第五話 倉橋菊子
「……訳わかんねー奴ら」
消えていった三人を見て、要は呆れ口調でそう呟いてから、転がっていた横長の缶詰を拾った。缶胴を見て、それがキャットフードである事に気づく。
「なぁ、これキミのだろ?」
要は、未だに尻餅を付いたままでいる黒髪の女の子の元へ駆け寄り、猫缶を差し出した。
女の子は一度大きく「ビクッ!」と痙攣してから、要の問いに対して無言で頷き、恐る恐るといった手つきで猫缶を受け取った。
そんなおっかなびっくりにならなくていいのに……要は軽く落ち込んだ。
さっきの三人といい、この女の子といい、さっきから妙なリアクションを取られている気がする。
気を取り直し、要は会話を試みる。
「それってやっぱ、あのニャンコにあげるやつ?」
要が再度問うと、女の子は小さく頷く。
「あの猫って、キミの猫?」
フルフルとかぶりを振る。
「じゃあ、ノラ?」
フルフルとかぶりを振る。
「やっぱ……捨て猫?」
小さく頷く。
「えっと…………怪我、ない?」
小さく頷く。
「………………キミ、昼間ぶつかった娘だよな?」
再度「ビクッ!」と大きく震え上がる女の子。控えめなリアクションが続く中へ突然現れたそのオーバーな反応に、要も釣られてビクッとする。
「あ……あの…………その……あの…………ときは……」
女の子はそわそわと落ち着かない様子で、消え入りそうな声で何かぼそぼそと言い始める。その顔はこちらへ向いていた。自分に向けて言っているのだろうか。
だが、その呟きは溶けるように小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。
場を沈黙が支配する。
だが諦めず次の話題を考えようとした時、要は女の子の姿に思わず目を止めた。
前にも思ったが、その黒髪は驚くほど長かった。異様に伸びた前髪に覆われているせいで目の全容が見えず、後ろ髪は長さ余って地面に垂れている――失礼だが「貞子」というニックネームが似合いそうな気がした。
だがそれと同時に――少なからずの魅力も感じていた。
確かにかなりの長さだが、その黒い毛束は少しの乱れもバラけも無く整然とまとまっており、なおかつ磨かれたオニキスのような強い光沢を持っていた。こんな美しい黒髪を要は見たことがない。
おまけにスカートや袖から控えめに出ている素肌には、シミや吹き出物が少しも見られず、非常に色白。まるで足跡一つない、まっさらな雪原を彷彿とさせた。
有り体に言って――要は見とれていた。
「あ…………あの…………?」
だが、不意に耳に届いた女の子の困惑気味な声に、要は我に返った。
「へ……………………あ、いや、違う、違うんだよ! 何でもない!」
要は頬を紅潮させ、慌てて言い募る。何やってんだよ俺、これじゃただの変態じゃねーか。オニキスとか雪原とか、詩人か? 変態詩人?
「「……………………」」
互いにこうべを垂れて無言になってしまい、再び沈黙を呼びこむ。
要は先ほどの醜態のせいで、どう話を盛り返せばいいのかわからなくなってしまっていた。
気まずい…………なんて居心地の悪い空気だ。今すぐにでも逃げ出したい。
だが、このままさよならなんて後味が悪すぎる。
誰か、割って入ってこの重苦しい雰囲気を明るくしてくれ――要は周囲の誰かに祈るが、ここには自分と女の子以外誰もいない。この辺りにはあまり人が通らないのだ。
ちくしょう、ならどうすればいい? 要は頭を下げたまま、周囲を必死に伺う。
鉄道橋、土手、川、コンクリートの柱、ダンボール箱―――白猫!
箱の淵からひょっこり顔を出した猫の姿を捉えた時、脳内に一筋の稲妻が走った。
要は急激に顔を上げ、きびすを返した。その際に女の子が驚きを見せたが、今は気にしない。
そのまま早歩きでダンボール箱へと向かい、中にいた白猫を両手に抱きかかえる。
――手負いなのにすまん。今だけでいいからお前の力を借してくれ!
要は猫を抱えたまま女の子の前に戻り、尻餅を付いている彼女の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
女の子が小首をかしげる。
要は猫を持ち上げ、女の子の前へ突き出す。
羞恥心の一切を、一時的に捨て去る。
そして――開口。
「『こんにちは。ぼくシロちゃんっていうの。よろしくね、おじょうさん』」
幼児向けアニメに出てきそうなマスコットキャラクターを意識し、できるだけ可愛らしく、そしてコミカルに変えた声色。人によっては滑稽に聞こえるかもしれない。
「『さっきはぼくをたすけようとしてくれて、どーもありがとー。うれしかったにゃー』」
再度同じ口調でそう言い、猫の柔らかい前足をふにゃふにゃと上下に動かす。両手に持っている猫の後ろに自分の口を隠しながら喋ることで、腹話術よろしく、あたかも猫がそう言っているかのように見せる。
これは今朝、亜麻音が見せた手人形の小芝居を参考にしたものだ。先ほどこの白猫を見たことで、亜麻音が見せびらかしていた白猫の手人形を連想し、思いついた。
正直、こんな三文芝居をチョイスするのはどうかと思ったが、要はネタのレパートリーがほぼ皆無だったので、やむを得ずの選択だった。また、考える余裕がなかったのもある。とにかくこの雰囲気を和ませようと必死だったのだ。
しゃべり終えた後、要は猫の後ろに顔を隠しながら、手応えを確かめようと女の子の顔を見た。恥と自分を捨てて、やれるだけのことはやった。少しでも笑ってくれてるといいんだけどなぁ。
だが、笑いの世界はそんなに甘くなかった――女の子は一笑もしないまま、呆然とした様子で自分の顔を見つめていた。
――面白くなかったのか?
いや、この顔は面白い面白くない以前に「いきなり何してるのこの人?」と思っているように見えなくもない。
もしそうだとしたら、それはある意味「つまらない」という評価よりきつい。
そして訪れる、三度目の沈黙。
顔がカーっと熱を増し、額に脂汗が浮かび始める。
やばい、俺なんてマヌケなことしてんだ。完全に変な人だろ。今頃になって自分の選択ミスに気づき始める。
無理に奇をてらうんじゃなくて、普通な話し方でなんとかすればよかったんだ。なんだかさっきよりも居心地が悪くなってきた気がする。
そんなこちらの気も知らず、未だに自分の手にいる猫が「うなーう」と呑気に鳴く。
くそっ、他人事だと思って――そう思った時だった。
「…………くすっ」
そんな、息を殺したような声が耳に届いた。
自分のものではない。ましてや猫のものであるはずもない。間違いなく、自分以外の人間の声だ。
消去法的に、要は前方を見た。
「ふふっ…………ふふふふ……」
女の子はその桜色の唇に手を当て、控えめな笑みを浮かべていた。
「うふふふ……ふふふ、ふふふふっ」
小さな笑い声はだんだんとその音量を増していき、やがてはっきりとしたものになる。
そんな予想外な彼女のリアクションに、要はしばしの間呆気にとられていた。
―――数分後。
開け放たれた缶詰の中身を、白猫が嬉しそうにぺちゃぺちゃと舐めとっている。
二人は土手に並んで座りながら、そんな様子を微笑ましげに見つめていた。
「あの…………さっきはありがとうございます、助けてもらって」
女の子は隣にいる要の方を軽く振り向き、小さく微笑んで言った。
少し照れくさかった要は、頬を人差し指でポリポリ掻きながら、
「いや、いいって別に。あれくらい」
「うん。それと…………ごめんなさい」
「え?」
「その……昼間、ぶつかっちゃって……」
「ああ……」
スポーツテストの時の事を言っているんだろう。
要は女の子に軽快な笑みを見せ、そんな表情に違わぬ軽い口調で答えた。
「気にすんなよ。もう過ぎたことじゃねーか」
「でも……お友達と何か勝負してたんじゃ……」
「だから、もう終わったことなんだからいいんだって。あれは俺の前方不注意が原因でもあるんだから、実質負けさ。それより、キミの方はケガしてないの?」
「わたしは……大丈夫」
「じゃあいいや。キミ、ちゃんとメシ食ってるのかってくらい細い体してるからさ、ちょっと心配だったんだよ。俺も気にしてないし、キミもケガしてない。これで問題ないじゃん」
な? と、再度笑いかける。
女の子はしばし口をポカンとさせると、すぐに嬉しそうに笑いながら、
「……うん。ありがとう」
と、小さく頷いた。
女の子はおどおどしていた先ほどまでとは違い、比較的普通な感じで話に応じてくれていた。もしかするとあの一発芸のおかげで、多少警戒心を緩めてくれたのかもしれない。
「そういや、まだ名乗ってなかったよな? 俺は……」
「知ってます。工藤要くん、ですよね」
「え? 何で俺の名前を?」
「さっき、あの三人に名乗ってたのを聞いたから……」
「そっか。それじゃ、キミは?」
女の子は多少の逡巡を見せたが、すぐに意を決したように答えた。
「い……一年五組の倉橋菊子です」
「倉橋……菊子……」
そう何度か繰り返したあと、要は名前に使われている「菊」という字に着目する。少し前に易宝の家で飲んだ「菊花茶」を思い出した。
「なんだか、疲れに効きそうな名前だな」
「はい?」
そうキョトンとする女の子――菊子を見て、要は「あ、いや、なんでもない。忘れて」と両手を左右に振る。
菊子は唇に指を当て、クスクスと雅に微笑んだ。
「な、なんだよ倉橋。そんな笑って」
「あ……ご、ごめんなさい。悪気はなかったの。ただ、面白い人だなぁって……」
「え? 俺、面白い?」
菊子は「うん」と軽く首肯してから、
「……工藤くんって、もっと怖い人だと思ってたから」
「え、ええー!? 怖いってなんだよーー!?」
要は不本意だという意思をもって声を上げる。だがそれに驚いたのか、菊子は「ひっ」と萎縮してしまった。
「ご、ごめん。脅かすつもりはなかったんだ」
軽くなだめてから、要は話の続きを促した。
菊子は慎重な表情で語り始める。
「えっと……もしかするともう知ってるかもしれないけど、工藤くんの事、この辺りじゃ結構噂になってるの」
噂。
そんなもん、される覚えはない――とは言えなかった。要はここ一ヶ月間という短期間に、いくつかの事件に巻き込まれてしまっている。噂の元となる話は十分持っていた。
「鹿賀っていう人をやっつけちゃったり……」
そういえば、そんなこともあったなぁ。まぁ今はダチだけどね。
「有名な暴走族のリーダーをやっつけちゃったり……」
ああ、あれは苦しい闘いだったなぁ。とっさの機転がなかったら負けてたよ。
「大型トラックにはねられても平気だったり……」
……うん?
「ヒグマを指一本で破裂させたとか……」
…………おい。
「虎がいっぱいいる檻の中に閉じ込められても、その中の虎を全匹服従させて群れのトップになったとか……」
「ちょっと待ったーー! 尾ヒレ付くってレベルじゃねーじゃん! どんだけ人間やめてんだよ噂の俺!?」
突っ込みどころ満載の噂の内容に要は声を張り上げる。
もしかすると、さっきのヌマ高生三人が逃げ出したのは、そんな滑稽無稽な噂を信じていたからなのかもしれない。だとしたらどれだけアホなんだ。
「あ、あはは……まあ……わたしも後半は信じられなかったなぁ…………」
でしょうね。
「でも、やっぱりそれでも怖いなぁって気持ちはあったの。暴走族のリーダーをやっつけちゃう時点で、わたしからすれば違う世界の人みたいに思えたから。だけど、噂だけじゃ分からないものなんですね」
菊子は奥ゆかしい笑みを浮かべ、言った。
「うふふ、さっきのお芝居、面白かったですよ」
そんな彼女のたおやかな声の響きに、要は軽くドキッとしてしまった。
「そ、そういやさ、あの猫、捨て猫だって言ってたじゃん? 餌持ってきてたみたいだけど、飼ったりはしないのか?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、無理矢理話題の方向を逸らした。
すると、菊子は表情を一気に落胆させ、
「……わたしの家、飼えないの」
「どうして?」
「お父さん…………猫アレルギーだから」
「……あー……」
そりゃ、無理だわな。
「だからね、わたし、一週間前にこの子を見つけてから、代わりに飼ってくれる人をずっと探してたんだ。でもわたし口下手だから、なかなか人に声かけられなくて……飼い主探し全然進んでないの。今だって、こうして工藤くんと普通な感じで話せてることが奇跡みたいに思ってるくらいで……」
「うーん……」
要は顎に手を当て、考えた意見を口にした。
「別に倉橋が無理することはねーんじゃねーか? 捨てられたってことは、裏を返せば人間様の束縛から自由になったったってことにもなるだろ? だから放っとくって手は――」
「それはダメっ」
今まで聞いた中で一番大きな菊子の声に、要は思わずたじろいだ。
「工藤くんは、捨て猫がどういう目にあうか知ってる? 保健所に連れて行かれて、同じように連れてこられた犬や猫と一緒にガス室に放り込まれて、出てきた時にはみんな二度と動かない「ただのモノ」になってるの。そうなった子たちを、大人の人たちはまるでぬいぐるみでも扱うように集めていくんだよ? わたしたちと同んなじ「命」なのに」
菊子はこれまでにないくらい饒舌だったが、それでいて悲しそうだった。
そして、こちらからは見えない両の目で、夢中で餌を食べている白猫を見つめる。
「あの子を見て。すごく可愛いでしょ? あんな可愛い子がそういう死に方をするなんて、わたし、耐えられない。綺麗事かもしれないけど……それでもイヤなの」
それを最後に、菊子は消沈してしまった。
彼女の言葉に一字一句耳を傾けていた要は――目頭が熱くなった。
倉橋のバカ。他人事だと思って別れるつもりだったってのに。そんな話されたら――手貸したくなるじゃんか。どうしてくれるんだ。
「――いいぜ」
気がついた時には、そう切り出していた。
「えっ……?」
「俺も手伝ってやるよ、飼い主探し。もし口下手でうまく喋れないっていうなら、俺が代わりに喋ってやる。見つかるまでの間、倉橋のパペット役になってやるから」
「本当に? で、でも……」
「でもも何もない。いいんだよ。俺もそのニャンコ助けたくなっちゃったからさ。力を合わせて、コイツに天寿を全うさせてやろうぜ?」
「な?」と笑いかけた。
「……いいんですか?」
「くどいぞ」
菊子はためらうように何度か目配せするが、やがてそれをやめ、
「……ありがとう。よろしくお願いします」
要と向かい合い、ぺこりと一礼してきた。
お手本にできそうな綺麗な礼だった。
「えっ? あ、はい。こちらこそ」
そんな雛形のような礼に、要もついつられておじぎを返してしまう。
——こうして、二人の同盟が始まった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
書き溜めができる人って凄いですよね。我慢強くて。
自分は一話完成すると、速攻でUPしたくて仕方のなくなる性分なもので。
いつか挑戦してみようかな……




