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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第一章 入門編
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第一話 易宝養生院

2015.9/15:シオ高の説明の部分を加筆しました。

 薄桃色の花びらを乗せた突風が吹きすさぶ。

 ほんの一、二ヶ月前までは肌を突き刺すほど冷たかったその風は、涼しさと暖かさ、その両方を併せ持つ心地よい春風へと変わっていた。

 道路を挟んだ歩道の両端に等間隔で並び、無数の花びらを撒き散らすソメイヨシノの木は、すでにコンクリートの地面を埋め尽くさんほどの花びらを落としておきながら、なお薄桃色の輝きを保っている。

 真上には雲のかけら一つない、一面スカイブルーの快晴が広がっていた。


 ――まるで自然界が、今日という日を祝福してくれているかのようだ。


 そこは校門だった。


 男子は黒い詰襟、女子は紺のブレザーにスカート。慣れない制服をぴっちり着て動きづらそうにしている大勢の生徒たちが、フォーマル仕様にめかしこんだ自分たちの保護者と同伴して、開放された門の中へ吸い込まれてゆく。

 校門の両端にあるブロック塀の片方には『潮騒高等学校』の文字が彫られた横長の表札、そしてその表札のすぐ隣には『入学式』と黒い楷書ででかでかと書かれた木製の立て看板が立てられていた。


「いや、だから苦しいんだってば」


 次々と入校して行く親子連れとは別に、工藤要は表札の前である女性と押し問答していた。要も他の男子と同様に詰襟タイプの制服を着用しているが、第一ボタンが開け放たれている。


「ダーメ! 男の子でも身だしなみは大事なんだから。それに今日は入学式よ?」


 その女性はそう言って、要の第一ボタンを強引に閉じる。


 彼女は工藤亜麻音(あまね)。要の母親である。


 フレームの細い銀縁眼鏡の奥には人懐っこさを感じさせるくりっとした二重まぶたがあり、薄紅色の唇を歪めると両側にえくぼができる、女性というより少女のような愛らしい顔立ち。

 フワッとした茶色いセミロングヘアーという髪型と、肌色のチュニックとジーンズに包まれた百五十センチ弱の細身な肢体が、その幼い印象をさらに助長させている。

 よその人からは妹か姉に見られることもあるが、間違いなくお腹を痛めて自分を産んだ母親だ。


 だがこの幼顔の母親はこう見えて、売れっ子の覆面作家なのである。

 扱うジャンルは主に恋愛。だが作中で主役となるカップルの組み合わせが斬新で、「自衛官×雪女」「象使いの少年×異星人の少女」「不死身のサイボーグ兵士×巫女さん」など。

 なおかつそれらのトンデモ要素を上手に料理するため、若い世代、特に女子高生に人気があり、ベストセラー作を何度か出している。

 だが本人はあくまで覆面作家であることにこだわり、表舞台に顔を出した事は一度もない。本人曰く「目立たず静かに暮らしたいわ」だそうだ。


「んな事言ったって、俺学ランなんか着るの初めてだし。なんか首がきついんだよなぁ」


 要は不快そうな顔をしながら、閉じられた制服の襟元を右手でしきりにさする。

 すると亜麻音は「甘い!」と言って人差し指を夏希の鼻先に向けて自信満々に口にした。


「そんな調子じゃ、学園のマドンナはゲッツできませんよっ?」

「なんだよ学園のマドンナって」

「全校生徒が憧れる高嶺の花、誰にでも優しく、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、おまけにスタイル抜群でおっぱいも大きい、そんなスーパー美少女のことよ。そんな難攻不落の要塞を攻略するためには、服装を正すなんてまさに基本中の基本! これができるのとできないのでは全然違うわっ」

「意味分かんねーよ。つーか、別にそんなん攻略するつもりねーし」

「えーなんでー? せっかくママに似て可愛い顔に産んであげたのにー、ツマンナーイ」


 亜麻音は不満そうに頬を膨らませてそう言う。子供かよ。


「ていうか、なんで母さんが俺の恋路を気にすんだよ?」

「だってママ、ホントは娘が欲しかったんだもーん。カナちゃんが将来誰かと結婚したら、その時はフリフリのドレスが似合う女の子を産んでほしいなーって」

「…………あんたって人は」


 亜麻音は「はうぅ」と嘆息をもらす。


「カナちゃんも昔はもっと素直で、動きがちょこちょこしてて、自分のことを「僕」なんて言って、ママの柔らかいお膝の上が大好きな可愛い子だったのに…………いつの間にか一人称は「俺」になってて、可愛らしい顔して「うざってぇ」とか「なめんじゃねぇ」とか平気で言うような不良になっちゃって、よその子とケンカして帰って来るなんてしょっちゅう……はぁ…………どこで育て方を間違えちゃったのかしら」


 要は頬を赤く染め、唇を尖らせて返した。


「お、俺にだってそうなる訳があったんだよ。だいいち、母さんは俺にどんな奴になって欲しかったんだよ」

「可愛い子。昔みたいに自分のこと「僕」って呼んで、ママの用意した可愛い衣装を素直に着てくれて、ママのミルクセーキに美味しくなる魔法とかかけてくれる子かしら」

「ぜってーヤダ」

「もお、カナちゃんのケチッ」


 要は辟易する。ケチとかそういう問題じゃねーだろ。

 亜麻音は(年甲斐もなく)かなりの少女趣味で、物事の基本的な判断基準は、まず「可愛いかどうか」なのだ。

 「あの花可愛いわ」「あの蝶々可愛いわ」「あのテレビ可愛いわ」モノを見るとき、まずはその可愛さを見るのが彼女のクセだ。

 実際、亜麻音の私室兼仕事部屋にある置物や調度品も、亜麻音的に「可愛い」と判断された品々で埋め尽くされている。


 おまけに亜麻音は、やたらと要に女物の洒落た服やドレスなどを作っては着せたがるのだ。「カナちゃん可愛いからきっと似合うわ!」だそうだ。

 今でこそ拒否っているが、男女の意識が薄かった小学校低学年の頃には言われるままに随分着てしまった。

 しかもそれを撮った写真が未だ現存しているため、要の中ではそれが黒歴史になっている。


 要が昔の無垢な自分のバカさ加減を思い出してげんなりしていると、亜麻音が話題を変えてきた。


「ところでカナちゃん、なんでこの学校に入りたいと思ったのかな?」

「え?」

「だって中学の先生、カナちゃんの学力ならもう少し上の学校行けるって言ってたよ? でもそれを蹴ってまで、どうしてこの学校を第一志望にしたのかなって」 

「……あー、そのことか。それは――」


 要は言いながら、向こう側の歩道にある、横並びの建物群の一角に目を向ける。

 

 入口は引き戸式になっており、全体的には四角い形で屋根は平べったく、二階建て。やや古いが趣のある木造家屋だ。その横には家屋にくっつく形で、背の高い木塀で四角く囲われた空間がある。中庭だ。

 そして入口のすぐ横に設置された呼び鈴の隣には―――『易宝養生院えきほうようじょういん』と黒字で書かれた木札が掛けられていた。


「――これから毎日来ることになる場所に、一番近いからかな」






 要の入学した所は、神奈川県立潮騒(しおさい)高等学校。通称シオ高。


 神奈川県東部に位置する地方自治体、海線境市(かいせんざかいし)内に存在し、一部の部活動が盛んであることを除けば、どこにでもありそうなごく普通の県立高校である。

 偏差値は中の上。

 昨年、剣道部とテニス部が同時に全国大会へ勝ち進んだためか、今年の新入生にはこの二つのスポーツによる推薦で入ってきた生徒が例年より多いらしい。


 入学式の後、クラスメイトとの顔合わせや自己紹介も終えた要は、駐車場に停めてあった車の中で待っていた両親を先に帰らせた。電車を使えば一人でも帰れるし、どのみちこれから通うには電車を使わなければならない。定期ももう作ってある。いい予行演習だと思った。


 要は今日、どうしても行きたい場所、会いたい人物がいるのだ。


 手提げ鞄をラグビー選手よろしく脇に抱え、要は校門を一人抜ける。校門を出てすぐの歩道の前には車道が横一直線に伸びており、車が活発に行き来していた。

 目的地は、向こう側の歩道へ渡った場所にある。要は見慣れない街をぐるりと見回し、左側に十字路を見つけるとそこへ小走りで行き、そのままペースを落とさずに横断歩道をせかせかと渡る。


 歩行者信号が青に変わるより数秒早く車道へ出てしまったので、途中で右側からきた車とぶつかりそうになる。急ブレーキをかけたドライバーから「死にてーのか、このクソガキャー!!」とお叱りを受けてしまい「すんませーん」と愛想笑いで軽く頭を下げ、すぐに横断歩道を渡りきった。


 そこからは簡単だった。横に並んだ建物たちを沿うようにたどっていき、要は目的の場所でその足を止める。

 そこは朝に見た、中庭付きの小さな木造家屋――『易宝養生院』だ。


 家主の名を冠したその建物は、気功治療を中心としたあらゆる東洋医学的な治療を行う病院だ。

 だが要はいたって健康優良児であるため、医者にかかる必要性は今のところない。

 要が用があるのは、ここのたったひとりの従業員にして、ここの院長を務めているある人物だ。


 ――この時を一年少々待った。


 要は入口の引き戸を前に、感慨深いものを感じて立ち止まる。

 中二の一月――イジメっ子をアッパーカットするという暴力沙汰(というか反撃)を起こしたため指定校推薦も受けられず、学力をつけて受験に臨むしかなくなったため、大ッ嫌いな理数系の科目も含め、学力をつけようと努力した。

 そして、それは実り、第一志望であるシオ高に見事合格。受験戦争は勝利で幕を下ろした。

 要には、どうしてもやりたいことがあった。

 そしてここに住む人物は、その「やりたいこと」を自分に教えると約束してくれた。

 この学校を志望したのは、その人物の住む家が近いからだ。

 これから毎日通うことになる場所が、学校のすぐ近くとはありがたい。これなら放課後すぐに「やりたいこと」に打ち込める。

 要はもったいぶるのをやめ、意気を高揚させて引き戸をガララと引く。


 入口を開き、入ろうとすると――




「あら、ごめんなさいねぇ」




 ――しゅわしゅわなおばあちゃんとぶつかりそうになり、立ち止まった。


 男子にしては小柄な要よりもさらに背の低いそのおばあちゃんは、ところどころ皺の付いた顔で人の良さそうな苦笑を浮かべて軽く謝罪してきた。

 

 え? あの人こんなナリだったっけ? もしかして一年でこんなに老けたのか? 

 …………んなわけねーだろ、落ち着けよ俺。そもそも性別が違うだろ。


 そんな事を考えていると、おばあちゃんは室内を振り返り、 

 

「ありがとうねぇ、易宝ちゃん。おかげで腰痛いのが取れたわ」


 親しげな声で感謝を告げる。


 ――易宝!?


 すると室内からも同じく、慣れ親しんだようなニュアンスを持つ言葉が返って来た。


「いや、どういたしまして。もうあんまし無茶な肉体労働はするなよ清子(きよこ)バァ」


 この声――!

 要はその声に聞き覚えがあった。

 去年の冬、自分を理不尽な暴力から助け出してくれた男。

 今日、一番会いたかった人物。

 そして――自分の「師」になってくれると約束してくれた男の声。




師父(せんせい)っ!! 劉師父っ!!」




 要は室内にいるであろう人物に対し、感極まった声で叫ぶ。前に立っているおばあちゃんがビクッとした。

 

 そして室内には――要の予想通りの人物が立っていた。


 玄関の三和土(たたき)の前に、スリッパを履いた足で立つ黒服の青年が一人。

 よく見ると両脇腹の部分にうっすらと龍の刺繍が施されている黒い唐装に、同色のゆったりとした長ズボン。

 若々しく、端正だがどこか精悍さを感じさせるその面貌は、おばあちゃん越しに要の姿を確認すると、ぱあっと相好を崩して声を張り上げた。


「カナ坊!? カナ坊じゃあないか!」


 要はおばあちゃんの横を優しく通り抜け、その青年の元へ駆け寄ると、肩をバシッと強く叩かれる。青年の顔は笑顔だ。


「とうとう来よったか、この不良少年!」

「ふはは、来たよ! 来ちゃったよ! とうとうここまで来たぜーー!!」

「シオ高の試験、受かったんだな?」

「聞いてくれよ師父! 圧勝だよ、圧勝! 合格通知もらったあとに試験順位見たら、上から五番目だったんだよーー!!」

「ははは、そりゃ大したもんだ! 幸先がいいぞ!」

「「ふははははははは!!」」


 やたらハイテンションになっている二人組を前に、おばあちゃんは話が見えないといった様子で青年に尋ねた。


「易宝ちゃん、この坊やとお知り合いなのかい?」


 その問いに対し、青年は要をくるりとおばあちゃんの方へ向かせ、その肩をポンと軽く叩き、微笑を交えて答えた。


「このめんこいのはな――わしの一番弟子だ」


 ――そう。


 この青年こそ、『崩陣拳』三代目正統伝承者にして、今日から要の「武術師範」となる男――――劉易宝である。






「ほれ、飲むといい」


 ダイニングテーブルの一角にちょこんと座る要の前に、黒服の青年――易宝の手から小さな茶碗が優しく置かれる。

 おちょことほぼ同サイズの茶杯には、熱気を持つ黄色い液体が入っていて、香ばしい匂いを目の前の要に届ける。


「なにこれ?」


 要は木の椅子に腰掛けたまま、それを淹れてくれた易宝の方を向き、訊いた。


「凍頂烏龍茶という台湾の茶だ。まあ遠慮はいらん、飲みな」

「サンキュ、いただきまーす」


 要は茶杯の端を持ち、それを口まで持ってくると、ジャパリ、と一気に流し込んだ。その味が程よい熱とともに口いっぱいに広がる。

 熱いお茶をあまり飲まない要だが、今飲んだお茶は美味しかった。やや苦味があるが、それを嫌に感じさせない香ばしさも持ち合わせており、それがとても心地よい。


 要が舌鼓を打っていると、立って見ていた易宝は苦笑しながら言う。


「カナ坊、そりゃ茶好きからすれば邪道な飲み方だぞ」

「え? なんでさ?」

「作法的に言うなら、茶というのはただ胃袋に収めりゃいいというモンでもない。その香りも一緒に楽しむもんだ」


 易宝は自身の持つ茶杯に一度鼻を近づける。茶杯を軽く揺らして香りを吸い込むと、中の茶をずずっとゆっくり飲み込んだ。

 

「こんな感じでのう」

「なんかかっこわりー飲み方だなぁ」

「まあ、そういうもんだと理解すればいい。飲み方は自由だ」

「違いねぇ」


 顔を合わせて「ハハハ」と軽く笑う要と易宝。


 易宝養生院の建物は、玄関から三つの部屋に分かれている。

 一つ目は、施術台や薬品棚などが置かれた易宝の仕事部屋。

 二つ目は、寝室等のある二階へ続く階段。

 三つ目は、キッチンや風呂場などの生活スペースが集まる場所。


 そして二人はそのうち三つ目に該当する、台所と一体化した居間にいた。

 フローリング張りの床の中央に置いてある小さなダイニングテーブルの向かい側には液晶テレビが設置されており、部屋の奥にある台所には、茶杯が三つのうち二つ欠番した茶器セットと、コンセントに繋がった電気ケトルが置いてある。


 易宝は空になった茶杯を台所の茶器セットに置くと、茶の入ったもう一つの茶杯を片手に持ち、台所の片隅に置いてある冷蔵庫にもたれかかる。

 

 易宝は香りを楽しんだあとに茶を軽くすすると、やや真剣な表情で再び口を開いた。


「さてと、本題に入ろうかのう。まずは言っておくぞカナ坊、高校入学おめでとう。そして――入門おめでとう。これからおぬしは『崩陣拳次期四代目正統伝承者』として、三代目たるこのわし「劉易宝」が徹底的に鍛え上げよう」


 要は重々しく頷いた。


 とうとう来た。この瞬間が。

 一年間待ち焦がれていた、この瞬間が。

 自分よりも大きな相手数人を一人で、それも無傷で倒せるほどの強さを手に入れるべく努力するための時間が、とうとう始まるのだ。

 期待と昂り、そして緊張感が一気に心を支配し、胸焼けのようなものを感じる。


「まず始めに、『崩陣拳』という拳法について、去年言ったことをもう一度説明しよう。

 崩陣拳とは、十九世紀、還俗した少林寺の武僧「鄭煕陽(てい きよう)」が、少林寺で学んだ様々な拳術や身体強健法などをベースに、独自のアレンジを加えて創始した中国拳法だ。

 その真髄は、全身に『繋がり』を作り、動作させることで生まれる強力な(ちから)によって相手を打倒することにある」


 全身に『繋がり』を作る――要は去年、分かりかねたその言葉の意味を尋ねたことを思い出す。


 ――すると、易宝は答えたのだ。

 人間の体には、数百種類もの筋肉が存在する。だが普通の人間は、普段の生活の中でそれらの筋肉をバラバラに使ってしまっている。

 だが崩陣拳では、バラバラになったそれらの筋肉全ての間に『繋がり』を持たせることによって「一つの筋肉」を作り上げる。

 これはいわば、バラバラだった無数の歯車の歯が全て噛み合ったような状態である。

 そうなった状態で体を協調動作させることで、全身で生まれた力がロスなく打撃部位に伝わり、攻撃力へと転化される。

 

 易宝の説明は以上だった。


 ――なら、そんな体をどうやって作る?


 それも教わった。


 そして易宝はグッドタイミングでその話題を出してきた。


「そして、そんな肉体を作り上げるには、ある特殊な練功法が必要だ――さてカナ坊、わしが去年教えたその練功法を今、ここでやって見せよ。この一年少々の間でどれだけ練られたか確かめてやる」


 要は再度頷く。


 ――去年、要は易宝から、ふたたび会う時までにある修行を課せられていた。

 そして要は易宝に言われた通り、風邪などを引いた時以外はその修行を今日まで毎日積んできたのだ。

 その修行こそが、全身の筋肉に『繋がり』を作り上げるためのものだった。


 要は椅子を立つと、冷蔵庫に寄りかかる易宝の前まで移動する。

 

 見られているのでやや緊張するが、それを心の奥に押し込み、要は自分の両肩と同じ歩幅を取って立つ。フローリングの床がキュッと鳴った。

 そんな自分を、易宝は茶杯片手にじっと見ている。あんまり見ないでくれよ恥ずかしい。




 尾てい骨を股に収めるように引っ込め、骨盤を起こす――尾てい骨は人間に尻尾があった名残だそうで、まずはこうしなければ上半身と下半身の筋肉に繋がりが生まれないらしい。

 床にストンと荷を下ろすように上半身を脱力させ、意識を丹田に集中させる――下半身が充実。




 機械の点検をするようにそれらを順に整え終えると、要は大木を抱くような形で両腕を前に出し――そのままゆっくりと腰を落とした。


 膝を垂直に立てるようにした、中腰の姿勢。上半身は前傾している。

 だが力を入れるのは、下半身を支える膝だけだ。それ以外の体のどこにも力を入れてはならない。代わりに、頭のてっぺんにある経穴――「百会(ひゃくえ)」が、天から糸で吊られているイメージを強く浮かべる。

 膝のみの力で体を支えなければならぬ分、そこに全体重が乗っかるので非常にしんどい。だが我慢する。


 ――この非常に苦しい体勢を、数分間は保たねばならないのだ。


 これは『頂天式(ちょうてんしき)』という、崩陣拳の基礎を養う練功法だ。

 姿勢の矯正、脚力の強化、易宝曰くあと幾つか効果があるらしいが、これをやる理由として最たるものは――全身の筋肉に「繋がり」を作ること。

 人間には、どんなに重力に逆らわずに脱力しようとも、無意識に筋肉を作動させて体を起こそうとする一種の「脊髄反射」が備わっているのだという。

 さらに、それによって起こされた体には、無駄な筋肉は一切使われていない。「体を起こす」という一つの目的のため、全身の筋肉を適度に、そして効率よく作動させるからだ。そして、そのように適度に、なおかつ効率よく全身の筋肉が使われた状態こそが――『繋がり』を持っている状態なのだ。

 体を支える膝以外、どの場所にも力を入れないまま長時間立つのは、その「脊髄反射」を利用して『繋がり』を作り、なおかつそれを体に馴染ませるためだ。


 『頂天式』を保って一分少々経過すると、全身の心地よい暖かさとともに、前傾していた上半身が徐々に立ち上がりだし――やがて天に向かって背筋がまっすぐになった。

 もしかすると、これが体を起こそうとする「脊髄反射」なのかも知れない。

 

 ずっと自分を見ていた易宝は茶を飲み干すと、茶杯を台所に置き、こちらへやって来た。

 そして、要の体のあちこちに触れていき、それを止めると満足そうな笑顔を見せて告げる。


「よし、やめ。立っていいぞ」


 要はゆっくりと立ち上がり、「ふぅ」と一息つく。額は汗で少し湿っていた。


「大したもんだ。一年間でよくぞここまで練り上げたのう」

「……じゃあ俺の体には筋肉の『繋がり』がちゃんとできてるってこと?」

「おうとも。両腕、両肩、腰背部、命門、下半身、全て『繋がり』が出来ておった。よく頑張ったなカナ坊。これならすぐに次の修行へ進めるぞ」

「よし来たっ。じゃあ早速始めようぜ」


 要は詰め襟のボタンを外そうと手をかけるが、易宝に制された。


「いや、今日はやめておこう」

「ええっ? なんでだよー?」


 不満そうな声を出す要の格好を見て、易宝は言う。


「せっかくのおろしたての制服を土と汗まみれにしたくはないだろう? 明日から動きやすい服装を持ってきて、それに着替えてやるといい――あ、そうだ忘れとった!」


 何か思い出したように声を張り上げた易宝は、居間を出て玄関へ行く。さらに階段を上り、しばらくすると手に黒い布と靴一足を持って降りてきた。


「ほら、入学祝いだ。受け取るがいい」


 要のもとまで来ると、易宝はまず黒い布を投げて寄越した。

 それをキャッチする要。少しザラザラした手触りのそれは折りたたまれていたので、広げてみると、それは黒いかぼちゃパンツのようなズボンだった。


「これは?」

「カンフーズボンだ。頑丈で通気性のいい混合繊維でできていて、ゆったりしているから足も動かしやすい。練習の時はそれを履くといい。あと、これもやろう」


 易宝はもう一つ、持っていた靴一足を要に手渡す。

 全体的にツヤのある革製の靴で、楕円形の履き口がある甲部は黒く、そして茶色いソールは薄く、しかしとても硬い。


「カンフーシューズだ。カンフーズボンと同じく、練習の時はそれを履いてやるといい。普通の靴より底が薄いから、地面からの力を手に伝えやすいぞ。普通なら布オンリーでできたもんだが、こいつは硬い革製だから恐ろしく頑丈だ。ソールが硬いから蹴りの力が相手に痛々しく伝わるし、よっぽど粗末に扱わん限り十年は持つだろうよ」

「へぇー……ありがとう、師父!」


 要は誕生日プレゼントをもらった子供のような笑顔で、二つの品を胸に抱えた。

 そんな要を見て、易宝はほっこりした表情を浮かべてウンウンと頷く。


「よしよし、子供らしい反応でよろしい。さて――最後に一つ聞こうか」

「えっ?」

「カナ坊――おぬしはなにゆえ、崩陣拳を求める? 去年おぬしは「弟子にしてくれ」とわしに言った。その言葉を生み出した感情とは、一体どのようなものなのだ?」


 易宝の顔からは、先ほどまでの柔らかい雰囲気が消えていた。荘厳で、なおかつ誠実さを感じさせる表情。

 真面目な問いであると、要はすぐに読み取れた。

 

 ――決まっている。


 要は、去年の冬のことを思い出す。

 あの時、自分は無力だった。

 あの茶髪男――小畑(おばた)たちを前に、自分はただサンドバッグを演じるしかなかった。

 だが自分は何も悪くない。自分はただイジメに立ち向かっただけだ。殴られる理由なんかないはずだ。

 正義は明らかに自分にあったはずなのに、それを暴力で封殺されたのだ。

 悔しかった。無力な自分が。悔しくて情けなかった。


 要は、明確な意思を持って答えた。


「――強くなりたいから。もう去年みたいな目に遭わないために」


 そう。自分は無力で、そしてそんな自分が嫌だった。

 だから――強くなりたいと思った。

 自分の敵くらい自分で倒せるようになりたいと。

 もうあんな惨めな思いはしたくないと。


「だから師父――明日から、マジでよろしくお願いしますっ!」


 要は手に靴とズボンを抱えたまま、深々と頭を下げた。


 目に映っているのはフローリングの床。易宝は自分の答えを聞いて、どんな顔をしているだろうか。

 そっと、自分の両肩に優しく手が置かれる。易宝の手だ。

 そしてその手によって、ゆっくりと顔を上げさせられる。

 すぐ目の前には、穏やかな笑みを浮かべた易宝の顔があった。


 易宝は、その表情に違わぬ穏やかな声で要に告げた。


「いいだろう。約束だからな。教えると言った以上、わしの知っているものを包み隠さず教えよう。だが、これだけは言わせてほしい。わしはおぬしの師だが、それは武術を教える時だけだ――それ以外の時は、できればわしを師だと思わないで欲しい。一回り以上年の離れた友達か、もしくは兄貴かなんかだと思って接して欲しいのだ」

「……うん」


 要がこくりと頷くのを見ると、易宝は表情をニカッとした笑みへと一転させる。

 そして要の背中をバシッと張り叩き、明るい口調で言った。


「ようし! 今日は入学おめでとうということで、パーッと茶会でもやるとするかのう!」

「そうだな…………よし、やろうぜ!」

 

 易宝は台所へ行ってケトルを台座から取り出すと、茶器セットの一つ「蓋碗(がいわん)」のフタを開く。

 片手に持つケトルを高く掲げ、中にこんもりと入った茶葉に向かって叩きつけるようにお湯を注いだ。蓋碗の周囲に飛沫が飛ぶ。


「なんか右○さんみたいな注ぎ方だなぁ」

「これか? これは「高冲低筛ガオチョンディーシャイ」という注ぎ方でのう、高くから湯を叩きつけるように注ぐことで、茶葉に空気が入って開きやすくなるのだ」

 

 へー、と要は関心したような声をもらす。


 

 ――――そんなお茶談義に花を咲かせながら茶を楽しむことで、易宝養生院での初日はあっという間に過ぎていった。




 おかげで、お茶に関する知識がいくつか増えた。

読んで下さっている皆さん、ありがとうございます!


次回から、とうとう修行開始です。

嗚呼、早くバトル書きたいナ……

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