暗夜教室①
ぼんやりとしていた目と耳が徐々に感覚を取り戻していく。
輪郭が一本の線として見えるようになると、 正面に同い年くらいの男の子がしゃがんで僕を伺っているのが分かった。
少し長めの髪だから、女の子かも知れない。眠そうな顔をしているが、綺麗な顔をしているなと思う。
「猿にはお似合いだな」
声を聞いて、男だと思う。少し甲高い声は中性的だが、喋り方がいかにも男という感じがした。
「空吾くん、猿と呼ぶのはよせ」
迷彩柄の衣服を身に付けた男が現れる。屈強そうな身体を屈めると床がぎっと鳴った。
大人の人だ。ヘルメットから覗く視線は見た目と裏腹に優しそうだった。助けてもらえる――と考えることは出来なかった。
僕は檻の中にいた。
正真正銘、猿なんかを入れるのに最適な、鉄格子が嵌められている。身を屈めてやっと入るような小さなものだった。
「先生、見つけたよ。十中八九、猿だ」
空吾くんと呼ばれた彼は、いかにも意地悪そうに無線機を耳に当てた。
「先生までそんなことを言う」さらさらした髪が目にかかり鬱陶しそうに払うと「猿は猿さ」と言って立ち上がる。
「それはこれから始めるけど、こんな時間にこんな場所でうろついてるんだぜ。間違いないと思うけどなあ」
それから「菅野三尉」と口にすると、迷彩柄の男が携帯ゲーム機をごつくさせたような機械を取り出し僕に向けた。レンズが僕をじっと見つめ、電子音が鳴る。空吾くんが近寄って覗き込む。
「名前は義普登志彦。二〇〇二年生まれ。ずいぶん長く生きてる。危ないね。ここで殺しておこうか」
菅野三尉が彼の小さな頭をはたいた。
「あいた、なんだい急に」
「君みたいな子供が殺すなんて言うんじゃない」
「ははは、そんな常識言うない」
頭を抑えながら、いたずらっ子のような表情で言う。
「で、先生。こいつどうすんの? 運ぶ? マジかぁ。ううん、ウソウソ、何でもないです。それじゃこれから向かいます」
無線機を耳を離し、不機嫌そうに僕を見て腕を組む。
「お前、重くないだろうな」
「運ぶのは私だ」
同行者に間髪突っ込まれ、鼻を鳴らして部屋から出て行った。
二人が入ってきたらしい、割られた廊下の窓から外に出る。地面まで少し距離があるらしく、ロープか何かに吊るされて風景が不安定に揺れた。
外は風が強く、木の影が軒並み暴れまわっている。大地に到着すると檻はエンジンの付いた台車のようなものに移され、お尻の下から細かな振動が伝わってきた。
「怪我はないか」
僕への心配らしいと分かり、返事をしようにも声が出ない。
「菅谷三尉は優しいなあ」
空吾くんが先行して歩き出す。背中に大きな銃が引っかけてあるのが目に付いた。ショットガンに見える。一発撃つごとに、銃身の下を一回スライドさせるポンプアクションが必要になるが、反面威力が高い。お父さんが趣味で、それのおもちゃを持っていた。
それにしても、空吾くんの華奢な身体に似つかわしくなかった。
「妙なこと考えるなよ」
菅谷三尉が囁いた。
「私も空吾くんも、何かあったら君を殺さなくてはならなくなる」
「あの銃は本物ですか」
やっと訊ねると「玩具みたいだろう」と返された。
「狙いをつけるのが苦手だから、彼用に銃身が延長されている。それがかえってチープに見えるよな」
確かに、お父さんのものよりも、筒が長く伸びていた。
「とはいえ銃は銃だ。殺傷能力も過剰にある。抵抗なんて考えるんじゃないぞ」
振動にお尻がじんわりと痛みを感じるのを意識しながら、何故空吾くんは迷彩柄の服を着ていないのだろうと思い始める。薄茶色のトレンチコートと黒いカーゴパンツという出で立ちは、これからちょっとした山登りにでも行きかねない。
そもそも未成年が銃なんて持っていいのだろうか。僕が捕まっている事にも説明がなかった。
状況に慣れてきたのか、次から次へと疑問が浮かんでは弾ける。ここに来て、僕はどうなるんだろうという疑問が膨らみ始めた。
「先生」
空吾くんの呼びかけに顔を上げる。その先に真っ黒なヘリコプターが停められていた。
「先生ってば」
もう一度大声を出すと、ヘリコプターの中でスーツ姿の男が顔を上げた。
「連れてきたよ」
僕を載せた車がヘリコプターの横に付けられる。一際大きなモーター音が唸ったかと思うと、視界の高さがぐんぐんと伸びていった。
スーツの男は組んでいた足を解いて僕を眺めた。フレームの細い眼鏡の奥で、困ったように眉間にシワが寄っている。面長な顔はつるりとしていておじさんとは呼びづらく、やや後退した髪からお兄さんとも呼べそうにない。
「空吾くん」僕から目を離さず、アゴを撫でながら言う。「彼、本当にそうなの?」
「面相の照合はちゃあんとやったって」
「私がな」菅谷三尉が間髪入れずに言う。
「二〇〇二年生まれっての、間違いない?」
「しつこいなあ。本部のデータなんだから、間違いないよ」
「ふうん、彼さ、空吾くんと同い歳くらいに見えるけど」
空吾くんが露骨に嫌そうな声を上げた。
「今、十二歳だったよね」
「それが何か?」
「二〇〇二年から一二年って言ったら、二〇一四年だよ」
空吾くんとは同い歳らしい。クラスにいたら友達になれそうにないとぼんやり思ったが、この場でぼんやり出来ていたのは僕だけらしかった。
「……第二次カンブリア爆発」
菅谷三尉の言葉に空吾くんが「まさか」と不自然に笑う。
「こいつが最初の感染者だって?」
「正しくは第一次感染者だ。あくまで疑いだけど。まあ間違いないんじゃないか」
「しかし二〇一四年に感染したとしても、当時の時点で二次感染者はごまんといたはずですから――」
「あの」
たまらず僕は声を出していた。
話が勝手に進行している不満もあったけど、それ以上に、嫌な直感が働いた。
「話の腰を折るなよな、猿」
「猿はよしなさいって。俺達の言っていることが分からないんだろうなあ」
先生はとぼけた口調で宙空を眺めると「よし、授業の時間といこうか」と胸ポケットを探った。
「ええ、今? ここで?」
空吾くんの非難を気にも留めず、取り出したタバコの箱を僕にかざして「吸ってもいいか」と尋ねる。
「あ、はい」
「そんなやつに気を使う必要ないって」
「いつも言ってるでしょ。どんな相手にも礼節を欠かないこと。それが出来ないやつはいつまでたっても二流だよ」
タバコをくわえ火を点ける。ぼうっと橙色の灯りが揺らぐと、熱の届く距離じゃないのに暖かさを感じる。
「まず君は既に死んでいる」
「え?」
「義普登志彦君、君は今年が西暦何年か知ってる?」
二〇一四年だ。それなのに僕の口は接着されてしまったように開かなかった。
「二一〇〇年ちょうどさ。もう少し寝ると二十二世紀に突入だ」
先生は上半身を捻ると後ろから新聞を取り上げた。
「見てごらん、ここ。二一〇〇年、十二月二十七日ってあるだろう」
「紙……なんですね」
「うん? ああ、やっぱり便利だからね。君の生まれは二〇〇二年で間違いないね」
「はい」
「となると、君は現在九八歳の高齢者になるわけだが、実際そうは見えんわな」
両親の前でロウソクの火を吹き消した記憶が蘇る。雪みたいに真っ白いショートケーキに、十二本のロウソクが刺さっていた。つい最近のことだったはずだ。
「ありえないです」
「記憶の混乱と老化の停止。それが君に起こっている。二〇一四年、原因不明の病が突発的に発生した。それに感染したんだ。初期症状は突然の高熱なんだが、身に覚えない?」
「……」
「二〇一四年の三月、それは気候も文化も関係なく、全世界のあらゆる場所で一斉に、まるで示し合わせたように発生したそうだ。未だに原因は分かっていない。症例だけは山のように記録されていて、発熱、悪寒、頭痛、筋肉痛、食欲不振の末、意識不明になって死の淵を三日ばかりさまようらしい。致死率は八割。非常に高い」
「僕はそれで、死んだんですか?」
「そういうこと」
次回は22日19時頃更新予定です。