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戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
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第三十話 恥辱と憧憬

次回は今日夜10時にアップします。

「ぐ……おのれ…………この俺が、負けるのか……」


 気絶しなかったのが、奇跡だというべきか。


 転霖は木立のど真ん中で、大の字で倒れていた。


 すでに夕方の空は暗さを帯び始めている。鉄さび色の空と木々の梢が織りなす明暗の対比は切り絵を連想させた。


 こんなところで寝転がっている場合ではない。早く起きて戦わなければ。


 転霖は全身に力を入れようとするが、途中で力が抜けてまた倒れてしまう。


 肉体が悲鳴を上げている。もう立ちたくない、と。


 精神と肉体が矛盾していた。転霖にはまだ戦う意思があるけれど、肉体はその意思を拒否している。


 足音がこちらへ近づいている。工藤要のものだ。


 冷や汗がぶわっと浮かぶ。マズイ、早く立ち上がらねば。


 しかし、もう立てない。


 ただ立つだけのことに四苦八苦している間に、要の足音はさらに大きくなっていく。


 その姿がはっきり見えた時には、転霖の胸中から戦意がすっきりと消えた。長年の経験で培ってきた戦闘における合理的思考が、「諦める他ない」とピリオドを打ってしまったのだ。


 やがて、自分のすぐ隣に、工藤要が到達した。こちらに負けず劣らず息も絶え絶えだが、こちらよりはまだ余裕がある。


 ……これまでか。


 左腕に宿る鈍い激痛を他人事のように感じとりながら、転霖は口を開いた。


「……殺せ」


 要は目を丸くする。


 転霖は嘲笑を浮かべつつ、続けた。


「忘れたのか? これは「死合い」なんだぞ。つまり、負けた方は死ぬ。俺を殺さぬ限り、お前の勝ちはあり得ん。……これがどういう意味だか分かるか?工藤要。お前がトドメを刺さない限り、俺は解毒剤を渡さない。あの日本人の女の命も、それまでということ」


 それは、転霖の最期の抵抗だった。


「さあ、殺せ。殺さぬ限り、俺は何度でもお前を狙うかもしれんぞ。今度は今のようにはいかない。その負の連鎖を、己の手で断ち切ってみせろ、さぁ!」


 言い募る転霖。


 対し、要は、




「ふざけんな」




 そう吐き捨てた。


「そんなに殺し合いがしたいなら、余所で好きなだけやれ。少なくとも、俺はお前の期待に添えそうにない。だからトドメなんか刺さない。それにな……」


 要は転霖の頭から爪先までを視線でなぞり、厳格に言い放った。


「お前はもう、戦えない。そんなお前に、俺はいつでもトドメを刺せる。そんな状況に追い込まれた時点で、お前はもう負けてるんだよ。——だから、俺はお前の要求を拒否する。さぁ、とっとと薬を寄越せ」


 二人の視線がぶつかる。


 こちらを見下ろす要の双眸からは、何か奇妙な光を感じられた。


 裏の世界の人間のようにドス黒くはない。しかしながら、世の汚れを知らぬ純粋な輝きとも違う。


 眺めているだけで吸い込まれそうになる、全てを見透かす神のごとき瞳。


 気がつくと、転霖は懐から解毒剤の入った筒と、一枚の紙を出していた。健常な右手でそれを差し出す。


 全くの、無意識な行動だった。


「受け取れ。お前の求めていたモノだ。これを飲ませればあの女は助かるだろう」


 要はそれを手にする。


「……急いだ方がいい。俺の毒は、あの女の体を着実に冒している。お前も毒にかかった身であるため、倒れるのは時間の問題。お前と女、どちらが生き絶えても「それまで」だ」


 コクリ、と頷くと、要は踵を返して走り去った。


 その姿が小さくなっていくのを、転霖は見送っていた。


「……あれが、「神に一番近い人間」か」


 ——憧憬にも似た光を秘めた眼差しで。


 転霖は今まで、師から日本人の野蛮さを散々説かれた。

 不潔で冷血な野蛮人だと。

 祖国の土を侵し、祖国の女を犯し、祖国の平和を冒した、犬畜生にさえ劣るヒトモドキだと。


 まるでカルガモの雛のように師に心酔していた転霖は、その話に疑問を抱かず、すんなりと受け入れた。新しい反日家の一丁上がりであった。


 しかし、あの日本人の少年は、植え付けられた反日感情など忘れてしまいそうなほどに眩しかった。


 最初は師同様、「日本人風情が崩陣拳を継ぐなど何ほどのことだろうか」という感情を少なからず抱いていた。師がそう考えるのだから右に倣え、といった感じで。


 しかし、崩陣拳を継ぐ資格のある者の特徴を思い出してみればいい。


 ――修羅に落ちない才能を持った人間。


 あの少年は、愛する女を毒牙にかけられてもなお、その才能を発揮し、自分にこうして生き恥を晒させた。


 そう。彼は立派に「資格」を持っていたのだ。


 そこに日本人か中国人か、などという問題は瑣末な事だ。


 悔しいが、認めざるをえない。


 彼こそが、次代を担う崩陣拳士に他ならない。


「老師……申し訳ありません。俺は、認めてしまいましたよ」


 果たし合いに敗北し、なおかつ生き残る。武人としては完全なる恥の上塗りである。


 しかし、転霖の表情には、どこまでも清々しい笑顔が浮かんでいた。







 ゼロコンマ数秒の暇さえ、今は惜しかった。


「はっ……はっ……はっ……!」


 疲労の激しい五体に鞭を打ちながら、工藤要は「仙人の道」を走っていた。


 今度は行きの時とは逆に、仙人像が向く方向の真逆にひたすら進んでいた。


 行きの時はあまり長く感じられなかったが、今はかなり長い道のりに思えた。


「はっ、はっ、はっ、はっ!」


 もう何個目かの仙人像。


 像を通過するたびに「まだ出られないのか」という失望感にさいなまれ、ただでさえカツカツな要の気力をさらに奪い去った。


「早く! 早く! 早く! 早く! 早く! 早くっ!」


 けれど、前に進むしかない。


 この手にある解毒剤を、一刻も早く菊子へ届けなければならない。


 いくら遅効性の毒だからといって、悠長にしていられない。いつ、菊子が力尽きてしまうのか、分からないからだ。


 要は「その時」の光景を想像する。必死に駆けつけたのも虚しく、ベッドの上で冷たくなった菊子の姿を——


「黙れ!! 黙れ!! 黙れ!! 黙りやがれっ!!」


 喚くような怒声を上げ、その最悪の想像を叩き潰す。


「くそっ!! もっと早く!! もっと早くしろよっ!!」


 懸命に己の二足に(げき)を飛ばす。


 けれど、その足がそれ以上早く動くことはなかった。疲労は、要が感じているよりずっと濃いようだった。


「ちくしょう!! ちくしょう!! ちくしょうっ!!」


 要はひたすら両腕を振った。少しでも速く前へ進めるようにと。


 自分はどうなってもいい。手遅れならそれまでだが、菊子が無事でいてさえくれれば、この薬が効くんだ。


 ——だが、運命というのはどこまでも残酷だった。


「あ……?」


 突然、骨を抜かれたような虚脱感が足に現れた。前のめりに倒れ、腕を擦りむいた。


 立ち上がる。しかしまた一瞬力が抜け、倒れてしまう。


 二度目の試みでどうにか立てたが、要はどうしようもないほどの危機感にさいなまれた。


「まさか……毒が、効いてきたのか……?」


 そう。自分もまた、毒手の一撃を打たれているのだ。それを今、思い出した。


 いくら気功術で毒の回りを遅められるといっても、それは結局、単なる先延ばしだ。


 毒は、確実に要の肉体を侵食していた。


「こんっ……ちくしょう!!」


 だからどうした。

 まだ、どうにか足は動く。

 ならば、進む以外の選択肢はあり得ない。

 自分が生き絶える時は、菊子を道づれにするのと同義。

 そんなの、冗談じゃない。


「うあああああああああっ!!」


 狂乱に近い状態で走る。走る。走る。


「このままじゃ、このままじゃあいつが死んじまうっ!!」


 止まれない。


「走れっ!! 走れっ!! 走れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 止まるわけにはいかない。


 無我夢中だった。


 どれくらい走っただろう。


 願いが通じたのか、眼前に光の点が見えた。


 その光点は要が進むたびに徐々に大きさを増していき、ついには要の視界全てを覆い尽くした。


 大樹の広場。


「やっ……やっ……や————」


 やったぞ、と叫ぼうとした時だった。


 全身から、力の一切が消失した。


 抗重力筋さえ働きを放棄し、要の体はただ前に倒れるだけの物体と化した。


「そん、な」


 やっとここまで来たのに。

 どうして、こんな所で限界がくるんだ。

 魂から気合いを搾り出すが、それでも指一つ動かせない。


 すでに要の肉体は、精神の力でどうにかできる範疇を超えてしまっていた。

 感染した天然痘やエボラウィルスを、気力だけで無毒化することはできない。それと同じく「機能的に」動けない状態。


 意識が薄れていく。


 まぶたと一緒に、世界が上から下へ閉じていく。


 ごめん。

 本当にごめん、キク。

 俺は結局、君を助ける事が、出来な——




 ガシッ。




 前に倒れようとしていた要の体が、何かによって支えられた。


 いや、これは、人間の腕の感触だ。体温も感じる。




「……よく、頑張ったな。カナ坊」




 その優しい声を聞いた瞬間、一気に目が覚めた。


 姿は見えない。けれど、疑いようもない、その声。


 要の涙腺が決壊した。


 ああ、今日は珍しく泣いてばっかりだ。


「せん……せぇ…………っ!!」


 涙声をもらす要の頭を、易宝の手が撫でた。


「お前は本当に凄い奴だ。お前はこの絶望的状況を、己の拳一つで打ち砕いたんだ。……お前が弟子である事、「俺」は本当に誇りに思うよ」

「っ!! あ、あああ、ああ、ああああああああああああっ……!!」


 師の腕の中で、みっともなく泣き叫ぶ。


 そんな自分を、易宝はただただ撫で続けた。


「だが、子供はもう眠る時間だ。後は全て大人に任せろ」


 その言葉は、まるで子守唄のように要の心へ染み入った。


 心地よい、まどろみに包まれていく。


「だから、安心して眠れ…………要」


読んでくださった皆様、ありがとうございます!


地味に書きたかったシーン。

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