第十二話 青天の霹靂
翌日。日曜日。午前十一時。
「あー、さっぱりしたー」
易宝養生院の居間にて、要はダイニングセットの椅子の一つにドカッと腰を下ろした。
先ほど修行を終え、流した汗を疲れとともにシャワーで洗い落としてきたばかりだ。そのため、要の髪は少し濡れている。
要は目の前に置かれたロックアイス入りの麦茶の入ったグラスに口を付け、傾けた。火照った体が香ばしい香りとともに冷やされていき、心地が良かった。
半分まで一気に飲み込んでから、グラスを置いて一息ついた。
「毎回思うんだが、おぬしは人ん家のシャワー使うことに抵抗はないのか?」
電気ポットで耐熱グラスに熱湯を注ぎながら、向かい側の席の易宝は何気ない喋り方で訊いてきた。
耐熱グラスに入っているのは小さなボール状の茶葉の塊だった。茉莉仙桃と呼ばれるジャスミン茶葉の一つで、熱湯を注ぐと丸く固められた茶葉が花のようにゆっくりと開き、茶を発する。この茶は飲むだけでなく、茶葉が開いていく様子も見て楽しむのだという。
「あれ? 使っていいんじゃなかったの?」
「まあ、確かにそうだが。近頃のおぬしくらいの若者は、そこのところに潔癖なのではないかと思ってのう」
「いや、そうでもないって。女子ならともかく、男子は気にしないはずだよ」
「女みたいなツラぶら下げとるくせに」
「あー、ケンカ売ってんな」
そう軽口を叩き合ってから、要は今日の修行についての話題に軌道修正した。
「なあ師父、蹴りの練習って一体いつまでやるのさ?」
「はっきりとした成果が現れるまで、だ」
「成果って?」
「蹴り技は何のためにやるものだった? 当初の目的をよーく思い出してみぃ」
要は頭を回転させ、蹴りを学び始めたばかりの頃を振り返る。
そして、思い出した。
「――足の動きを器用にして、連続攻撃ができるようにするため?」
「そうだ。「人を打つ時には情を留めず」という言葉が中国拳法の世界にある。これは一度手を出したら、相手が死ぬまで手を休めず、攻め続けろという意味だ。それを成功させるために、足の器用さは欠かせぬ要素なのだ」
「え……殺すのはちょっと……」
「まぁ、わしも流石に命を奪えとは言わん。だがそれでも武術において「連続」というのはあって損はない要素だ。相手の防御が破れるまで攻め続けたり、相手の隙を突いてタコ殴りにしたりなど、川の流れのごとくのう。もしその期待通りの成果が現れたら、修行法をいじってやろう」
「じゃ、じゃあさ、そろそろ崩陣拳の実戦技法ってやつを教えてくれよ?」
易宝はブッブー、と手で×を作り、
「まーだダメ。おぬしの「三つの力」の功夫はまだまだ未熟だ。もう少し時間をかけなくては」
「ええー!? そんなー!」
「今のままでやっても、きっと身に付かんぞ? それでもいいなら教えても構わんが」
「……当分はこのままでいいです」
「分かればよろしい。まあ焦らないことだ。遅かれ早かれ、学ぶ時は必ず来るだろうからのう」
軽く笑いながら、手の内のグラスの中で拡散していくジャスミン仙桃を眺める易宝。
そんな彼にチラチラ視線を送りながら、要は押し問答していた。
――夏臨玉について話すべきか、という問題について。
走雷拳について言及した途端、易宝はいかにもな不機嫌オーラを放ってきた。
これは多分、いや、確実に二人がケンカ友達であることに起因している。
おそらく臨玉のことを話題に出せば、前と同じ反応をすること相違ない。いや、下手をするともっとひどいかもしれない。
だが、臨玉からは「頼んだよ」と伝言を渡されている。
使用人は決して暇じゃないだろう。それなのに、自分のためにわざわざ時間を裂いてくれた臨玉には感謝していた。
なら、頼みごとの一つも引き受けるべきだろう。
要は意を決した。
「なあ師父――夏臨玉って人、知ってる?」
ピシッ――易宝の持つ耐熱グラスに亀裂が走り、そこから湯がにじみ出る。
ほら見なさい。だから話したくなかったんだよ。
易宝は刺すような鋭い眼光をこちらへ向けながら、恐ろしく重低音な声で訊いてきた。
「……どこでその名前を聞いた? 何もしないから答えてみせい」
話さなかったら何かする気かよっ? 以前と同じような易宝の剣呑な態度に、要は内心逃げ出したかった。
「いや、聞いたっていうか、実際に会ったんだよね。夏臨玉さんに」
「なっ…………!」
今度はひどく驚愕した表情を見せてきた。
易宝はテーブルに身を乗り出し、
「奴が日本に来ているのかっ!? どこで会ったカナ坊!? 教えてくれ!」
「え、えっと……まず、俺の友達に倉橋菊子って女の子がいるんだ」
コクコク、と小刻みに首肯する易宝。
「その娘、すっごい金持ちでさ、でっかいお屋敷に住んでるんだよ。俺昨日そこに遊びに行ったんだけど、その屋敷で執事をやってる人が夏臨玉さんだったんだ」
ピシシッ――グラスの亀裂が血管のように範囲を広げた。ひっ!
「臨玉の奴め……行方知れずになったと思ったら、そんな場所に逃げていたのか!? 灯台下暗しか!」
「えっと……逃げる、とかじゃないはずだよ?」
「じゃあなんだと言うっ」
俺に当たんないでよ頼むから。
「えっと……実は伝言預かっちゃってるんだよね。「386勝385敗72引き分け。僕が一勝リード中だ。早く来ないと死んで勝ち逃げするよ」だって。むしろ自分から来るのを待ってる感じだったよ」
バリィン!――耐熱グラスが砕け散った。洪水のように熱湯が溢れ出し、テーブルの上に水たまりを作り始める。
飛び散った熱い飛沫に当たり、思わずその手を引っ込める要。
熱湯をモロにかぶっていた易宝の手は湯気に包まれていた。だが本人は微塵も熱がる様子を見せず、代わりに燃えるような怒りに身を焦がしているようだった。
「あんのタコ……! 何が「死んで勝ち逃げする」だ、調子に乗りよって……!」
「やっぱり……あんた達って友達……?」
「誰が友達だ! 昔から殴り合ってきた仲だというだけの話だ。ったく、相変わらず言うことが嫌味ったらしい奴め。おまけに戦績まで細やかに記憶しておる。少しも変わっておらんようだな、あの「眼鏡王蛇」様は」
「「眼鏡王蛇」?」
易宝は溜息をつきながら、
「爬虫類のコブラの背に浮かんだ眼鏡状の模様と、かけている眼鏡に共通点を見出して付けられた奴の通り名だ。王というのは奴の力の甚だしさを表現するために付け加えられた単語で、この名を聞けば黒社会の大半はイモを引いて逃げ出すほどの怪物だ。ま、コブラをチョイスした点は褒めておこう。あの嫌味の混じった口調と態度、それでいていちいち正確な数字を覚えてそれを突きつけてくる細かさと粘着性、まさしく蛇のソレだ」
「そうか? いい人だと思ったけどなぁ」
「猫を被ってるだけだ」
もしかしたら、互いにしか見せていない顔が二人にはあるのかもしれない。
「殴り込みとかかけちゃダメだぞ? ああいう家はセキュリティもしっかりしてそうだからな」
「かけるかそんなもん。ヤクザじゃないんだ、さすがに分別は持ち合わせている。だからわしからも伝言を頼みたい。「そっちから来たらどうだ? それとも自分から行くのが怖いかこの臆病者め。早く来ないと『走雷門は腰抜けの集まりだ』とメガホンで武林中に触れ回ってやるぞ」……こんなところか。奴は知性派ぶっているが挑発にはキチンと乗るからのう、ここまで言われれば来ない訳が無い」
要は苦い顔をしながら、
「ていうか、俺をスポークスマンにするのはやめてくれよ。直に話せばいいじゃん。なんなら、俺が倉橋に掛け合ってみてもいいけど?」
「いや……わしの方から会いに行ったら、なんか負けた気分になりそうで嫌だ。だから奴の方から会いに来るまでわしは山のごとく動かん」
難儀だなぁ…………。
◆◆◆◆◆◆
もうじき正午へ差し掛かろうとしている太陽の光が、小さな河川敷へ照りつける。
一直線に伸びた川と十字状になるように敷かれた高架線路の上を、列車が通過していく。
倉橋菊子は、その高架線路を支えるコンクリートの柱の根元にいた。
頭上の線路が日光を遮り、薄暗い。
菊子はフルオープン式の缶詰の蓋を開くと、用意したスプーンでその中身を餌皿へ移していった。
目の前にはまるで浴槽に浸かっているかのように、ダンボール箱からひょっこり顔を出している一匹の白猫。
「くすっ……」
菊子は思わず小さな笑みをこぼしながら、餌皿を箱の中へ入れる。
中に入ったフレーク状のツナを、猫は小ぶりな口を開けてしゃくしゃくと平らげていく。
そんな様子をしゃがんで微笑ましく眺める菊子。
この子はこのダンボール箱から離れない。いや、正確にはその中に敷かれた汚い毛布から。もしかすると、前の飼い主の匂いが残っているのかもしれない。見つけたばかりの頃は、次の日にはどこかへいなくなっているのではないかといつも心配だったので、それが救いのような気がした。無論、この子を捨てた事は許せないが。
「ふふふ……」
再び笑みが漏れる。
最近はなんだか楽しい。
この子の新しい飼い主は相変わらず見つからないが、それでも、今までで一番充実した日々を過ごしているように思えた。
それはどうしてか――考えると、すぐに「彼」の姿が脳裏に浮かんだ。
男の子っぽくない、とても綺麗な顔。さらさらと肌触りの良さそうな髪。ほっそりとした体つき。
そんな彼の顔を頭の中で思い浮かべると、自然と口元が緩んだ。
最初に彼があの最凶最悪の人物だと知った時、噂とはかくもアテにならないものであるかを良い意味で思い知った。
ケンカは強いけど全然怖くなくて、面白くて、親切で、素直で、そして勇気のある人。
いじめられているこの子を助けてくれた。
この子の新しい家族を探すのを、時間を裂いて手伝ってくれた。
自分を見捨てず、怖い人たちから守ってくれた。
小学生の頃以来一度も誰かを家へ連れて来たことがなかったため、他人であり、しかも男の子である彼を呼んだ時は、我ながらとても大胆なことをしてしまったと内心ドキドキしていた。だが後悔はしていない。
昨日、帰り際に見せてくれた彼の笑顔は、未だ心に焼きついていた。
「っ……やだ…………」
菊子はハッとし、胸を押さえる。
どうしてだろう。
最近、気がつくと彼の事ばかり考えている。
彼の事を考えると、胸があったかくなる。
彼が喜ぶためなら、なんだってしてあげたいとすら思ってしまう。
家族以外の人に対して、こんな気持ちを抱くのは久しぶりだった。
だが、同時にこれは自分の人生の中で大きな進歩だと思った。
今まで他人を避けて生きてきたけれど、あの人となら、長い間友達でいられるかもしれない。
あの人となら―――「あの娘」のような幕引きをせずに済むかもしれない。
その時だった。
――キィィィィィィィ!!
突如、悲鳴のような摩擦音が響き渡った。
聞く者の神経を逆なでするようなその不快な音に、菊子は全身を芯までブルリと震わせる。
音が聞こえたのは、土手を登った所に伸びる一本道からだった。
目を向けると、そこには灰色のワンボックスカーが一台停車していた――さっきまでなかった車だ。
その車のスライドドアが、暴力的に開け放たれた。
易宝養生院を出た要は、電車に乗って淡水町へと戻ってきた。定期券を使ったのでもちろんプライスレスで。
汚れた練習着の入った鞄を肩に掛けながら、駅の階段を降りる。
これから真っ先に家に帰る――予定だったが、それを少しだけ変更しようという思いが要の中で生まれる。
捨て猫のいるあの河川敷の様子が、なんとなく気になったのだ。
菊子は休日も餌をやりに行っていると話していた。なので、もしかすると今行けば会えるかもしれない。
それに、この間のようにいじめられていないかどうかも、ほんの少しだけ気がかりだった。
自分はこんなにお節介な奴だったのかと内心思いながら、歩を進める方向を河川敷方面へと変更する。
目的地へと近づくたび人の通りが減っていき、やがて自分一人になる。あの河川敷はあまり人が来ない場所であるため当然かもしれない。だからこそ、自分をいじめた連中は目立たぬようここを選んだのだろう。
数分間の歩みの末、今いる道の伸びる先に見慣れた河川敷が見えてきた。
歩き進むたび、その姿は大きく映ってくる。
そして――そのすぐ近くに停まる、一台のワンボックスカーの姿も。
要は少しだけ目を見張った。あそこに車が停まる事はあまりない。そんな場所に停車しているワンボックスカーがなんだか奇異に映った。
理由のない胸騒ぎを感じた要は、我知らず小走りになっていた。
歩きの倍のスピードなので、到着するのも早かった。
そして、眼前に映る光景を目にしたことで――要は自分の中の胸騒ぎが気のせいでなかったことを知る。
ワンボックスカーの前で、知らない男たちに取り押さえられている菊子の姿があった。
口元を手で塞ぎ、声も出せない状態で菊子を拘束する男二人は、オープンになった車のスライドドアの中へ彼女を押し込もうとしていた。
その周囲には、もう数人仲間が立っている。
菊子も必死に身を揺らして抵抗するが、男の腕力に敵うはずもなく、向こうのされるがままになる。
考えるよりも早く――要は動きだしていた。
鞄を放り出し、弾丸よろしく男たちへ突っ込んでいく。
周囲に立つ男たちを押しのけ、今まさに車内へ入れられようとしていた菊子を拘束する男の一人の脇腹へ、助走の勢いを乗せた飛び蹴りを叩き込んだ。
「ぎゃぁっ!!」
予期せぬ衝撃に、男は目を白黒させながら後方へ吹っ飛ぶ。
周囲が混乱している間に、要は菊子を抱きしめるようにしながら後ろ足へ重心を移し、残りのもう一人の男の拘束から彼女を取り返した。いい匂いが鼻腔をくすぐる。
そしてすぐさまそいつの顔面へ横蹴りの『側踹腿』をぶち当てる。男は鼻血を散らしながら空を仰ぐように倒れた。
「く、工藤くんっ?」
自分の胸に抱かれる菊子が呼びかけてきた。普段の自分なら速攻で真っ赤になるであろうシチュエーションだが、今は恥ずかしがっている場合ではない。
「今すぐ人の多い所に逃げろ全速力で!」
要は早口でまくし立てるようにそう告げると、男たちに囲われていない開けたスペースを即座に見つけ出し、そこへ菊子を放り出した。
尻餅を付いた彼女の「きゃんっ」という悲鳴を無視し、男たちのいる真後ろへ迅速に振り向くと、男の一人が今まさに拳を振り上げている最中だった。
「テメェ、このガキ!!」
怒号とともに真っ直ぐ突き出された拳。
要はそれに片腕を滑らせて間一髪受け流し、そのまま男の懐へ潜りその鳩尾へ勢いよく頭突き。
そいつの苦悶の声を無視して別の男へ素早く接近。『開拳』を打ち込む。男の体がくの字に折れて沈む。
横から二の腕へ掴みかかってきた別の男。要はその引っ張る力に乗って地を蹴り体当たり。男は背中から車体へ叩きつけられると同時に手を離した。
思考はせず、直感と本能に任せて敏速に対応していく。敵の数が多いため、考えてから対処するのでは遅すぎるからだ。
敵の数が三人減り、ほんの少しだけ余裕のできた要は後ろを振り返る――菊子は未だ逃げておらず、アスファルトにお尻をついたままこちらを見て唇を震わせていた。
「バカッ!! 何やってる!? 早く逃げ―――うっ!!!」
背中に何かを押し当てられる感触とともに、とんでもないショックが要の全身を駆け巡った。
五体が硬直し、思うように動かせなくなる。
それでも不屈の負けん気で首だけは巡らせ、自身の背後を見た。
――スタンガン。
体がバランスを取ることを放棄し、そのまま重力に引っ張られてうつ伏せに倒れた。
眼前の菊子も取り押さえられてしまっていた。
「いってぇ……このクソガキが…………林さん、こいつどうしますか?」
「ナンバーを見られた可能性がある。こいつも女と一緒に連れてけ」
そんな男たちのやり取りを最後に、要の意識は途絶した。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
暖かいのか寒いのかハッキリして欲しいですよねぇ(−_−;)




