第二十話 死中に活
「別に無理して立たなくてもいいんだよ? 君はもう十分やっただろう?」
老人のようなぎこちなさで『百戦不殆式』の構えを取る要に、気の毒ような顔でそう促してくる竜胆。
要は全身をジンジンと覆う痛みから目をそらし、息を絶え絶えにしながら鼻を鳴らした。
「……気にすんなよ。さっさと来い」
「……君が立つ限り、俺は攻撃の手を休めないよ? それでもいいのかい」
「何度も言わせんな」
竜胆は諦めたように肩をすくめる。
とまぁ、やせ我慢を見せてみたわけだが、正直、今の状態で続けるのは厳しいかもしれない。
かと言って打開策があるかと聞かれたら、かぶりを振るだろう。
負け戦に嬉々として挑もうとしているのではないか――そんな悲観的感情をポリ袋に詰めて焼却炉へ放り投げる。
諦めるのはまだ早い。もしかすると、途中で何かいい策が見つかるかもしれないじゃないか。そんな希望的観測に今はすがることにした。そうでもしないとやってられなくなる。
竜胆は上半身をやや前傾させ、後ろ足を軸に腰を軽く落とす。臨戦態勢だ。
要はゴクンと喉を鳴らし、上下両側の奥歯を強く噛み合わせる。自分の中で緊張感が生み出された。
互いにしばし無言で睨み合う。
最初に向かい合った時と違い、周囲のヘルメット男たちからざわめきが生まれていた。タバコを吸いながら駄弁る奴、スマホを眺めてる奴……もしかすると、すでに竜胆の勝ちを信じて疑ってないのかもしれない。
だとしたら少し悔しいし、ムカつく。
でも――それならば、奴らの信じるものとは違う結末になるよう努力してやろう。要の中に少しだけ気力が生まれた。
やがて竜胆は軸足を爆裂させ、この戦いで何度も見せつけた瞬発力を再び発揮してきた。無駄口を叩く間もなく、自分との距離が縮まる。
一メートル圏内まで入ると、竜胆は一度膝を上げ、足裏で踏みつけるように蹴りを突き出して来た。竜胆の脚力にダッシュの勢いが加われば、要の軽い体など簡単に吹っ飛ばせるだろう。
要は間一髪で全身をよじることで、闘牛士よろしくその蹴りを回避。竜胆は勢いを殺さぬまま要の目の前を通り過ぎる。
そして見えた――竜胆の背中が。
「これはチャンスだ」と考えるまでもなく判断した要はすぐさまその後ろ姿へ近づき、攻撃を加えようとした。
だが、手が届きそうな距離まで来た瞬間――
「――『蹶子』!!」
竜胆は全身を急激に反り返らせたかと思うと、まるで馬の後ろ蹴りのように片足を跳ね上げた。
「おわっ!」
太腿が地面と並行になるほどの柔軟性に舌を巻きながら、要は上半身を素早く後傾させ、その鎌のような鋭い後ろ蹴りを紙一重でかわす。
早急に後退して距離を取る。
跳ね上げた足をトンッ、と下ろした竜胆はくるりときびすを返し、息を切らせる要を見て好戦的な微笑を見せた。
「言っただろう? 「六合」だって。あらゆる方向に攻撃ができるのさ」
ちくしょう、これじゃ背後を狙うのは無理だ。勝利への可能性がさらに薄くなったような気がした。
要は構えを取り直す。何か手があるわけではない。変わらず無策。だがそれでも木の枝程度でいいから持っておきたいというような感情から出た、気休めのような構え。
そんな心情を読んでいるのかいないのか、竜胆は一度口の端を歪めると勢いよく飛びかかり、爪先蹴りを左右二連続で放ってきた。
要は胸と顔面を守りながら必死に足を退ける事で、一発目は腕をかすり、二発目は完全にかわす。
竜胆は着地してからも、こちらへ前進しながら爪先蹴りを発してくる。要は防御の姿勢を維持し続け、時にかわし、時に腕でガードする。
そして再び、何度目かになる爪先蹴りの予兆を見せた。
要はかっちりとガードを固めつつ一歩退くが――その爪先蹴りはやって来なかった。
攻撃をやめた――気を緩めそうになったが、慌てて首を振る。
違う。攻撃をやめたんじゃない。これは――
「『磨脚』ッ!!」
直後、アスファルトの表面に引っかかっていた竜胆の爪先が激しく解き放たれ、ガードしていた自身の両腕に炸裂。「パァン」と爆竹のような音を鳴らし、両腕は真上にカチ上げられた。
遅れてやって来た激痛に、腕全体がつき鳴らされた梵鐘のようにジーンと痺れる。
気づけば――ボディーはがら空きになっていた。
竜胆は獲物を見つけた鷹のような目をすると、急速に自身と肉薄。
腹に添えられたのは、指の第二関節まで曲げられた竜胆の右手。
マズイ――そう思った時には全てが手遅れだった。
「『插捶』――!!」
竜胆は右肩の前進とともに拳を作り、ドスン、と突き刺すように打ち込んできた。
「か……ッ」
それに準じて起こる鈍痛と不快感に、要は否応なく背中を丸め、たたらを踏みながら退く。
首だけを起こして前を見ると――ちょうど一回転を終えたばかりの竜胆の姿が目に映り、背筋がゾクリとした。
「『旋風擺蓮』――!」
「がっっ!!」
回転力と展開力がカクテルされた強烈な払い蹴りが要の二の腕を打撃。重いインパクトと同時にその箇所の骨を激しく軋ませる。
要の体はアスファルトを滑りながら、蹴りの進行方向へ向けて吹っ飛ばされた。
だが要はその痛みをなんとかこらえ、地面を横に一回転してからしゃがんだ姿勢を取る。
そこからさらに立ち上がろうとし始める。その過程で中腰のような姿勢になった瞬間――前方に再び悪夢を見た。
――目の前で、片足を垂直に上げ伸ばした竜胆。
中途半端な姿勢、体力の減退という二重の足かせのせいで、もう対処のしようがなかった。
「――『硬劈脚』っ!!」
上半身の前傾と同時に「ブオンッ」と放たれた竜胆の踵落としは、要の背中へ断ち割るような勢いで叩き込まれた。
莫大な運動エネルギーの塊をぶつけられた要は、肺に蓄えていた空気を絞り出しながら勢いよく地面とキスをする。
要はアスファルトを両手で強く掴みながら、喘息の発作のように激しく咳をした。喉がいがらっぽく、目に自然と涙が浮かぶ。空気を吸いたいのに体がうまくいうことをきかない。
それだけじゃない。さっきの一撃が引き金となって、今まで我慢してきたダメージが津波のように押し寄せてきた。体が重い。
万事休すか…………?
「どうだい、効くだろう? 踵落としはそのままでも強力だが、この技は上半身の急激な前傾動作もお供させることで、上半身の重さも蹴りに上乗せする。俺の決め技の一つだ」
弁舌を垂れる竜胆の声はさらに続く。
「やっぱり、ケンカやタイマンってのは最高に面白いねぇ。相手を叩きのめす事で、「俺は竜胆正貴に負けたんだ」って、そいつの頭に自分の存在を植え付けられるんだから。今の君みたいに」
「ケホッケホッ…………ざけんな……俺はまだ……負けてな――ケホケホッ…………」
「結局、君の崩陣拳ってヤツを見ることは出来なかったなぁ。聞かない門派だから楽しみにしてたんだけど…………まあいっか。一発当てるどころか、一つの技しか見せる余裕のない拳法なんてたかが知れてるし。文革で牙を抜かれた弱小門派の一つだったんだろう」
くそっ、好き勝手言いやがって。ぶっ飛ばしてやりたい。
だが、ここで無策に向かっていった所で、またあの蹴りを叩き込まれて痛い思いをするだけ。
冷静になって考えろ。
ようやく咳が落ち着いてきた要は、呼吸を整えながら思考を巡らせる。
自分の最高の間合いは相手の至近距離。だが奴の鋭く、変化に富んだ蹴りは、簡単に近づく事を許さない。
仮に接近しても、奴はそんな時のための技を持っている。極めて小さなモーションで大きな力を打ち出す厄介な技だ。
遠距離もダメ。近距離もダメ。
ならどうすればいい?
蹴り使いの弱点は一体――
『――実戦であまり高い蹴りはオススメできんぞ』
「蹴り」というキーワードに呼応する形で、過去に聞いたその言葉が頭の中で蘇った。
忘れもしない。去年、自分と易宝が初めて会ったあの河川敷でのこと。
小畑の仲間の男子のうち一人が横合いからハイキックを仕掛けてきたが、易宝はその蹴り足を片手でキャッチ。そのまま上に持ち上げたことでその男子はバランスを崩し、川へ落っこちたのだ。その時に言ったセリフ。
そうだ。あったぞ――蹴り技のもう一つの弱点。
蹴りを出すのは足。だが足とは人が地上に立つのに必要な部位だ。それを一本でも取られればバランスを崩すのが普通。
ならば同じように、竜胆の片足を捕まえて持ち上げてやればいいんだ。
そうしてバランスを崩して倒れ、起き上がった所へ畳み掛ければ、まだ勝機があるかもしれない。
――またあんたに助けられちゃったな、師父。
要はまるで誰かが背中に乗っかっているかのような重々しい体を、震えながら起き上がらせようと試みる。
途中でズキッという痛みでよろけるが、なんとか立ち上がって見せた――よかった、まだ立てて。
「……まだやるのかい? もう俺はいい加減飽きてきちゃったよ。レベル99でスライムを潰す作業ほどつまらないものはない」
竜胆は呆れ口を叩きつつ腰に力を込め、
「だから――もうおやすみ」
放ってきた――回し蹴りを。
要は開眼する――ラッキーだ。回し蹴りなら比較的受け止めやすい。
全身の筋肉を奮い立たせ、弧を描きながら迫る回し蹴りのやって来るであろう場所で素早く両腕を構える。
バシィーッ! と、凄まじい勢いで両腕に叩き付けられる竜胆の回し蹴り。鳥肌が立ちそうな衝撃が全身を駆け巡る。
吹き飛ばされないように足腰を踏ん張りつつ、要は受け止めた蹴り足が戻される前に、すぐさまその足を脇に抱え込んだ。
よし、捕まえた。あとはこの足を持ち上げてひっくり返せば――そう思った時だった。
「――『爬山脚』」
竜胆は急に軸足で地面を蹴って飛び跳ねたかと思うと、その足でそのまま要の胸を踏み蹴った。
「うぐっ…………!」
急所を打たれた事で襲ってきた悶えるような痛み。それによって一気に体の力が抜け落ちてしまい、バランスを崩して後ろへ転倒。
竜胆は拘束を解かれた足を引き寄せ、軽やかに着地した。
直撃を受けた場所を、爪が食い込むほど強く押さえながらうずくまる要。
そんな要を見下ろすは――冷ややかな眼差しの竜胆。
「惜しかったね。だが、もう終わり――君の負けだ」
要は今もまだ余韻を残す激痛と、そして悔しさに歯ぎしりする。
そうだ。奴は「弱点を補うのは当然」と言っていた。なら、足を取られた時の対策も講じていて何ら不思議はない。
考えが甘かった…………。
俺の腕じゃ、まだ武術家には勝てないっていうのか。
だがこの竜胆という男、きっと自分よりも武術歴が長いに違いない。ちょっとかじった程度の奴にあんな凄い蹴りはきっと出せないだろう。
なら答えはこうだ――あっちの方が長く武術をやっている。そんな相手に、たかが一ヶ月近い程度しか習っていない自分が勝てる訳が無い。
これ以上頑張っても無駄だろう。初めから勝敗の見えていた戦いだ。
だったらここらで白旗を挙げて、易宝養生院で達彦と一緒に怪我を手当てしてもらってから、家に帰ってゆっくり休もう。今日の夕飯はトンカツらしい。考えたらお腹が減ってきた。
竜胆だって、もうこの勝負に飽き飽きしている。ギブアップすれば応じてくれるに違いない。
そうだ。とっととやめちまえ。そうすれば楽だぜ。
自分の心の中の、理屈っぽい自分がそう冷静に語りかけてくる。
だがもう一人の――感情的な自分が「嫌だ」と叫んでいる。
ここで諦めて、お前は満足するのか?
鉄パイプやら木刀やらを持って集団で一人をいたぶるケツの穴の小さい連中に、屈することを良しとするのか?
そんな結末で、お前は「友達を守ったぞ」と大威張りするつもりなのか?
お前は本当に――「それでいい」と思ってるのか?
要はガリッ、とアスファルトに爪を立てる――そんなわけあるか。
まだ諦めたくない。
まだ続けたい。
でも、だとしても、これ以上どうすればいい?
自分には戦う力なんて、もうほとんど残っていない。そんな状態で、竜胆のあの凄い足技をどうにかできるなんて――
――足技っ?
要はハッとした。
竜胆の蹴りは確かに凄い。だがその蹴りを出しているのは、ヒトの下半身に生えた二本の足だ。
そうだ、足技だ――「足」の技なんだ!
「くっくっくっく……」
思わず笑みがこぼれる。
「……何を笑っているんだ? もしかして君、蹴られて喜ぶって感じの子かい?」
当然ながら、竜胆は怪訝な表情を浮かべる。
確かに、こんな時に自分でもキモイと思う。でも笑わずにはいられなかった。
――小さな光明が見えた気がしたからだ。
要は四肢に力を込める。
立ってくれ、俺の体。俺の足。
これが最後の足搔きだ。嫌だと言わずに付き合ってくれ。
これで立てれば、立ち向かえれば、きっと勝っても負けても後悔しないから。
やはり、体中が痛いのは変わらない。
でも、立てないわけではなかった。
まるで生まれたての小鹿が立つ事を覚えるように、ブルブルと震えながら直立姿勢を作る。
痛みを押し殺しながら、半身になって『百戦不殆式』の構えを作り出し、前に構えた手の指先越しに竜胆を睨み付ける。
そして最後にダメ押しとばかりに鼻息を強く吐き出し、下半身に力を込める。姿勢からぎこちなさが消え、しっかりしたものとなった。
竜胆は頭をバリバリ掻きながら、
「やれやれ、しつこいなぁ……」
「安心しろよ、もうこれで最後だから」
「なるほどね……どうせ負ける戦いだから、せめてもう一足搔きくらいはしておこうって希望か。いいよ。付き合ってあげるよ」
「何言ってんだ。負けるのは俺じゃない――アンタだ、竜胆正貴」
竜胆の表情がガラリと影を帯びた。
「――吐いた唾は飲めないよ?」
「構わねーよ。何ならそっちから来てもらってもいいぜ? 今まで通り」
というよりも、そっちから来てもらわないと困る。そうしなければ成立しない作戦だ。
だが運がいい。竜胆は挑発と受け取ったのか、こちらを睨みながら臨戦態勢となっている。これから飛び出して来るに違いない。
やがて、
「――ハァァァァァ!!!」
怪鳥のような雄叫びを上げて、今まで以上の気迫とスピードでこちらへ距離を詰めてきた。
その鬼気迫る迫力に一瞬気圧されるが、なんとか意識をしっかり持つ。
竜胆は横に回転しながら迫って来た――もう何度も見てるから分かる。『旋風擺蓮』という技だ。
要は蹴りの来る方向に両腕を構えて備えた。
だが竜胆は蹴りは出さず、回転を保ったまま跳び上がり、要の真横を通過する。
そして宙を舞ったまま要の真後ろまで到達した瞬間――その場で骨盤を急展開して払い蹴りを放ってきた。とてつもない力で薙ぎ払われた蹴りが、要の後頭部めがけて驚くべき速度で迫り来る。
要はとっさの判断でこうべを垂れ、紙一重でそれを回避した。うなじが一瞬、風圧で寒くなる。
――あの蹴りに、まだこんな使い方があったなんて。
だが考えている余裕はなかった。着地した竜胆が再び襲いかかってきたのだ。
次々と放たれる強烈な蹴り。一つ一つが切れ味を持っていそうだった。
もういちいち躱している体力的余裕はないため、気合を入れ、筋肉を緊張させながら防御に徹するしかなかった。鞭打ちの拷問でも受けている気分だ。
しかし要は弱みを見せず、肉が削れそうな衝撃の数々にひたすら耐え忍び、たった一つの「チャンス」を待ち続ける。
――奴が「あの動作」を見せた時が勝負の分水嶺だ。
――もってくれ、俺の体。
――あともう少しだけでいいからっ!
「いい加減倒れたらどうだ――『磨脚』っ!!」
地面との摩擦抵抗を利用した竜胆の爪先蹴りが、ガードをとる要の両腕へしたたかに叩きつけられた。
ガードごと全身を吹っ飛ばされるほどの威力だったが、要はなんとかアスファルトに踏みとどまった。
だが、ダメージが蓄積していたのか――要の膝が一瞬ガクンと落ち、体勢が崩れる。
「しまった」と焦る要。
そして、それを好機と見たであろう竜胆は「しめた」とばかりに微笑み、
片足を――垂直になるまで振り上げた。
――ここだっ!
ずっと狙っていたシチュエーション。
要はできる限りの迅速さで全身を縮こませ、上向きの拳を胸前で構えた。
狙うは―――蹴り足の大腿部!
「ゲームセットだ――『硬劈脚』っっ!!!」
「『展拳』っっ!!!」
斧のひと振りのような踵落としと、全身の伸縮の力を込めた貫くようなアッパーカットが激しくぶつかり合う。一瞬、衝突部位から突風が巻き起こり、両者の前髪を跳ね上げた。
要は腕全体に伝わった踵落としのインパクトに立ちくらみを起こしそうになる。なんて力。手首がイカレそうだ。
だが――竜胆はもっとひどいだろう。
要はそんな確信にも似た想像を浮かべながら、竜胆を見た。
「ぐあぁぁ…………っ!!」
案の定――竜胆は『展拳』を打ち込まれた大腿部を両手で押さえながら、片足立ちで苦悶していた。
狙い通りだ。
竜胆は――さっきのぶつかり合いで足を痛めたんだ。
渾身の力で突き上げる『展拳』、足を勢いよく落下させる『硬劈脚』。この相反する力のベクトルを持つ二つの技が激突し、カウンターパンチのような現象を起こしたのだ。
『展拳』の威力に、強力な踵落としの力が追加されれば、足を痛めない訳が無い。
蹴りが邪魔なら―――その蹴りを出す「足」を使えなくしてしまえばいい。
要は片足で地を踏み鳴らす――『震脚』。地球の力を体内に取り入れ、一時的に瞬発力を倍化させる歩法。
鼻先の延長上に、片足立ちで足を押さえる竜胆を捉え、地を蹴り瞬発。
竜胆の姿が視界にぐんぐんと大きくなっていき、やがて、まつげが見えるほどまで距離が縮まった。
不思議と、要の心は曇り一つなく、平静だった。
だからこそ、唇の動きだけで、こちらを見て小さく呟いた竜胆の一言が「しまった」であることが分かった。
「―――『撞拳』っ!!」
スクーターの衝突にも似た要の正拳が、竜胆の鳩尾の少し下に叩き込まれた。竜胆の五体は強風にあおられたダンボール箱よろしく後方へ吹っ飛ぶ。ヘルメット男数人を巻き込んでもなお転がり続け、奥に停めてあったバイクに激突してようやくストップした。
辺りの空気がしばし、シンと静まり返る。竜胆はバイクの傍らでぐったりしたまま動かない。どうやらのびているようだ。
やがて、高まりの予兆すら見せずに怒号の嵐が巻き起こった。
「り、竜胆さんが死んだぁ!!」「バカ、死んでねーよ!! ノビてるだけだ!!」「負けた!? あの竜胆さんが!?」「嘘だろ!?」「しかもあんなガキに!?」「テメー、このガキ!!」「よくも竜胆さんを!!」「血祭りだ血祭り!!」「ぶっ殺せ!!」「処刑しろ!!」「SA・TU・GA・I! SA・TU・GA・I!」
周囲を囲んでいたヘルメット男たちがヒートアップし、武器を片手に一斉にこちらへ向かってきた。
――ってこれヤバくない!?
人生最大の危機を感じた要だったが、
「待てコラァァァァァァァァァァァ!!!」
突然響いてきたその怒鳴り声によって、ヘルメット男たちはピタリと動きを止めた。
声の主は――路肩に腰を下ろしていた達彦だった。
「テメーら、ヘッドの言いつけ破んだな!? そうなんだな!?」
ヘッドの言いつけ――達彦のその言葉に全員がビクッと反応する。
「別にやりたきゃ勝手にやれよ。でもお前らのリーダー、確か「勝っても負けても手を出すな」って言ってたよなぁ!? そいつを破った後、目を覚ましたリーダーがどんなツラすんのかよーーく考えんだな!!」
ヘルメット男たちは、すっかり静かになっていた。
やがて彼らは渋々といった表情でそれぞれのバイクに乗り、気絶した竜胆を連れて一斉にその場からいなくなった。
あとに残ったのは、要と達彦、そして置き去りにされた竜胆のバイク一台だけだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
第一章も残すところあと二〜三話!
今年中に終わるといいなー。




