第十三話 達彦の歪んだ決意
午前八時。
潮騒町駅前に真っ直ぐ伸びる大通りには、桃色の花弁が大量に散乱していた。歩道の端で等間隔に立つソメイヨシノの木がすでにその花を散らし、黄緑色の初々しい若葉をその枝に付け始めているのだ。
散らばった花弁は道行く車や人々に散々踏まれたことでペシャンコになり、アスファルトに張り付くゴミと化しているのだから、風情もへったくれもない。
そんな早朝の歩道を、工藤要は額に汗をにじませながら歩いていた。
学ランに手提げの鞄。学生姿の要は登校の途中だった。
少し見回すと、同じ制服を着た男女がちらほら歩いているのがすぐに目に付く。
しかし、皆は要のように汗はかいていない。駅からここまでの道は起伏がなく平坦であり、おまけにまだ暑いといえるほど気温も高くない。
汗ばむ要素が見当たらない――普通に登校していたならば。
要はふと足を止めた。
前に人が歩いていないことを確認すると、近くの桜の木の幹に鞄を置く。
そして、両足をそろえてまっすぐ立つ。
右足に重心を乗せて、背中とともに大きく曲げて縮こませる。
右拳を上に向け、みぞおちの前に構える。
「――『展拳』」
吐く息に合わせて右足と背中の屈曲を同時に伸ばし、それに合わせて右拳も上げていく。それらの動作が終わるとともに、垂直に突き出された右拳が重い力を持つ。
だがこれで終わりではない。左足に重心を移しつつ、左拳を脇に、先ほど使った右拳を鼻先の延長線上に出して構える。次の技の準備をしつつ、急所たる顔面を打撃から守るためだ。
全体重をかけて降ろすように右足を踏み鳴らす――『震脚』を行う。
「――『撞拳』」
すぐさま右足でアスファルトを蹴って瞬発し――ただし力のベクトルがアーチ状に分散しないよう跳ねず、頭の高さを変えないまま進む――勢いよく推進。その過程で『通背』を作動させて左拳を伸ばしていき、それが終わると同時に左足の指で地を掴んで踏みとどまり、後ろの右足を素早く引き寄せる。大きく伸ばされた左拳が奥へ突っ張る力を得る。
成功したが、踏み込んだ足がややぐらついてしまう。加速状態で一気に踏みとどまるという身体操作にまだ慣れていないのだ。この技には安定した重心が求められる。
要は視線を前に保ち、そのまま左足を軸にして全身を反時計回りに九〇度転回し、両足を踏みしめ中腰となる。右拳を鼻先に、左拳を脇に構えた。
細く、だがそれでいて深く鼻息を吸い、
「――『旋拳』」
同じ鼻からの急激な吐気とともに『通背』のウエストの捻りと両足底の捻りを同時に、そして同じ時計回りのベクトルで行い、それらの螺旋エネルギーを内包した左拳を視線の先へと打ち伸ばした。拳が震えるような力を宿す。
要は両足をそろえ、両拳を脇に構えてからゆっくりと立ち上がった。
「……ふう」
一息ついて額に再び浮かんだ汗を袖で拭い、鞄を拾って歩行を再開する。
要は昨日易宝から教わった『三宝拳』を、今のような登校途中でちょくちょく練習していた。やや汗ばんでいたのはそのせいである。
新たな技を教わった喜びが一晩経っても消えず、つい練習したくなったのだ。子供の頃、欲しかったおもちゃを買ってもらった時に感じた喜びによく似ていた。
それに易宝が言うには、いにしえの武術家はこういった何気ないひと時でも技を磨く者が多かったそうだ。どんなに子供じみた理由であれ、練習するのはいいことだろう。
武林――すなわち中国の伝統的な武術の世界では、武術の時間と日常生活を区別して考えない。昔の人は、農作業などへ出かけるまでの道のりの最中に拳を練っていた者が多かった。武術を食事や睡眠と同じく、生活の一部として取り込んでいたのだ。
だがそれは逆に、一日二十四時間全てが戦いであったともいえる。
治安のよろしくない時代を生きた昔の武術家はとても猜疑心が強く、常在戦場という考えが色濃かったらしい。ゆったりとした服の中に武器を隠し持つなんてことはザラで、見知らぬ赤の他人の差し出した茶や酒に一口も付けなかったり、いつでも足の力を使えるよう椅子には半面しか座らなかったりなど。
常在戦場……普通の少年である要にとって、その四文字はひどく浮世離れしたもののように感じた。
だが、興味がなくはない。
元々ケンカの実力欲しさに拳法を始めた身だが、そのうち目指してみるのも悪くないかもしれない。なんかカッコイイし。
要はやがて校門にやって来た。シオ高の正式名称が刻まれた表札も、そろそろ見慣れてきた気がする。
大勢の生徒の波に紛れて学校の敷地へ入り、昇降口に到着。下駄箱で靴から上履きに替え終わった瞬間、背中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「よぉー、工藤。おはよー」
キンキンと耳に残る高めな男子の声。振り返るとクラスメイトの倉田が立っていた。
「おーす」
要もそれとなく挨拶を返す。
だが、すぐにあと一人が足りない事に気づき、
「なぁ倉田、岡崎はよ?」
「今日は遅れるらしいぜ」
「そっか」
要は気にするのをやめた。
倉田が上履きに履き替えるのを待ってから、教室までの道をふたり並んで歩く。
その最中、昨晩の映画が面白かったとか、今日の数学がダルいなど、とりとめのない会話に花を咲かせた。
そして教室まであと一階という距離まで階段を登ったところで、倉田はやや緊張味を帯びた口調で訊いてきた。
「なあ工藤、お前最近鹿賀と会った?」
と。
「鹿賀って……鹿賀達彦だよな。会ってないけど」
「そっか……ならいいんだ」
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
要の問いに、倉田は少しばかりこわばった顔で答えた。
「――あいつ最近、かなり荒れてるらしいんだ」
「荒れてる?」
「ああ。ここ一週間で、他校の生徒との暴力沙汰を何度も起こしてるらしい」
「でもあいつ有名な悪者なんだろ? そんくらい普通じゃないのか?」
「まあそりゃ、ケンカはよくするけどさ、最近の暴れ様は結構ひどいらしいぞ。肩が軽く触れただけで即バトルモードだって話だ」
「確かに……そりゃちょっとひどいな」
まるでヤンキー漫画の世界だ。
倉田は心配そうにこちらを見つめ、
「気を付けろよ。もしかすると、またケンカ売られるかもしれないぞ」
「お、おう……」
マジな感じで訴えてくる倉田に、若干気圧されながらも頷いた。
だが一方で要は思った。
今の自分が――達彦相手にどれだけ通用するのか、と。
――――そして、それを確かめる機会は、遠くないうちにやって来ることになる。
◆◆◆◆◆◆
朝の校門の中へ歩いていく、多くの生徒たちの表情は十人十色だった。
めんどくさそうな顔、眠そうな顔、楽しい事を待つような顔…………あらゆる感情が見て取れるようだ。
その中でも、特に希望に満ちた表情を浮かべている者の割合が多い生徒たちがいた。一年生だ。
彼らは皆、高校へ入学してまだ日が浅い。高校生活に関して知らない事がいっぱいある分、それを知る楽しみがあるのだろう。
だがそんな一年生の中にも、希望とは対照的な面持ちの男子が一名いた。
鹿賀達彦。
ジャケット代わりに羽織った学ランに赤いTシャツという、一年生の初々しさの欠片も感じられない格好の大柄な男子は、陰鬱さと苛立ちが混合したような、暗く、それでいて斥力のように周囲を寄せ付けない険しい表情を浮かべていた。
校門をくぐってすぐのところで、向かい側から歩いてきた誰かと肩がぶつかる。
「ってぇな! 気ィつけろタコ!!」
達彦の胸をどす黒く覆う負の感情は、そのささいな外的刺激によって火薬のように弾けて怒号を上げさせた。周囲の視線がこちらへ集中する。
そのまま相手の顔も見ずに通り過ぎようとすると、そのぶつかった相手が自分の肩を掴んで進行を止めた。
「おい、ちょっと待てよ」
自分の肩を掴む手のある方から、そんな非難がましい声が耳に入る。
見ると、自分ほどではないがそこそこ背が高く、引き締まった体格の男子生徒が達彦を睨んでいた。いかにもスポーツマンといった感じだ。
「先輩に向かってその口の聞き方は何だ? ええ!?」
その男子は責めるような、咎めるような強い語気で言い放ってくる。
達彦はイラッとして、
「うるせぇよセンパイ。殺すぞ」
「なっ!? なんだ貴様その態――」
そこから先は続かなかった。言い切る前に達彦が勢いよく振り出した拳を顔面にモロに受け、一瞬宙を舞ってからゴミ袋のようにドサリとコンクリートの地面に落下。
その男子は鼻から渾々と鮮血を垂れ流し、その場に横たわってのびていた。
周囲がシン、と静まり返る。
「黙れないなら死ね」
達彦はそう吐き捨てて再び歩き出す。
進む方向に立っていた生徒たちは、達彦が来るやいなや怯えた顔で道を開いた。右に倣えでそれが続いて、あっという間にモーセの十戒のごとき広々とした通路が形成された。
達彦はその道をいつもの歩調で歩く。
この光景に、いつもの達彦なら多少胸のすく思いを抱けるはずなのだが――今はどういうわけか一ミリも喜べなかった。
ホームルームまであと二十分という長い間があったので、達彦は自販機で缶コーヒーを買ってから校舎裏へ足を進めていた。
達彦は暇な時、校舎裏で何もせずにボーッとしている。あそこにはほとんど誰も来ないから、一息つくのに最適な場所だ。
やがて、校舎裏に続く曲がり角が見えてきた。
曲がり角はだんだん視界に大きく映っていき、あと数歩先という距離にまで近づいた時――声が聞こえてきた。
声は全部で三種類。全て男子の声。
しかも、全て聞き覚えのある声だ――入学以来、自分の後をついて回っている三人だ。
曲がり角の向こう側にいるであろう三人は、時々ギャハハと品のない笑いをしながら駄弁る声をこちら側へ響かせてくる。
達彦は軽く嘆息する。
校舎裏は安息のひと時を過ごせるベターな場所だが、時々あの三人が先回りしている。そうなった時は大体、気を休めるどころではなくなる。
どうしたもんかと考えていると、
『俺最近思うんだけどさ――鹿賀って噂ほど大した奴じゃないんじゃね?』
曲がり角から聞こえてきたその声に、達彦は手に持った缶コーヒーを落としそうになる。
――え?
――今、何て?
――何て言ったんだ?
――よく聞こえなかった。もう一度言ってくれ。
だが、残念ながらきっちり聞いていたし、内容も覚えている。
――鹿賀って噂ほど大した奴じゃないんじゃね?
間違いなく、あの三人の中の一人の声で紡がれた言葉。
だがいつものように「鹿賀さん」ではなく「鹿賀」と普通に呼び捨てており、その上で自分を明確に否定している。
『だよなだよな! 俺も実はそう思ってた』
『鹿賀の奴、実はそんな強くねぇんじゃねぇのか? いわゆる噂先行ってやつじゃね?』
他の二人も最初の奴と同様、軽い調子で自分への陰口を吐く。
『入学以来、別段スゲェトコ見せてもらってねぇしな。ただそこらのヤンキー一人二人ぶちのめしただけだったし。そんくらい俺らにもできるっての』
『少しタッパでけぇからって威張りくさりやがって』
『ホントだよ。威張りてーならもっと大したトコ見せてから威張れってんだ。何が「血染めの鹿賀」だよ、デクノボーが』
――上等じゃねぇか。
へつらってたのは表面上で、腹の中じゃそんなこと考えてやがったのか、あのコバンザメ共は。
半殺しにして後悔させてやる。静かな激情を抱いた達彦は拳を握り締めて曲がり角へ足を進めようと――
『ましてや――あのチビにぶちのめされといて、よくあんなデケー顔できるよな。面の皮何センチだっての』
――した時に聞こえてきたそのセリフに、達彦の足が止まる。
「あのチビ」という代名詞。それが誰を意味するのかを達彦は知っていた。
『ぶちのめされた後でも、俺らが変わらずマンセーしてやってんからいい気になってんじゃねぇの? だとしたら笑えんぜ。「鹿賀さまー、鹿賀さまー」ってか!? ハハハハッ!』
『というかさ、工藤要ってったっけあのチビ。あいつ結構強いんじゃね?』
『流石にそれはねぇだろ? 鹿賀がカスだっただけで』
『いや、噂じゃあいつ、拳法だか空手だか習ってるらしいぜ』
『マジかよ? 「アチョー」とか「ホアタァー」って奴? じゃあ結構強いんじゃねーか?』
『わかんねーけどよ、もし強かったらいつかあのチビッ子と「お友達」になってからよ、鹿賀の野郎をぶっ殺してもらうってのはどうよ? あのチビ単純そうだからさ、口八丁並べりゃ上手いこと動いてくれそうじゃね?』
『フハハハ、お前アッタマいー! 現代の諸葛孔明!』
『よせやい』
話し声を聞いているうちに、達彦の四肢がブルブルと小刻みに震え出す。
そうさせている感情は、陰口を叩かれた事に対する怒りだけではなかった。
『すごいなあ――は。またコンクールで優秀賞取ったのか』
『まったく、それに比べて――』
心のダムに亀裂が走り、忌まわしい記憶の濁水がちょろちょろと漏れ始める。
だが渾身の気力で、その亀裂を無理矢理塞いだ。
「――――くっ!!」
ヒビが入らんばかりに歯噛みする。
曲がり角から姿を現し、三人を叩きのめすのは容易な事だった。
だが達彦はどういうわけか――今いる場所からこれ以上進むことが出来なかった。
結局、達彦にとれたのは――聞かなかった事にしてその場を後にするという、情けない選択肢だけだった。
昇降口にて。
達彦は飲み干した缶コーヒーの空き缶を、自販機の横に並んだゴミ箱に向かって乱暴に投げつけた。
遠い距離から苛立ち任せに投げた缶は、空き缶用ゴミ箱の淵に直撃して回転しながら宙を舞い、飲み残しをばら撒きながら隣の燃えるゴミ用のゴミ箱に入った。
空き缶用を狙ったはずなのに――思い通りにならなかった結果に達彦のイライラはさらにエスカレートし、手近な下駄箱の蓋に拳を強く叩きつけた。拳の当たった場所を中心に大きく凹みができる。
その音で、周囲にいた他の生徒がいっせいにこちらに視線を移すが、
「見せモンじゃねぇんだよ! 消えろ!!」
鋭い剣幕で怒鳴りつけると、皆そっぽを向いていそいそと各自の行動を再開した。
達彦は自身の拳を見つめ、切歯する。
不良。ヤンキー。悪者。チンピラ。クズ。
自分は中学時代、そういったいろいろな呼ばれ方をするクソ連中をこの拳だけでねじ伏せ、従わせ――そしてそいつらの王様になった。
普通な奴はひと睨みで黙らせられ、不良は一発顔面を殴れば地に膝を付いて鼻血を垂らし、抵抗をやめて「もうやめてくれ」と懇願する。
そしてそれは高校に入っても変わらないと思っていた。実際、入学早々、自分の噂を知っていた三人の不良が軍門に下ってきた。しょっちゅうついて回られるのはウザったいが、順風満帆だと感じた。
自分は今までどおり、クズの中の王様として君臨できる――はずだった。
あいつが――工藤要が現れるまでは。
あいつは今まで殴り合ってきた敵の中でも、ダントツに体格が貧相だ。牽制のジャブひと振りでKO勝ちという青写真がはっきりと脳内に浮かんだ。
だというのに、あいつはボロボロになった末自分に勝利した――パンチ一発で。
そのせいで、軍門に下ったあの三人が、自分の実力に不信感を抱いている。あんな陰口を叩いていたのはそのためだろう。
自分よりずっと体のデカい男に負けたのなら、多少は相手が悪かったと思えるかもしれない。だが自分を負かしたのは、百六○センチ前半ほどのチビだ。それが連中の失望に拍車をかけているのだろう。
このままでは――――自分は最強ではなくなってしまう。
達彦は要に負けてから、そんな強迫観念にずっと苦悩していた。
自分にとって、腕力こそが絶対の、そして――唯一の取り柄なのだ。
そう豪語していたにもかかわらず――自分は負けた。
このままでは、周囲の評価が変わってしまう。「鹿賀達彦は、小柄な男子のワンパンで倒れるような雑魚である」というイメージを周囲の人間に残してしまう。
そうしたら最後。自分は何の取り柄もない有象無象と化してしまうだろう。
――そんなのは嫌だ。
そんな自分から、いったい何の価値を見出せばいいのか。
「二度目」は、きっと無い。
ならば、どうするか?
その答えはすぐに出た。
――もう一度工藤要と闘い、そして叩きのめすこと。
冷静になって考えれば、簡単なことだった。
元はといえば、あいつと関わってから狂いだしたんだ。
ならばその狂いを正す役目も、あいつにやって貰わなければこちらの気が収まらない。
そもそもケンカの弱い奴が、百戦錬磨の自分に一発で勝利する? そんなのおかしい。
ラッキーパンチに決まってる。
マグレ無しなら俺の方が絶対に強いはずだ。
先ほどまで胸中を支配していたイライラが嘘のように消える。明確な目的を得たからだ。
完膚なきまでに打ちのめしてやる。
達彦は嗜虐的な笑みを浮かべて、迷いのない足取りで自身の下駄箱へ向かった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
書いてる途中、原因不明のスランプに陥りましたが、なんとか次の話を出せてホッ、て感じです。