第一話 意外な弱点
皆様、遅れましたが、あけましておめでとうございます!
今日より、第二章を開始します。
一……二……三……四……五…………
脳内で覚えたての発音を用いたカウントを行いながら、工藤要はひたすら技の動作を練っていた。
いつもの色白な頬は、息を切らせながら絶えず動き続けているせいで赤く火照っている。額からは汗が滝のように流れ落ち、時々目に入ってしみる。
夕日が沈みかけた空の下にある易宝養生院の中庭は、そんな要の息遣いと、土を踏む靴音だけが聞こえていた。
要は重心の乗っていない片方の足を、膝を伸ばし切った状態のまま掬い上げるように蹴り上げ、地に下ろした。
さらに蹴りを終えたその足で一歩前へ踏み出し、重心を移す。自由となったもう片方の足で同じような蹴り上げを行い、再び軸足を踏み換える。
現在、この動作を繰り返し行いながら、中庭を周回している。
これは『正踢腿』と呼ばれる、ほぼ全ての中国拳法で共通する基本功として用いられる蹴り技の一つだ。
その名前を初めて聞いた要は「なんか、ちょっとかっこいい名前だなぁ」という無邪気な感想を抱き、一体どんな技なのかと期待したが、なんのことはない。その正体見たり、ただの前蹴りだった。片足を前へ蹴り上げ、そして下ろす。たったそれだけ。
だがこんな単純な動作でも、回数が積み重なればかなりの疲労へと繫がるものだということは言わずもがなで、そろそろ股関節がツラくなってきた。
やがて、ゴール地点である易宝の前まで到着する。
要はやっと終わりかとゴールテープを切った気分になるが、
「次、『蹬脚』!」
易宝は無慈悲にも、新たな注文を突きつけてくれた。
一瞬めまいを起こしそうになるが、諦めて気を引き締める。こうなったらとことんやってやる。
要は片方の膝を胸に抱え込むように上げてから、前方を踏むように足の裏を突き出した。
そんな蹴りを左右交互に繰り返しながら、要は再び一歩づつ前進していく。
『蹬脚』――踏みつけるようにして行う前蹴り。
先ほどの『正踢腿』同様シンプルな技で、なおかつ中国拳法の基本的な蹴り技の一つなのだが、これはその中でも特にポピュラーなものだそうだ。易宝曰く「覚えておいて損はない技」らしい。
攻撃にも役立つが、他にも使い方がある。この『蹬脚』がうまく決まると、相手は後方へ吹っ飛び、一時的にバランスを崩した「死に体」となる。そんな防御も攻撃も回避もままならない状態の相手にならば、普段はなかなか当てることが難しい強力な一撃で追い打ちをかけることが十分に可能となる。
動作が単純な技ほど使いやすく、応用がきく。シンプルイズベストというわけだ。
時々動作の注意をされながらも、要は持ち前の根性でなんとか動作を正確に行い、何周か中庭を回って易宝の元へ戻ってきたが、
「よし。次は『擺脚』だ!」
再び苦痛の道を伸ばしにかかってきた。
すでに足が棒だった要はさすがに眉をへの字にしたが、
「安心せい、これが終わったら休憩にしてやるぞ。そーら頑張れ」
そんな気持ちを読んでいるのかいないのか、ニヤニヤとからかいの笑みを浮かべながらそう言ってきた。
くそっ、人ごとだと思って。要は半ばやけくそになりながら、両腕を左右へ伸ばして構えた。
右足を一度左側斜めに蹴り上げる。そしてすぐさま上げた右足を、骨盤を開く力を使って振り子のように横へ薙ぐ。それを伸ばされた右手にバシィッ、と打ちつけてから、ゆっくりと地へ下ろす。
今までの蹴りと同じく、それを左右の足で反復しながらじっくり周回する。
先ほどの二つと違い、少し複雑な蹴りだった。『擺脚』と呼ばれる払い蹴りだ。
この蹴りを最初に教わった日、「擺」という文字と、骨盤を開く力で蹴るという共通点から、以前に戦った竜胆正貴の『旋風擺蓮』という技との酷似を感じたため、その疑問を易宝にぶつけたところ「その技は『擺脚』を、回転による遠心力で強化したものだ」という答えが返ってきた。
この『擺脚』の使い方は「真横に立つ敵の脇腹めがけて叩き込む」というものだが、正直言ってそんな状況になったとしても、教科書通りにこの蹴りを出せる自信はない。あまりにもオーバーアクション過ぎる気がしたのだ。
中国拳法の蹴りには、他にも変な蹴りが数多い。ゴールデンウイーク中、そういった蹴り技をたくさん教わった。しかし素人意見かもしれないが、ぶっちゃけ実戦で使うには回りくどいと思えるような使用方法のものが多かった。
『蹬脚』のようなシンプルで使いやすいものなら分かるが、こんなものを練習することに何の意味があるのだろうか。
いや、そもそも―――なぜ「蹴り技」を練習しているのか?
そんなことを考えながら、しばらく周回を続ける要。
やがて易宝の所までたどり着くと、肩をポンと叩かれ「おつかれさん」とねぎらいの言葉をかけられた。
「~~~~っ!」
その言葉とともに要はタガを外し、疲労のまま黄銅色の地面へ死んだように仰向けになった。
小刻みに呼吸する要を見下ろし、易宝はコロコロと満足な笑みを見せ、
「水を持って来てやるからちょっと待ってな」
そう告げて居間へ続くドアの向こうへと消えていった。
要は息を整えながら、帰って来るのを待つ。
しばらくして、易宝は五〇〇ミリのペットボトルに入ったミネラルウォーターを持って戻ってきた。ボトル表面を覆う結露からその冷たさが伺える。とてもうまそうだ。
要は上半身を起こしてボトルを受け取ると、焦ったような手つきでキャップを開けて中身を飲みだした。喉に流し込まれた水は冷たい刺激とともに体内を潤していく。水分を失っていた体にとっては、ただの水でも高級ジュース並に尊いものに感じた。
半分ほど一気飲みしてみせた要はボトルから口を離し、息継ぎしてから易宝の顔を見て尋ねた。
「なあ、なんで蹴り技なんてやるんだ?」
その問いに対し、易宝は頭を掻きながら、
「なんだ、蹴りは嫌いか?」
「いや、嫌いってわけじゃないんだけど……今まで『開拳』とか『三宝拳』とかの反復練習とかが主だったじゃんか。なのになんでいきなり蹴りの練習に時間割いてんのかなって。もう一日の修行時間半分使っちまってそうだぜ?」
易宝はしばし何か考える仕草を見せてから、やや改まった口調と表情で、
「……カナ坊、拳法において最も重要なものはなんだと思う?」
そう質問を返してきた。
「え? そりゃあ「威力」じゃないの」
要は少しも考えることなくそう答えた。
真面目に答える気がないわけではない。本当にそう思っていた。
少年漫画が好きな要は、それに登場する「一撃必殺」の技によく心惹かれていたが、理由はそれだけではない。
実際、その方が合理的だと思うからだ。
どんな敵でも一撃で倒すことができる技を持っていたとするなら、その時点で最強だろう。何より、一発で済むというなら、それだけで労力の短縮になる。疑うまでもない理想的な戦い方だ。
だから迷わず答えた。拳法で大事なのは「威力」であると。
だが易宝はかぶりを振り、そして言った。
「違うな―――「変化」だよ」
予想外の答えに、要は目を丸くする。
「確かにおぬしの言いたいであろうことも間違いじゃあない。どんな敵も一撃で打ち倒せる力があったなら、それは強力なアドバンテージだ。だが、その伝家の宝刀があっさり躱されてしまった場合はどうする? 「こんな事想定外だ、どうしようどうしよう」と焦りながら何もできずに殴られるのか?」
「……それはヤダな」
「だろう? だからこそ、どんな状況に置かれても臨機応変に対処できる「変化の巧さ」が必要なのだ。それにその「変化」は攻めにも役に立つ。相手が倒れるまで何度も何度も技を変化させて攻撃を浴びせ続け、反撃の暇すら与えずに倒す。まさに「攻撃は最大の防御」だ」
なるほどなー、と納得した声をもらす要だが、すぐに元の話を思い出し、
「話は分かったけど、その大事な「変化」と、今やってる蹴り技にどんな関係があるのさ?」
「蹴り技をやる最大の目的は、足の使い方を器用にするためだ。カナ坊、やらされた蹴り技の中に、やけに複雑でヘンテコなものが多かったと感じなかったか?」
要はハッとする。
「中国拳法の蹴り技には、他の武道や格闘技にないような複雑で変なものが数多い。ここ最近、おぬしに多くの蹴り技をやらせているのは、足に色々な動き方を経験させることで「足の器用さ」を育てるためだったのだ。足というのは中国拳法に限らず、すべての武術にとって決して欠くことのできない部位だ。崩陣拳だってそうだ。いくら全身の筋肉の力を総合させて打つと言っても、それを導く主力となるのは足。『開拳』『展拳』『撞拳』『旋拳』、みーんな足が動かないと成り立たんよ」
「……言われてみれば、そうだな」
「そうだろう? だがその足の器用さが養われれば、技を行う際にやる足さばきなんかが、途中で突っかかることなく流れるように、そして迅速に行うことができるようになる。結果的に、相手が倒れるまでの猛攻も、臨機応変な対応も可能となるわけだ――ご理解頂けたかな?」
頷く要。
「よし。じゃあ疑問も消えたところで、そろそろ再開するとしよう! 次は『二起脚』と『斧刃脚』、それと『括面腿』をやってもらおうか」
「は、はいっ」
すっかり息も落ち着いていた要はバッと立ち上がり、中庭を囲う木塀のそばに立った。
「よいか? 蹴った後の足は惰性に任せてドカッと下ろすなよ。足を元に戻すまでが蹴りだ。始めから終わりまで蹴り足をコントロールすること。そうすることで、足の器用さを養うんだ」
念を押すようにそう言いつけてくる易宝。我が師は普段はルーズな感じだが、功夫に対しては一切の妥協を許さない。修行が厳しいのは必然だった。
そして易宝は、自分に要求する技術や技の要訣を、高いレベルで収めている。口だけではないのだ。だからあれほど強いのだろうか。
そういえば――この人に弱点ってあるんだろうか?
◆◆◆◆◆◆
「はぁ…………疲れた……」
要は盛大にため息をつき、木製のダイニングチェアにドカッと腰を下ろした。
本日の修行を終えた時には、すでに太陽が遥か西へと消えて夜の帳が落ちていた。
そして今、要は易宝宅の居間でくつろいでいる。いや、ダレている、と表現する方が正確かもしれない。
度重なる蹴りの練習のせいで、要の両足は何かがとり憑いているかのような重々しさを纏っていた。おかげでもう走るどころか、歩くことすら億劫で仕方がない。
「ほら、できたぞ」
少し先にある台所にいた易宝がテーブルに歩み寄ってきた。両手にはトレイが握られていて、その上に乗った三つの茶碗には、ほわほわと湯気を立てる黄緑色の茶が入っている。
「ありがと。いただきまーす」
要は嬉々としてその一つを手に取る。易宝の淹れるお茶は美味い。特に茉莉花茶や凍頂烏龍茶がお気に入りだった。
今出されている茶は、今まで飲んだことのない種類のものだった。湯気に混じって鼻腔をくすぐる甘い香りから、その事に気がついた。
要はどんな味か半ば楽しみにしながら、手のひらサイズの茶碗の端に口を付け、グイッと暖かい茶を喉に流し込んだ。
「………………ん?」
だが、それを飲んだ要は思わず眉をひそめる。
なんというか、奇妙な味だった。強い苦味の中に、甘味を主とする色んな味を混ぜ込んだような「苦甘い」と形容できる味。
ぶっちゃけると…………あんまり美味しくない。
そんな自分の心境を知ってか知らずか、易宝は笑いかけて言った。
「そいつは菊花茶という、乾燥させた食用菊に氷砂糖などを混ぜた茶だ。疲労やストレスに効果がある」
「へ、へぇ……」
「口に合わんか?」
「えっと……うん。ちょっと変な味……」
「ま、漢方茶だからのう。多少変な味なのは目をつぶっておくれ」
確かに味は微妙だが、自分の疲れを気遣ってこのお茶を出してくれたことはよくわかったので、残り二杯も律儀に全部腹へ収めた。
要は一息つくと、不意にある重要なことを思い出し、易宝の顔を見た。
「あ、あのさ師父…………お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「えっと……明日の修行なんだけど…………明日だけは、できればいつもより手加減して欲しいんだ……」
易宝は目を丸くする。
「妙なことを言う。何かあったのか?」
「いや……その」
「まぁ言ってみろ。話はそれからだ」
易宝に続きを促され、要はやむなく答えた。
「……実は明後日に、学校でスポーツテストがあるんだ」
「うむ」
「それでもって、達彦とそのテストの結果で賭けみたいなものをやることになって……」
「賭け?」
「う、うん。握力測定、反復横とび、ハンドボール投げ、長座体前屈、五十メートル走、立ち幅跳び、二十メートルシャトルラン、この七つの中で勝ってるのが少ない方がその日の昼飯を奢るってルール。しかも制限額が無しだから、どんな高いもの要求されても文句が言えないってわけ」
易宝は意外そうな顔をして、
「あやつともうそこまで打ち解けたのか?」
「はは、まあね。まぁ、そういうことだから、明後日は疲れを残さずにベストコンディションで勝負して、昼代請求権を勝ち取りたいんだ。だからお願いっ」
パンッ、と手を合わせて請う要。
それを前にした易宝は、少しの間笑いを噛み殺す動作を見せてから、
「くくっ……まぁ、アホな事にも心血を注げるのが若者の特権だからの…………オーライだカナ坊。「前向きに検討」しといてやる」
「前向きに検討?」
「日本人がよく使うお茶濁しの表現だな。便利だのう。作った奴は天才に違いない」
つまりそれは「考えておくけど、お前の望む答えが来る事は期待するな」ということだろう。
「そんなぁー……」
「ひひひ、だがまあ案ずるな。手加減するしないにかかわらず、次の日には必ずベストな状態で勝負に望めるようにすると約束しよう」
「……どうやって?」
「お楽しみだ。とにかく心配はいらん。学業に支障を出すようなことはせんから」
易宝は胸を張って断言する。
その自信を裏付けている方法論が少し気になったが、深く考えず、彼を信じて素直に首肯した。
「よし。じゃあさっと着替えて帰った帰った。もう外は暗いからのう」
パンパンと手を叩き、帰りの支度をするよう指示する易宝。
「はーい」
ゆるい返事で返す要。
要はいつも脱衣所で着替えている。今日も毎度同じように脱衣所へ足を進め始めた――その時だった。
視界の左端に映る壁に、ちょろちょろと動き回る「黒い点」の存在に気づいた。
素早い動きで壁中を縦横無尽に駆け巡るその「黒い点」に違和感を抱いた要は、思わずそちらへ目を向けた。
そこには――ビッグサイズのGがいた。
通称「黒いアイツ」と呼ばれている、みんなが忌避してやまない漆黒の昆虫。しかもかなりの大きさ。
「あ、師父。Gがいるよ」
要は何気ない平坦な口調でそう告げる。
サイズは確かに大きいが、要は動じなかった。母の亜麻音はやたらとあの虫を怖がり、仕方なくいつも自分が退治してあげているため、エンカウントに慣れているのである。
「……師父?」
それゆえ要の関心は、いつまでも言葉を返さない易宝にあっさりと移った。後ろにいる彼に向かって振り向く。
見ると――易宝は彫像のように固まっていた。
全身同様、無表情のまま硬直している顔にはまった両の目は、こちらへ一ミリも向いておらず、代わりに――今なお壁を走り回るソイツへと向けられていた。
やがて易宝は、我知らずとばかりに小さく声をもらした。
「……啊」
「あ?」
要は思わず復唱し、首をかしげる。なんだろう。様子が変だ。
一体どうしたのかを尋ねようとした――その時だった。
「哎呀啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊啊!!!」
易宝は顔面をこれでもかというくらい真っ青にし、とびきりの恐怖の表情を浮かべながら絶叫した。
「え、ええっ!?」
突然の叫びに、要は驚きで飛び上がる。
なぜそんな恐ろしげな表情で、この世の終わりのような叫びを上げるのか――それを考えようとした瞬間、Gのいた壁から「ブォンッ」という、ライト○ーバーのような音が聞こえてきた。
見ると、Gはその不愉快な翼を羽ばたかせながら、真っ直ぐこちらへ突っ込んできていた。
「おっと」
要は思わず身をよじり、Gを躱す。
それによって、Gが自分の後ろにいる易宝へそのまま向かっていくことは必然であった。
「うわぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!」
急速に迫る黒き驚異に易宝は慌ててきびすを返し、必死の形相でドタドタと走り出す。いつもの肚が据わった、安定した足取りは見る影もない。今にも転びそうで、まるで特撮映画に出てくる怪獣から逃げ惑う一般市民のようだ。
だが逃走もむなしく、Gは易宝の背中にピタリと張り付いた。
「うわーーーーわーーーーわーーーーーー!!! はなっ、離れっ、離れんかぁーーーー!!!」
ドタンバタンドタン。易宝は一層恐慌し、懸命に全身を振り乱して引き離そうとするが、しっかりと爪を立ててくっついているためなかなか離れない。代わりにテーブルの上の物だけが、振り回される腕に引っかかって床に落ちていく。
もしかしてあの虫が怖いのか――要はようやくその事に気づき始めた。
「かっ、かかかかかカナ坊!! 後生だ!! 見てないでなんとかしとくれぇぇ!! この悪魔を!! 早くうう!!!」
その証拠とばかりに、易宝はいまだ体を振りながら泣きそうな顔で懇願してくる。
…………まあ、どのみちこのままにはしておけないか。
「――なあ師父、箒とトングってどこにある?」
――それから数分後。
「はーっ…………はーっ…………し、死ぬかと思ったぞ…………!」
易宝は床に膝をつき、息を切らせながらダイニングチェアに上半身をだらんと乗せていた。
少し前までは自分が疲労を見せていたはずなのに、気がつくと立場が逆転していた。
ちなみにGは箒で払い落とした後、トングで掴んではるか外へ持っていって捨てた。
「大袈裟だなぁ」
「大袈裟なものかっ。くそ、コンバットの取り替えをすっかり失念していた…………!」
悔しそうに歯噛みする易宝を見て、要はすでに疑問にならないであろう疑問を投げかけた。
「師父って――あの虫怖かったんだな」
易宝は苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向きながら、
「な、なんだ……悪いか、怖くて」
「いや、悪いとかじゃなくて、意外だなーと……」
「わし含め、完璧な人間なんぞおらん…………」
力なくそううめきながら、ダイニングチェアにぐったりと顔を伏せる易宝。
易宝はそう言うが、やはり意外としか思えなかった。
凶器を持った大勢のヤクザ者にも、銃にも、一切の怯えを見せなかったのだ。この男は。
そんな人物が、たった不快害虫一匹に右往左往している様は、信じがたいものを感じる。
「それに、わしだって好きでこうなった訳じゃない……」
その言葉を前置きに、易宝はGが嫌いになった原因を話し始めた。
その話は、易宝がまだ少年といえるくらいの年であった頃まで遡った。
長年苦しめられてきた難病を克服し、元気になった易宝少年は、母の家事をよく手伝うようになった。今まで母には苦労ばかりかけてきたので、少しでも母の負担を軽くしようという心遣いからだった。
母も喜んでくれ、自分の家事能力も向上した。特に母は料理が上手だったので、その腕前を大いに盗んだ。
それだけならよかったのだが…………ある日、事件が起きた。
それは、母と一緒に夕食を作っている最中のことであった。
武術の修行によって、視界を見渡すように広げるクセをつけていた易宝少年は、遥か右側の壁にくっついている「ヤツ」の存在にいち早く気づいた――そう、Gである。
易宝少年は隣の母にその事を伝えようとした――その時である。
『妈妈、蜚――』
その言葉を言い切る前に、Gはものすごい勢いで飛翔し―――易宝少年の顔面に着陸した。
張り付かれた瞬間、言いようのない不快感と恐怖心が濁流のように押し寄せ「とってくれ、とってくれ」と暴れまわった。
――その後のことは、あまり覚えていないそうだ。
「それは何というか…………ご愁傷様」
同情の念を禁じ得ず、そう言ってしまう要。
「今日は…………殺虫スプレー握り締めて床に就くとするさ……ほら、おぬしはもう着替えて帰れ。あとは大丈夫だ」
そんな疲れた声で言われても、説得力ないよ。
だが、帰らないわけにもいかない。
「うん。ありがと……頑張って」
要はそう声をかけてから、脱衣所へ向かった。
この一件以来、「師父も自分と同じ人間なんだな」と思うようになった要であった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
「例の虫」の話で気分を害された方がいましたら、ごめんなさい(−_−;)




