プロローグ 道標
2015.7/29 一部修正
夕暮れ。
古びた鉄道橋を列車が通過する。
その列車は通過すると同時に、橋の下に広がる河川敷へ耳を塞ぎたくなるほどの騒音と、一月の冷たい風を送り届ける。
そしてその寒風は薄暗い鉄道橋の真下にぽつぽつと生えた短い枯草と、それらの上でうつ伏せに倒れているブレザー制服姿の少年の頬をヒヤリと撫でた。
土ほこりと草の切れ端まみれなその制服は男子のものだが、それを身にまとう少年は性別を偽って女子の制服を着て学校に通っても問題がなさそうなほど可憐な顔立ちをしている——いや、していた。
だが今その端正な面貌は、数箇所に及ぶ打撲痕で台無しになっていた。
少年の表情を支配していたのは――苦痛と悔恨。
「はぁ…………はぁ…………チビのくせに、手こずらせやがって」
「くそっ……さっき噛まれた跡がまだ残ってんぞ……」
倒れている少年の周囲には、同じ制服を着た八人の男子が息を切らせながら立っていた。全員、小柄で線の細い少年よりもはるかに背が高く、体型もしっかりしている。彼らの拳を覆う皮膚は厚く硬質的で石のようだ。おそらく、何らかの打撃系格闘技に通じているのだろう。
――八人の大柄な男子が輪のように立っており、そしてその輪の中心には、ボロ雑巾のようになった少年が倒れている。
誰がこの構図を見ても、八人の男子が集団で少年に腕力を振るったということは想像に難くないだろう。
だがこの八人の中に含まれていない、黒幕が一人存在した。
「どうよ? 空手部のみんなのサンドバッグになった感想は?」
黒幕は男子たちの後ろで控えていた。
着ているものはやはり少年と同じ制服で、少し長めにカットされた人工茶髪が特徴的な、ホストのような容貌をした男だった。
その茶髪男はボロボロになって倒れた少年を見て冷笑を浮かべている。少年を見つめるキツネのような切れ長の瞳の奥底には、嘲りの感情を秘めた濁った光が灯っている。
「………………最悪だっつーの」
少年はうつ伏せの状態から軽く頭を上げ、茶髪男を睨みつけながらかすれた声でそう吐き捨てる。
八人の男子を操って、自分に暴行を加えさせたのはこの男である。
こいつは自分に度重なる嫌がらせを仕掛けてきたクソ野郎だ。
初めはすれ違いざまにワザと肩で体当たりしたりなどというちっぽけなものだったが、すぐにエスカレートして、授業中に仲間とともに後ろの席からちぎった消しゴムを何度も投げつけてきたり、教科書を強奪して逃げたりなどと悪質化していった。
昼食をとっている最中、弁当箱の中にGの死がいを投げ込まれた時にはもう爆発していた。渾身のアッパーカットを茶髪男の顎に叩き込み、仰向けに倒れた所を狙いマウントをとってタコ殴りにした。
その後、すぐに通りかかった教師の手によって取り押さえられ、少年は一週間の停学処分を食らった。ふっかけて来たのは向こう側だったので当然不満だったが、少年はおとなしくそれに従った。
そして停学期間を経て、ようやく学校に顔を出すことを許された初日の下校途中、この茶髪野郎が仁王立ちで現れたのだ――八人の愉快な仲間を連れて。
少年は学校近くの河川敷に架かるこの鉄道橋の下へ無理矢理連れ込まれ、八人の仲間から手痛い報復を受けた。
勿論、抵抗はした。暴行を加えてくる男子の何人かの腕に噛み付いたり、金的を蹴ったりなど。だが相手は空手マン八人だ。素人で、しかも体の小さい少年一人が長く持つはずもなく、すぐにされるがままとなった。
――そして、今に至る。
「そっかー、いやー随分男前になったねぇ。俺の次の次の次くらいイケメンになったんじゃない?」
茶髪男は痣だらけな少年の顔を見て、底意地の悪そうな笑みを見せる。
――くそっ、マジで殴ってやりたい。
「え? 何その顔? もしかしてまだやる気?」
自分のことを睨めつけてくる少年を見て、茶髪男は「馬鹿じゃねえの?」そんなニュアンスがこもったような口調で言ってきた。
ああそうだ。俺はバカかもしれない。八対一でここまでこっぴどくやられてるってのに、まだ抵抗しようなんて考えてる。勝ち目なんてないのに。
だが逆恨みし、仲間を集めて報復しに来るようなケツの穴の小さいヤツの前で弱みを見せることは、人一倍負けん気の強い少年のプライドが許さなかった。
「うっせー…………てめーらのパンチなんか……効かねーよ……大山センセーにでも鍛えてもらってから出直しやがれ」
少年はあちこち痛む体に鞭を打ち、よろよろと立ち上がって精一杯意地を張ってみせる。
茶髪男の表情がガラリと冷たいものへと変わった。
「……やれ」
そんな冷淡な合図からすぐ、少年は腹部に鈍い痛みを感じた。
「かふっ…………!」
見ると、男子の一人が放った硬い右拳が、自分の土手っ腹に突き刺さっていた。
その男子は続けて力任せの左フックを少年の頬骨に叩き込んでから、丸太のような左脚によるローキックで足を払い転倒させる。
少年が地面に転がったのを皮切りに、残ったもう七人の男子も前に出て少年の五体をこれでもかと踏み蹴った。
空手部のくせに空手の「か」の字も見当たらない。一方的なリンチだった。
「はいストップ! 一回やめ!」
それが一通り続くと、茶髪男は一旦男子たちを静止させた。
「分かったろ? お前じゃ俺に勝てねーんだよ。許して欲しかったら今すぐそこでカエルみてーに土下座して『もう二度と逆らいません』って言ってみ。そしたらもうそいつらに手は出させねーよ。ま、お前へのイヂメはトゥービーコンティニューだけどな」
茶髪男はそう嘲笑を浮かべながら、痛みに顔を歪める少年を見下ろす。完全に自分の勝ちを信じきっている表情だった。
だが少年はふんっ、と鼻を鳴らして言った。
「やかましい…………自分でケンカもできねー奴が……何を偉そうに……」
その言葉を聞くと、茶髪男は嗜虐的な笑みを浮かべて叫んだ。
「ワンモアセッ!」
その掛け声とともに、男子八人は再び少年を足蹴にし始める。
蹴って転がされ、蹴って転がされを繰り返しながら、少年は八人の輪の中を何度も往復させられた。
(くそっ……マジ痛い……!)
少年は唇を噛み締め、ひたすら暴力の嵐に耐える。
一度強打した場所は敏感になる。そこを何回も蹴られるため痛みは倍増していた。
男子と男子の間を蹴り転がされるたびに、口の中へ砂利や枯草の切れ端が侵入してきて非常に不快だ。
頭部は両腕で押さえて守っているため蹴られてはいないが、それ以外のあちこちが痛くてたまらない。
かと言って、この八人に抵抗する体力も残っていない。今の自分にできるのは、ただ痛みに耐え、物言わぬ人間サッカーボールを演じ続けることだけだった。
「よし、一旦やめろ」
約一分半後、茶髪男は再び八人にストップを命じた。
「なぁ工藤ちゃんさ、いい加減土下座して楽になろうよ。こんだけやられりゃもう平和な選択できるよねぇ?」
茶髪男はうつ伏せに倒れた少年の前に来てしゃがみ込むと、その顔を覗き込み、物分りの良くない子供を諭すような口調でそう言う。
――それはできないと、少年は思った。
確かにここで土下座して詫びを入れれば、自分はこれ以上苦痛を味わう事なく解放され、家路について暖かいお風呂と美味しいご飯にありつくことができるだろう。
けれども、それは一時的な快楽だ。次の日から自分への嫌がらせが再スタートして、また以前のパターンに逆通りである。
自分が一体どんな悪事を働いたというのか。先に嫌がらせをしてきたのは向こうで、自分はそれに対して一人で立ち向かっただけだ。
謝る理由が見つからない。そんな土下座はできない。
少年は上半身を起こすと、砂利と枯草の混じった唾を地面に吐き捨て、鼻を鳴らして告げた。
「……寝言は寝てから言え、茶色頭」
再び、茶髪男の表情が急変する。
「――ふぅん? そういう事言っちゃうんだぁ?」
男子八人は、そう言った茶髪男の顔を見て冷えた顔をした。
一応笑ってはいるが、微笑みのマスクを無理矢理顔に貼り付けたような、無機質で考えの読めない微笑だった。今までの軽佻浮薄な笑みとは違う、不気味な笑顔だ。何をしでかすか分からない、暗く湿っぽいオーラが出ている。
「おいお前ら、そいつをそこに押さえつけろ」
茶髪男は真上に架かった鉄道橋を支える巨大なコンクリートの柱を指差し、男子八人にそう指図する。
最初は、一体何をする気なのかとばかりに躊躇して動けずにいた八人だったが、
「ほら、早くした方がいいぜ。俺はキレっと何すっかわかんねぇからよ」
茶髪男がそう緩やかに威圧すると、男子八人のうち二人が止むを得まいといった様子で動き始めた。
その二人の男子は少年の両腕を引っ張って無理矢理立たせ、コンクリートの柱へ両肩甲骨を押しつけて動けなくする。
「な……何をする気だ?」
嫌な予感がした。
茶髪男は先ほどの無機質な微笑を崩さないまま、ポケットからスマートフォンを取り出してスイッチを入れ、何度かタップするとカメラのレンズを少年に向けた。
より正確に言うなら、少年のベルトの辺りに。
「いや、下半身ヌード撮影会でも開こうと思って」
茶髪男の言葉の意味を、少年はすぐに理解した。
「や、やめろ! 離しやがれ!」
少年は必死にジタバタするが、両肩と両腕を二人の男子に押さえつけられているため身動きがとれず、足だけがじたじたと動く。
「やだね。お前みたいに根性のある奴は、普通にボコるより、男としてのプライドをズタズタにしてやった方が効果的だからな。撮った写メは大量コピーして明日の朝校門にばら撒いてやんよ」
茶髪男はスマートフォンを右手に構えながら、邪悪な笑みを浮かべてすさり、すさりと近づいて来る。
「くっそー、離せコラー!」
少年はさらにムキになって暴れるが、やはり拘束は解けない。
そうしているうちに、茶髪男はすでに手を伸ばせば届くほどの距離まで来ていた。
茶髪男の空いた左手が、少年のベルトのバックルに向かって伸びてくる。
「触んじゃねーよ!」
少年は茶髪男の下腹部を、なけなしの体力を振り絞って蹴りつけた。
「ッ痛っ……!」
爪先から入った蹴りは結構効いたようで、茶髪男の顔に苦痛の色が浮かんだ。
だが、それはすぐに燃えるような憤怒の形相へと変貌する。
「このクソガキャァ!」
怒号をあげ、少年の腹部を踏むように蹴りを入れた。
少年の表情が歪む。背後の柱に押し付けられるような形で蹴られたので、靴の裏が腹に食い込む。痛みとともに若干の気持ち悪さまで感じた。
「ナメんじゃねぇぞッラァ! 俺ぁテメェみてぇな奴が一番嫌ぇなんだよ! どんだけ根性出しても所詮カスはカス!! 力のねぇ奴が強がったところで状況は変わんねぇんだよ!!」
馬脚を現した茶髪男は、強く握り締めた左拳を怒り任せに左右往復させて、少年の顔を殴打し始めた。
何度も、何度も、何度も、憎しみを込めて殴り続ける。
そうしているうちに、少年の鼻腔から鮮血が湧き水のように流れ出てきた。
だがそれでもなお、茶髪男は殴る手を止めようとしない。
少年を押さえ込んでいる男子二人がそれを見てゾッとする。
その二人だけではない。端から見ている六人の男子も、狂ったように少年を殴り続ける茶髪男にドン引きしている様子だった。
「お、おい…………もう勘弁してやれよ……それ以上やったら死んじまうかもしれねーぞ……」
「っせえ! 俺に指図すんな! 殺すぞ!!」
声をかけた男子の一人がビクッと萎縮する。茶髪男の剣幕は普通じゃなかった。目が血走っている。
茶髪男は再び殴り始めようとするが、ふと、その動きを止めた。
奴の目は自分の左側、コンクリート柱の根元に向いている。
そこに転がっていたのは――ところどころ錆び付いた鉄パイプ。
茶髪男は右手のスマートフォンを投げ捨て、その鉄パイプを拾うと、再び少年の目の前へ戻ってくる。
そして鉄パイプの端を両手で握り、右肩で背負うように振りかぶった。
(ちくしょう……何もできねー…………)
朦朧とする意識の中、少年は自分の無力を呪った。
『力のねぇ奴が強がったところで状況は変わんねぇんだよ!!』
その言葉は、少年の心に深く突き刺さっていた。
ムカつく話だが、この茶髪野郎の言う通りではないか。気概だけではどうにもならない。
何度も殴られ蹴られ、もう噛み付く体力も残っていない。
否、たとえベストコンディションであっても、自分にこいつらをギャフンと言わせる力は無いだろう。
俺は口だけの奴なのか。そうなのかな。
――もっと俺に力があれば。
目の前の現実は、それ以上考える事を許そうとしなかった。
茶髪男の鉄パイプが振り下ろされる――
「はい、そこまで」
――ことはなかった。
いつまでたっても、鈍い衝撃は来ない。
「なっ………………!?」
代わりに聞こえてきたのは、驚愕したような茶髪男の声。
少年は項垂れていた頭を上げ、茶髪男のいる方を見る。
茶髪男が振り下ろそうとした鉄パイプは、さっきまでいなかったはずの男の手によって掴まれて止まっていた。
身長は百七十センチ弱だろうか。細身だがどこか凝縮感を感じるその肉体を覆っているのは、結び目でできたボタンを襟元まで止めた黒い薄手の長袖と、それと同色のゆったりとした長ズボンという格好。昔観た香港映画なんかで出てきた、カンフーの達人がしているような服装だった(映画を観たあとに母から聞いたが「唐装」という、中国の伝統衣装らしい)。ルックスは甘いマスクと形容出来るほど整っているが、そこから弱々しさは一切感じられない。美しさと精悍さが同居したような、そんな顔立ち。
「こんな危ないもん振り回してないで、子供は家でファミコンでもやっとれ」
青年はそう言って茶髪男の鉄パイプを強引にひったくると、後ろへ高く放り投げた。鉄パイプは空中で回転しながら、やがて細い河川へボチャン、と落ちる。
そして少年を柱へ押さえつけている男子二人の肩を掴むと、「フンッ」という鼻息とともに簡単に引き剥がしてしまった。男子二人はたたらを踏みながら青年の後方へ放り出される。
拘束から解放された少年は支えを失ったように、柱へ背を擦り付けながら地面にベタンと尻餅を付いた。
青年は少年の目の前でしゃがみ込むと、乾きかけた鼻血と赤紫の打撲痕でいっぱいになった少年の顔にペタペタ触れていく。
「ふむ……見た目ほどひどい怪我じゃなさそうだ。とりあえず鼻も折れとらん」
視界にアップで映った貴公子のような青年は、軽い安堵の声でそう呟く。
「あ…………あんたは……?」
少年は乾いた声でそう尋ねる。
だが、それを聞きたかったのは少年だけじゃなかったようだ。
「だっ、誰だテメーはっ!?」
青年の真後ろに立っていた茶髪男が、狼狽えた様子で訊いた。
「誰って、ただの通りすがりのおっさんだが」
青年は軽く振り返り億劫そうにそう答えると、再び少年の方へ向き直り、
「ほら、肩を貸そう。まずは応急処置だ。近くに薬局があったから、わしがそこに連れて行ってやる」
自身の右肩に少年の左肩を組ませ、そのまま持ち上げて立つ。青年は少年の低い身長にあわせて肩を組んでいるため若干猫背になっていた。
そのまま歩き出そうとしたが――
「待てやコラ」
茶髪男に行く手を阻まれた。その顔はひどく不機嫌そうだ。
「すまんが通れない。ちょいとどいてくれ」
ギスギスした空気を読んでいるのかいないのか、青年は平坦な口調と態度でそう促す。
茶髪男はさらに苛立たしげになって舌打ちし、
「通れねぇようにしてんだよ。わかんだろ普通よ」
「なぜ? もう勝負はついておるだろうに」
「はぁ? 何言ってんだよ兄ちゃん? これは勝負じゃねぇ、制裁なんだよ」
「制裁?」
「ああそうさ。そのチビは俺のアゴにアッパーくれやがったんだ。その制裁だよ」
ふざけんじゃねー、テメーが悪いんだろーが、このタコ! 少年そう罵倒してやりたかったが、疲労で口にするのが億劫だった。
「そうか。しかし何が原因なのかは知らんが、集団で痛めつけるのはいかがなものかと思うぞ? 封建時代じゃあるまいし、やるんなら自分の手で殴り返したらどうだ? 親に貰った立派な両手があるだろう」
「…………ウゼェな、アンタ。正論並べやがって――おいお前ら!」
今まで地面に縫い付けられたかのように動かなかった男子八人が、茶髪男の声にビクッと反応する。
「こいつらをぶちのめせ。やらなかったらテメェ等の親のクビがブッ飛んでも知らねーぞ。タイヘンだろうねぇ? 今のご時世で再就職なんて」
茶髪男のその言葉は、彼らを動かすに足るものだった。
男子八人は渋々といった感じで河川敷の左右に四人ずつ分かれ、少年と青年が先へ進めぬよう立ちふさがった。茶髪男は、こちらから見て左側に立つ男子四人の後ろという安全地帯に避難し、ギャラリーを決め込む。
前方には細い河川。冬なので入ったら死ぬほど冷たい。
後方には真上の鉄道橋を支える巨大なコンクリートの柱。堤防の上へ出られる階段は茶髪男の後ろ側だ。
前後左右、退路は断たれた。
「わ……悪く思うなよ…………仕方ねぇんだよこれは……」
男子の一人が、気まずそうな表情で言い訳がましく口にする。
見ると、他の七人も同じような顔。
全員イヤイヤなのは明白だった。
――噂通り、ヤクザみてーな野郎だな。
少年は、離れたところにいる茶髪男を細目で睨んだ。
奴の父親は、某一流企業のトップだ。
そして、そこの社員を家族に持つ生徒に対し、奴はクビをネタにまるで暴君のごとく振舞っている。
学年のアイドル的女子に交際を断られた茶髪男が、腹いせにその親を大左遷させた挙句に退社へと追い込んだのは有名な話だ。
そのモデルケースが生まれて以来、奴に逆らう者は一人もいなくなった。困窮するより、我慢を選んだのだ。
そしてこの八人も、我慢して言いなりになることを選んだクチだろう。
自分の親が、奴の親の傘下にいなかったことが奇跡のようにも思える。
「――どうやら穏便には済まんようだ」
青年は不本意そうに呟くと「危ないからちょっとここにいろ」と言って少年をコンクリート柱の根元に座らせる。
そして、左右を囲む男子八人の間の位置に立つ。
――まさか、一人で闘る気なのか?
こいつらは素人じゃない。部活レベルだが、全員空手をやっている。
しかも、その数は八人。全員青年よりも体格がいい。
この青年が今の自分のような姿になる未来しか思い浮かばなかった。
「やめてくれ……」止めるべきだと思った少年は、かすれた声で青年に訴える。
だが、青年はその声に振り返ると、軽く笑いかけ、再び背を向けた。
まるで「大丈夫だから、おとなしく見てろ」そう下知を送るように。
――その後ろ姿は、不思議と頼もしさを感じさせた。
少年は全身を脱力させ、コンクリート柱に背中を預ける。
「――ぶっ殺せ!」
茶髪男の指図とともに、左右の男子が中間の青年を挟撃しようと走り来る。
皆、顔を真っ赤にして必死の形相だ。
「……やれやれ、仕方がない」
そう言うと青年は、黒い革靴を履いた右足を地面に「ドンッ」と力強く踏み下ろした。真上の鉄道橋がほんの一瞬「ビリッ」と振動する。
そして、右側を向いたかと思うと――迫り来る男子四人に向かって歩き始めた。
構えもせず、身体の中心線をさらけ出したまま、筋肉の塊のような男子四人に向かって泰然と歩を進め続ける。
青年と男子四人の距離が縮まってくる。一メートルほどの距離ができると、四人のうち二人がタックルを、もう二人が体重を乗せた前蹴りを青年に向けて放ってきた。
この場合、物理的に考えれば青年が吹っ飛ぶはずだった。
――だが、結果はその逆だった。
青年の体に触れた瞬間、四人はまるで弾かれたようにバラバラの方向へ吹っ飛んだ。
一人は背中からコンクリート柱へ激突し、また一人は遥か後ろへゴロゴロと転がり、残った二人は川に落ちた。
「ぐあぁっ、ひぃ、冷てぇ!」
「凍え死ぬ! 凍え死ぬ!」
落っこちた二人は濁った冷水の中でバシャバシャともがき苦しむ。
一部始終を見ていた茶髪男と残り四人の男子が、驚愕の表情を浮かべていた。
「ど、どうなってんだ一体……!?」
「自前の推進力に地球の力をプラスアルファーしただけだ。おぬしらには理解できんだろうがな」
茶髪男の疑問に、青年が真顔で答えてみせる。先ほど青年が強く足踏みしたところには、青年の履く革靴の裏を形どった深いくぼみができていた。
「な、何してんだテメーら!? 早くあいつをやれ、ボケ!」
茶髪男が焦った様子で、立ち止まった残りの男子四人に命令を下した。
四人がヤケクソ気味に青年に向かっていく。
――だがいかんせん、格が違いすぎた。
最初に向かって来た男子が、左正拳突きを青年に打ち込んできた
だが青年は、突き出された相手の左腕に自身の右腕を滑らせて拳を受け流しつつ、右掌打を男子の腹部に押し込んだ。
その男子は「グエッ」という不気味なうめき声を洩らし、勢いよく後方へ吹っ飛んだ。その途中、向かってくる男子の一人とすれ違う。
「野郎っ!」
そう叫んで男子がまた一人迫って来る。助走の勢いを乗せた右拳をフックで放とうとしていた。
青年はそれよりも速く男子の懐へ潜り込み、右肩で体当たりして弾き飛ばす。打たれた男子は数メートルほど後ろへゴロゴロと転がって止まり、そのまま動かなくなった。
だが一人退いたのも束の間、右側から青年に回し蹴りを食らわせようとする男子が一人いた。
「――実戦であまり高い蹴りはオススメできんぞ」
しかし青年はそれも読んでいたようだ。回し蹴りを見もせずに片手で掴み取り、そのまま押し込んでから手を離した。片足を取られて重心が不安定になっていたその男子の体は簡単に後方へ動かされ、たたらを踏みながら後ろの川に落ちて大きな水しぶきを上げる。
「こうなるからな」
青年が川へ落ちた男子を見下ろし、それ見たことかとばかりに白い歯を見せる。
「で? 今度はおぬしか? ほら、来い」
残った男子はあと一人。青年はその相手に意気揚々と手招きしたが、
「うわぁーーーー! よ、妖怪だーーーー!!」
絶対勝てない、そう本能で悟ったのかもしれない。最後の一人は恐怖と驚愕のニュアンスを持った絶叫を河川敷に轟かせ、堤防の階段へ向かって一目散に走り去った。
川に落ちた三人も急いで水から上がると、陸で伸びている四人をほったらかしにし、茶髪男を素通りしてそそくさと階段へ逃げ出す。
「あ、おい、待てテメーら! 誰が帰っていいって…………!」
茶髪男は呼び止めるが、彼らは全く耳を貸さずに走り続け、やがて堤防の上へその姿を消した。
「くそったれが! あいつら明日覚えてやがれ!! じゃあオメー……ら」
ぐったりと倒れた残りの男子を懲りずに頼ろうと向き直るが、視界には四人の仲間ではなく、青年の姿。至近距離でニヤついた顔をしている。
「う、うわっ!!」
茶髪男は焦りと恐怖の表情を浮かべて尻餅を突き、そのままバタバタと後ずさりした。青年もそれに合わせ、等間隔を保つように一歩一歩足を進める。
「く、来る――――ギャッ!!」
来るな、と言う前に、青年は茶髪男のブレザーの襟元を両腕で掴み上げ、無理矢理引っ立たせた。
八人を一人で全滅させた妖怪の顔を間近で見て、茶髪男はひどく戦慄する。
「昔の戦じゃ敗戦した勢力のトップは首ちょんぱだ。今こんな事を言う理由が分かるかな?」
「ひっ…………!」
邪悪な笑みを浮かべて物騒なことを言う青年に、茶髪男はすくみ上がり、顔中の穴から透明の体液をだらだらと垂れ流す。
青年はそのまましばらく押し黙ると、突然叫んだ。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!!」
声帯を限界まで振動させたであろう大音量が河川敷に響き渡る。
叫んだだけだ。それ以外には何もしていない。
だがそれによって強いショックを受けたであろう茶髪男は、こうべを垂れて失神していた。
「……なーんてな」
青年はいたずら小僧のような笑みを浮かべ、ブレザーの襟元からパッと両手を離した。意識を失ってふにゃふにゃになった茶髪男の身体が地面に崩れ落ちる。
(…………すげぇ)
少年は痛みも疲労も忘れて、青年の闘いぶりに終始見入っていた。
相手の一手先の動きを読み、それに適切な対処を行える機転。
殴りかかる前に相手の懐へ素早く入り込むスピードと、それを平気な顔をしてやってのける胆力。
――何よりあの細い体に秘められた、相手を一撃で戦闘不能に追い込むほどの奇妙な力。
対人戦闘における良条件をこれでもかと詰め込んだような、そんな男の闘いを見たような気がした。
――俺もあれくらい強かったら、違ったのかな。
一瞬、そんな思いが頭の中をよぎった。
その刹那的な思いは心の中で変化、肥大化し、やがて一つの新たな感情が生み出された。
――俺も強くなりたい。
「その制服、確かこの辺にある淡水中学のだろう?」
青年はそう言って少年の元へやってくると、黙って片手を差し出した。助け起こしてやるという意思表示だろう。
――どうもありがとう?
――おかげで助かりました?
――何かお礼をさせてください?
どれも言うべき言葉なのは間違いない。
だが少年の中では、他にどうしても言いたい台詞が一つだけあった。
「強くなりたい」という思いが生まれると、まるでそれに呼応したように、不思議と明確な形を持って脳裏に浮かんだ、ある言葉。
「…………俺を弟子にして下さい」
少年は気がつくと、その言葉を口から出していた。
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。
唐突で、全く脈絡がなく、人によっては面の皮が厚いとも取れそうな言葉。
だが言葉をかけられた青年は微笑みを浮かべていた。
――まるでその言葉を待っていたかのように。
「……坊主。名は何という」
青年が静かに訊いてくる。
それに対し、少年は強い意志を持った表情で答えた。
「……工藤要」
少年は差し出された青年の手を掴む。
これが崩陣拳三代目正統伝承者「劉易宝」と、その弟子となる「工藤要」の出会いだった。
――――そして一年後、物語は動き出す。
どうも、魔人ボルボックスと申します。
この広大なネットの大海の中で、小さな砂粒を掴むがごとく本作を見つけてくださった皆様、遅筆な上に拙作ですが、チラチラッと見守ってくださると嬉しく思います。