第四話 正義マンだ
ダンボール箱に猫が叩きつけられる瞬間、倉橋菊子はギュッと目を食いしばって視界を暗転させた。
おかげで痛々しい場面を見ずに済んだが、「バンッ」と叩きつけられる音、その後すぐに聞こえてきた男たちの品のない笑い声が、菊子の心をざっくりと抉った。
「イエェェス! 猫ダンク決まったーー! 二点ゲットーー!」
「ギャハハハ! コングラチュレーション!!」
「おい、次俺だかんな!」
三人は手を叩きながらはしゃぎ合う。
しばらくすると、今度は別の男が猫を掴み、大きく振り上げた。
「――!」
猫が勢いよく下ろされる瞬間、菊子は理不尽な映像を見まいと再び目を閉じる。
真っ暗な視界。ダンボールと生き物の体がぶつかる音。男たちの談笑。
そして目を開け、「もうやめて」と心の中で必死に訴えながら三人を見つめる。だがそれが叶うことはない。再び三人のいずれかが猫を持ち上げ、投げつける。
――約五分前から、棒立ちのままずっと繰り返しているルーティンだ。
菊子があの猫と出会ったのは、今から一週間ほど前だ。
その性格のせいで高校に入っても友達が出来なかった菊子は、当然下校時も一人だった。その途中に通りかかったこの河川敷で一休みしようかと思い立ち止まった時、柱の根元にいるあの白い猫を見つけたのだ。
マジックペンで「拾ってください」と心のこもっていない字の書かれたダンボール箱の中に、その猫はちょこんと座っていた。なんとも分かりやすい捨てられ方をした猫だった。
ダンボール箱はまだ新しかった。捨てられて間もないのだろう。雨露しのげる鉄道橋の真下に捨てられていたのは、前の飼い主の最後の良心だろうか。
女の子の例に漏れず猫好きだった菊子は嬉々として駆け寄り、あちこち撫でて可愛がったが、すぐに暗い気持ちになった。自分の家はとある理由で猫が飼えない。いくら愛情が湧いても、この子を引き取ってあげることはできないのだ。
だが、このまま捨て置くのも菊子の心が痛んだ。捨て猫がどういう末路をたどるのかはよく知っていた。怖いもの見たさで殺処分の動画を閲覧した後、死体を廃棄物のように扱う人間の冷酷さにキーボードを涙で濡らしたのはいつの頃だったか。
なので菊子はその日から、橋の下でその猫に餌をあげながら、飼い主を探すことに決めた。
餌代は問題なかった。菊子は普通の子供ではありえない額のお小遣いをもらっている。それらを餌代につぎ込んで猫に与えた。
問題は飼い主探しだった。菊子はその引っ込み思案で口下手な所が災いし、飼い主になってくれるかどうかを聞くこと以前に、誰かに声をかけることすらままならなかったのだ。
かと言って、手伝ってくれる友達はいない。そもそも友達が作れるなら、こんな事で悩んだりはしていないだろう。
完全に八方塞がりだった。
菊子はこれからどうしようかと苦悩しながらも、今日も猫に餌を持っていった。
そうしたら、あの見知らぬ三人が猫をいじめているのが見えたため、慌てて土手を駆け下り――今に至るというわけだ。
だが、駆けつけたはいいが、そこから先は何もしていない。いや、出来なかった。
助けてあげたい。その気持ちに嘘はない。
だが菊子の性格上、自分よりも体が大きく、そして柄の悪いあの三人に向かっていくことなど、恐ろしい以外の何者でもなかった。その上、相手はあの悪名高いヌマ高生。その要素が恐怖心を助長させていた。
「ヒャァァァァゥ!」
そんな嗜虐に満ちた叫びとともに、猫の白く小さな体が再び箱の中に叩き込まれる。
今回は目を閉じるタイミングを逃したため、決定的瞬間を見てしまった。ショックで手の力が抜け、持っていた餌の缶詰がするりと地面に落ちて転がる。
猫は体を震わせながら、ゆっくりと四足で立ち上がった。もう何度叩きつけられたのだろう。
目頭が熱くなり、長い前髪のせいで薄暗い視界がゆらゆらと揺れる。
もうやめて。どうしてそんな酷いことができるの? その子を見てよ。きっと痛い痛いって思ってるよ? ―――それらの思考が何度も菊子の頭の中を巡る。だがそれが口から出ることはなかった。
言いたい。あの人たちに言いたいのに。怖くて言えない。
でもこのままじゃ、あの子はずっと痛い思いをするばっかりだ。
止めなきゃ。止めなきゃ。わたしが――
そんな必死の思いが、小さな奇跡を起こした。
「…………やめて……ください……」
菊子は我知らず声を出していた。
しかし声量が小さかったため、三人には届いていない。
もっと、もっと大きく――
「…………やめてくださいっ」
菊子はなけなしの勇気を振り絞り、もう一言発した。自分の出す声にしては、なかなか大きなものだったと思う。その証拠に、三人は一斉にこちらを振り返った。
だが、小さい奇跡は、所詮小さいものでしかなかった。
「うっせぇぞドブス!!」
「気持ち悪ぃツラ晒して口出ししてんじゃねぇ!!」
「猫じゃなくてテメーをダンクしたろかコラァ!!」
発せられた怒号の嵐に菊子は怯む。下半身から力が抜け、ペタンと地に尻餅を付いてしまった。
やっぱり――怖い。
三人はつまらなそうに唾を地面に吐き捨て、そっぽを向いた。
そして、その中の一人が、再び猫に向かって両手を伸ばしていく。
魔の手が徐々に猫へ迫る。
――お願い、もうやめて。死んじゃうよ。
――どうすればいいの?
――わたしじゃ何もできない。
焦りと恐怖で、頭の中が恐慌する。
そして、ここにいない誰かに祈った。
―――お願い、誰か助けて。
その時、
「――お前ら何やってるワケ?」
それに答えるかのように、静かな怒気を持った男の子の声が聞こえた。
三人の男と女の子の計四人が、土手の上に立っている要の方を一斉に注目してきた。
要は河川敷へ下り、三人の男の前に立つ。
「あぁ?」
「なんだテメーは」
「さっき生意気なこと吐かしたんはテメーか?」
三者三様の反応を見せてくる三人。
「――やめろ」
だがそれらを無視して、要は単刀直入にそう告げた。
三人の男うちの一人がこちらを睨みながら、
「はぁ? 藪から棒に何言ってやがる」
「とぼけんな。お前らが寄ってたかってそのニャンコいじめてんの見てたぞ。んでもって、あの娘に悪口言ってんのも」
要は箱の中の白猫と、自分の後ろでへたり込んでいる女の子へ目を向けてそう言い放つ。
「なんだよオメー、あのブスの彼氏か? だとしたら女の趣味ワリーにも程があんぞ、ハハハ!」
「ちげーよ。その娘とは今日会ったばっかりだ」
「彼女守りに来たんじゃねぇってことかぁ? んじゃ何で口出しすんだよテメーは。ガキは家帰ってアニメでも見てろボケ」
「お前らが猫いじめるからだ。もうやめろ、意味ねーだろこんな事。そんでお前らの方が帰れ」
男は要を睨めつける瞳をさらに強めながら、
「テメェ、さっきから黙って聞いてりゃ上等な口利きやがって…………シオ高風情のクソが一丁前に正義マン気取りか? 世の中ナメてんだろ」
「ああそうさ、正義マンだ。少なくとも動物イジメを平気でやるような根性ナシよか幾分マシな部類だよ」
要の殺し文句に、三人の纏う雰囲気がガラリと剣呑なものになった。カチンときたのだろう。
男の一人が、要の目の前にのしのしと歩み寄って来た。香水の不自然な匂いが鼻につく。厳つい悪人顔が間近に迫り、自分よりも大きな体が壁のように立ちふさがっている。
その男は自身の着ている制服を片手で叩いてアピールし、こちらを見下ろしながら言った。
「おい、クソガキ。世間知らずのテメェに授業料ロハで教えてやる――この紺の詰襟見たら、テメェらシオ高生の選択肢は二つ。黙って消えるか、半殺しにされて有り金全部募金するかだ。テメェはどっちにするよ?」
「どっちもヤダね」
要は確固たる意思をもって答えた。
いじめられ、虐げられる苦しさはよく知っている。それをされているのが弱い奴ならなおさらだ。人より弱いと分かっている生き物を面白おかしくいたぶるようなこの三人に、要は尻尾を振りたくなかった。
――目の前の男は右拳を、要の顔面めがけて放ってきた。
脈絡の無い、ほぼ不意打ちに等しい突然の一発。昔の自分なら避けること叶わず貰っていただろう。
だが、もう前の自分ではない。ここで一方的に殴られていた頃とは違うのだ。それゆえ、力任せに振り出したその拳の軌道、そしてその目標位置を苦なく見切れた。
要は右腕を前に出し、放たれた右拳を滑らせて受け流す。そしてそのまま右手を翻し、接触している男の腕を強く掴んだ。
男はギョッとし、慌てた様子でもう片方の拳で殴りかかろうとするが、それを待たずに今度は左手で男の右腕を掴む。
そして、両手で捕まえたその右腕を引き込みつつ――男の片足の脛を足裏で踏むように蹴った。
「おあっ……!」
足元を取られてバランスを崩した男は死に体となり、信じられないとばかりに空中で一度声を荒げ、地面にうつ伏せに落下した。
要は足元に倒れたその男を一瞥する。
今のは『斧刃脚』と呼ばれる蹴り技だ。相手の向こう脛を足裏で蹴りつけるだけのシンプルなものだが、「弁慶の泣き所」とも称される部位を狙うため、地味に実用性が高い。下腿の功夫の高い者が行えば、足の骨をへし折ることも可能だという。低い蹴りほど実戦に役立つと易宝に教わったが、これはその最たるものの一つだ。
「テメェーーー!!」
「シオ高ごときがーー!!」
一人目に手を出したことで、残り二人も怒号を上げながら迫ってきた。
要は素早く爪先の向きを変えると、そんな二人の男めがけて一直線に駆け出した。
引き下がるとでも思っていたのか、向かい側の二人は走り来る自分を見て、予想外だと言わんばかりの表情を浮かべる。だがすぐにそれを消し去り、拳を振り上げて向かってくる。
やがて、先頭を走る一人と急接近。
眼前の男は振り上げた拳をストレートとして突き込んできた。
当たれば痛そうだ。だがそれ以前にあくびが出るほど遅く、工夫がない。まるで手加減されている気分になる。
要は先ほど同様、片腕との摩擦によって拳打を受け流す。そのままスルリと男の胸板まで入り込み、ダッシュの勢いを利用して両手で突き飛ばした。
「うわ!」
男は後方へ押し出され、真後ろから走ってきていたもう一人に背中から衝突。互いに「ぐえっ」と漏らし、二人仲良くドミノのように倒れた。
「こんの…………ガキャァァァ!!」
真後ろから響いたその怒声に、要は迅速にきびすを返す。最初に転ばせた男が勢いよくこちらへ向かって来ていた。その顔は怒りで燃えるように真っ赤だ。
その男は自分に近づくと、真横から円弧を描くようなパンチを振り出してくる。
だがそれは悪手中の悪手だ。横へ振るタイプのパンチはストレートよりも遅い。おまけに怒りゆえの肩の緊張がその遅さに拍車をかけている。
要は全身を縮こませることで、それを難なく回避。目標物を見失った男の拳が空を切る。
その状態から、要は全身を一気に伸展させて放つアッパーカット『展拳』へと変化させ――男の顎にヒットする寸前で寸止めした。
「う……!」
ゴクリと唾を飲み、戦慄した表情で要の拳を凝視する男。
「――なぁ、もうやめにしない?」
要は男をジロリと睨めつけ、そう提案する。
男は驚愕と恐怖が混合した表情を浮かべ、
「こ、この野郎、シオ高の分際で…………テメー何モンだ?」
「一年三組、工藤要だ。ヌマ高のイジメっ子」
そう名乗った瞬間、男の表情に宿る恐怖の割合が急激に増した。
その反応を奇異に感じた要は、後ろにも目を向ける。見ると、残りの二人も同じような表情をこちらへ見せていた。
「お、お前が工藤要…………ふ、吹かすんじゃねぇ! 本名は何だ!?」
目の前の男がおどおどしながらまくし立てる。その口調からは、信じられない、いや、「信じたくない」といったニュアンスが取れそうだった。
「はぁ? 嘘つく意味が分かんねーよ。本名も何も、俺は工藤要以外の何者でもないっての。学生証だってあるんだから」
「見せようか?」と財布を取り出そうとした瞬間、男は高速で後退りし、
「…………おい、行くぞ」
押し殺したような声で二人の仲間へそう告げた。
三人の男はドタバタと慌てた足取りで土手を上り、そのまま遠くへ走り去って行った。
…………何だったんだ、さっきの反応?
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