第三十一話 右手
倉橋菊子は、「川」の前にいた。
ひどく殺風景な場所だった。曇天のように空が灰色になっており、周囲の所々には濃い霧が雲みたいに漂っていた。
そんな場所に、膝まで浸かるかどうかという浅さの川が、右から左へせせらいでいた。
その水は、不気味なほど透き通っている。水中に転がっている石ころの一つ一つがハッキリと見通せる。窓ガラスみたいだ。
周囲に立ち込める濃霧のせいで、その川の果てが見えない。しかし、向こう岸の様子は、おぼろげながら見渡せた。
「ここは……どこ?」
菊子はそう呟く。
見覚えの無い場所だ。
どうやってここへ来たのかさえ、思い出せない。
ここは何処だろう?
なんで自分はこんな所に立っているのだろう?
けれど、何か、大切な事を忘れているような気がする。
それは、自分がここにいる理由と、何か関係があるのだろうか?
疑問が更なる疑問を呼ぶ。
ひとまず、歩きながら周囲を観察する。
けれど、いくら見回しても、同じような殺風景な景色が広がっているだけだった。
観察をやめようかと思ったその時、向こう岸に立つ人影が目についた。
その姿をはっきりさせようと、歩を進める。
「えっ……?」
我が目を疑った。
そこには、いるはずのない人物が立っていたのだ。
厳しい表情の跡である皺が刻まれた、体格の良い老紳士。
菊子は、自然と呼びかけていた。
「……おじいちゃん」
——倉橋菊一文字。菊子の祖父だった。
戦後の焼け野原から倉橋インダストリーを創立して、それをたった一代で巨大企業へと成長させた、機械産業界の豪傑。
自他問わず非常に厳格な性格と、刃のように鋭い眼力と経営手腕から、「倉橋の一本刀」と畏怖されたそうだ。
けれども、菊子に対しては優しいを通り越して甘々だった。時間があれば必ず菊子に会いに来て、一緒に遊んでくれた。誕生日になると、子供心でも申し訳なく思えるほど高いおもちゃを買ってくれた。
父とは、憎まれ口を叩き合いつつも、互いを認め合い高め合う親友のような間柄だった。
そんな祖父が先立ったのは、菊子が中学二年生になった頃の話だ。心電図が一本線になるまで、最期まで手を握って見送ったのは今でも忘れない。
悲しかった。会いたい人にもう会えなくなる苦しみを、あの頃初めて味わった。
「おじいちゃん! おじいちゃんなんだよねっ!? わたしです、菊子ですっ!」
けれど、その会えなくなったはずの人が、目と鼻の先にいる。
嬉しい。目にも涙がにじんでくる。
抱きしめたい。あの大きく厚い胸板に顔を預けて、再会の喜びに浸りたい。
その思いのまま、菊子は川を渡ろうとして――降りる寸前で止まった。
「おじい……ちゃん?」
祖父が、とても悲しそうな顔をしていたからだ。
「どうしたの、おじいちゃん?」
どうして、そんな顔をするの?
せっかく、また会えたんだよ?
わたしは、嬉しいよ?
おじいちゃんは嬉しくないの? 本当は、わたしが嫌いだったの?
あらゆる思いが胸中に渦を巻く。
その思いは、踏みとどまっていた菊子の足を川へ降りさせようとした。
右手を、掴まれた。
「えっ?」
再び菊子の足が止まった。
後ろから引っ張られた右手によって、進行を阻止された。
振り向く。
こちらの右手を、自身の右手で掴んでいる人影が立っていた。
その顔や具体的な出で立ちは、濃霧に阻まれて視認できない。
その背丈は、菊子とほとんど差がない。それくらいしか分からなかった。
「あなたは……だれ?」
ぼんやりとした顔で、そう問いかける。
けれど、自分は知っていた。
この手の感触。
体温。
乱暴にならない力加減から感じ取れる、優しさの匂い。
知っていた。
この手をしている人は、世界中で一人しかいない。
これは、自分が慕ってやまない人の手だ。
「彼」にどうしようもないくらい恋焦がれた自分には、それがすぐに分かった。
その手の感触と一緒に、「大切な事」を思い出した。
――帰らなくちゃ。
自分には、帰る場所がある。
帰りを待っている人がいる。
その人に会いたい。
帰らなくちゃ。
再び、川の向こうの祖父へと向き直った。
「ごめんなさい、おじいちゃん。わたし、まだこの川は渡れない。まだそっちにはいけない」
申し訳ない気持ちでそう謝る。
「会いたい人が、一緒にいたい人がいるの」
そう告げると。
祖父は、やっと満面の笑みを浮かべてくれた。
瞬間――世界が真っ白に染まった。
さあ、目覚めよう。
◆◆◆◆◆◆
「んっ……」
強く脈打つような触覚とともに、要は目を覚ました。
その触覚は、今なお眠る菊子の右手を握る、自分の右手から感じた気がする。
おぼろげな世界が明瞭になるにつれて、今の自分の状況を再確認した。
今、要は東廂房の中にいた。
すでに夜にとっぷり浸かっており、部屋は暗闇に包まれていた。窓から差す淡い月光が、かすかな明るさを与えている。
携帯で時刻を見る。夜中の二時と表示されているが、ここは中国なので時差の一時間分減らして考え、午前一時と判断。
自分はいつの間にか、眠る菊子の傍らで爆睡してしまっていたらしい。
さらに、ここに至るまでの経緯も思い出す。
易宝は転霖の解毒剤を使い、菊子と要を治療した。
その効き目は、要にはすぐに出た。まだだるさは残るものの、どうにか動くことができるようになった。易宝によると、一日もすれば満足に動けるようになるらしい。
菊子にも効いた。しかし、目が覚めるまでしばらくかかるとのこと。
要は、眠る菊子の傍らで、その目覚めを待つことにした。
もう毒は治ったとは聞いた。
けれど目を離すと、菊子はどこか知らない場所にふらりと消えてしまうかもしれない。そんな根拠のない不安を感じたのだ。
今、自分と菊子の右手同士をつなぎ合わせているのも、彼女がどこかへ行ってしまわないようにするためだ。
そうしている最中に睡魔が遅い、いつの間にか寝入ってしまっていた、というわけだ。
月光に照らされた菊子の顔を見つめた。淡い白光は彼女の白皙の肌をいっそう神々しく引き立てている。吸い込まれそうなほど、美しい。
「……キク」
要は無意識に、菊子へ身を乗り出していた。
その頬へ触れる。真珠のようにすべすべしていて肌触りが良い。それに温かい。命の息吹を感じた。
桜色の唇。
要の鼓動が高鳴る。別にランニングしたわけでもないのに心音が早まり、息切れしたみたいに苦しい。けれど嫌な苦しさではない。甘い、心地よい苦しさ。
それは誘拐事件の時、廃工場の中で感じたのと同じ感覚だった。
今、ようやく、それが恋の感覚であると自覚した。
桜色の唇が、ピクリと動いた。
「んんっ……」
菊子は、寝帰りを打つようなうめきをもらした。
閉じられた長いまつげに、動きが見えた。
ゆっくりと、瞳が開かれていく。
「かな……ちゃん?」
その黒く澄んだ瞳に要の顔が映ると同時に、菊子がそう言った。
目を覚ますまでの一部始終を目にしていた要は、たまらない嬉しさに駆られてさらに身を乗り出した。
「キクっ! 目が覚めたかっ!?」
「きゃっ……?」
だが起き抜けに急接近されたことに驚いたのか、菊子は肩を震わせた。
「あっ、ご、ごめん」
「う、ううん。いいの。それより……わたし、どうしてこんな所で寝ちゃってたんですか?」
可愛らしく小首を傾げて疑問を表現する菊子。
要はこれまで何があったのか、包み隠さず話した。
菊子は知らぬ間に命の危機が降りかかっていた事実に目を丸くするが、すぐに受け入れたのか、落ち着きを見せた。
「そっか……なんか、ごめんね」
「謝ることないだろ」
「だって、またカナちゃんに助けられちゃったもん。わたしがあの時庇って助けたつもりだったのに、逆に迷惑かけちゃった……本当にダメですね、わたし」
「いいんだよ、そんなことっ!」
要は声を荒げ、繋いでいた右手へさらに左手を握り重ねた。
「言っただろ。俺たちの関係は未来永劫続く、ずっと一緒だって」
「……カナちゃん」
菊子は呆気にとられたように目をぱちくりさせると、繋がれた二人の右手に視線を移した。
菊子の顔が、花が咲くような笑みを作った。
「そっか……カナちゃんが、そうやって捕まえててくれたんだ」
「え?」
「わたしね、「川」を見たんです。その川の向こう岸に、中学生の頃に死んじゃったおじいちゃんがいたの。そんなおじいちゃんの所に行こうとしたわたしを、「誰か」が止めてくれたんです。顔は見えなかったけど、手の感触で、それがカナちゃんだってすぐに分かりました」
「キク……」
「それを知った時、わたし、すごくすごくうれしかった。カナちゃんはこんな所でも、わたしを助けに来てくれるって分かったから。カナちゃんは、わたしにとってのヒーローだって、改めて分かったから」
ひたすらに要を信じ切った目を、まっすぐ向けてくる。
それに当てられた要は、あのお守りの事を思い出した。
いよいよもって、たまらなくなってしまった。
「――キクっ!!」
要は菊子を抱きしめた。
菊子はびくっとしたが、すぐに全身を緩め、体重を預けてきた。
腕の中に、確かな息遣いと体温を感じる。
ああ、生きてる。ちゃんとここにいる。
たったそれだけのことが、奇跡のように感じる。
「良かった……本当に、生きててくれて……!」
「はい……」
菊子もまたこちらの背中に腕を回す。
言わなければ。
自分の想いを、この大切な女の子に伝えなければ。
要はそっと身を離す。菊子の華奢な両肩を優しく掴み、視線を合わせる。
「その、キク、聞いてほしい事があるんだけど、いいか?」
「え? うん。いいけど」
目をしばたたかせ、自然な感じで返事をした。
湧水みたいに澄みきった眼差しに真っ直ぐ見つめられ、要の体が固まった。
唇が震える。喉がこわばる。そわそわする。顔が熱い。息が苦しい。どこかに走って逃げてしまいたい。
ただ想いを伝えるだけのことが、こんなにもしんどいなんて。
けれど、今言わなければ、きっと後悔する。
要は橋の下の川に飛び込むくらいの気持ちで、口を開いた。
「――――君が好きだ」
目を見開き、息を呑む菊子。
時を凍らせたみたいに、動かなくなる。
だがやがて、ほろほろと涙のしずくをこぼしながら、はにかんでくれた。
「はい……わたしも、あなたが大好きです」
改めて告げられた、菊子の想い。
女の子の方から先に告白させてしまって、申し訳ない気持ちはあった。
けれど、今の自分の気持ちに嘘偽りはない。彼女への同情心ではなく、自分も本気で好きなのだ。
「キク……」
愛しい。目の前にいる少女が、たまらなく愛おしい。
菊子の顔が、大きくなっていく。
要が近づけているのか、彼女が近づけているのか、よく分からない。
いや、きっと、引き合っているのだ。
その流れに身を任せ、
互いの唇を、重ね合わせた。
「んっ……」
菊子の小さな息遣い。
要は彼女の背中にそっと腕を回す。菊子もまた同じように抱き返してくる。
胸の中に熱が生まれる。いつまでも溺れていたい、甘ったるい熱だ。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくして、二人の唇が離れた。甘い熱が冷め、もどかしい気持ちになる。
そのもどかしさを埋めるために、要はもう一度、ささやくように述べた。
「……愛してる」
「うん……わたしも」
幸福感でくすぐったがるような菊子の笑みを見て、互いの気持ちが、固く繋がったのを感じた。
常にキスを交わしているように、温かく、心地よくなった。
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
書き溜めはこれにて終了。
現在、最終話を書いている途中であります。
ここまではずっと頭に浮かんでいたものをスラスラ書くだけだったのですんなり進みましたが、どのように〆るのかはあまり明確には決めていなかったため、悩み中です……
恐れ入りますが、今しばらくお待ち(>人<;)
ちなみに、「この後めちゃくちゃ〜」的な事にはなっておりません(`・ω・´)
崩陣拳では健全な恋愛描写を心得ておりますゆえ、同衾はしても、それ以上に過激な展開にはなりませぬ。