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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第二章 ボーイミーツガール編
44/112

最終話 黄飛鴻は猫である


 ある朝。


 要は定期券で改札を通り抜け、潮騒町駅を出た。


 左右二方向に分かれた階段のうち右側を降り、整然と並んだ石畳を踏む。


 通行の邪魔にならないよう階段から数歩離れてから大きく背伸びをし、要は再び歩き出した。


 だが、すぐに妙なモノが視界の端に入る。


 駅前の駐車場の一角に、ブラックカラーの車が一台。


 ただの車だったなら、さして気に留める事なく登校を続けただろう。


 しかし現在停まっているソレは、見るからに高級車と分かるものだった。


 その平べったいフォルムは漆器のような強い光沢を持った黒塗りで覆われており、エンブレムやバンパー、ドアハンドルなどの細部は純銀のような輝きを放ったシルバーカラーだ。


 各ウィンドウはスモークフィルムで覆われているため、乗っている人間の姿が見えない。まるでVIPの乗る車のようだ。


 周囲の人間も一目置いたような眼差しで見ている。


 だが不意に――リアドアの一つがゆっくりと開かれた。


 そして中からは、車のボディカラーと同じ美しい黒髪をたなびかせた少女――倉橋菊子が出てきた。


 菊子は車内に軽く会釈するとリアドアを閉じる。


 すると車は駐車場から離れ、一般道路へと出て走り去っていった。


 菊子はとてとてとこちらへ駆け寄ると、


「え、えへへ。おはよ、工藤くんっ」


 嬉々としてそう挨拶してきた。


「おはよ、倉橋。もしかして、いつもあの車で登校してるのか?」

「ううん。前はお家から自分で通ってたんだけど、お父さんが「危ないから、しばらくは車で通いなさい」って」

「……ああ。なるほど」


 事情を察した要はそう相槌を打った。


「それにしても倉橋、なんかいいことでもあった?」

「えっ? どうしてそう思うの?」

「あ、いや、なんとなく……」


 要はそうお茶を濁す。


 今まで何度か挨拶を交わしてきたが、先ほどの彼女はその中で一番元気そうで、そして輝いて見えたのだ。


 だがそれを面と向かって言うのが少し恥ずかしかった。 


 なので要は誤魔化すように話題の方向を変えた。


「そういや、倉橋も今来たんだ?」


 ううん、と首を横に振る菊子。


 そして、手元をもじもじといじりながら、


「あ、あのね、わたしね、工藤くんが来るんじゃないかなって思って、ここで待ってたの」

「へぇ、そうだったの。どんくらい待った?」

「えっとね…………一時間半くらい、かな」


 要は目を丸くする。


「おいおい、言ってくれてればもっと早く来たのに」

「ご、ごめんなさい」

「いや、謝ることはないけど。むしろ待ってる間そっちが退屈してたんじゃないかって思ってさ」

「ううん。待ってる間臨玉さんとお話してたから。昔のお話とか、いっぱい聞かせてもらっちゃいました」

「……あの車、夏さんが運転してるの?」


 菊子が頷く。


 なるほど、それなら安心だろう。


「それより、早く行こう? 遅れちゃいますよ」


 彼女にそう促され、一緒に登校を再開した。


 駅前の横断歩道を渡り、学校へと向かうシオ高生の流れに乗ずる。


「……うん?」


 その時、要はある奇妙な事に気づいた。


 すれ違うシオ高生が、こちらへチラチラと視線を向けているのが見えた。


 その視線は自分が見返した途端にそっぽを向いてなりを潜めてしまうが、すると今度はその見返した方向とは違う場所から視線を感じる。そちらへ目を向けるとまたそっぽを向かれ、再び最初の方向から視線を浴びる気配。モグラ叩きでもしている気分だ。


「工藤くん?」


 それに気づいているのかいないのか、菊子が顔を覗き込んでくる。


「ああ、何でもないよ」


 愛想笑いでそう返す要。


 まあ、いっか。












 ――「倉橋菊子誘拐事件」からすでに数日が経過していた。


 感動の親子の対面の後、菊之丞はすぐに警察に通報。林とその一派は無事逮捕された。


 林の仲間は廃工場にいた連中以外にもまだ十人ほどいたらしく、そいつらはそれぞれ違う県に数人ずつ分かれて潜伏していたそうだ。

 

 連中は全員香港行きのエアチケットを用意していた。身代金の受け取りを確認次第、全員一番近くの空港から日本を離れ、香港で落ち合い金を山分けしようという計画だったらしい。いわゆる高飛びというやつだ。


 驚くべきことに、身代金の受け取り役を引き受けていたとされる人物は過去に殺人を犯していたらしい(故意ではなかったらしいが)。林はその事を知っていて、なおかつ万が一起こりうる持ち逃げのリスクを防止するためのストッパーとして使っていたらしい。「もし金を持ち逃げしたら、この事をお巡りに密告(チク)るぞ」といった感じだ。


 だが――そんな連中も全員ワッパをかけられた。


 しかし、林に至っては例外だ。


 林は警察が捕らえたのではなく――自ら出頭してきたのだ。


 その後も林はびっくりするくらい素直に取り調べに応じているらしく、そんな彼の証言によって残党も芋ずる式に検挙されていった。各県警の快い協力のおかげでもあったが。


 ――と、これらは全て、担当の刑事の一人から聞いた話である。


 捜査情報を無闇に一般市民に告げるのは宜しくないことだが、被害者側である以上、言わないわけにはいかないとのこと。


 ついでとばかりに、林の様子についても教えてくれた。


 手錠をかけられ、身なりもボロボロ。だがそんな林の表情からは、まるで憑き物が落ちたかのような晴れやかさが感じられたという。


 そして、自分――工藤要に宛てて、こんな伝言を頼んできたそうだ。


 ――お前はまだ弱いが、腐らなければ必ず良い拳士になる。くれぐれも俺のようにはなるなよ。


 一体何の事を言っているのだろうと小首をかしげている刑事を余所に、要は半ば狐につままれたような心境となっていた。


 ――あの極悪野郎が、そんなことを言ってたなんて。


 その時、隣に立っていた臨玉が、林の生い立ちについて話してくれた。


 林の父親は酷いDV男で、幼い林と母親に対して日常的に暴力を振るっていたという。

 二人はそんな熾烈な暴行に心身ともに疲弊していき、とうとう耐えかねた母親は林を置いて逃げ出した。そのせいで、林一人が集中的に暴力を振るわれるという最悪な環境が出来上がってしまった。

 林も母親同様逃げたかったが、経済能力のない子供が一人で生きていくことなど不可能。助けてくれる人もいない。どんなに理不尽を強いられても、林は父親の脛にかじりつくしかなかった。


 だがそんな地獄の日々が続いたある日――林は武術と出会った。

 

 無力な子供でしかなかった林は、その武術という力を見て、それを切望した。

 それからというもの、林は家の物をこっそり質に出して月謝を作りながら、懸命に修行に励んだ。

 そして、家の物をくすねていることがある日父親にバレて暴力を振るわれそうになったが、それを返り討ちにしてみせた。

 父親の汚物を見るような眼差しが、おもねるようなソレに一八〇度変わった瞬間、林は本格的に武術という力に対する妄執を抱くようになった。

 以来、林は悪い方向に人が変わってしまった。

 些細な事ですぐにキレて暴力を働く易怒性。相手を叩き潰すことに愉悦を感じ、すぐ人に憎しみを抱く。そんな人間になった。


 彼は根っからの悪人ではなかった。周囲を取り巻く悪環境が、歪んだ人格へと彼を導いてしまったのだ。


 それらを話した上で臨玉はこう続けた。


「……このままいけば、奴はいつか意味なく人を殺していたかもしれない。だからこそ奴の口からそんな台詞が出たことに対して、かつての師としては少し嬉しくもあるよ」


 無論、お嬢様に狼藉を働いた事は断じて許しがたいがね、と一旦区切ってから、臨玉は要の方を真っ直ぐ見ながら先を続けた。


「奴はその過激で傲慢な人格を除けば、武術家としては非常に優秀だった。僕の元にいた時も、他の門弟は誰も奴に敵わなかったほどだ。だが君のような少年に倒されたことで、奴の中で何かが変わったのかもしれない。いずれにせよ、林にそんな殊勝な振る舞いと言動を取らせたのは間違いなく君だ。お嬢様を助けてくれた事、そしてあの林にそんな言葉を言わせてくれた事、二つの意味で君には下げる頭が足りない。だが本当に、感謝する」


 その長身を折り曲げ、深々と頭を下げられた。


 要はそれに対して大いに恐縮した。


 はっきり言うと、自分一人では絶対に勝つ事は出来なかった。


 菊子があの時手を貸してくれなかったら、自分は林のカウンターで確実に地べたを舐めていただろう。


 戦いに勝って勝負に負けた、という表現が似合う結果だ。


 もちろん、あの時は非常事態だったのでそんなことを気にしている場合ではなかったはずなのだが、全てを独力で遂げたかったと欲張る自分がいることも否定できない。


 いずれにせよ、自分にはまだ精進が必要だと思った。


 そんな風にここ数日の事を振り返りながら、要は菊子を隣にしながら校門を通過した。


 昇降口へ入り、お互い別々の位置の下駄箱で上履きへと履き替えてから、再び並んで校内を歩く。


「……あの、工藤くん…………」


 その途中で、菊子が何やら気後れした様子で自分の二の腕をちょんちょんとつついてきた。


「どうしたの」

「あの……わたしたち、なんだか見られてるような…………」


 そう言って、遠慮がちに周囲へ目を向ける菊子。自分もそれに便乗する。


 すれ違う生徒は数多いが、そのいずれもが自分たち二人へ目を向けていた。


 その視線からは好奇というか、そういったものを顕著に感じられ、なんだか居心地が悪い。


 一体、なんなのだろうか。


「なんだかわたし、ちょっと怖いかも……」

「……まぁ、気にせず行こう。いきなり飛びかかってくるわけでもないし」


 だが、慣れ親しんだ一年三組の教室の前まで来た瞬間――予想に反して飛びかかってきた奴が一名。


「グッモーニン、スーパーヒーロー!!」


 ソイツ――クラスメイトの倉田は教室の入口からこちらへ飛び出し、自分の首をがっちりロックしてきた。


 菊子が「ひゃっ?」と小さく悲鳴を上げて引き下がる。


「ははっ、ヤバいよ! こんな身近にとんだスーパーマンが現れたもんだなぁ! ダチとして超ハナタカだよ!!」

「ちょっ、何言ってるのか分かんねーから! ていうか痛い痛い離せ倉田っ!」


 強引にヘッドロックを振りほどく要。一体どうしたってんだ。


 だが倉田が攻め込んだ事を皮切りに、一年三組教室の出入り口からわらわらと見覚えのある顔が出てきて、あっという間に要と菊子を中心にしたドーナツを形成した。


 クラスメイトたちの表情からは、例外なく羨望のようなものが見て取れた。


「な、なんだよ。どうしたんだよみんな?」


 その不可解な現象に戸惑いを見せる要。


「お前……もしかして知らねぇのか?」


 不意に聞こえた声は、クラスメイトの輪の中からこちらへ歩み寄ってきた達彦のものだった。


「知らないって、何をだよ」

「はぁ……ほれ、こいつだよ」


 苦笑気味に達彦が渡してきたのは、一枚の新聞紙だった。


 どれだけ手を付けられたのか、その新聞紙はすでにくしゃくしゃの有様だった。だが、読む分には問題はない。


 新聞の一番上に印刷されていた日にちは、今日。


「――――はっっ!!??」


 ある記事を見た要は、思わず我が目を疑った。


 もしかして夢でも見てるのか。そう思ってほっぺたをつねるという漫画みたいなことを思わずやってみたが、やはり自分の五感は今を現実と正しく認識していた。


 新聞の半面近くを陣取ったその記事の写真に写っていたのは――


「わたしたち……だね…………」


 そう、要と菊子だった。


 ボロボロになった自分が、その目の前に立つ菊子と手を握り合い、頬を染めながら小さく微笑んでいる。


 その小っ恥ずかしい絵面の写真は――『男子高校生、某企業の令嬢を誘拐から救う』という名の記事に添え付けられていた。


「なんだ、これ…………!?」


 あまりの出来事のせいで、今の要は上手い言葉が出なかった。


 活字の羅列には自分の勇敢(?)な行動と、それを褒めちぎるワードが所狭しと散りばめられていた。読めば読むほど顔が熱くなってくる。


「大した奴だよお前は。とうとう新聞に載るようなことまでやらかすとはな」


 ニヤニヤ笑いながら達彦が言ってくる。皮肉半分、賞賛半分といった感じだ。


 その言葉の次に、周囲のクラスメイトたちから一斉に拍手が送られた。


 要はどうしていいか分からず、逃げるように手元の記事に視線を落とした。


 ていうか、どこでこんな写真取られたんだ――そう考えていた時、写真の下に小さく書かれた活字に目が止まる。


 ――写真提供『歌川フォト』。


 あの店長か!


 次の瞬間、怒涛の質問攻めがワッと押し寄せてきた。


「工藤お前スゲーな!」「マジヒーローじゃん!」「表彰とかされるんじゃね!?」「お前マジで高校生かよ!?」「実は忍者の末裔とかじゃねーの!?」「そういや何かやってるんだったっけ!? 暗殺拳!?」「秘孔突いて誘拐犯を爆発四散させたの!?」「他校のダチにお前の事自慢していいか!?」「握手してくれ!」「サインしてくれ!」「一緒に写メらせてくれ!」


 ……入学間もない頃、達彦を最初に倒した次の日の朝とデジャヴした。ああ、あの時もこんな感じだったっけ。


 なんて考えている場合ではない。


「た、助けてくれ達彦!」

「やだね。これもヒーローの宿命だぜ要ちゃんよ。嬉しい悲鳴とでも思って我慢してくれ」

「薄情者っ! もういい、お前には頼まん! 倉橋、助け――」


 てくれ、と続けようとした時だった。


「ねえねえ、あなた写真に写ってる娘じゃない!?」「ホントだ! さっき写メった記事の写真に写ってる!」「しかも工藤くんと手握ってるよ!?」「二人ともニコニコしてて幸せそー!」「もしかして工藤くんの彼女!?」「髪すごくキレー! サラサラだしー」「肌も真っ白! すべすべしてて気持ちいー!」「いいなー、羨ましいー!」


 菊子まで雪崩のごとき質問攻め、ときどきお触りにあっていた。女子から。


 はわ、はわわわ。そんな風に口を動かしながら、菊子は顔を真っ赤にして戸惑っている。


 …………ごめん。お互い頑張ろうな。


 結局、その大騒ぎは担任が来るまで続いた。









 ◆◆◆◆◆◆









 今日の授業が無事に終わり、放課後。


「やべーよどーしよー新聞に載っちゃったよぉぉぉ」


 昇降口を出て学校の敷地内を歩き出した要は、頭を抱えて苦悩していた。


 朝のような騒ぎは、ホームルーム前にとどまらなかった。


 休み時間になると、クラスメイトだけでなく他クラスからも人が集まってきて、また朝のように詰問されたり写メられたりした。おかげで落ち着いて昼食もとれなかった。


 正直言ってしまうと鬱陶しかったが、悪意でそうしているわけではないので邪険にもできなかった。


 自分はそんなに大層な人間だとは思っていないが、人知れぬスターの苦労の一端を味わった気がした。


 だが、一番憂慮すべき点は他にあった。


「ふふふっ、やっぱり変わってますね。普通いいことして新聞に載ったら嬉しがるものなのに、逆に困っちゃうなんて」


 隣にいる菊子がクスクスと笑いながらそう言った。


 彼女は駅前で車を待たせているらしい。目的地は同じなので、途中まで一緒に歩いているのだ。


「だってだって、新聞に載るような事やったんだぞ? バレたら絶対母さんになんか言われるよっ」


 駄々をこねるように拳を縦に振る要。


 亜麻音は自分がケンカや荒事に参加したりするととにかくうるさいのだ。もし誘拐事件を解決して新聞に載りました、なんてことが知れれば、また口うるさくなること相違ない。


 おまけに記事の写真に写る自分はボロボロ。荒事に首を突っ込んだことが一目瞭然である。バレれば言い逃れは不可能だ。


 亜麻音は基本的に新聞は読まない方だが、万が一ということもある。


 背中を向けられたまま小言をブチブチ言われるのは地味に辛い。それを想像するだけで歩幅が小さくなった。


 菊子は若干逡巡するような仕草をしながら、


「その、か……工藤くんのお母さんって、そんなに厳しい人なんですか?」

「厳しい、っていうとちょっと違うかなぁ。なんつーか、変人?」


 自分でも言い得て妙な答えだと思った。

 

「変人なんですか?」

「そーよ。変人も変人。いい年してメルヘン趣味だし、家具や機械だって機能性より「可愛さ」なんてもん基準にして選ぶし。中でも一番堪らないのが、俺にドレスや女物の服を度々勧めてくるところだよ。服買いに行く時も素知らぬ顔で女物のコーナーとか下着コーナーに入ろうとしたりさ。マジで困っちゃうよ。何が悲しくて息子に女装なんてさせたがるんだか」

「そうかなぁ? か……工藤くんのドレス姿、わたしはちょっと見てみたいなぁ」

「ええっ!? 勘弁してくれよ。男のドレス姿なんて見ても虫唾が走るだけだろ。ていうか多分、着た瞬間に俺が死にたくなると思う」

「そんなことないよぉ。か……工藤くんって綺麗な顔してるし、体も細いし、可愛く着こなせるかもしれないですよ」

「褒めてるつもりなのかもしれないけど、全然嬉しくナイ」


 口元に手を当ててクスクス笑う菊子。


 ぶーたれてそっぽを向く要だが、ふと先ほどの会話の中に引っかかりを見つけたため、菊子の方を再度向いて訊いた。

 

「……ていうか倉橋、さっきから言いかけてる「か」ってなんだ?」


 菊子はビクッと震え、小さく息を飲んだ。


 そして口を両手で押さえ、頬を紅潮させる。


「え……あの、その…………」


 どんどん言葉が尻すぼみになっていく。それとともに顔の紅さも濃くなっていく。


 歩いていた菊子の足が止まる。それに合わせて自分も足を止める。


 学校の敷地内。出口である校門まで、まだ距離があった。 


 向かい合う二人。


 目の前の菊子は何かを躊躇うように小さくなっている。何か言いたいのかもしれない。


 要はじっとそれを待つ。その煮え切らない態度に、不思議とイライラは感じなかった。


 やがて菊子は意を決したように口を開いた。




「あのっ、わたしと――――お名前で呼びあって欲しいんです!」




 強い風が二人の間を横切った。


「え……名前? それは別に構わないけど、どうしてまたいきなり?」

「そ、それは…………」


 恥ずかしそうに人差し指同士を絡めながら、菊子はその先を言った。


「わ、わたしたち、お友達なんですよね……? なら、その……お名前で呼び合うものなんじゃないでしょうか……? 工藤くんも鹿賀くんとお名前で呼び合ってますし……だめ、ですか?」


 そう言って切実そうに詰め寄ってくる菊子。要は思わず圧倒される。


 ――もしかしたらさっきの「か」は、俺を「要くん」って呼びたかったのかも。


 いいもダメもない。別に名前で呼ばれるのは嫌いじゃない。

 

「――いいよ」


 なので、要は快く頷いた。


 途端、菊子はぱあっと笑みを咲かせながら、


「本当にっ? 本当にっ?」

「う、うん。好きにしてよろしい」


 うわ、なんか偉そう、俺。


「ありがとうございますっ。それじゃあ今度からわたしを「キクちゃん」って呼んでください」


 ――え?


「なんでまた? 普通に「菊子」じゃダメなわけ?」

「へっ? う、ううんっ。別に嫌なら普通に呼んでもらっても構わないんだけど……ただ…………前のお友達はそう呼んでくれてたから、その、そっちの方がいいかなって」


 ……きっと、小五の頃に仲違いしてしまった友達の事だろう。


「あ、でもっ、誤解しないでくださいっ。別に工藤くんをカヤちゃんの代わりにしようなんて気持ちじゃなくて……ただ、そういうあだ名で呼ぶ方がもっとお友達らしいんじゃないかと思って…………その……」


 次第に声が小さくなり、しぼんだ花のように消沈していく菊子。


 要はクスリと小さく微笑む。


「いいって。別にそんなこと気にしないから。わかった、呼ぶよ。ただしその……恥ずかしいから「ちゃん」付けは無しで「キク」って呼びたいんだけど、ダメ?」

「う、ううんっ! 嬉しい! ありがとう!」


 キク、キク、うふふふっ、と小躍りする菊子。


 少しオーバーリアクションに思えるが、ここまで喜ばれると悪い気はしない。むしろこっちまでちょっと嬉しくなってくる。


 だが次の瞬間、菊子はそれを帳消しにする爆弾発言を放った。




「それじゃあ、工藤くんの事も同じように――――「カナちゃん」って呼んでいいですかっ?」




 唾液が気管に入り、数秒間ゲホゲホとむせ返る。


「ケホッ、ケホッ…………お、おまっ! よりにもよってそれチョイスしちゃうの!?」


 母さんの呼び方と一緒じゃん!


 男なのにちゃん付けとか。家の外でもそんな呼ばれ方されるなんて、どんな罰ゲームだ。


「……ダメ?」

 

 菊子が残念そうな、それでいて哀切な表情を見せて要の顔を覗き込んでくる。


 それを見て要はビクリと全身を震わせた。


 しまった。自分はもうこの娘の事を「キク」と呼ぶと宣言している。ここでごねるのはフェアじゃない。


 しかしそれ以前に、こんな痛切そうに頼んでくる彼女に対してかぶりを振ることが、酷い犯罪行為のようにも思えてくる。


 ……観念しよう。


「……す、好きに呼べよ」


 目をそらしつつ、恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうにそう告げた。


 だが菊子は嬉しそうに笑顔になりながら、


「ありがとうございますっ。それじゃあ、その……これからもよろしくね――カナちゃん」


 …………うわ。やっぱ恥ずい。


「あ、ああ。よろしくな――キク」


 だが、やがて要もそう返した。


「…………」

「…………」


 それらのやり取りを境に、お互い顔を見合わせながら沈黙する二人。下校する周囲の生徒たちの会話や雑踏がさっきよりも鮮明に耳を打つ。


「あの、カナちゃん……そろそろ進まない?」


 先に切り出したのは菊子だった。


「あ、ああ。そうだな」


 カナちゃんという呼び方にはまだ慣れないが、要は一応相槌を打った。


 爪先を校門に向けて、再び歩き出す二人。


「そういえば、飼い主……まだ見つかってないね」


 その途中で、不意に菊子がそう口火を切った。


「確かに、そうだな…………」 


 要は深い、深いため息をついた。


 誘拐事件の翌日は月曜日であった。二人はその日からすぐに校内で白猫の飼い主探しを再開したのだが、今まで同様、一向にいい返事はもらえていない。


 覚悟はしていたつもりだったが、ここまで成果無しだと流石にへこむ。


「俺最近調べたんだけど、動物病院なんかに頼むと、掲示板で飼い主募集とかしてくれるらしいぞ。最悪、そっちに頼るって手もありなんじゃないか?」

「うん……でもわがままを言うなら、お友達とか、親戚とか、そういう身近な人に飼ってもらいたいって思うの」

「どうして?」

「身近なだけあって、その人がどういう人なのか深く掘り下げないでも分かるから。もしその人が優しい人で、飼ってくれるって言ってくれたら、それで解決なんだけど……ダメだった。親戚の人たちに訊いたんだけどみんなお断りされちゃった。それにわたし…………工藤くん以外にお友達いないから」


 最後の方をやや落ち込み混じりの小声で言う菊子――ごめん、悪いこと聞いた……。


「うーーん、俺も宛がないなぁ……」


 亜麻音がペットNGを出している時点で自宅で飼うという選択肢は除外される。他にも血縁上の親類は一応いるが、あの人たちにはとある事情のせいで助力は望めない。


 達彦はアウト。倉田と岡崎も首を横に振った。


 菊子同様、自分の身近な人たちもペットは軒並みノーサンキュー。


「――ん? 待てよ……」


 要はあることにふと気づき、目頭を指圧した。


 思案を巡らせ、小さな火の粉のようなその発見を大きく、そしてはっきりとした姿にした。


 ――一人、いた。


 そうだよ。どうして今まで気づかなかったんだ。


 灯台下暗しどころか、昼間の灯台の下にあるものの存在すら見えていなかった。


 いるじゃないか。まだ聞いてない、身近な人が一人だけ――!


「倉は……キク、ちょっと俺についてきてくれるか」


 いきなりそう言われて若干オロオロする菊子だが、すぐに首肯を返した。


 それを確認すると、要は真っ直ぐ歩き出した――――易宝養生院へ。











「構わんぞ?」


 その一人として白羽の矢が立てられた人物――劉易宝は、あっけらかんとした調子でOKを出した。


「へ…………?」


 あまりにあっさりしたその返答に、要は一瞬我が耳を疑った。


 現在、要は易宝養生院の居間にあるダイニングテーブルの一角に、易宝と向かい合う形で着席していた。


 要の隣の席では、菊子がちょこんと座っていた。要同様、易宝が客人として迎え入れてくれたのだ。


 だがその様子はそわそわしていて、やや居心地が悪そうだった。初めて会った人の家に入ったので緊張しているのかもしれない。


「嬢ちゃん、自分ん家だと思ってもっと楽にしていいぞ」


 易宝はそれを見破ったのか、小さく微笑みながらそう促した。


 「は、はい……」と菊子は返事するが、やはり緊張気味な態度は抜けきらなかった。


 そんな菊子を易宝は苦笑しつつ眺めながら、


「で、この娘は誰なのだ?」

「えっと、俺の同級生の――」

「も、申し遅れました、く、倉橋菊子です。よろしくお願いしますですっ」


 おずおずとながらも行儀良く頭を下げて挨拶する菊子。


「そうか。わしは劉易宝。この小僧の武術師範をやっとる。よろしくな」


 菊子は易宝へ再度ペコリとこうべを垂れる。


 すると易宝は顎に手を当てて考える仕草を見せながら、


「ふんむ……しかし菊子か…………菊子…………よし決めた。今度からはおぬしのことをキクぼ――――」

「はいストォ――――ップ!!」


 要は素早く身を乗り出して声を張り上げ、易宝の出鼻をくじいた。


「なんだ騒々しい」

「騒々しいじゃねーよ! 俺や達彦はともかく、女の子に向かって「坊」付けはねーだろ「坊」付けは!」

「やっぱダメか?」

「ダメッ! それじゃ可哀想」

「ふむ……じゃあ保留にするか」


 永遠に保留にしていいよそんなの。


「それよりも、本当なのかよ? 猫引き取ってくれるって」

「何度も言わすでないわ。特別何かを保菌しているわけでないのなら引き取って構わん」

「だ、大丈夫です、何も持ってません。マダニやノミが付かないように、定期的にブラッシングもしてあげてます」


 菊子の言葉に、そうか、とにこやかに頷く易宝。そして、


「なら是非もないな。わしはここで一人暮らしが長いから、そろそろ小動物の一匹でも飼って良いかなと思っていたのだ。中国人らしく鳥を飼うという手もあったが、狭い鉄籠の中に閉じ込めて鳴かせるという行為がわしはどうにも好きになれん。反面、猫は自由気ままに行動させて問題ないからちょうどいい。打算的に考えると、客寄せにもなるかもしれんしな」


 ――決まりだ。


「マジでっ!? やったぁ――――!! やったなキクっ!!」

「うんっ、うんっ! ありがとうカナちゃんっ!」


 カナちゃん呼ばわりに対する羞恥も忘れて、要は菊子と手を取り合って大喜びした。


 良かった。飼い主が見つかった。本当に良かった。


 しかもそれがこの人なら、なお安心だ。


「その喜びようから察するに、飼い主探しは相当難航しとったようだのう。して、その猫は?」


 易宝にそう問われると、


「キク!」

「うんっ、カナちゃん!」


 二人は顔を見合わせてバッと席を立った。


「師父、今連れて来るからしばらく待っててくれないか?」










 ――そして数十分後。


「ほう、おぬしか……」


 そんな易宝の呼びかけに、菊子の手に抱かれた白猫が「うなーう」と返事をするように呑気な鳴き声を上げる。


 要と菊子は速やかに河川敷へと向かい、猫を連れて易宝養生院に戻って来た。


 往復には、駅前で菊子を待っていた倉橋家の自家用車を使った。電車に乗せるわけにはいかなかったからだ。その車は現在、易宝養生院の近くの路肩でアイドリングさせながら菊子の帰りを待っている。


「あの、飼ってくれるんですよね……?」


 菊子が遠慮がちに訊く。


 実際見るとそれほど可愛くなかったから飼うのをやめた――そんな答えが来るのを心配しているのかもしれない。


 易宝はそれを見透かしたような顔で菊子を見つつ、はっきりと答えた。


「――この劉易宝に二言はない。安心したまえよ」


 易宝は人差し指で白猫の顎をくすぐる。喉がゴロゴロと鳴る。


 それを聞いた菊子は、安堵と嬉しさを同時に感じさせる微笑みを浮かべた――自分もきっと同じ顔をしているに違いない。


 だがそこで、ふと気がかりなことが頭に浮かんだ。


「あの師父、そいつの名前――」

「もう決めた」

「早っ!」


 そんな要の突っ込みを余所に、易宝は菊子から白猫を受け取る。


 そしてその真っ白な顔と見合わせ、誇らしげに宣言した。




「いいか猫。今日からおぬしの名は――――「フェイフォン」だ」




 ぴちょん、と台所の蛇口から水滴が落ちる音が聞こえる。福音のように。


「フェイフォン……?」


 聞いたことのないソレに、要は訝しげな顔をする。


「清代に実在した医師にして洪家拳の達人「黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)」が由来だ。香港武侠映画の世界では英雄視されていて、奴を題材にした作品はギネスに載るほど数多い。性別はオスだしちょうどいいではないか。どうだ、そんな名をもらえておぬしも嬉しいだろうフェイフォン?」


 「うなーう」と鳴く。


「ほれ見ろ、こいつも嬉しいとよ」

「ホントかよ……?」


 要は乾いたような苦笑を見せて言う。


「ふふふ……よかったね、フェイフォン」


 指でチロチロ頭を撫でながら笑う菊子。もしかして気に入ってるのか、その名前?


「――ま、いっか」


 要は肩をストンと落とし、諦め――もとい納得した。






 こうして白猫改め――――フェイフォンは、晴れて易宝養生院の一員となったとさ。






読んで下さった皆様、ありがとうございます!


これにて第二章はお開きとさせていただきます。


第三章のプロットもほぼ完成しておりますゆえ、そう遠くない日に更新再開できるかもです。


しかし恥ずかしながら、第二章のおまけはまだできておりません……ですが、近いうちにアップいたします。


以上、魔人ボルボックスでした。

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