第二十話 観光パニック
朝露で濡れた雑草を、二足の足が踏み散らす。
まだ顔を半分しか出していない朝日の下、大小二つの人影がめまぐるしく動き回っていた。
劉易宝が滑らかな足さばきで、相手の間合いへと素早く踏み入る。
一方、踏み入られた側の工藤要は、師の右掌打が伸びる瞬間を見て迅速にその右側面へと立ち位置を変更する。掌打は空振りとなり、要は易宝の背後を取る。
後ろから打ち込もうと考えた瞬間、後足に重心を移す勢いに合わせて易宝の背中が押し迫ってきた。背中という大きな的を用いたその発力は避けにくい。けれどもそれを予想していた要は少しだけ早いタイミングで側面へ大きく跳び、ギリギリで回避が間に合った。
着地して、振り返る。
視界いっぱいに易宝の姿が迫っていた。あの背撃から一瞬で持ち直し、距離を縮めてきたのだ。
右掌が伸びてくる。
それと平行する形で、要も「運気」を行っていた。――頭頂部の『百会』から体内へ取り込んだ『阳気』を体内へ通し、臍下丹田で人体内部の『阴気』と融合させる。それによって生成された『太極気』を胴体へと移動させ、防御力を倍増させた。
要は甘んじて易宝の掌打を受け止めた。
吹っ飛び、踏んばった足が後方へスライドする。しかし痛みもダメージも無い。
打撃の勢いを使い切って滑る足が止まると、
「よし、ここまでにしよう」
易宝は終わりを告げてから、あっぱれと言いたげな明るい語気で、
「よく頑張ったなぁカナ坊。ここまで『気功術』を操れればひとまず及第点だ」
「ふう……」
汗にまみれた全身を脱力させる要。
汗の一つかいてない易宝を見て、やや恨みがましいニュアンスを込めた言葉を投げかけた。
「そりゃ、あんだけ死にそうな思いして上達しなかったら泣くよ俺。その全てが師父の仕組んだドッキリカメラだったからこそ特に」
「ま……まあ、多少荒療治だったことは否めんな」
ジトッとした愛弟子の視線から、易宝は苦笑しながら目をそらした。
すでに響豊襲撃(嘘)から三日が経過しているが、あの時の死と隣り合わせな気分はいまだに記憶に新しい。それを考えたら、もう少し恨み言を吐きたいところだ。
「そ、それよりだ。おぬしが覚えた技術はまだ気功術の基礎。いわばスタート地点から走り出したばかりの段階だ。そこへいろいろな応用技術を足していく。崩陣拳もその辺は例外ではない」
あからさまに話題をそらしている感じがするが、とりあえず今は三日前の事を蒸し返すのはここまでとし、我が師の説明に耳を傾けることにする。
その意思を確認したのか、易宝もごまかすようなよそよそしい態度を引っ込め、師匠モードに顔と声を変えた。
「カナ坊、これからおぬしにその「応用」というのを教えようと思う」
「応用?」
「左様だ。気というのは、ただ吸い込んで吐き出すだけのものではない。気というエネルギーの性質を利用したありとあらゆる使い方が可能なのだ」
「たとえば?」
「わしが易宝養生院で行う気功治療などだ」
武術ではなく医術へ話がシフトしたことに、要は目を少し見張った。
「わしは生傷の絶えぬおぬしに自然治癒力を高める気功治療をよく施すが、あれもいわば気功術の応用だ。人間の体には『阴気』が満ちている。その『阴気』には「波長」というものが存在し、それは個人によって指紋や声紋のように千差万別だ。優れた気功術使いは「波長」を操ることができる。己の「波長」を相手のソレと同調させてから気を送り込むことで、初めて相手の肉体をコントロールする準備が完了する。そうなればもはやしめたもの。相手の自然治癒力に干渉することも、相手の神経を一時的に遮断させて動けなくすることも可能となる。カナ坊、わしの手に触れてみろ」
易宝はスッと片方の掌を前へ出してくる。
要はそこへ人差し指で触れた。
「触ったけど、これがどうしたんだよ?」
言いながら指を離そうと――
「あれ?」
したが、離れない。
「ふぬーっ」
おもっくそ引っ張っても、一ミリたりとも離れない。まるで指と掌が、もともと一つのパーツであったかのようだ。
「離すぞ」
その易宝の発言とともに、くっついていた指と掌がパッと切り離された。
引っ張っていた勢いで、要は仰ぎ見るように倒れた。
背中についた草を払いながら、易宝を見上げる。
「……何、今の」
「さっき言った技術だ。わしの「波長」をおぬしの「波長」と同一にし、おぬしの生理機能に干渉したのだ。おぬしは指と掌がくっついているように感じたかもしれんが、正確には違う。指を引き離すために使う筋肉を一時的にマヒさせ、”機能的に”引きはがすことができなくしたのだ。電車もモーターが無ければ車輪を動かすことができぬだろう? そのモーターを引っこ抜いて走れなくしたようなものだ」
新たなる事実に感嘆する一方で、「離したくても離れない」という現象に既視感を抱いていた。
今年の四月、霜月組の事務所へ乗り込んだ時だ。易宝は最初に踊りかかってきたヤクザにわざと殴られたのだが、その拳が易宝の頬と磁石みたいにくっついて離れなくなっていたのだ。あれはきっと今の技を使ったからだろう。
「それを教えてくれるの?」
「無理」
「なんでだよっ」
「まだおぬしの気功術の功夫がその域に至っていないからだ。今のは「気功術はいろんなことに応用できますよ」ということを教えるためのデモンストレーション。本題はここからだ」
易宝は冗談めかした顔つきを一変、ある程度引き締めて告げた。
「おぬしにはまず――崩陣拳秘伝の気功術を覚えてもらう」
秘伝……その言葉だけで、なんだか凄みを感じてしまう。
でもまあ、崩陣拳はすべてが秘伝といえるので、他の技とあまり凄さは変わらないかもしれないが。
けれど、次の一言を聞いた瞬間、そんな舐めてかかった気分を吹き飛ばされた。
「この技は、崩陣拳における「切り札」ともいえる最強の技の一つだ。使い方次第では――――『高手』でなくとも『高手』を殺傷できるほどのな」
そのキャッチー極まる謳い文句に、要は目を食いしばる。
「マジかよっ?」
「うむ。名を『太阳』という」
「タイヨウ? アレのことか?」
要はすでに七割出てきていた朝日を指さす。
冗談のつもりだったのだが、易宝は以外にもそれに「阿呆」とは返さなかった。
「間違ってはいないな。中国の伝統的な思想において、太陽とは大いなる『阳』の気の塊だと捉えられておる。崩陣拳における『太阳』は、それと同じ存在を体内に生み出す技」
「丹田に、太陽を作るってこと?」
「そうだ」
……ヘソで茶を沸かせそうな話だ。もしそれで太陽ができあがったら、マジでお茶くらいは沸かせそう。
「何も太陽と同じ熱量体を作ると言っているのではない。『阳』の気……すなわち『阳気』の塊を作るという意味だ」
「『阳気』の塊? それがなんだっていうのさ?」
「『阳気』というのは普段はバラけているが、固まると非常に強いエネルギーを発揮する。恒星の太陽はその『阳気』が莫大な密度で固まっているからこそあそこまでのエネルギーを見せるのだ」
易宝は自身の下腹部――臍下丹田の位置へ片手を添える。
「体内に取り込まれた『阳気』は、生物が元来持つ『阴気』と結合する。そうして『太極気』の状態にすることで初めて人間は『阳気』を御することができる。人間に操作できるのは『阴気』のみ。その操作可能な『阴気』をくっつけることで『阳気』を一緒に操れる」
要は似たような話を聞いたことがあった。
「あ、そうだ! そういえばGに超小型機械埋め込んでラジコン操作する技術の開発が進んでるって聞いたことあるんだけど、その関係に似て――」
「その話はやめろぉ! 二度と気功術を使えなくなるではないか!」
世界の終わりのように頭を抱えて叫ぶ易宝に、要は「わ、悪い」と謝った。彼に対して例の虫の話は禁句なのだ。
彼は咳払いしてから、
「……話を戻すぞ。『太阳』とは、阴と阳の気を組み合わせた『太極気』へさらに『阳気』を注ぎ込み、それを何度も行うことで『阴気』を塗りつぶしていき、やがて『阳気』のみの塊に変える。これで『太阳』の完成だ。あとは普通の気功術と同じ。その『太阳』を発力と同時に打撃部位に移動させ、威力を高める。だがその強化率は『太極気』とは比べ物にならず、数十倍以上にも及ぶ。まさに形勢逆転に相応しい技だ。――が、問題点が二つ存在する」
指を一本立ててから、続きを話し始めた。
「一つ――肉体への負担。『太阳』は高密度な『阳気』の塊を叩き込む技であるが、当然、丹田から任意の場所へ運ぶには気の通り道――すなわち経絡を通さなければならない。しかし『阳気』の塊は、通った経絡に多大な負荷をかけてしまう。一回の使用でも経絡はズタズタになり、下手をすると廃人になる。だが崩陣拳において、この問題はあって無きがごときもの。経絡を常人以上に強靭に鍛え上げることで、『太阳』の使用を安全に行えるようにしてあるからのう。カナ坊、おぬしの経絡ももうかなり強化されている。なぜだか分かるか?」
「『頂天式』、か?」
「ご明察。よく分かったのう」
そりゃあ、分かると思う。
要は「経絡を鍛えるため」と称した修行法を一度もした覚えがない。なら、ただ立つだけで様々な方面での鍛錬を行える『頂天式』に答えが行きつくのは自然と言えよう。
「経絡の強化」もまた、『頂天式』に隠された秘密の一つだったのだろう。
「しかし、それはあくまで「経絡を安全に通せるようになった」だけに過ぎぬ。『太阳』は一度使うだけでも凄まじく体力を消耗する。使うべき場所を厳選しなければ逆転の武器どころか自分の足を引っ張ることになりかねん。だから基本、使わないことをおすすめしよう。使うのは本当にのっぴきならない状況に立たされた時だ」
そこで一度言葉を止め、二本目の指を立てた。
「二つ目――使用するには「盤石な思い」が必要なこと」
「盤石な思い?」
左様、と易宝は頷く。
「気功術に慣れたおぬしなら分かると思うが、気というのは、心と意識の力で動かすものだ。心で「こう動かしたい」と思えば、そこから意識が生まれ、その意識が気を動かす。「心」「意」「気」の一方通行のプロセスを経て気は動くのだ」
「……つまり、その一方通行の始まりである「心」が強ければ強いほど、気を動かす力も強くなっていくってことか?」
我が師はパン、と手を叩き合わせ、両の人差し指をこちらへ向けた。
「察しの良い弟子になってきたなカナ坊。その通りだ。『太阳』は普通の意識の力では制御不能な暴れ馬だ。乗りこなす手綱と鐙も相応に強固なものでなくてはならない。そのための手綱こそが「盤石な思い」」
「なるほどなぁ。でも、「盤石な思い」って言ったって、一体どういうモンなんだろう……」
「それはその時その状況によるさ。しかし、それは「相手を痛めつけたい」「殺したい」「復讐してやりたい」などといった負の感情では断じてない。それらの思いは一見すると盤石かもしれんが、ちょっとしたキッカケで簡単に波風が立つ脆いものだ。そんな感情では『太阳』を動かすどころか、固めることすらままならん」
そこまで告げると、易宝はやり遂げたように背伸びをしながら、
「さーって、そろそろ朝飯の時間だのう。さっさと四合院に戻って腹ごしらえといこうか」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ。『太阳』って技の練習はよ?」
要が困惑気味にそう問いかけると、彼は背中を向けたまま頭だけ振り返って言った。
「『太阳』は練習ができん。何度も言うが「盤石な思い」が無ければ、『太阳』は使用できないからだ。だから口伝として使い方だけおぬしに叩き込んだ。あとはぶっつけ本番で使えば良い」
前へ向き直り、四合院の方角へと歩いていく。
そんな後ろ姿を、要は呆然と見つめていた。
「盤石な思い」――そんな抽象的な単語に困っていたのだ。まるで掴めるはずのない雲を手渡しされた気分だった。
そんな思いが、自分の中に備わっているのだろうか。
しかし、そんな風に考えていると、空腹感が襲ってきた。
要も結局、すぐに師の背中を追いかけたのだった。
◆◆◆◆◆◆
拝師式は無事に終わった。
気功術の基礎をめでたく自分のモノにした。
会うたびに一触即発な空気を醸し出していた菊子と奐泉も、今では普通の女友達として仲良くしているようだ。……まあ、要をめぐる勝負ではお互いに譲るつもりはないようだが。
北京での夏休みを、今のところは可もなく不可も無く過ごしていた。
――朝食の後、ある重大な約束を思い出すまでは。
今回の北京旅行へ行くにあたり、要は母と約束を交わしていた。「お土産を買ってきなさい」とのことだ。食べ物でも民芸品でもなんでもいいから、とにかく買ってこいと。
要は今の今まで、その約束をすっかり忘れていた。なので滅茶苦茶焦った。
幸い、まだ八月の上旬だ。そこまで焦る事は無い。
けど先延ばしにしたらまた忘れてしまいそうで怖かった。手ぶらで帰国した時に浮かべる母のふてくされた顔を想像するだけで胃が痛くなりそう。
そういうわけだから、今すぐ買いに行きたいと考えた。
しかし、ここは広大な森林地帯のど真ん中だ。それなりに大きな街へ降りるとなると、とてもじゃないが徒歩では時間がかかり過ぎる。車が必要だった。
深嵐はいない。響豊には断られた。易宝もどこかに行っている。ご老体の楊氏に運転を頼むのは気が引ける。四合院の中に協力を望める人材はいなかった。
最後の頼みの綱として、要は臨玉に頼った。
運良く倉橋家の別荘にいた臨玉は二つ返事でオーケーしてくれた。
最初は要、臨玉、菊子――臨玉と一緒の方が安全だから――の三人で行くつもりだったが、発車直前に奐泉が「わたくしも連れて行ってくださいまし!」と飛び入り参加。四人での出発となった。
くねくねした山道を数十分走り、そこを抜けてさらにしばらく進んで、ようやく目的地へたどり着いた。
「いやー、ここに来るのも久しぶりだなぁ。何年ぶりだろう」
車を出て数分歩いた果てにたどり着いた繁華街を見上げ、臨玉は懐かしそうに呟いた。
ここは中国だ。しかし目の前に広がるその光景は日本のとある都市に少し雰囲気が似ており、始めて来た気があまりしなかった。
東京銀座を彷彿とさせるビル群は、レストランはもちろん、ブティックやブランド店、百貨店など多種多様だった。歩行者天国であり、にぎやかに往来する人々の通る道には歩道と車道の区切りが無かった。
王府井。北京市最大の繁華街で、日本では「北京の銀座」と呼ばれている場所だ。
この地にはかつて、王府(皇族の屋敷)があったそうだ。歩行者天国の一角には街の故事が刻まれたマンホールの蓋があるが、それは明代に作られた井戸の名残りらしく、そこから汲み上げられていたという水は名水として有名だった。「王府井」という地名の由来はそれらの事実が元となっている。
今では北京指折りの観光名所であり、駅から近いという立地条件も込みで、人が大勢ごった返さない日はほとんどないとのこと。
万人受けするモノからマニアックなモノまで何でもそろっている。ここなら土産を買うには最適といえよう。ちなみにこの場所を選んだのは臨玉だ。
奐泉から携帯を見せてもらったところ、現在の時刻は午後一時弱。ちょうど昼食を食べるにふさわしい時間帯だ。
先頭を歩いていた臨玉は「王府井小吃街」と刻まれた牌楼の前で立ち止まると、こちらを振り返って言った。
「では、僕はこれから夕食などの用意のため買い物をしなければならないから、ここからは別行動を取ろう。午後四時にこの小吃街の入口前へ集合。それまでの間に工藤くん、君のご両親へのお土産を買っておくといい」
「え? 夏さんは一緒に行かないんですか?」
「そうしたいのはヤマヤマなんだが、結構な量を買い込むことになる。車の中に荷物を置いてくることを考えると時間をロスしかねない。それだと観光する時間が削られてしまうだろう? だから年寄りのことは気にせず、君たち若い者だけで楽しんでくるといい」
ただし、と強い語気で区切ってから、要の肩を強く掴んだ。
「僕がいない間、君がお嬢様を守るんだ。もしお嬢様の身に何かあったなら、僕は君の存在を消滅させなければならなくなるから、そのつもりで」
「……じゃあ俺らも夏さんについていきますよ。消滅させられるのは嫌なんで」
「冗談だよ。でも、お嬢様を守ってほしいという気持ちは本当だ。頼まれてくれるかい?」
要の肩を掴む手の力が弱まる。そう頼んでくる臨玉は微笑みこそ浮かんでいたが、目が真剣だった。
「まあ……言われなくても、キクは絶対守りますけど」
「分かった、ありがとう。では行ってくるよ」
そう言って、臨玉は背を向けて去って行った。あっという間に人ごみに紛れて消える。
残された三人。
最初に口を開いたのは奐泉だった。
「さ、カナ様、キク様、行きましょう! ここからはわたくしがご案内しますわ! この王府井はわたくしにとって庭みたいな場所。無料でガイドしてさしあげます! どこか行きたい所はありますか?」
要は顎に手を当てて頭を巡らせたが、思い浮かぶ所は無かった。初めて来るのだから当然だ。
「俺としては、まず適当にぶらついてみたいかなぁ」
「そうですか。では、キク様は?」
話を振られた菊子は少しびっくりしながらも、
「えっと……わたしは東華門夜市に行ってみたい、かなぁ?」
「いいですね! では、まずはそこへ行きましょ、キク様!」
「きゃ!? ちょ、ちょっと、奐泉ちゃんっ」
菊子の手を引っ張って、ずんずん進んでいく奐泉。菊子はそのパワフルさにおろおろしながらも、口元には笑みが見えた。
少女二人の仲良しっぷりを、要は少し離れた所から微笑ましげに眺めていた。
少し前まで挑発し合うだけの関係性だったのが嘘のようだ。
二人が仲良くなったことに対して、嬉しく思うと同時に安心もしていた。視線で火花を散らす彼女たちを見るたびに、胃がきりきり痛む思いだったからだ。
やっぱり、いがみ合うより分かり合う方が素敵だ。
「カナ様ー、早く早くー!」
いつの間にやら遠くに離れていた二人。奐泉が声高に呼びかけてくる。
「悪い悪い。今行くから待ってくれよー」
そう言って要は駆け出そうとした。
全身にとてつもない悪寒が走った。
「――!!」
要は反射的に後ろを振り返り、『百戦不殆式』の構えを取った。
前の手の指先を通して、前方を確認する。しかし濃い密度の往来の中に、要を見ているらしき人物は誰一人いなかった。
けれども要は構えを解かなかった。解きたくなかった。不安で仕方がなかったからだ。
心臓がバクバクと鳴り止まない。それでいて全身は嫌な冷たさに支配されており、四肢も小刻みに震えていた。
――今、誰かに見られた気がした。
ただ目を向けられただけではない。視線という概念的なものが、物理的鋭利さを得て背中に突き刺さったようなイメージを感じたのだ。
要は『融声』の呼吸法で強引に心を沈めた。
――気のせいか。
振り返っても、敵らしき人物は見つからなかったわけだし。
きっと師父のドッキリのせいで、周囲に過敏になっているんだろう。
そう自分を無理矢理納得させてから、要は菊子たちを追いかけたのだった。
最近、地球人が異世界に飛ばされ、そこで大活躍するファンタジー小説が流行っているらしいが、今の要はまさにその異世界に来たような感覚だった。
見た目は銀座そっくりな街並みだが、少し掘り下げてみると「外国だ」という実感を否応なしに持たされた。
初めての北京観光は、新鮮なモノづくしであった。
まず、日本とは明らかに匂いが違った。
サソリ、ヒトデ、コオロギ、蚕などといった、普通なら食わないような生物の串焼き。
値札が貼られていない商品を並べ、客の人種や人相を見て値段をコロコロと変える阿漕な露天商。
エトセトラエトセトラ。
日本ではお目にかかれない人やモノや出来事をたくさん目にすることができた。
中でも要が感動したのは、ガラス細工の露天商だった。売るだけではなく、なんとその場で作って見せていたのだ。ただのガラス棒が、巧みなバーナーさばきであっという間に龍や鳥の姿へ変化していく様子はまさに人の手が成す神の御業だった。気が付けば要は龍のガラス細工を二つ買っていた。亜麻音への土産用、ついでに自分用に。
龍のガラス細工をほくほく顔で持ちつつ、さらなる王府井探索へと足を進めた。その過程で、さらに多くのモノを購入した。かねてからの野望であった中国茶器セットもその中の一つであった。これで実家でもティータイムが楽しめる。
ちなみに奐泉の「讨价还价」は思いのほか達者で、最初は買うために六〇〇元も要求された茶器セットをなんと四七〇元まで値切ってみせたのだ。これには要も頭が下がった。報酬として頭を撫でて欲しいと頼まれたが、快く撫でてあげた。それを羨ましそうに横から見つめている菊子から必死で目を背けながら。
歩いている途中、少し気の毒な光景にも出くわした。地面にチョークで自分の身の上話を書き、お金を入れる器を傍らに置いて座り込んでいるガリガリな老人の姿。物乞いだった。情にもろい要と菊子は札を数枚皿に放り込もうとして、奐泉に止められた。聞けば、この辺りで物乞いをしているのはソレをビジネスとしている「プロ」で、金払いの良い外国人観光客が来ることを読んだうえで活動しているそうだ。医者や普通のサラリーマンを超える収益をたたき出す「プロ」も少なくなく、中には息子三人を大学に通わせて高級車を乗り回している者もいるとのこと。
――以上のような体験をして、要がこの街の人からまず感じ取ったのは「生きる力の強さ」だった。
中国人は良くも悪くも実利主義だ。たとえどのような小恥ずかしいことでも、「必要だ」と認識すれば迷わずそれを実行する。それは過度に世間体を気にしたり、失敗を恐れたりしがちな日本人には無い「強さ」だと思った。
彼らの国民性は、中国武術にもよく現れている。実用的でない技術が歴史の経過とともに削ぎ落とされていき、「必要なモノ」だけが最後に残った。それが今現代に伝わっている拳法だ。
要はモノだけではなく、金では得難い経験や発見も手にしていた。
けれどまあ、要たちもやはり現代っ子。現代的な文化が恋しくなるのは無理からぬことであった。
そういうわけで午後三時、三人が訪れたのはブティックだった。
王府井大街の東には建物群を隔ててもう一本大通りがあり、そこは「東単エリア」という街路だ。洒落たカフェやブティックが軒を連ねる若者向けの場所である。
今現在買い物を楽しんでいる大型ブティックには、女性陣の要望で来た。
「カナ様、カナ様、これどうですか? 似合います?」
ポニーテールを尻尾のように振りながら、奐泉が駆け寄ってくる。彼女は売り物であるチェック柄のキャスケットをかぶって、自身の可愛さをアピールしていた。
「へぇ、なかなか似合うじゃんか」
「本当ですか!? きゃー! 嬉しい!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて嬉しさを表現する。
奐泉は活発なタイプの美少女だ。無駄にキラキラ飾り付けるより、少しボーイッシュな感じのファッションが良く似合う。
「か、カナちゃん、これ、ど、どうですかっ?」
菊子も負けじとカジュアルなデザインのキャップ帽を見繕い、同じようにかぶって見せつけてくる。
彼女も彼女で素材は超一級品なのだが、
「うーん、キクには似合わないかもなぁ」
「そ、そんなぁ」
肩を落としてシオシオに落ち込む菊子。ただでさえ長い前髪が余計に長々しく見える。
そこへ、いつの間にやら遠くへ行っていた奐泉が、服装一式を持って戻ってきた。
「キク様はこういうのなんかいかがでしょう? キク様は清楚な感じの服装が良く似合うと思うので」
菊子へ手渡されたのは、肩口で途切れた袖に花弁みたいなフリルが付いた薄手のトップスに、花柄のスカートだった。上下ともに白というすっきりした色彩で、全体的に柔らかな生地なので、ふわふわとした印象を与える。確かに菊子の儚げなイメージと合うと思った。
似合うと思うのだが、菊子は若干気が乗らない様子で、
「あの……あんまり肌を出すのは……恥ずかしいです」
「ノンノン。今着ているワイシャツとジーンズもそうですが、キク様の普段着はあまりに守勢が過ぎますわ。たまには攻めた格好もしないと男の人の心には刺さりませんわよ。いいえ、むしろキク様のように普段保守的な恰好をしている方にこそ、こういった服装は武器になるのです。日本語で言うところの「ギャップ萌え」というやつですわ」
「そ……そうかなぁ」
「はい。ついでに下着なんかもとびっきり暴力的なものにしてみましょう。こんな感じの」
言って、奐泉は片手に持っていた下着セットを見せた。黒色と花柄が非常にコケティッシュな「オトナの下着」であった。
ボン、という効果音でも起きそうなほど、菊子の顔が急速に赤くなった。
「だ、だめだめだめ!! 無理です! 絶対無理ですぅ!」
「そんなことないですわ。カナ様、キク様の服を持っててあげてください」
要は「わ、分かった」と言い、菊子から服を預かる。
奐泉の持つ下着の上下が、「着けるべき場所」へとあてがわれた。
「ほら。結構お似合いですわ。「清楚なベールの下に隠れた暴君」というコンセプトでいきましょう」
そう告げた奐泉の笑みには、イタズラっぽさがあった。きっとからかう意図もあるのだろう。
菊子はさらに頬の赤さを濃くしつつ、
「に……似合わないもん」
「似合いますわよ。ねー、カナ様?」
要に話を振ってきた。
「俺に振るな」と返そうとしたが、思わず想像してしまった。今のように服の上からではなく、素肌の上からあの下着を装着した菊子の姿を。
顔が熱くなる。
「……カナちゃんのえっち」
「なんでだよ!?」
裸見たわけじゃないのに。
「まあ、下着は冗談ですけど、先ほど渡した服はおすすめですわ。ちょっと着替えてみましょう」
下着を元の場所へもどすと、奐泉は要から服を受け取り、菊子の手を引いて試着部屋へと歩いていく。
菊子はその押しの強さに困惑しつつも、されるがままに連れて行かれる。
二人で試着部屋へ入り、しゃっとカーテンを閉じる。
それからバタバタとあわただしい音と、かしましい声が聞こえてきた。
「ささ、まずはそのワイシャツをお脱ぎになってキク様」
「か、奐泉ちゃん、く、くすぐったいよ」
「……んまっ、キク様ったら着痩せするタイプでしたのね。結構大きい……」
「んぁんっ!? ちょ、ちょっと、そんな触っちゃ……」
「さて、今度はそのジーンズを頂きますねー」
「ゆ、ゆっくりお願いします……」
「わぁ……キク様って本当に綺麗な肌してますのね。羨ましい……」
「…………………………」
耳にするたびに恥ずかしくなっていく。
聞いた情報を元に補正しようとする脳の働きを必死に打ち消す。
なんだか、すごくいけない事をしているような気がする。
聞こえない場所まで一時避難しようと、要が足を動かしかけた時だった。
「きゃ!! だ、だめ!! ああっ!!」
「あ、だめですキク様! そんな動いては――きゃぁ!!」
ドタバタドンバタバタ!
今までより輪をかけた騒音がカーテンの向こうから聞こえてきた。まるで家具を蹴倒した時のような騒々しい音だ。
「ちょっ、キク、奐泉、どうした!?」
だからこそ、要はそれに反応した。駆け寄り、カーテンを開いた。
――その時にしでかしたことを、自分は生涯悔やみ続けるだろう。
なぜ、「カーテンを開けず呼びかけるだけにしておく」という、簡単なことが思いつかなかったのだろう?
カーテンを閉じるのは何のためだ? 決まっている。着替えている所を外から見られたくないからだ。
つまり、そういうことだった。
露わになったのは、重なり合う形で倒れた二人の少女。
奐泉が仰向けに倒れかけた状態となり、その上に菊子が尻餅をついている。
その菊子は、脱ぎかけのジーンズを両足首に引っ掛けた状態で――下着姿となっていた。
「…………」
病的なまでに真っ白なその素肌は、見とれるくらい美しかった。
「……き」
砂時計のようなボディライン。細くあるべき場所は細く、出るべきところは出過ぎない程度に出ている絶妙かつ理想的なバランス。神が与えたもうた奇跡のような肢体であった。
「き……き……」
その肢体を包むのは、頼りない二枚の布のみ。これといった飾り気が無いライトグリーンのブラとショーツは、彼女の理想的な肢体を彩るには役不足のように思えた。
「きゃぁぁあああああああああ――――――――!!!」
絹を裂くような悲鳴を耳に浴びたことで、要の意識は現実へと引き戻された。
菊子はもうこれ以上は無理だろってほど顔を紅潮させ、我が身を抱きながら、
「み、見ないで! 見ないでくださいっ!!」
「ご、ごめん!! マジごめんなさい!!」
要も同じくらい真っ赤になり、迅速に後ろを向いた。
だが振り返ると、そこには店の女スタッフが立っていた。右脇に拳を構え、風のように肉薄してきた。
どう見ても素人の鋭さではないスタッフの正拳突きを、要はギリギリの所で回避した。
「な、何すんだよいきなり!?」
「やかましい、このゲス野郎! あたしの目が黒いうちは女性客への痴漢行為は断じて許さないわよ!!」
「はぁ!? 早とちりしてんなよ! あいつらは――」
「黙れ女の敵! 男のカス! サツに突き出す前にあたしの三皇炮捶でぶちのめしてやるわ!!」
「話を聞けっつーの!!」
なんやこんやと言い合いながら、店の中で暴れまわる――暴れているのはスタッフで、要はそれを避けているだけだが――二人。
結局、誤解を解くのに一〇分ほど要したのだった。
読んでくださった皆様、ありがとうございます!
お待たせして申し訳ありませんでした(´-`)
ようやく書けます、崩陣拳。
5章のラストまで突っ走って行きますので、どうか見守ってやってくださいᕦ(ò_óˇ)ᕤ