奏でる音は
奏でる音は
別れを告げられたのは、八月の最後の日だった。部活の帰り、住宅街の真ん中にある小さな児童公園で。好きな子がいるんだ、と彬くんは言った。わかった、とだけ私は答えた。
ずっと前から予感はあった。私と一緒にいても、彬くんはいつもうわの空で、あの子のことばかり見ていたから。だから、こんな日が来ること、わかってた。
あかるい夕暮れの空に、桃色の雲が浮かんでいた。ブランコの軋む音が響いていた。夏が終わると思った。
「じゃ、Bのアタマの音、金管だけで」
先生が指揮棒で合図をだす。金管楽器のはなやかなハーモニーが音楽室中に広がる。その、頂点にのっかっている音。ぱあんと、のびやかでまっすぐに届く音。彬くんの音だ。
いちばん前列にいるクラリネットの私からは見えないけど、容易に想像することができる。窓からはいった西日が彬くんのトランペットのベルを照らすさまを。背すじをまっすぐに伸ばして、ちょっとだけ苦しそうに顔をしかめて楽器を吹くすがたを。
ぺちん、と指揮棒が譜面台に当たる音がする。私ははっと顔をあげた。
「つぎは、全員で。聞こえたか? 有馬。ぜ・ん・い・ん・で」
「……すいません」
「集中しろ、集中」
はい、と返事をして深呼吸した。切り替えないと、みんなに迷惑がかかる。隣に座る、パートリーダーの悦子が、心配そうに私の顔を覗き込んだから、へへ、と舌を出してみせた。先生が指揮棒をあげた。思いっきり息を吸う。楽器が鳴る。わずかに音が高い。先生はため息をついて指揮棒を下ろした。
「有馬、ピッチ。外でもう一回合わせてこい」
泣きたい気持ちを押し殺して、はい、と答えた。
合奏が終わって楽器を片づけていると、悦子が私の肩をたたいた。
「大丈夫―? 雪乃」
ん、大丈夫、と笑顔をつくってみせる。悦子は何も言わず、私の頭をぽんぽんと撫でた。
夏のコンクールを最後に三年生が引退し、新しい役員やらセクションリーダーへの引き継ぎがあり、ばたばたしているうちに九月が過ぎた。今はもう十月の半ば、文化祭へ向けて練習をしている。
彬君に振られて、もう一か月以上がたつ。私はまだ立ち止ったまま。みんなやさしい。クラリネットのメンバーも、ほかの部員たちも。みんな私と彬君が別れたことを知ってるけど、今まで通り接してくれる。
陽が落ちるのが早くなった。音楽室のある別館を出ると、空にはうすい月がのぼっていた。夕陽の名残のオレンジが、シルエットになった家並みと空の境目にある。ぼんやり眺めながら、悦子が靴を履きかえるのを待っていた。
「じゃな、雪乃」
明るい、ちょっとだけハスキーな声が飛んできて、どきんと心臓が跳ねた。
「あ。ばいばい、彬くん」
肩のところで、ひかえめに手を振った。にかっと笑うと彬くんは風のように駆けていった。きっと体育館に行くんだ。古賀さんのところへ。バレー部の古賀さんは、小柄で、ショートカットで、よく笑ってよく弾む女の子。ほんとうにゴムまりみたいに跳ねていくイメージ。ポジションはリベロだと聞いた。きっと、敏捷な小動物みたいにボールを追いかけているんだろう。おとなしくて内気な私とは正反対の女の子。彬くんの、幼なじみ。
学校のそばを流れる川の、土手の上の細道を悦子と歩いた。今年初めて袖を通した長そでのブレザーは、日中は暑くて脱いでいたけど、今はちょうどいい。水の流れる音がする。流れのすぐそばで、すすきの穂が揺れているのが見える。まだ開いていない、銀色の穂。風が吹いて一斉にそよぐさまは波のよう。
「腹減った―。ファミマ寄ってこうかなー」
「太るよ、悦子」
「うー。でも、楽器吹いてるとめちゃくちゃおなかすくんだよねー」
悦子は眉間にしわをよせて、うんうん悩んでいる。明るくて部のムードメーカーの悦子は人の心の機微に敏感だ。私が失恋から立ち直っていないことなんてとうに見抜いていて、あえて何も言わない。だけどきっと、私が泣きついたら、受け止めて話を聞いてくれるんだろう。
「あー。長谷部だー」
悦子の視線の先を見やる。土手の真ん中、川のほうへ向かって大きく両手をかざしている男の子がいる。広げた両手をゆったりと大きく動かしている。
「ちょっと長谷部―。恥ずいからやめなよー」
叫びながら悦子が駆けだした。私は慌てて後を追った。振り向いた長谷部くんは両耳に挿していたイヤホンを抜いて、後頭部を掻いた。
「エア指揮なら家でやんなよ、もう」
悦子が彼の背中を叩いた。
「エア指揮って、指揮ってそもそもエアじゃんか」
「そーいう意味じゃなくってえ」
ふたりのやりとりがおかしくて、くすくす笑っていると、長谷部くんはめがねの奥の瞳をきょとんと丸くした。面長の顔に、四角い黒いフレームのめがねがよく似合っている。
「指揮よりソロの練習したらいんじゃね?」
悦子が意地悪く微笑んで、長谷部くんがぐぐっと言葉を飲んだ。文化祭で演奏する曲のひとつに、アルトサックスの長いソロがある。長谷部くんが吹く。
「トラウマなんだよね。中二の時のコンクールで、あの曲でソロやってさ。大失敗したんだよな……。あーもう思い出したくもないっ!」
そう叫ぶと、長谷部くんは真っ黒い短髪をかきむしった。同じ中学だった私は、その時のこと、よく覚えている。悦子は豪快に笑った。
「長谷部ってあがり症だもんねー。上手いのに、もったいない。ま、文化祭は気楽にやんなよ。コンクールのプレッシャーに比べたら何でもないっしょ。同じ曲でうまくやれれば自信つくよ、きっと」
そうかなあ、と長谷部くんは眉毛をへの字にした。そのまま、駅近くのファミマまで三人並んでなんとなく歩いた。緑色の看板が夕闇の中、ぼうっと光っている。揚げ物とおでんだしのにおいが漂ってくる。店内は、運動部上がりの、飢えた中高生でいっぱいだった。私たちはそれぞれ肉まんを買って、駅前の広場の、噴水のへりに腰かけて食べた。
彬くんとつき合ってた最初の頃、時々、こうして広場に寄り道してとりとめもないおしゃべりをした。だんだんそんなこともなくなって、ふたりでいても会話は続かなくなって、最後には、彬くんは義務みたいに私を家まで送ってくれるだけになった。
彬くんは、トランペットの音そのままに、明るくのびやかで、そこにいるだけで華がある。中学の時から片思いしてた。去年の合宿の夜、女子部員だけで恋バナ大会になって、請われるままに彬くんが好きと打ち明けたら、それからことあるごとに悦子たちが盛り上げてくれるようになった。夏のコンクールの打ち上げで勇気を出して告白した。十六年の人生の中で一番ドキドキした瞬間だった。そして一年が過ぎ、私たちはまた、ただの友達に戻った。たとえ別れても、同じ音楽をつくる仲間だし、ぎくしゃくするのは嫌だった。だけど、私が引きずっていることで、みんなに迷惑をかけているかもしれない。げんに、今日の合奏にも集中できなかった。
「もうすぐ電車の時間」
悦子が自分の腕時計を見る。
「んじゃあ、あたしは行くね。長谷部、ちゃんと雪乃のこと送ってってね」
「おう」
長谷部くんが片手をあげた。口の端っこに、肉まんのかけらがついていた。
買い食いをしていたわずかな時間のうちに、夜は一段と深くなった。国道を行きかう車のライトや、信号機や看板のあかりが闇ににじんで見える。陸橋をわたる。
「あー、やばいかなあ。有馬さんとふたりで歩いてるとこ、誰かに見られたら。彬にしめ殺される」
「は?」素っ頓狂な声が出た。
「もしかして、知らないの?」
強い風が吹いて口に髪が入りそうになった。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。
「なにを?」
本当に知らないらしい。もう一か月半も経つのに。
「あのね。別れたの、私たち」
長谷部くんは、えっ、と目を見開いた。
「ごめん、その……」
深々とうなだれる。
「俺、にぶくて。まじでにぶくて、そういうの」
「いいよ、気にしないで」
笑顔をうかべてみせたものの、何だか気まずくて、二人ともそのまま黙り込んでしまった。国道の裏道から脇道へ入り、住宅街へと進む。長谷部くんは申し訳なさそうに、すぐ後ろをついてくる。もうすぐ家が見えてくる。
ブランコの軋む音がした。気づいたら、彬くんに別れを告げられた、小さな児童公園の前まで来ていた。立ち止まる私に、どうしたの、と長谷部くんは遠慮がちに声をかけてくれる。振り返って、なんでもないよ、と言おうとして、だけどうまく声が出てこない。
「有馬さん……、泣いてる……?」
「ごめんっ」慌てて涙をぬぐった。
「うち、すぐそこだから、ここでいいよ。送ってくれてありがとう」
早口で告げると、そのまま駆けた。一度も後ろは振り返らなかった。
糸が切れた。かろうじて保っていた私の強がり。別れたあとも、約束通り「友達」に戻って、いつも通り明るく接する私に、彬くんはあからさまに安堵していた。だから私は演技を続けた。教室でも、部活でも。それなのに。
私は毎晩泣いた。だれにも言えない。まだ好きだなんて、言えない。
文化祭が一週間後に迫って、放課後、どのクラスも準備に大わらわだ。我が二年二組はお化け屋敷をする。部活のある人は作業は免除になっていたけど、申し訳なくて、できるだけ手伝うことにしていた。彬くんと古賀さんも、きゃあきゃあ騒ぎながら幽霊のコスプレをしている。教室でいつも一緒にいる佐奈ちゃんが、これみよがしにため息をついた。
「つーか無神経すぎね? ひとの彼氏取っといてさあ、なんで平気な顔していちゃいちゃできんの?」
クラスでの友達は、部活の仲間と違って容赦ない。特に佐奈ちゃんは、いつも古賀さんの悪口を言い、私のことを「お人よしすぎる」と責めた。何も言えなくて、私は暗幕のほつれを縫う手を止めた。私のことを思って怒ってくれるのはありがたいけど、古賀さんを悪く言うのは気が引ける。ますますみじめになるようで。だけど佐奈ちゃんを止められなくて、そんな自分にいらいらもする。
「有馬さあん」
私を呼ぶ声に顔をあげた。長谷部くんが廊下側の窓枠から身を乗り出している。目が合うと、ほっとしたように笑った。
「音楽室で、鈴木さんが呼んでるよー」
絶妙なタイミング。助かった。
「ごめん、部活行ってくる」
佐奈ちゃんに手を合わせ、急いで支度をした。教室を出るとき、古賀さんのほがらかな笑い声が聞こえて、胸がちくんと痛んだ。ひとの彼氏取っといて、佐奈ちゃんの台詞が耳の奥でリフレインした。
「悦子、何って?」
音楽室のある別館へ続く渡り廊下を歩きながら聞いた。
「いや、べつに」
長谷部くんの返事はもごもごと歯切れが悪い。
「有馬さんの様子見てこいって言われて。教室でも無理して笑ってんじゃないか、って」
思わず立ち止まった。長谷部くんは私から目をそらして、サックスをホールドするサスペンダーを指でもてあそんだ。
「鈴木さんの言う通りだった。俺、なんにも気づかなかった」
「いやいやそんな。ごめんね、余計な気、遣わせて」
悦子には何でもお見通しなんだ。浮かべた笑顔がひきつる。ダメダメだ、私。早く立ち直らないと。悦子には心配かけるし、佐奈ちゃんだって、どんどん悪者になっちゃう。
「うらやましいな」
長谷部くんはぽつりとつぶやいた。え? と聞き返すと、我に返ったようにびくんと肩をふるわせ、ごめん、とだけ言った。
音楽室に入った時、ちょうどみんな集まって合奏の準備をしているところだった。私も急いで楽器を用意する。
合奏では、長谷部くんのソロのあるパートを重点的に合わせた。さすがに長谷部くんは上手い。美しい高音がぴたりと決まる。だけど先生は渋い顔をして指揮棒を下ろした。
「なんか足りん」
先生の言う「なんか」がつかめないまま合奏は終わり、片づけと簡単なミーティングの後、解散となった。悦子はそのまま自分の教室へ行った。長谷部くんは沈んだ様子だった。
たそがれの中、川沿いの道を歩く。今日はひとり。冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。もうすぐ十一月だ。すすきの穂はすっかり開いている。
と、聞きなれた甘いメロディが耳に届いた。アルトサックスの音。川面のほうからだ。
土手の中ほどのところで、長谷部くんがソロの練習をしている。いつかひとりでエア指揮をして悦子に笑われた場所だ。道をそれて、茶色く乾いた草を踏みしめてそばへ進む。音が途切れた。長谷部くんが川の流れをみつめて、深く息をついた。そして、私のほうに向きなおった。力なく笑う。
「まーた言われちゃったよ、俺。中学んときと同じこと。まったく成長してないってことだよな」
そうだった。中二のコンクールの時、音に艶がないとか楽譜をなぞってるだけだとかさんざん言われて、悩んだ長谷部くんは本番で真っ白になったんだ。
「うまいから、求められるハードルが高いんだよ。私なんて譜面を追うので精いっぱい」
「そうかな」
長谷部くんは私をまっすぐに見た。
「俺が持ってないもの、いっぱい持ってるよ、有馬さんは」
私が、持ってるもの?
「彬だよ」
「は……?」
「あっ、ごめん。言い方が悪かった。彬のために、あんな泣けるって気持ちっていうのかな? 俺、そういうのないし。十七年生きてきて、誰かを思って泣くとか、そういう、感情が揺れるみたいなの、一度もないんだ。ドライなんだよ。だから俺の音には何か足りないんだよ」
「……そっちのほうがいいよ。だって、しんどいよ。誰かのために泣くって言うと綺麗だけど、それだけじゃないから。もっと汚くて、どろどろしてるの」
佐奈ちゃんの悪口を止められないのは、それが自分の中にもある感情だから。仕方ないことだとわかっていても、あの子が憎いと思う気持ちは止められない。なのに自分では口にできず、友達に代わりに言わせてるなんて、私は本当にずるい。
「彬くんなんて、好きになるんじゃなかった」
長谷部くんは何も言わず、ふたたび楽器を構えた。風が吹いて川面にさざ波がたった。うすい紫に染まる空には小さな星がまたたき始めている。
やわらかな音色が秋の河原に響く。目を閉じる。甘くせつない旋律が、焦らすように揺れる。クレッシェンド。さらに大きく、波のように高まる。胸の奥が焦がれて、つう、と熱いものが頬をつたった。
「ごめん、また泣かせた」
私はかぶりをふった。
「良かった。……さっきの演奏。今までで一番、ここに響いた」
とん、とこぶしで自分の胸をたたいた。長谷部くんは照れ臭そうにわらった。
文化祭当日。三日間ある日程の、最後の日の午前中に音楽系の部活のステージがある。私たち吹奏楽部はそのトリをつとめる。本番直前、袖で出番を待ちながら。長谷部くんが真っ白い顔をして放心していた。たましいが抜け出たみたいだ。私はそばに行って彼の肩をたたいた。
「大丈夫だよ。できるよ。この前、河原で吹いてたみたいに演奏したらいいよ。ほんと、じんときたんだから!」
声をひそめて、だけど力強く、告げた。長谷部くんのめがねの奥の目がまるく大きくなった。そして、よし、と小さくつぶやくと、拳を握りしめた。頬には赤みが戻っていた。
直前の、クラシックギター部の演奏が終わり、私たちの番がきた。体育館に敷かれたブルーシートの上に、あわただしく楽器や椅子を並べる。譜面台に楽譜を置く。全員着席したところで、チューニング。先生が指揮棒を金管のほうへ向けた。彬くんの音は今日も明るい。私は目を閉じた。
集中。
はやりのポップスを二曲、それから、ラテン系のノリのいい曲、最後に、長谷部くんのソロのある、吹奏楽オリジナル曲。
曲の中間部にある長谷部くんのアルトサックスのソロは、ユーフォニウムのソロとの掛け合いで、天の川をはさんで離れ離れになった恋人同士が、一年に一度会える、その再開の様子を描いている。だから、メロディはロマンチックで甘くて、どこかせつない。
長谷部くんは完璧だった。河原で聴いたときより、さらに情感ゆたかに揺れて、中二のコンクールの時とは別人みたいだった。やがて、しっとりした中間部が終わり、さわやかで疾走感のある後半部へ。ラストへ向かい、メンバーと一体になってのぼりつめていく。息を吹き込む。指を回す。流れ星が駆け抜けるイメージで。
終わって、拍手につつまれながら、これまでに味わったことのない高揚感でいっぱいだった。長谷部くん――自力で殻をぶちやぶった仲間――の、素晴らしい演奏に刺激をうけて、私もみんなも、自然と曲に気持ちをのせた。ひさしぶりに、音楽ってたのしい、と思えた。
文化祭は全行程を終え、まもなくフィナーレをむかえる。来客がはけたあと、片づけを終え、グラウンドにわらわらと生徒たちが集まっていく。スピーカーから音楽が流れ、輪を作り、集まったものからフォークダンスをするのがうちの高校の伝統だ。
秋の透明な空気はオレンジ色に染まり、曲は、定番のオクラホマ・ミキサーから、しっとりした洋楽に変わった。教室の片づけを終えた私はグラウンドへは行かず、別館三階の音楽室へ向かった。悦子と長谷部くんがジュースで乾杯していた。
「おー、来た来た雪乃。こっちで下界でも見下ろしながら一杯やろうよ」
「悦子、おっさんくさい」
なんだとこの、と笑いながら悦子が私に紙コップを渡す。長谷部くんが窓を開けてグラウンドを覗いた。
「みんな踊ってるよ。ふたりとも、行かないのー?」
「自分こそ」
私はくすくす笑った。まだ、ステージでの高揚感がからだに残っている。ジュースを一口飲んで、窓辺へ寄った。模擬店でのコスチュームやら、仮装やら、部活やクラスでのお揃いのTシャツを着た生徒たちが、わらわらと集まりからだを揺らしている。
あの中に、彬くんと古賀さんもいるんだろう。
私は、窓枠に両手をかけて、大きく身を乗り出した。
「ちょ、あぶないよ、有馬さ……」
あわてる長谷部くんを無視して、大きく、深く、息を吸い込んだ。音を鳴らす直前みたいに。
「彬くんの」
思いっきり、思いっきり、大きな声を吐き出す。
「ばかーっ!」
となりにいる長谷部くんが、ぎょっとしたように目をぱちくりした。四角いめがねがずれている。悦子が、あははは、と陽気に笑った。
「いいぞ雪乃―。もっと言ってやれーっ」
「古賀さんなんて」
さっきよりもっと大きな声を張り上げる。
「だいっ、きらいーっ!」
悦子が駆け寄ってきて、後ろから私のからだを抱きしめた。小さな子にするみたいに、よしよし、と頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「よく言った雪乃。いつ吐き出してくれるかと思ってたよ」
「ごめんね悦子、心配かけて」
「そんなこと言わないで。あんたは、他人とか、まわりに気い使いすぎ。もっと甘えてほしいって思ってる友達はいっぱいいるの。ねっ、長谷部」
悦子はそう言うと、長谷部くんに目配せしてみせた。長谷部くんは、お、おう、と、顔を赤く染めて、妙に挙動不審になった。悦子はそんな彼を見て、にやにやと口元をゆるませた。
「んじゃああたしは下界へ降りてきますっ」
ぴっと敬礼のポーズ。
「えっ……。じゃあ、私も行く」
「だーめ。雪乃はここにいて。知りたくなーい? どうして急に、長谷部が、あんなに色っぽい演奏できるようになったのか」
「……それは、知りたい、けど」
それが、今のこの状況と、何の関係があるんだろう。悦子は私の背中をぽんと叩くと、軽やかにスキップしながら音楽室を後にした。置き去りにされた私たちは、夕暮れのほの暗い音楽室で、押し黙ってしまった。
沈黙が重い。と、突然、ぽん、と大きな音が響いた。窓の外を見やる。
「あ。フィナーレの花火だ。いいのかなあ、俺たちこんなとこでさぼって」
「そうだね……」
外で、実行委員の男子が、大声で演説しているのが聞こえる。時おり、わああっ、と歓声があがる。
「あの。長谷部くんの、ソロだけど……」
おずおずと、切り出した。
「すっごい良かったよ。あがり症、克服したんだね。おめでとう」
「ありがとう」
長谷部くんは私から目をそらし、人差し指で頬を掻いた。
「有馬さんのおかげです。俺さ……、あそこ、先生に、ありったけのラブを込めて吹け、って言われてて」
「えーっ。先生、キザ!」
「だよなー。でも俺、そんなんわかんないって言ったじゃん? だから、有馬さんが泣いてるとこ、イメージした。そしたらうまくいった」
「…………」
「ご、ごごごごごめんっ! 勝手にそんな、ていうかキモい? ほんとごめん!」
「いえ。あの、そういうことじゃなくって……」
かあっと、顔が熱くなる。そんな私を見て、長谷部くんは何かを察したのか、あわてて両手をぶんぶんと振った。
「いやその、そういう意味じゃないから! 有馬さんを見てて俺にもラブが生まれたとかそんなんじゃないから!」
早口でまくしたてたあと、長谷部くんは、しまった、と大きな手のひらで自分の口元を押さえた。私は噴き出した。はは、と長谷部くんは力なくわらった。それがますますおかしくてまた笑った。そのまま、しばらく、ふたりで笑いあった。
「私も何か吹きたくなっちゃった」
「うん。そうだね。俺も」
長谷部くんは気を取り直したように、ずれためがねを押し上げた。
「有馬さん、今年のアンコン、出れば?」
アンサンブルコンテスト、略してアンコン。夏のコンクールと並ぶ、冬の一大イベント。全体での演奏ではなく、各高校の代表が出場してアンサンブルを競う。うちの部では、文化祭のあと、出場したいユニットが顧問に申請して練習し、校内予選を経て代表を決める。
「悦子が出たいって言えば、クラリネットで出たいな」
「木管五重奏とかは? 俺と一緒に」
思わぬ提案に、ぱちり、と大きく目をしばたいた。
「そっか。それもいいね」
「んじゃ、決定。俺、先生と一緒に曲探して、ほかのメンバーにも声かけるわ」
「私もやる」
うん、と言って長谷部くんは顔をくしゃっとほころばせた。私も、へへ、と笑った。
この冬は、絶対、たのしくなる。
だれかを思う愛しい気持ちも、せつない気持ちも、みにくい嫉妬すらも。私の中のすべてを音にのせることができたなら。それが、聴くひとの心に届いて、たがいに響き合えたなら。長谷部くんの奏でる音が、私のなにかを動かしたように。
顔をあげると、長谷部くんと目があった。どちらからともなく片手をあげる。
ハイタッチ。
ぱん、とかわいた音が、暮れゆく秋の音楽室に、響いた。