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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第二章 ボーイミーツガール編
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第十五話 脱出開始

「――よう小僧。どうだぁ、生まれて初めて誘拐された感想はよ?」


 目の前にいる男が、偉そうに仁王立ちして訊いてくる。


 隣にいる菊子と同じく、両手足を縄で結ばれたまま体育座りしていた要は、ぶすっとした顔のまま目を合わせない。


「今頃お前らのパパンとママンは大慌てだろうねぇ? 今どんな気持ち? ねえどんな気持ち?」


 男は嘲りの眼差しで見下ろし、口端を歪める。


 今、弁舌を汚水のように垂れ流しているこの男は、二十分ほど前に要の首へナイフを浅く刺してきた奴だった。よほど自分にご執心なのか、芸人顔負けのマシンガントークはとどまる事を知らない。


「俺らはそこのメスガキの親からたんまり金を頂いたら、ハワイか香港辺りでステキなディナーと洒落込むつもりだぜぇ? いやぁー最高だろうねぇ、夜景と水平線の見える洒落たレストランで、こぉんな分厚いステーキを食うんだぜ? しかもちゃんと中まで火がしっかり通ってて歯が通りやすいヤツだ。働かずに食う豪華な飯は美味い美味い。ま、オメーみてーなガキンチョにゃ縁がねぇだろうから、家帰ったら泣きながらモヤシでも食ってろや。へっへっ」


 もう金を頂いた気になっている。捕らぬ狸の皮算用とはまさにこのことだろう。


 相手にするのも嫌だったので、要は何も言わずにジッとする。


 男が爪先でカツカツとリズミカルに床を鳴らす。


 だが沈黙が長引くにつれてその音のリズムが苛立たしげに早くなっていき、


「…………なんとか言えや、コラァ!!」


 やがて男はこらえきれないとばかりに手近なガラクタを蹴っ飛ばして、がなり立てた。


 隣の菊子がビクッと小さく体を震わせる。


 だが要は驚きも怯えもせず、


「……フンッ」


 そっぽを向き、鼻を鳴らすことで不愉快さをアピールした。


 すると男は怒りを通り越して興が削がれたのか、でかい溜息をついた。


「……チッ、つまんねぇガキだな。ちっとは年長者を楽しませる努力をしやがれってんだ」


 そう吐き捨てると、男はドカドカとドアの奥へと消えていった。


 ドアが閉まる冷たい金属音が、廃工場全体へ染みるように響き渡る。


 そして、その音が完全に静まると、


「――工藤くん、行ったみたいだよ」


 菊子が自分にしか聞こえないほどの小声でそう訴えてきた。


 要は無言で首肯すると、男が来たことで一時中断していた「作業」を再開させた。


 お尻の位置を少し前へずらし、その下に隠していた「あるモノ」を、後ろ手に固定されていた手の親指と人差し指でつまむ。




 それは、長さ四センチ程度の――カッターナイフの刃の欠片だった。




 これは二十分ほど前、自分の目の前に落ちているのを見つけ、拾ったものだ。


 欠片の表面には光沢が全くなく、ねずみ色に煤けていた。それが、同じくねずみ色であるコンクリートの床に対応する保護色のような働きをしたのだろう。そのおかげか、部屋に来た男は、これが落ちていることに気づかなかったようだ。


 要は使っていない手の指でカッターの欠片にチョンと触れ、その触覚で刃の方向を確認する。古びてはいるが、刃は意外としっかりしている。


 そしてその刃を、手首を拘束している縄の深い切れ目に接触させ、指の動きと手首のスナップによって器用に上下に擦り付ける。

 

 指先に伝わる、プチプチと繊維を細かく割いていく感触。


「……こんなので、本当に出られるのかなぁ」

「雨垂れ石をナンタラ、とか、言うだろ。とりあえず、頑張って、みようぜ」


 カッターを持つ指の動きに全神経を注いでいたため、その心身の疲労で、菊子の突っ込みに対する要の対応は途切れ途切れだった。


 菊子は若干気乗りしない様子だったが、成果は着実に出ていた。

 手首と指しか満足に使えないため非常に切りづらいが、二十分もかけて頑張った結果、すでに縄に入れた切れ目の深さは残り半分ほどにまで達していた。


 カッターは一枚しか見当たらなかったため、縄を切れるのは一人づつだった。


 そして、要は最初に縄を切る役を希望した。


 理由は簡単だ。両手両足の縄を切り落としたところで犯人グループに見つかったとしても、自分なら反撃ができるからだ。

 戦えるタイプではない菊子では、見つかってしまったら何もできずにまた縛り直されてしまう――それも、今度はもっと切り難いように固く固く。

 それに、縄を切ったことで連中の逆鱗に触れ、痛い目を見せられる可能性だってなくはないのだ。自分は慣れているが、隣の彼女はどうだろう?


 そういうわけで、どのみち菊子には任せられない。いや、任せたくない。


『いいか! 俺は強いんだ! 超強い! 怪物みたいな師匠に毎日しごかれまくってるから相当なもんさ! だから俺は無事に帰った後も、お前の昔の友達みたいに引きこもって別れたりなんか絶対しない! 疫病神だなんて死んでも言うもんか! よって俺たちの関係はこれで終わらない。未来永劫続くんだ!!』


 あれだけ偉そうに宣言したのだ。少しは強気に抵抗して見せないと。


 それに、手首の縄を切り、腕全体が満足に動かせるようになれば、足の縄を切る作業だってスムーズに進むだろう。


 そして拘束が完全に解ければ、菊子の縄だってスイスイと切ってやることができるかもしれない。


 いずれにせよ、まずはこの手を固定する縄を解かねば始まらない。


 そう改めて気を引き締め、要は黙々と作業を続けた。








 






 それから十数分後。


「すごい、工藤くん……あともう少し」


 要の両手の辺りを覗き込んでいる菊子は、小声で感嘆を漏らした。


「そ……そうだな…………」


 要は肩で軽く息を切らせながら同意する。


 手首の縄に付けられた切れ目は、すでにかなりの深さに達していた。不屈の根性が成し得た結果だ。

 

 だが、散々慣れない動きを強いたせいか、カッターを摘む手には疲労が顕著に現れていた。指先はプルプルとわななき、手首はしびれとだるい痛みを訴えている。


 このままかっ飛ばしても体力が持たないので、こまめに休憩をとりながら、ちまちまと脱獄の準備を進めている。今はその休憩中なのだ。


「工藤くん、大丈夫ですか……?」


 不安げにこちらを見つめてくる菊子。頭の微かな動きで、黒いヴェールのようなロングヘアがさらりと揺れる。


 ――瞬間、その黒髪の下にあった素顔を思い出し、要の頬が疲労以外の理由で火照った。


「あーいやダイジョブだって! 見ただろ? もうほとんど切れてるじゃん。あともう少しだ」


 慌てて顔を背け、まくし立てるように言う。


 菊子は「うーん?」と不可解そうに軽く唸ってから、次の提案をしてきた。


「あの……そこまで切っちゃったなら、もう力ずくで引きちぎれないかな?」


 それを聞いて、要は手首の縄を左右へ一、二とリズムをとって引っ張ってみた。


 最初は「ギリィッ、ギリィッ」という強固な感触だったのに、今は「キィッ、キィッ」と細く、頼りない手応えだ。


 確かに、これだけもろくなっていれば、あとは腕力でちぎれるかもしれない。


 試しにやってみよう。ダメならダメでそれでいい。


 要はカッターの欠片を一旦床に置いた。そして、


「――っ!!」


 静かな気合いとともに、両側へ向けて腕の力を入れた。


 キチキチキチ、と縄が悲鳴をあげる。


 繊維が切れる感触。それは縄の繊維か、それとも自分の筋繊維か。


 そして、引き始めて五秒ほどで脱力。


「ふぅ……ふぅ…………」


 失った酸素を求めて息継ぎをする。


 縄は、まだ切れてはいなかった。


 よし、あともう一回だけやってみるか。それで切れなかったら、素直にカッターを使うとしよう。


 大きく深呼吸を繰り返し、助走を付ける。


 そして――再び力を入れた。


「こんっっ…………のぉぉぉぉ……!!」


 (くさび)を打つように、筋肉を勢いよく両側へ突っ張らせる。


 縄の上げる音は、先ほどと変わらない――ように思えた。


 だが突然、布が千切れるような触覚とともに、「キチキチキチ」という音は「ブチブチブチ」という望んでいたものに変わりだした。


 チャンスと睨んだ要はもうひと踏ん張りし、筋肉を一気に瞬発させた。


 刹那――手首に開放感が訪れた。


 解き放たれたように、左右へ伸びる両腕。


 そして、宙を舞っているのは、自分の自由をずっと奪い続けていた――縄。


 ――切れたっ!!


 そう叫びたいのをグッと堪えた。


 代わりに、満面の笑みを菊子へ向ける。菊子もにっこりと応じてくれた。


 要は嬉々として両腕をブンブン振り回す。今まで当たり前にできるはずのことが、こんなに嬉しく感じたのは初めてかもしれない。


 やっと切ることができた。


 まだ手首の縄だけだが、これで腕が自由に動かせるようになった。その分、足首を縛る縄は先ほどよりもスピーディーに切り進むことができるはずだ。それだけでも十分儲けものだろう。


 努力が報われたのは嬉しい。しかし浮かれてばかりもいられない。今度は足首の縄も切らなければならないのだから。


 要が真後ろに置いてあるカッターの切れ端を取ろうとした時だった。


 閉じられたドアの向こう側から、小さく聞こえてくる足音。


 だがそれは着々と近づいてきて、はっきりした音に変わってくる。


 ――誰か来る。


 肝を冷やした要は、慌ててカッターの欠片と縄の切れ端を拾い集め、それらを持った両手を背中へ回して壁に寄りかかった。まだ縛られていると思わせるためである。せっかく切ったのだ。ここでバレて縛り直されたらマジ泣きする自信がある。


 そして、ドアが開いた。


「――よお。数時間ぶりじゃねーか。お前のパンチは痛かったぜ」


 現れたのは、先ほどのナイフ男ではなかった。別の人物だ。


 男が余裕をもった足取りで近づいて来る。


 要はバレないだろうかと内心冷や汗をかきながらも、必死に平静を装って相手を睨んだ。


「そんな野良犬みてぇな目で見るんじゃねーよ。俺は一言言いに来ただけだ」

「……何をだよ」

(リン)さん――俺らのボスから伝言だ。「倉橋菊之丞はこちらの要求通りに、指定した場所へ現金一億二千万を積んだ車で向かうそうだ。こっちも受け取り役を送り込んでいる。もう少しで開放してやるから、いい子にして待ってろ。そうすれば何もしない」だとよ」


 菊子が息を飲み、唇をカタカタと震わせる。自分が捕まってしまったせいだ、と責任を感じているのかもしれない。


 先ほどの告白を聞いてしまった身として、要はそんな彼女の態度を軽く流すことが出来なかった。

 人の弱みにつけ込みやがって。要はその林という人物をボスとする集団に、激しい憤怒を抱く。

 

「そういうことだから、金の受け渡しが終わるまで大人しくしてやがれ。その方がこっちも楽でいいからな。あ、もし小便したくなったら言えよ。バケツくらいはサービスしてやっからよ」


 ゲラゲラと愉快そうに笑いながら、男はドアから去って行った。


「……くそっ!」


 足音が遠ざかった後、要は毒づいた。


 手に握っていた縄の切れ端を隅に放り、カッターの欠片をしっかり持つ。


 そして、足首の縄を真ん中から切り始めた。


 ――やってやる。


 絶対に一矢報いてやる。やられっぱなしじゃ気が収まらない。













 そして――さらに数分後。


 腕の自由度と、燃えるような執念が功を奏したためか、予想外に早く足首の縄を切ることに成功した。


 両手両足ともに、完全に自由となった要。


 大手を振って喜びたいところだったが、そんな余裕はなかった。


 犯人グループのうちの誰かがやって来る前に――急いで菊子の縄を切ってやらなければならないからだ。


 もう自分の縄は全て切ってしまっているため、縛られ続けているフリをすることはできない。


 ここからは時間との勝負だ。


 要は急いで菊子の背後に回り込み、縄でまとまった菊子の両手を握った。ひんやりとした、柔らかな肌触りだった。


「ごめん倉橋。しばらくジッとしててくれる?」

「う、うん…………お願いします」


 菊子の了承を得たことで、要は縄へ刃を接触させた。


 迅速に、だがそれでいて彼女の肌に傷をつけないよう気を配りながら、カッターをノコギリの要領で動かして縄に切れ込みを入れていく。


 カッターの刃は四センチと短いため、決して使いやすいとは言えない。だがそれでも、切れ込みは少しづつではあるが、着々と深さを増していた。


 しかし、切羽詰った状況ゆえ、わがままを言うならばもう少しだけ速さが欲しかった。


 そんな時だった。


「あの……工藤くん」


 菊子が、弱々しい声で自分の名を呼んだ。


「なにさっ?」


 縄を切るのに必死だったため、投げやり気味に反応した。


 


「――わたしの事は置いていっていいよ」




 ――カッターの動きがピタリと止まる。


 一瞬、彼女の言葉を認識するのが遅れた。


 どうして――そう尋ねるよりも早く、菊子は台本を諳んじるような明瞭な口調で続けた。


「本来、攫われるのはわたしだけであるべきだった。工藤くんは巻き込まれただけ。あなたは被害者。逃げる権利がある。だから、こんな危ない事しなくていいです。せっかく自由になれたんだから、わたしなんか置いて早く――」

「――ざけんなっ」


 語気を強めて吐き捨てた。


 そして――再びカッターを高速で動かす。


 ……バカ。大バカ。

 どうして、そうやって一人になろうとする?

 さっき――言ったばっかりじゃないか。


「言っただろっ? 「俺たちの関係はこれで終わらない」って。でもここでお前を見捨てたら、俺、お前の友達だって言う資格なくなっちゃうだろっ」

「工藤くん…………でも」

「でも、じゃないっ。俺はお前と一緒に逃げたいんだ。だからお前の事は絶対絶対離さない。それだけだ。だから、もうこの話はここでお開きだからなっ」


 言い募り、ひたすらカッターで切れ込みを深くしていく。


 菊子は何も言わずに、シンと黙りこむ。


 だがすぐにその小さな肩をしきりに震わせながら、涙の混じった声で「……うん」と返してきた。


 その返事を受けてさらに気力を得た要は、カッターを往復させる速度をいっそう上げた。


 今までで一番の速さでカッターが深く、深く沈んでいく。


 だが、今ならもっと速くできそうな、そんな気がした。


 切り進んで、切り進んで、切り進んで――やがてゴールが訪れた。


 ずっとくっついていた菊子の真っ白い両手が、左右に分かたれた。


 パラパラと床に落ちる縄の切れ端。


 菊子の手が自由になった。


「――よしっ!」


 要は思わずガッツポーズする。


 この調子で、足首の縄も切ってしまおう――そう思った時だった。


 ドアの向こう側から、足音が聞こえてきた。


 獣のような素早さで要は反応し、ドアを睥睨する。


 また――誰か来る。


「……倉橋、俺が行くから、悪いけど一人で縄を切っててくれ」

 

 そう言って、菊子にカッターの欠片を手渡す。


 弾かれたような勢いでドアまで駆け寄る要。


 ドアの正面に『百戦不殆式』の構えで立ち、やって来る者を息を殺して待ち伏せる。


 今の自分では、複数人に四方八方から来られると対処が難しい。


 なので、相手が広がりを見せられない幅の狭い場所――ドアから出てきた瞬間を狙ってやればいい。それによって一人づつ、適切に対処しやすくなる。


 どうせここから出てくる奴は全員敵だ。ドアが開いたら何も考えず、問答無用でぶちかましてやる。


 足音が徐々に、徐々に、徐々に大きさを増す。


 やがて――ドアがゆっくりと開け放たれた。






「――――『撞拳』っ!!」






 無心で放たれた要の渾身の一拳が、狙い過たず、ドアから出てきた男の腹部へ勢いよく突き刺さった。


 男は潰れたようなうめき声を一瞬上げると、後方一メートル弱ほど吹っ飛び、床に仰向けになって動かなくなった。不意打ちであったことも含めてかなり効いたのだろう。


 しかし、敵は一人だけではなかった。


「なっ…………コイツ、どうやって縄を……!?」


 もう一人、キャップ帽をかぶった男が眼前に立っていた。


 キャップの男は要と倒れた仲間を数回交互に見やると、その背後に伸びる通路へ向けて大声で叫んだ。


「おい、大変だ!! 小僧が縄を――」


 マズイと感じた要は一気にキャップの男の元へ飛び込み、『開拳』を土手っ腹へしたたかに突き刺した。

 

 仲間への呼びかけに気を取られていたため意識の外にあった腹に打ち込んだためか、全身の力をトータルさせた正拳は思いのほかダメージになったようだ。キャップの男は軽くえづくと、支えを失ったように床に崩れ落ちた。


 確かに言いたいことを叫び切る前に倒しはしたが、叫び声だけでも、敵側が反応するには十分な材料であったのだろう。


 目の前に伸びる広めな通路の奥から――ドタドタと慌ただしい足音が耳に届いた。


 耳を澄ませてみる。


 足音は乱雑に重なり合ってはいるが、おそらく二、三人だろう。


 要は広い廃工場を迅速に見回した。やはり出口らしき所は見られない。窓ガラスも高く伸びた所にあるため登れない。


 菊子はまだ懸命に縄を切っている最中だ。


 どのみち、今近づいてきている連中をなんとかしない限りは奥に進めず、外にも出られない。


 ちくしょうめんどくさいと心中で毒づきつつ、要はドアの中に戻る。


 フルオープンにしたドアの淵の隣に背中を付け、聴覚を研ぎ澄ましつつ敵さんの到着を待った。


 足音が徐々に近づき、明確になっていく。


 やがて、慌ただしく重なった靴音と衣擦れの音がすぐ近くまでやって来て――ドアから足が一本飛び出した。


 瞬間、要はその足を、極めて低い高さの蹴りで弧を描くように払った。


「のわっ!?」


 その足の主は、自分にナイフを突きつけてきた男だった。そいつは足元を取られると同時に一度喘ぐと、走りによる慣性の赴くまま前方へ大きくすっ飛び、コンクリートの床をゴロゴロと転がっていった。


 さっきまでその真後ろを走っていた男二人は、その予想外の光景を瞬刻口をあんぐりさせながら眺めていた。


 その僅かな隙を見逃してやれるほど、要はお人好しではなかった。


 要は一列状で棒立ちになっているその二人のうち、まずは前に立つ男に焦点を当てた。

 

 脇に拳を構えたまま、その男の横合いへ敏速な反復横とびで接近。そして停止。


 両足底の捻りと『通背』による腰の捻りを同じタイミングで作動させ、より大きな螺旋エネルギーを作り出す。そしてそれを脇に構えた拳に伝達させる。


「――!」 


 男が警戒を露わにしたのは、すでに要が拳を出し始めた瞬間だった。


「――『旋拳』!」  


 脇腹に激しく食らいつく、ライフル弾のような一撃。


 男は呻きすら上げられぬまま飛んでいき、離れた場所にやっつけに積まれたガラクタの山へ上半身から突っ込んだ。


 ドンガラガッシャーン、というやかましい金属音。


 しかしそれには耳を一切貸さず、もう一人の男へと向かって駆け出した。


 自分よりも三十センチは背丈の大きい、厳つい男だった。派手な音で流石に警戒心が刺激されたのか、こちらの攻撃的姿勢に構えを見せていた。


「ナメんな馬鹿野郎が!!」


 壁のような巨体がぬおっと前に出た。圧迫感を感じながらも、要は足を止めない。


 男はその丸太のような両腕を真っ直ぐ振るい、要に掴みかかろうとしてきた。


 しかし腕が到達する直前、要は一気に身をかがみ、男の腕を真上に流した。

 身長差が大きかったため、それほど身の縮めることなく楽に避けられた。今だけは自分の低身長に感謝する。


 そしてダッシュの勢いをほとんど殺さぬまま、男の鳩尾へ頭頂部から激突した。


「おぐぅ!?」


 苦悶の声を発し、後方へたたらを踏む男。


 少しジンジン痛む頭からは目を背け、要は『震脚』によって瞬発力を倍化させ、すぐさま後足で床を蹴った。


 男の巨体が、一気に視界を埋め尽くす。


「――『撞拳』っ!」


 前足による急停止と同時に、男の腹へ重鈍な一拳が見舞われる。


 凝縮感と圧迫感を併せ持った巨体が、少年の矮小な拳によってダンボール箱のように弾き飛ばされる。


 体の小さな要でも大きな衝撃力を作り出せる崩陣拳の術理の前には、体格の大小など詮無き問題。問題があるとすれば、そこに功夫が伴うかどうかのみである。


「――テメー……よくも俺らをコケにしゃーがったなぁ…………脱獄映画じゃねぇんだぞ……!」 


 先ほど足を払って転ばせた男はむくりと立ち上がると、憎々しげにこちらへ眼光を向けた。


 いつもの要ならば、迷わずそいつめがけて駆け出す――はずだった。


 だが、今はそれができない。


 なぜならば、その男の片手には――サバイバルナイフが握られていたからだ。


 要はその刀身を凝視し、ゴクリと喉を鳴らす。


 玩具やこけおどしではない。それは数十分前に自分を軽く刺して見せたことで実証済みだ。さっきまでなんともなかったはずの首筋の傷が急にチクチクと痛み始める。


 その反応を見た男は、ニヤァッと破顔した。


「怖ぇかぁ? 怖ぇだろうなぁ? そりゃそうだ、平和ボケした坊ちゃんだもんなぁ。だけどもう許してやんねぇ。所詮テメーは倉橋菊子のオマケなんだ。取引の段取りには含まれてねぇ。だからどうしたって構いやしねぇだろ」


 ジリッ、ジリッと一歩ずつ近づく男。それに合わせて要の足も後ろへ下がる。


「俺はテメーみてーな生意気なガキがデェ嫌ぇなんだよ。こんな状況に立たされてるにもかかわらず、弱気な所や情けねぇ所を一切見せようとしねぇ。その態度はな、テメーみてぇな温室育ちのガキがとっていいモンじゃねぇんだよ」


 ナイフの表面が妖しく光沢を発する。

 

 もし思いっきり刺されたら、今度は首筋の小さな傷程度では済まない。ヘタをすると――


「つーわけで――死刑決定だ」


 ナイフの先端をこちらに向け、歪に笑った。


 鼓動が天井知らずに加速する。


 足元が浮遊するような不快な錯覚。


 マズイ。マズイマズイマズイ。相手は刃物だ。素手で殴りかかってくるのとは訳が違う。刺さったら死ぬ。ヤバいマジでヤバいこれは俺の手に余る――


「――っ!!」


 要は床を思い切り踏みつけ、スパイラルする負の思考を無理矢理取っ払った。


 弱気になるな。

 倉橋と一緒にここを出るんだろ。

 恐れるな。

 奮い立て。

 俺なら楽勝だと思え。


 要は眼差しをしっかり保ち、男の手に握られたナイフを見つめる。


 そうだ。いいこと思いついた。

 刃物は怖い。それは今も変わらない。

 だったら、今だけでいい――あれをナイフと思わず、拳だと思うことにしよう。

 拳だと思い、拳と同じ方法で対処すればいい。そうすれば、刃物だと思ってやるよりもずっと冷静に対応できるはず。


 できるだろうか。


 いや、違う――やってやる。


 そして逃げるんだ。倉橋と一緒に。


「ほらほら、ナイフだぞぉー、怖いぞぉー?」


 男はふざけた口調でそうおちょくりながら、ナイフをプラプラ見せつけてくる。


 そんな男の言葉を無視し、要はナイフをキッと睨む。


 そして――一歩前へ踏み出した。


 そこから二歩、三歩、四歩、五歩……ゆったりと歩みを進めていく。


「なっ……!?」


 そんな要に、男は一瞬気圧されたかのように半歩後ずさると、


「――ナメてんじゃねぇぞォォォォ!!」


 一転、烈火のごとき怒りに身を委ねて突進して来た。


 だが要の視線は、ナイフ一本にのみ集中していた。


 あれは拳――あれは拳――あれは拳――あれは拳――――その言葉を脳内で必死に反復させながら、ひたすら向かってくるナイフに注視し続ける。


 脇に構えた状態から、一気に伸ばされる禍々しい凶刃。


 自分の腹へ真っ直ぐ軌道をとっていた。


 ぐんぐん肉薄してくるナイフ。


 だが不思議なことに、そのナイフは約十五センチ先まで来た瞬間――拳に見えたような気がした。


「――ふっ!」


 要はそこで一気に全身を捻った。


 突き伸ばされたサバイバルナイフは、自分のシャツと薄皮一枚の並行を保ちながら後方へ通過した。


 そのまま、敵の胸の中という、自分にとって天国とも言える間合いをとる――『閃身法』による体捌きの一つだ。


 驚愕と憎悪に歪む男の顔を尻目に、要はすかさずナイフを伸ばした男の片腕を一方の手で掴み、そしてもう一方の腕で肘鉄を鳩尾に打ち込んだ。


「~~~~!!」


 男がなんとも言えない表情を浮かべる。

 打たれたのは急所であることもそうだが、要が腕をしっかり掴んでいたため、後方へ飛んで衝撃を真後ろに分散させることもできない。痛いのは当然だろう。


 念を押すようにもう一発膝蹴りを放ってから、ナイフを持つ手に拳を勢いよく叩き下ろす。


 怯んでいたせいか、ナイフは簡単に男の手から離れ、床へ落下。カツーンという甲高い音を立ててワンバウンド。


 ようやく憂いを断った要は、一切の迷いを捨てて拳を構えた。


 足底と腰を同時に螺旋させ、力を開放。それによって放たれる一撃――『旋拳』が、男の腹へ抉るように命中した。


 男は直撃箇所から全身を激しくくの字に曲げ、真後ろへ跳ね飛ぶ。着地した後に数回後転してから、ようやく仰向けになって動かなくなった。


 要はふう、という溜息とともに脱力する。


 自分の人生の中で、刃物を持った相手と戦う事になろうとは露ほどにも思わなかった。


 今度師父(せんせい)に刃物が怖くなくなる方法でも教わろうかな、と思いつつ、要は落ちているナイフを拾った。


 こちらを見てぽかんとしている菊子の縄を見る。まだあまり切れてはいないようだった。


 要は拾ったナイフを片手に、そんな菊子の元へ駆け寄った。


「あ、あのあのあの、だ、だっ、だい、だいじょうぶですかっ? ど、どっ、どこも刺さってないっ?」


 菊子はひどくそわそわした様子でそう訊いてくる。もしかして、相手が刃物持ちだったから心配してくれているのだろうか。


 そんな彼女の気遣いを嬉しく思いながら、要は苦笑混じりで、


「大丈夫だよ。なんともないから、心配するなって」

「ほ、本当……?」

「本当。さ、早くここから出ようぜ」


 そう言って、要は奪ったサバイバルナイフの刃を、菊子の両足首を固定する縄の表面へ走らせた。


 さすがというべきか、ナイフはカッターとは比べ物にならないスピードで縄を裂いていき、一分経つか経たないか程度の短時間で切断へと至った。


 ようやく足が自由になった菊子は、お尻についた埃をはたきながらゆっくりと立ち上がる。


 要は用済みになったナイフをガラクタの山の中へ放り投げると、


「よし、行こう! ここを出たらどこかで電話を借りて、親父さんに連絡だ!」

「う、うんっ」


 菊子の手を取った。


 そして、とうとう走りだそうと――――




「悪ぃけどよぉ――――そうはいかねぇんだわ」




 ――した瞬間、そんな気だるげなニュアンスを秘めた声がドアから聞こえてきた。


 要は思わず菊子を後ろへ庇う。


 そして、フルオープンされたドアからザッ、ザッと間隔の広い足音を立てながら出てきた――一人の男を睨んだ。


 身長は一八〇程度と、達彦と同じくらいだった。

 服装はTシャツ、少しゆったりとした長いズボンという軽装。体格は大柄だが、余計な筋肉の膨張は一切見られない。必要な部位を必要なだけ鍛え上げたといえるような、徹底的な合理主義の果てに出来上がったような肉体。

 そして何より特徴的だったのが、常に獲物を求めて彷徨う猛虎を彷彿とさせる、ギラギラと殺気に満ちた眼光。

 

 その眼を見た瞬間、要はゾクリ、と総毛立った。


 初めて見る顔だった。


 だというのに、要はその男から何か危険な匂いを感じた。


 ひとたび触れれば、自分の持つ何もかもが破壊し尽くされてしまいそうな、爆弾のような危うさを。

 

「……誰だお前」


 要は唸るような声で問うた。


 するとその男は肩をすくめ、


「おいおい、初対面の人間を「お前」呼ばわりですかぁ? 日本人ってな礼儀正しい人種って聞いてたが、実はガセじゃねぇのか?」


 要は睨みをいっそうきかせ、


「いいから質問に答えろ。お前は誰だ? お前もこの倒れてる連中と仲間なのか?」

「……まぁ、共犯だってのは正解だ。だがよぉ――」


 次の瞬間、男は足元に倒れていた者の脇腹を強く蹴っ飛ばした。


 蚊の鳴くようなうめき声と同時にそいつの体が吹っ飛び、ゴロゴロ転がってガラクタの山へボウリング玉よろしく叩き込まれた。


「――こんなガキ一匹にいいようにされるような無能なブタ共を、仲間にした覚えはねぇよ」


 男は嘲笑を浮かべ、そう吐き捨てる。


 こいつ、自分の仲間を――要は静かな怒りを抱いた。


「申し遅れた。俺は林越(リン・ユエ)、こいつらを顎で使ってテメェらを拉致らせた張本人だよ」


 その男――林越は鷹揚に両手を広げ、そうはっきりと告げた。


 林――その名を聞いた瞬間、要の頭が沸騰しそうなほど熱を帯びる。


 こいつの――こいつのせいで。


 気がつくと、要は猫のような俊敏さで林めがけて突っ走っていた。


 ほぼ衝動で向かっていったため、無策な突進。


 なので走りながら即興で戦法を立てる――ダッシュの勢いを込めた『蹬脚』で吹っ飛ばし、起き上がった所へ『撞拳』!


 林まで、あと十メートルほど。


 とっととボコボコにぶっ飛ばして、倉橋と一緒にここから出て行ってやる。


「おいおい……もうちょっと頑張れねぇのかよ」


 だが林は呆れたように溜息をつくと、




「――――ノロ過ぎて欠伸が出んだよ田吾作(たごさく)が」




 一瞬で――自分の真横まで移動した。


「――!?」


 思わず目を見開く要。


 十メートルほどあった自分との距離を、林は瞬きをする程度の短い時間で詰めて見せたのだ。


 林は獰猛に破顔すると、


「ヒハハ!――『麒麟(きりん)頂肘(ちょうちゅう)』ッ!!」


 要に近い方の足を横に寄せることで直角に重心移動を行い、同時に強烈な肘打ちを叩き込んできた。

 

「はぐっ――――!?」


 肘という元来硬く強い部位が重々しく二の腕に突き刺さり、要の意識が一瞬、飛びかけた。


 余剰した運動エネルギーによって勢いよく跳ね飛ばされ、背中から壁に激突。そこからバウンドし、床へうつ伏せに倒される。


 咳き込みながら、要はよろよろと立ち上がる。


 二の腕は痛むが、折れてはいない。まだ使い物になる。もしも脇腹にもらっていたら悶絶していたかもしれない。


 一撃食らってしまったが、今ので頭が冷えた。もう油断はしない。


 要は眼前に立つ林を射抜くように見つめつつ、半身になって『百戦不殆式』の構えをとった。


「ほう……なかなか様になってるじゃねぇか。こいつらを一人で片付ける時点で睨んでたが、オメェ、何か武術をやってやがるな?」

「……そういうお前こそ、その動き、普通じゃねーよ。一体何なんだそれは」


 要がなんとなくそう問うと、林はニタァッと顔を歪める。


 そして次の瞬間――驚くべき一言を放った。




「教えてやる。こいつは――「走雷拳」ってんだよッ!!」




 林の姿が、一気に視界にアップになった。


 始まりから終わりまでの過程をいくつか省いたパラパラ漫画を彷彿とさせる、圧倒的スピード。


 だが要はそれ以上に、先ほどの林の言葉に気を取られていた。


 ――なんで、こいつが走雷拳を……?


 そうして惚けていたからだろう。


 気持ちのこもっていない要の構えを、林の拳がたやすくこじ開けた。


 そして要がそれに気づいた時には――その拳は下腹部に打ち込まれていた。


「がふっ――!!」


 体の芯まで響いたその強烈なショックに、世界が明滅する。


 さらにその一撃による勢いによって、すぐ真後ろにあるコンクリートの壁に再び叩きつけられる。拳の威力と、壁と背中の間隔が近かったという二つの要素が相乗したのか、要は一瞬だけ壁にぺったり張り付いた。


 そして、そこからズルズルと滑り、床に尻餅を付いた。 


「ゲフッ! ガフッカハッ!!」


 要は涙目になりながら、しきりに激しい咳をする。口の中が苦酸っぱい。胃液を吐き出しかけたようだ。


 先ほどの拳打によるだるい痛みは、今なお下腹部にしっかりと余剰していた。


「く、工藤くんっ……」


 菊子が小さな、だがそれでいて悲痛な声で自分の名を呼び、駆け寄ろうとするが、


「やっ……やめろっ! 来ちゃダメだっ!」


 要は慌てて声を振り絞り、それを静止させた。


 言われた通りにピタリと立ち止まる菊子。彼女は痛々しそうに口元を押さえながら、足元を震わせてこちらを見つめていた。


 要は痛む下腹部を押さえながら林をジロッと睨めつけ、そしてかすれ気味な声で言った。


「お前…………なんで走雷拳を……!?」


 すると、林は少し意外そうな表情で要を見つつ、


「へぇ…………やっぱ走雷拳を知ってたのか。まぁ、倉橋菊子のボーイフレンドなら、その繋がりで夏臨玉とその拳法の事もご存知なんだろうなあ」


 林は鷹揚に両手を広げつつ、続きを口にした。


 こいつ、夏さんの事まで知って……!?


 だがその新たなる疑問は、その前に抱いた古い疑問とセットで解決することとなった。




「俺がなんで走雷拳を使えるのか、だって? そりゃあ俺がかつて――――その夏臨玉に直接習ったからに決まってんだろ」




 要と、そして菊子までもが息を飲んだ。


「俺は八年前まで、「眼鏡王蛇(キングコブラ)」という異名で恐れられた伝説の武人、夏臨玉の門弟だったんだ。だから走雷拳を使えても何らおかしくねぇよ」


 空いた口がふさがらなかった。


 こいつが――夏さんの弟子?


 だが、その事実を聞かされると同時に、要の中で再びある疑問が生まれる。


 要はそれを怒りとともにぶちまけた。


「百歩譲って、お前が夏さんの弟子だとする。だとしたら――どうして倉橋を攫ったりした!? 夏さんは倉橋のことを本当の娘のように大切に思ってる! そんな倉橋を危ない目に遭わせたら夏さんがどんな気持ちになるか、分からないほどお前はバカなのかっ!? かつてのお前の師匠だったんだろ!! それを食い物にしてまで金が欲しいかっ!?」

「…………もしかして「恩を仇で返す」みたいな事を言いてぇのかぁ? …………ヒハハハハ!! だったら残念! 俺は奴に感謝なんざ一ミリもしちゃいねぇ!! むしろ憎しみすら抱いてるんだからよぉ!! そいつの嫌がることしたって痛くも痒くもねぇ、むしろ溜飲が下がるってもんさ!!」


 要は目を見開き、


「憎しみ……だと?」

「ヒヒヒッ……ああそうさ。ついでに言っとくと、俺の本来の目的は金じゃねぇ。そこらに寝転がってるバカ共は知らねぇが、俺は他に叶えたい目的があるんだ。身代金はそのついでに手に入る、豪華なオマケみてえなモンだな」

「目的?」

「ああ――――「復讐」だよ」


 林は歪んだ笑みを浮かべながら、その先を言った。


「俺は確かに奴の弟子だった――だが破門されたんだ。理由は簡単。過剰な暴力行為と、他門派とのいさかいが絶えなかったから。天下の夏大人(ダーレン)はそんな俺の粗暴さを嫌って、走雷門から永久追放したんだよ」


 そこで林は笑みを消した。


 代わりに現れたのは、ひどく陰惨さを感じる面持ち。


「だがそれだけならまだよかったんだ。俺は奴に入門する前にも、同じような理由でいくつかの武館を破門になっていた。だから走雷拳を叩き出されても、また別の武館へ鞍替えしちまえばいい。いつもやってた事だ。だが――今回はそれが出来なかった」


 林は憎々しげにギリッと切歯し、


「その歩法は一筋の閃光の如し、そしてその閃きの後には数十人の武人が地べたを舐めている――そんな夏臨玉の名は、武術社会ではあまりにも有名すぎた。そして俺、林越の名も「あの夏臨玉から破門された男」という形で、夏の名声に付随して武術社会に大きく広まった。その噂を聞いて、保守的で猜疑心の強い中国の武術家たちの脳みそはどういうフローチャートを紡ぎ出すと思う? 答えはこうだ。「あの高潔な夏臨玉が鼻をつまむような人間だ、きっとロクな奴じゃない。絶対にウチには入門させるな。必ず我が門の面汚しとなるだろう」。こうして俺はその後、どの武館からも受け入れてもらえなくなり、常に門前払いを食らう事になった。興味のある門派を見つけても絶対に入門は叶わず、ただ他人がそれを身につけていくのを眺めているだけだった。こうなったのは全部、夏臨玉のせいだ。あのクソ野郎は、俺から武人としての生命を奪いやがったんだ――だからっ!!」


 林は両手を大きく広げ、狂気を帯びた笑いを見せて声高に発した。


「俺はあのクソ野郎を苦しめる事に決めた!! 俺と同じ「何かをしたくてもできない苦しみ」を与えてなぁ!!」


 ――要は我知らず拳を握りしめていた。


「奴がお屋敷の使用人をやってると聞いた時はマジでビビったぜ!! だが同時にチャンスだと思った! 何せ奴には「お嬢様」っていう大事なモンができちまってやがったんだからよぉ!! 俺は倉橋菊子を攫ったのち、奴に「一歩でも屋敷から出たら、倉橋菊子を殺す」と脅しを入れた!! それを聞いた夏の野郎はどんな気持ちだったんだろうなぁ!? 大好きなお嬢様を助けたいけど何もできず、ただ待っていることしかできねぇ!! さぞ苦しいだろうぜヒハハハハ!! それに大金までオマケで付いてくるなんざ最高じゃねぇか!!」


 聞けば聞くほど、言いようのない怒りがマグマのように頭頂部へ駆け上って来る。


 こいつのやっている事は――完全に逆恨みだ。


 なおかつ、それで駄賃まで頂こうと考えてやがる。


「いやぁ~~電話越しの野郎の声は最高だったぜぇ!? 超ブルってやがった! 完璧にキテましたねありゃ!! 冷静沈着な「眼鏡王蛇」サマもあれじゃ形無しだよなぁ!! どうせなら屋敷の中に忍び込んでカメラでも仕掛けておくんだったぜぇ! こうしてる今、あのボケ一体どんなツラして泣いてやがんのやら――」

「――黙れ」


 自分でも驚くほど低く、冷たい声色だった。


 こいつだけは、マジで許せない。


「あぁ? なんか文句でもあんのかよ小僧? あるなら言ってみろや。監禁中にコーラやチーズバーガーが出なかった事に対する不満でも垂れてぇのかぁ?」


 林は見下すような表情で言ってくる。


「……ああ。お前に対する文句なら死ぬほどあるよ。死ぬほどな。でも、それを全部言うとあっという間に日が暮れるだろうから――一番言ってやりたい事を一言だけ言ってやる」


 要はゆっくりと立ち上がった。


 そして、菊子へ軽く目を移してから、再び林に向き直る。


 嫌がる菊子を無理矢理車へ押し込んだのも許せない。

 臨玉を苦しめるような事をしたのも許せない。

 汚いやり方で人の金を取ろうとしたことも許せない。


 けど、一番許せなかったのは――


 要は林に向いた瞳を最大限に鋭くし、そして言い放った。




「――こんな可愛い娘、泣かせてんじゃねーよ、タコ」




 それを聞くと、林は面白くなさそうに鼻を鳴らし、


「……で? 結局テメェはどうしたいんだ? 人質に甘んじてここに残るのか、それとも――ここを抜け出すのか」

「聞くまでもないだろ」


 要は一歩踏み出す事で、自分の意思を言外に示した。


 ――ここから絶対逃げてやる、と。


「そうかい。じゃあつまり――俺と()る、って事でいいんだよなぁ? ヒヒッ…………ヒヒヒ……!!」


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


こっ、今回はハイパー難産でした……!


もしかしたら「いや、その理屈はおかしい」という点もあるかもしれません。

プロットの練り方もっと上手くなりたいなぁ。

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