第二十五話 高手と高手③
明日も夜9時に投稿。
さまざまな破砕音や叫びが、この四合院東の壁面の前に聞こえてくる。
男の野太い絶叫が耳を貫いた瞬間、劉易宝は肩をびくっと震わせた。まるで業火に焼かれて苦しむようなその叫喚の発生源は南の方角。つまり深嵐が戦っている場所だった。男の声であるということは、彼女は見事に『自在囚』釈を倒したということか。
「よそ見とは、ずいぶんと余裕があるじゃないか、易宝」
そんな気さくそうな、それでいてどこか皮肉げな響きが込められた若い男の声が聞こえて来た。
確かに若い男だ――見た目は。
周囲のことに気をかけるのをやめ、易宝はそんな「見た目だけは若い」男を見据えた。
「おぬしからは攻撃の気配が感じられんからのう。わしに何か言いたい事があるんじゃあないのか? なぁ、コンラッドよ」
視線の先には、男とも女ともとれるであろう中性的な美男子が、地に刺さった直剣のごとくたたずんでいた。
赤く長い髪。うなじから伸びる三つ編みの本数は、苗字と同じ発音の「九」。――中華圏では縁起の良い数字だ。
長袖の唐装と赤いスラックスはスマートな肉体の線をかすかに見せるほどのサイズ。服の色も赤。——中華圏では縁起の良い色だ。
この迷信や験担ぎに妄執したような容貌に、易宝はおおいに見覚えがあった。
『吉祥蛇』の通り名を持つ『高手』、久。香港在住。英語名「コンラッド・久」。
雲祥が『公会』を潰すべく、わざわざ香港から引っ張り出してきた猛者。
その猛者は嫌味ったらしい微笑をたたえ、嫌味ったらしく言った。
「フフッ、無いわけがないじゃないか。以前、僕の武館にちょっかいをかけられた借りを未だに君に返せていないんだからね」
やはりそのことか――易宝は予想が的中してすっきりすると同時に、露骨に嫌な顔をした。
この男、久は香港で武館を開いている。『蛇鞭掌』という拳法を伝承しており、その勢力は香港随一である。
易宝は昔、そんな彼の門派といさかいを起こした事があった。
本来、他門に好きこのんで争いを吹っかけるほど、易宝は好戦的ではない。
だが、「その時」だけは事情が事情だったので、率先して手を出したのだ。
「吐かせ、外見詐欺ジジイ。あれは酒に酔ったそっちの弟子が、大人気なくガキンチョに絡んでたのがそもそもの原因だろうに。わしが割って入らなかったら面倒な事態に発展していた事は無学な田舎者でも分かるわい。謝られこそすれ、一晩中香港で追いかけっこに付き合わされるいわれはなかろうが」
「だが、こちらの門弟に手を出された事実は変わらない。まして、我が蛇鞭掌は香港における一大勢力。その総数は香港全人口の五分の一。現地の黒社会さえ及び腰になるほどだ。門弟をやられて沈黙しているようでは、我が門の面子に傷が付きかねない。それから外見詐欺は君も同じだろう」
「……面子、面子、面子、愛面子ってか?これだから武林の慣習に凝り固まった老害は好かん。ああ、いいぞ、腹が立っていい感じに戦意が湧いてきおった。今まで気が進まんかったが、これならどうにかやり合えそうだ」
スッと、易宝の両足が半身立ちを作る。戦意が生まれるとひとりでに体がその立ち方を取るのは、長年に渡る武術家としての「習性」。
「僕はもうやる気だけどね。君が過去に出したちょっかいのツケを、今この場で精算しようじゃないか」
言うと、久もまた構えを取る。半身になり、掌を真上へ向けた前手の肘へもう一方の掌を添え置く。通背拳などでよく見られる構えだ。
互いに向かい合った状態を維持しながら、何度も立ち位置を移動させる二人。自分の体に隙を見つけてはそれを埋めて相手の隙を見抜き、相手もまたその隙を埋めてこちらへ付け入る穴を探る——そんな堂々巡りのやり取りをぐるぐると繰り返す。
だが、やがて易宝の体に生まれた隙を刺そうとばかりに、久が突風のごとく滑り寄ってきた。
「シィィィッ!」
重心の滑走に合わせて右掌が伸びる。易宝の隙を埋めんとばかりにやって来る。
しかし易宝は攻撃を望んだ位置へ誘うべく、ワザと隙を作ったのだ。針のような右掌打を左手で掴み取る。
当然、久も易宝の作った隙が「ブラフ」であると承知済みだ。空いた左腕が、目にも留まらぬ速度で何度もこちらへ跳ね上がった。
スパパパパァン!! 重々しい威力を秘めた左腕という名の鞭を、易宝は片腕で的確にさばいていく。
易宝は右へ重心を進めながら、左手で掴み取っている久の右腕を引っ張り込んだ。
久は体勢を崩す——ことはなかった。こちらの重心移動と足並みをそろえる形で自らの足を進め、力の流れを同調させていた。
「『纏絲折江』ッ!!」
全身を強くねじり込みながら、両腕を前後へ広げ、右足を進めた。易宝の五体に渦のごとくまとわりついた螺旋力は、左手で掴んでいた久の右腕を引き込み、易宝の右拳をライフル弾のごとく突き進ませた。「引っ張る力」と「進む力」を同時に引き出し、それらをぶつかり合わせることで通常の「旋」の力の倍のダメージを相手に与えようと試みる。
しかし、久は体を左へ向けることで全身の表面積を小さくし、易宝の右拳を腹にかすらせる。さらに引っ張られる力に、自分の歩法で生み出した勢いを加算。易宝の傍を通り過ぎ、引っ張り込もうとした。
易宝も負けじとジャンプし、引く力に乗る。そのまま左右の足で交互に前蹴りを放った。『二起脚』だ。
対し、久は驚異的な柔軟性を活かして大きく上体を反らし、蹴りを避け、宙の易宝の真下をくぐる。そこから手首の鋭いスナップによってとうとう易宝の掴む手を振りほどいた。
器用に宙で体勢を整えてから着地した易宝。
久は鋭く間合いを詰め、無数の攻撃をしかけてきた。
蛇が獲物に食らいつくような掌底。質量秘めた暴風のごとき腕刀。マシンガンのような猛烈さでやって来るそれらの一撃一撃は、岩石みたいに重々しい。
易宝はひたすら払い、避ける。
――これこそが『蛇鞭掌』である。
通背拳、劈掛掌、翻子拳などといった弾力のある動きを主体とした門派をミックスして編み出された、コンラッド・久オリジナルの拳法。
全身を脱力させた状態でトコロテンのように柔らかくしなやかな身法を用い、高速かつ破壊力の高い勁を放つ。柔を極めて剛を得る、迅速にして狂猛な拳法。
人間の腕はたった三、四キロ程度しかない。だがそれも過程が途切れて見えるほどの速度で振られれば、立派な凶器となる。わずか9mmの弾丸に人を容易く貫く力があるのも、炊飯器程度の大きさしかないスペースデブリが爆弾以上の破壊力を持つのも、いずれも「速度」があるからだ。
「ケンカに勝ちたきゃ、蛇鞭掌を習え」。香港において決まり文句となりつつある言葉だ。
「ほらほら、どうしたんだい劉易宝!! 君はそんなに弱かったっけか!? 反撃して来なよ!!」
手技を乱発しながら、酔いしれたような声でまくしたてる久。
この赤い優男は、手の速力だけならば臨玉にも匹敵する。マッハに達する手技は肉を削ぎ、石を削ぎ、鉄を削ぐ。飛んでくる一発一発の弱所を的確に狙わなければ、さばくことができないどころか逆に大怪我を負いかねない。
「――分かった」
易宝は『開拳』を放った。崩陣拳における基本中の基本である正拳突き。
大地と体幹と引き手の力を集約させた拳は、真っ直ぐやってきた久の腕の外側を滑りながら直進。腕の輪郭を沿う形で久の顔面へと叩き込まれた。
「ごぉっ!?」
唸るような呻きをもらして仰け反る赤い優男。防御(または回避)と同じタイミングで攻撃を仕掛ける「交叉法」と呼ばれる技術で、ボクシングで言うところのクロスカウンターだ。
追撃をかけようと思ったが、久が腕を横薙ぎにする攻撃予想を観て、退歩。先ほどまでの立ち位置を腕が走った。
久の美貌には痣が浮かんでいた。しかしその事を悦ぶかのように戦意の微笑を作り、素早く接近してきた。
「シ!!」
刃同士を擦るような気合とともに、右手刀左爪先が同時に真っ直ぐ疾る。両方とも体の中心を狙った攻撃だ。
易宝は右手刀を左手で外側へ払い、右膝を持ち上げて爪先蹴りもガード。
蹴りに失敗した久の左足が、重心とともに易宝の右隣へ移動。着地させた足を踏み切り、その瞬発力で真横から自重をぶつけた。横からの圧力に弱い人体は容易く弾き飛ばされた。
「――『挿陽劈斬』!!」
バランスを崩した易宝の間合い奥へ深く踏み込み、沈墜の勁力を込めたギロチンのごとき腕刀を振り下ろしてきた。
易宝は倒れながら身を捻じり、その勢いでほんの僅かながら体の位置をずらした。すぐ隣を久の腕が通過し、その尋常ならざる空圧でさらに横へ飛ばされた。
すぐさま立ち上がる。早速接近してきていた敵の両腕から、白い直線状の攻撃予測線が幾本も浮かび上がっているのが分かる。
攻撃が降り注ぐ前に、易宝は『箭歩』で光のように詰め寄った。攻撃を恐れて離れるより、間合いの奥へ踏み込んだほうが安全だ。
「『撞拳』ッ!!」
爆発的な踏み込みで刹那の盤石さを生んで急停止し、それに拳の直進を合わせた。要の放つ『撞拳』より、威力も速力もはるか上をいった一撃だ。
確実に直撃する一撃。
だが、
「ありがとう」
そんな揶揄の混じった感謝とともに、久の赤い体が縦回転しながら跳ね上がった。今の正拳突きに込められた莫大な直進力を、風車よろしく回転力として利用して受け流したたのだ。
その回転を利用した踵蹴りが後頭部へ迫る。易宝は頭を低くしてそれを避け、振り向きざま内から外へ向かって振り出す払い蹴り『擺脚』を放った。
両者の蹴り足が衝突。縦回転と横回転の力がぶつかり合い、競り勝ったのは易宝の蹴りだった。縦回転は横からの力に弱いのだ。
久は空中で体勢を崩すが、手で着地し、そこから跳ね起きる。
易宝が近づく。直線的な動き。
久は左腕を鞭のように外から振るってくる。
次の瞬間、易宝はカクン! と軌道を変えて左斜め前へ進み、そこからまた右斜め前へ足を運んだ。左側を尖らせた「く」の字状の軌道で久の隣へ詰め寄り、踏みとどまって急停止すると同時に『撞拳』を放った。――「直進」ではなく、あえて「く」の字という「遠回り」をすることで助走を稼ぎ、その勢いを『撞拳』の威力増強に繋げるというその一連の動作の名は『七星撞撃』。
久は易宝の拳に自らの両腕を擦らせるが、威力を殺しきれずに大きく後ろへ弾かれた。
高速で宙を漂う敵に、易宝はたったの二歩で、しかも一瞬で追いつく。――『箭歩』。
「——『衝渦』っ!!」
必倒の一技を繰り出そうとした瞬間だった。
「ハ!!」
一瞬、気合が空気を割ったかと思うと、易宝の足元から研ぎ澄まされた暴風が飛び上がった。
その正体が久の蹴りであることに気づいたのは、間一髪避けてからだった。この男は宙を舞ったまま蹴りを放ち、易宝の攻め手を中断させたのだ。
今度はもう一本の脚でナイフのような前蹴り。攻撃を中断したとはいえ、『箭歩』で作った慣性はまだ残っており、止まれない。結果的に、久の前蹴りを腹に受ける羽目になった。
「ぐぉっ……!」
低く重く呻く易宝。胃の中を直接揉まれたような気分にはなったが、痛覚はない。迅速に練り上げた『太極気』を集中させ、防御したのだ。
さらに易宝は、自らの胸部を「一」の字状に斬りつけるという攻撃予測の線を感知。刹那経つと、久の右腕がその予測線を沿ってやってきた。
すでに易宝はその腕の範囲外に退いており、当たる事は無い。
はずだった。
音速の手刀が胸部のすぐ前を通過した瞬間、衣服にパックリと切れ目が走った。
幸い、肉体そのものに傷は無い。しかし、触ってもいないのに服に傷がついたのだ。普通に考えれば異常なことである。だがこの戦いは「普通」ではない。だからこそ冷静に分析できた。
衝撃波だ。物体は移動速度が音速に達すると、衝撃波をばらまく。あの技は、その発生した衝撃波を巧みな指の操作によって任意の形に束ね、刃物として応用するものだ。『不見刀』と呼ばれる、蛇鞭掌の絶招である。
久の腕が、何度も何度も視界の中を駆け廻る。音速に達するそれらは振るたびに不可視の刃を生み出す。易宝はそれを器用に避けていく。
少しでも避けるタイミングを間違えれば、身体から血が噴き出すことだろう。防御しようものならその部位が切断される。逃げることこそ正義である。
「そらそら、どうだい!? この技を人に使うのは久しぶりでね! テンションが上がってきているよ!」
『不見刀』を繰り返しながら、高揚した表情を浮かべる久。
やがて、大きく腕が振り上げられ、それが腰の沈下と同時に縦に一閃。易宝が横へ逃れた一瞬後、振り下ろされた腕の延長線上へ真っ直ぐ溝が刻まれた。定規とカッターでやったような綺麗な直線状の溝は、指先から肘の辺りまで入りそうなくらいの深さだった。
強い。
人をして凶器――否、兵器。まさに『高手』を体現したかのごとき力。
この赤い男と相対した日本旧軍が、いったいどのような血河屍山を見せたのか、想像するだけで震えあがりそうだ。
勝つためには、こちらも殺すつもりで攻めなければならないだろう。それができなければ、勝率はグッと下がる。
けれど、易宝もまた、崩陣拳の衣鉢を継いだ「神にいちばん近い人間」なのだ。簡単に人の命を奪おうと思えるほど、合理的にはできていなかった。
それに、そんな手をつかわずとも、この男には勝つことができる。
『高手』だって、心と意思を持った人間なのだ。人である以上、心に必ず弱所が存在する。
易宝は、この男の「弱所」を知っていた。
「では、もう一度ぉ!!」
久が再び接近。手刀が音の速さで真っ直ぐ駆ける。
易宝は手刀の輪郭からわずかに伸びた刃を意識しながら、身を捻じって避け、流れそのままに背後を取る。
すると、久の突き出した手刀が突発的に方向を変え、横へ弧を描きながら真後ろの易宝を薙ごうとする。それを後方へ下がって回避。
久は踵を返し、足を進めながら腕を斬り下ろす。易宝は少し横へ体を移動させて避けた。
久は踏み込んだ足にもう片方の足を迅速にくっつけると、その足で大地を蹴り、横へ逃げた易宝へ詰め寄った。同時に、先ほど斬り下ろしに使った腕を裏拳の要領でスイングさせた。腕の範囲内にすっぽりと易宝を収めた一振りだ。
空気の刃が、易宝の上半身に接触。服に新しい切れ目が走る。
しかし、傷ついたのは服だけだった。
易宝は空気の刃が振り切られる前に、『箭歩』で進んだ。閃光のごとき二歩を進め、すれ違いざま――久のうなじから生えた九本の三つ編みのうちの一本を『撞拳』で切り落とし、かすめ取った。
久の後ろ側でこちらが足を止めた瞬間、沈黙が場を支配する。
易宝は一撃当てられていない。成果は、手に握られた三つ編み一本だけ。
しかし、それでも易宝は自らの勝利を確信していた。
しばらくして――久の悲痛な絶叫が沈黙を激しく切り裂いた。
「ああああ!! 八! 八束!! 八束!! 八束!! 九束じゃないぃっ!?」
頭を抱え、出せん限りの叫びをぶちまけていた。
かと思えば、先ほど易宝がちょん切って途切れさせた髪を手繰り寄せ、再び編み始めたではないか。
「あああ!! ヤバイヤバイヤバイ!! 死ぬ! 死ぬ! 死んでしまう!! は、早く九束に戻さなくては!!」
脂汗にまみれた必死の形相。
予想通りの反応すぎて、易宝は若干引いていた。
――コンラッド、おぬし、昔と全然変わっていないではないか。
そう、見ての通り、この男は三つ編みを切られると正気を失うのだ。
いや、より正確には、三つ編みの「九本」を別の数にされるとああなる。
あの男は験担ぎを異常に重んじる性格だ。
三つ編みの数が「九」本なのも、縁起の良い数字だからだ。さらに自分の苗字である「久」と発音が同じなので、その組み合わせに更なる幸運を感じるらしい。
おまけに服も、縁起の良い赤色しか着たがらない。
そういった吉祥物に身を包んでいるからこそ、久はあの鋼の意思を保てるのだ。
しかし、そのうちの一つでも破壊されれば、途端に弱気になる。メンタルがなんとも両極端な男なのである。
易宝はかつて香港で久と戦ったが、決着はつかなかった。理由は、三つ編みを一本斬り落とされた彼がああいうふうに発狂している間に逃げたからだ。
こうなってしまえば、攻撃を当てることなど草を引っこ抜くに等しい。
今なお新しい三つ編みをせっせとこしらえている久に、易宝は散歩みたいな軽い歩調で近づく。
本来、こういう人の弱みに付け込む戦い方は、あまり好きではないのだが、
「すまんな、コンラッド。これも勝負の世界だ――『開花一倒』」
無理矢理そう正当化しつつ、とどめの一撃を叩き込んだのだった。
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
次回、急展開。