第1章 感謝
『CPS』は自動車事故に遭いかけたが奇跡的に一命をとりとめる。それはある少年の勇敢な行動だった。
第1章 感謝
「いやー危なかったね。『CPS』ちゃん」
「本当に心配したわ。本当に……あなたが無事でよかった」
医者と母親だ。白い病室にファンシーな柄が薄く施された布団の中で、上半身だけを起こして、その2人を見る。
優しそうなお医者さんだ。穏やかな風な人間なのだろう。母親はとても自分に似ている。私を魔法の世界に漬けた人間だ。『魔法行』の中にいるという点ではまったく同じだが、より深い部分に私を送り込んだのだ。その点においては恨む人間もいるだろうが。
私はとても感謝している。
いやいやいや、ちょっと待ってくれ。
「――どうして、私は助かったの?」
向こう側の信号無視が原因なのは明白だが、自分が助かった理由が分からない。私は、私が、轢かれる5センチ前を知っている。
どうして私は生きているのか。いや死にたいわけではまったくないけれど、五体満足な理由が分からない。
いやそもそも――どうしてかすり傷で済んでいるのか。
車に轢かれたにもかかわらず。
「彼のおかげだよ」
と、医者は指差した。隣のベッド――今はカーテンにより見ることができないが。そのベッドにいるのだろうか?
「君が車に轢かれそうになったそのときに、彼は身を挺して君を守ったんだ。君は彼につきとばされたから、かすり傷で済んだんだ」
「――そんな、ことが……」
絶句だった。
そこまでして、というのは自分の命を投げ打ってまで、私の命を救おうとする人間がいたのか。ただ単に驚くだけだ。そしてただ純粋に感謝しよう。
「今、彼はどんななんですか?」
身を挺して? つまり私に代わって車に轢かれたということだ。
無事であるはずがない。
人はトラックでなくとも、車に、轢かれれば――死ぬ。
少なくとも五体満足であるものか。
よっぽどの幸運でもないと……
「大丈夫」
そのお医者さんが私の手をとる。大きい手だ。ごつごつしている。
「彼の治療は順調に進んでいる。もう明日になればほぼ無傷だろう」
「なら……よかった……」
悪かったなあ、と思う。
命の恩人なのだ……隣にいる彼は。
「本当に、そっちが、よかった……あんまりたいしたケガじゃあなくって」
まさか自分のせいで命を落とさせるなんて、それはもう殺人だ。まあこの場合悪いのは運転手であり自分ではないのだけれど、それでも運命という観点から見れば殺人である。
自分が死ぬ運命を、他人に押し付けた。
これを殺人と言わないでよいだろうか?
そういう風になってしまう……『CPS』は『人殺し』になってしまう。だから、そうならずに済んだというのは、『CPS』の心に深く安心を与えるのだった。
人が死ぬのはもちろん嫌だが、自分が殺すのは――もっと嫌だ。当たり前だ。
「いや、ケガは『たいしたことない』じゃあ済まなかったんだけどねぇ」
と、その言葉に『CPS』は医者のほうを向く。曇ったというか、言葉を選んでいるかのような表情をしていた。
母を見る。母もきょとんとした顔だ。どうやら彼が当時どのようなケガを負ったのか、母は知らないらしい。私? 私はそのときの記憶が飛んでいて覚えていない。
まあ、想像はできようものだ。車が一台、自分に向かって突っ込んできたとして、どれだけのケガを負うか。
昔、腕や足が、車に轢かれて使い物にならなくなったという話を聞いたことがある。
もし、そういう後遺症が残っていたら――そう思うとぞっとしてくる。顔から血の気が引いていくのがよく分かる。顔が冷たくなる。
しかし待てよ、医者は――このお医者さんは言っていなかったか? 明日になれば回復して、無傷である、と。つまりどういうことだ? やはりそこまで大きなケガは負っていないということか? もしくは私を抱きこむような形で、彼もまた直接の衝撃は避けていたのだろうか。
「覚えてはいないか……まあ、思い出さないほうがいい」
と、お医者さんは言った。
覚えていない、というのは当時、事故のときのことか。何が起こっていたのか自分でも分かっていない。自分の生死の境目だったというのに、なにがあったのかまったく覚えていない。
「彼の出血はひどくて、ケガももうひどかった。しかし、今は集中治療を受けて――ああ、もうすぐもう一度治療するんだけど。とにかくそのケガは治る。安心してね。さっきも言ったけど、明日には無傷だろう。」
出血に、ひどいケガ。
子供である私に心理的な負担をできるだけかけないよう気を遣った表現だ。そう思う。曖昧な表現で、どのくらいひどいケガだったのかは全然分からない。
だが、勘違いしないでほしい。
心配だからケガのひどさを知りたいのであり、
グロテスクな表現が好きというわけでは断じてない。そんなものはお断りだ。足の数が多い虫やぬめっとしたナメクジすらも怖がる『CPS』である。そのケガの深さまでを知ろうとは思わなかった。
感情移入、追体験、幻の痛み……他人のケガを見ると、自分の肉体にはなんら異常がないのに痛みが走る。そんな普通の感情が、『CPS』にもあるのだ。他人のことを自分のように大切にすると言ったらさすがに言い過ぎだが、他人事ではないのだ。
「ひどいケガ……なのに、明日には無傷なんですか?」
私は聞いた。
どういうことなのだろう。車に撥ねられひどいケガを負い、その翌日には無傷? 意味不明だ――
なんて、読者の皆様はそうは思わないだろう。
そんな事を達成できるのは、魔法くらいしかなく――
「ああ、心配は要らないよ」
「治癒魔法のプロが10人がかりだ。後遺症はおろか、傷跡だって残らないさ」
ここは、『魔法行』だ。
人口約10万人足らず。
その全てが、ここ、『魔法行』に住んでいる。
四方を大きな壁で囲われた、魔法としての空間。その中には魔法使いしか住んでいない。というより『魔法行』の外にいる魔法使いは――いない。
全ての魔法使いが暮らす場所、『魔法行』。
脱走者には――大いなる罰を。
しかし留まる普通の人々には――幸福と平和を。
その理念は、交通事故だろうと、幸福に変えようとしている。
夜中、なぜか目が覚めてしまった。
「……事故が起きてからぐっすりだったからかなぁ」
あの後まあ味の薄い病院食を口にし、それじゃあ物足りないからと売店でいくつか食べ物を買ってそれで腹を満たした。病室は静かでもう少し何か買ってきたほうが良かったかなと思いつつ暇な時間が流れて、もう何もすることもなく夕日を見た後に『CPS』は眠りについた。
「いや、寝るのが早すぎたか……」
夏だから日が沈むのは遅いとはいえ、それでも夕方に寝るのは早すぎたか。
「ふーっ」
と、眠気を吹き飛ばすように『CPS』は息を吐いた。月の光が窓から差し込んでいる。『CPS』のベッド周りのカーテンは開いている。閉めるのが面倒だからだ。というか、もうケガらしいケガはないのだが……。
「探検……いや、夜中だしやめとこう。はぁーあ、何しよっかなー……」
勉強でもやるか? と思ったがこんなところに来てまで、入院してまで勉強する奴はいない。今の時刻は3時50分、日の出まで、まぁ、あと2時間か3時間といったところか。
布団から出て、ベッドから降りる。窓の外を見てみよう。窓に近づく。ぺたぺたとはだしと床の冷たい音が響く。生い茂った木々の葉っぱ、白い街灯に白い月。あまり電気のついていない街中。ガラスに顔を近づけすぎると息でガラスが曇って見えなくなる。
とても綺麗な光景だったが、口には出さなかった。
「あ、そうだ」
思い出したが、『彼』は今寝ているだろうか。『CPS』のベッドのとなりのベッド――があるであろうカーテンを見つめる物音がしないということは寝ているかいないかのどちらかだ。いないとしたらまだ治療中ということだろうが、治療がもし終わっているのであればここにいるだろう。そして眠っているだろう。
白いカーテンに手をかける。
胸がどきどきする。
「……何でどきどきしてんのよ」
自分の体に自分で突っ込みを入れる。
恩人の姿を確認しに行くのだ。そんな大したことじゃないというか、当然のことだ。そう、それが朝か夜かという違いでしかなくて――
「……夜這い」
という言葉が思い浮かんだ。
違う違う。断じてそうじゃない。第一恋愛感情なんてあってもいない時点で芽生えるわけがない。そう、そしてそこまで達する、つもりも――
「……赤くなってんじゃないって、だから」
再度突っ込みを入れる。
頬が熱い。誰かにこんな姿を――カーテンのすそを持ちながら頬を赤く染めている――見られたらたまったものじゃない。
きょろきょろ、と周りを見渡す。誰もいない。耳を研ぎ澄ませる。風に揺れる木の葉の重なる音がする。心臓の鼓動が早い。
「……おじゃましまーす」
家かよ、とおもいつつ、カーテンを開ける。シャーッという音とともに『CPS』と同じベッドがあった。当然だ。
「あ、いた……」
ベッドの中には男の人が寝そべっている。目を瞑って、寝ているのだ。
近くに寄って、顔をよく見よう、と思いよりベッドに近づく。
「ふむ?」
どうやら男の人とは言ったもののどちらかというとこれは男の子だ。『CPS』……よりも少し年上か? 細かいところは分からないが、成人はしていないだろう。
こんな小さな子――と言ったら『CPS』のほうが小さいのだが、こんな小さな子が私を助けて、救ってくれたのかと思うと、それはもう、感謝の気持ちでいっぱいだ。ありがとうを何回言えばいいのだろう? 言い過ぎることなんてないはずだ。だって――
「……ぅ」
ずきん、と体の節々が痛む。そう、この少年は、自分がもともと受けるはずだった痛みを肩代わりしたのだ。ごめんなさいを何回言えばいいのだろう? きっと何回言っても足りないはずだ。
首筋に手を伸ばす。
どきどきと胸を打つ。
指先が温かいものに触れ、どく、どくっと、血管に血液が脈打っている感覚がした。
良かった、ちゃんと生きている。
ただただ安心するばかりであった。
「…………」
首筋に当てていた手を、今度は頭のほうへ移動させる。頬、こめかみ、そして髪の毛、さらさらした髪質。温かい人の感触。起こさないようにそっと撫でる――
「……っ!」
何やってんだ私!
いやまあありがとうとかごめんなさいとかそういう意味をこめての撫でだったけどちょっと何またどきどきしてんの頬熱くなってんの。
そりゃ、まあ好みのタイプとか気にしたことはなかったけど……
手を離さずに動揺する『CPS』。
「まぁ……いっか」
もう一度頭を撫でた。
ほんのり赤い顔で、『CPS』ははにかんだ。
二度寝したら、時計の針は十時を回っていた。
「……マジで?」
学校にはもう入院してるし行く必要はないかなーともう決めていたのだが、それでもこんなに遅くに起きたのは、『CPS』の10年くらいの人生の中で始めてのことだった。
「ま、物心つく前はもっと寝てたんだろうけど……」
ベッドから降りて、まずは顔を洗おうと洗面所に向かう。部屋備え付けという、病院という場所では良いか悪いかは意見が分かれるだろうが、常に殺菌消毒される魔法がかかっているのでまあ安心できる。そもそも、病気じゃあないけど。
私も、彼も。
そう思いながら、洗面所の扉を開ける。
「あ」
「あ」
彼がいた。
「どうも、おはようございます」
「お、おはっ、おはようございます」
昨晩はよく分からなかったが、どうやらこの少年、頭一つくらい自分より背が高いらしい。あわてながら挨拶をして、そう思った。
「せ、先日はどうも、ありがとうございました。なんとお礼を言ったら良いか……」
「いや、いいですって。お礼なんか。反射的に体が動いただけなんですから」
両手のひらをこちらに見せて、『お礼なんて結構ですよ』と言う彼。
「正義感が……強いんですね」
素直に思ったことを口に出してみる。
「正義……というよりもどうなんでしょうね。困っている人がいたらそれを肩代わりしてあげたい。苦しんでいる人がいたらその苦しみを僕が背負う……正義というより、これじゃあマゾヒズムみたいですけどね」
「?」
マゾヒズム?
当時の『CPS』にとっては知らない言葉だった。
「後で散歩でもどうですか? 食堂で一緒にご飯、食べましょうよ」
「え、え。いいんですか?」
「いいも何も……せっかくここであった縁ですし、もっと仲良くなりましょうよ」
彼の言葉に、『CPS』は純粋に喜ぶ。
「あ、はい! ありがとうございます!」
いつにない明るい声だった。
「じゃ、準備ができたら行きましょう」
そう言って彼は洗面所から出た。『CPS』はその背中を見て、洗面所に入った。
蛇口から水を出し、手でそれを受け、顔に水を叩きつけるようにかける。
「っ――!」
昨晩のことを思い出した。つまり手を頬に触れたり撫でてみたり、どんな顔かと顔を近づけてみたりしたことだ。今思えば恥ずかしいことこの上ない。自分が今真っ赤になっていることが分かる。水の乾きが早いのは気のせいか?
寝グセがついていたので頭にもかける。
頭を冷やしているようだった。
「それにしても、災難でしたね」
彼が言う。私と同じ朝食メニューA。洋食だ。パンにジャム、目玉焼きにウィンナーとサラダ。そしてドリンクは私は牛乳。彼はコーヒーだった。どうやら彼はコーヒーには砂糖をたっぷり入れるようだ。私もそうだから特に何も言わなかったけど。
「いや、本当に助けてくれてありがとうございました」
「そんなに謝らなくっていいですって、えっと――」
「あ、私『CPS』って言います。本名はハードシアンです。」
「はは――ハードシアンさんですか。僕は『34z』、本名はユウタ。日本系の名前なもんで、へへ」
はにかむゆーたさん。漢字はどう書くのだろうか? あとで聞こう。
この人の頭を撫でていたのかと思うと、少し顔の表面が熱くなるが、いかんいかんとパンをほおばる。
「でもゆーたさんって、名前じゃなくて本名で言うんですね。私は本名を教えられたら、そっちで呼ぶようにはしてるんですけど……」
「あー、いや、魔法名ってどうしても機械的っていうか人間味がない気がするんですよね。『魔法行』から与えられる記号としての名前でしょ? なんだか……そうですね。囚人番号みたいで、あまり好きじゃないんですよ」
特に僕みたいなのは。と彼は言い、目玉焼きにかぶりつく。両面焼きなのでフォークで挿しても大丈夫だ。今度作ってみよう。でもひっくり返すときに黄身がこぼれやしないだろうか?
「まあそんなポリシーでも、よく『34z』さん、『34z』さんって呼ばれるんですけどね」
「あは、それ分かります。私も『CPS』ってまあ別にうれしいってわけじゃないんですけど、確かそれっぽい医療機器の名前ありましたよね? どうしてもそれが連想されてきちゃうんですよね――」
「あー。ありましたね。LHC?」
「それは加速器ですよ、ゆーたさん」
「加速器?」
何だそれは、という顔をしながらコーヒーを飲むゆーたさん。まあ知らないのも無理はないのかな。そのスジの人しか分からないだろうし。
「『外』にある加速器ですよ。何でもヒッグス粒子が見つかったとか」
「ヒッグス粒子?」
「あー……ものに重さを与える粒子ですよ」
この説明はとても簡略化した説明だ。しかしこれよりも難解な語句を用いるとかえって分かりづらくなってしまうので『CPS』はそう説明した。
ヒッグス粒子は重さ……厳密には慣性質量を与える粒子だ。F=maという運動方程式の中に出てくる質量、つまりものの動きにくさを生み出す粒子だ。
「へぇー……詳しいんですね」
「いえ、そんな」
褒められてうれしくなる『CPS』。これまで彼女は何度も褒められており、もはや慣れ始めているのだが、なぜだろう。ゆーたに言われると特別うれしくなる。
「まあどちらにせよ、魔法名は2人のときは使わないでおこうか、ハードシアン」
「シアン、でいいですよ。あとそんな、ですとかますとかつけなくていいです!」
今まで敬体の話し方に、少し他人行儀な感覚を覚えた『CPS』。手を振って遠慮なんてしなくていいです、とアピールする。
「分かったよ、シアン」
「はい、そうです。そんな感じです。ゆーたさん」
「ははっ、そっちも丁寧になんか言わなくていいのに」
「いえいえ、そんな」
他人行儀は嫌になってきたが、しかし会って間もなく――そして第一印象で丁寧語を使い始めてのだから、今更直せない。
「ゆーたさんみたいな、その――命の恩人に」
――腹部にズキン、と痛みが走る。そうだ――忘れてはならない。車に轢かれるという痛みを、自分をすべて――ゆーたさんに押し付けてしまったのだということを。
「あは、それこそ気にしないでいいのに……」
「ゆーたさんは」
と、『CPS』は聞いた。
「なんで……私を助けたんですか?」
「……さぁ、なんでだろうね」
とぼけたようにゆーたさんは言う。
「特に何かを考えてたわけじゃないよ、ただ無我夢中……使命感ってほど大したことじゃないけど。こう……反射的にやっぱり、助けなきゃ! ってね」
まあ、そんなおかげでこうやって入院するはめになったんだけど、とゆーたさんはおどけたように言う。
「でも、やっぱり――君を助けられて良かったよ、シアン」
あなたも助かって本当に良かったです。という言葉はうれしさいっぱいの胸からは出せなかった。
第1章・終
第2章へ続く