表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

第三章 奪う者と奪われる者の夜

 午後六時五十分頃、真田宗助は、入り組んだ路地を通り抜けた先の、静まり返った一角にある下崎邸の前にいた。

 下崎邸は古くて大きかった。無論、武家屋敷のように古くもないし、豪邸と呼ばれるほどに大きくもない。だが、宗助の実家よりは確実に古く、大きい。それどころか、周囲にあるどの家よりも古くて大きい。

 宗助は下崎邸の雰囲気に圧倒されていた。

 ただし、その古さと大きさに圧倒されているのではない。それだけならば感心するのみであり、圧倒されるまでには到らない。問題となるのは下崎邸から発散される強大な「力」だった。それは長月荘に働いているものと同種のものであるように思えたが、しかしそれ以上に強力なものだった。これほどまでに強大な力が働く家の住人というのは、最早、通常の人間の範疇を大きく逸脱してしまっている。このような街中に住んでいてはならない存在である。

 下崎家の人々は、様々な意味で、明らかに自分とは違う世界の住人である。宗助はそのことをこれ以上ないほどはっきりと思い知らされた。

 なぜ宗助がこのような場違い極まる家を訪れたかと言えば、それは一通のメールが原因だった。千鶴と別れた後、彼は今後の生活がどう変わるかという陰鬱な問題に思いを馳せながら、コンビニで漫画を立ち読みしていた。その時に、千鶴からメールが届いたのである。

 その内容は「夕食を食べに来ませんか」というものだった。本来ならば即座に却下すべき話である。しかし、文面の結びには「父がどうしても宗助さんを呼ぶように、と」という文章があった。そのことからどうも逃れるのは難しそうだということを悟り、宗助は大人しく承諾の返事を出したのだった。そして、約束の時刻まで大分間があったことから、今度は下崎家でどのような目に遭わされるかという切実な問題に思いを馳せながら、立ち読みを続けた。

 約束の時刻は午後七時である。現在の時刻はその十分ほど前である。宗助は、今回もきちんと、「待ち合わせ時刻の十分前にはその場にいる」という主義を守ったのだった。

 門柱に取り付けられたインターフォンを押そうとして、宗助は少し躊躇った。今ならまだ逃げられるという思いがあった。このまま更に深みに嵌まってしまって良いのかという迷いもあった。それ以上に、この先に進んで生きて帰って来られるのかという恐れもあった。

 だが、どのみち逃げられはしないのである。数秒ほどで決心を固め、ゆっくりと指を押し込んだ。

「ああ、真田くんかね?」

 聞こえてきたのは男の声だった。恐らく、千鶴の父親だろう。

 理知的な響きの静かな声であり、決して威圧的な響きの怒鳴り声ではなかった。宗助はまず、そのことに安堵した。少なくとも、これから相手をすることになる人間が、初対面の相手をいきなり怒鳴りつけるような人間ではないということだからである。

「あ、そうです。初めまして」

 答えた後で宗助は、なぜここにいるのが自分だということがわかったのだろうか、という疑問を抱いた。そしてすぐに、カメラか何かが設置してあるのだろう、という結論に達した。まだまだ一家に一台というほどには普及していないが、それでもCMで宣伝をするくらいには普及している。それなりの財産があるのだろう下崎家ならば、取り付けていてもそれほどおかしくはない。

「今、開けさせる」

 その言葉と共に通話が切れた。直後、門の向こう側にある玄関の方から、鍵が開く音がした。

 男は「開けさせる」と言っていたのだから、男以外の誰かが鍵を開けたのに違いなかった。通話を終えた直後の開錠となると、宗助がインターフォンを押す前からそこにいなければまず不可能である。もしかしたら本当に誰かがそこで待機していたのかもしれない。

 しかし、それならば、ついでに玄関の戸を開けて宗助を出迎えてくれても良さそうなものである。どうにも不親切――と言うか、それを通り越して不自然な話である。

 もっとも、下崎家の方には下崎家の都合や事情というものがあるのだろうし、そもそも宗助は丁重な扱いを要求できる立場にはない。そういうものだと納得するしかなかった。

 恐ろしい力に満ちた敷地内に足を踏み入れ、玄関までを恐々と歩いた。

「ええと、お邪魔します……」

 扉の向こうで待っているのだろう誰かに挨拶しながら引き戸を開けた。

 そこには無人の空間があるだけだった。誰もいなかった。鍵を開けてくれた人物はそこにはいなかった。

 悪ふざけをして隠れている、というのではなさそうだった。隠れられるような場所などはなかった。

 ホラー映画の冒頭部にありそうな出来事だった。

 だが、あまりにも大きな力の中にいるため、既に感覚がそれに慣れて麻痺し始め、全く意識から消え去りかけてはいたが、よく考えてみればここは魔術師と魔神が住むという建物なのである。こういった不自然な出来事や異常な出来事が起こったとしても、別段、おかしなことでもないように思えた。或いは、千鶴が超能力で鍵だけを開けただけなのかもしれない。

 釈然としないものを感じつつも宗助は、これ以上、このことを考えるのをやめることにした。考えても仕方がないということがわかるからである。

《そのまま進んだ所にある襖を開けよ》

 突然、圧倒的な存在感を持つ、尊大な響きの声が響いた。音程から、声の主は女だろう、と宗助は推測した。

「だ、誰ですか? どこにいるんですか」

 周囲を見渡したが、やはり誰もいない。少なくとも、このように静かな声が問題なく届くような範囲には、人の姿はない。小型マイクか何かを使った悪ふざけだろうか。宗助はそう思った。

 しかし、どうも違うようだった。聞いた時の感覚を注意深く思い返してみると、その声は耳に届いてきているのではなかったような気がした。どちらかと言えば、直接、頭の中に声が送られてきているような、そういう感覚だった。テレパシーかもしれなかった。

 ともあれ、いつまでも玄関に佇んでいるのも気まずいものがある。先に進むのは嫌だったが、このままでいるのもそれはそれで嫌なものである。

「お邪魔します……」

 宗助は靴を脱ぎ、住人達の機嫌を損ねないよう綺麗に揃えた上で、静かに謎の声に指示された通りの場所に向かった。

 襖を前にして、どうして良いかわからなくなり、宗助は立ち止まった。襖に向かって手を突き出したまま、固まっている。これが扉であればノックをするのが礼儀だが、では襖の場合はどうするのが礼儀なのか。それがわからなかったのである。

 だが、少し前に見た礼儀作法に関するクイズ番組で、「襖の場合はまず少しだけ開ける」というものがあったのを思い出したことで、硬直も終わった。その番組によれば、襖を最初に開ける理由は、中の人間に自分がこれから入るということを知らせるためであるという話だった。

 宗助は少しだけ襖を開けた。

 少し考えてから、中高生の頃に職員室を訪ねた時と同じ挨拶を室内に投げかけた。

「ええと、失礼します」

「入りたまえ」

 それはインターフォンから聞こえてきたものと同じ声だった。

 その部屋には大きな卓袱台があり、それに向かって男と女が隣り合って座っていた。ほとんどくっつくようにしており、初対面の宗助でも、二人が互いを深く愛しているということを見て取れた。ちなみに、千鶴の姿はなかった。

 男の方は作務衣を着ている。年齢は四十歳代半ばといったところである。身体つきは痩せ型だが、ひ弱な雰囲気はない。学者風の理知的な風貌の中にある、爬虫類的な目が印象的な男だった。

 敷地内に満ちる力によって感覚が狂ってしまっているせいか、この男からは千鶴のような脅威的な力は感じられなかった。せいぜい、正確なところが判別不可能だが、恐らくは街で擦れ違う超能力者達と同じ程度のものに違いない。

 問題は、浴衣を着た女の方だった。年齢は三十歳前後といったところである。傲慢な女王のような顔つきをした美女である。横に座っている男よりも頭一つ分以上も背が高いことから、身長は二メートルに届くのかもしれない。いるだけで威圧感のある大女だが、それが気にならないほどの美貌と肉感的な体型の持ち主であるため、何らの問題もない。

 この女の方は、凄過ぎて全くわからない、といった域にまで達していた。あまりにも強大過ぎるため、それを感じ取ってしまっては自分が壊れてしまうということを本能が悟り、感覚を無意識的に遮断してしまっている。そのことが、なぜだか宗助には理解できた。

 年齢から考えるに、この二人が千鶴の両親なのだろうと思われた。つまりは、男の方が魔術師で、女の方が魔神なのである。

「私が千鶴の父親の秀臣だ。お義父さんと呼ぶのは許可しない。秀臣さんと呼びたまえ」

 男が口を開いた。

「私はアラト。千鶴の母だ。好きなように呼ぶが良い」

 女がそれに続いた。

「さ、真田宗助と言います。よろしくお願いします」

 恐怖と緊張に震える声で、宗助は改めて名乗った。あまりにも緊張しているため、普段、自己紹介時に必ず行うことにしている、「真田信繁の真に田圃の田、『邪宗門』の宗に助ける」と字を名乗ることも忘れていた。

 秀臣は軽く頷くと、「座りたまえ」とだけ言い、彼ら夫婦の対面の座布団を示した。

「失礼します」

 座布団に腰を下ろした宗助は、なぜ千鶴がここにいないのかと疑問に思い、では自分は一体どうすれば良いのかと悩んだ。延々と、まるで通夜の席のように黙りこくっているだけでは気まずいし、かと言って、何か場を明るくするような話題があるわけでもない。

 どうしたものかと悩む宗助に対し、唐突に、秀臣が問いかけてきた。

「ところで、誰かを訪ねる時、なぜ時刻を決めると思うね?」

「え?」

 その意図が読めず、宗助は戸惑い気味に問い返した。

「だから、誰かを訪ねる時、何を意図して時刻を決めると思うか、と聞いているんだよ」

 なぜこの質問を投げかけられているのかということを考えるのは後回しにすべきである。宗助はそう結論し、質問にどう答えるべきかを考え始めた。

 少し考えた結果、宗助は答えらしきものを見つけることができた。

 それはあくまでも答えらしきものでしかないため、宗助は全く自信を持てなかった。自信がないということが端から見てもはっきりとわかる、何とも情けない口調で答えた。

「ええと、その……たぶん、相手が訪ねてくる時間を把握するためじゃないかと……」

「ほう、時間を?」

 秀臣は興味深げに視線を動かし、先を続けるように促してきた。

「いつ会うのかを決めておかないと、来られると困る時間に来られたり、来るだろうと思った時間に来なかったりして、不都合なことになるから……時間を決めて、そうならないようにしておくのかと……思うんですが……」

 この答えが秀臣の基準において合っているのか間違っているのか。そのことを不安に思い、宗助は表情を窺ってみた。

 しかし、秀臣の表情は全く変化しておらず、そこから何かを読み取ることは、宗助には不可能だった。

「その通りだ。では、それについて、君はどう思う?」

 冷徹な声で問われ、宗助は返答に窮した。先ほど述べたものは単なる思い付きに近いものであり、特に何か、深い考えがあってのものではない。確たる考えもないままの発言なのだから、続きがあるはずもない。

「いえ、その……すみません、何も……」

 秀臣はわざとらしく嘆息し、出来の悪い学生に失望した教師が向けるような目を宗助に向けた。

「いいかね。誰かを訪ねる時に時刻や場所を決めるということは、訪ねられる側が『その時刻まで自分は都合がつかない』、『他でもないその時刻に来て欲しい』という意思表示をしているということなのだよ。さて、質問だが、君はいつ我が家のインターフォンを押したね?」

「あっ……」

 最後に投げかけられた問いによって、宗助はようやく、秀臣が遠回しに指摘していることを理解した。つまり秀臣は、宗助が約束の時刻よりも早く来たことを非難しているのである。

「すみません、遅れないようにと思って、少し早く来過ぎました」

 秀臣は、ようやくわかったか、とでも言いたげな顔で頷いた。

「そうだ。君は早く来過ぎたんだ。七時に来いと言われたら、六時五十五分でも七時五分でもなく、七時きっかりに来なくてはならんのだ。食事などの場合は特にそうだ。道徳の教科書に、時間にルーズな王が美味いスープを駄目にする話があっただろう?」

「ええと……よく知りません」

 知っていることが当然のように言われているから、もしかしたらそれは知らないことが恥となるような、非常に有名な話なのかもしれない。しかし、生憎と宗助の記憶には、それに該当するような話はなかった。

「何だ、最近の教科書には載っていないのかね? こういう話だ。ある国に時間にルーズな王様がいた。ある日、王様は『世界一美味いスープ』を飲むため、あるレストランに予約を入れた。だが、ルーズな王様は時間を守ることができず、予約を入れた時刻よりも遅れてレストランに到着した。で、出されたスープを飲むわけだが、それは非常に不味いスープだった。王様はシェフを呼んで文句を言うわけだが、そこでシェフは『予約された時間に来てくだされば、これは最高のスープでした』といったようなことを言うわけだ。まあ、時間はちゃんと守らないと駄目ですよ、というありきたりな教訓話だね。私は寡聞にして知らないが、古代中国によくある、家臣が暗君を諌めるという構図から引っ張ってきたのかもしれん」

「いえ……道徳の教科書を開いたことがないんです」

 宗助は、そもそも道徳の教科書など、まともに開いたことがなかった。あくまでも宗助が通っていた学校、そして宗助が在籍していたクラスに限った話で他はそうでもなかったのかもしれないが、彼は道徳という教科をまともに学習したことがなかった。だいたい、そのための時間は他の授業の補習や自習に充てられていたのである。

「そうか。それは損をしたね。あれは面白い読み物だから、もしまだ手元に教科書があるようなら読んでみるといい。馬鹿馬鹿しいご都合主義と寒々しい予定調和で出来上がったあのアンソロジーは、『こんなことがあるわけないだろう』というスタンスで読むと、これがまた実に面白い」

「そうですか……」

 宗助はあまり興味が湧かなかった。道徳という授業が全く無駄なものであるという認識は彼にもあったが、だからこそ、それに楽しみに見出そうとするということが理解できなかった。そのようなことをしなくとも、他にもっと楽しいものがいくらでもある。

「……まあ、それはどうでもいいんだ」

 秀臣の方も、別に宗助が興味を抱こうと抱くまいと構わないらしかった。何事もなかったかのように続けた。

「要するにだ。料理というものは、往々にして、出来上がった直後から味が悪くなっていくものだ。だから、用意する側が指定した時刻に可能な限り近く、その場に到着することが望ましい。指定した時刻以前はまだ客を迎える準備が整っていない。指定した時刻以降は整えた準備が劣化していく。そういうことだ」

 そう言った後、時計を見て、秀臣は顔を顰めた。

「まあ、こちらも約束した時刻を過ぎても準備が整っていないという体たらくだがね。千鶴の奴、緊張でもしているのだろうかね。普段はこんなことはないのだが」

「千鶴ち――さんは、料理もできるんですか」

 千鶴は料理も万能なのか、と宗助は内心で感心した。米を洗剤で研ぐ主婦もいるらしいというこのご時勢において、美少女で料理もできるとなれば、もう国宝級と言っても良いくらいの存在かもしれなかった。

「ああ。家事万能だ。徹底的に仕込んだからね。女だからと言うのではないよ。男だろうと女だろうと、できることが少ないよりは多い方がいい。そういう方針だ」

 それから咳払いして続けた。

「まあ、しかし、料理の遅れは、客が予想以上に早く来た過失に比べれば軽いものだ。そうなったらそうなったで、客は談笑でもして待っていればいいんだから」

「すみません……今後は気をつけるようにします」

「最近の若者にしては礼儀を知っているな。知っているだけで、ほとんど活用できていないが」

 宗助は、なぜ自分がここまで酷い扱いを受けなければならないのか、と内心で憤慨した。宗助は招きに応じてわざわざ来たという立場なのだから、どう考えても礼儀知らずは秀臣の方である。

 秀臣は宗助の思いを見抜いたかのように嗤った。笑ったのではなく嗤った。

「礼儀というのはね、守るに値する相手にだけ守っていれば、それでいいのだよ」

 このあまりにも端的な発言に、宗助は最早、絶句するしかなかった。ここまではっきりと言われてしまうと、怒りよりも呆れが込み上げてくる。

 また、自分は何か秀臣に嫌われるようなことをしただろうか、という疑問を抱いたが、それはその直後に解決した。

 嫌われる理由は確かに存在した。千鶴がどのような伝え方をしたかはわからないが、要するに秀臣にとって、真田宗助は娘を誑かした悪い虫なのである。好意を抱けという方が難しい。

 宗助は好きなだけ言わせることにした。きちんと千鶴を育ててきたのであろう秀臣にはそうする権利がある。また仮にそうする権利がないのだとしても、宗助が秀臣に敵う道理がないわけだから、甘んじて受ける以外に道はない。

「すみません。いつか、礼儀を守って貰えるような人間になりますんで……」

 言った直後、自分の言葉が、まるで恋人の親に自分を認めて貰おうとしているかのようなものであるということに、宗助は気づいた。やってしまった、と思った。こうした些細なミスがいくつも積み重なって現在の状況があるというにも関わらず、またその轍を踏んでしまったのだった。

 秀臣が蛇のような目を細めた。喜んでいたり、感心していたりするのではなく、馬鹿にしているような顔つきだった。

「ほう、なかなか道理がわかっているようだ。そして、やはり君には覇気がない。戦う覚悟がないと言うのか……君は何か困難にぶつかると、それと戦い、排除する手段ではなく、その状況をいかにして受け容れるかという手段を考えるタイプではないかね?」

「……まあ、そうです。……どちらかと言えば」

 否定できなかった。確かに宗助はそういう傾向がある。今日の千鶴との出来事だけを見てもそうである。長月荘に関連した事柄を見てもそうである。また、これまでの人生を振り返ってみてもそうである。いつも、いかにその状況を打破するかではなく、いかに順応するかを考えていた。

「それは良くないよ。非常に良くない。苦境というのは、黙って蹲っていればいつの間にか過ぎ去っているような、そういう甘いものではない。黙って蹲っていれば嵩にかかって背中を踏みつけてくるような、そういうものだ。首相じゃないが、痛みに耐えて早い内に手を打つことが肝心なんだ。そういう経験はないかね? 多少のリスクを覚悟してでもあの時ああしていれば、今のこの苦悩は存在しなかった、というような経験だ。どうだね?」

「……あります」

 これも否定できなかった。宗助の人生はそのほとんどがそういうものだった。常に過去の怠慢のつけを支払わされているようなものだった。最近の例では千鶴や長月荘がある。長月荘を見て覚えた危機感に従って入居を取り止めていれば、今のような、ひたすら超能力を隠そうとする、神経の磨り減るような日々を送らずに済んだかもしれない。千鶴の「友達になって欲しい」という願いを、或いは「恋人になって欲しい」という願いを拒絶していれば、このような厄介な状況に陥るようなことにはならなかったかもしれない。

「嵐が過ぎ去るのを待つことよりも、嵐から逃れること、嵐をどうにかすることを考える方がより大事なのだよ。なぜなら、人間がやり過ごせるものには限界がある。無為自然の元祖である老子クラスにもなれば、この世のあらゆる出来事に耐えられるんだろうが――いや、あれは耐えるというんじゃないな。あれはもう、耐えるという概念自体がないんだろう。老子にしてみれば、ただ自然の一員として生きているだけのことだ。だが、あれは結局、人間ではなかった。あれは太上老君という名の神だ。我々のような人間とは違う。君も私も、老子にはなれない。状況の変化に耐えるばかりでは、いつか必ずそれを背負いきれなくなり、破綻する。偶然、必然、ありとあらゆる出来事が我々を押し潰そうとする」

 秀臣の話について、宗助は全く否定の言葉を見つけられなかった。確かにその通りなのである。老子云々の話はともかくとして、実際、宗助は千鶴に出会うまで、積もり積もった状況に押し潰されそうになっていた。まだまだ余裕がないでもなかったが、あのままでは遠くない未来――少なくとも彼が大学を卒業するよりも早く――押し潰されていたことだろう。

 秀臣はしばしの瞑目の後、断言するような強い口調で言った。

「だからこそ、受動的に事態の推移を見守るのではなく、積極的に事態を動かしていこうとする意志と覚悟が人間には必要なのだ」

「……それはわかります。確かに、そうです。でも、実際にやるには難し過ぎますよ。僕には無理です」

 理解するのは容易い。実行するのは難しい。それがこの世の真理である。宗助はそのことを実感した。

「世の中には……リスクを背負えない人間だっているんです」

「だがね、背負わねばならないリスクもあるのだよ。それを背負わないことで、結果的にそれ以上に重いリスクを背負わされることになる。そういうリスクがある。それを背負えない人間が破滅するんだ。そうだな、たとえば……麻薬をやらないかと誘われて断り切れず、結果、仲間共々破滅する愚か者がいるだろう? 或いは、麻薬以上に身近な例として、飲酒の誘いというのもある。とにかく、そういった連中は、それを拒否することによって友人関係が破壊されるかもしれないというリスクを受け容れられず、それ以上のリスクを背負ってしまったその典型だよ。何が大事なのかの取捨選択を誤ったとも言えるし、自分を守るということへの覚悟がなかったとも言えるし、覚悟の意味を履き違えていたとも言える。どのみち、ろくなものじゃない」

 この喩えを多少変えれば、それはそのまま宗助のことになる。

 彼もまた、自分が超能力者であることを知られるのを恐れるあまり、一つ一つを取ってみれば非常に小さいものであるリスクを受け容れられず、いつの間にか取り返しのつかない領域に足を踏み入れようとしている。そして、それすらも、状況と戦うというリスクを受け容れることができずにいることからくる、逃避行動に過ぎない。

 宗助は、秀臣の喩えによって、まるで自分が面と向かって弾劾されているかのような気分になった。

「つまり、そうならないためには、君は戦う意志と覚悟を身に着けなければならない。……なぜ、私がここまで君に言うかわかるかね?」

「……いえ、わかりません」

 わかるのは、秀臣が決して宗助のことを心配して言っているわけではないということと、でありながらも決して嫌がらせのために言っているわけでもないということだけだった。それ以外のことは全く想像もつかなかった。一体、秀臣が何を意図しているのかなど、全くわからなかった。

「何も君のことが心配だから言っているんじゃない。それはわかるね?」

 宗助は無言で頷いた。

「よろしい。説明する手間が一部省けた。単刀直入に言おう。私が君にここまで言うのは、全て千鶴のためだ」

「あ……ああ、そういうことですか」

 宗助はその一言で理解できた。要するに秀臣は、愛娘が駄目男とくっつくことで不幸になるのを恐れているのである。

「そうだ。君が一人で破滅する分には、私の心は微塵も痛まない。だが、娘が巻き込まれることになれば話は別だ」

 宗助にしてみれば酷い言われようだが、親という立場からすれば、それが偽らざる本音に違いなく、また妥当なものだった。他人の子よりも我が子が大事というのは、当然の話である。

「もし、これはもしですよ、もし僕が本当に千鶴――さんとそうなったとしたらって仮定ですよ。そうしたら、僕はたぶん、自分のことより千鶴さんを優先すると思います」

「それは、たとえば千鶴が暴漢に襲われていて、君がその暴漢を殺す以外に千鶴を助ける手立てがない、という状況でも同じかね? つまり、君は千鶴のために暴漢を殺す決心ができるかと訊いている。ああ、これはあくまでも喩えだから、千鶴が勝てない相手に君が勝てるかどうか、といった問題は無視してくれ」

 難しい問いだった。それは、暴漢を殺したという事実を背負うか、千鶴を見捨てたという事実を背負うかの二択である。暴漢の場合は直接手を下したという事実が、千鶴の場合は何もしなかったという事実が、それぞれ降りかかってくる。どちらを選んでもどちらかを取り返しがつかないほどに傷つける結果に終わる。

 どちらがより自分にとって辛い事実となるか、自分はどちらを選ぶべきなのか。しばらく考え込んだ後、宗助は静かに断言した。

「……僕は千鶴さんを助けます」

 それは、少なくとも仮定に対する答えとしては、紛れもない本心だった。自分のために誰かを傷つける勇気のない宗助だったが、誰かのためであれば、誰かを傷つけることも或いはできるかもしれなかった。

「当然だ。しかし、その当然をこなすだけでは駄目だ」

「え?」

 どう考えてもここは「それならば娘を任せられる」といったような返答が来るはずの流れである。無論、宗助に千鶴を任せて貰おうなどという気持ちは毛頭ない。しかし、それでもここで流れを狂わされれば、疑念の一つも覚えてしまうというものである。

「千鶴はいい女だ。そんないい女が、当然のことをするだけで手に入るわけがない。特別な女が欲しければ、特別なことをしなければならんよ。君がすべきことは、君も傷つかずにいることだ。たとえばだが、君が千鶴の身代わりになって怪我をしても、千鶴は全く喜ばない。それどころか、自分を責める。だから君は傷ついては駄目だ。千鶴を守り、君も守るんだ。そして、そのためにこそ、戦い抜く断固たる意志が必要なのだよ」

「……わかりました。努力はしてみます」

 宗助は心底からの気持ちを込めて頷いた。彼自身、このままでは駄目だとわかっていた。だからこそ、心の奥底において、変わらねばならないと思っていた。その機会が今、やってきたのである。ここで飛びついておかねば、もう二度と変わることができないかもしれなかった。

「……まあ、いい。それさえできるのなら、私がこれ以上、口を出す筋合いはないな」

 秀臣はぽつりとそう呟くと、それきり、貝のように口を閉ざしてしまった。

 もしかしたら秀臣から及第点を貰えたのではないか。千鶴との交際を認めて貰えたのではないか。これでもう本当の意味で取り返しのつかない領域に踏み込んでしまったのではないか。宗助の心中には、様々な思いが渦巻いた。

 しばらくしてから、これまでずっと沈黙を保ったまま秀臣に寄り添っていたアラトが口を開き、ぼそりと呟いた。

「食事が出来たようだ」

 その言葉から十数秒ほどが経過すると、宗助が入ってきたのとは別の襖が音もなく開き、そこから千鶴が姿を現した。

「こんばんは、宗助さん」

 微笑む千鶴の周囲には、料理が盛り付けられた皿がいくつも浮かんでいた。手品などではない、紛れもない超能力によってそれを行っているのに違いなかった。

 宗助は改めて千鶴に対する畏怖の念を覚えた。千鶴が行っているのは、彼からすれば気の遠くなるほどの労力を要する、事実上不可能と言っても良い作業なのである。

「お口に合うといいんですけど……」

 口調とは裏腹に自信に満ちた表情を浮かべ、千鶴は一皿ずつ、丁寧に卓袱台の上に配膳していった。光り輝く白米、深い香りを漂わせる味噌汁、食欲を掻き立てる鶏の照り焼きといったものが、卓袱台中に並べられていった。

 目の前に皿や茶碗が並べられていくのを見ながら、宗助は目も眩むような思いだった。それは、彼の力が全く存在しないようにすら思えるほどに強力な力が、彼が唯一自信を持っている精密さを上回る細やかさで制御されたことによって初めて可能となる作業だった。

 照れ臭そうな表情を浮かべながら隣に千鶴が腰掛けるまで、宗助は半ば放心したような状態となっていた。

「いただきます」

 秀臣が両手を合わせ、一言告げた。

「いただきます」

「いただきます」

 直後、宗助以外の二人、アラトと千鶴が唱和した。

「い、いただきます」

 宗助も慌ててそれに続いた。


 午後八時少し前、食器が片付けられた食卓は、微妙な雰囲気となっていた。

 食べている最中は、和やかな雰囲気だった。秀臣が宗助に対し、箸の持ち方だとか食べ方だとかのような、普通の人間はまず気にしないだろうという細かな部分を姑のように指摘しまくったという出来事があったが、それ以外は概ね和やかと言って良かった。料理はどれも非常に美味だったし、下崎家の三人と宗助の間でもそれなりに話が弾んだ。

 秀臣とは魔術と超能力に関する話や同じ大学の先輩後輩という関係から大学の話をした。『超能力者=現代の魔術師、魔術師=古の超能力者』の著者である高杉琢己が実は秀臣の弟子だったとか、超能力と魔術の違いといったようなことを聞いた。

 アラトに対しては彼女がする秀臣に関する惚気話の相槌を打った。おかげで、秀臣がいかに素晴らしい男であるかということに関する、実にどうでも良い知識が頭の中に大量に蓄積された。

 千鶴に対しては彼女が作った本日の夕食に関する話で盛り上がった。料理に関する話の中で、安い素材で作れる手軽な料理について教わったことは、親子三人との話の中で一番の収穫であると言えるかもしれなかった。

 それがなぜこのような雰囲気になってしまったのかと言えば、食後、ちょっとした弾みで就職の話が出てしまったのが発端だった。

 就職に関する話が出た後、秀臣が猛然と牙を剥いたのである。現在がいかに就職難であるか、宗助の能力や意欲で一体何ができるのか、といった話を事細かにされたのだった。最早大卒というだけでは就職は不可能に近いといった話や、宗助の能力では激化する競争から確実に落伍するといった話は、秀臣の口から理路整然と語られると、これが実に真実味を帯びているように感じられるのである。

 宗助は自らの将来が限りなく悲観的なものであることを悟った。或いは、そうと思い込まされた。冷静に考えれば、このような話をしてきたのはこれまでに秀臣一人である。ゆえに、この話だけが真実であるとは限らない。だが、説得力に富んでいるため、冷静に考えることができないのだった。

「そういうわけだから、きちんと就職するためにはそれ相応の努力が必要となるわけだよ」

「はあ……やはり、そうですか」

 いつの間にか、宗助は正座で話を聞くようになっていた。もうすぐ成人する若者にとっては、就職というのはそれだけ切実な問題なのだった。

「だから、さっきも言った通り、能力を磨くか、コネを手に入れるかのどちらかしかないのだよ。だが、君は運がいい」

「僕のどこが運がいいんですか……」

 宗助には社交辞令か馬鹿にされているかのどちらかとしか思えなかった。

「磨くべき能力があるし、いざという時のコネもある」

 宗助はその言葉を意外に思った。磨くべき能力というのはわかる。彼が具えている超能力のことである。或いは自育大学に入学した知能かもしれないが、それは超能力以上に限界が見えているので違うだろう。だが、コネとは一体何のことなのか。心当たりとしては下崎家くらいしかないが、まさか下崎家が就職を斡旋してくれるとでも言うのか。

「お察しの通り、君の魔力と私達だよ。さっきも言ったように、魔力は使うことによって、またより強い魔力の発動の刺激を受けることによって成長することがある。千鶴といれば、君もそれなりに成長するかもしれない。コネについては、私が直接紹介できるのはどれも『こちら側』の職場だけだが、まあ、君の唯一、磨けば光るかもしれない才能を光らせるのに打ってつけの職場だから構わんね」

 千鶴と一緒にいると超能力が強まるというのは構わない。利益を求めて千鶴と友人になったわけではないが、利益があるのであればそれはそれで喜ばしい話である。

 しかし、就職の方は何とも不安要素ばかりだった。

 宗助は恐る恐る訊いた。

「……どんな職場なんですか?」

 問いつつも、半ば答えの予想はついていた。

 そして、その予想は的中した。

「源田商会が筆頭だね。他にも自衛隊や魔術師協会、辻岡超能力研究所、超能力プロレスなどもあるが、やはり条件がいいのは源田商会か超能力プロレス、自衛隊だ」

 どれも非常に胡散臭い組織名だった。特に超能力プロレスなどは、もう冗談としか思えない名前である。

「源田商会は特に働かなくても一般入隊の自衛官とそう変わらない額の給料が貰える――大学を辞めなくていいということだ――し、その気になれば三十歳そこそこで一生遊んで暮らせるくらいの貯金が出来る。難点はそれだけに就職が困難なことだが、その辺りは、君が特別な性質を持っていることを売り込めば済むことだ。千鶴も君を勧誘したそうだが、その辺りに賭けていたんだろう。超能力プロレスは、まあ、かなりきついが頑張ればスターになれるし、儲けも大きくなる。この辺りは普通のプロレスと変わらないな、あまり。自衛隊は一応国家組織だ。そこで働けば国家公務員だから、まあ、安定した生活を送れるだろう。危険もあるし生活スタイルも制限されるがね。だが、魔術師協会と辻岡の所は論外だ。協会の方は頭の固い連中が上層部にいるから規則規則で鬱陶しい。『ドイツでは法律で許可されていないこと以外は全て禁止だ』という冗句があるが、あれを地で行くような組織だ。辻岡の所は、これはもう単純な話だ。新薬の実験台に志願するに等しい」

「もう少し、普通の職場ってないですか? 市役所とか商社みたいな……」

 あれこれと気になる点があったが、最も気になる点と言えば、ただこれに尽きた。

「あるわけがない。少なくとも、君が確実に就職できるのは、さっき私が言った職場くらいのものだ。それ以外、たとえば君が目指しているという市役所の職員や商社マンについては、相当量の努力と幸運が必要になる。少なくとも、君が望む『安定した生活』を約束してくれる企業に入るのは、まあ、無理だろう。『安定した生活』というものは、平凡であるだけに、それだけ価値の高いものなのだよ」

 自分程度では市役所や大手商社を目指す競争を勝ち抜くのはほぼ不可能である。そのことを、宗助は下崎秀臣という男の理路整然とした言葉によって嫌と言うほどに思い知らされていた。

 だからこそ宗助は、秀臣が投げかける就職への誘いに、抗いがたい魅力を感じ始めていた。話を聞けば聞くほど、素直に従った方が良いのではないか、という気持ちが込み上げてきた。

「金が欲しいだけなら超能力タレントという手もあるが、あれは辻岡の研究所で働く以上にお勧めしかねる」

「何でですか?」

「監視されるからだよ、超能力者や魔術師の団体、国家機関などのそうそうたる面子にね。テレビに出てくる超能力者が揃って胡散臭かったり、披露される超能力が妙に弱々しかったり、トリックを仕込む余地があったりするような、極めて怪しげなものであるのがなぜかわかるかね?」

「本当に駄目な超能力者だからじゃないんですか?」

 今まで宗助は、そういう超能力者のことを、決して強い力を持っているわけではない自分にも劣る者達、と認識してきた。しかし、それは間違っていたのだろうか、と内心で首を傾げた。

「違う。彼らはその半数程度は本物だ。それも君の数倍以上も強力な。彼らは力を意図的に隠している。隠すように強制されているのだよ。超能力者や魔術師の団体、国家機関などによってね。彼らは魔術や超能力の存在が知れ渡ることを恐れているんだよ」

「……社会に混乱が起こるからですか?」

「それもある。だが、長期的に見れば、全てを明かした方が社会全体にとっては利益になる。実際、国家の方は魔術などの存在を公表したがっては、各種団体に却下されているくらいだ。なぜ団体が却下するかと言えば、それは秘密になっている方が利益になるからだ。考えてもみたまえ。物体転送能力を持つ超能力者ならば、一切の証拠を残さずに窃盗などの犯罪が可能だろう。瞬間移動能力ともなればアリバイ工作など思いのままだ。魔術にしても、呪詛を用いれば露見しない殺人など実に容易い。なぜそうなるかと言えば、現行法や社会が超能力や魔術といったものに対応していないからだ」

 宗助には法律の知識などはないが、法的に有効と認められる証拠が一切なければ、有罪を立証することが不可能であるということくらいは知っている。だから、その理屈は理解できた。

 ここで秀臣が嘲笑うような表情を浮かべた。

「この点で考えれば、平安時代の法律の方が余程、我々にとっては打撃となる。化石のような法律に負ける現行法とは実に笑えるだろう。まあ、それもこれも、長い年月をかけて『魔術、妖術の類は迷信である』という『迷信』を流布してきた先人達のおかげなのだが」

 宗助は愕然とした。意図的に歴史や文化を操ってきた集団が存在するというのである。陰謀史観というものがあるが、まさにそれそのものとしか思えない話だった。或いは、ユダヤ人の世界征服計画やフリーメーソンの陰謀といったものは、本当に存在するのかもしれない。そのような益体もないことも考えてしまった。

「だから、現行法や社会がそういった犯罪に対応するようになってしまうと、そういった犯罪によって稼ぐ者、そういった犯罪を防ぐことで稼ぐ者などが、大きな損害を受けることになる。業界内での利益のやり取り――独占が不可能になるのだよ。まあ所詮、我々も社会の一角に住まわせて貰っている身だ。どう考えても社会の方が強いのだよ。数の暴力の前には魔術など無意味さ。だから、数が一斉にこちらに向かってくるのを防ぐため、業界が一致団結するのは当然だ。まあ、既得権益にしがみついた連中が多いということだよ。私自身もその一人だから、あまり言えないが。ともあれ、そういった秘密を漏洩するのは絶対に避けることだ。長生きしたければな」

 それでこの話は終わりだった。

 その後もいくらかのやり取りがあったが、結局、宗助は源田商会への入社を検討することとなった。

 秀臣が鷹揚に頷いた。

「取り敢えず、源蔵には話を通して近い内に面接をやってくれるように頼んでおくから、君は履歴書でも書いておきなさい。大学で売っているだろう」

「わかりました、よろしくお願いします」

 宗助は、まだ完全に就職する気になったわけではないが、もし決まってしまったらそれはそれで良い、というくらいの気持ちにはなっていた。


 午後八時半頃、宗助は下崎邸の玄関にいた。今は訪れた時とは違い、下崎家総出での見送りとなっている。

 靴を履いて三和土に降りた後、宗助は最後にもう一度、礼を言うことにした。

「今日はご馳走様でした」

「ああ、こちらから呼びつけたんだから、それくらいは当然だよ」

 これまでの態度からは想像もつかないほどに柔らかな態度で秀臣が応えた。

「また来てくださいね。また来てくれたら、私、頑張りますから」

 家事万能美少女の千鶴が心の底からそう願っているような表情を浮かべた。

「うむ」

 アラトは尊大に頷いただけだった。

「じゃ、失礼します」

 そう言って、宗助が立ち去ろうとした時のことだった。

 秀臣がおもむろに宣言した。

「ああ、そうだ。言い忘れていたが、君らが交際するに当たって、君らには一つの制約を課させて貰う」

「あの、それはどんなものですか?」

 これは、絶対に忘れていたのではなく、最後の最後に言おうと決めていたのに違いない。宗助はそう思った。下崎秀臣という男がそういう類の嫌がらせを好みそうな性格をしているということを、宗助は短い間でおおよそ理解していた。

「……制約?」

 千鶴も不安の表情を浮かべている。

「君達にはセックスを禁じる呪いをかける」

「お、お父さん! 私達は『まだ』そんな仲じゃないってば!」

「そうですよ! 僕達は『まだ』ただの友達です!」

 狼狽しきった千鶴と宗助は、口を揃えて秀臣の言葉を否定した。

 そう言いつつも揃って「まだ」という言葉を使っている辺り、実は宗助の方も満更でもなくなっているのかもしれなかった。もっとも、宗助は無自覚にその言葉を使っているわけであり、仮に好意を抱いているのだとしてもそれを自覚するのはまだまだ先のこととなるに違いない。

 秀臣はそれを敏感に感じ取ったのか、二人の言葉を一顧だにしなかった。

「勘違いしてはいけない。これは『そんな仲』になってしまわないようにするためにすることだ」

 どうも、宗助達の言う「そんな仲」と秀臣の言う「そんな仲」には大きな隔たりがあるようだったが、それを指摘する暇はなかった。

「私はね、君らを信じていないわけじゃない。私が疑っているのは、男という生物の自制心の乏しさと、女という生物の雰囲気に対する耐性の低さだ」

 そう言われてしまっては、最早、どうしようもなかった。その言葉からは豊かな人生経験に基づいた説得力があったし、第一、ここで頑なに拒否するのは明らかにそういう意思があるという証となってしまう。

 宗助は渋々ながら頷いた。

「……わかりました。受けます」

「宗助さんっ!」

 何を言っているのか、と表情で語る千鶴に対し、宗助は肩を竦めた。

「いいから。別に困らないでしょ?」

「……それは……そうですけど。……わかった。私も受けるよ、お父さん」

 まだ納得がいかない様子ではあるものの、強硬に主張するつもりはないのか、千鶴も渋々ながら承諾した。

「まあ、今日はもう時間も遅いから、後日、儀式を行うことにする。今日はもう帰りたまえ」

 秀臣が意地の悪い笑みを浮かべた。


 午後九時半を過ぎた頃のことである。

 下崎秀臣は書斎で陰鬱な思索に耽っていた。出入り口の襖以外の三方の壁が巨大な書棚と化している中、使用者が襖を正面に迎えるように置かれた文机に向かっている。特に書き物や読み物などはしておらず、気だるげに机に向かっているだけである。藍染の作務衣姿ということもあり、剃髪していないこと、そして浴衣を肌蹴させた女が背後から抱きついていることを考えなければ、師から与えられた公案を思索する禅僧めいた雰囲気があった。

 秀臣は、蛇を思わせる顔に沈鬱な表情を浮かべて考察を重ね、溜息をついている。極めて憂鬱なものである今日という日のことを思い返し、実に陰鬱な気分になっているのだった。

 秀臣の背後からは、下着の類は一切身に着けず、浴衣を一枚羽織っただけのアラトが、覆い被さるようにして彼に抱きついている。決して小柄ではない秀臣だが、その秀臣の頭頂部の高さと肩の高さがほぼ等しいというくらいにアラトが大柄であるため、ほとんど覆い被さっているのと変わらないような状態である。実際、子供の頭程度の大きさは優にある豊満過ぎる胸は秀臣の両肩に圧し掛かっており、首は極上のクッションのようなその間に埋没している。

 アラトは、既に滅び去った異界の土着宗教において、魔神として崇拝されていた存在である。魔神としての力は極めて強大であり、神、悪魔、妖怪などが持つ様々な超自然的な魔力をその身に具えている。室内はその圧倒的な存在感によって満たされており、秀臣には、さながらアラトの体内に自らが取り込まれているかのようにすら思えた。

 外見的な特徴はこういったものである。外見年齢は三十歳前後といったところで、身長が二メートルに迫る大女であり、墨で染めたような黒髪、白粉を塗りたくったような雪の肌、はち切れんばかりに豊満であると同時に一切の無駄が見当たらないほどに引き締まった肢体、といった具合に、非常に非人間的な肉体の持ち主である。彼女は、浴衣を着崩すことによってかなり際どい部分まで、惜しげもなくその素晴らしい肉体を晒している。

 秀臣のいわゆる「初めての女」であり、その出会いは秀臣が中学二年生の頃に遡る。秀臣は、魔術の名門である下崎家の人間としては例のないことに魔術師としては平凡な才能しか持っていなかったものの、同時に例がないほどの理解力、分析力、思考力、そして強固な意志などに恵まれてもいたため、幼い頃から魔術師としての将来を嘱望されてきた。天才の末席くらいには名を連ねられる程度の男である。その秀臣が、魔術に関する類稀なる才能を十全に発揮して会得した奥義を用いてアラトを召喚したのが、二人の出会いである。その後、問答の末に恋人として傍に留まるという契約を締結したことによって、下崎秀臣と魔神アラトの愛欲の日々が始まったのだった。

 それ以来、アラトは常に秀臣と共に在った。秀臣が大学を卒業するまでの間は、学校以外の場では無論のこと、学校においても常に秀臣の影の中に潜むなどして共に在った。それ以降は現在に到るまで、誰に憚る必要もなくなったことにより、常に堂々と秀臣に寄り添っている。そして、自分を押し倒させようと、常に秀臣を誘惑している。

 しかしながら今の秀臣には、「二、三日禁欲して性感を高める」などと言っていたくせに現にこうして柔らかくて温かい豊満な胸を押し付けてくる、アラトの誘惑に屈する意思はなかった。背中で感じる魅力的な肢体に触れるよりも重要な苦悩と、それによって発生した興味深い疑問の存在があるからである。それが片付くまでは、それに専念したかった。

 感情を読み取る魔力によって秀臣の苦悩の正体とその疑問に対する解答とを理解しているはずのアラトが禁欲的な修行者を惑わす淫魔のような表情を浮かべて見守る中、秀臣は深く静かに思索を続けた。

 秀臣の苦悩の原因は愛娘の千鶴だった。

 もっとも、千鶴がとんでもない非行少女に育ってしまったとか、その学業成績が将来を悲観せずにはいられないほどに酷いものだということを知ってしまったとか、そういったことが理由ではない。世の中の子を持つ父親の大半が遅かれ早かれ経験することとなる、子がどこの誰とも知れない異性を家に連れてきて恋人として紹介してくるという出来事をつい先ほど経験したばかりである、というのが憂鬱の理由だった。

 しかし秀臣は、その原因を極めて冷静かつ的確に分析していながらも、なぜそれが原因となるのかという明確な理由を理解できずにいた。

 来月には二十八歳になる長男の秀高と五月に二十五歳になった次男の秀人、今月二十三歳になったばかりの三男の秀光、秀光の双子の弟である四男の秀貴がそれぞれ家を出て自立した時も、秀高が灰エルフの賢者イリンダを妻として紹介してきた時も、秀人が黒エルフの少女ラドリエルと白エルフの少女エレアイルを連れて来て「妻達」として紹介してきた時も、秀光が秀臣の宿敵とも言える魔女キリエを連れて来て「婚約者」として紹介してきた時も、秀臣は一度もこのような気分にはならなかった。秀高の時には、実に真っ当な恋愛をして実に素晴らしい相手を選んだということから、息子の成長に対して心の底からの満足を覚えた。秀人の時には、秀臣自身もしばしば結婚生活の中でアラトを分身させて擬似的な一夫多妻を謳歌しているため、本人達がそれで良いのならば構わないだろうと納得した。秀光の時にしても、「婚約者」が気に喰わなかったことから二人の交際を忌々しく思ったことは否定できないが、息子が愛するに足る女に巡り会えたことそれ自体に関しては素直に祝福することができた。秀貴については浮いた話が一つもないことに漠然とした不安を抱いてすらいる。

 にも関わらず、娘の恋愛については素直に祝福することができない。

 恐らくは、これが「娘を嫁に出す父親の心境」というものなのだ。父親というものは、とにかく娘を手元に置いておきたがるものなのだ。この結論に、既に秀臣は、千鶴が恋人候補を紹介したいと言い出した悪夢の時から、少し時間が経過した頃には到達していた。

 そして疑問は、その結論と、実際に千鶴の恋人候補を紹介されたその後、二人の交際を認めたことを悔やんでいる自分に気づいた時に発生した。

 では、「娘を嫁に出す父親」である下崎秀臣という男は、なぜ息子達に対するのと同じように愛娘の恋愛を素直に祝福してやれないのか。では、なぜ娘に限っては手元に置いておきたがるのか。では、なぜ自分はそのような心境に到ったのか。目下、秀臣の頭脳が取り組んでいる問題はこれだった。寺院の坐禅堂にも似た静かな書斎で、背中に感じる感触に心を掻き乱されながらも瞑想でもするかのように瞑目し、そのことに考えを巡らせ続けた。

 いくらかの時間を費やしてなお、秀臣の怜悧な頭脳は解答を見出していなかった。一応、解答の候補となるものはいくつか浮かび上がったのだが、どれもよく考えてみれば秀臣の心底からの気持ちを説明するものではなかった。少なくとも、秀臣が千鶴の恋愛を心底から認められずにいることの合理的な説明となるものではなかった。

 息子達の結婚を素直に認めてやれたのは彼らが歴とした成人だったからであり、結婚を前提とした娘の恋愛を素直に認めてやれないのは彼女がまだ子供と言っても良い年齢だからである。

 これは違った。秀臣の倫理観、価値観においては、年齢などは全く問題にならない。事実、秀臣がアラトと出会ったのは千鶴と同じ中学二年生の頃の話だし、秀光がクーリーナとの交際を始めたのも彼が高校生になったばかりの頃の話である。恋愛の在り方において秀臣が問題だと思っているのは、結果に対する責任を取れない者同士による性交渉と、互いの合意のない一方的な恋愛くらいのものでしかない。子供同士或いは子供と大人による相思相愛そのものについては、それがなぜ駄目なのかという理由自体が理解できなかった。ゆえに、息子達の結婚については、本人達がその結果を引き受けるだけの力を持っていると判断したから無条件で認めた。そして、どう考えても行為に対する結果を引き受けるだけの力を持っていないあのカップルには、生殖器の結合という意味での性交渉を呪いによって当面禁じるという条件付で、その交際を認めた。つまり、この問題については既に解決しているのである。

 息子達の結婚を素直に認めてやれたのは秀臣が彼らのことをさほど大切に思っていなかったからであり、結婚を前提とした娘の恋愛を素直に認めてやれないのは秀臣が彼女を大切に思っているからである。

 これも違った。否、これだけはあり得なかった。秀臣は、千鶴に対するのと同様に、息子達のことを溺愛している。息子達のことがどうでも良いなどということはあり得ない話だった。

 息子達の結婚を素直に認めてやれたのは彼らが男だからであり、結婚を前提とした娘の恋愛を素直に認めてやれないのは彼女が女だからである。

 これも違った。まだまだ「男は女に従うもの」という価値観が圧倒的多数派、主流であった時代を生きてきた秀臣には、「男は複数の女と関係を持っても良い。女は一人の男にひたすら尽くすべし」といった考えが、確かに存在する。その事実は否定できない。ゆえに、千鶴が複数の男と付き合おうとしたならば、秀臣はほぼ確実にそれを阻もうとするだろう。だが、千鶴が一人の男を愛そうとしている以上は、そこには何の問題も存在しない。

 他にもあれこれと浮かびはしたが、やはりどれも違うように思えた。

 実際のところ、そこに明快な論理や合理的な理由など、存在しないのではないか。自分は単に千鶴が恋愛をするのが気に喰わないという、ただそれだけなのではないか。なぜか気に喰わないという、その「なぜ」は決して言語化できない類のものではないのか。秀臣はそういった結論に達しつつあった。これだけ考えても明確な理由が思いつかない以上は、そう見るのが妥当というものかもしれなかった。

 結論とも言えない、実にお粗末な結論だった。このような結論によって考察を終えるのは、秀臣にしてみれば甚だ不本意なことである。しかし、現に答えが見つからないのだから、それは仕方のないことだった。

 或いは、感情を読み取る魔力を持つアラトと千鶴のどちらかに助言を求めれば、案外簡単にこの問題は解けてしまうかもしれない。否、確実に解ける。そのことは、無論、秀臣も理解していた。

 しかし、そうするつもりはなかった。男の意地とでも言うべきものの存在も否定できないが、それ以前に、彼が考え事をするのを好むという理由が存在した。また、もしかしたら、もう少し時間を置いて改めて考えれば、今の自分では思いも寄らない答えが出てくるかもしれない、という考えもあった。今できないのだから後になってもできない、という現実的思考が秀臣の基本原理ではあるものの、たまには楽観的思考に縋りたくもなるのである。

 またそれ以前に、千鶴はともかく、アラトが素直に教えてくれるはずもなかった。アラトは意地が悪い。こういう時、口では「自分で考えて気づくことが大事」などと言うのが通例なのだが、実際のところを言えば、秀臣が悩んでいるのを眺めて楽しみたいだけである。もう少しの時間が経つか、或いは秀臣がどうしようもなく追い詰められでもしない限りは、教えてくれるはずもない。「自分の力での解決を促すことで夫を成長させる」と考えれば、実に素晴らしい内助の功と言えるが、実質は玩具にされているだけに過ぎない。

 最終的に秀臣は、この問題について「保留」とし、解答を先送りにすることにした。

 そうして、感情を読み取る魔力によって秀臣の心が折れたことを悟り、ほくそ笑んでいるであろうアラトと戯れて気晴らしをすることに決めた。

 身体から力を抜き、首筋から後頭部にかけての部分に柔らかく押し付けられている、どのような大富豪も手に入れることなどできないに違いない極上のクッションに身を委ねた。

「うむ、諦めたか」

 満足そうな声音でそう言うと、アラトは一旦身体を離して位置を替え、横合いから改めて秀臣に抱きついてきた。

「諦めてはいない。先送りにするだけだ。いずれ答えは出す」

 宿題を後回しにする中高生の言い訳めいたことを言いつつ、秀臣はアラトの腰に手を回し、抱き寄せた。引き締まっているのに柔らかいという、存在自体が矛盾した身体の温かさが、間を隔てる浴衣と作務衣を通して秀臣の肌に伝わった。

 秀臣の耳元に顔を寄せたアラトが、温かな笑いと震えが来るような艶を含んだ声で、耳にしっとりとした息を吹きかけながら囁いた。

「本当にそのつもりなのだから、其方には恐れ入る。思えば、其方は昔から、何かを諦めるということを知らぬ男だったな」

「そうとも。俺は、望んだものは全て手に入れ、望んだことは全て叶えてきた。分不相応な望みを抱かなかった、というのが種明かしだがね」

「女神を己がものとする、というのは、果たして人間の分に相応と言える望みか?」

「叶った望みは結果論で言えば分相応なものさ」

 そう笑い返して秀臣は、大きく開かれたアラトの胸元に手を差し入れて、戯れかかった。

 アラトが胸を秀臣に押し付けるようにして身を捩り、揶揄の笑みを浮かべた。

「私を己がものとしたその結果を完全に引き受けたわけではあるまい。いつの日か、自らの選択を悔やむ日が来るかもしれぬぞ?」

「今を悔やまないということを繰り返していけば、それを実践している限り、悔やむ日などは来ないだろうね」

「くだらぬ言葉遊びだな。その口、塞いでしまおうか」

 秀臣の言葉を芝居がかった調子で笑い飛ばすと、アラトは見せ付けるように舌なめずりし、おもむろに顔を近づけてきた。キスをねだっているのである。

 それに応えようと視線を向け、顔を近づけようとしたその時、秀臣は愕然とした。そこには求めていた解が存在していたのである。

「ああ……そういうことだったか」

 アラトが浮かべる、信頼と愛情、そして情欲に満ちたその表情を見た瞬間、秀臣は思わず呟いていた。どれほど考察を重ねても手に入らなかったあの疑問の解答が、アラトの顔を目にした瞬間、唐突に脳裡に浮かび上がってきたのである。

 秀臣が手に入れた解答というのは、実に簡単なものだった。気づいた後には、どうしてそのことに気づけなかったのか、と思ってしまうほどにありがちなものだった。同時に、それは普通に考えていれば、まず気づけまいとも思えるものでもあった。それほどまでに馬鹿馬鹿しいものであり、予想外のものだった。

 下崎秀臣は、千鶴の心を奪い、いずれは身体も奪うのであろう真田宗助に対して嫉妬していたのである。

 要するに秀臣は、アラトが彼に対して向けているものと似て非なる、信頼と愛情に満ちた目を失いたくなかったのである。言い換えれば、千鶴が自分に向けてきている信頼と愛情が別の誰かに移ってしまうことが、千鶴にとっての最も近しい男が自分でなくなってしまうことが、千鶴が自分を必要としなくなってしまうことが、我慢ならなかったのである。

 だが、それは恋愛感情によるものではなかった。確かに、世間の基準に照らし合わせれば発育良好とは言いがたいがそれでも少しずつ成熟しつつある千鶴に、秀臣が「女」を感じてしまったことがないとは言わない。千鶴が小学校卒業を間近に控えた頃、一緒に入浴してその成長しつつある肉体を目にし、手を触れた時など、図らずも欲情してしまったことは事実である。そして、恐らくそれは千鶴にも気づかれたことだろうが、千鶴が全く気にした様子を見せていない以上は何もなかったと言ってほぼ差支えがない。第一それは、あくまでも肉体が肉体に反応しただけであって、心身が心身に反応したわけではない。心が伴わずとも身体が勝手に反応してしまう、男という生物の性によるものに過ぎなかった。

 それは単なる独占欲によるものに過ぎなかった。秀臣は、単に、身近な異性が自分から離れていくということを不愉快に感じているだけなのだった。幼い子供が、母親の愛情と時間を独占する、生まれたばかりの弟妹に対して嫉妬の感情を抱くのと全く同じ理屈であり、全く同じレベルだった。

 自分にもそういった幼稚さが残っているのだということを今、千鶴の恋愛とそれに対する思索の果てに、秀臣はようやく自覚した。

 そして、そのことが急に恥ずかしくなった。考えてみれば、アラトと千鶴には、彼が持つこの幼児性が筒抜けとなっていたに違いないのである。アラトについては既に散々失態を晒してきているので特に問題はないが、千鶴についてはそういった自分の情けなさを知られるのが堪らなく恥ずかしかった。

 明日の朝、一体どのような顔をして娘に話しかければ良いか、秀臣は考えるのも憂鬱だった。ゆえにこれについては考えを意識的に放棄することにした。

 一つの考えを脳裡から駆逐するため、代わって浮かんできたのが、新たな疑問だった。また同時に、これまでにも、同じく身近な異性である姉の仁美が秀臣の親友である工藤優一と交際を始めたという、気づく機会があったのにも関わらず、なぜ気づけなかったのか。続けて、秀臣は、ふとそのような疑問を思い立った。

 しかし、今度の疑問はこれまで思い悩んでいたものとは違い、即座に答えが出た。それは秀臣が、工藤優一という男を極めてよく知っており、また姉と優一とが惹かれ合っていく過程を傍らで見ていたからだった。優一がどれほど素晴らしい人間かを知っていたからこそ、姉と優一の想いが育まれていく様子を見ていたからこそ、父親と母親が愛し合っていることを当然と思うのと同じように、母親に次いで身近な異性である姉の恋愛を受け容れることができたのだった。

 逆説的に今回は、千鶴が秀臣の知らない相手と知らない所で知らない内に愛を育んでいたから、受け容れられなかったのである。実際、秀臣は真田宗助という男のことなど、まるで知らない。千鶴からの報告を受けた後、駐屯地の課業終了を待った上で優一に電話をかけて聞き出したことと、実際に食卓を挟んで対面した時に知ったことだけが、秀臣の真田宗助に対する知識だった。

 手に入れた解は、秀臣にとって決して愉快なものではなかった。しかし解が手に入ったという事実はそれを打ち消す程度には愉快なものだった。収支表を作るとしたら、辛うじて黒字であると言えた。

 あと少しで唇と唇が触れ合うという所で、アラトの動きが停まった。意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「気づいたようだな」

「ああ、気づいたよ。君のおかげと言えば、君のおかげだな」

 秀臣は、アラトが身体を押し付けて当然のように抱擁を要求してくるのに応え、強く抱き締め、感謝の意を表した。客観的に見れば男が女の身体の感触を堪能しているだけであり、女が男を楽しませているだけである。事実、秀臣がアラトの身体の感触を堪能していることは否定できない。しかし、この場合はアラトの方も抱き締められることに喜びを感じているため、何の問題もない。身体の接触自体が互いの喜びとなるような、心身共に深い愛情で結びついた者達にとっては、それが礼にも褒美にもなるのである。

「其方は己の気分をどう認識した?」

 アラトは既に秀臣の気持ちを本人以上に知っている。ゆえに、彼女の方には敢えて問いかける理由はない。

 秀臣の方にこそ問いかけて貰う理由がある。これは答え合わせだった。

 自らの心境を端的に言語化するとしたら、それはどういったものとなるか、どういった言葉が相応しいか。少し考えてから、秀臣は言った。

「女を寝取られた時の気持ちというのは、もしかしたらこういうものかもしれない。そう思った。俺の自己分析は正解かね?」

「概ね、正解だ。しかし、其方がその気持ちを本当に理解する日は永久に訪れぬ」

 アラトはそこで言葉を切り、秀臣に対して何かを促すように目配せした。

 秀臣にはアラトが何を求めているのかがわかっていたし、何を言おうとしているのかもわかっていた。求めに応じ、彼は楽しそうに問いかけた。

「なぜだね」

 身を離したアラトは、豊か過ぎる胸を張ると、自信と愛情に満ちた尊大な笑みを浮かべた。

「其方の女はな、其方に夢中なのだ。其方以外の男など、路傍の石に等しい」

「なるほど、それは嬉しいね。男冥利に尽きるというものだ」

 嬉しげに答えた秀臣に対し、アラトは真面目腐った調子で続けた。

「ただし、常々言っておる通り、それも其方が私を愛すればこそ、だ。其方が私に対する愛を失い、娼婦のように扱おうとすれば、そこで我らの蜜月は終わりだ。その時は其方を殺す。裏切られた愛は憎悪と憤怒に変わり、何もかもを傷つける」

「契約した時から数えて、それを聞かされるのは一体何度目だろう。そろそろ、口が酸っぱくはならんか」

 冷え冷えとしたものを含んだ、寒気のするような魔神の警告に、しかし秀臣は動じなかった。

「何、大丈夫だ。俺は欲張りだ。心だけじゃ物足りないし、身体だけじゃ満たされない。どちらも俺のものにできるように奮闘する次第さ」

 そうして頷いた後、秀臣は、聞きたくもあり聞きたくもない答えを聞こうと、恐る恐る問いかけた。

「ところで、だ。……もしかして千鶴も気づいていたのか?」

 これは答えのわかりきった問いであり、つまりは確認である。

「当たり前だ。あれもはっきりと気づいておったわ。それどころか、気づいておらなんだのは其方自身とあの馬の骨だけだ」

 気づいていてなお、千鶴までもが何らの言及もしなかったのは、恐らくはアラトの指示に違いない。アラトに上手く丸め込まれたのに違いなかった。

 思わず溜息を漏らした秀臣に、アラトが意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「私は其方が少年であった頃から其方を見続けておる。千鶴は其方を見上げながら育った。其方の顔を見れば、それだけで其方が悩み苦しんでいることなど、手に取るようにわかる。其方が表面をどれほど取り繕ったとしてもな」

 苦笑を浮かべ、秀臣は改めて問いかけた。

「……それで、千鶴は俺のことをどう思っていた。嗤っていたか?」

「喜んでおったぞ。其方が馬の骨のことをあれに聞いておる最中、我らは思念で『女同士の内緒話』をしておった。その時、あれは『お父さんが宗助さんに嫉妬してくれて嬉しい』と伝えてきおったぞ。子供子供と思ってはおったし身体は現に子供だが、心は既に立派な女なのだな。良い男に愛されるということの価値をよく知っておる。息子共と同じく、あれは良い子に育った。我ら夫婦の教育の賜物よ」

 それを聞き、秀臣は安堵の表情を浮かべた。

「そうか、それはよかった」

 無論、四十歳を過ぎた中年男など子供からすれば尊敬に値する部分よりも軽蔑や嘲笑に値する部分の方が多い、ということは百も承知だ。しかし、承知していようといまいと、実の娘に嘲笑され、軽蔑されるというのは想像するのも気が滅入る事態である。

 気分が良くなったところで、秀臣はアラトを再び抱き寄せようとした。

 しかしそれは叶わなかった。アラトは、古武術の達人が掴みかかってくる対戦相手から逃れるような、素人目には魔法のようにしか見えない優雅な体捌きで立ち上がり、紙一重で秀臣の腕を擦り抜けた。

 目的を果たせず、手を虚空を彷徨わせている秀臣を見下ろすと、馬鹿にしているとも楽しんでいるとも取れる表情を浮かべた。

「恥ずかしげもなく股座を膨らませて発情しおって。私が其方に触れている間中、一時たりとも休まぬとは、実に正直な身体をしておるものよ」

 中年男とも思えないほどの力強さで押し上げられた作務衣の前を指摘されても、秀臣は全く恥じ入ることなく、平然と減らず口を叩いた。

「これだけ見事な身体だ。触れて何の反応もない方がおかしい。美人は三日で飽きると言うが、三日で飽きるようなのは本当の美人じゃないよ。本当の美人は味わえば味わうほどに味が出るものだ。まあ、もしそういう男がいるとしたら、俺は男としての適性を疑うよ。適性検査のために、他の男に差し出そうとは思わんがね。その素晴らしい身体は、隅から隅まで俺のものだ」

 そして嫌らしい笑みを浮かべて、逆に訊き返した。

「第一、君の方こそ、だらしなく股座を湿らせているんじゃないかね?」

 こちらも秀臣と同じく当然のような顔をして、アラトが頷いた。

「それはない。きちんと抑えておる。だが、疼く。寂しい時など、私は其方のことを考えるだけで身体の奥が疼く。無論、今も、腹の中が疼きに疼いておる。土台、私が其方に触れ、其方の匂いを嗅いで、平然としていられるはずもない。痒い所をしっかりと掻いて貰うぞ。それが男の義務というものだ」

 秀臣としては願ってもない要求だったし、第一、この二人の間においてこれは、予定調和的な結末でもあった。要するに、何をしていても、結局はこれに行き着くのである。彼らの夫婦生活は、出会いを含めればおよそ三十一年間、倦怠期ともマンネリ化とも全くの無縁で在り続けた。そしてそれは今後も変わらず続くに違いなかった。彼らは永遠におしどり夫婦で在り続けるに違いなかった。

 だが、予定調和的であるだけに、この要求を素直に呑んでしまい、安易に結末を迎えてしまっては面白くない。秀臣はそう思い、もうしばらくこの無意味なやり取りを続けることにした。

 彼は、余裕があるにも関わらず、半ば強迫的に結果ばかりを追い求めてしまう、過程を楽しむことを知らない合理主義者などではない。それどころか、追い詰められていてもお構いなしに過程を楽しもうとする、否、何事にも楽しみを見出そうとしてしまう、ある種の貴族めいた享楽的精神の持ち主である。

 秀臣はわざとらしい仕草で首を傾げた。

「しかしまた、どういう風の吹き回しだね、急にそんなことを言い出すなんて。確か昨晩、俺の本を読んだ後、二、三日禁欲して性感を高めるとか、そんなようなことを言っていなかったかね?」

 アラトはあっけらかんとした態度で肩を竦めた。

「ああ。それはやめた。馬鹿馬鹿しさに気づいた。其方が近くにおるのに、何故に堪えねばならぬ」

「それは結構なことだが、挫けるのが早過ぎはしないかね? せめて今日を耐えれば、禁欲の効果が検証できるだろうに」

 アラトが不愉快げに顔を顰めた。

「馬鹿者。そこを折れたのが誰のためだと思っておる。娘を男に攫われた、傷心の其方を慰めてやろうというのではないか」

 無論、秀臣にしろアラトにしろ、お互いに対して本当に不快感を覚え、嫌悪感を示し、怒りをぶつけるようなことは滅多にない。ゆえに、これもそう見せかけているだけに過ぎない。秀臣の意図を汲んだ上での演技なのである。

「そう聞くといかにも君は立派に思えるが、実際は単なる口実だろう?」

「うむ。私も所詮は女だ。愛しい男が近くにおれば身体が疼く。身体の中に男を銜え込みたくて仕方がなくなるのだ」

 アラトは理性的でありながらも極めて直接的な言動を好み、また、しばしばそれには行動が伴う。奥ゆかしさや恥じらいといったものとは無縁に近い存在である。

「動物的だな、君は」

 そう答えつつも、秀臣はその実、アラトのそういった面を気に入っていた。

 アラトは底の知れない妖艶な笑みを浮かべた。

「神、悪魔と呼ばれはしても、人間、霊長などと自称はしても、詰まるところ、獣には変わりない。神、悪魔、人間、霊長、そう呼ばれるがゆえ、その通りに振る舞わねばならぬ時はある。だが、動物的で在れる時はそう在るのが正しかろう。この世の生きとし生ける者は全て獣なのだから」

 そう言って浴衣の帯を解き始めたアラトに、秀臣は好色な笑みを返した。

「だから獣になろうと? 少しせっかち過ぎやしないか」

 そうは言いながらも秀臣はアラトの脱衣を制止する素振り自体を見せなかった。それどころか、浴衣が肌蹴ていく様子を目を皿のようにして眺めている。

「せっかちなものか。私は気の長い方ではあるが、もう限界だ。これ以上、其方の言葉遊びに付き合うつもりはない」

 帯が解かれて畳に落ちた。

「気が長いのなら、もう少しくらい我慢してみてもいいじゃないか。よく言うだろう、『私は長い間待ちました。だからもう少しくらい待ってみようかと思います』とか。そうそう、『喉が渇いている時の水ほど美味い飲み物はなく、腹が減っている時の銀舎利ほど美味い食べ物はない』とも言うじゃないか。気が狂いそうなくらいに耐えたなら、気が狂いそうなくらいに気持ちよくなるかもしれんよ?」

「私は快楽に狂いたいのではない。其方を愛し、其方に愛されたいだけだ」

 袖から腕を抜かれた浴衣が畳に落ちた。

「なるほど。しかし、俺の意思を無視して事に及ぶというのは、俺を愛していると言えるのかな?」

 一糸纏わぬ、生まれたままの姿を晒して眼前に仁王立ちするアラトに対し、秀臣は至って冷静に返した。感情と本能においては既に欲望を滾らせた獣となっており、すぐにでも服を脱ぎ捨てて飛び掛かりたいところではあったが、優秀な魔術師の第一条件でもある強固な理性がその獣を縛り付けているのである。

「言える。其方が本心で望みながらも堪えていることをするのだ。それも愛であろう」

 秀臣はせせら笑った。

「それなら、なぜ脱いだ勢いで俺を押し倒さない?」

「其方の意思を可能な限り尊重してやりたいと、私がそう思っておることも事実だからだ。だから早くその気になれと言っておる」

 そう言って、股間から膝にかけての優美かつ肉感的な曲線を指し示した。

「見ろ、この身体を。男として、これをどう思うのだ、其方は」

「実に美味そうだね」

 涼しげな様子で答えた後、秀臣は、やれやれとでも言いたげな表情を浮かべた。

「まあ、そうかっかするな。落ち着け、一服どうだ? 煙草や酒はないが、半年前に買ってここに持ち込んで以来、何となく食べる気がしなくて放置したままのポテチくらいあるぞ」

 アラトが、馬鹿にしたような、しかし非常に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「問答無用」

 アラトが一言で斬り捨てたと同時に、周囲の風景が一変した。先ほどまで書斎であったのが、気づけば寝室へと舞台が変わっていた。アラトの壮大な魔力によって、寝室へと文字通り瞬間移動したのである。「そうしようと思った瞬間にはそうなっている」という、恐るべき神の魔力である。

 移動した直後、秀臣は、前以て用意してあった布団に押し倒された。上には、秀臣の身体を優に覆い隠すだけのアラトの巨躯が圧し掛かっている。

 秀臣は抵抗せず、それを受け容れた。「一服どうだ」という言葉は、もともと、そういうつもりで言ったのである。そして、アラトも感情を読み取る魔力と知力からそのことを察し、理解した証拠として「問答無用」と返した。つまりはそういう回りくどい了承の意思表示だったのである。

 作務衣の隙間から潜り込み、身体中を這い回る手の感触を堪能しながら、秀臣は苦笑交じりに呟いた。

「たぶん通じるだろうとは思ったが、実際に通じてみると違和感があるな。魔神のくせに、日本史などというローカルネタに随分と詳しいとはね」

「其方の本を読んだ」

 さらりと答えた後、アラトは何かを思いついたような表情を浮かべて身を離した。

「そうだ、良いことを思いついたぞ」

 アラトが何かを思いつくのはいつものことである。秀臣はさして驚くことなく、視線を向けて「良いこと」についての説明を促した。

「うむ、これから二人で風呂に入るのだ。私が其方の身体を隅から隅まで洗ってやる」

「それは構わないが、一体、何でまたそんなことを思いついたんだね? 風呂はもう入っただろう。汚れた後でならともかく、今は別に必要ないぞ」

 秀臣にはその提案に反対する理由も意思もないが、なぜそのようなことを言い出したかということへの疑問と興味はあった。

「それ、そこの棚の下から三段目の左側に『犬養毅の素顔』があるだろう。その隣にある『フーゾク嬢たちのスガオ』をついでに読んだことを思い出して、思いついたのだ」

 言われて視線を転じてみれば、確かにそこにはアラトが指摘した二冊が仲良く背表紙を並べていた。全く滅茶苦茶な並べ方だが、秀臣の場合、趣味の本棚はシリーズ毎に本が並んでいればそれで良いのだった。だいたいの位置を憶えているというのもあるし、探すこと自体が楽しいというのもある。

『フーゾク嬢たちのスガオ』に書いてあった内容を記憶の底から引きずり出し、秀臣は頷いた。

「ああ、ソープの話か」

「うむ。男の心を癒すには身体を洗い、凝った所をよく揉み解してやるのが最も良いとあったのでな、丁度傷心中である其方にやってやろうと思ったのだ」

「それは嬉しい限りだが、真に受けるのもどうかと思うよ。あれは単なる比喩表現だからな」

 アラトはどうでもよさそうに肩を竦めた。

「何、其方が喜ぶのであれば何でも良い、嘘であろうと誠であろうと。そのためには労力は惜しまぬ。このようにな」

 言い終えた瞬間、年齢も体格も様々な無数のアラトが、押し倒された時のまま仰向けになっている秀臣の周囲を取り囲んでいた。

 ある者は三十歳代も半ばを過ぎたような成熟しきった肉体を持っており、ある者は千鶴とそう変わらない未成熟な肉体を持っており、またある者は十代後半の大人になりかけの肉体を持っており、更にある者は十代前半の容姿に大人顔負けの成熟した肉体を持っている。数えてみれば八人ほどいるアラト達の共通点は、まさしくアラトと同じ顔立ちをしていることと、全員が全裸のまま仁王立ちして秀臣を見下ろしているということだった。

 秀臣は、全裸の女達が仁王立ちで自分を囲んでいるのを寝転がったまま見上げている。

「いきなり全員が裸で出てくるというのはいかがなものかな。もう少し、こう、スクール水着だとか制服だとか、そういう衣装的なものも楽しめないものかとね。折角、人数がいて、タイプも別々なんだから……たとえば、この小学生にしか見えない君にはランドセルを背負わせるとか、そういうのがあるだろう」

 ある意味、壮観とすら言える光景を目にしながら、「もともとのアラト」に向かって不満を述べた。全員が全員とも「アラト」と意志と意思を共有している以上は別に誰に向かって言っても良いのだが、秀臣にとっての「アラト」はこれまで彼と言葉遊びに興じていた「アラト」なのである。

 アラトは秀臣の主張を鼻先で笑い飛ばした。

「何を言うか。其方にとっては、どのように着飾った女よりも、身体の隅々までも晒す全裸の女が勝るのであろうに」

「確かにな」

 秀臣は真面目腐った顔で頷き、語り出した。

「子供の頃は裸が一番好きだった。だが歳を取るにつれて衣装の魅力もわかってきた。しかし今では、原点回帰とでも言うのか、裸が好きになったと言うより、色々と味わってきた結果、これが一番と思うようになったんだな。昔、料理漫画で『究極のサラダ』が『鉢植えのトマトをそのまま出す』というものだったという展開があって、その時はふざけるなと思ったんだが、今ではなるほどと納得するところが多々ある。シンプル・イズ・ベストというのもあるし、何より、手を加えないことで素材が本来持っている味を最大限に楽しめるというのがある。美食家が、どれほど手の込んだ料理よりも刺身や冷奴が美味い、と言う結論に達するのと本質的には同じだな。それにどうだ、君も、裸の俺が一番好きだろう?」

「否、一番はそれではない」

 肯定の返事がくると予想していたところを否定され、秀臣は意外に思い、再び問いかけた。

「何、じゃあ、どの俺が一番なんだね?」

「決まっておる。全裸は全裸でも、私に欲情している時の全裸だ。ただの全裸など、最早見飽きたわ。私がどれほどの時を其方と共に過ごしてきたと思っておる?」

 揶揄するように秀臣は肩を竦めた。

「そう聞くと、まるで、俺の身体だけが目的のようだな」

 アラトは笑った。

「まさか。心も私のものだ。第一、それを言うのであれば、其方こそが身体目当てめいておるぞ」

 秀臣は笑い返した。

「俺も身体だけじゃないさ」

 アラトが鷹揚に頷いた。

「うむ、わかっておる。女の肉体を欲するのは男の性だ。どうしてもそれを考えてしまうのは致し方ないことだ。そして、その上、其方は非常に欲張りな男だからな。我が身体だけでは足りず、心までも、何もかもを奪わねば気が済まぬ。……そして、私はもう、とうに全てを奪われておる。最早、私には何も残されてはおらぬ。どこにも行けぬ。其方がいなければ生きていくのが苦痛ですらある。何とも酷い男だな、其方は。責任を取って貰わねばなるまいな」

「足腰が立たなくなるまで取ってやるとも」

 秀臣がそう返した途端、またも周囲の風景が一変した。今度の舞台は下崎邸の浴室前の脱衣所である。

 八人のアラト達が揃って同じ、興奮と欲情の入り混じった色香に満ちた笑みを浮かべ、口を揃えて言った。

「うむ、そうして貰おう」

「まあ、まずは君が俺を癒してくれた、その後の話だな」

 秀臣がそう言って作務衣を脱ぎ捨てようとしたところ、三十代半ばほどの成熟しきったアラトと十代前半の未成熟なアラトが抱きつくようにして、その動きを制した。

「何だ、脱がせてくれるのか。サービスがいいな。それも本の通りか」

 もともとのアラトが頷くと同時に、二人のアラトが秀臣の作務衣を脱がせ始めた。二人のアラトは、官能を刺激するような嫌らしい手つきで身体を撫で回しながら、少しずつ服を脱がせていった。

 その様子を見ながら、アラトが不敵な笑みを浮かべて舌なめずりした。

「其方が鼻血を噴くほどに癒してやる。其方が十分に癒されたら、今度は、閨で腰が抜けるほどに愛してやる。許しを請うても聞かぬぞ。精と根とが尽き果てても、すぐに回復させてやる。私が満足するまで、決して休ませはせぬ」

「それは楽しみだ。君となら、快楽地獄も極楽だろうさ」

 生まれたままの姿にされた秀臣は、彼の作務衣を脱がせた二人のアラトを左右の腕で抱き寄せながら、不敵な笑みを返した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ