第二話 スポーツテスト
そして――スポーツテスト当日の朝。
「おはよ、父さん……」
寝ぼけ眼でリビングへ入った要は、いち早く身支度を整えて朝食を作っている父、良樹へ気の抜けた挨拶を投げた。
ワイシャツの上にエプロンという姿が板についている父は、眠気を感じさせないすっきりした笑みを浮かべて、
「おはよう要。牛乳とオレンジジュース、どっちがいい?」
「牛乳がいいっす」
「わかった。座って待ってなさい」
良樹に言われた通り、要はダイニングテーブルの一角の椅子にどっさりと腰を落とした。
大きくあくびをしながら背伸びをする。脳が覚醒し、全身の筋がゆっくりと伸びていく感覚。
それがちょうど終わるタイミングで、父の手が牛乳の入ったコップを目の前にコトリと置いた。
「ありがとー」
軽く感謝をし、口をつけてグイグイと一気に飲み干していく。思いのほか体が水分を欲していたせいか、あっという間にコップは空になった。
要は息継ぎをして、考えた――昨日の「アレ」、ひでー味だったなあ。
結局昨日の修行を、易宝は一ミリも手加減してはくれなかった。それどころかいつもの二割増だった。
体力の消費が激しい、跳び上がるタイプの蹴りを死ぬほどやらされた後に『頂天式』を数十分という出血大サービス。「嫌がらせかよ」とジト目を送ったが、それを受けた易宝はおちょくるような変顔をこちらへ返してきた。すっげームカつくんですけど。
だというのに――今、体には筋肉痛どころか、疲れが少しも残っていない。
昨日、修行を終えた後に、易宝からカップに注がれた赤黒い液体を飲まされた。その液体は筆舌に尽くしがたいほど不味く、喉に通した瞬間トイレに駆け込みたい衝動に駆られたが、易宝が「疲れを残したくないなら飲め」と言われたため、味覚から目をそらしつつ強引に飲みきった。
その後、涙目で液体の正体を問うと、易宝は「筋肉疲労に効果のある漢方薬だ。こいつを飲んでよく眠れば明日には疲労は回復してるだろう。頑張って昼飯獲得しろよ」と笑いながら答えた。
最初は半信半疑だったが、今あるこの現実に出会ってしまった以上、信じるしかなかった。
何にせよ、これで思う存分勝負に望める。
ありがとう、睨んだりしてゴメンよ――要は心の中で易宝に頭を下げた。
「うぅ~……おはよぉ……」
そんな死にそうな声を出しながらリビングに入ってきたのは、パジャマ姿の母、亜麻音だった。
ただでさえふんわりとしたその茶髪は、寝癖のせいか四方八方へもじゃもじゃと拡散している。メデューサを彷彿とさせた。
「……母さん、何ソレ」
だが要はそんな凄い頭よりも、彼女の両手に注目した。
亜麻音の両手には、ポップなデザインの猫の手人形がはまっていた。右が黒猫、左が白猫。
「えへへー、可愛いでしょ。昨日夜更しして二匹一緒に作ったの」
指摘された亜麻音はにへらーと笑い、両の手人形を見せびらかしながら嬉しそうにそう言った。自分よりも眠そうなのは、それらを作っていたからのようだ。
「へ、へぇ……そうだね」
リアクションに困った要は、とりあえずそう答えておく。
亜麻音は家事全般ダメダメだが、裁縫だけは昔から大得意だった。作るものはどれも売り物にできるほどのクオリティを誇っており、要も小学校の頃は手提げや帽子などをよく作ってもらっていた。
「『おはよう。ぼくシロちゃんていうの。よろしくね、かなめちゃん』」
亜麻音は白猫人形を自身の顔の前へ掲げ、声色を変えてセリフを言った。つーか、誰が要ちゃんだ。
「ねえクロちゃん……あたし最近ちょっとションボリなの」
『なぁに? あまねちゃん』と右手の黒猫。
「あのね……最近カナちゃんってば、帰りが遅いの」
『えー? なんでー?』と左手の白猫。
「それが分からないのよ。おまけに四月のうちに、二回もボロボロになって帰って来たの。ほっぺたとかにアザ作って。それで心配になって理由を聞いたら、カナちゃんってばね――」
じわぁっと、泣きそうな顔になる亜麻音。
「『関係ねーだろ』って言うのよーー!? 「ねーだろ」って! 「ねーだろ」って! 昔はこんな乱暴な言葉遣いしなかったのに、いつからこんな不良になっちゃったのカナちゃんってばぁーー!」
泣きそうな顔から一転、ふくれっ面になった亜麻音は、白猫と黒猫を要の目と鼻の先にずいっと押し付けた。視界が白黒のツートーンに支配される。
『いけないんだー』
『いけないんだー』
『『ママをだいじにしなきゃダメなんだぞー!!』』
嗚呼…………早く学校行こう。
時が経つのは早いもので、すでに一ヶ月少々の付き合いになる一年三組の教室に、要は足を踏み入れた。
現在朝八時半。少しゆったりしたペースでやって来たためか、教室にはすでにクラスメイトほぼ全員が賑やかに過ごしていた。
要は自分の席へとたどり着き、机上に鞄を置くと、
「オッス」
倉田が軽い挨拶を混ぜて歩み寄ってきた。その横には岡崎もいる。
要も儀礼的に挨拶を返すと、倉田はため息混じりに続ける。
「はぁー、今日かったるいなぁ。スポーツテストだなんて」
「まぁそう言うなよ。授業が潰れると思えば気が楽だろ?」
岡崎はフォローするようにそう返した。
「そういや、お前と鹿賀ってスポーツテストで勝負するんだろ? 昼飯賭けて」
岡崎が確認を取るように訊いてくる。そういえば、この二人には話してたっけ。
「うん、まあね」
「頑張ってくれよぉ? お前の勝ちに学食のAランチ賭けてんだからさ」
「……はい?」
岡崎の言葉に、要は小首を傾げた。
「おいおいおい。俺鹿賀の勝ちにBランチ賭けてんだから、手ぇ抜く方針で頼むぜ工藤?」
続いての倉田の発言を聞いて、ようやく合点がいった要は二人をジト目で睨んだ。
「……トトカルチョすんなよ」
倉田と岡崎は誤魔化すようにヘラヘラ笑う。ったくもう。
要はそんな二人を知らんぷりして、達彦のいる方を見た。
達彦の周囲には、数人の女子生徒が集まっていた。女子たちがニコニコと何かを尋ねながら詰め寄り、達彦はそれを困ったような顔でいなしている。
態度が軟化して以来、達彦の周りには人が集まるようになった。その中には女子も少なくない。最近気づいたが、達彦はなかなか顔が良い方だ。おまけに見たとおり長身であるため、不良であるという点を取っ払えば、女ウケする要素が多かった。
少し前まで誰もが避けて通る存在だったのに、大した変わりようだ。
要は暖かな気持ちになる。世の中では、一度道を踏み外した人間にはレッテルが貼られ、周囲から後ろ指を差されまくるのが常であるというイメージが多少あったが、こういう回帰ぶりを見ると、そんな考えが愚かなことのように思えてくる。
だが、今ヤツに向けるべきは親愛の眼差しではない――倒すべき好敵手を見る目だ。
達彦と目が合った。
すると、達彦は女子たちを笑って制し、こちらへ近づいて来た。
そして――二人向かい合う。
「よぉ、要」
先ほど女子に向けていたものとは違う、挑戦的な笑みを浮かべて言う達彦。
「……達彦。今日は負けんぞ」
「ハッ、上等だ。せいぜい自分の財布の心配でもしとくこったな」
「そりゃこっちのセリフだ」
大小二人の男は、見えない火花を散らせてひたすら睨み合っていた。
◆◆◆◆◆◆
かくして、スポーツテストは始まった。
スポーツテストはホームルーム後、一限目の始まる時間から昼までにわたって行われる。
生徒たちはホームルーム終了後の僅かな時間中に着替えを終えて、体育館へと足を運んだ。
この行事が面倒だと思う者もいれば、「授業が潰れてラッキー」と思う者もいる。
だが、たかが体力測定。そこに情熱を持って取り組む生徒など皆無だろう――二人を除けば。
淡々とやり過ごしている他の生徒たちとはうってかわって、要と達彦は真剣そのものだった。
一種目一種目、余力を残さずありったけの力をもって臨み、この体育館という戦場でしのぎを削り合った。
すべては――昼代要求権のため。実に男子高校生らしい、くだらないようでとても重要なことだった。
その途中結果は、以下の通りである。
握力測定――僅差で達彦の勝利。
長座体前屈――蹴りの修行の影響か、柔軟性が以前より上がっていたため、要の快勝。
反覆横跳び――ギリギリの差で達彦の勝利。
ハンドボール投げ――要よりもボールの投げ方が上手かった達彦の快勝。
五十メートル走――元々身軽で瞬発力のあった要の勝利。
立ち幅跳び――歩幅の小ささを、鍛えた足の力でカバーし、なんとか要の勝利。
3:3。両者の実力は完全に拮抗していた。
要は自分と同じく、疲労と闘志で真っ赤な顔をした達彦を見て「しぶとい奴め」と不敵に微笑んだ。おそらく、向こうも同じことを思っているに違いない。
そして現在、種目も残すところあと一つ。その結果で勝負が決まる状況。まさしく一騎打ちだ。
種目名は――二十メートルシャトルラン。
体育館の出入口である、取っ手の付いた両開き型の引き戸。そのすぐ前に、広々とした四角いスペースが取られていた。
スペースの広さは横幅二十メートルで、その片側には数人の男子生徒が並列している。これから二十メートルシャトルランに臨む面々だ。
当然、要と達彦もその中に含まれていた。
「かったりー」「早く終わらせてぇー」「メシ食いてー」などと緊張感無くぼやきを洩らす周囲の男子とは違い、二人だけが相変わらず闘気をまとって立っている。
「財布ちゃんの具合は大丈夫かよ?」
隣に立っている達彦が、こちらを横目で見ながら嗜虐的に笑む。
要も負けじとキッと睨み返し、
「問題ねーよ。そっちこそちゃんと持ってきたんだろーな? 「負けたけど、お金無いから奢れません」って手は許さねーぞ」
「当たり前だ。そんな狡いコトは考えてねぇから心配すんな。命賭けるぜ」
「言ったな? 恨みっこ無しだぞ」
「おうよ」
二人の闘気がさらに勢いを増して渦巻く。
そんな自分たちに気圧されたのか、周囲の男子が小さくあとじさる。はてさて、この闘気の原動力が「昼飯奢る権」だということを、一体何人が知っているだろうか。
「それじゃあ、そろそろ始めますので、位置に付いて下さーい」
そう声高に言ったのは、少し遠い位置に立つジャージ姿の教師だ。その隣には小さな机に座る体育委員の男子。机上には要たちのスポーツテスト記入カードが重なって置いてある。
その声を聞き、要は条件反射で準備姿勢を取る。達彦や他の男子も同様だった。
前方を睨みながら、走る合図をじっと待つ。緊張感で手の内に汗がにじんでいた。
二十メートルシャトルランとはその名称の通り、二十メートルの間隔を開いた二本のラインの間を、「ドレミファソラシド」の音階が全て鳴り終わるまでに走り抜ける体力測定だ。
片側のラインから向かい側のラインまで、音が終わる前にたどり着く。それが終わったら、すぐにそこから元来たラインまでを音が終わるまでに走り抜ける。それを持久力の限界まで何度も繰り返すのだ。
音のテンポの早さは一分ごとに増していき、音が鳴り終える前にたどり着くべきラインまで着けなかったら、その時点でリタイア。何分間走り続けられたかで、その人物の有酸素運動能力を測るのだ。
高校になって初めてやるその運動のルールを、要は脳内でそらんじる。
そうしているうちに――その時は来た。
「位置に付いて、よーい…………」
「ドン」の代わりに、教師は片手の電子ホイッスルをけたたましく鳴らした。
要と達彦含む全員が、ラインから一斉に走り出す。
そして「ド」「レ」「ミ」……と、放送機器が子気味良い電子音を刻み始めた。
要は電子音が終わる前に、小走りで向かい側のラインまで進む。最初から全力は出さない。始めは体力を温存し、ある程度時間が経って電子音の早さが増したら、徐々にペースアップさせていく。
横を見ると、全員ほぼ並列状態を保って走っていた。考え方は皆同じのようだ。
だが、これから段々ふるいにかけられていくだろう。
絶対に生き残って見せる。せめてコイツが脱落するまでは――要は達彦を一瞥する。
そして数分後、その瀬戸際は訪れた。それも――究極的な形で。
「はあっ…………はあっ……」
「ぜえっ…………ぜえっ……」
二つのラインの間に存在する音は、最初の時よりも遥かにテンポを早めている電子音と――「二人分」の息遣いと足音のみ。
走り続けているのは、要と達彦の二人だけだった。
両者とも息が荒い。汗も滝のように流れてシャツを重くしており、顔もトマトのように赤く火照っている。誰が見てもギリギリの状態であると分かるだろう。
胸が苦しい。足もだるくなっており、時々バランスを崩しそうになる。
だが、まだだ。まだやれる。要は自身を奮い立たせ、懸命にペースを保つ。
横を走る達彦をチラッと見る。向こうもいっぱいいっぱいといった感じだった。表情から分かる。
敵ながらあっぱれとはこのことだ。だが――勝つのは俺だ!
「「アアアアァァァァァァァァァァァ!!」」
烈ぱくの気合を込め、二人は一歩一歩、床に根を張るようにしっかりと踏みしめて駆ける。
いつの間にか、周囲には多くの野次馬が集まっており、固唾を飲んで自分たちを見守っていた。
だがそれにも構わず、ひたすら駆け足を続ける。
どれくらい走ったことだろう?
易宝は「苦痛を伴って続けた動作は、体に染み付きやすい」と言っていたが、嘘ではなかった。苦しみの中、何度も何度も往復走行を続けていたせいか、いつの間にか全身が「電子音が終わるまでに向かい側のラインまで走り、その後すぐに方向を逆に変えて再び走り出す」というフローチャートを、無意識に繰り返すようにまでなってしまっていた。
そのため、もう何往復したのか、自分にも分からない。
リタイア扱いにはなっていない――その事実だけで十分だった。
だがそのループは、意外な形でピリオドを迎えた。
横合いから突然――人影が飛び出してきた。
「なっ……!」
本来なら、避けられない間合いではなかった。
だが走る事に夢中になっていた要は、その人影の存在に気づくのが数テンポ遅れてしまった。
結果的に――ソレと衝突する羽目になった。
「きゃっ!」
やって来る衝撃と痛み。そしてぶつかった人影から聞こえてきた小さな悲鳴。女の子の声だった。
後方へ投げ出されて尻餅を付いた要は、向かい側で同じく尻餅を付いている女子生徒を見た。
驚くほど長々と伸びた、艶やかな黒髪が特徴的な少女だった。後ろ髪は腰どころかお尻の辺りまであり、前髪は舌を少し上へ出せば容易にその先端に届きそうなほどの長さで顔の半分を覆っており、目が完全に隠されている。
身長は自分と同じくらいか、もしくは少し低いくらいで、折れそうなほど細い肢体に、学校指定のジャージをしっかりと着込んでいた。
「な、なあキミ、大丈夫かっ?」
要は案ずる声色で少女に尋ねた。彼女の存在に早く気づかなかった自分にも、少なからずの非があると感じていたのだ。
「へっ……? え、えと……あの……」
話しかけられた少女はビクッと反応し、手元をそわそわさせながら迷ったように言葉を濁す。耳をこらさなければよく聞き取れないほどの、小さな声だった。
そして次の瞬間、要は現実へと引き戻される。
「——っしゃぁぁ! 俺の勝ちだぜーー!!」
達彦はこれから自分が向かう予定だったゴールラインにいち早く到着しており、両拳を振り上げて勝ち誇っていた。
——しまった、今勝負中だったんだ!
「うわぁーーちっっくしょぉぉーーー!!」
頭を抱えて悔しげに叫ぶ要。
「思わぬアクシデントがあって災難だったなぁ要! だが勝負は勝負! 約束通り昼飯を奢ってもらうぜ!!」
「う…………わ、わかってるよっ」
涙が出そうになった。なんてこった、これで俺の財布の中の三千円は奴に蹂躙されてしまう……!
「………………さい…………」
そんな風に一人悲観していると、すぐ隣から消え入りそうな小さな声が聞こえてきた。
声の主は——ぶつかった少女だった。
こちらが視線を向けると、少女は先ほど同様ビクッと震え、再度小さく言ってきた。
「あの…………その……ご…………さい…….」
少女は恐れおののくように小さく後じさりしながら、まるでうわごとのようにブツブツと何かを喋っている。
「お、おい……どうした?」
要が思わず声をかけると、
「———っ!」
少女はすごい勢いで背を向けて立ち上がり、まるで逃げるように体育館の出入り口から外へ出ていってしまった。
——なんなんだ、一体?
倉橋菊子は駆け足を止めぬまま、ひたすら後悔の念に駆られていた。
現在、体育館と連結している校舎内に入り、その廊下を走っている。
普段はしないほどの勢いで走っているにもかかわらず、すれ違う人達はそんな自分のことなど気にも留めていない。きっと自分は、背景や空気と同じような認識なのだろう。
——「ごめんなさい」って言いたかったのに、言えなかった。
前髪に覆い隠された菊子の目元には、キラキラと光るものが浮かんでいた。
——あの男の子、今どんな顔してるんだろう。
——きっと「ぶつかっておいて謝らないなんて!」って怒ってるだろうな。
———本当にわたし、情けない。
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
最近、雪がすごいです。
雪って子供の頃はワクワクするのに、ある程度成長すると鬱陶しく感じますよねぇ。
なんでだろう……




