第十五話 向けるべきものは……
鳥たちがさえずりながら空を舞う。
春特有の控えめな陽光が適度に地上を温め、桜の木の枝から切り離された薄桃色の花弁が、爽やかな春風に運ばれて学び舎の敷地へひたりと優しく落ちる。
その花弁は、時に女子生徒の長い髪に絡みつき、それを友達に苦笑しながら払ってもらうという微笑ましいワンシーンの演出に一役買っていた。
春の終わりを間近に控えたシオ高の朝の風景は、爽やかという形容詞にふさわしいものだった。
だがその校舎裏には、そんな爽やかさとは程遠い光景が広がっていた。
「はぁ……はぁ……はぁ…………」
鹿賀達彦は汗と土埃にまみれた姿で、息切れしながら仰向けに倒れていた。
そんな達彦を、傷どころか汚れ一つ付いていない格好で見下ろしている要。
達彦との闘いが始まってから、すでに十分近く経過していた。
要の『展拳』がクリーンヒットしたことで達彦はその痛みでうずくまり、これで終わりかと思いきや、なんと達彦は苦痛をこらえながら再び立ち上がり、自分に襲いかかってきたのだ。
確かに根性はあるが、結局それは悪あがきの域を出ない、なけなしの抵抗に過ぎなかった。ただでさえ動きの鈍い達彦の攻撃は、要の突きのダメージの影響でさらに遅くなっていて、避けるのは簡単。すぐさま反撃に『開拳』を打ち込んだ。
ただでさえダメージのでかい発力を二回も食らい、流石にもう立てないだろうと思ったが、その考えは見事に外れた――また立ち上がったのだ。
そこから先はまるでループだった。スローボールのような攻撃をかわし、こちらがすかさず反撃を与えて倒れるが、再び立ち上がる。そしてまた最初のルーティンに戻り、繰り返す。
倒れていれば楽だというのに、達彦は不気味に思えるほど、何度も何度も立ち上がって見せた。
だがそろそろ限界のようだ。最後に打った攻撃で倒れてから、達彦はまだ大の字のままだ。もう立ち上がる気力も残されていないのだろう。
自分は勝利したのだ――この男に。
この辺りで恐れられている悪者を。
自分を散々殴ってくれた相手を。
要は無傷で叩きのめしたのだ。
どうだ見たか。ざまぁみろ。いい気味だ。要は未だにダウンしたままの達彦を見つめて溜飲が
――――下がらなかった。
それどころか、果てしないほどの虚しさすら感じてしまっている。
達彦の攻撃を楽に回避し、相手への接近も自力でやってのけ、そして一撃を叩き込む。前回のケンカでは望むべくもなかった快挙だ。
確かに嬉しかった。楽しかった――最初は。
胸のすく思いだった自分の優勢ぶりも、達彦に発力を加える回数が重なるにつれて虚しい気持ちへと変化していった。
相手は周囲からはっきりと「悪党」と定義されているような男。自分だってこいつに散々痛い目を見せられた。ズタボロにした挙句踏みつけにでもすれば、ある種のカタルシスを得る事はあっても、虚しさなど感じる理由があるのか?
――いや、本当は分かってる。
この虚しさの正体。
目を背ければ楽かもしれない。
だが自分が今までの人生を「工藤要」として過ごしてきたと胸を張って言うのなら、目を背けてはいけない――いや、背けたくない。
――――これは、いじめだ。
圧倒的な暴力をもって、弱いものを痛めつけ、痛めつけ、そしてまた痛めつける。勝敗を疑うべくもない勝負を嬉々として続行する。
これをいじめと呼ばずに何と呼ぶ? 言ってみろ。要は自分自身を責め立てる。
今日のこの時までに、自分の歩んできた軌跡を振り返る。
――要は昔から、いじめのターゲットにされ易かった。
始まりは小学校低学年の頃だ。
その頃の要は、今よりもずっと気弱で、おどおどした態度の目立つ子供だった。口調も今と違ってずっと大人しめで、一人称は「僕」。
そんな性格に加えて、女の子のような綺麗な顔立ち、華奢な体つき、そして「要」という、女でも十分通用しそうな名前。嫌がらせの好きな連中に目をつけられる要素は揃っていた。
「工藤くんて女の子みたいで可愛いよねー」というクラスメイトの悪意なき一言が悪ガキ達の間で大ウケして以来しきりにからかわれるようになり、それがエスカレートする形でいじめへと発展していった。
「やめてよ」と言ってもやめてくれず、要は毎日泣きべそをかきながら一人で下校していた。当時は男らしくない姿かたちで産んだ亜麻音を、子供心に憎んだことすらある。
だから、強くなろうと思った――体は大きくないならせめて口調だけでも、と。
それ以来、要は変わろうと努力した。
弱々しい口調をやめて、乱暴な言葉遣いに変えた。
一人称を「俺」にした。
強がりでいいから、心を強く持つよう心がけ、反骨心を養った。
結果、悪ガキグループは自分をいじめるのをやめた。生まれて初めて行ったケンカは惨敗に終わったが、逃げずに立ち向かって来る自分に何か思うところがあったのか、それ以降は一切自分をいじめなかった。
それから高学年、中学校と学年が上がっていく中で、嫌な奴、見た目で自分をけなしてくる奴はいっぱいいたが、いずれも本気になって向かっていけば、ケンカの勝敗がどうであれ収まりがついた。
要はこの時の経験で知った。「心を強く持てば、なんとかなる」と。
だが、それだけじゃどうにもならない相手だっている――小畑との一件で、それを思い知った。
だから、今度は肉体的に強くなろうと思った――崩陣拳を学ぶことで。
そして今回も願いは叶った。
だというのに――この体たらくは何だ?
いじめや理不尽な暴力を退けるために強くなったというのに、今度は自分がいじめる側へ回ろうとしている。
自分は、こんなチンケな事のために崩陣拳を身につけたのか。
「ぅ…………あ……」
そんな風に思案にふけっていると、前からうめき声のようなものが聞こえてきた。
見ると、達彦が震えながら身を起こそうとしていた。
「まだ……だ…………まだ負けて……ねぇ…………」
なけなしの体力で上半身を起こした達彦は、歯を食いしばりながら要を睨み付けつつ、足も起こそうとさらに踏ん張る。
――なんでだよ。
――なんで立とうとするんだよ?
――寝てた方が楽だろ?
――もうやめてくれよ。
満身創痍の相手に恐怖のようなものを感じてしまっている。
傷つけることに対する恐怖なのか? それとも――
達彦がよろよろと立ち上がった。
やはりその足取りはおぼつかない。まるで酔っ払いだ。
にもかかわらず、達彦の顔はやせ我慢するように挑発的な笑みを浮かべていた。
「勝った気になってんじゃ……ねぇよ…………てめぇのパンチなんざ…………効きゃしねぇんだよ……」
達彦の言葉を聞き、要は落雷に打たれたような強いショックを受け、そして確信した。
そうか……こいつはきっと――俺に似てるんだ。
どんなに理不尽に殴られても、蹴られても、ボロボロにされても、それを負けだと思わず何度も立とうとする、去年の自分に。
今の達彦の姿、そして台詞が、そんな自分とダブって見えたのだ。
益体もない、愚にもつかないケンカ。そんなものにどうしてそこまで体を張ろうとするのかは分からない。
でも、やられてもやられても立ち上がって向かって行こうとするその姿は――とても自分だった。
ここで続行すれば、自分は小畑と立場が同じになる。そう――今のコイツを打ちのめす事は、自分の軌跡を否定する事と同義なのだ。
――今のこいつに向けるべきは、拳じゃない。
するべきことを見つけた要は、達彦を真っ直ぐ見据え、歩みを進めた。
達彦はそんな自分に備えてか、震える体でファイティングポーズを作るが、痛みでよろけたことでそれは崩れてしまう。
その隙に要は一気に近づき、達彦の目の前まで来た。泥まみれな顔が目に大きく映る。
要が片腕を動かすそぶりを見せると、達彦はキュッと目を食いしばる。
そして、要は突き出した。
――手のひらを。
「…………え?」
目を開けた達彦は、自身の目の前に差し出された手のひらを不思議そうに見つめてから、その主である要に目を向ける。
要は達彦の目を見て、にっこりと微笑んで、
「――鹿賀、もうやめよう」
「は……?」
達彦は目を丸くした。
要はさらに続ける。
「俺もお前も精一杯やった、それでいいじゃんか。憎み合うのはこれでお開きにしようぜ? お前となら、仲良くできそうな気がするんだ」
そう、こいつが自分に似ているというのなら、友情だって築いていけるかもしれないんだ。
少年漫画でありがちな、手垢が付きまくった展開でもいいじゃないか。
いがみ合う以外の関係性を作る道が残されているのだとすれば、自分はそれを選択したい。
綺麗事かもしれない。
でも、永遠に憎しみをぶつけ合う関係を続けるくらいなら、こっちの方がいいに決まってる。
「………………」
達彦は呆けた顔で、差し出した手と要の顔を交互に見る。
だがしばらくすると達彦の表情は強い険を帯び、
「人を馬鹿にするのも大概にしろっっ!!!」
校舎裏全体の空気が揺さぶられるほどの怒声を上げて要の手を強く払い除け、親の敵でも見るような憎悪の視線を向けた。
その視線に要はゾクリ、とする。さっき闘っていた時でも、これほど剣呑な視線は向けられなかった。
それに払われた手が痛い。ボロボロのはずなのにこれほどの力。何らかの強い感情が読み取れるようだ。
達彦は痛む体を引きずり、要の横を通り過ぎる。
「お、おい鹿賀――」
「っせぇ!! 話しかけんな!!」
明確な拒絶。要は何も言えなくなる。
達彦はそのまま重々しい足取りで曲がり角を曲がり、校舎裏から去って行った。
ホームルームの開始を告げるチャイムの音が高らかに鳴り響く。
要は払われた手の痛みと、拒絶された心の痛みを同時に抱えながら一人立ち尽くしていた。
その後、要は暗澹たる気分を抱えたまま教室へと戻った。ホームルームには見事に遅刻していた。
待っていたのは担任の注意と、クラスメイトたちの心配そうな視線。
達彦の席へ目を向けた。空席。
一時限後にも、二時限後にも、それ以降にも――その席が埋まることはなかった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
ポッキーの日に投稿です。
だから何? とか言わないでネ。