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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第一章 入門編
23/112

最終話 とある少年の話

「なーなー、ゴールデンウイーク何やる?」


 倉田が嬉々とした表情でそう訊いてくる。

 

「いや、俺は特に決まってない。岡崎はよ」


 要はそう返しつつ、隣の椅子に座る岡崎に目を向けて尋ねると、


「俺は彼女とデートに行くつもり。ネズ公ランドのペアチケットが手に入ったからさ」


 と、なんともリアルが充実した奴そのものの返答が飛んできた。


 要、倉田、岡崎の三人は、ホームルームを控えた朝の教室の隅で、一つの机を囲いながら駄弁っていた。

 今日は休み明けの月曜日。普通なら、学校に縛られる一週間の始まりであるこの曜日は最も億劫な一日であるはずなのだが、クラスメイトたちの表情は不思議と冴え渡っていた。


 それもそのはず。今週のうち、学校がある日は今日と明日のみ。明後日の水曜日からはゴールデンウイークのため、しばらく休校となる。

 三人は、そのゴールデンウイークの予定について話し合っていたのだ。だが耳を澄ますと、他の集まりからも同じような内容の会話が聞こえてくる。みんな、平日と重なる大型連休が楽しみで仕方ないのだろう。


「……って、おい。ちょっと待て。ペアチケットってまさか!」


 倉田は突然喜びを一転、焦りと驚嘆に満ちた表情へと変えて机に身を乗り出し、ビームでも出んばかりに岡崎を凝視する。


「フッ、ご名答。一昨日、駅前でやってた福引で一等を引いたのさ」


 反対に、岡崎は余裕のある微笑を浮かべ、キザっぽく前髪をファサッとかき上げる。


「へぇ、すごいじゃん。岡崎」


 素直に賞賛する要とは逆に、倉田は悔しげに切歯しながら拳をシェイクし、


「きしょぉーー! 俺密かにネズ公ランド狙ってたのにーー! 昨日「当選者あり」って聞いて愕然としたけど、よりによってお前かよ岡崎ぃ!」

「いや、でも、ペアチケットだぞ? それも二枚同時じゃないと使えないやつ。誰か誘う相手いたのか?」


 岡崎のもっともなツッコミに倉田は一度返事に窮するが、すぐに体勢を整え、


「い、いいんだよ! 工藤を誘うから!」

「ええっ!?」


 要は倉田のあんまりな人選に驚き、ビクッとする。 

 対して、岡崎はやや引き気味に、


「うわーキモ……お前彼女できないからってそれはないだろ……こう見えて工藤、男だぞ?」


 こう見えて、ってどういう意味だコラ。


「知ってるよ! でも構わーん! 貴様なんぞ誘うつもりはない! 俺は工藤と独身貴族同士、仲良く遊ぶさ。お前はせいぜい彼女とラブってろ!」

「いや、ラブってろって…………そもそもチケットを当てたのは俺なんだけどな」

「ウワーン!」


 現実世界に戻った倉田は机に突っ伏して喚く。せわしないやっちゃ。


 そんな風にバカ話に身を委ねていると、ガラガラっと教室のドアが開く音が聞こえてきた。




 開かれた引き戸から姿を現したのは――鹿賀達彦だった。




 楽しげだった教室の空気が、ガラリと緊迫したものに変わった。ここしばらく、達彦が入ってくるたびに見せているリアクションだ。


 達彦が教室へ足を進めてくる。その様子を、クラスメイトたちの視線が一点照射する。


 やがて達彦は、要の目の前までやって来ると、


「よぉ、要」


 軽く微笑み、そう軽く挨拶してきた。


「……おはよ、達彦」


 少し前までは望むべくもなかったその対応に、要は胸がいっぱいになりながらそう挨拶を返す。

 見ると、達彦の顔には、もう包帯は巻かれていなかった。肌も傷一つ無く綺麗な状態だ。


「あれ? ひょっとして達彦、もう治った?」

「ああ、そうみたいだ」

「あのヘルメット野郎ども、いろいろ武器持ってたよな? あれで散々殴られたのに?」

「おうとも。自分でも信じらんねーくらいだ。俺の経験上、ありゃ間違いなく五日以上は後を引く類の怪我のはずなのに。お前んトコの先生すげぇな。魔術師か何かかありゃ?」

「だろだろっ?」


 要はニコニコしながら同意する。


 『紅臂会(レッド・アームズ)』との一件から、すでに三日が経過していた。

 その日は先週の金曜日だったので、次の日は土日と二連休だった。そのため、達彦に会うのが妙に久しぶりのような錯覚に軽く陥っていた。

 易宝の腕を疑うわけではないが、木刀やら鉄パイプやら物騒なモノで殴られまくった達彦の容態が若干心配だったが、目の前の本人は傷もすでに消えていて、顔色も良い。どうやら杞憂だったようだ。


 ちなみに、要のケガも同様に完治している。

 だが要は自分の体調よりも、ボロボロになって帰宅してきた自分を見て、その理由を詰問してきた亜麻音を誤魔化す方がはるかに大変だった。


「そういや要、お前の怪我の方こそどうなんだ?」

「うん、お前と同じでもう全然平気……ん?」


 見ると、警戒で腰が引けていたであろう倉田と岡崎が、こちらを見てキョトンとした顔をしていた。

 いや、二人だけじゃない。その他大勢のクラスメイトたちも同様の表情と眼差しをこちらへ見せていた。


 一瞬何事かと思ったが、すぐにそのリアクションの意味するところを理解した要は吹き出しそうになる。

 

 驚くのも無理はない――何せこいつと俺は以前まで、いがみ合っていたんだから。


「な、なぁ工藤? お前、その……鹿賀と仲が良かったのか?」


 静まり返った教室の中で、恐る恐るだが始めに口を開いたのは倉田だった。その隣の岡崎も無言で頷き同意している。


 達彦はその二人の存在に気づくと、そちらへ目を向け、


「なぁ、お前らもしかして、あの時階段で要と一緒にいた奴らか?」

「そ、そうだけど……」


 あの時――自分と達彦が最初にケンカをした日のことだろう。それを理解したであろう岡崎が重々しい面持ちで認める。


 そして、それを確認した達彦は申し訳なさそうな表情で頭を下げ、謝罪してきた。


「あの時は…………ビビらせて悪かった。許してくれ」


 周囲が「おおっ」と一気にざわついた。有名なワルであったこの男が素直に謝る姿は、それほど新鮮なものだったらしい。


 謝られた二人はそんな達彦の姿勢に本気度合いを感じたのか、緊張を一転、慌てた様子でなだめ始める。


「お、おいおい、頭なんて下げんなって。なぁ岡崎?」

「あ、ああ。いいんだよ鹿賀。もう忘却の彼方だから気にすんな」


 そんな三人の様子を、要は安堵と微笑ましさを込めた眼差しで見ていた。


 ――よかった。なんとかこのクラスでやっていけそう。







 


 その後、「こっちに来い」と達彦に連れられてやって来たのは昇降口だった。

 下駄箱の前で上履きに履き替えていたりする生徒の数はすでにまばらで、その多くがユニフォームを着用していた。運動部の朝練組だろう。


 達彦は最端に数台並ぶ自販機のうち、一台に五百円硬貨を投入するとこちらを振り返り、


「お前は何にする?」


 と言ってきた。


 要は気抜けした顔になり、


「え? もしかして、奢ってくれるの?」

「まぁな。えっと……助けてもらったせめてもの礼だ。こんな事くらいしかできねーけどよ…………」

 

 人差し指で頬を掻きながら、照れくさそうにそう告げる達彦。


 これは嬉しい申し出だ。要はぱぁっと表情を明るくする。


「いやいや、十分嬉しいよ! んじゃ、ヴァンタオレンジお願いします!」

「オケイ。承った」


 達彦は所望した炭酸飲料と缶コーヒー――自分の分だろう――のボタンを押した。取り出し口に落下音が二回鳴る。

 そこに手を入れて大小二つの商品を取り出すと、大きい方、つまりヴァンタオレンジの入ったボトルをこちらへ投げて寄越した。


「サンキュー。ゴチになりまーす」


 要は受け取ったボトルのキャップをプシュッと開け、中のオレンジ色の液体を喉に通した。別に喉は乾いていないが、達彦の感謝の気持ちが炭酸飲料の刺激とともに伝わっているようで気分が良かった。


 達彦もスチール缶のプルタブを開け、中のコーヒーを飲み始めた。缶胴を見る。無糖のブラックコーヒーだ。


「うわっ、すげーな達彦。俺黒い奴飲めないんだよ。砂糖が入ってなきゃ」

「まだまだ舌がガキなんだよ。俺は余裕だね」

「何だとー」


 二人睨み合うが、それは少し前までしていたであろう敵愾心丸出しのそれではなかった。

 その証拠に、二人はすぐに相好を崩した。


 なんだか今の達彦は、数日前までとはすっかり様子が変わったように思える。まるで憑き物が落ちたかのようだ。

 達彦の心中に何が起きたのかはよく分からないが、良い変化であることは間違いないのだ。あえて追求はしないでおこう。


「そういや要、知ってっか? お前、この海線境市じゃすっかり有名人になってるみたいだぜ?」

「は?」


 脈絡のない話題振りに、要は目が点になる。有名人? 俺が? なんで?

 分かってねーなコイツ、とでも言いたげな呆れ顔で達彦は続ける。


「一昨日と昨日、暇つぶしに町をぶらついてたんだが、ヌマ高の奴らやその他の悪そうな連中が、しきりに「工藤要」って固有名詞を出してやがった」


 ヌマ高――この神奈川県随一と言われている悪ガキ校「沼黒(ぬまくろ)高校」の略称を出され、要は引きつった笑みを浮かべながら、


「え……? なんでヌマ高の奴らが俺の噂してるの……」

「鈍い奴。んなもん、お前が『紅臂会』の竜胆正貴をぶっ倒すなんて真似したからに決まってんだろ。奴ら、「そんな奴に絶対関わるな」ってビビってる奴から、「ぶっ殺してでかい顔してやろうぜ」とか意気込んでる連中までピンキリだぜ。近いうちに何か起こるかもなぁ」

「あ、あんまり脅かすなよー!」


 慌てた様子の要に、達彦はしばし笑いを噛み殺す仕草を見せてから、


「ま、心配すんな。いざって時は、及ばずながら力を貸してやんよ」


 ニッと笑みを見せてそう言った。


 要もつられて微笑み、互いに拳を軽く突き合わせた。


「そういやさ、お前あの先生んとこに、週何回拳法習いに行ってんだ?」


 突然、達彦が素朴な疑問とばかりに訊いてきた。


「え? 毎日の放課後かな。休みの日は午前中ずっと修行だな」

「じゃ、今日の放課後も行くのか? 熱心だな」


 ――熱心、か。


 その再度の質問に、要はやや影を帯びた表情で、


「うん……行くよ」









 ◆◆◆◆◆◆









 そして――放課後となった。


 要は校門で達彦と別れた後、もうすっかり慣れた足取りで易宝養生院へと向かった。


 体に染み付いた動作に従う形で機械的に練習着に着替え、そして修行を始めたが――


「ほら、どこを向いてる。よそ見をするなカナ坊。突く時は、拳を出す方向へ目と鼻を向けるんだ」 


 『旋拳』――全身の螺旋運動によって放つ正拳突きの練習中、要は易宝の注意を浴びてハッとし、慌てて突き出された拳の方をしっかり向き直した。

 

 正拳を出す時は、必ず目と鼻の延長上へ突き出すことで、攻撃と同時に正中線を守るのがセオリーなのだが、今の要はそれができていなかった。

 そう、それだけのこと。ほんの些細なミス。


 いつもならこんな簡単な失敗しないのに――やや苛立たしさを感じながら、要は片足で一歩前へ踏み出し、腰を落として準備姿勢となる。


「さぁ打て、カナ坊」


 前の手の指先から、前方をキッと睨んだ。

 今度からは失敗しないぞ。

 どの技も完璧にこなしてやる。

 完璧にこなして、威力も強化してやる。

 そして俺は、さらに強くなる。

 強くなって――

 強くなって――

 強くなって――




 強くなって―――何をするんだ?




 その思考に行き着いた瞬間、全身がまるで金縛りにあったかのように動かなくなった。

 今睨んでいる方向に、脇に構えた拳を打ち込みたい。

 なのに体が動かない。

 

「――ナ坊? どうしたんだカナ坊? おいっ」


 自分の名前を呼ぶ声に、要はようやく我に返った。振り向くと、気を遣うような瞳でこちらを見ている易宝の姿。


「さっきから打てと言ってるだろう。一体どうしたんだ?」


 要は構えを崩し、スッと立ち上がって「ゴメン」と小さく呟いた。


「いや、構わんが……やる気がない、わけではないな?」


 要は小刻みに頭を上下して、やる気はあるという事を必死に訴える。


「それじゃ……また悩み事でも?」


 少し間を置いてから、コクリ、と小さく首肯。


「そうか。なんだったら一旦中止にして、その悩みというのを聞いてやってもいいぞ? この間みたいに」

「え……でも修行中じゃ」

「そんな状態で続けちゃ、身につくもんも身につかんだろう?」


 易宝の正論に、ぐうの音も出なくなる。


「悩みっていうのは解決しなかったとしても、ただ人に話すだけでもスッキリするもんだ。だからよかったら、またわしに言ってみろ。ま、無理にとは言わんが」


 易宝がそう言って、得意げに自身の背丈をそびやかす。


 ほんの少しだけ躊躇したが、すぐにそんな気持ちは捨て、やがてポツリポツリと話し始めた。


師父(せんせい)…………俺が河川敷で大人数相手にボコられてたのは覚えてるよな?」

「忘れる訳が無いだろう。あの時、わしとおぬしは出会ったんだ」

「ああ。俺さ……もうそういう目に会うのが、理不尽な暴力に苦しめられるのが嫌だったから、力が欲しくてあんたの弟子になって修行し始めたんだ」


 易宝は黙って頷いた。


「修行はキツイけど、でも師父、言ってくれただろ? 「小さくても強くなれる」って。あれが嬉しくて、しんどい修行も楽しく思えるようになったんだ」


 頷いた。


「そして、師父の言ってた通り――願いは叶ったんだ。これは言ってなかったけど、俺、少し前に達彦と二回目のケンカをしたんだ。そして俺は、傷一つ付けられずに圧勝できた。有名な暴走族のリーダーにだって、ギリギリだったけど勝つことができたよ。でもさ……」


 そこから要の声は弱々しくなっていく。


「…………同時に知っちゃったんだよ。相手をぶっ飛ばすだけじゃ、ただの暴力だって。達彦と二回目のケンカの時、倒れても倒れても起き上がってくるアイツをモグラ叩きみたいに殴って寝かす自分が、まるで去年俺を痛めつけた連中と同じに思えたんだ。だからさ、迷い始めたんだよ。ケンカに強くなろうって考えに」


 弱々しい口調は、さらに弱々しいものへとダウンしていく。


「だけどさ……その目的がなくなっちゃったら、俺はこれから先、何を目的にして修行したらいいんだろう、って…………不安になってきたんだ。まるで迷路の中から出られないみたいで。こんなんでこれから先、続くのかなって」


 気力を消沈させてうなだれる要。易宝もだんまりなので、中庭は静まり返っていた。

 だがしばらくすると要はぐいっと顔を上げ、すがるような表情で言った。


「なあ師父、俺はこれから――何を目的にしたらいいのかな?」

「――申し訳ないが、その答えをわしの口からは答えかねる。自分の目的は、自分で決めることだ」


 修飾も、表現の緩和もされていない、明確に突き放す言い方。

 だがそれを言った人物の表情は、決して冷たいものではなかった。子や弟を気遣うような、暖かな微笑み。


 その表情を崩さぬまま、易宝は言った。


「なあ、カナ坊? 崩陣拳の修行を始める前に、わしが言った言葉をまだ覚えているか? 「武術を学ぶ時以外は、わしの事を師だと思わないで欲しい。一回り年の離れた友達か、兄貴だと思って接して欲しい」とな」


 要はコクリと頷いた。


「あれはのう――「自分で物事を考え、そして自分の意思で進む方向を決められるようになって欲しい」という意味だったんだ」


 ――その言葉は、要の心にすうっと入り込んできたような気がした。


「自分の……意思で……」

「そうだ。伝統的な中国の武術界での師弟関係は少し特殊でのう、自分たちの師を神仏のごとく崇め(たてまつ)るきらいがある。そしてその師から前の世代、すなわち先師と呼ばれる者たちに関しては「ごとく」ではなく、まさしく仏扱い。命日になったら門人全員で仏壇の前に立って三叩頭(さんこうとう)が普通だ」

「そ、そうなのか……?」

「ああ。だがのう、わし個人としては、この考えはいささか気に入らんのだ。この慣習は一つの宗教に近い。こいつをやると、弟子の決断は師の考えが中心になってしまうかもしれない、つまり弟子から「自分で考える」ことを奪ってしまうかもしれない、そう思ったからだ」


 そこまで聞いた所で、要はようやく易宝の言わんとしている事が理解できた。なぜ易宝が自分との関係を「師弟」ではなく「友達」としたいのか、が。

 「師弟」だけだと、明確な上下関係が構築されてしまう。易宝の言っていた通り、命じて、それに従うだけの関係の出来上がりだ。そして、易宝はそれが嫌だと言っている。

 だが、対等の関係である「友達」にすることで、どちらかがどちらかを抑圧することなく、自分で自分を育んでいける。易宝はそうすることで、自分から「自分の事を、自分で決める」機会を奪わないでいようと考えていたのだ。


「そうだカナ坊。いい機会だ、今日は少し面白い話をしてやろう」


 そんな自分の理解を読み取ったのか、易宝は満足そうに笑いながらそう告げてきた。


 「面白い話?」要は首をかしげる。




「昔、中国の小さな村に住んでいた――ある少年の話だ」 




 易宝は、やけにノスタルジックな心境を感じさせる微笑を浮かべながらそう切り出し、話を始めた。


「その少年は農民の子でのう、父と母と三人で小さな家に暮らしていた。生活は決して豊かとは言えなかったが、それで両親を恨んだ事など一度もなかった。それ以上に二人を愛していたんだ。もしも不満があったとすれば――それは自分の体に対してだった」


 不穏な前振りを置いて、易宝は続ける。


「少年は生まれながらにして重い病を患っていた。そのため、普通の子供のように遊んだりすることなど叶わぬ夢だったんだ。前触れのない吐血なんぞザラで、遊び回るどころか、家から出れただけでもめっけもんといえるほどだったんだからの」

「……治す方法はなかったのか?」

「無論、あったとも。ある薬を定期的に飲めば、治る見込みは十分にあった。だがさっきも言ったが、少年の家は裕福ではなかったんだ。ここまで言えば分かるだろう? その薬は単価だけでも結構な額で、とても貧乏な少年の手に届くシロモノではなかった。爪に火を灯して灯して、やっと医者に看てもらえるほどだったのだから無理からぬ事といえる。そして医者は少年の両親に無慈悲な宣告をした――「この子は十歳の誕生日を迎える前に死んでしまうだろう」と」


 ……なんとも、やるせない話だ。

 その少年にも、この先まだまだ未来があったはず。なのに、病気というたった一つの要素で、進む道が全て瓦礫と化したのだ。

 人生を選べないという境遇の苦しみなど、満ち足りた家庭で、五体満足で生まれた要には想像がつかなかった。


「その後、母は一晩中泣き続けた。父も泣きはしなかったが、土気色の絶望感がくっきりと顔に現れていて、いつ自殺してもおかしくないような危うさすら感じられた。そして少年も、生きることに対する諦めを持ち、毎日を暗い気持ちで過ごしていた。だがのう、そんな少年の家に―――ある一人の男がやってきたんだ」


 そう前置きする易宝の表情は、どこか明るかった。


「その男は武術家だった。男は出し抜けに、少年に自分の持つ武術を教えたい、そう言って来たのだ。もちろん両親は猛反対した。病気のこの子が武術だなんてとんでもない、どういう神経をしているんだあなたは、とのう。だが少年はそんな反対を押し切り、男の申し出を受けた。どうせ死ぬ身。だったらその前に何かに対して全力で打ち込んでみよう。前向きか後ろ向きか分からないそんな思いが、少年を突き動かしたのだ。それから少年は男を師と仰ぎ、武術や気功法を熱心に学んだ。雨の日も風の日も、間断せずに修行に取り組んだ。すると数年後――奇跡が起きた」


 ――奇跡?


「武術の修行を重ねるにつれて、吐血や喀血の頻度に間隔ができるようになっていったのだ。そしてそれは徐々にだが広がっていき、やがて少年は血を吐かなくなった。それだけではない。無理だと言われていた十歳の誕生日も無事に過ぎることができ、体も普通の子供と同じどころか、それ以上に動くようになった。少年は病を克服したのだ」


 要は仰天で目を丸くして易宝に詰め寄った。


「武術で病気が治るものなのか!?」

「ああ。武術や格闘技というのは、本来健康な人間がやるものだ。だが中国の武術では「不健康なら、まずは健康にしてしまえばいい」という考え方であり、それを実現するための練功法が多数存在するのだ。気功法なんかがその代表例だ――話を戻そう。病を克服した少年は大いに喜んだよ。少年だけじゃない、その両親もな。そして、師に深く深く感謝をした。もしも武術と出会わなかったら、少年は医者の宣告通りの幕引きをしていただろう。感謝しない訳が無い。これから先、少年には輝かしい未来が待っている。家族三人はそう信じて疑わなかった。だが、そんな矢先に起こったのだ―――文化大革命が」


 易宝の表情に影が差す。

 その顔のまま、説明してくれた。


 

 ――文化大革命。


 1966年から十年間にわたって、中国で行われた大規模な思想、文化の改革運動。

 「封建的、資本主義的文化を打倒し、社会主義的な文化を新たに造り上げよう」というのが謳い文句の運動だったが、それは表向きの話。実際は大躍進政策――「経済的にアメリカに追いつけ、追い越せ」をスローガンのもとに行われたが、大失敗の挙句に数千万の餓死者を出した政策――の失敗によって国家主席を降りた毛沢東が、民衆を扇動して政敵を排除し、復権を果たすための「権力闘争」だった。

 これによって多くの実権者や知識人が粛清されたが、問題はこれだけにとどまらなかった。多くの伝統的な知識や文化が激しく批判され、それを嗜む人間は次々と弾圧、あるいは殺害された。

 特に仏教などの宗教に対する批判が熾烈で、各地の仏像や寺院が紅衛兵によって次々と破壊された。宗教は国家転覆をもくろむ反体制派を生み出しかねない、危険思想であるという考え方ゆえの悲劇だった。


 この文化大革命は大勢の死者を出しただけにとどまらず、経済活動なども停滞させてしまっていたため「中国の失われた十年」と呼ばれており、中華人民共和国が成立して以来に起きた出来事の中でも、確実に五本の指の内に収まるであろう大いなる災厄だった。 


「その文化大革命では、伝統武術も大いに槍玉に挙げられた。さっき言った「師を神仏のごとく崇める師弟関係」が封建的であるという批判と、義和団事変という――一つの武術門派が、反社会勢力として成長していった前例に対する危機意識ゆえにのう。これによって、多くの武術家が弾圧され、みんな武術を捨ててしまった。失伝した門派も数多い。武術を隠しながら生きていくという手もなくはなかったが、運の悪いことに、少年が武術をやっていることは周知の事実だったため、もう隠しようがなかった。その事に気づいた時には、すでに紅衛兵どもが自宅に迫って来ていたんだ」

「それで……どうなったんだ?」

「両親は、少年を師に預けて逃がしたんだ。そのおかげで少年は難を逃れたが、両親は息子のやったことに対する責任を取らされる形で紅衛兵に連れて行かれ―――そして二度と少年と会うことはなかった」 


 うなじに寒いものが走った。


「……まさか、二人とも」

「過労死した、と、少年は後々になって知ったよ」


 その理不尽な話に、要は悲しみと憤りを禁じ得なかった。

 なんということだろうか。せっかく幸せなるチャンスを掴んだはずなのに、どうしてこんな事が起こるのだ。世界というのは何が面白くて、年端も行かない子供にこれほどまでの仕打ちを与えるのだろう。あらゆる考えが要の頭の中を堂々巡りする。


「少年はほとぼりが冷めるまで、師とともに人里離れた山奥の小屋で暮らし続け、そして武術も懸命に学んだ。たとえ世間の風当たりが強くとも、自分の人生を変えてくれた武術というものを心から愛し、死ぬまで大事にしようと決めていたからだ」


 穏やかな口調でさらに話を進める易宝。


「そして時が経ち、毛沢東の妻の江青(こうせい)を中心に文革の実権を握っていた「四人組」の逮捕とともに、文化大革命は終わりを迎えた。すでに手足が伸びきっている歳になっていた少年は下山し、師の元を離れて旅に出た。色々な土地へ行き、色々な戦いをし、色々な痛みを味わい、色々な喜びを享受した。やがて、すでに「少年」とは呼べぬほどに年を取っていた「彼」は日本へ移り住み、小さな病院を建て、そして――」


 易宝は――要の双眸をしっかりと見つめながら言った。


「―――工藤要とかいうチビ助に、武術を教えるようになりました、とさ」

「……………………えっ」

 

 要はしばらくの間、間抜けっぽく口をあんぐりさせてから、


「ええええ!? 今のってまさか、師父のっ……!?」

「うはははは! そ。紛れもなくわしの過去だ」


 面白げに笑い続ける易宝。


 要は今でも開いた口がふさがらなかった。

 自分の目の前で今なおケラケラと笑っているこの風変わりな師に、そんな複雑な過去があったなどとは夢にも思わなかったのだ。

 

「結構……悲惨な目にあってたんだな」


 気を遣うような声色でそうこぼした要に、易宝は目を丸くし、


「悲惨、とな?」

「だってそうじゃんか…………父さんと母さん、死んじゃったんだろ……」

「…………まぁ、そこだけを見れば悲惨と取れるだろうな。実際わしも若い頃、両親の訃報を聞いた時は死ぬほど泣いたからのう。だがな――今ではそういった経験に感謝すらしているよ」


 感謝――その言葉の意味するところを尋ねようとする前に、易宝が自身の胸に手を当てて答えた。


「病気の時然り、文革の時然り、わしのこの命は、多くの人たちの助けがあったからこそ存在していられたんだ。そういった事実があるからこそ、わしは人生というものの大切さを、「自分の人生」を生きれることの奇跡を、自分の信じた生き方をすることの大切さを、誰よりも知っていると自負できるんだ。

 だからカナ坊――おぬしにも自分の意思で、自分の信じた生き方をして欲しい。わしが勝手気儘に押し付ける考え方は、それ一つだけだ」


 易宝は要の肩にポンと手を置き、


「わしはおぬしに「どう生きるか」の具体的な答えを出してやることはできない。だが「拳」ならば、望むだけ、いくらでも教えてやろう。そこで提案なんだが――強くなってから、目的を考えるというのはどうかのう?」

「強くなってから……考える?」

「そうだ。どうせ今ウンウン唸って考えたところでハッキリする訳が無いんだ。なら、目的を考えるのは後回しにして、今はただ修行に専念すればいい。おぬしは、崩陣拳が嫌いか?」 


 要はねじ切れんばかりにかぶりを振った。自分をここまで変えてくれた崩陣拳が、嫌いであるはずがない。


 易宝はニッと人の良さそうな笑みを見せて、


「なら大丈夫、嫌いでないならきっと続くはずだ。なぁに、焦ることはない。わしと違って、おぬしにはまだまだ死ぬほど時間がある。ゆっくり探すといいさ――武術の目的というやつを。早くとも遅くとも、おぬしにはそれができるはずだと信じている」


 さっきまで心に巣食っていた不安や焦燥感が、水に溶けるように消えていく。

 そして――活力が湧いてきた。

 

 そうだ。その通りだ。


 確かに、今は見つからないかもしれない。


 でも、それならまたの機会に見つけ出せばいいだけの話だ。


 今はただ、自身の拳を練ることだけを考えよう。


「――もう、いけそうだな?」


 要は躊躇うことなくコクリと頷いた。


 易宝は腰に手を当てて気合を入れ直し、


「よし! なら修行再開だ。今度は『撞拳』の反復練習、さあ行け!」

「はいっ! ―――んっ?」


 地面を踏み鳴らす動作『震脚』を行おうとした要の片足が、突然ピタリと動きを止めた。


 ――ちょっと待て。


 要は恐る恐るといった口調で、


「なぁ師父…………文革が起きたのって、1966年だって言ってたよな?」

「そうだが、それが何か?」

「師父ってその頃……「少年」だったんだよな?」

「さっきからなんだカナ坊?」


 要の言いたいことが分からないのか、頭を掻きながら怪訝な顔をする易宝。


 そんな易宝の方を、要はものすごい勢いで振り返り――







「―――あんた、いくつだよっっ(・・・・・・・)!?」







 ――目の前の美丈夫の顔を凝視しながら叫んだ。


 易宝は顔をしかめて「はぁ?」と声を出す。


「いや、「はぁ?」じゃねーし! 子供時代を1966年に過ごしたってのがマジだったなら、あんたは今何歳かって聞いてんだよ!」


 そう、要の驚いている点はそこだった。

 1966年は、スマホが普及している今の時代より数十年も昔だ。そんな時代に少年期を過ごしていたのなら、もっとおっさんになっているはず。なのに目の前にいるのは――女ウケしそうなルックスとスタイルの美男子。


 ――見た目と年代が合致していない。


「うーん……忘れた。四十から先は全く数えていない」

「忘れたって……! いや、でも、確実に四十は超えてるってことだよなそれ!? なんでそんなに見た目が若いんだよ!? もしかして不老不死の薬とかやってたりするのか!?」

「アホめが。んなもんやってるわけがないだろう。これは――」


 易宝がそこまで言いかけたところで、居間に通じるドアの向こう側から、プルルル、と、固定電話の着信音が響いてきた。


「ちょっと出てくる。おぬしは練習を続けてて構わん。サボるなよ」


 そう言って、さっさとドアの向こうへと行ってしまった。


「……はぁ」


 続きが聞けなかったのは残念だったが、要は仕方なしに練習を再開した。


 

 ――これも、いつか聞いてみよう。















「――はい。こちら易宝養生院」


 易宝は鳴り響く固定電話の受話器を取り、事務的な口調で応対する。


 この前腰を痛めてウチに来た婆さんがまた再発してなければいいが――そんな事を考えながら電話に出た易宝だったが、受話器越しに聞こえてきた声は、予想外の人物のものだった。


『――こんにちは、小劉(シャオリウ)。私だよ』


 しわがれた、年老いた男性の声。


 この声は――聞き覚えのありまくる声に、易宝は我知らず声を張り上げていた。


「――おぬし、老楊(ラオヤン)かっ? 久しぶりだのう!」

『ああ。好久不见(久しぶり)


 向こう側の声も、気さくにそう返してくれた。電話越しでも笑みを浮かべている姿が容易に想像できる。


「どうだ、北京(そっち)は?」

『サイアクだよ。雨が降ったわけでもないのに、今日は空が霧みたいに真っ白だ。大気汚染が日に日にひどくなってる気がするよ。おかげで今日は引きこもり状態さ』

「おぬしももういい歳なんだから、それくらい控えめな方がいいんじゃないか?」


 向こうの相手が苦笑する。


『君が言うかなぁ。気功術を高レベルで習得しているから老化が遅いといっても、君も結構年食ってるだろうに』

「鍛え方が違うんだ。分かってるだろう?」

『はは。そうだねぇ』


 二人して笑い合う。


「――ところで老楊、おぬしがわざわざここに電話してきたということは、何か特別な用でもあるんじゃないのか?」

『まぁね。実は近々――日本(そっち)に行こうと思っていてね』


 易宝の心に、かすかな緊張感が生まれる。


「——あやつに会うつもりか?」

『それもあるけど、観光もするつもりだよ。日本は綺麗だし、ご飯も美味しいしねぇ』

「ははは、そうかそうか。なら、もし日本に来たら連絡を頼む。あやつと同伴してわしも会いに行く」

『分かった』


 受話器から、小さく微笑む声。






『本当に会うのが楽しみだよ――君の『鞘を持つ者』に』






読んで下さった皆様、ありがとうございます!



終わったぞぉーーー!(歓喜)

「2015年中に第一章を完結させる」という目標が達成できて、嬉しさとホッとした気持ちが一緒に溢れてきちゃってるボルボックスです。

これでスッキリした気持ちで、新年を迎えることができます。



一応、第二章のプロットもほとんど出来ています。


ではでは、良いお年を〜(^o^)/

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