第二十一話 幸せな時間、うごめく影
ブティックを後にしてからというもの、要たち三人を重苦しい空気が支配していた。
午後四時半になった今でも、王府井を歩く人の数は少なくならない。しかし、その喧騒さえ気にならない。気にするだけの余裕が無い。
その原因はいわずもがな。
「……なあ、さっきは本当にゴメンってば。いい加減機嫌直してくれよ」
要は先頭を無言で歩く菊子に、へりくだった態度で呼びかけた。
けれど、全く返事をしてくれない。振り向いてさえくれない。
要はどうすりゃいいんだと叫びたい気分だった。
先ほどのブティックで起きた「菊子の着替え覗き事件」から、ずっとこんな感じなのだ。
無論、要はわざと覗いたわけではない。ただ純粋に試着部屋の菊子たちが心配だったのだ。けれど、かといって不可抗力ではない。試着部屋のカーテンを開けてしまったのは紛れも無く要なのだから。それで「わざとじゃない」と言っても説得力皆無どころか「嘘つき」と罵られかねない。
だからこそ、要は彼女にかけるべき言葉に困っていた。
「お願いだから、もう許してくれよ。確かにカーテンを開けたのは事実だけどさ、別にスケベ目的じゃなくて、キク達が心配だったからなんだよ。ほら、もう過去の事なんだから、水に流してさ。後ろばっかり見てないで前を向いて生きようぜ。な?」
「…………」
つかつかつかつかつかつかつかつか。
やはりだんまりだった。それどころか、歩く速度が速まった気がする。
背を向けているため表情は見えないが、話しかけんなオーラ的なものを発している気がする。
要は説得を一時断念する。仕方ない、こんな調子じゃ今は無理だ。もう少し時間が経ってからまた謝ろう。
ふと、隣を歩いていた奐泉が肘で小突いてきた。口元は微笑になっているが、ジト目だった。
「カナ様ったら、わたくし達を心配して、とかおっしゃっていますけど、本当は下心があったんじゃないですかぁ? キク様の裸体に興味があった、とか」
「はぁ!? バカ言ってんじゃねーぞ! 誰がそんなもん好きこのんで見たいってんだよ!」
要はムキになって弁解するが、効果が無いどころか逆効果ですらあった。
「――っ!!」
菊子は悲しげに息を呑むと、歩調をさらに速めて先に進んでしまった。
「……下心じゃないってのがそんなに信じられないのかよ」
憤り半分、悲しさ半分な表情の要に、奐泉が「は――――ぁっ」と馬鹿でかい溜息をついて、
「やっぱりカナ様ってド鈍ですわね」
「な、何だよそれっ? 俺は弁解しようとしただけであって――」
「弁解のし方が問題なんですの。カナ様、好きな男性から自分の体を「そんなもん」呼ばわりされたら、女は一体どんな気持ちになるんでしょうね?」
奐泉の言動は皮肉で尖っていた。
……なるほど。確かにそうかもしれないな。
「そう、だな。ありがとう奐泉。俺が今やるべきことをようやく見つけた気がするよ」
「へ?」
奐泉の呆気にとられたような返事を余所に、要は駆け足で菊子の進行方向へ先回りした。
のびのびとした前髪の下にある瞳を真っ直ぐ見ながら、決意で張りつめた声で呼びかけた。
「キク、聞いてくれ」
菊子の足が止まる。こちらの意思の強さを感じて、それに応えてくれたのかもしれない。
さらに一歩踏み込む気迫をもって、宣言した。
「俺は、お前の下着姿が好きだ!」
途端、菊子が息を呑んだ。
「「そんなもん」って言ったのは言葉のあやなんだ。本当は俺、お前の下着姿に心から見とれてたんだ」
その白い頬が、みるみる赤く染まっていく。
「すげー綺麗だった。貶せる要素なんかどこにもなかった。きっと理想的な体っていうのは、キクの体のためにあるようなもんだと思う!」
赤を通り越して赤黒くなっている気がする。
「だから「そんなもん」って発言を悪い方に取るな。もっと自信を持って――」
「ななななななな何言ってるのカナちゃん!?」
おお、やっとしゃべってくれたぞ。なんか感動だ。
しかし菊子は要の懐まで歩み寄ると、ぽかぽかと胸を叩いてきた。
「いててて、な、なんだよ!?」
別に痛くはないのだが、彼女の突然の奇行にすこし驚いた。
菊子は羞恥で上ずった声色で、
「もう、カナちゃんったら! こんな人前でなんてこと言うんですか!?」
「いや、何って……」
「そんなもん」発言を撤回しようとしただけだ――そう言おうとして、止まってしまった。
自分がどれだけの爆弾発言をしていたのか、ようやく自覚してしまったからだ。
要の顔面も、菊子と負けず劣らずの赤みを帯びた。
「い、いや、違う! 違うんだ!」
「何が違うんですか!? カナちゃんのえっち!」
「だから、俺はただ、覗くつもりでカーテンを開けたわけじゃないって言うつもりで……」
「そんなの分かってたもん! カナちゃんはそんな事する人じゃないですしっ!」
「じゃあどうして怒ってたのさ!?」
「怒ってないもん! 恥ずかしかっただけだもん!」
ぽかぽかぽかぽかぽかぽか。胸に何度も猫ぱんちを食らう。
「わ、分かった。分かったから! お詫び! お詫びに何か買ってやるから、それで許してくれよ!」
猫ぱんちがピタリと止んだ。
菊子は前髪の隙間から瞳を輝かせ、要を見上げる。
「……本当ですか?」
「あ、ああ。何でもいいぞ?」
「何でも良いんですか?」
「もちろん。あー、でもあんまし高いのはダメだぞ? 予算には限度があるんだからな」
しばらくだんまりとなる黒髪ベリーロングの少女。
けれど、すぐにキラキラした笑顔をこちらへ向けながら、
「――分かりました。なら、今回の事は綺麗に忘れますっ」
「そ、そうか。それは良かった」
あれ? なんか急に上機嫌になってないか?
それを裏付けるように、菊子は要の手を引いて、嬉々として歩き出した。
「それじゃあ、今から早速行きましょう! 待ち合わせ時間まであと三十分ありますから、無駄にしないように早く早く!」
突発的に元気を取り戻した彼女にぽかんとしながらも、黙って手を引く力に従って歩く要。
……まあ、機嫌が直ったみたいだから良しとするか。
後からついて来た奐泉は菊子の隣へ駆け寄ると、こそこそした声で訊いた。
「もしかして……さっき半裸を晒したのは、カナ様から何か買ってもらえるように誘導するためですの?」
「ち、違いますっ」
菊子は恥ずかしそうに否定したのだった。
ウキウキした足取りで歩く菊子に引かれてやってきたのは、民芸品店だった。
エスニック系のファッションやアクセサリが所狭しと置かれており、木やジャスミン香の匂いが心地よい。
片手を引っ張る力は、店内奥のカウンター付近にある金属アクセサリのコーナーへと要を導いた。
カウンターと同化したガラスケースの中には、指輪やネックレス、ブレスレッドなどの金属アクセが見栄え良くそろっていた。ドクロや蛇などのヤンキーっぽいデザインから、シンプルなデザインまで色々ある。
「ふんふんふーん」
菊子は鼻歌なんか歌いながら、ガラスケースの中の品を眺めていた。きっと、この中から選ぼうとしているのだろう。
うわ、見るからに高そうじゃん……と思って見てみると、案外そうでもなかった。確かに一部の品は目を背けたくなるくらい高いけど、その他のは結構お求めやすい価格だった。物価補正もあるのだろうが、それでも安い。これなら買えそうだ。そもそも菊子ほどのお嬢ならば、高いものは自分で買うはずなのだ。
「……キク様、他のお店にいきましょう? ここにはきっとキク様のお眼鏡にかなう品はありませんわよ」
そう訴えかける奐泉は笑顔だったが、眉間には不機嫌そうなシワが寄ってぴくぴく震えていた。明らかに作り笑いだった。
菊子はその笑みにびくっとしつつも、気丈に笑い返し、
「い、いいえ。ここがいいんです」
「うふふふ。キク様ぁ、本当はまだ食べ足りなくておなかペコペコなんでしょう? あっちに素敵なサソリの串焼きが売ってますから、それを買っていただきなさいな。うふっ、うふふふ」
「やですー! ここですー! 指輪、ゆびわー!」
奐泉が作り笑いのまま引っ張るが、菊子は近くの柱に抱きついて抵抗する。女二人のかしましさに、他の客が迷惑そうに顔をしかめていた。
――なるほど、指輪が欲しいのか。
まあ、何でも買ってやるって言ったのは俺だ。とりあえず見てみるか。
要はガラスケースの前まで来ると、今なお奐泉に引っ張られている菊子へ問いかけた。
「キクー、指輪だろー? 何が良いー?」
反応は速かった。
「カ、カナちゃんが選んでくださいっ。カナちゃんがわたしのために選んでくれることに、い、意味があるんですからっ」
「キク様ったら、いい加減観念なさいなっ!」
「わ、わたしは負けませんよーっ!」
なんか今日のキク、テンション高いよね。
騒ぐ二人を尻目に、とりあえずガラスケースの中の指輪を選び始めた。
俺が選ぶことに意味がある、か。なんかそれって婚約指輪みたいだよな。
そう考えた途端無性に恥ずかしくなったので、思考を振り払い、選別に意識を集中させた。
ドクロとかは明らかに菊子には不似合いだ。太極マークなども、女の子がするものとしては色気に欠けるだろう。となれば、無難なデザインが良いだろう。
真剣に選んで選んで、一つの指輪を注視した。丸い菊の花の刻印がなされた、シンプルなシルバーリングだ。値段も丁度良いくらい。
要は菊子に指のサイズを聞いてから、店員に頼んで取り出してもらった。お金を支払い、指輪を受け取った。
「はい、これ」
買った指輪を、いつの間にやら奐泉から逃げ出していた菊子に手渡した。
「わぁ……!」と嬉しげな声を漏らす菊子。
「どう? キクの名前にちなんで、菊の花のデザインを選んでみたんだけどさ」
言うが、彼女はキラキラ輝く眼差しで指輪を見たままで、こちらの言葉には耳を貸していない。
「うふっ、うふふふっ、ふふふふふ!」
今度は指輪を胸元に抱くように持ち、心地よさそうな笑声を発する。
「やぁん、もぉ!」
「てっ!?」
かと思えば、輝くような笑顔のまま張り手でどつかれる。その後また指輪を大事そうに抱えてくすくすと笑い続けた。……どうやら、ひどくお喜びの様子。
一方、隣に立つ奐泉がジト目でこちらを見つめてくる。
「いーなー、キク様いーなー、わたくしも何か買ってほしいなー。ねーカナ様、買ってくださいましー」
「いや、買ってやる理由ないだろ」
「なら、わたくしの下着姿も見せましょうか?」
「おいやめろ」
「冗談ですーっ」
べー、と舌を出してくる奐泉。なんか可愛かった。
「んげっ」
だがその可愛らしさは、その口から突然発せられた奇声によって台無しとなった。奐泉の視線の先には、左手薬指に指輪を嵌めた菊子の姿。
「キク様っ。どうしてわざわざ薬指に嵌めるんですの!? 人差し指でいいじゃないですかっ!」
「やですぅ! 左手薬指がいいんですー!」
「人差し指!」
「左手薬指!」
指輪を嵌める場所をめぐって取っ組み合いになる少女二人。じゃれ合いにしてはやや激しめで、キャットファイトと呼ぶには微笑ましげに見えた。それなりに仲良くなれた者同士でなければこんな感じにはならないだろう。
それを見て、要はなんというか、嬉しい気分になった。
こうやって三人仲良く過ごすことの、なんと心安らぐことか。
叶うのならば、これからもずっと三人で、こういう関係を維持していきたい。
要は自然にそう思った。
けれど、それが「ぬるま湯」でしかないことも、同時に理解していた。
◆◆◆◆◆◆
呂雲祥は、今日ほど自分の自制心を褒めたいと思ったことはなかった。
「計画」のための最終集会を終えて間もなくして「ソレ」を見た。昼の一時、小吃街の前だ。
新しく崩陣拳を受け継いだ、鬼子の片割れを見た。ちゃらちゃらと女をはべらせて、アホ面を晒していた。
アレが正宗四代目なのだというのだから、心底恐れ入る。
そんな無様を晒し、存在しているだけで崩陣拳の名誉を傷つけている糞餓鬼の首を跳ね飛ばしてやりたい衝動に駆られた。アホ面の状態で固定された生首が転がり、それを野良犬にでも食わせてやれたらどれほど爽快かと思った。
けれど、『高手』が『高手』でない武術家に手を上げることは、赤ん坊を大人がいじめる事に等しい行為。自衛目的でない限り、武林において軽蔑されるべきことに他ならない。いくら日本人を下劣で野蛮なヒトモドキと思っていても、武術家としてのプライドは優先させる。
あの小僧――工藤要を殺すのは、我が弟子である淵珠の仕事だ。
何度も自分にそう言い聞かせる。
明日、ようやく始まる。
不潔な鬼子に汚染された漢民族の秘宝を洗浄する。
大きく横道へ逸れた崩陣拳を、本来たどるべき道へ戻す。
そう、これは聖戦なのだ。
金色の瞳に王府井の夕空を映しつつ、雲祥は決意を再確認したのだった。
読んで下さった皆様、ありがとうございます!
流れからも分かる通り、もうすぐ展開が変わりますU・x・U