第三話 何が悪い
一週間少々が経過した。
学校の授業も午前午後合わせて行われるようになり、学校に通っているんだという実感が湧き始めた。
授業内容は、今のところ高校受験のときに勉強した範囲の復習的なものだったので、順調についていけている。
交友関係に関しても、親友とまではいかなくともそれなりに話せる友達が何人かできた。要は基本的に人付き合いは苦手ではない。
始まったばかりの学校生活は、今のところ順風満帆であった。
一方――同じく始めたばかりの拳法の修行でも、甲乙つけがたい成果を出せていた。
「ふっ…………ふっ…………」
要は六限までの授業を終えた放課後、春の夕日が差し込むここ易宝養生院の中庭で修行を開始していた。
最初はお決まりの『頂天式』から始まり、それを終えたら休む間もなく『開拳』。
腰と引き手、後ろ足の伸びを同時稼働。軽い吐気とともに足を踏み出し、正拳を突き出す――そんな動作を繰り返し練りながら、要は何度も何度も中庭の敷地を往復し続けている。
手足に絡みつく鎖のような重い疲労感や、滝のように湧き出した汗でシャツが肌にぺっとり張り付く気持ち悪さに構うことなく、ただひたすらに拳を空に打つ。
そして、そんな繰り返しの中で時々得られる不思議な感覚――拳が一瞬鉄球と化したかのような、刹那的な重量感。全身の力が一箇所へ集まる感覚。
その感覚を得るたび、要は満足げな微笑を密かに浮かべた。
――ここ一週間の修行で、『開拳』の練度はかなり伸びた。
覚えたばかりの頃は三十回に一回の割合でしか感じられなかった拳の重量感も、十回中一回の割合で生み出せるようになった。「全身を協調して動かす」という慣れない身体操作に、自身の体が馴染んできたのだ。
何時間も一つの技だけを練り続ける易宝の修行方針には心身ともに厳しいものがあったが、その成果は着実に出ている。中庭全体を埋め尽くさんばかりについた要のカンフーシューズの足跡が、それまでに至る時間を克明に物語っていた。
目指していた木塀の隅まで到着すると、再びきびすを返して向かい側の母屋の方を向き、正拳を出しながら元来た道をゆっくりと進んでいく。この往復を今日すでに何回繰り返しているだろうか。
やがて母屋の前まで到着すると、
「――よし、オーケーだ。一旦休憩にしよう」
ゴール地点に立っていた易宝がそう号令をかける。その片手には冷たい水の入ったボトル。
「…………ったはぁ~~~~!!」
要は蓄積した膨大な疲労感を解放するように声をあげ、中庭の地面に背中から倒れ込む。
着ているTシャツとカンフーズボンが汚れるかもだがこの際気にしない。今はとにかくどこでもいいから横になって休みたい気分だった。
易宝もそれを理解したのか、地面に大の字になった要の耳元まで歩み寄ると、持っていた冷水のボトルを開ける。
「ほれカナ坊、口開けろ」
「んえ」
「ククッ…………んじゃ行くぞ。そーれ」
易宝は笑いをこらえた表情で、開けられた要の口に冷水をゆっくりと流し込む。
ガボガボガボガボ。そんな言葉にならない声を発しながら、落ちてくる新鮮な水を口で受け止め、ゴクゴクと喉に通していく要。超ウマい。オアシスにたどり着いた気分だ。
要がボトルの水をあっという間に飲みきると、易宝はカラカラと笑いながら告げた。
「よしよし、なかなか功夫がついてきとる。あともうひと踏ん張りだ」
「功夫、ってぇ?」
要は横になったまま、だらんとした声で尋ねる。
「修行で培われた力のことだ。中国語では「時間」という意味もある」
「ふーん……でもまだ次の技は教えられないってんだろ?」
「当たり前だろう。技を出したら確実に力を集中させられるようにならねば及第点とは言えんし、実戦でも役に立たん。それならボクシングかなんかに乗り換えたほうが手っ取り早く強くなれるさ」
「手厳しいなぁ」
「まぁの。だが決して無意味ではない。騙されたと思って頑張ってみろ。そうすれば、きっとおぬしは今よりずっと成長するだろうさ」
易宝の確信のこもった言い方に、要は「ウン」と頷いた。
ここ一週間、決まって彼に教えられた。「中国武術とは偶然の産物ではない」と。
長い歴史の中で先人たちが血と汗と試行錯誤の果てに築き上げた、強くなるための方法が体系化された、戦闘術の究極形だと。
それは、師の教えをよく聞き、それを守ることで自身の強さを高めていく――「型にはめる」ということだと。
「型にはめる」と聞くとマイナスのイメージがあるが、武術に関しては癖字以上の効果を持っている。
つまり易宝の教えることに沿って修行を進めていけば、自分はゆっくりでも、着実に成長できるということだ。
それならば、自分はこの人の言うことを確実にこなしていき、そして絶対に強くなろう。要は再びそう心の中で決めた。
「発力は、筋肉の膨張した大男が力任せに殴りかかるのとは違う。力任せに振るわれる打撃は、武術や格闘技に長じた者から言えば凄まじく遅い。「どうぞ避けていかようにでも反撃して下さい」とでも言ってるようなものだな。だが発力は全身の筋肉を無駄なく、そして効率よく動かすことで瞬時に強い力を発生させる。そのため力強さに速さが加わった一撃を相手にぶち込めるというわけだ。例えるなら、力任せの拳がハンマーで、発力を用いた拳がピストルだな」
易宝は小さな息づかいとともに軽く前へ踏み出し、スッと自然な動きで拳を伸ばす。
力みが一切感じられない、小川の流れのような動きだったが、その拳には明らかな膨張感が見て取れた。力が集中しているのだ。
「カナ坊――己の体にピストルを作り出せ。『開拳』はそのための修行なのだ」
「……おう! 作って見せるとも!」
仰向けになったまま天へ伸ばした要の拳と、それに向かって伸ばされた易宝の拳が軽く触れ合い、二人は軽く笑う。
そして、易宝の笑みが一気に意地悪そうなものに変わった。えっ。
「よし、そろそろ始めるぞ? ほら、立った立った!」
「えぇー!? もうー!? もうちょっと休まないのー?」
「何をいうかアホめが。そのままゴロ寝してると動く気が失せるだろう? 鉄は熱いうちに打て、だ」
易宝は要の両腕を掴むと、そのまま無理矢理引っ立たせる。
これから始まる『開拳』の反復練習は、易宝が「よし」と言うまで続く。
つまり、いつ終わるか分からない。
頬を夕日に照らされながら、要は頑張ろうと思う反面、これから始まる苦行に対して憂鬱な気分になった。
◆◆◆◆◆◆
――翌日、早朝。
朝のホームルームを控えた一年三組の教室には、生徒たちの喧騒が漂っていた。
彼らの顔や仕草からは入学当初のぎこちなさが消えており、ほとんどの生徒が大なり小なりのグループを形成し、朝の談笑を楽しんでいる。
窓際にもたれ気味に立つ要も、そんな生徒たちの一人だった。
すぐ目の前には、二人のクラスメイトがノリのいい笑みを浮かべながら立っている。
「いや、ガチだよー! 見たんだって!」
その二人のうち、声を発したのは倉田という男子だ。
手入れをしている感のない短めな黒髪で、体型は痩せ型。若手芸人にいそうなキンキンした高い声の持ち主だ。
「ホントかよー? 見間違いじゃねーのか?」
もう片方の男子、岡崎が倉田に疑いの目を向けて言う。
倉田と違って気合の入った黒いミディアムショートの髪に、ハンサムな容貌。そして高身長。いかにも女ウケしそうなルックスの級友だ。
倉田はやや熱のこもった声で語りを続ける。
「ホントだって! あいつら絶対「紅臂会」だよ。俺こないだ奴らが「邪威暗斗」の連中と睨み合ってんの見たんだ」
「そーゆー組織って、意外とこの辺多いんだぜ? アームズとは限らねーだろ」
「いーや! みんな右腕に赤いバンダナ巻いてたもんよ。ああやって団員区別すんのってアームズだけだぜ」
それからもあーだこーだと言い合い続ける倉田と岡崎。
そんな二人を、要は苦笑しながら見ていた。
二人と打ち解けたことに大した理由は無い。気がついたらよく駄弁る関係になっていた。
だが、学校の友達との関係などそんなもんだろう。「なんとなく」で築かれていくことが多い。
要としても、仲良くなれたという事実だけあれば十分だった。
いじめを受けていた中学時代とは違い、高校では明るい人間関係に恵まれそうな気がする。
「「――なあ、工藤はどう思うよ?」」
気がつくと倉田と岡崎は、要に話を振ってきていた。
「――ふひぇ?」
突然矛先を向けられて、要はつい間抜けな声で反応してしまう。
途端、二人は吹き出し、笑い出す。
「ふはははは! なんだよお前「ふひぇ?」ってーー!?」
「あはははは!」
何がツボったのか、腹を押さえて笑い続ける倉田、岡崎に、要はむうっとした顔で言う。
「なんだよ、そんなに笑うんじゃねーよっ」
「ははは、わりーわりー。お前、可愛いと思ってよ」
岡崎の台詞に、要はやや引き気味に身構えた。
「は、はぁっ? 可愛いって、まさか岡崎、お前ソッチ系の……」
「いやいや、ちげーから。そんなに身構えんなよ。ただ感想を言っただけだって。心配すんな、俺女の子が大好きだから。お前も知ってんだろ?」
「あー……うん。ごめん」
岡崎はかなりモテるらしく、多くの女子と撮ったプリクラ写真をよく自分と倉田に見せびらかしてくる。そういった事例がある以上、岡崎が男色家であるという可能性は消えるだろう。
「でもよー岡崎、俺男だぞ? 「可愛い」って感想は嬉しくねーっての」
「いや、マジでそう思うぞ? お前、結構可愛らしい顔してるし。なぁ倉田」
「うんうん。目大きいし、肌キレーだし」
二人はからかいの表情だったが、本気で言っているようだ。だがやはり「可愛い」という評価は素直に喜べない。たまに思う。ジョ○ー・デップみたいな男らしい顔で生まれたかった、と。
「そういやさ、工藤って彼女いるの?」
いきなり話題を方向転換したのは岡崎だった。
「いないけど……」
「じゃあさ、俺が誰か女の子紹介してやろうか?」
「ええ? いいって、別に」
「遠慮すんなって。お前みたいなのが好きな女子も割といるんだぜ?」
「いや、だから……」
望んでない、というかぶっちゃけ迷惑だったりするが、当の岡崎は善意百パーセントの様子なので邪険にできず、逡巡してしまう。
その果てに要の思いついた打開策は、ちょっと情けないものだった。
「お、俺、ジュース買ってくる!」
要は二人のもとを離れて、教室の後ろの出入り口へ早歩きでいそいそと向かった。
「お、おい工藤、ホームルームまであと五分だぞ!」
呼びかける倉田の声をスルーし、要は足を進め続ける。
そして開いた出入り口から廊下へ出ようとしたが――その前に入ってきた人物を見て、足を止めた。
(……コイツ確か…………)
その人物を見て、要の表情がわずかに緊張を帯びた。
いや、要だけじゃない。他のクラスメイトたちも「ソイツ」が入ってきた瞬間、ざわりと張り詰めた気配を発しだした。賑やかだった教室の空気が一転、重苦しいものとなる。
教室に入ってきたのは、体格の良い男子生徒。
前髪がトサカのように逆立った金髪に、着崩した詰め襟の下に着た真っ赤なシャツ。そして鋭い眼光。
一週間少々前、自分に蹴りを入れてきた、鹿賀達彦という男だ。
その後ろには、相変わらず手下らしき三人の悪そうな男子が、達彦の影へ隠れるようにポジションを得ていた。
「よぉチビスケ。ちっちゃすぎて見えなかったぜ。危うく踏んづけるトコだったじゃねえか。もっと牛乳飲めよクソ野郎」
達彦は要の姿を認めると足を止め、いきなり挑発的な笑みを浮かべて言ってくる。
「うっせーよボケナス、よけーなお世話だ。オメーに言われなくても毎朝三杯は飲んでるわ」
カチンと来て、要も負けじと言い返した。最初から印象が最悪だったためか、乱暴な口調が抵抗なくスラスラと出てくる。
「プッ…………ギャハハハハハ!! 何コイツーー!?」
「真面目に答えてやがる! グハハハ超ウケるーー!」
「そーでちゅか!? そんなにおっきくなりたいんでちゅかーー!? ギハハハハ!!」
途端、達彦の手下三人が一斉にゲラゲラと笑い出す。人をムカつかせる事に特化したような笑い方だった。
――相変わらずムカつく奴らだぜ。
要は怒りをグッとこらえる――ぶっ飛ばしてやりたいのはヤマヤマだがクールダウンだ、俺。
こういう連中はムキになればなるほど調子づくもんだ。小さい頃から悪ふざけやからかいのターゲットにされやすかった要は、長年の経験則でその事を分かっていた。
要は三人に関してはシカトを決め込むことを決定し、再度達彦を見た。
先ほどの挑発的な笑みは消えており、「ほぼ」無表情で黙り込んでいた。だが眉間には皺が数本寄っており、片眉が小刻みに動いている。どこか不機嫌そうだ。
「……お前さ、何かで賞とか取った事ある?」
少しすると、達彦はそんな脈絡の無い問いを投げかけてきた。
「はぁ? なんだよいきなり」
「言ったとおりだよ。勉強、スポーツ、芸術、なんでもいい。自分の実力を認められた確かな証を貰ったことがあるかって話だ」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「いいから答えろ」
「……ねぇよ、そんなもん。それがどうしたよ」
そんな要の答えを聞くと、達彦は不愉快そうに表情を歪ませ、吐き捨てた。
「――ふん、カスが」
なんだとこの野郎。要がそう言うよりも先に達彦が言い募ってきた。
「ウザってぇんだよ。何の取り柄も裏付けもねぇ、才能もねぇ、テメェみてぇな気概だけ一丁前なカスがいきがってんの見てっと虫唾が走んぜ。カスはカスらしく、低い態度とってりゃいいんだよ」
不快感と嫌悪感を隠そうともせずあらわにし、罵詈雑言を吐き出す達彦。
要は唇を噛み締め、達彦を睨んだ。
コイツのこの態度はよく知っている。今まで俺に嫌がらせをしてきた奴らと同じものだ。
「うぜぇ、逆らうんじゃねぇよ弱虫チビ」「お前オレより成績下だろ、バカは黙って掃除当番変われよ」…………小学校から今までに言われてきた暴言の数々が堰を切ったように溢れ出てくる。
『許して欲しかったら、今すぐそこで潰れたカエルみてーに土下座して『もう二度と逆らいません』って言ってみ』
小畑のバカ野郎の言葉も思い出される。
…………ふざけんじゃねぇよ。
「……確かに俺には何の取り柄もねーし、特殊な才能もねーよ。でもな――」
要はそう呟いてから一旦間を置き、そして言った。
「――取り柄の無い奴が、自信や勇気を持って何が悪い」
次の瞬間、達彦の大きな手が、要の詰め襟の胸元に掴みかかった。
その大きさ通りの凄まじい膂力が、小柄で華奢な要の体を達彦の元まで引っ張り込んだ。
目と鼻の先には、憤怒に満ちた達彦の顔。
「――俺、テメェみてぇな奴が一番嫌ぇだわ」
音量は低いが、その分ドスのきいた達彦の声。
要は一瞬、気圧される。
「……そんな風に、いつまでも強がってられっと思うんじゃねぇぞ」
達彦はそう捨て台詞を吐くと、要を放り出し、先ほど入ってきた戸から再び廊下へと出て行ってしまった。
「か、鹿賀さんっ」
「待ってくっさいよー」
「鹿賀さーん」
手下三人も慌ててそれを追う形で、教室を出て行く。
「……なんなんだよ、ったく」
要は掴まれて皺ができた制服を手で整え、うんざりした声を出す。
――それが嵐の前の静けさであるとも知らずに。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!