表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦え、崩陣拳!  作者: 新免ムニムニ斎筆達
第五章 北京編
102/112

第二十二話 怪物襲来

「はい、これで詰みですわ」


 細く滑らかな指先によって「ぱちんっ」と盤面に駒が置かれたことで、今ゲームにおける要の敗北が決定した。


「ぬあー! また負けたー!」


 頭を抱え、無念とばかりに叫ぶ。


 これで三連敗だった。


 木製の円卓に乗った将棋の盤面上には、惨憺たる敗戦っぷりが広がっていた。王将は敵兵に囲まれ、どこのマスに逃げてもくびちょんぱになる未来待ったなし。


 午後一時弱の時間帯だ。


 要と奐泉は将棋を指していた。


 場所は「倒座房(とうざぼう)」という、四合院内の南端にある建物だ。来客のもてなしなどで使う役割だが、今は要たちの娯楽スペース状態だった。冷房が効くし、茶をすぐに淹れられるので居心地が良いからである。


 すでにこの夏休み期間中、奐泉と菊子がこの四合院にやってくるのは日常化しつつあった。だがここには娯楽が皆無に等しく、来たは良いが、一体何をすればいいのか迷いがちだった。道具が無くてもできる遊びでいいんじゃない? という意見もあったが、今更三人でかくれんぼとかだるまさんが転んだなんて歳でもない。


 そこで、菊子が一肌脱いだ。別荘に置いてあった遊び道具の類をここへ持ち込んでくれたのだ。トランプやかるた、人生スゴロク、この将棋など。


 ちなみに中国版将棋「象棋(シャンチー)」ではなく、日本の「将棋」だ。けれど奐泉は日本将棋のルールも知っていたため、問題なく楽しめた。


 楽しんで――本場出身である要を三度も負かしてみせた。


「あら、「待った」してもいいんですのよ?」

「いや、ここは男らしく負けを認めるよ。参った」


 要としては結構潔い感じで格好よく結果を認めたつもりだったが、奐泉はナンセンスだとばかりに人差し指を首と一緒に振った。


「もっと勝ちに執着しないとダメですわよ、カナ様。負けを潔く認めることが恰好のいい事だと思っているのは日本人の悪い癖です。中国人(わたくしたち)はたとえ勝つ見込みが薄くても最後の最後まであきらめず、みっともなくても勝利へ執着します。悪あがきだと捉えられるかもしれませんが、あきらめなければ必ず活路は開けますわ。仮に負けたとしても、そこから得られるモノは必ずあるから、それを今後の糧にしてさらに成長するべく精進する。武術においてもそれは同じですわ」

「み、耳が痛いことを……」


 耳穴に棒を突っ込まれたような気分になり、渋い顔をする。


 しかし、彼女の言っていることももっともだ。


 あきらめないで最後まで足掻きぬくというスタンスは、武術においても大切なことだ。


 要は以前、「武術において大切なのは変化である」と教わった。たとえ一撃目を避けられても、二撃目、三撃目、四撃目……と次へ次へ手数を繋げていくのだ。それを繰り返せばいつか必ず相手に当たり、倒すことができる。まさに「最後まであきらめず足掻きぬく」という中国人の思想を反映させた戦法のように感じた。


 傍らの耐熱グラスに入った龍井(ロンジン)茶をすする。涼しげな香りと心地よい苦みを感じ取りつつ、先ほどまでの奐泉の腕前を振り返った。


「にしたって、奐泉って将棋強いよな。全く注意してなかった所から攻撃してくるんだもんよ。飛車と角を取られた時は絶望的だったぜ。まるで奇影拳の「虚」を突く攻撃みたいだった」

「うーん……わたくしに言わせると、カナ様が馬鹿正直すぎると思うんですの。いきなり()と飛車で陣地に攻め入って王手取ろうとするなんて。正直すぎて逆に罠かと思ったくらいでしたわ」

「いや……先手必勝かなって」

「それにしたってあの戦法はひどすぎますわ。わたくしとの試合でのカナ様は機転が利いていたのに、それがびっくりするくらい出てきませんし」


 そりゃ、拳法と盤上じゃ世界は違うし。


 そう言い訳したいところだったが、奐泉は「敵の「虚」を突く」という奇影拳の戦術を盤上でも見事に踏襲していた。もし彼女を鍛えさせたら、奨励会の棋士にも太刀打ちできるかもしれない。


 要も同じように武術的な考え方を盤上でも生かしたいと考えていたが、崩陣拳の戦法や戦術は白兵戦の技術であること前提で作られたものばかりな気がするので、難しいだろう。


 けれど、対局で頭を使いすぎて少し疲れた。もう一局やるにしろ、他の遊びに移行するにしろ、一休みしてからでないと身が持たない。


「ちょっと休憩するか」


 そうですわね、とその提案に乗る奐泉。


 グラスの中の茶が切れたので、壁の隅のテーブルにある電気ケトルへ歩み寄り、熱湯を注ぐ。その後また自分の席に戻ってグラスを置く。美味しくなるのは三分後なので、その空き時間を会話に費やそうと考えた。


 しかし、何をしゃべればいいのか分からない。ネタが思いつかない。


 それでも懲りずに記憶の中を探して、それらしい話題を見つけ、口に出した。


「そ、そういえばキク遅いな。トイレに行ったっきり帰ってこないな」

「そうですわね」


 ……そこで、会話は途切れてしまった。


 きっと、奐泉も何を話そうか考えているのかもしれない。


 何かしゃべろう、何かしゃべろう――そんな考えに支配されていたが、しばらくして、無理にしゃべらなくてもいいのではないのか? と思うようになった。沈黙が続く時間も、「静かである」というふうに捉え方を変えればそれなりに心地よくもあるだろう。


 それに――いい機会だと思った。菊子と奐泉の事を考えるのに。


 自分に明確な好意を示してくれた、二人の女の子。


 その気持ちには、本当にうれしく思う。


 けれど、二股などあり得ない。どちらか片方しか選べないのだ。


 片方を取るということは、そのまま「もう片方を切り捨てる」という意味になる。


 要としては、どちらかを傷つけたくはなかった。みんな幸せになる選択肢を選びたいと思っている。


 しかしそれはできないし、許されない。


 そもそも、誰かが傷つかない色恋沙汰など存在しないと言ってよい。きっと二人もそれを承知で気持ちを打ち明けたのだと思う。


 要は、彼女たちを「傷つける覚悟」ができずにいた。昨日、王府井でのひと時に対し「いつまでもこんな時間が続けば良い」という気持ちを抱いたのが何よりの証拠だ。


 思わず、溜息が出た。武術の問題はひたすら師の言う事を墨守(ぼくしゅ)していれば大抵は解決する。ソレに比べて、恋愛とはなんと扱いの難しいことか。


「カナ様、どうしました? 元気ありませんわね」


 ふと、奐泉がテーブルから身を乗り出してこちらの顔をのぞき見ているのに気が付き、びっくりして椅子を後傾させた。


「い、いや何でもない。何でもない」


 そう言い訳するみたいに言ってから椅子の四脚を安定させ、龍井茶に口を付ける。しかしまだ三分経っていないので味と風味は薄かった。


 見るからに不自然な要の態度に、奐泉はじとーっと怪しげに見据えてくる。


「何考えてるんでしょうかね。わたくし、気になりますわ」

「いや、マジ大した事じゃないって。気にすんな」

「ふーん? まあ、いいですけれどー」


 そうふてくされたように呟きつつ、椅子にもたれかかってガタッと軽く浮かせた。


 奐泉に相談したい気持ちはあったが、この問題は要一人で考えなければならないものだ。人の力は借りることはできない。なにせ、自分自身の気持ちの問題なのだから。


 あらためて、静かに思考した。




 いい加減――菊子と奐泉のどちらを選ぶのかを。




 まずは、この二人について知っていることを、できるだけ多く思い起こしてみよう。


 菊子――根暗っぽい見た目に反して、いざとなったら並外れた行動力と勇敢さを見せつける芯の強い女の子。それでいてお淑やかで思慮深く、素顔がその……とてつもなく可愛い。一緒にいて、かなり癒されるタイプの子だ。


 奐泉――菊子とは正反対に、押せ押せでアクティブな感じの女の子だ。しかしその心根には一途で揺るぎない思いを秘めており、なおかつそれを遂げるために迷わず精進できる努力家。フランクな性格なので、一緒にいると親友より一歩進んだ関係性で接することができて安心するタイプの子だ。


 自分は、彼女たちのことをよく見ていただろうか。


 その上で、自分はこの二人のどちらが「欲しい」のだろうか。


 ………………。


 ――あーー!! 分かんない!!


 頭を掻きむしりたい衝動。


 優柔不断と笑われるだろうが、菊子も奐泉も同じくらい魅力的だ。


 だがそこで、要はいつだったか、母の言っていた言葉を思い出す。


 恋は脳みそじゃなくて、気持ちでするものなのよ。


 それを聞いた時は「ふーん、そんなもんかね」程度にしか考えていなかったが、今ではその遠き日のアドバイスが嬉しく思えた。


 要は考えるのをやめ、瞳を閉じ、そっと心の思うままに任せた。


 想像する。いや、させる。


 愛する「誰か」と、仲睦まじく時を過ごす自分の姿を。


 一緒に買い物したり、家で寄りかかり合って過ごしたり、キスをしたり。


 その想像の中で、要の隣にいた「誰か」は――




「カナちゃんっ!」




 最愛の隣は、その明確な姿を現す前に、急な呼びかけとドアの解放音によって掻き消えた。目が否応なく開けられ、さっきまで将棋を指していた部屋が視界に戻ってくる。


 音がしたのは、倒座房と外を繋ぐ両開きの扉だ。大きくあけっぴろげになり、蒸し暑い外気温を室内に招いている。その熱気を、上下ともに長袖という暑苦しい格好をした少女が体の面積分だけ遮っていた。


 菊子である。


 顔半分を前髪が覆っていても、その顔が何かに焦ったような表情であることはすぐに読み取れた。


 どうした、と問いかけるまでもなく、菊子が先に口を開いた。


「どうしよう…………カナちゃん…………どうしよう……」


 恐怖と不安に震えた声。顔も夏だっていうのにどこか青く見える。血の気が引いているとは、今の彼女の状態を表すための言葉なのだと思う。


 本格的にただならぬ気配を感じ取った要は、椅子から腰を上げた。


「どうした、キク」


 カタカタと痙攣する唇でもって、次の言葉を発した。


「御守り…………どこかにいっちゃった」


 御守り?


 一瞬何のことかと思ったが、すぐに記憶の引き出しから答えを探り当てた。


 響豊の襲撃(嘘)の後、夜の森で菊子が見せてくれた御守りのことだ。


「失くしたのか?」


 力なく頷く。


「トイレから出て、手を洗った後、ハンカチで手を拭こうと思ってポケットに手を突っ込んだら……なくなってて…………」

「最後に御守りの存在を確認したのはいつですの?」

「この四合院に入る前……携帯を見るためにポケットに手を入れたから」


 菊子の答えを聞いて確信する。


 つまり、御守りは四合院の中で落としたということになる。


 安心したようでいて、少し面倒な気分になった。この四合院の中はけっこう入り組んでいるため、探すのは少し骨が要るかもしれない。


「どうしよう……どうしよう……わたし…………」


 生気が抜けきった表情のまま、消え入りそうな声でぶつぶつ呟く菊子。


 少し過剰な反応に思えた。そこまで信心深いタイプだっただろうか。


「そんなガッカリするなって。御守りなんて、また買えばいいじゃないか」

「ダメっ!!」


 菊子は水が足りない植物のようにしおれていた態度を一変、顔を勢いよく振り上げ、悲痛な声でそう抗議した。


 要は思わず肩を一瞬震わせた。普段の彼女が出さないような切迫した声質だった。


 だが菊子も、声を荒げた事を申し訳なく思ったのだろう。深呼吸して気持ちを落ち着けてから、ゆっくりした語り口で言った。


「あれじゃなきゃ、ダメなんです」

「キク……」


 要は言葉に詰まった。


 自分は、とんだ失言をしてしまったらしい。理由は分からないが、あの御守りは菊子にとってとても大切なモノであるようだ。軽々しく「また買えばいい」なんて口にするべきではなかった。


「……ごめん。なら、これから一緒に探そう」

「カナちゃん……ありがとう」

「奐泉は?」

「協力しますわ」


 こうして、三人で一緒に探すことが決まった。







 ――が、それから約十分探し続けても、いっこうに発見することが出来なかった。


「くそっ、ないな……」


 古い石材で出来た壁の隅っこをチェックながら、一人愚痴る。


 菊子から、四合院へ入ってから通った箇所をすべて教えてもらい、それらを三人手分けして探っている最中だ。


 今探っている場所は、四合院西端の壁付近だった。欄干で仕切られた通路は南から北へ真っ直ぐ伸びており、トイレのある区画に通じている。その左側には石畳が敷かれたそこそこ広いスペースがあり、そちらへ出て壁際まで来ていた。


「カナ様ー! 見つかりましたかー!?」


 中庭の方から、奐泉の高らかな声が聞こえてくる。四合院は建物に入らない限りは屋根が無いので、こうして大声を出せば遠くても簡単にやり取りができるのだ。


「いやー! ないー!」


 要はそう言い返してから、気が滅入った。経過した時間と探している人数を考えると、すでに菊子が通った場所は全て調べ尽くしたと思う。


 見つからなかったら、菊子がどんな顔をするのか。泣くかもしれないし、ものすごく元気がなくなるかもしれない。想像したくなかった。


 なので、もっと調べておきたいと思った。他の探していない箇所もきちんと自分の目で確認するのだ。


 強引に気力を生み出し、しゃがみ姿勢から立ち上がった。この場を後にするために踵を返し、歩き出そうとした。




 瞬間――要が背を向けていた壁面が、「爆発」した。




「うわっ!?」


 要は反射的に両腕で顔を覆う。


 まるで大型トラックがものすごい勢いで衝突してきたかのように壁が破砕し、細かい粉塵とともに瓦礫が飛ぶ。やや大きめな破片が顔を庇う要の両腕に直撃し、そのショックでよろけながら後ろへ数歩下がった。自分のとっさの反応を褒めてやりたい。もし腕で防いでいなかったら顔面にぶち当たって大怪我だっただろう。


 円状に穿たれて外との疎通ができた大穴には、大きな人影――人間だ。


 要よりも頭三つ分ほどの巨躯を誇る男の姿だ。黒い人民服という出で立ちの頂点へ視線を這わせていくと、たてがみのように長くささくれ立った黒髪と、爬虫類を思わせる鋭い金眼へと行きついた。顔の輪郭は鋭角的にこけっているが痩せ細っているわけではなく、剣のような頑健さと鋭さを感じさせた。


 炯々たる反射光を放つ金色の瞳には、要の顔が異常なくらいくっきりと移り込んでいる。


你是谁(誰だお前はっ)!?」


 要は無遠慮な口調でそう投げかけた。何者であるのかはまだ分からないが、いきなり他人の家屋の壁をぶち破って侵入してくるような奴がマトモな人間であるわけがない。……そもそも人間であるかも怪しいところだが。


 ――人間かも怪しい?


 つまり、普通の人間ではないということ。


 極め付けに、ここは武術関係の組織『公会(ギルド)』のアジト。そのような場所をいきなり襲撃してくるような輩といえば、武術関係の者くらいしか思い浮かばない。


 要の頭に『高手(ガオショウ)』という単語が生まれるまでに、そう時間はかからなかった。


 男のふてぶてしいバリトン声による台詞を聞いて、その考えが正しいことが証明された。


「俺の名は呂雲祥(りょ うんしょう)。『高手』だ。崩陣拳正宗四代目、工藤要とお見受けする」


 ……また「崩陣拳」か。どいつもこいつも崩陣拳好き過ぎだろ。


 そう頭の中でぼやいていたが、男――雲祥が金眼をさらに剣呑に光らせたのを見た瞬間、全身がすくみ上った。


 急激に体温が下がったような気分となる。


 それは、ただの「視線」。


 けれど、その「視線」に物質的鋭利さが宿り、ソレが要の体に突き刺さったような錯覚を覚えたのだ。


 ただの「視線」にそこまでの威力を付与させているのは、並々ならぬ「敵意」と「憎しみ」。今すぐにでも五体を分割してやりたいとでも言いたげな、強く、暗い瞋恚(しんい)


 この感覚を、要は以前にも味わったことがあった。


 昨日、王府井の探索を開始する時に感じた視線と同質のものだ。


 まさか、あの時俺を見ていたのはこの男――


「本当ならば貴様の()っ首すぐにでも斬り落としてやりたいところだが、あいにく俺は『高手』。ソレをやれば俺と俺の門派が武林中のいい笑い者だ。貴様の始末は弟子にさせる。まずは一緒に来てもらおうか」


 雲祥の手がおもむろに伸びてきた。要よりも倍以上大きなその手は石のように無骨で、一度掴まれたら一生引き離せないような威圧感があった。


 足がすくんで動かない。この男が絶え間なく発する絶対零度の眼に当てられ、精神が凍り付いていた。


 あと数センチで接触する間隔まで来た瞬間、




「――組織を抜けたかと思ったら、今度は人さらい? 随分と華麗なキャリアアップねぇ」




 聞き覚えのある、人を食ったような女の声が響いた。


 雲祥の背後からだった。


「――憤ッ!!」


 爆ぜるような喝とともに、大男が鋭利な勢いで動いた。片足を電光石火で退歩させ、先ほどまで背にしていた方向めがけて掌打を打ち込んだ。その踏み込みは床に敷かれた石畳を豆腐のように粉砕し、打撃の余波で突風が巻き起こった。


 が、その一撃は虚しく、何にも触れていなかった。


 かと思えば、雲祥の人民服の前部に三つの「ヘコミ」が生じた。


「ぐぅっ――」


 竜巻が吹いても飛ばなそうな巨体が、大きく後方へ滑る。


 先ほどまで雲祥がいた場所に、全身黒い薄着姿に栗色の髪の美女が「現れた」。過程無く、そこへ姿そのものを貼りつけたかのように。「空隙(くうげき)」に隠れての攻撃だろう。人が認識できない意識の隙間へ入り込み、そこで打ち込んだ不可視の三撃。


「……()っ」


 だが、深嵐も無傷ではなかった。見ると、衣服の右肩の辺りがパックリと切れており、中の肌にも浅いながら裂傷ができていた。


 それはきっと雲祥が付けた傷なのだろうが、要にはそれを作った攻撃が全く視認できなかった。武術家としての究極体『高手』の強力さの片鱗を見せられた気分だ。


 ――『高手』。


 要は今更ながら、目の前で起こっている戦いの貴重さを思い知った。


 初めて目の当たりにする、『高手』同士の戦い。人智を超えた境地へ至った者同士のぶつかり合いが繰り広げられようとしているのだ。


「邪魔をするか、小娘ぇぇっ!!!」


 耳をつんざくような怒声を張り上げ、雲祥が動き出した。風のように迅速で、かつ巨岩のように圧力にあふれた走行であっという間に距離を縮める。足が埋まりそうなほど激甚な震脚で間合いへ踏み入り、虎の爪をかたどった両掌を真っ直ぐ伸ばした。


 直撃寸前、深嵐の姿がその場から消え、


「あーら、小娘だなんて嬉しいわねー。ババア呼ばわりされるよりはずっとステキ」


 真後ろへ現れた。そこから、靴裏を鋭く雲祥の背中へ突き伸ばす。石のブロックで出来た塀くらいなら余裕で貫通できそうな鋭利さを秘めた蹴りだった。


「憤!!」


 片足を機敏に後ろへ下がらせ、爆ぜるように重心を移動。同時に左右の拳を両脇に引き戻し、その肘先と深嵐の爪先をぶつかり合わせた。力と力の衝突の結果、深嵐が押し負けて後方へ弾き飛ばされた。その延長線上には石の壁がある。


「おおっと」


 深嵐は宙返りし、飛ばされている方向へ足裏を向ける。やがて壁へ”着地”した。


 すぐに肉薄してきた雲祥の掌底に当たる寸前、斜め前――こちらから見れば手前――へ上半身から飛び込む。地面で受け身を取るのと、深嵐が寸前までいた壁面を掌底が粉砕するのはほぼ同じタイミングだった。


 雲祥はまだ止まらない。すぐさま機敏に転身しながら距離を縮め、外から内側へ振る形で右回し蹴りを放ってきた。


 対し、深嵐はなんと自分から仰向けに倒れた。けれどそれによって回し蹴りの下をくぐって回避することに成功。


 寝転がった深嵐は両膝を抱え込むことで「タメ」を作り、そこから全身を急激にしならせ、その勢いを利用して跳ね起きた。回し蹴りが空振って遠心力のままさらけ出された雲祥の背中めがけて、跳ね起きた勢いを込めた頭突きが叩き込まれた。


「ぐぉっ!」


 一体どれほどの打撃力だったのか。美女の放った頭撃は、骨太な大男の五体を決して短くない距離まで吹っ飛ばしたのだ。


 なんとも奇妙なカウンターだが、奇影拳は『酔八仙拳(すいはっせんけん)』の流れも汲んでいると聞く。地面を転がったり飛び起きたりする技や身法が多いその拳法の名残りも多少はあるのだろう。


「『敗勢跳石(はいせいちょうせき)』って、ね!」


 深嵐が滑るように直進し、吹っ飛ばされている雲祥へ追いすがる。追い打ち狙いだろう。今はその巨体は宙を浮いているため身動きが取れない状態だ。たとえ『高手』といえど物理法則を捻じ曲げて反撃することは不可能。


 構えた掌を打ち出そうとした次の瞬間――二人の間に「新たな影」が割り込んだ。


「消え失せろ、漢奸(ハンジェン)がぁっ!!」


 吼えたその「人影」は深嵐の掌打を片腕で受け流すと、すかさず深く腰を落としての正拳を打ち込んできた。踏み込んだ足は石畳を粉々に粉砕し、破壊の足跡を刻んでいた。


「うっ――!?」


 したたかに拳を腹へ受けた深嵐は苦しげに呻く。そのまま足が後方へ滑り、間が出来上がった。


 あまりに強烈な一撃に見えたので心配になったが、深嵐の表情は吹っ飛びようとは不釣り合いなほど平然としていた。おそらく『太極気』で防御したのだろう。


 先ほどまでの深嵐の立ち位置には、「先ほどの打撃の主」が陣取っていた。


 最初に目につくのは、怒り狂う猛禽のような面構えだった。逆三角形状に尖った頭部に、鼻先がやや斜め下へ向いた鷲鼻。鋭角的な眼差しは爛々と尖った光を放っており、眉間に傷跡のように寄った皺も手伝って常に怒っているように見える。


 背丈は雲祥どころか深嵐よりも小さめで、骨太とも言えない。身につけている半袖の中華装と木綿のズボンもMサイズくらいだろう。しかし、背筋を真っ直ぐに保ったまま腰を深く落とす中国武術の基本歩形『馬歩(まほ)』を形作る二脚は、まるで地面に深々と根を張った大樹のように盤石な重心を保っていた。


 その男は雲祥の傍らへと後退した。先ほど深嵐から守った所を見ても、仲間であることは火を見るよりもあきらかだった。


「……これは驚いたわね。まさか『長短双皇(ちょうたんそうおう)』の(しん)までグルだなんて」


 小柄の男を一瞥した深嵐は不敵に口端を吊り上げた。しかしその額に汗のしずくが一滴浮かんでいるのを要は見逃さなかった。


 彼女のその反応は、『長短双皇』とやらの実力をよく表していた。


 この『長短双皇』もまた『高手』であるということだ。


 『長短双皇』はその燃えるように輝く瞳をさらにギラリと光らせ、


「義を見てせざるは勇無きなり、と言うだろう! 貴様ら『公会(ギルド)』の愚挙を見過ごせぬという志を同じくして、この雲祥とともに参った次第!」

「いきなり人ン()ぶっ壊すのは愚挙じゃないのかしらねー。勇? 志? 大いに結構だわね。でもそれ以前にマナーってモノを学んだ方がいいわよぉ」

「抜かせ裏切り者が!! 貴様らのやっている行為は、偉大なる中華民族の遺産をドブ川に投げ込むに同じことよっ!! その愚かさ、その体に教えてくれようぞっ!!」

「やだー、体にって何よー、エッチー」

「……その余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)とした態度…………いつまでも続けられると思うな、『烟姫(ミス・スモーク)』ッ!!」


 爆裂。そう形容する以外思いつかないほど強靭な脚力で地面を蹴り砕き、瞬時に深嵐の間合いの奥底まで侵犯する。力強く踏みとどまり、そのタイミングに正拳の直進を一致させた。


 大地を一瞬だが激しく上下させ、空気を圧潰(あっかい)するほどの正拳突きはしかし当たらなかった。深嵐はすでに『長短双皇』の背後へ立ち位置を「移動」させていた。そこからすかさず手刀を後頭部めがけて走らせていたが――その動きは直撃寸前に中断された。


「おっと!」


 理由は簡単。雲祥が攻めてきたからである。彼が放った掌底が直撃する刹那、全身を捻って的をずらし回避。そのまま回転しながらジャンプし、一八〇度開脚。遠心力を利用したプロペラのような両回し蹴りを左右の敵の即頭部へ叩き込んだ。


 「ぐっ!」「おごっ!」雲祥と『長短双皇』、両名の呻吟(しんぎん)が耳朶を打つ。二人の体はそれぞれ真逆の方向へ弾かれた。雲祥は最初に破壊した壁側へ、『長短双皇』は要から見て手前へ。


 雲祥は壁に激突。直撃箇所を粉砕してさらに穴を広げ、外へ飛び出した。


 深嵐はうつ伏せでひるんだ『長短双皇』の逆立った頭髪を大根のように掴み上げると、


「ラァッ!!」


 そのドテッ腹を穿つような勢いで靴裏をぶち込んだ。その小柄な体がロケットのような勢いで飛び、雲祥が作った穴から外部へ放り出された。


 ドサッという落下音が聞こえると同時に、深嵐は壁穴に歩み寄り、そこから外へ降りた。要もその後を追い、穴のすぐ近くまで駆け寄る。


 背景に濃い木々の茂みを置いた、広い土の地面。茂みのすぐ傍でしゃがみこんだ体勢となった二人の闖入者に対し、年齢不詳な『高手』の美女が不遜っぽい佇まいを見せながら言った。


「見下げ果てたものねぇ、雲祥。少し前に『公会』を抜けたと思ったら、まさか賊まがいのことをするようになるとは。しかも『公会』とは無関係なヤツまで引っ張り出して…………あれほど崩陣拳を守る使命に情熱的だったアンタはどこに行っちゃったのかしら」


 え――――


 今、深嵐さん、何て言った?


 少し前に『公会』を抜けた?


 それってつまり――


「深嵐さん……こいつは……」

「ああ……要ちゃんは初見だったわね。このオッサンは呂雲祥。元『公会』会員よ」


 なんだか重たい空気を感じつつも、要はがんばって質問を投げかけた。


「元、ってことは、もう『公会』を抜けたってことですよね?」

「ええ。こいつがあたし達の同士だったのは昔の話。要ちゃんが次の伝承者に選ばれると決まった途端、それが気に入らないからって自分から『公会』を除名しちゃったのよ」

「そんな……どうしてですか?」

「雲祥は響豊の戦友。つまり抗日聯軍(こうにちれんぐん)だった。ここまで言えば分かるわよね?」


 理解を疑わない深嵐の言い方通り、要は全てを察していた。


 抗日聯軍は日中戦争期、旧日本軍を相手に活動していたゲリラ組織だ。


 つまりは、日本人に対して良い感情を持っていないということ。それどころか、憎しみさえ持っているということ。


 要は顔を手で覆いたくなった。また反日感情かよいいかげんにしてくれ、と。


 しかし一方で、戦友だという霍響豊との明確な違いも見抜いていた。


 響豊は要に厳しい態度ではあるものの、崩陣拳の次期伝承者であると踏まえた上で、それなりの態度で接してくれている。「それはそれ、これはこれ」という考えで「折り合い」をつけている。


 だが雲祥(こいつ)は――どう見ても「折り合い」をつけられていない。だからこそ『公会』を自主退会し、なおかつ、このような形で『公会』のアジトに侵入してきたのだ。


 その「折り合い」をつけられていない元会員は、バリトンで唾棄するように言った。


「全ては崩陣拳を思えばこその行動だ。貴様らこそ、何故日本人の伝承者など認める!? 貴様もその歳ならば知っているだろう!? そこにいる鬼子(グイズ)の祖先が我々にどのような仕打ちを与えたのか! それを知りながら、その糞餓鬼に我らの至宝を差し出す事に何の疑問も抱かないのか!! この裏切り者がっ!!」

「裏切り者ぉ? 脳天にブーメランぶっ刺さってるわよぉ? それに、まぁだそんな女々しい事言ってんの? もう戦争はウン十年前に終わってるのよ。アンタの戦友である響豊のオッサンだって「折り合い」をつけてるっていうのに。脳内で日本軍とバカスカ銃弾撃ち合ってるのはもうアンタだけよ。いい加減戦争ボケは卒業しなさい」


 要の後ろから、ぞろぞろといくつもの足音が折り重なって聞こえてくる。見ると、他の区画へ通じるあちこちの通路から、易宝、響豊、臨玉の『高手』たちがこちらへ向かって歩いてきていた。『高手』たちはみな壁穴から外出し、深嵐の隣へ足をそろえた。


「見なさい。この顔ぶれを。いくらアンタたち二人が名の知れた古強者だとしても、こっちの数はその倍よ。勝ち目は薄いって分からない?」


 勝ち誇るようでいて、諭すような口調でそう訴えかける深嵐。


 しかし雲祥は口元を獰猛な笑みで歪め、暗い洞窟の奥底から響くような重低音で言った。




「なるほど…………ならば条件(・・・・・)は同じだな(・・・・・)




 どういう意味だ、と問う前に、二つの人影が雲祥の背後の茂みから飛び出した。


 二人とも、なかなかに奇抜な恰好をした男だった。


 一人目は、まるで刑務所にいた囚人がそのまま出てきたような風貌の、大柄な男。囚人服に酷似した縞模様オンリーの衣服と帽子に、両手首を直径の太い鎖で繋ぎ合わせた手錠。一見するとふざけた外見だが、それらを身につけた本人の顔は真剣そのものだった。


 二人目は、男か女か判別しがたいがなんとか男だと分かる中性的な青年。地毛らしい紅色の長い髪はうなじの辺りを始点にして九本の三つ編みに分かれており、まるで九尾のキツネのようだ。背丈は囚人風の男より小さく、『長短双皇』より大きいと中間くらい。髪色と同色の詰襟長袖とスラックスは小さ過ぎずブカブカ過ぎずと丁度良いサイズで、細くしなやかな体の線を程よく表している。女性的だがかすかながら男らしさのある端麗な顔貌は、目の端が吊り上がっていてやや皮肉そうな印象を与えてくる。


 その二人を見た瞬間、こちら側の『高手』四人が総じて顔を驚愕に染め上げ、息を呑んだ。機械のように沈着冷静な響豊でさえも、だ。


「まさか……『自在囚(じざいしゅう)』の(しゃく)と、『吉祥蛇(きっしょうじゃ)』の(きゅう)か!?」


 易宝が固有名詞を二つ出し、動揺を呈した。


 要は問う。


「知ってるのか、師父(せんせい)?」

「知ってるも何も……両者ともに武林では相当に名の知れた『高手』だ。あの『長短双皇』の秦も含め、戦時中は抗日聯軍として大暴れしていた古強者」

「……強いのか」

「クソ強い。下手をすると、わしや臨玉では危ういかもしれん」


 そのセリフに、要は戦慄する。


 ――要は今まで、易宝を「最強」だと信じているフシがあった。


 何度も凄まじい実力を目の当たりにしているし、何より自分の老師であるので当然と言えば当然かもしれない。神聖視さえしていた可能性も否定できない。


 「深嵐に負けたことがある」という事実を聞いても、「そういうこともあるだろう」「昔の話だ。今戦えば勝敗は分からない」などという考え方を心の奥底で無意識に抱いていたと思う。


 けれど、今、その師の口から聞いてしまったのだ。「勝てるか分からない」という弱気な発言を。


 人は、「絶対に揺るがない」と信じていた事を揺るがされると、恐怖を覚えるものだ。


 出てきた二人が、立っている二人の隣へ並び立ち、四人組となる。


「これで四対四。条件は同じだ」


 雲祥はしたり顔でうそぶく。


「……なるほど。確かにこれで人数は五分だ。それで? 貴方は武林の御歴々をこんなに集めて何をしようとしているのかな?」


 臨玉が皮肉を織り交ぜた口調で問いかける。ちなみに彼がこの四合院にいたのは、別の部屋で易宝と象棋を指していたからだ。菊子の護衛という意味の方が大きいが。


 金眼をギラリと剣呑に輝かせ、雲祥は驚くべき言葉をはっきりした声で口にした。




「知れたこと。俺の目的はただ一つ――この腐った『公会』の壊滅だ」




 途端、易宝たちが放つ雰囲気が一変。


 深嵐はやや吊り目がちな眼差しを鋭く細め、金属のように冷えた声色で発した。


「……とうとう言っちゃったわね、その言葉を。これでアンタは本格的に『公会』の「敵」と化したわ。これからは一切手心を加えないから覚悟しなさい」

「抜かせぇ!! 我らこそ手加減はせん! 貴様らの罪はあまりにも重い!! その日本人の餓鬼ともども、貴様らを滅してくれようぞっ!!」


 怒鳴り声を発する雲祥に対し、かつての戦友であるという響豊は毅然とした態度で、


「血迷ったか、雲祥。そのような行為に、一体どのような意味がある? (うぬ)のしようとしていることは、気に入らない積木を崩して新しいものを建てたがる子供じみた行為にほかならぬ」

「何とでも言うがいい! 俺が命をささげたのは、今のように漢奸の吹き溜まりと化した『公会』ではない! もう決めたことだ! 貴様らに残された選択肢は二つ。抵抗するか、黙ってあの世へ行くかの二択だけだ!!」


 ズダンッ、と勇ましく一歩踏み出し、金眼の偉丈夫はゆるぎない戦意を見せつけた。


 ……それだけで、「もう説得は不可能」と全員が確信したに違いない。


 易宝たちは大なり小なり身構える姿勢を見せた。


「……カナ坊、おぬしは中庭に引っ込んでいろ」

「で、でも」

「いいから行けぃ!! ここからは『高手』の世界!! おぬしは邪魔でしかないのだ!!」


 有無を言わさず一方的な、易宝らしからぬ物言い。その声は怒りのようにも、苛立ちのようにも、焦りのようにも聞こえた。


 要は総身が一瞬だけすくみ上がったが、すぐに硬直が解けた。動くようになった喉と口で、


「わ、分かった。引っ込んでるよ」

「うむ」

「……無事に帰ってこいよ」

「誰に向かって言っている?」


 最後の最後に、得意げな微笑みを見せてくれた我が師。


 要は踵を返し、中庭の方角へと駆け戻った。


 ――これからこの場所で起こるのは、『高手』という人智を超えた怪物たちの死闘。


 見てみたいと思うが、易宝の言う通り、自分がここにいても足手まといでしかないだろう。


 もどかしさとやるせなさを感じつつ、駆け足でその場を去ったのだった。

読んで下さった皆様、ありがとうございます!


次回からは『高手』同士のバトル三昧となります。

『高手』の戦いは、この作品を始めてからずっと書きたかったシーンなので「やっとここまで来れたかー!」という気持ちでいっぱいです( ̄∀ ̄)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ランキング登録してみました。 ここを押すと、一票入るらしいです。 気が向いたらどうぞ|( ̄3 ̄)| ●小説家になろう 勝手にランキング○
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ