第二十九話 想いの太陽
次回は、明日夜9時に更新予定。
工藤要が技の準備を始めたのを見て、許転霖も己の成すべきことを始めた。
大きな円を意識する。
その円の中心に要を置きながら、ぐるぐると円周を開始。
ただ周っているだけではない。足で地を蹴って作った力を臍下丹田へと送り、さらに丹田の縦回転によってその力を前足へ送り、踏み込ませ、その足でさらに地を蹴り、丹田に伝え、前足へ伝え、蹴り、丹田を回転、前足を前へ…………
まるで自分の両足が車輪と化し、それを転がすような意念を思い浮かべながら、転霖は仮想の円を何周も回る。
車輪と化した我が両脚の勢いは、歩けば歩くほど高まっていく。下り坂を転がり落ちるボールのように。
これこそが『金剛輪』。
形意拳の基本勁「翻浪勁」の原理を応用し、足で生み出した力を蓄積させる歩法。その蓄積させた力を攻撃力に変換する。
崩陣拳秘伝の気功術『太阳』に対抗するべく、周家拳の開祖である周若聞が編み出した秘技。
——周家崩陣拳は、本来、崩陣拳を最大の仮想敵とした拳法である。
周若聞は、もともとは形意拳の拳士だった。
形意拳は道教の拳。つまり、仏門の流れをくむ崩陣拳とは元来水と油の関係。
だからこそ周は、師父を尊敬すると同時に対抗心を燃やし、崩陣拳に自分の武術をミックスさせた周家崩陣拳を創始した。
――『崩陣三拳』という分派が生まれたのは、そういった思想的理由などが当てはまる。
崩陣拳を畜生道におとしめた男、陳九英の弟子たちは、崩陣拳の革新的技術に圧倒される一方、嫉妬もした。仏門の拳がここまで発展するなど悔しい、と。
その気持ちが、崩陣拳を改良――否、改悪かもしれない――させた。
きちんとした伝承を伝えないという点では、彼らは崩陣拳の担い手として落第点だったと言えよう。
けれど、それでも転霖は、敬愛する我が師の願いを叶えたかった。
何の権利も無く、踏みにじられる運命しか無かった自分に、周家拳という道標を与えてくれた師の願いを。
――転霖は「黒孩子」だった。
少子高齢化を憂いて今は廃止されているが、中国における爆発的人口増加に歯止めをかけるために行われた「一人っ子政策」。一世帯につき、一人しか子を持つことが許されなかった時期があった。
しかし、時折その禁を破り、二人目以上を産む家庭も存在した。
その大部分が、農村部にあった。
農村部では、農作業と親の面倒という二つの仕事をしてもらう事を考え、体力的に優れた男子を産むことが強く求められた。
しかし、女の子が生まれてしまえば、それ以上生むことは出来ない。
――ゆえに、さらに子供を産み、その存在を書類に残さないという考えに至った。
たとえ子供が生まれても、戸籍に登録されていなければ、社会的には「存在しない」のと同義。たとえ二人以上産んでも、戸籍登録を一人だけにしてしまえば、「一人しか子がいない」ということになる。
だが、それは生まれた子供に対し、残酷な運命を強いるものだった。
戸籍に登録されていない、すなわち「存在しない」子供に対して、行政は手を差し伸べてくれない。たとえ不当に傷つけられても、警察は手を貸してくれない。殺されても、それは立件されないのだ。
そんな無戸籍の子供たちこそが黒孩子――「闇っ子」と呼ばれている。
転霖もそんな例に漏れず、「存在しない子」として農村部で産み落とされた。
だが母は病死。父も姉とともに事故死。転霖は天涯孤独の身となった。
身寄りのない無戸籍児。これほど都合の良いカモはないだろう。臓器売買や人身売買の「売り物」にしようとする汚い連中に次々と襲われた。
なので転霖には、自分を守る力が必要だった。しかしチンタラと功夫を積んでいる暇は無い。だからこそ比較的早期に身につけられ、なおかつ致死性の高い『毒手拳』を身につけたのだ。
とにかく転霖は、生きるためには何だってやった。身を守るため、人を何人か殺した事だってある。
それでも、裏の世界というのは侮れないものだ。転霖はある日、敵に回していた組織に追い詰められ、命を落としそうになった。
もはやここまでか、と思ったその時、一人の男が敵を全員倒し、自分を助けてくれた。その男こそが後に師父となる呂雲祥だった。
雲祥の強さはまさに鬼神のごとし。銃器で武装した大勢の敵とたった一人で、しかも素手で対峙しただけでも普通じゃないのに、飛んでくる弾丸を全て避け、敵全員を挽肉に変えてみせたのだ。……その光景に、幼い転霖は心を奪われた。それは、ある種の「崇拝」に近い気持ちだった。
雲祥は言った。「お前には武芸の才がある。俺の元で学んでみないか」と。
その言葉に、最初の暴れっぷりを見た時以上の感動を抱いた。何の取り柄も役割も無い、ただの小汚い糞餓鬼でしかなかった自分に、存在価値を見出してくれたのだから。
転霖は感涙を流しながら頷いた。
以来、全てを忘れ、周家崩陣拳の練功に没頭した。メキメキと力をつけていった。
——それが、今に至るまでに許転霖という人間がたどった軌跡だった。
我が人生の黄金は、周家拳あっての物種。
その周家拳は、我が師、呂雲祥の誇り。
師は、崩陣拳の守護者として振る舞う一方で、自身の拳の源流たる崩陣拳に対して密かな劣等感を抱いていた。それを考えると、工藤要が時期伝承者に選ばれたことは、『公会』を脱退する理由としてはちょうど良かったかも知れない。
意識を、工藤要に戻す。
そして、我知らず唾を嚥下した。
腰を微かに落とし、丹田に両手を添えて立つ要の「場」から、とてつもない存在感を感じるのだ。例えるならばそれは、大地からのエネルギーをたっぷり受けて、巨大に育った神木のような……
転霖は肝が冷えた。それは、生物としての本能的恐怖だった。
しかし転霖は止まらない。止まってはいけない。——あの少年の姿をした「化け物」を葬る力を、蓄えねばならないのだから。
最初立ち合った時、工藤要はただの平和ボケした子供にしか見えなかった。その気になれば、一分で十回は殺せる。そう思えるくらいに、武術家としては"なっちゃいなかった"。
だが、転霖との立ち合いを通して、この少年は驚異的な速度で成長した。まるで植物が、蕾という過程をすっ飛ばして花を咲かせるがごとく。
特に、気の力を込めた毒手の一撃を自然な動きで避けて見せられた時には、度肝を抜かれた。——転霖が次の動きの手掛かりを伝える「初動」を起こすよりも速く、要は動いてみせたのだ。こちらの心を読んだように。
それを可能にする技術は、一つしかない。
『高手』が持つ、精密な攻撃予測能力だ。
つまりこの少年は、驚異的な速度で『高手』へと近づいている。自分との命のやりとりは、『高手』へ至るまでの階梯を数段飛ばさせてしまった。
極限状態に追い込まれることで、ポテンシャルを引き出す場合は確かにある。しかし、それにしたって、この成長速度は明らかに異常だ。
間違いない。
工藤要は、否、崩陣拳は――戦うことでその成長を急速に早める力を持っている。
どういうわけか、崩陣拳士は数多くの修羅場に巻き込まれやすい。しかしそれは「災い」ではなく、強くなるための「糧」なのだろう。口を開けていれば、餌がその中に入ってくる。
その成長速度もまた、『高手』への成長を早める要因。
何から何まで恵まれた拳という事だ。
そう考えた途端、無性に腹立たしく思った。
恵まれた生い立ち、恵まれた武術、恵まれた修行環境。
そんなものに当たり前のように囲まれてヌクヌク育った温室育ちに、負けたくはなかった。
必ず仕留める。
転霖はさらに周回した。
——そんな許転霖をぼんやりと見ながら、要はひたすらに『阳気』を溜めていた。
腰が重い。まるで梵鐘を背負っているみたいだ。
臍下丹田に蓄えられた気は、すでに『太極気』の面影を残していなかった。あるのは、小規模な太陽が顕現したかのごとき『阳気』の塊。
太陽。
否、『太阳』。
崩陣拳の秘技。
丹田に『太極気』を生み出した後、そこへさらに外界から取り入れた『阳気』を送り、それを何度も繰り返すうちに『阴気』を『阳気』で塗りつぶし、高密度の『阳気』の塊を作り出す。
それはまさしく小さな太陽。その小さな太陽を発勁と同時に爆発させることで、威力を数十倍まで高める事が出来る。使い方次第では、『高手』にさえも一矢報いることが可能な「奥義」。
無論、使うのは今回が初めてだ。
最初は、何度か失敗すると予想していた。元々自分は器用な方ではないし、最初から上手くいく武術の技など無いと知っていたからだ。
けれど、不思議なことに、この技は一回目で上手くいっていた。
少しずつ、しかし確実に密度と大きさを増していく小太陽。
——気功術の根底を支える要素は、「心」「意」「気」の三つ。
肉体の将たる「心」が、「意」という司令を出し、「気」という兵がその司令通りに動く。
つまり、大元である「心」が強ければ強いほど、「気」を操る力も強くなるという事だ。
ゆえに、この『太阳』をコントロールするには、「盤石な思い」が求められる。揺らぐことのない、強く固い感情こそが、制御の難しい『阳気』の塊を束ねる事が出来る手綱なのである。
要の『太阳』を支えている「盤石な思い」とは———菊子に対する強い想いだった。
要はようやく自覚したのだ。
自分が想っている相手は、一体誰であるのかを。
菊子が毒に倒れた時、要は想像を絶するほどの心傷を負った。まるで体の半分を引きちぎられるような思いに苛まれた。死んでしまいたいとさえ思った。
さらには、菊子を助けるために、命懸けの闘いに迷わず身を投じている。
断言しよう。
俺は、倉橋菊子の事が好きだ。
思えば、自分はきっと最初から、彼女の事が好きだったのだと思う。
誘拐事件の時、自分は菊子の笑顔を見た。前髪がどけられ、包み隠さず向けられた泣き笑いのような表情。湧き水のように澄み切ったその眼差しに自分の姿がくっきり映っているのを目にした瞬間、どうしようもないくらい胸の高鳴りを覚えた。
あの時すでに、自分は菊子に恋をしていたのだろう。
しかし、恋を知らずに育った工藤要は、他人からの好意だけでなく、自分の持つ好意にさえ鈍感だった。だから自覚出来なかった。
けれど、今ならはっきりと言える。
俺は、倉橋菊子が好きだ。
世界で一番大事な女だと、胸を張って断言出来る。
だからこそ、絶対に負けない。
勝って、キクを助けるんだ。
助けて、この想いを伝えたい。
伝えてみせる!
ズンッ!! と、腰の重さが増す。要の足は、雑草の生えた大地にめり込んでいた。
今にもはち切れそうな小太陽の状態を感じ、要は本能的に確信する。
『太阳』の完成だ。
火薬の装填は完了した。
あとは、爆発させるのみ。
「来い、許転霖! これで最後だ!!」
言い放ち、右拳を脇に構える。左手を前に置き、その指先を通して世界を見渡す。
ずっと時計回りしていた転霖が視界の左から現れ、要の指先のちょうど延長線上にまで到達。すると、転霖はこちらを向き、手前へ方向転換して突き進んできた。
両者の距離が近づく。
間合いが、重なった。
「——『開拳・太阳崩撃』ッ!!!」
『開拳』の打ち出しと、『太阳』の運用を同時に行った。肚から拳へ通ずる経絡を、腕が焼け焦げそうなほどの熱塊が通う。
転霖もまた、左拳を放っていた。まるで鉄砲水が押し寄せるような尋常ならざる気迫と圧力を秘めて、体ごと突っ込んでくる。
二人が攻撃に出たのは、全く同時だった。
打った拳同士が、激しく重なった。
拳と拳の接触面からすさまじい突風が発生。両者の顔を殴る。
激甚たる勁力を秘めた拳同士は、ぶつかり合ったまま動かない。拮抗していた。
「行けえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――!!!」
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
自らの拳を少しでも前へ進めんと、両者は裂ぱくの気合いを発する。周囲の木々の梢が、風も無いのにざわめいている。
「っ…………痛っ……!?」
要は顔をしかめた。
とんでもなく痛い。腕の骨が馬鹿げた力に押され、軋みを上げている。
このままでは、要の腕は折れてしまう。
「折れろ!! 折れろ!! 折れてしまえ!! 死んでしまえぇぇぇぇぇぇっ!!!」
転霖が狂ったような破顔を見せ、呪詛をぶちまける。
しかし、要は腕を少しも引っ込めない。
それどころか、さらに奥へ拳を押し出した。
『太阳』の根底を支えるのは、「心」。
つまりこれは武力ではなく、心の戦いだ。
奮い立たせろ、己の魂を。
思い出せ、この技を成り立たせている「芯」たる想いを。
それを叫べ。
要は全身の血を全部吐き出す気持ちで、吐露した。
「菊っっ…………―――――――子ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
――ビキリ。
骨が折れる音。
どちらの音?
要の腕は痛くない。
ならば、答えは明らかであった。
「ぐあああああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
転霖が苦痛を声高に叫び、左腕を庇いながら数歩退いた。
しかし、要の拳はまだ止まらない。
進む。
進む。
進み続ける!
そして――
大いなる陽の気を味方に付けた拳が、転霖の胴体に直撃した。
刹那、まるで間近に雷が落ちたかのごとく、閃光が夕闇を切り裂き、轟音が空気を激震させた。
一瞬のスパークが消えた時には、すでに転霖の姿はなくなっていた。拳の延長線上にある木々の奥から、バキバキと木をへし折る音が聞こえてきた。
さらに、身体の軸を引っこ抜かれたかのような脱力感が要を襲った。
それは、毒手によるものなのか、『太阳』の副作用なのか、今の要には区別がつかなかった。
今はただ、目の前の強敵を打ち負かしたという事実だけで十分だった。
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
最終話まで、あと三話!