第六話 侵食(インベイド)
翌日の朝。
岩国毅は沼黒高校――通称ヌマ高の空き教室にいた。
切り傷や擦り跡でびっしり覆われた床の上には空き缶や菓子の袋、害虫の死がいなどがそこかしこ散乱しており、もう学習に使われていない煤けた黒板上は、描いた者の品性を疑うような卑猥な落書きで埋め尽くされている。
両の出入り口から入ってすぐ奥に目に付く壁の中心位置に、古びたソファーチェアが一つ。
岩国はそこに座していた。
ここは、沼黒高校にて番を張る立場である岩国の、いわば玉座の間だった。
玉座と表現するにはいささか、いや、かなりお粗末な空間。だが岩国のような人種には、こういう空間は秘密基地のようでかえって居心地がよかった。
ここで過ごす時間は、いつでも至福そのものだった。
皇帝よろしく椅子の上にふんぞり返りながら手下をアゴで使い、気に入らないことをしてきたら有無を言わさず殴る蹴るして鬱憤を晴らす。手下は一瞬たりとも睨みを効かせることはせず、ただただ媚びるように笑う。その図はまさしく王と家来のソレだ。
己が拳のみで掴み取ったこの地位。これを享受することが、心地良くないわけがなかった。
しかし――最近は違った。
どっしり座っても、下級生を足蹴にしても、全く不愉快な気分が晴れない。
現に今も、岩国は苛立たしげな心持ちを禁じ得ずにいた。
彼の片手には、一枚の新聞紙。
「……ケッ! 何がヒーローだよ、ボケナスがぁ」
岩国はソレに載った記事の一つを目にし、毒づく。
その記事の見出しには『男子高校生、某企業の令嬢を救う』と出ている。
ここ最近話題の男――工藤要の善行を讃える記事だった。
根暗そうな女と手を握り合う工藤要の写真の下には、奴を賞賛する活字がスペースギリギリまで記入されている。
それを見るたび、鬱屈としたものが腹の底から沸き上がって来る。
岩国は広い肩幅をブルブル震わせ、すぐに爆発した。
「ガァァァァッ!!」
その新聞紙をぐちゃぐちゃに破り、丸め、力任せに床へ投げて叩きつけた。
椅子をガバッと立つと、肩をいからせながら、奴の、工藤要のなまっ白い顔を思い浮かべる。
――あの野郎のせいで。
眉間に深い深い皺が寄った。
ここ最近、ヌマ高の威厳は丸つぶれだ。
少し前まで、道行く者はヌマ高生とすれ違いそうになると慌てて間隔を開けていた。恐ろしい存在と認識されていた。
しかし最近はどうだろう? ヌマ高は以前よりも恐れられなくなっている。一部の馬鹿は「今のヌマ高なんてチョロいチョロい。俺、一人で校内に乗り込めるぜ」などと豪語しているらしい。無論、探し出して粛清させたが。
天下に名高い悪ガキ校の名は、地に堕ちてしまっていた。
元々、この学校は救えないバカ共のふきだまりだ。
成績表が斜線だらけな脳タリンでも、少し金を積めば簡単に入学できる。どの高校にも入れなかったクソヤンキーの最後の受け皿だ。
勉学は言うに及ばず最底辺、オール3を取るだけで神童ともてはやされる。部活はあるが、大した成果は出したことがない。むしろ部員は部活よりも、部室でやる賭け麻雀の方に熱中している有様。
そんなプラスが無いどころかマイナスだらけな学校の唯一の取り柄は、暴力による地位だった。
あらゆる学校のヤンキー共を叩きのめして神奈川県随一のトップブランドへと昇華し、その地位をずっと保ってきた。初代総番の紀藤泰三は、今ではヤクザのトップをやっている。
その取り柄が、消えつつあるのだ。
このような凋落を招いたのは――工藤要だ。
先月、岩国は手下がやられた報復のため直接シオ高へ赴き、複数人で工藤要を叩きにかかった。
ヌマ高の中でも精鋭と呼べる奴を集めた。そこに自分が加わるのだ。岩国は思った、これで勝てない方がおかしいと。
しかし、まんまと不利な地形に誘い込まれた挙句、全員やられてしまった。
普通、どれだけ有利な地形を取ったとしても、十人以上の相手を蹴散らすなど至難の技だ。それをやってのけた点と、奴の使う技とその威力に同時に着目して、よっぽど優れた師に学んでいることが容易に推察できた。あの時は、そんな工藤要が本気で恐ろしく感じた。ゆえに逃げてしまった。
だが今思い返すと、なんて愚かなことをしたのだろうと死にたくなってくる。
あそこは無理にでも立ち向かうべきだったのだ。
――いや。
たとえ立ち向かったとしても、総崩れという結果は揺るがなかったかもしれない。そんな気がする。
……そんな風に弱気になっている事実が、岩国の苛立ちをさらに助長させた。
「――ッ!!」
たまたま足元を転がっていたチューハイの空き缶を思わず蹴っ飛ばす。
この怒り、苛立ち、鬱憤、フラストレーション、ルサンチマンを誰にぶつけるべきだろうか。
普通に考えれば、工藤要だろう。
しかし、自分が挑んだとして、果たして勝てるだろうか? 奴と実際に相対して、鹿賀達彦や竜胆正貴を下したのは嘘ではないと確信している。
手下も「もうあんな強烈なパンチ、貰いたくないっす……」と乗り気じゃない様子。こんな気合の入っていない状態で向かっていったら、また前と同じ結果に終わりかねない。恥の上塗りになるだけだ。
前まで満々だったはずの自信が、枯渇しかけていた。成功をイメージして士気を高めるのではなく、失敗した時のことばかりを考えて完全に保身モードだった。
それを自覚したことで一層鬱憤がエスカレートし、今度は椅子を投げつけてやろうと体が動きかけた瞬間、
「岩国さん、いいっすか?」
ガララ、と引き戸を開けて入ってきた一人の男。
前田という、自分の側近のような立場にある男だった。
「……何の用だ、前田」
振り向かぬまま、押し殺したような低い声で尋ねる。
暴君のごとく振る舞う岩国だが、この前田に対しては比較的心を許していた。イライラしている中でもまともに用件を問えたのはそのせいである。
「聞いたっすか、岩国さん? 今日――転校生が来るらしいですよ」
ピクリ、と肩が震えた。
前田の方を振り返り、再度確認した。まるで信じがたいことのように。
「……本当か?」
コクリ、と首肯する前田。嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
このヌマ高に転校生がやって来ることは、全くと言っていいほどありえない。
転校生というのは否応なしに目を引くものだ。
そして、頭の悪い連中というのは、そういった目立つ存在にちょっかいを出したくなる。このヌマ高はそういうバカの巣窟だ。
転校生が来ると、学校中の生徒がクラスの垣根を超えてぞろぞろと集まっていき、やがて「転校生歓迎会」という名の暴力行為が始まる。
これによって、その学校内で搾取する側かされる側かを判断する。いわゆる格付けだ。
だが、この歓迎会で成り上がれた者はいない。何せ、その格付けのための基準が最初から決まっていないのだ。それはいわば、転校生をターゲットにした面白半分なイジメだ。
そして転校生は初日以降から、ヌマ高生全員のパシリ兼サンドバッグと化す。集団による暴行を一度味わった転校生はそれを恐れ、奴隷としての職務を忠実に全うし、やがて心身ともに疲弊して転校、あるいは不登校児と成り下がる。中には飛び降り自殺を図った者までいるという噂だ。
これはヌマ高の外でも有名な話だ。なのでヌマ高への転校はタブー中のタブーであると世間には認識されている。
そのタブーを、堂々と破るバカが現れた。
我知らず、口端が歪む。
このイライラは、転校生という名のサンドバッグへ存分にぶつけてやろう。
「その転校生、後で引きずって来い。たっぷり「お・も・て・な・し」してやんよ」
「ウスッ」という返事とともに、前田が再び引き戸の向こうに消える。
岩国は指を鳴らしながら、その時を待つ。
ぱきぱき、ぱきぱきぱき…………
――その鳴らし音が、自信の更なる凋落の秒読みであると、その時の岩国には知る由もなかった。
「ハロー、転校生くぅん。早速だけど、ボクチンたちと遊ばなぁい?」
目の前の男はいやらしい笑みを浮かべながら指を鳴らす。とても遊びに誘う態度ではなかった。
その男を含め、四方をそれぞれ四人の男が自分の周りを取り囲んでいる。
その他にも、楽しい玩具を見つけたような目でこちらを見ながら笑う無数の男たちが竹やぶのように立っていた。その数は軽く二十人は超えている。
鴉間匡は、自分の教室で早速そんな状況下に置かれ、ひどく怯えを見せていた。
薄茶色な髪の襟足は肩に少しかかる程度の長さであり、それを二つの短めな三つ編み状に仕立てている。そのヘアースタイルを被るように存在しているのは、爽やかな好青年に見えるとよく評される顔貌。だが今は恐怖が全面ににじみ出ていて見る影もなかった。
体型は細身だが、身長は一七〇と決して低くない。だが自分を取り囲む四人を含む教室の男たちはみな、自分がチビに思えるほど体格に恵まれていた。
男たちが着ているのは、あの悪名高い沼黒高校の夏服だ。紺色のズボンに半袖ワイシャツ。シャツの二の腕部分には校章の刺繍が施されている。
自分も、同じものを着用していた。
自分は今日、この高校に転校してきたのだ。
先ほど、朝のホームルームで担任教師から「鴉間匡くんです、仲良くするように」と取ってつけたような紹介をされ、すぐにすたこらさっさと去られてしまった。担任がいなくなってから一分どころか三十秒とかからぬ間に、このような状況が完成した。
担任教師がドアを出る際にこちらへ向けてきた気の毒そうな眼差しは、今でも鮮明に覚えている。
自覚している。ここに転入してきたらどんな目にあうのかは。
だが、仕方がないのだ。自分にはここに来なきゃいけない目的があるのだから。
「なぁなぁ、転校生の鴉間くんよぉ? ボクたち今日から同じ学び舎でお勉強するんだよねぇ? お近づきの印になんか欲しいなぁコラァ」
真後ろに立つ男がニヤついた声でそう言いながら、その無骨な手で肩口に触れてくる。
鴉間は恐る恐るな口調で質問した。
「な、なんかって、なんでしょうか……?」
「決まってんだろぉ? コレだよ、コ・レ」
左側の男が片手の親指と人差し指で○を作り、それを見せつけてきた。
「お、お金……ですか?」
「そうよ、分かってんじゃん! ささ、幾らでもいいからおごってくれよぉ。一万円だけでもいいからさぁ!」
右側の男がバンッ、と背中を手のひらで叩いてきた。
鴉間は数度咳き込んでから、
「す、すみません……僕、今お金全然持ってないんです…………」
そうボソボソとかすれた声で告げる。
次の瞬間、前に立つ男が胸ぐらをガッと掴み上げ、怒号した。
「パチこいてんじゃねぇぞボケァ!! さっきテメーが野口のオッサン使ってガッコの販売機でジュース買い飲みしてんトコ見てんだよ俺ァ!! あん時、テメーの札入れにゃ万券が何枚か入ってたんスけどねぇ!?」
「ひっ……ごめんなさい…………!!」
鴉間は縮こまり、しゃくりあげた。
男は胸ぐらから手を離さず、さらに続ける。
「いいかよ鴉間クン、ここじゃ雑魚は「悪」だ。腕力と拳こそが全て。それがねぇ奴は強者のATMか奴隷になるしか道はねぇんだよ。テメーはカスだ。おとなしく俺らに尻尾振ってやがれ」
「………………」
鴉間はガクッと項垂れ、口を閉ざす。
それを見て、男はしたり顔を浮かべて胸ぐらから手を離した。
浮きかけていた鴉間の両足が床を踏む。
「分かったらさっさとポケットから出すモン出しやがれ。ホレ」
嘲笑しながら、目の前の男が手を出してきた。
「……はい。分かりました」
鴉間は沈んだようにこうべを垂れつつ、ポケットをまさぐった。
教室中にゲラゲラと笑いの渦が生まれる。
鴉間は数度右ポケットを探り、指の触覚で目的の物を見つけた。
そして手に取り、弧を描くような右手の動きで目の前の男へ差し出した。
――――伸びた特殊警棒を。
宙に赤い粒が舞った。
それから一秒と待たずにバンガシャーン、という騒音。
目の前から、さっきの男の姿が消えていた。
左側にある教卓が黒板の手前に倒れており、男はその上に突っ伏していた。
頬骨の辺りには太い線状の打撲痕があり、鼻腔からは真っ赤な血が流れ出ていた。
あれほど騒がしかった教室が、水を打ったように静まり返っている。あまりに予想外な出来事に唖然としている様子だった。
しかし、右手の特殊警棒を振り抜いた姿の鴉間は至って冷静だった。
だからこそ、そんな周囲の沈黙を「隙」と捉えることができた。
右側の男に警棒の柄尻を、左側の男に肘を叩き込み、顔貌を叩き潰した。二人はそのまま仰向けに床へ倒れる。
そして最後に、後ろの男へ回し蹴りを食らわせて吹っ飛ばす。
それらの三手を迅速に行い、周囲にいた男三人があっという間にいなくなった。
その後も、沈黙は数秒間続いた。
だがやがて、それは教室全体を圧迫せんばかりの怒号によって破られた。
そんな男たちに鴉間はピクリともせず、特殊警棒で肩をポンポン叩きながら投げやりに言った。
「――あぁあぁ、やっぱり無理でした。こんなウジ虫相手に下手に出てる自分が情けなくなってついボロを出しちゃいましたよ。本当は番格の所に連れて行かれるまでカモを演じるつもりでしたけどね」
先ほどまでとは違う、泰然自若とした佇まい。そこに、さっきまでのいじめられっ子の姿は欠片も残っていなかった。
「まぁ、やってしまった事をいつまでも嘆いていても仕方ありませんね。じゃあ早速あなたたちに聞きたいんですけど、ここで頭を張ってる岩国って人はどこだか分かりますか? 教えて欲しいんですけど」
鴉間は教室の後ろ側でどよもしている大勢の男たちに向かって声高に尋ねた。
しかし、皆何事か怒鳴っているだけで答えない。怒りで完全にまともな思考力を失っているようだった。
やがて、一人の掛け声とともに、全員同時に襲いかかってきた。
「テメーこの野郎」「ぶっ殺す」「くそったれ」…………品のない罵倒の数々をほとばしらせながら、雪崩のような勢いで迫り来る。
「……やれやれ、処置なしですね。やはり現代人と原始人じゃまともな問答はできませんか」
鴉間はため息混じりに肩をすくめると、特殊警棒を右肩に背負うようにして構えた。
「それじゃあ――ここにいる全員を躾けてからゆっくりと聞きましょうかねぇ」
岩国は今なお、空き教室のソファーに一人ふんぞり返っていた。
すでに授業開始時間はとっくに過ぎているが、ヌマ高生にとって授業などあってないようなものである。毎年、出席日数不十分で留年を起こす者も少なくないのだ。
締め切った二つの戸の向こう側からは、怒鳴り声や叫び声がひっきりなしにこちらまで届いていた。
常にやかましいのがここの連中の共通点だが、今の騒ぎようはそれに輪をかけていた。
おそらく、「転校生歓迎会」の最中なのだろう。
他の奴らも、ヌマ高がナメられ始めていることに少なからぬ苛立ちを感じていた。いいストレス発散になるだろう。
ある程度痛めつけた後、前田あたりがその転校生をこちらへ引きずって来てくれるはず。そうしたら自分も思う存分イジメさせていただこう。
手ぐすね引いて、舌なめずりして、待つこと数分。
外から聞こえてくる喧騒が、さっきよりも小さくなっていた。
少しの間首をかしげたが、すぐに思考するのをやめた。おそらく、さっき騒いでいた場所よりも遠くに移動してイジメているのだろう。音が小さくなったのはそのせいに違いない。
しかし、喧騒はさらに小さくなっていく。
やがて十分経った頃には――何も聞こえなくなっていた。
流石に気になった岩国は立ち上がり、戸の一つへ向かって歩き出した。
静かになった理由は分からない。
だが、何か嫌な予感がするのだ。
もしかすると、もっと下の階へ転校生を連れて行ったのかもしれない。それならいいな。そうであって欲しい――胸騒ぎが我知らず高まっていく。
いずれにせよ、廊下に出て少し移動すれば全て分かること。
そう思いながら戸の前に立ち、引手に手を伸ばそうとした時だった。
――カツッ、カツッ、カツッ…………。
静まり返っていた戸の向こう側から、突然、一人分の足音が聞こえてきた。
岩国はビクッとした。
戸に伸びかけた片手がじわりと汗をにじませる。
その足跡は徐々に、徐々に大きくなっていく。そう、こちらに近づいて来ているのだ。
岩国の意思とは関係なしに、両足が後退し始める。
ヌマ高の頭であるこの俺が、どうして足音程度でイモ引かなきゃなんねぇんだ――そう心の中で息巻きながらも、両足は下がるのをやめてくれない。
足音が、その主の存在をうっすらと感じられるほどにまで近づいてきた。
抱いていた嫌な予感が、顕在化していくのを感じる。
やがて岩国が部屋の中央まで下がったのと同時に――さっきまで手を伸ばしていた戸がガラッとひとりでに開いた。
「――やあ。おはようございます」
現れたのは、一人の優男だった。
男子高校生の平均値ほどの身長、見た感じ筋肉量に乏しい細身な体型。
短めな二束の三つ編みを作った薄茶色の髪の下には、爽やかそうだが、どこか空々しさを感じさせる面構えがあった。
ヌマ高生は皆ハッタリが効くような髪型や格好をしているため、こういう清潔感を感じるタイプは全くと言っていいほどいない。それゆえ知らぬ顔だった。こんな生徒がいただろうか?
その男の右手には特殊警棒。そして左手には一人のヌマ高生がワイシャツの襟を掴まれ、うつ伏せにぶら下がっていた。その人物は――
「ま……前田っ!?」
岩国の側近的な存在、前田だった。
その制服のあちこちには汚れやシワが無数に目立ち、額から流々と血を垂れ流している。どう見てもやられた後の状態だった。引きずってここまで連れてこられたのだろう。
「道案内ご苦労様です。もう休んで結構ですよ」
三つ編みの男はそう言うと、前田を端にどさっと投げ捨てる。
うつ伏せで床に倒れた前田は「うう……」と軽く唸りはするものの、起き上がる事はなかった。
そんな姿を見て、岩国の頭に血が登ってきた。
しかし三つ編みの男はそれを歯牙にもかけず、相変わらず空々しい爽やかさを纏って挨拶してきた。
「お初にお目にかかります。僕は鴉間匡。今日ここに来た転校生にして――この沼黒高校の新たなトップとなる予定の人間ですよ」
仲間を半殺しにしておいて、この態度である。岩国の怒りがますます燃え上がった。
「オメェが転校生か……いい度胸じゃねぇかオイ。現トップであるこの俺の前でそんな事が抜かせるとはよぉ」
「一応恐縮です、と言っておきましょうかね」
「……他の奴らはどうした? 「歓迎」されてたんだろ?」
「みんなそこで寝ている彼と同じ目にあわせましたけど? 嘘だと思うなら廊下に出てみてくださいよ」
岩国は焦りでよたつきながらも駆け出し、戸を開けて廊下を左右見回した。
「なっ……!!」
信じられない光景が目に映った。
今いる場所から少し先に、何人ものヌマ高生が雑魚寝していたのだ。
皆、例外なく手傷を負っており、蚊の鳴くような呻きを上げるだけで動くことができずにいた。
「テメェ……!!」
岩国は三つ編みの男――鴉間を射殺さんばかりに睨めつける。
特殊警棒一本で、大勢のヌマ高生をあしらえたことには驚愕だ。
だが岩国の中では、自分の城を汚されたことに対する怒りの方が勝っていた。
「おやおや、お怒りですか? でもあなたでは僕には勝てないのでやめた方がいいですよ。大人しく僕にそのみすぼらしい玉座を譲っていただけませんかねぇ?」
挙句の果てにそんなことをのたまう鴉間。
それが火種となった。
「このクソガキがぁぁぁーーーー!!!」
猪のごとく突っ込み、その石のような拳を振り出す岩国。
だが鴉間は闘牛士よろしく、紙一重で身を躱して見せた。目標を失った拳が空を切る。
勢い余って鴉間を素通りし、その勢いを前の足によるブレーキで止めてから向き直る。
そこから再度鴉間めがけて突っ走り、渾身の力を込めた左ラリアットを放った。ブオッ、と風を纏う感覚。
しかしそれを、鴉間は軽くしゃがむだけで回避。身長差が十センチ以上あるためか、躱すのは難しくなかった様子。
それから何度も何度も殴打や蹴りを行ったが、鴉間は涼しい顔をしながらそれら全てを難なく回避した。
無駄な体力を多く消費したせいで、岩国の息が上がってくる。
「遅すぎますよはっきり言って。僕がその気ならもう二十回は打ち込んでますね。まさかそれで本気なんじゃないでしょうねぇ? だとしたらシャレになりませんよ。興醒めもいいところです」
「うるっ……せぇっ!!」
ひっつかんでその減らず口を黙らせてやる。そう思いながら岩国は掴みかかろうと追いかけるが、鴉間は軽やかな足さばきで逃げ回るため、捕まえられない。
鴉間の代わりに空気を何度も掴んでいるうちに、スタミナが戦意とともにさらに磨り減っていく。
やがて足が止まり、中腰立ちの状態で荒々しく息継ぎする。
そんな岩国を、鴉間は見苦しそうな顔で見つめる。
「ヤニりすぎなんじゃないんですか? いくらなんでも体力なさすぎですよあなた。あぁあぁ、なんだか弱い者イジメしてる気分になってきちゃいましたよホント」
億劫げにそうまくし立てると、鴉間は持っていた特殊警棒をこちらの足元へ軽く投げた。
その棒は黒だったので、こうして近くから見るまで付着した返り血を視認出来なかった。
「ハンデをあげます。それ使っていいですよ。代わりに僕は右手でしか攻撃しません。どうです? これでやっとフェアの一歩手前までにはなったんじゃないですか?」
「んだと…………!?」
「あれあれ? ナメられてるとお思いですか? それとも武器で誰かを殴るのが怖い、だから男の勝負はステゴロしかできないとか言っちゃうタイプなんですかねぇ? どうなんですか――弱虫番長の岩国毅さん?」
鴉間は抑えるようにしつつも、抑えきれないとばかりにクックッと笑声を漏らす。
だが笑いを隠そうとしているように見えて、実は一切隠すつもりが無いのがよくわかる。むしろ、わざとらしく堪える仕草を見せることで、腹立たしさを一層倍増させている工夫すら感じた。
岩国の中で何かが弾けた。
屈辱と怒りが、風前の灯だった岩国の戦意を再燃させた。
足元の特殊警棒を躊躇いなく拾う。
「っけんな!! っ殺すぞッラァァァァ!!!」
言葉の崩れかけた怒号を発し、岩国はスタミナ切れすら忘れて鴉間めがけて突進。振り上げた右手の特殊警棒を縦に振り下ろした。
だが、棒が右肩を打つ直前、鴉間はその場で軽く時計回りに身をよじることで避けた。
岩国は空いた左腕を伸ばし、鴉間の服を掴もうと試みる。掴んだらそのまま引き寄せ、頭突きを食らわせる算段だ。
しかし、今度は反時計回りに旋回しながら、岩国の左腕を流すように回避。
鴉間はそのまま岩国の左側面を転がるように回転しながら伝っていき、やがて背後を取った。
「くそっ!!」
振り向きざま、特殊警棒を横薙ぎする岩国。だがその時にはすでに、鴉間は岩国から距離を取っていた。
鴉間は冷笑してこちらを見ている。
完全にいいように遊ばれている。その表情を見て確信した。
「やれやれ、いい加減避けてばっかりなのにも飽きて来たなぁ。そういうわけで僕も攻めますのでよろしく」
そう言うや否や、鴉間は真っ直ぐこちらへ歩き進んで来た。
こちらには武器がある。だというのにそれを気にすることなく、ズカズカと物怖じしない足並みで近づいて来る。
それゆえに思わず気圧され、一歩退いてしまった。
その瞬間、鴉間は一気にこちらへ前足を踏み出しつつ、握りしめた右拳を腹部へ向けて突き込んできた。
「~~~~!!」
岩国は声なき声を上げ、床にガクッと膝を付いた。
打たれた部位を大事そうに片手で押さえながら、岩国は弱々しい目で鴉間を睨む。
額に脂汗が浮かぶ。
今の一拳、重さだけならそれほど大したことはなかった。かといって、打たれた場所が急所かというとそうではない。体の中心線からは見事に外れている。
だというのに、どういうわけか――膝を付きたくなるくらい痛い。
これは、一体なんなんだ……?
「クソッ……タレ…………がぁっ!!」
岩国は渾身の気力で立ち上がり、右手の特殊警棒を横へ薙ぐ。
しかし、苦し紛れの一撃であったこともあり、左足で大きく一歩後ろへ退いた鴉間に簡単に回避を許してしまった。
再び、鴉間と自分に大きな間隔ができる。
岩国は、距離を再び詰めようと考えた。
その時だった。
鴉間の姿が――――突然目と鼻の先に現れた。
瞬きをする間どころか、思考する間すら与えられず、岩国の腹部へ「左拳」が突き刺さった。
「がふっ――――!!!」
体内の空気を絞るように吐かされる。
八○キロ弱ある岩国の巨体が大きく後方へ飛び、背中から引き戸に直撃。レールを外れた二枚の戸とともに、バシャァーン、と廊下側へ倒された。
「う……あ……っ」
仰向けの状態で、数度小さな呻きを漏らす岩国。
朦朧としかけた意識の中、考える。
――なんだ、さっきのスピードは?
鴉間の動きが、全く目で追えなかった。
速い、という言葉で片付けてはいけないような動き。終始の過程どころか「始まりの動作」すら省き、「至近距離に近づいた」という最終的な結果のみを抽出したような、異質で常識はずれなスピード。
いや、それよりも――
「て、てめぇ…………なんで左手使ってんだよ……右手だけっつったよな…………」
岩国の恨みがましいうめき声に、鴉間はわざとらしく吹き出した。
「――ヌマ高の皆さんって意外と純真無垢なんですねぇ。右手だけなんて嘘ですよ。バトル漫画の読み過ぎじゃありません?」
そうほくそ笑む姿に、内なる憤りが湧き上がる――この卑怯者が。
だが、今度ばかりは体が起きてくれなかった。踏ん張る踏ん張らない以前に、力が入らない。
そんな自分の元へ鴉間はゆっくりと近づき、打った箇所をガッと踏みつけた。激痛が走る。
「さっき僕「この学校で雑魚は「悪」だ」って教わりました。だったらこの状況では僕が正義ってわけですよね? だったら大人しく白旗挙げてトップの座を渡してください。無駄なカロリーは使いたくないんですよ」
岩国はギリッ、と拳を強く握り締める。
トップでいる感覚に慣れ親しんだ身としては、この地位を譲渡するなど真っ平ごめんだった。高級料理の味に慣れると、それ以下の料理が口に合わなくなるのと同じだ。
「おととい来いや……ボケナスが」
「聞き分けの悪い人ですねぇ。これ以上反骨心を出されると、あなたを僕ら『五行社』の敵として考えなくてはならないんですが」
鴉間を見上げる目が、これ以上ないほど大きく開かれる。
「『五行社』……だと……!?」
「そう。僕はその五人のうち「水」の称号を持つ者。水というのは隙間さえあれば、どんな堅牢な城壁すらも容易くすり抜け、そして侵食する。この沼黒高校は今、僕に侵食されたんですよ。今日からあなたたちには、僕の兵隊となって頂きます。そして――我々のための資金を全校生徒総動員で集めるんだ」
ハッタリである可能性は非常に低く思えた。
何せコイツは、あんなに大勢のヌマ高生を一人で全滅させたのだ。
『五行社』はたったの五人しかいない少数組織だが、一人一人がその少なさを補って余りある強さを持っている。だからコイツの言う話をすんなり信じてしまった方が、強さにも納得がいく。
その五人の中で、特に「土」が非常にヤバい。奴が一人で五十人ものグループを全滅させた所を見た奴が何人もいる。
アゴで使われてタカリのノルマ合戦なんて屈辱的な真似はごめんだ。
しかし『五行社』を敵に回したくはない。
合理性と矜持が心の中で激しく揺れ動く。
「まあそう身構えずに。岩国さん、あなたにとっても悪い話ではありませんよ? あなた――工藤要はご存知ですよね?」
藪から棒に、鴉間が問うてきた。
――知らない訳が無い。
奴のせいで、こっちがどれだけストレスを溜めてると思ってんだ。
鴉間はまるでそれを見透かしたような目でこちらを見下ろしていた。
「ええ。分かってます分かってます。彼が現れてから、あなたたちヌマ高生はナメられっぱなしですしねぇ。殴りたいですよねぇ? 報復したいですよねぇ? 踏みつけて高笑いしたいですよねぇ? もしあなたが望むのなら――そういった欲望を叶えて差し上げますよ」
岩国は息を呑んだ。
あの工藤要に、復讐できる?
だが岩国は一度理性的に構え、なぜ自分のそんな望みに手を貸すのかを尋ねた。
すると、
「僕らも工藤要を疎ましく思っていましてね。だったらついでにあなたの鬱憤晴らしに付き合うのも面白いかと。利害の一致ということで、どうですか?」
と、提案混じりに述べてきた。
岩国は考える。
確かに、金集めをさせられるのは面倒だし、屈辱だ。
しかしその見返りとして、この学校の威厳を貶めた憎き工藤要に復讐できるのだ。
いくら奴でも『五行社』の連中にまで勝てるはずがない。連中は格が違うのだ。
岩国は想像した――打撲痕だらけな顔を水っぱなと涙でぐちゃぐちゃにしながら、すがりついて懸命に許しを請う工藤要の姿を。
その妄想だけで、軽く胸がすく思いだった。
「……分かった。俺ァ下りる。次の頭はアンタがやってくれ」
岩国は呑んだ。
今の自分の顔は鏡無しでも分かる――笑っていた。
鴉間は岩国の胴体から足を退けると、再び空き教室の中へ戻る。
そして――ソファーチェアにどっさりと腰を下ろした。
「それじゃあ――今日からこの椅子は僕が頂きますね」
ヌマ高の頭がすげ替わった瞬間だった。
その後、ヌマ高のトップ交代のニュースは、驚くべきスピードでその日のうちに海線堺市中へ波及した。
それが鴉間の手下の仕業であることは、『五行社』に組する者しか知らない。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
ようやく第三章の起承転結の「起」の部分が終わりました。
もう片方の作品をちょこちょこ更新してから、「承」の部分を書き始める予定です。
暑いですが、炭酸水片手に塵を積むがごとく地道に書いていきますので、よろしくです(;´Д`A




