の面目も、『五行社』という後ろ盾を得たことで以前のように、あるいはそれ以上の威厳へと回復を遂げた。
その一方、トップの座から引きずり下ろされた岩国は完全に権威を失い、その他大勢のヌマ高生たちの中の一人に零落してしまっていた。いや、下手をするとそれ以上の冷遇を周囲から強いられていた。今のがそのいい例だ。おそらく、以前さんざん虐げられたがゆえの憂さ晴らしだろう。
ふざけんなと殴りかかると、向こうは怒って十人単位で襲い返してくる。岩国が元トップといっても集団でかかってくる相手を御するのは難しいようで、されるがままになるのがお決まりのパターンだった。最初は抵抗の意思を見せていた岩国も三日も経つとすぐに素直になった。
「……それで、どうするんスか」
岩国が頭を下げさせられた姿勢のまま、暗い声でそう訊いてくる。
鴉間は少しの間考えてから立ち上がり、ニヤリと笑みを浮かべながら口を開いた。
「無論、行きますよ。でも今日は休日ですからね、部活以外の用で学校に来ている生徒の数は少ない。だから部活組から人員を補充して向かいます。岩国さん、張り切ってくださいよ? あなたの待ち焦がれていた復讐タイムですからね」
復讐、という単語にピクリと反応した岩国は顔を上げると、破顔一笑して「承知したッス」と返事をした。
――気がつくと、時刻は正午に達していた。
ジリジリと照り続ける陽光の下、要は未だに淡水町を散歩していた。
だが、目的地もなく、ただ歩き慣れた道をなぞる事のみを延々と繰り返すその行為は、散歩というより徘徊に近かった。
定期券もお金も無いため公共の乗り物は利用できない。なので自宅のある淡水町内のみを巡り続けている。それだけならよかった。
今、一番問題なのは――
「喉乾いた……なんか飲みたい…………」
要は気力の枯れた声でうわごとのように呟いた。
初夏とはいえその外気温は高く、太陽がピークに達する現時刻では飲み物が手放せないほどの暑さとなっていた。地球温暖化が進んでいるということなのだろうか。
しかし、今の要は飲み物を買いたくても、それが出来なかった。当然である。お金がないのだから。
天より容赦なく降り注がれる太陽光線は要の体から着々と体力を削っていき、我知らず歩き方がだらしなくなる。
終わりのない発汗が、体から水分を奪っていく。潤いを失いかけた軟口蓋がシールのような粘着性を持っている。
どこかから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。今日でこれを聞いたのは今を合わせて三度目だ。熱中症で倒れたのかもしれない。
……このままでは、自分が四度目のサイレン音を呼ぶ羽目になりかねない。
無論、家へ戻って飲み物を飲むのが一番なのだが、亜麻音とケンカ中だ。今は戻りたくなかった。
しかし今の状態が続けば、自分もバテそうだ。
意地と健康状態を秤にかけ、どっちを選ぶかをしばらく考えた結果――間を取る事にした。
家には戻らない。しかし水分はちゃんと摂る。そのために要は、水飲み場のある公園を探すことにした。
ジュースではないが水分を補給できるならそれでいい。くどいほど飲んでからクーラーが効いた店の中にこもれば、夕方までの時間を楽に過ごせる。
羽を伸ばすと決めておきながら全く伸ばせていない気がしたが、気にしたら負けだと思った。
とりあえず、要は目的地を目指して歩くことにした。水飲み場のある公園の場所は知っている。
足が先ほどより少し軽く感じる。目的地を得たからだろうか、それとも水分を求める生理的欲求がそうさせているのか。
半ば忘我の心境で歩くことしばらくして、ようやくその公園が見えてきた。
要は達成感を感じ、足並みを早めようとした。
だが不意に、先に見える両側の曲がり角からいくつかの人影がぞろぞろ現れ、公園に続く道を塞いだ。
半袖ワイシャツと紺のスラックスという、学生服の夏服を着た男たち。だがその着こなしはお世辞にもいいとはいえず、顔立ちも悪人のように険しい。
男たちは横一列に並んで道を塞ぎながらこちらへ歩み寄ってくる。その様子はさながら壁が迫って来ているかのようだった。
距離が近くなるにつれて、その男たちが皆こちらを見ていること、そして連中の胸ポケットに入った――沼黒高校の校章の刺繍に気がついた。
ヌマ高の連中が、集団を組んでこちらへ迫って来ている。
要は喉の渇きを一度捨て置き、警戒心を抱いた。連中とは二度いさかいを起こしている。決して無関係ではない。襲ってくる理由は十分にあった。
あのまま壁のように攻め寄せられたらあっという間に周囲を囲まれ、袋叩きにされて終わりだ。ここは逃げた方がいいだろう。そう思い、要は後ろへ逃げようと振り返った。
だが、後ろの先からも、ヌマ高生たちが横一列になって近づいて来ていた。
「マジか……」
要はさっきまでの感動を一転、かつてない危機感を覚えた。
これは挟み撃ちだ。
しかも、連中が挟んでいるこちらのスペースには脇道がない。つまり、退路が絶たれたということ。
手の中が、暑さ以外の理由で汗ばんでくる。
こうなったらダメ元でこっちから突っ込んで、連中の列の一部を崩して穴を作り、そこから逃げてしまおうか。
その考えを実行しようと体が動きかけた時だった。
「――ようやく見つけましたよ、工藤要さん」
そんな声がこちらへ届いた。
公園側から聞こえてきたものだった。
ヤンキーらしく濁ったように調子はずれな声ばかりを出してくるヌマ高生のソレとは違い、その声はどこか透き通った響きを持っていた。
公園側の道を塞ぐ集団の真ん中が、まるで海を割ったかのように開かれ、道ができた。
その道を通り、一人のヌマ高生がゆったりとこちらへ近寄って来る。
体格の良い者が揃ったヌマ高の中では珍しい、中肉中背といったスタイル。薄茶色の髪は肩に少しかかる程度の長さで、それを二つの三つ編み状にしている。
爽やかな好青年と呼べるが、どこか空々しさを感じるかんばせ。それを構成するパーツの一つである涼しげな双眸は、真っ直ぐこちらを捉えていた。
その男は要の二、三歩先の位置で立ち止まると、自分の胸に手を当て、ピシッと一礼しながら恭しく告げてきた。
「はじめまして。僕は鴉間匡。『五行社』の一人にして、「水」の称号を持つ者――以後、お見知り置きを」
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
井上尚弥三度目の防衛おめでとう!
そして読者の皆様ごめんなさい!
次話を書くまで一カ月も空けてしまいました。一応書くことは決まっているのですが、どうしてももう片方の作品で書きたい部分がありまして……
次からはまたしばらくこの作品を進めたいと思います_φ( ̄ー ̄ )