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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第二章 ボーイミーツガール編
32/112

第八話 いざ、倉橋家へ

 翌日の放課後。


 要はいつものごとく、易宝養生院の中庭でひたすら功を練っていた。


 上空から差し込む茜色の夕日は、四月の同じ時刻のそれに比べて明るく、そして暖かい。

 いや、若干暑いとも感じられる。やりたいわけではないが、上半身裸で外出してもそれほど寒くはなさそうだ。

 日が長くなり、気温が上がっている。つまり夏に近づいているということ。

 夏は暑いから好きじゃない。でも、寒い冬の方がもっと嫌いだ。このどちらか一方の季節を無くすことができるとしたら、自分は迷わず冬を選ぶだろう。


「――二回目の蹴りは空中で素早く入れ替えるんだ! 連続蹴りだ、その連続の途中に断絶を作っちゃいかん! 断絶はそのまま隙となるぞ!」


 疲労を誤魔化すためにそんな益体もない事を考えていたからだろうか、心のこもっていない動作をしていた要を易宝が注意する。


「いいかカナ坊、一回目に使った蹴り足が着地してから二回目の蹴りを放つのでは遅い。ほんのわずかな絶え間が出来てしまう。強い相手はそこを絶対に逃さずぶち込んでくる」


 そんな助言を受け止めてから、要は先ほどまでやっていた蹴りを再開した。


 助走をつけてから一発目の爪先蹴り。そこからさらに思い切り跳躍、先ほど言われた通りに空中で素早く足を入れ替えて二発目の爪先蹴りを放ち、片足で着地。


 蹴り足を下ろし、助走をつけて再度その蹴り方を繰り返す。幾度も続ける。


 これは『二起脚(にききゃく)』と呼ばれる、飛び掛かりざまに放つ二連続蹴りだ。

 この空中で足を入れ替える動作は股関節に疲労が溜まりやすく、要の股はすでに錆びたネジのように動くことを嫌がっている。

 だがそれでもまだいいほうだ。最初はすぐに股関節がつって痛くなり、根を上げていたのだから。


 そうして何度も『二起脚』を繰り返し、もう何度目になる着地が終わると、易宝は「止め」と言った。条件反射でピタッと動きを止める。


「よーし、一分のインターバルの後は『旋風脚(せんぷうきゃく)』をやってもらおう。これが終わったら休憩&水タイムだ。気張れよカナ坊」


 その技名を聞いて「うえー」と苦々しい顔をする要。

 

 一分というのは思いのほか短いもののようで、インターバルはあっという間に過ぎた。


 要は両手を大きく真横へ広げ、軽く腰を落とす。

 そして全身を一気にねじり、左足の膝を胸へと引き寄せる。その動作によって生まれた勢いに乗って跳び上がり、空中で身を旋回させつつ右足裏で左掌をこすりつけるように蹴りつけ、着地。多少よろけたが、なんとかバランスを崩さずに済んだ。

 これが『旋風脚』。空中で回転しながら放つ内回し蹴りで、蹴り技の中では特に難度が高いものの一つだ。


 先ほどの『二起脚』とこの『旋風脚』には、共通している事が一つある。


 それは、両方とも――跳び上がるタイプの蹴りだという点。


 要は現在、そういった種類の蹴りを多くやらされていた。

 

 跳び上がるタイプの蹴りは体力の消費が激しい。だがそれ以上に厄介だったのが、空中で蹴った後の着地だった。

 いずれも一本足で着地させられるものばかりのため、最初は上手く着地できずにバランスを崩し、たたらを踏んだり転んだりすることが多かった。

 だが、最近では段々それがなくなっていき、重心に安定が生まれてきた。

 この安定感は、実は非常に重要なものである。

 足癖とバランス感覚を良くしていくことで、技を連続で変化させる途中に足元がぐらつきにくくなるのだ。 

 それだけではない。崩陣拳の『撞』の力は、加速状態から急激に踏みとどまることで強烈なショックを叩き込むものだ。だが、踏みとどまる動作を確実に成功させるためには、加速の勢いに流されずにストップできるブレーキ、つまり下半身の安定感が必要になる。実を言うと、要は『撞拳』の急停止の動作で足がぐらついてしまうことが時々あった。今までの実戦の中で一度もそれをしくじらなかったのは運がよかったことだといえる。


 着地。準備姿勢。回りながら跳び上がりつつ内回し蹴り。着地。そしてまた繰り返す――度重なる旋回運動で、目が回りそうだった。


 この『旋風脚』が特に曲者で、やり始めた頃は遠心力に振り回されて何度もバランスを崩していた。そのため、まともに着地できる回数が増え始めたのはここ二、三日からだ。


 着地。跳び上がって蹴り。また着地。また跳び上がって蹴り――多くの失敗の果てにこのスムーズな継続があるのだと思うと、感慨深いものを感じた。


 そうして回数を積み重ねていき、しばらくすると、易宝が「よし、もういいぞ」とストップを命じた。


 要は息を切らせながら、師の話に耳を傾けた。


「だんだん重心が安定してきたのう。昨日、散手をやった時でも分かったぞ」

「そう? なんか段々着地が楽になってきたとは自分でも思うけど……」

「わしはおぬしよりも若い頃に武術の基礎を全て叩き込まれた。正直『二起脚』はともかく、『旋風脚』みたいな難しい蹴りは、吸収の早い子供の頃からやらないと形になるのに時間がかかると思っていたが、これなら近いうちに及第点がやれそうだ」

「及第点? 完成じゃなくて?」

「修行に完成などありえんさ。だが、修行はある程度積み重ねればそれなりの効果が現れる。それが身に付いたら他のものに心血を注ぎ、それでまた新たなものが身に付いたらもう一度同じ場所へ戻り、過去に身につけたものを微調整していく。そしてそれが終わったらまた別のものに手を伸ばしてみる。「三歩進んで二歩下がる」ようなものだ。それを長い年月の間、何度も繰り返していくのだ」

「めちゃくちゃ時間かかりそうだな、それ」

「ああ。だがやる意味はある。確固たる功夫とはそれによって身に宿るものだ。ま、先のことなんぞ考えていても仕方あるまい? 今に集中すればいい。じゃ、飲み物を持ってきてやる」


 そう言って、ゆったりした歩調で母屋の中へと入っていく易宝。 


 息が落ち着いてきたので、大きなため息をついてみる。

 そして空を見上げながら考えたのは、昨日、別れ際に菊子が言っていた『走雷拳』なる拳法のこと。

 

 もしかすると、易宝ならこの拳法について知っているかもしれない。


 下見として試しに聞いてみよう――そう思い立った時、タイムリーに易宝が冷水ボトルを片手に戻って来た。


 そして、要は開口した。




「――なあ師父(せんせい)、『走雷拳』って拳法、知ってる?」




 ――ブシャァッ!!! 


 水が満タンに入ったボトルが、易宝の手によってぺちゃんこに握り潰された。

 どれだけ力を込めて握ったのだろうか。圧力でボトルキャップが遥か上空へ弾け飛び、握っていた部分が大きくくびれ、中の水がびちゃびちゃと溢れ出す。


「ひっ!?」 


 要は思わず一歩後ずさりした。


 なぜなら――


「…………どこでその名前を聞いた?」 


 そう呻くような低い声で尋ねてきた易宝の顔が、ひどく不機嫌そうだったからだ。


 彼の周囲をまとう雰囲気も、どこか剣呑でギスギスしたもののように思えた。


 明らかに、先ほどまで朗らかに笑っていた易宝ではない。


「い、いや! ほら! ちょっとそこらへんで小耳に挟んだだけだよ! よくあることじゃん!? それでちょっと気になったから、師父に聞いてみようかなーって!」


 よく分からないが本能的にマズイと感じた要は、慌ててお茶濁しの答えを返した。


 はたしてどんな反応をされるかと気が気じゃなかったが、易宝は「ふぅ……」と気を落ち着けるようなため息をつくと、剣呑な雰囲気――殺気を消して語り始めた。


「……走雷拳は神速の拳技。その「雷が歩く」という門派名の通り、稲光のような速度を誇る歩法で相手を翻弄し、そして触れられることなく叩き潰す拳だ。崩陣拳が「一撃で打ち倒す拳」なら、走雷拳は「一瞬で打ち倒す拳」と言えよう」

「一瞬で……?」

「ああ……おまけにあれはその拳の性質上『浸透勁(しんとうけい)』を得やすい」

「『浸透勁』?」

「肉体の表面ではなく、内部にショックを与える打法だ」

「それって、痛い?」

「痛い、というより「凄まじく不快」だな。体の中を引っ掻き回されているような感覚に一定時間苦しめられ、立っていられなくなる」


 そこまで言うと、易宝はイライラした様子で頭を掻きむしりながら、


「つーか…………今は走雷拳なんぞどーでもよかろう? 今は崩陣拳タイムだ。他所の門派の話なんぞする暇はないわい」


 そう疲れたように言って、再び母屋へと戻った。ぺちゃんこになってしまったボトルを捨ててくるのだろう。


 飛んでいたボトルキャップがポトッと地に落ちるのを見ながら、要は静かに思った。


 ――走雷拳に嫌な思い出でもあるのか?









 ◆◆◆◆◆◆









 そして、あっという間に約束の土曜日となった。本日は休校日だ。


 現在、十二時四十五分。


 最近は少し暖かくなってきたので、長袖シャツにジーンズという軽めの私服に身を包んだ要は、待ち合わせ場所の淡水町駅前にやって来た。自宅から数分ほどの最寄駅だったため、スローペースで準備して間に合う距離だった。


「お待たせー!」 


 要は街路樹に寄りかかって待っていた菊子に声を掛け、駆け寄った。


「こんにちはです……工藤くん」


 菊子はそう言って小さく微笑む。


 彼女の私服は、まるで冬着のようだった。

 上に着ている焦げ茶色のハイネックセーターの袖は少し長めで、彼女の手をすっぽりとその中に収めている。そして下には自分と同じようにジーンズ。肌の露出が極限まで抑えられており、その長々と伸びた黒髪と合わせると、まるでムスリムの女性のようだ。


「……なあ、それ暑くない?」


 要がもっともな疑問を投げかけると、


「大丈夫。それに、これ……好きなの」


 菊子はその必要以上に長いセーターの袖で恥ずかしそうに口元を隠しながら、控えめに言った。なるほど、どうりで肌があんなに白いわけだ。


 そして、二人は隣り合わせに歩き出し、駅を出る。

 

 菊子の家は、要の家がある場所とは別の道の遥か先にあるらしい。この淡水町に居てそれなりに長いが、一度も通ったことの無い道だった。

 道中、色々な話題を持ち出し談義した。未だ継続中である猫の飼い主探しの事についても話し合った。


 それから随分歩き、しばらく会話を続けるうちに、話題の矛先は今日の目的に移った。


「――それでね、その人、()臨玉(りんぎょく)さんっていうの」


 菊子は目的の人物の名前を教える。


「夏臨玉……その人が走雷拳の人なのか?」

「うん。元々は中国の人なんだけど……すっごく強くて、背も高くて格好良い男の人なの。ちょっと心配性なところがあるけど……わたしの大事な家族なんだよ」


 そう話す菊子の表情は、どこか楽しそうだった。それほど家族が大好きなのだろう。要は心が暖かくなるのを感じた。

 

 だがそこで、ふと疑問が浮かんだ。


「その人って、倉橋の親戚かなんか?」

「ううん。臨玉さんはね――わたしの家の執事さんなの」


 ――は? 執事?


「あ……着いたよ、工藤くん。ここがわたしのお家だよ」


 その言葉の意味するところを尋ねるよりも早く菊子がそう告げ、一つの方向へ指差す。


 菊子と話すのに夢中だったので、周囲の景色に気を配っていなかった。


 だからこそ、菊子に言われるまで――目の前の「ソレ」に気がつかなかった。


「なっ……………………!!」


 菊子が指差した方向を見て、要はあまりの驚愕に思わず口をパクパクさせる。


 西洋風の立派な門構えの向こうに広がる広大な敷地の奥には、貴族などの上流階級の住む屋敷を彷彿とさせる豪壮な建築物が、敷地の横幅を埋め尽くすように建っていた。

 その前方に広がる大きな庭はフットボールの試合ができそうなほどの面積を誇り、青々とした芝生と上品な石畳でデザイニングされている。


 そこはまさしく――「豪邸」と形容するに相応しい場所だった。


 この淡水町に、こんな場所があったなんて。


「………………ここが、倉橋んち?」


 なんでもないことのように頷く菊子。


 それを裏付ける形で、門の脇の「倉橋」と彫られた石の表札が視界に入った。


「倉橋って………………お嬢?」

「お、お嬢かどうかは分からないけど……お父さんは会社の社長さんなの……」


 そういうのをお嬢っていうんだよ、倉橋さん。


 聞くと、菊子の父親は「倉橋インダストリー」の経営者だという。

 倉橋インダストリーは、家電量販店に入れば一分以内にその製品にありつく事ができるといわれているほどの超大手機械メーカーだ。

 会社や経済の事について全くの無関心である要ですら、その名前は知っていた。なぜなら、現在我が家で現役活動中の全自動洗濯機もその製品の一つだからだ。


「…………………………」


 言葉が出てこない。驚きが最高潮に達すると、人は叫ぶどころかグウの音も出なくなると聞いたことがあるが、マジだったようだ。


 「同級生が実は大金持ちだった!」という話は漫画でよく見るが、まさか自分が味わうことになるとは思わなかった。まさしく「事実は小説よりも奇なり」だ。いや、漫画か。


「く、工藤くん? どうしたの? 大丈夫?」

「ウン。ダイジョウブデス」


 やっと喋れた。


「そ、それじゃ、ついて来て?」


 コクンと黙って首肯する。


 菊子は開け放たれた門から、その広大な敷地の中へと足を踏み入れる。要もそれに続く。 


「工藤くん、右手と右足が一緒に出てるよ?」


 菊子にそう指摘され慌てて歩き方を直し、移動を再開するのだった。
















 


 来客用のスリッパに履き替え、要はとうとう屋敷の中へ入ってしまった。


 屋敷内は、まさしく異空間だった。

 外観通り、とにかく広い。廊下が学校のソレよりも長く、家と称する建物の割に部屋の数が半端なく多い。ホテルと言っても通用しそうだ。

 掃除が行き届いていて、輝きを発しそうな内壁。ところどころにある、見るからに高そうな家具や調度品。要はそれらを壊してしまわないようにと細心の注意を払いながらそろり、そろりと歩く。思いっきり庶民の反応だった。


「あ、これスゲーなぁ」 


 おっかなびっくりに歩いていた要だが、途中で壁に掛けられていた絵画をまじまじ見てそう感嘆する。

 木製の額に収まっていたのは、湖の(ほとり)を描いた油絵だった。至近距離から見ると絵の具を適当にペタペタ付けたようにしか見えないが、少し離れるとまるで写真のようにリアルだ。描いた者の技巧が伺える。


「それ……三○○万円したって、前にお父さんが言ってた絵」

「ふぁぁぁぁぁ!?」


 ずざざざーっと、絵から勢いよく離れる要。


「そっ、そういうことは早く言ってくれよなーー!?」

「うん?」


 菊子はよく分からないとばかりに小さく首をかしげる。くそっ、庶民である我が身が恨めしい。


 そんな風に倉橋家を歩いていると、やがて開けた空間に出た。

 奥には高そうな赤い絨毯の敷かれた大きな折り返し階段があり、そこを除く周囲の壁から多くの通路が伸びている。 


 そして、そのいくつも空いた通路のうちの一つから――バスケットボールほどの大きさの壺を布巾で磨きながら歩いている、一人の男性が出てきた。


 眼鏡の下にある瞳はやや鋭角的で鋭いが、「仕事のできる男」然とした非常に理知的で端正な顔立ち。姿勢が良くスラリとした長身痩躯の体型は、白黒ツートーンのスーツ――執事服にぴっちりと包まれていた。


「――あ、臨玉さんっ。ただいま」


 自分の前に立つ菊子が、その執事に声を掛ける。外ではあまり出さない、弾んだ声だ。

 

 ――臨玉。


 彼が、菊子の言っていた夏臨玉なのか?


 執事はそんな菊子の姿を捉えると、先ほどまでのキリッとした顔つきを一変、フニャフニャとしただらしない笑顔を浮かべ、


「――あ!! お嬢様、お帰りなさいませーーー!!」


 十メートル以上もある菊子との距離を―――一瞬で詰めた。


 ――なっ!? 


「ああ、お嬢様お嬢様! 町で変なのに絡まれませんでしたか!? どこも怪我していませんか!?」 

「だ、大丈夫だよ臨玉さん。なんともないから心配しないで?」

「気を抜いてはいけませんよお嬢様。度々申し上げておりますが、あなたは自分がどれほどの極上料理であるかを理解しておりません! お嬢様のような楊貴妃もクレオパトラも霞んで見えるほどパーフェクトプリチィな女の子は、道行く男どもにご馳走を見つけたケダモノのような目で見られているに違いないのですっ! ああっ、ですがどうかご安心下さい! お嬢様を危害を加えるような手癖の悪い野良犬は、この夏臨玉が全身全霊を以て排除致します! たとえ相手が神でも!!」

「わたしは平気だからっ。臨玉さん、落ち着いてっ」


 そんなやり取りを続ける二人を余所に、要は今まで以上の驚愕を胸に抱いていた。


 先ほどの執事の動きを思い出す。

 最初にいた地点から突如LEDライトのようにパッと姿を消したかと思った瞬間には、菊子の前に来ていた。

 速い、という言葉に収められないほどのスピード―――まるで瞬間移動(テレポーテーション)


「いいですか、お嬢様はもう少し自分の魅力を―――んっっ?」


 執事は急にまくし立てるのを止めたかと思うと、菊子の後ろにいる自分を見て、目玉をギョロッと大きくひん剥いた。


 要は思わず身の毛がよだつ。その瞳からは信じられないといった驚愕の意と、許せぬ敵を見つけたような殺意という二つの感情が一緒に感じられるようだった。


 だが執事のそんな眼差しはすぐになりを潜め、一変――極めて温和な笑みを浮かべて菊子に尋ねた。


「……………………お嬢様、この「女の子」は、お嬢様のご学友ですか?」


 やたらと「女の子」を強調して言う執事。


 失敬な。誰が女だ。ムッとした要がなるべく丁寧な言葉遣いで訂正を求めようとした瞬間、


「もうっ。臨玉さん、失礼ですよ。この人は同じ学校の同級生の工藤要くん。「男の子」ですっ」


 菊子が先にそうたしなめた。いいぞ、よく言ってくれた。


 だが次の瞬間―――執事の持っていた壺がするりとその手から滑り、落下。「ガチャン!」と甲高い音を立てて粉々に破損した。


 「わっ」「きゃっ」要と菊子は同時に後ろへ飛び退く。


 そして、執事を見た。


 尋常ではない勢いでブルブルと震え、その美しいかんばせには脂汗の雫が無数に浮かんでいる。しかしそれをさも正常であるかのように取り繕うような仮面じみた笑み。


「お、お嬢様が、お、おと、おと、おと男と、おとこ、おと、お、お嬢様が、お嬢様が、お嬢様、おじょうさ、おじょう、おじょ、おじょ、おじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょじょ―――」 


 その表情のまま、バグったゲームのように同じ発音を病的に繰り返す執事。


 だが次の瞬間―――執事の姿が先ほど同様、パッと消えた。






『だっっ――――旦那様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! たっ、たたた、大変です!! おじょ、おじょじょ嬢様が!! お嬢様が男と一緒にぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!』






 消えたと思った時には、そんな執事の悲痛な叫び声が上の階(・・・)からこちらへ響いてきて、要はビクッと体を震わせる。


『―――なっ、なんだとぉぉぉぉぉぉぉぉ!!! 臨玉、それは誠かぁぁぁぁ!!?』


 ドンガンガシャン――家具をなぎ倒したような大きな物置とともに、新たな怒号が追加された。


 執事のものではない。もっと年を重ねた野太い男の声色。


『はいっ、旦那様!! しかとこの目に焼き付けました!!』

『おのれ………………ウチの可愛い菊子に色目を使いおって……!! 臨玉よっ!! レミントンはどこだっ!? 至近距離から散弾を撃ち込んでその命知らずな男の頭を潰れたトマトのようにしてくれるっ!!!』

『申し訳ございません!! 猟銃は全てテキサスの別荘です!!』

『ええいっ!! ならば他に何かないのか!?』

『私の私室に武器がございます!! 銃器はありませんがあらゆる刃物が揃っております!! 倭刀、柳葉刀、双手帯、春秋大刀、ゴロック、ククリナイフ、なんでもございます!!』

『マーベラスだ臨玉!! さあ、始めようか!! ここから先は私の戦争だ!!!』

『いいえ旦那様、私達の―――』

『落ち着きなさい二人ともっ!』

『『ほげぇ!!?』』


 …………上の階で一体何が起こっているんだろう。


『今までお友達の一人も連れて来なかったあの菊子が、お友達を連れて来たんですよ? 歓迎するならまだしも、亡き者にしようとするとは何事ですか』

『『し、しかし!!』』

『ふ た り と も ?』

『『……ごめんなさい』』


 先ほどまでの大騒ぎが、嘘のように静まり返った。


 隣の菊子に目を向けるが、苦笑するだけで答えてくれない。


 上の階から、三人分の足音がコツコツと階段を降りて近づいてくる。

 やがて目の前の大きな階段を降り切り、三人の人物が要の前にやって来た。


 目の前には先ほどの執事ともう一人、たてがみのような髪型をした壮年ほどの男性が、お通夜のようなしょぼくれ顔で棒立ちしている。

 そしてそんな二人の後ろには、艶やかで長い黒髪をした美しい女性が竹刀片手に立っていた。


「二人とも? どうすればいいかは分かりますよね?」


 女性は前の男二人にニコッと笑って告げる。その笑顔はどことなく圧力を秘めている気がした。


 すると、


「「お、お騒がせしてごめんなさい……」」


 執事ともう一人の男性は、消沈し切った声で揃って謝罪し、深々と頭を下げてきた。


 初対面の大人二人から受ける第一声が「ごめんなさい」――生まれて初めての体験だった。


「……お、お構いなく」 


 うまい対応が思いつかず、要はそう返すしかなかった。


読んで下さった皆様、ありがとうございます!


執事属性のパイオニア的キャラって、一体誰なんでしょうねぇ……

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