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玻璃羽の蝶々

作者: ととのえ

 

 午前零時、月光の寒さに震え、エンデは眼を醒ましました。微睡は無く、今しがたまで見ていた筈の夢さえも泡沫として消えていきます。

 天蓋付きの寝具の上、エンデは数回寝返りを打ちました。絹の敷布シィツがせせらいで、壁に立てかけた大型棺桶時計グランド・ファーザー・クロックはひっきりなしに針を刻みます。エンデは再びの眠りに落ちるべきか否か悩みましたが、ふと窓から見える月の、あまりにも大きく蒼く白く美しいものですから、ついに躰を起こし、天然石の床へ足を投げ出しました。

 窓から差し込む月明かりが彼の膝辺りまでを照らし出し、薄桃色の肌は今だけは蒼白です。エンデは本棚に隠した懐中時計を引っ張り出し、ポケットの中へ忍ばせました。そしてそっと、部屋を抜け出したのです。



 * 



 隣の部屋ではオスカーが寝ています。窓格子の影が伸びる廊下に立ち、エンデは耳を澄ませました。静けのshi......という音に加えて、オスカーの寝息が聞こえました。

「オスカー、オスカー」口を細くとがらせて、鳥のようにエンデは囀りました。暫くは深閑とした清らかさが夜の全てでしたが、やがて扉越しに『やあ、こんな夜更け、僕の名前をどうして梟は呼ぶのだろう、』と、オスカーの目醒めの声が聞こえました。

 エンデはくすくすと笑って、扉の向こうにいるオスカーに「今のは梟じゃないよ、夜鶯ウグイスだよ」と幼く訴えました。真鍮でできたノブを捻って部屋へと訪えば、寝台の上、肌の粒子を月光で煌めかせたオスカーが、「なんだあ、僕はせっかく、ようやく僕にも秘密の卵が与えられて、宙を飛べるとおもったのに」と眠たい瞳を擦っています。

 半円アーチの大きなつくりの窓から、蒼白い光がひたすらに注いでいます。寮内の電灯はすべて消されていましたが、月明かりのお蔭でオスカーの部屋はちっとも暗くありません。玻璃にも似た光を受けているオスカーの黒髪は濡れたように艶々と輝き、だらしなく投げ出された四肢はエンデと同じ蒼白の装いでした。窓の向こうの庭では、宵待草が一面咲き乱れています。

「ねえ、オスカー。僕や君の思う特別な、本当のさいわいのようなことは、今起きると思うかい?」

「どうしてそんなことを聞くの、」オスカーの大きな、黒曜石を嵌め込んだ瞳で見つめられ、エンデはどきどきしながら答えます。

「普段僕たちから身を隠している道化師の猫や、金剛石の蜥蜴トカゲは真昼間に遊ぶかってことさ。彼らは、きっと今日のような、月が白くて近くてまんまるな時にこそ、しがらみから逃れて広場へと踊りだすのさ」

 エンデは衣服掛けに掛かっていた薄い夏用外套を取って、オスカーへと渡します。オスカーの頬は暗闇でもわかるくらいに赤々としていました。二人は怖い寮長にばれないよう静かに扉を閉めて、硝子の夜へと繰り出します。

螺旋ぜんまい仕掛けの鼠はどこにいるかな、」オスカーは外套を頭からすっぽりと被ります。「それか、左右で違う虹彩を持った百歳の羊」

 オスカーの問いかけに、エンデは困り果てました。図書室の本には、宵待草の花の影に隠れております“ミカヅキハナタチグモ(三日月端立蜘蛛)”やニコゲヤナギの木の下に咲く“ニコゲモドキ(和毛草)”など、たくさんの草花、虫、動物、海洋生物などたくさんのことが書かれておりましたが、不思議なことにエンデもオスカーも、一度だって彼等を見たことがないのです。

「どこにいると思う、」エンデはオスカーに聞き返しました。オスカーも困り果てて、眉尻を下げます。

「図書室に行こう。彼らがどこにいつ現れるかを書いた本があるかもしれない」

 二人は頷き合って、庭園迷路の煉瓦を踏みしめ図書室へと向かいました。



 *



 図書室は寮と学校との間に建っている、石塔の中にありました。花崗岩で造られており、夜になると石英や黒曜石たちが昼間蓄えた太陽の光を一斉に放ちます。表面はフウセンカズラ(風船蔓)やセイヨウヅタ(西洋木蔦)で覆われており、それらは淡い鉱石の光と酸素との反応で淡く発光しておりました。

  エンデは老木の幹をくり抜いて作った重い木製扉を開けて、中に入ろうとしました。

「待って、エンデ」オスカーが小さな声で引き止めます。「僕たちこのまま下りたら灯りが無くて泣いてしまう」

 オスカーは石壁に張り付いていたフウセンカズラの実を二つほど捥いで、親指で穴を開けました。発光する蔦の葉の先端を千切り、その中へと入れます。「あゝそうか。提灯をつくるんだね」エンデが了解します。

 蔦の葉を含んだ蔓の実は、星の金と曹達水ソーダの透明を併せ持った玻璃細工になります。二人は提灯を腰に吊るして、木製扉を潜りました。



 *



 夜の冷たさが満ち満ちて、建物の中はひんやりとしていました。

 内部は地下構造となっていて、一階は外を見る為の窓以外何もない空間です。地下の一階と二階とが図書室となっており、二人はいつもそこに行って遊んでおりました。

 一階はありふれたお伽噺や百科事典、それから授業で使う資料などが並んでいて、二階にはやや古ぼけた黴臭い本たちが、まるで自分らはもう役目を終えたと言わんばかりに鉄製の背高い本棚に収められています。大抵の子供らは一階で走り回ったり、オスカーの頭の良さやエンデの脚の疾さに文句を言うのが普通でしたが、二人はそのどちらもすることなく、いつも彼らを横目にちらりとみた後、俯きながら地下へと降りていくのでした。

 提灯の灯りを頼りに、慎重に螺旋構造の階段を下りていきますが、どうにもエンデは不思議な心地がしてなりませんでした。いつもなら少しで行ける筈の図書室に、今日はいつまで経っても着かないのです。何歩、何歩と繰り返せど、新しい一段がまた顔を覗かせます。エンデはなんだかむしゃくしゃして、ずんずんと足を鳴らして階段を下りていきました。提灯明りに頼って恐る恐るだった足取りは、いつしか息が弾むほど速いものになっていきます。

「エンデ、」遠くでオスカーの泣き声が聞こえ、エンデはハッとしました。「エンデ、置いていかないで」

「オスカー、」エンデは遅れているオスカーを迎えに行くことはせず、じっとその場で待っていました。振り返って暗闇を見つめていますと、やがて蔓の灯りを引き連れたオスカーの姿が見えて、エンデはほっと一息をつきます。

「エンデ、一人はこわいよ」

 オスカーは文句を垂れて、それから手を繋いでいい、とエンデに甘えました。

 エンデはオスカーの手を握り、再び階段を降りはじめます。オスカーの手のひらはエンデより温かく、ほんの少しだけ湿っていました。

「子供の体温だ」

「そんなの、エンデだって同じぢゃないか、」

「僕はオスカーより三ヶ月年上だよ。それに、逆上がりだってできる。もう大人さ、」

「逆上がり出来るのが大人の証なら、」オスカーは小さく咳をします。「寮長は子供だよ。赤ん坊を孕んでいないのに、妊婦より大きなお腹をしているのだから」



 *



 やがて幾つの階段を下りたでしょうか。エンデもオスカーも息をはあはあさせて、もう今夜は戻ろうか、とエンデが言いかけた途端です。やにわに石造りの階段は終わりを告げ、重厚な作りの木製扉が二人の前に現れました。沈丁花の芳香に混じって、うっすらとした洋墨インクと黴臭さが鼻をつきます。

 提灯をかざして、エンデはドアに彫られた文字を読みました。

「と、しょ、し、つ……オスカー、着いたよ。図書室だ」

 二人は嬉しくなって、一緒に真鍮でできたノブを引っ張りました。水気の無い樹がぱさぱさと音をたてて、ゆっくりと二人を部屋へと誘います。

「……エンデ、なんだかやっぱり、今日はおかしいよ」 オスカーが、室内の景色を見て言いました。「地下室な筈なのに、月明かりがこんなにも」

 それは二人が常日頃からかくれんぼをしている図書室よりも、いくらか小ぢんまりとした広さの部屋でした。図書室というよりは、書斎に近い造りをしています。西と北の壁に大きな本棚が備え付けられており、磨き上げられた床の上には納まりきらない蔵書が乱雑に積まれています。東側には長方形の大きな窓があり、嵌め込まれた硝子越しに月光が燦々と注いでいました。月は大きな窓より更に大きく、凹凸さえも露わにして、静かに太陽の光を反射させていました。蒼く透明な玻璃色の晄で、オスカーの髪の毛は宝石を散らせたかの如く煌めきます。僅かな空気がドアから流れ込む度、彼の黒々とした髪は僅かに紺色へとその色を変えました。エンデは眩しくなって、目を細めます。

「ここはどこなんだろう」オスカーが心細げに呟きます。

「ひょっとしたら地球の中かもしれない。地球はフウセンカズラの実のように中が空洞になっていて、その中にはもう一つの世界と新しい言語があるって、僕聞いたことがある」

 エンデは答えて、一歩進み出ました。後ろにいるオスカーが、怯えて襯衣シャツを掴むのがわかります。「大丈夫だよ、ここには僕らをつ人なんてどこにもいやしないさ」エンデはオスカーを慰めました。

「どこへだって、図書室であることには変わらないだろう。ここは僕たちの知っている図書室ではないけれど、確かに僕たちは、僕たちの知っている図書室へと続く階段を降りてきたんだ」

 エンデはそう言って本棚に収められた本を一冊手に取りました。ぱらぱらと捲って、書かれている文字や絵を見つめます。

「何が書いてあるの、」オスカーが隣に立って、本の中身を覗き込みます。

「オスカー、これは何語だい」エンデは尋ねました。本に書かれた文字は、エンデたちが普段使っているものとまるで違います。

「こんなのは見たことがないよ」幾枚か頁を捲って、オスカーは答えました。「僕には分からない」

「オスカーが分からないのなら、僕に分かる筈が無い」

 エンデは本を棚に戻して、別の一冊を取りました。今度は先ほどの一冊よりも薄く、また絵が沢山描かれています。どうやらそれは図鑑のようでしたが、水彩でしたためられた挿絵もまた、エンデたちが見たことのない動植物ばかりだったのです。

「どうにもおかしい。僕らは決して本を読まなかったり勉強をさぼったりしていなかったのに、ここにある本が何を教えようとしているのか、全く以て分からないんだ」

「分かる本がきっとある筈さ」オスカーは呑気に、本の背表紙に記された文字を一つ一つ眺めていきます。

 オスカーが本棚の図書を見るというので、エンデは床に置いてある本を探ることにしました。幾つか面白そうな物はないものかと低い本の山を崩せば、薄く積もっていた埃が舞い上がり、きらきらと空中に浮遊しました。

 エンデは本の山の下敷きになっていた、自分の背丈ほどもある革装丁本を引き摺ります。室内の唯一の光源は、硝子窓から注ぐ月の光だけです。エンデは窓の傍へと本を引いていき、頁を捲りました。窓枠の影が、開いた羊皮紙の上を斜めに走ります。

「やっぱり文字は読めないな。けれどこれは絵が沢山だから、なんとか想像することはできるかもしれない」

 オスカーが小さく分厚い上製本を一冊持ってきて、エンデの向かいに座りました。

「あゝ、これは植物の図鑑のようだね、」エンデの本を珍しげに眺めながら、オスカーははしゃぎます。

「どうしてわかるの、」

「これ。この図を見て御覧よ。花弁があって、葉があって、茎があって、根がある。それから果実も下に描かれているね。花の詳細図もある。……エンデ、僕はこれを見たことがあるよ。これはニコゲモドキの解剖図だ」

 オスカーの細くしなやかな指が、図の一つ一つを丁寧に指さします。よく見れば確かに、それはエンデがいつかオスカーと一緒に図書館で見たニコゲモドキの絵と同じつくりをしていました。けれどもエンデが見たことのあるニコゲモドキと言うのは、こんなにも詳細に描かれてはおらず、物語文の表紙。聖書の世界を模した絵画。それらの隅の方にひっそりと咲いていた、小さな小さなものでしたので、エンデはこれがニコゲモドキだということに直ぐには気付けなかったのです。挿絵を少し見ただけで、一体それが何の絵なのか分かるオスカーの賢さを、エンデは誇らしく思います。

(オスカーと僕は同じ本を見て、同じ遊びをしている筈なのに。どうして僕はこれが何についての絵なのか、ぴたりと当てられなかったのだろう)

 ニコゲモドキは、普段は私たちの目の前には現れない、特別な植物なのだと以前二人の読んだ本には書かれていました。ですのでこんなにも詳細な図が記されていることに、エンデもオスカーも少しだけ驚きました。

「こんなにも詳しく描かれているってことは、やっぱりニコゲモドキは本当にあるんだよ」オスカーは嬉しくなって、梟の鳴き真似をしました。

「どうして夜鶯の真似をしないのさ、」エンデの問いかけに、オスカーはくすくすと笑います。

「だって、エンデが夜鶯なのだろう。ならば僕は梟がいい。森の奥の曹達水を飲んで、同じ夜に生きるんだ」

 エンデは恥ずかしくて堪らなくなって、本のページを捲る素振りをしました。

「駄目だ。たったの一頁でも、重すぎて捲れないよ、」

「嘘つけ。そんなに重い本なら、どうして月の光の下引き摺って行けたと言うんだい」

「お願い、一緒に引っ張っておくれよ」

「仕方無いなあ、」

 エンデを甘やかしてオスカーは、反対側の背表紙を引き摺って、本を元あった場所へと返しました。それからまた二人は窓のふもとに座り込んで、今度はオスカーが見繕った本を、額をくっつけて眺めました。ちょうどオスカーが読んでいる本を、エンデが横からのぞき込む体勢です。エンデは、さっきとは反対だな、と一人くすくすしました。

 オスカーの持ってきた上製本は先程の大きすぎる本とは違い、二人が普段学校で使っているノート・ブックと同じ程度のものでした。そしてこの本もまた、オスカーの引き摺った革装丁本と同じように見知らぬ植物や絵の詳細図が描かれていたのです。

 オスカーは頁を捲る毎に「これは鼻行類の一覧だね、」やら「これは端立蜘蛛の進化図だ、」やらと、声をあげて嬉しがりました。エンデは示された絵を見ても、咄嗟にはそれが何を表しているのか、やっぱり分かりません。エンデはいつしか返事をするのを忘れて、俯いてしまいました。

(今夜僕はきっと、催眠術に罹っているんだ。図書室はいつもと全く違うふうだし、僕はオスカーの傍にいるのに寂しくって仕方がない)

(こんなとき、ザネリ等はどうするだろうか。ザネリは僕より頭が良くないけれど、言葉を自在に操れる。僕みたいに、オスカーを疵付けてしまう恐れなど抱かず、彼にこの絵のことを沢山尋ねるだろう。ニコフは、あいつは僕より遙かに賢いから、きっとニコゲヤナギの解剖図にも気付けた筈だ。ひょっとしたら、この不思議な文字も読めるかもしれない。けれど、嗚呼、僕は空っぽだ。僕は、オスカーと通じる為の手段が何もない)

 エンデが堅くくちびるを閉ざしていますと、それに気付いたオスカーはわざとらしく「ほら、見て御覧。これはきっと甘露をつくる蜜蜂の図だ」と、エンデに呼びかけました。

「オスカー、」エンデは傍にいるオスカーに甘えます。「愛していると云って」

「愛している」 オスカーの声は透通っていました。「どうして、そんなことをきくの、」

「わからない」 俄かにエンデは心のほぐれた気持ちがしました。翠雨の色を肌に纏い、更に朱を混ぜた彼の頬です。

(そうだ、ザネリもニコフも知らないかもしれないが、僕とオスカーはよく星座版を頬をくっつけながら見るし、ケンタウルス祭りにも一緒に行ったんだ。今だって、時計の針が逆さまの影を映す時刻に、こっそり図書室に忍び込んでいる)

 エンデは、クラスの中で自分が一番オスカーのことを好きだと思っていましたし、またその気持ちは誰にも負けないという自信がありました。オスカーは、エンデにとっては代わりのない存在です。躑躅ツツジの蜜を吸うのも蜜蜂の巣を分け合うのも、エンデはオスカーじゃない人とは誰ともしたくないと思っていました。

(オスカーは僕のどこが好きなんだろう。どうして僕と一緒に居てくれるのだろう。僕はオスカーの頭がよくて、勉強を教えてくれるとこも好きだし、爪の際の小さなささくれだって愛しい)

 エンデは思わずオスカーに尋ねたくなりましたが、オスカーの「アッ、」という短い叫びで我に返り、開きかけた唇を閉ざしました。新たに捲れらた頁を見てみますと、それは今までの解剖図(あるいは詳細図・一覧表)とは少し違ったものでした。

 両開きの羊皮紙に認められているのは、奇妙な図形でした。真円形の軌道に乗った数奇な文字列と、中央には藍とも蒼ともつかない翅を持った蝶々の群れ。ふたつの間には降る星々が踊っています。何よりも二人の眸を惹いたのは、それらに天蓋の如く覆い被さる、蒼洋墨の数列でした。真北から少し右へ逸れたところに一を置いて、右回りに二、三、四……と数を重ねます。数は十二が最後で、それは真北の位置に来たところで終わっていました。

「これ、時計ぢゃないのかい、」

 オスカーが図面を差してそう言います。

「時計、」エンデは咄嗟に、部屋から忍び出る前ポケットへ忍ばせた懐中時計を思い出しました。

「時計を重ねるのかな」エンデは瞳を大きく開かせました。

「時計草でいいのかな。なんなら僕取ってこようか」返事も聞かずに立ち上がったオスカーの手を引っ張って、エンデは「時計ならある」と懐中時計を取り出します。オスカーが座りなおしたのを見計らって、エンデは懐中時計を図面の上に置きました。

 二人の眼も頬も、艶々として煌めいています。それは月光によるものではありません。舞台の緞帳が上がるのを待つ心と同じで、目の前にひらけるものに対する期待が、彼らの鼓動を速めているのです。

 一瞬の静寂しじまの後、変化は音もなくはじまります。頁の上置いたエンデの懐中時計が秒針を震わせ、羊皮紙は月の雫に濡れます。頁の蝶々はすでに挿絵ではなく、その羽に鉱石を含んで洋墨をふるい落としました。一匹、また一匹と、玻璃羽の蝶々はエンデたちの前に姿を現します。何処かから水琴窟の聲が響き、香の如く甘くしめやかな香りが其処彼処に立ち込めました。

 月光は粒子の放ちを極め、蒼白の世界はより透明度を増していきます。エンデもオスカーも、蝶々の動く様をじっと見つめていました。胡蝶らは表翅と裏翅を絶えず翻し、光る粒子の粒を跳ね返します。玻璃は淡色の蒼ではありません、うすく浅蘇芳あさすおう月白つきしろ、それから少しの孔雀を混ぜた様相で、光を受ける角度によって僅かばかりに色が変わるのです。

 ふ、とエンデが視線を逸らしますと、蝶々の羽ごしにオスカーの恍惚とした顔が見えました。エンデの胸は愛おしさと、最期の刻を迎える確信の切なさでいっぱいになります。

「オスカー、」名を呼ばれ、彼の瞼を縁どる睫毛がふるえます。

「オスカー、永遠に愛しているよ」

 エンデはオスカーの口元に唇を寄せました。口唇と口唇が重なる一瞬手前、宙を舞っていた蝶々が、二人の間降り立ちます。薄い玻璃の羽が二人の間に挟まれて、薄闇の中晄を極めました。

 硝子づくりの羽はやがて溶けて、二人の口許を濡らします。そうして漸く、オスカーとエンデの唇が重なりました。ひとときの柔らかさのなか、エンデは憂惚うっとりとした気持ち良さで眸を細めます。

 互いの下唇を食んだのを最後として、玉響の刻は終わりを告げました。二人は互いの薄青の絹を掛けた肌を見つめて、どちらともなく立ち上がります。

「蔓の灯りがもう消えてしまったよ」



 *



 扉を軋ませ、二人は図書館を後にします。冷たい空気の流れを感じて、外が近いことを知ります。エンデはオスカーと逸れないようしっかり手を握り合って、螺旋階段を昇りました。

 最初に階段を降りたよりももっとずっと早くに地上へと行きついて、二人は顔を合わせます。

「さっきの、玻璃羽蝶々の魔法かな、」オスカーは噎せながらエンデに聞きました。

「きっとそうだろう」繋いだ手に力を込めて、二人は宵待草の咲き乱れる庭を往きます。

「今度は何が見れるかな」オスカーの無理矢理に明るい声が、夜の靄の中響きます。エンデはなんだか嫌な予感がして、なにも言えませんでした。

 それからエンデとオスカーは部屋へと戻り、普通の大きさの月の光を浴びながら、朝まで昏々と眠り続けました。


 その後のことですが、不思議なことに、何度夜を抜け出しても、もう二人はあの図書館に行くことは一度だって無かったのです。


                                   ―終―

 




《解説》  


 男根期というものがある。フロイトが提唱した性的発達段階論の一つであり、簡単に言えば子供は自分の性器の役割を知り、男女の性的違いに気づいていく時期(精通がある、自慰をするなど)――つまり、性差の自覚の時期のことである。

 ならばそれ以前の、性差を自覚しない、三歳から六歳以下の子供たちの性別は果たして本当に少年と少女であるか。性器の違いはあれど、二次性徴の起きていない体においては、少年は少女のように華奢であるし、少女は少年よりも力が強かったりする。精神面では特にそれが顕著だ。少年、或いは少女たちは性別に関係なく喧嘩をし、親愛のキスをする。

 つまり性差の自覚の以前に、少年を少年と(少女を少女と)決定づけているものは、各々の性器と親の教育のみである。それらを一切取り払った精神的な面においては、少年(あるいは少女)の、性別の区切りすらないのである。だとすれば、私たちが少年を少年と、少女と少女と呼ぶのは果たして正しいのであろうか。言ってしまえば彼らはその時までは雌雄同体の状態であり、正しく性別を考えるのであれば少年でも少女でもなく「少年少女」と位置付けるべきなのである。

 ここにおける二人の少年(便宜上そう呼ばざるを得ないのが歯がゆい)も、性差を自覚する前の、ごく幼い子供である。彼らは当たり前に手を繋ぎ、人前でキスをし、二人組をつくるとき、真っ先にお互いを選ぶ。

 では、ここにおけるエンデとオスカーという少年少女二人が、正しい少年となるのはいつであるか。それはまさしく、フロイトの提唱した男根期になぞらえていうのであれば、『性器の役割を知る』――性的快感・又は性的魅力を感じたときではないだろうか。少年少女の片方は、親愛、或いは好奇心、挨拶などの原因ではなく、玻璃に透かされた友人の表情に魅力を覚えて、口付けたのだ。

 また、蝶々は芋虫、蛹、成虫と姿を変えていくことから変化の象徴とされており、ギリシアにおいては不死や魂の象徴となっている。少年少女は夜、どこともしれない図書室へとたどり着き、変化の象徴である蝶々を見つけることで、少年へと変化していく。

 少年少女から少年へ変化するには、あらゆるものを捨てなければならない。彼らは少しずつ成長していくにつれ、空想の世界から離れていかざるを得なくなるのだ。少年となった彼ら二人の前には、もうニコゲモドキもミカヅキハナタチグモも、玻璃羽の蝶々も現れはしない。


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[良い点] 面白い! というか、不思議! 読みはじめは、この子たちやけに詩的なセリフを発するな、と思いましたが、優しくもどこか妖しい、それでいて丁寧な語り口でこの小説の世界に段々と引き込まれていきま…
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